石油化学へのSPC導入、和歌山工場でのDDCによるスタートアップ。プラント建設は続き、新設・既存主要プラントへのプロコン適用は60年代終盤から70年代前半にかけて、止むことがなかった。プロコンの方も日進月歩、少しでも良いもの(性能、機能、価格)をその都度選んでいった結果、一段落ついたときには多種多様な機種がグループ内に散在することになった。
DDCではYODICが機能を一段と強化した-600にモデルチェンジし、東燃川崎工場のオンサイト(主要精製装置)、オフサイト(受入・出荷、調合、在槽管理)に採用された。しかし、石油化学ではコンビナート各社とパイプラインでつながっていることもあり、万一のトラブル対策に問題ありとして、このプラント直結部分の制御には依然電子式アナログ・コントローラが使われることになる。
SPCは石油化学のTOSBAC(東芝)-7000(GE-4020の国産化)を皮切りに、和歌山のOG-2プロジェクトでFACOM(富士通)-270-20が稼動、このシステムはその他のプラントも含め専ら運転データー収集処理に使われるようになる。次いで東燃川崎工場の大規模拡張計画でIBM-1800の導入が決まり、ほぼ同時期に東燃和歌山工場のFCC最適化にMELCOM(三菱電機)-350-30が採用された。石油化学は、その後第3スチーム・クラッカー(ナフサを分解してエチレン・プロピレン等を生産する装置)、ユーティリティ、試験室用品質管理システムと継続してT-7000を採用し、東燃(日網石油精製を含む)も川崎後はIBM-1800に機種を絞り込むが、それでも用途によって異なるシステム(石油化学;TOSBAC-40、東燃;Y(山武)-516;和歌山オフサイト)が入り、まるでプロコンのデパートのような状態を呈するようになる。
時間が経つに従いこの多種多様なプロコン設置の問題点が露わになってくる。基盤的な技術にしろ応用的なものにしろ、それをマスターするには相当な時間を要する。当時はアプリケーション開発担当者(プロセスを熟知したSE)でもOSの概念を理解した上でコンピュータ言語(FORTRAN)を駆使して、制御システムを開発するのだが、折角一つのシステムに馴染んでも、別のコンピュータで開発するときには、一から学び直さねばならない。また完成させたアプリケーションを他へ移植することも簡単には出来ない。
システムの保守はハード、ソフト共に深部への理解度が一層求められるので、担当者はほとんど人柱になってしまい、人材の育成・活用に著しい制約が生ずる。さらに保守部品の問題も出てくる。メーカーを含めた供給体制は問題ないのだが、工場内・事業所間の横の融通が利かない。一朝有事の際(エマージェンシーなど)、この制約は決して軽くは無いのである。
加えて、 “多種”と言う問題とはかけ離れたことだが、当時のプロコンは汎用機と異なり、特殊用途(信頼性やスピード)のため拡張性に著しく制約があった。特に集中型のDDCではそれが顕著だった。
さらに、70年代後半から具体化する工場管理用コンピュータとこの多種のプロコンとの接続に関する諸々の問題も派生した。統一標準仕様が無いため、それぞれの接合ソフトを開発しなければならないし、通信性能は遅いものに合わせなければならなくなる。
これらの欠陥がシステム担当者以外にもはっきり見えてきたのが第一次石油危機である。原油価格は高騰し、それまで経済性が期待できなかった多くの運転改善対象が一気に適用促進項目として浮上してきた。経営トップや工場管理職はそれらの改善を一日も早く実現するよう強く求めてくる。コンピュータに余裕のある間はそれに応えることができても、それが尽きると拡張性の壁にぶつかる。移植性の問題が適用のスピードを遅らせる。川崎工場次長のKNIさんに「新たな投資をする前に、すべてのプロコン・アプリケーションを経済性の面から再評価し、低いものは外せ!」と言われたのも、プロコンの存在価値が高まると同時に問題点も顕在化してきた1970年代半ばである。
(次回:前奏-3;業界事情)
2011年2月27日日曜日
2011年2月23日水曜日
決断科学ノート-58(大転換のTCSプロジェクト-1;前奏-1;初のDDCシステム)
1968年(昭和43年)秋、東燃初のプロセス制御用コンピュータ(プロコン)・システムが和歌山工場重質油脱硫装置を中心としたプラント(OG-2)で稼動した。中核を占めるコンピュータは横河電機製のYODIC-500である。プロトタイプ・システムを前年借り受け、既存プラント(OG-1)で実験を続け、その実績を踏まえ開発された実用機である。
この時代(プロセス制御用コンピュータ黎明期)、そのためのコンピュータはは二つのタイプが在った。一つはSPC(Supervisory Process Computer)と呼ばれるプラント全体の運転データ処理やプロセスの数学モデルを使って最適運転を行うもの、もう一つは制御点(温度、圧力、流量、液面位など;当時のプラントで100~200点)一点ずつ割り当てられた制御機器(アナログ・コントローラー)を一台のコンピュータに置き換え、集中して行うDDC(Direct Digital Control)である。
SPC(下にアナログ・コントローラーを従えて)は石油・石油化学に限らず、鉄鋼、セメント、化学などで既に実用化が進んでおり、グループでも東燃石油化学が川崎工場で適用を始めていた。しかし、DDCはプラントと直結するため、万一停止すると全プラントが止まってしまう、それへの対応策として従来型のコントローラーをバックアップとして持つ必要があり、経済性に欠けるところが問題視されていた。プラントへのコンピュータ利用で先行していたExxonでもIBM-1800やPDP-8が導入されていたものの、SPC機能を併せ持った使い方や実験的な規模に留まっていたのが実情である。
そのような信頼性・経済性問題に挑戦すべく開発されたのが世界に類の無いYODIC-500である。コンピュータの故障で最も致命的なのはCPUと呼ばれる中央演算装置である。記憶装置や周辺制御装置は、バックアップや回避経路で短時間は持ち堪えられることも出来るが、ここだけはなんともし難い。そこでCPUを二重化し並行処理して、不一致があれば診断プログラムを走らせ、異常の側を切り離し、スペアと交換するのである。これならばバックアップを最小限に抑えられる。これはプロトタイプ実用実験を踏まえて開発された、当時最高の軍事システムや宇宙技術と同様のシステム構成であった。
幾多の創意工夫(特に横河電機の開発陣)や周到な準備作業(特に運転方法や運転員の教育・訓練)もあって、このシステムによるプラントスタートアップは思いのほか順調に推移し、ほぼ一週間後には定常運転に移って行った。
スタートアップから一ヶ月くらい後で、このシステムによるプラント運転に関する報告会が本社で行われ、私も工場のプロジェクト推進者の一人として参加、DDCシステムのトラブル・信頼性あるいは操作性について発表を行った。いくつかの質疑の後、当時本社技術部次長だったYKIさん(この人は造兵(器)を専攻、当社で計測・制御分野の草分け)が、「ところでこのDDCの寿命はどのくらいなんだ?」と問うてきた。最新技術の説明の後であり、予期せぬことだった。こちらに何も根拠になる数字が無いが、担当部門としてはこの後にも導入計画は多々予定されているので「分かりません」と答えるわけにはいかない。航空ファンである私が、咄嗟に思いついたことは、最新鋭の戦闘機や旅客機のライフサイクルである。口から出たのは「10年から15年くらいは持つと思います」と言う言葉だった。YKIさんは納得したようには見えなかったが、それ以上突っ込んでもこなかった。しかし、発表後もこの質問は頭に残り、やがて不安が芽生えて行く。それは意外に短い半導体の世代更新だった。
(次回;多彩な第一次世代プロコン)
この時代(プロセス制御用コンピュータ黎明期)、そのためのコンピュータはは二つのタイプが在った。一つはSPC(Supervisory Process Computer)と呼ばれるプラント全体の運転データ処理やプロセスの数学モデルを使って最適運転を行うもの、もう一つは制御点(温度、圧力、流量、液面位など;当時のプラントで100~200点)一点ずつ割り当てられた制御機器(アナログ・コントローラー)を一台のコンピュータに置き換え、集中して行うDDC(Direct Digital Control)である。
SPC(下にアナログ・コントローラーを従えて)は石油・石油化学に限らず、鉄鋼、セメント、化学などで既に実用化が進んでおり、グループでも東燃石油化学が川崎工場で適用を始めていた。しかし、DDCはプラントと直結するため、万一停止すると全プラントが止まってしまう、それへの対応策として従来型のコントローラーをバックアップとして持つ必要があり、経済性に欠けるところが問題視されていた。プラントへのコンピュータ利用で先行していたExxonでもIBM-1800やPDP-8が導入されていたものの、SPC機能を併せ持った使い方や実験的な規模に留まっていたのが実情である。
そのような信頼性・経済性問題に挑戦すべく開発されたのが世界に類の無いYODIC-500である。コンピュータの故障で最も致命的なのはCPUと呼ばれる中央演算装置である。記憶装置や周辺制御装置は、バックアップや回避経路で短時間は持ち堪えられることも出来るが、ここだけはなんともし難い。そこでCPUを二重化し並行処理して、不一致があれば診断プログラムを走らせ、異常の側を切り離し、スペアと交換するのである。これならばバックアップを最小限に抑えられる。これはプロトタイプ実用実験を踏まえて開発された、当時最高の軍事システムや宇宙技術と同様のシステム構成であった。
幾多の創意工夫(特に横河電機の開発陣)や周到な準備作業(特に運転方法や運転員の教育・訓練)もあって、このシステムによるプラントスタートアップは思いのほか順調に推移し、ほぼ一週間後には定常運転に移って行った。
スタートアップから一ヶ月くらい後で、このシステムによるプラント運転に関する報告会が本社で行われ、私も工場のプロジェクト推進者の一人として参加、DDCシステムのトラブル・信頼性あるいは操作性について発表を行った。いくつかの質疑の後、当時本社技術部次長だったYKIさん(この人は造兵(器)を専攻、当社で計測・制御分野の草分け)が、「ところでこのDDCの寿命はどのくらいなんだ?」と問うてきた。最新技術の説明の後であり、予期せぬことだった。こちらに何も根拠になる数字が無いが、担当部門としてはこの後にも導入計画は多々予定されているので「分かりません」と答えるわけにはいかない。航空ファンである私が、咄嗟に思いついたことは、最新鋭の戦闘機や旅客機のライフサイクルである。口から出たのは「10年から15年くらいは持つと思います」と言う言葉だった。YKIさんは納得したようには見えなかったが、それ以上突っ込んでもこなかった。しかし、発表後もこの質問は頭に残り、やがて不安が芽生えて行く。それは意外に短い半導体の世代更新だった。
(次回;多彩な第一次世代プロコン)
2011年2月13日日曜日
決断科学ノート-57(ドイツ軍と数理-6;最終回;兵器の稼働率改善)
戦術、戦略いずれのレベルでも直接戦闘(軍事ORの三大適用分野;捜索、射爆、交戦)に数理が使われた形跡は全く無い。それでは、連合国側でその適用が顕著だった兵站問題(補給・輸送・貯蔵)に目を向けてみたが、そこにも作戦計画段階での定量的な検討は見られるものの、実施段階では組織や道路・鉄道事情にそれ以前の問題が山積みしており、数理どころではなかった実態が明らかになってきた。それでは第三の適用分野、兵器の稼働率や信頼性改善活動への数理応用はどうだっただろうか?
英国のOR起源がレーダー運用と深く関係していることはよく知られている。当時のレーダーは実験室レベルの技術をいきなり大規模実用化し、実戦を通じて改善・改良して行った。したがって慣れぬオペレーター(軍人)がこれを上手く使いこなすことは至難の業だった。ノイズとシグナルの判別、高度・距離・方角の特定など、実験・実戦を通じてデーターを科学者の指導を受けながら分析し、完成度を上げていっている。また、Uボート捜索では、初期の段階で爆撃機軍団と沿岸防衛軍団の間で4発機の奪い合いが起こる。限られた哨戒機で実効を上げるためには、その稼働率を高めることがカギになる。そのためには稼働率の決定因子を突きとめ、その隘路を取り除く必要がある。後にノーベル物理学賞をもらうような学者達が、このような裏方仕事に情熱を傾ける姿はドイツには無かったのだろうか?
レーダー開発においてドイツは決して英国に遅れをとっていなかった。しかし防空システム構築を手がけ始めるのは1940年7月、この防空システムはデンマークからフランスに至る空域をいくつかの戦域に分割し、そこにレーダーと指揮所を設けて夜間迎撃戦闘機を誘導するもので、レーダー実用化(稼働率・信頼性向上;主にハードウェアの改善)に際してはメーカー(テレフンケン)の技術者と軍人の協力関係があったとの記録が残っている。ただ当初は対空砲も含めたシステムではないので、英国に比べ総合力で劣っていた。
装甲軍、特に戦車・自動車の稼働率に関しては、全体的な隘路は部品補給の輸送にある。上手くいった西方作戦では、空輸による補修部品供給が効をそうし、現地での修理が短く済んで稼働率を上げている。しかし、東方作戦では自動車の場合、あまりにも車種が多く(2000種;フランスで鹵獲したトラックを多数含む)、部品の輸送問題もあって、混乱を極めている。戦車については損傷の内容・数も西方に比較して酷く、随行する整備中隊の手に負えず、母国まで後送しないと修理できないものが多かったことが、全体の稼働率を著しく低下させている。
このような事例から分かってきたことは、ハードウェアの修理・改良という点ではドイツ軍もよく努力しているのだが、故障の大本となる原因究明や組織面での効率改善に踏み込む考え方が見えないことである。つまりソフトウェア面からの問題解決アプローチに欠けていることが浮かび上がってくる。これはどこから来ているのだろうか?
その理由を、私は“狭量な専門家意識”、そしてそれと無縁ではない“組織の縄張り意識の強さ”にあると考えている。第一の点は“マイスター制度”や“大学の講座制”などに見られる伝統的な職業専門意識の強さ。これは英国の“アマチュアリズム尊重”と対極をなす。組織の問題をさらに複雑にしたのは、伝統的なプロシャ軍人魂、ナチスというイデオロギー集団、それと一般民間人の職業意識間の葛藤である。個人も組織もそれぞれが与えられた条件化で最適化を目指す。全体最適はどこにも存在しない。
結局、これが稼働率・信頼性向上に留まらず、ドイツ軍で数理応用が発芽しなかった唯一・最大の理由に違いない。
(ドイツ軍と数理;完)
次回からは東燃のグループの第2世代プロセス・コントロール・システム、TCSプロジェクトについて連載する予定です。
お詫びとお願い:“最新の投稿”のアイテムでクリックしえもその内容が表示されぬものがあります(例;冬の京都を巡る-(1))。これはブログアップの段階で私が登録ミスを犯したものです(現時点で修正方法が分かりません)。恐れ入りますが一つ前後の項をクリックし頁末の“次の項”あるいは“前の投稿”をクリックしてご覧ください。
英国のOR起源がレーダー運用と深く関係していることはよく知られている。当時のレーダーは実験室レベルの技術をいきなり大規模実用化し、実戦を通じて改善・改良して行った。したがって慣れぬオペレーター(軍人)がこれを上手く使いこなすことは至難の業だった。ノイズとシグナルの判別、高度・距離・方角の特定など、実験・実戦を通じてデーターを科学者の指導を受けながら分析し、完成度を上げていっている。また、Uボート捜索では、初期の段階で爆撃機軍団と沿岸防衛軍団の間で4発機の奪い合いが起こる。限られた哨戒機で実効を上げるためには、その稼働率を高めることがカギになる。そのためには稼働率の決定因子を突きとめ、その隘路を取り除く必要がある。後にノーベル物理学賞をもらうような学者達が、このような裏方仕事に情熱を傾ける姿はドイツには無かったのだろうか?
レーダー開発においてドイツは決して英国に遅れをとっていなかった。しかし防空システム構築を手がけ始めるのは1940年7月、この防空システムはデンマークからフランスに至る空域をいくつかの戦域に分割し、そこにレーダーと指揮所を設けて夜間迎撃戦闘機を誘導するもので、レーダー実用化(稼働率・信頼性向上;主にハードウェアの改善)に際してはメーカー(テレフンケン)の技術者と軍人の協力関係があったとの記録が残っている。ただ当初は対空砲も含めたシステムではないので、英国に比べ総合力で劣っていた。
装甲軍、特に戦車・自動車の稼働率に関しては、全体的な隘路は部品補給の輸送にある。上手くいった西方作戦では、空輸による補修部品供給が効をそうし、現地での修理が短く済んで稼働率を上げている。しかし、東方作戦では自動車の場合、あまりにも車種が多く(2000種;フランスで鹵獲したトラックを多数含む)、部品の輸送問題もあって、混乱を極めている。戦車については損傷の内容・数も西方に比較して酷く、随行する整備中隊の手に負えず、母国まで後送しないと修理できないものが多かったことが、全体の稼働率を著しく低下させている。
このような事例から分かってきたことは、ハードウェアの修理・改良という点ではドイツ軍もよく努力しているのだが、故障の大本となる原因究明や組織面での効率改善に踏み込む考え方が見えないことである。つまりソフトウェア面からの問題解決アプローチに欠けていることが浮かび上がってくる。これはどこから来ているのだろうか?
その理由を、私は“狭量な専門家意識”、そしてそれと無縁ではない“組織の縄張り意識の強さ”にあると考えている。第一の点は“マイスター制度”や“大学の講座制”などに見られる伝統的な職業専門意識の強さ。これは英国の“アマチュアリズム尊重”と対極をなす。組織の問題をさらに複雑にしたのは、伝統的なプロシャ軍人魂、ナチスというイデオロギー集団、それと一般民間人の職業意識間の葛藤である。個人も組織もそれぞれが与えられた条件化で最適化を目指す。全体最適はどこにも存在しない。
結局、これが稼働率・信頼性向上に留まらず、ドイツ軍で数理応用が発芽しなかった唯一・最大の理由に違いない。
(ドイツ軍と数理;完)
次回からは東燃のグループの第2世代プロセス・コントロール・システム、TCSプロジェクトについて連載する予定です。
お詫びとお願い:“最新の投稿”のアイテムでクリックしえもその内容が表示されぬものがあります(例;冬の京都を巡る-(1))。これはブログアップの段階で私が登録ミスを犯したものです(現時点で修正方法が分かりません)。恐れ入りますが一つ前後の項をクリックし頁末の“次の項”あるいは“前の投稿”をクリックしてご覧ください。
2011年2月10日木曜日
写真紀行-冬の京都を巡る-(6)平等院・伏見
いよいよこの旅行も最終日。生憎天気は曇りで寒い。ホテルをチェックアウトして京都駅に向かい、8時36分発の奈良行き快速電車に乗る。伏見に住むMRNさんとは宇治駅で待ち合わせることになっている。通勤時だが下りの電車はがらがらだ。京都は大都会だが、市街地は意外に狭い。10分もしないうちに電車は丘陵地帯を走っている。やがて宇治川の鉄橋を渡るともう宇治駅だ。電車内に外国人(白人)夫婦が居たが彼らは宇治では降りない。多分奈良まで出かけるのだろう。
平等院は高校の修学旅行が最後である。駅周辺の記憶は無いが、高架駅で駅前広場も広々と整備されていることから、当時とは全く違っているはずだ。道々KWBさんとMRNさんが少年時代の思い出を語っている。宇治川の源流、琵琶湖畔の瀬田から川沿いにここまで歩いたことがあるようだ。
平等院の境内に入ると先ず目に付いたのは一本の幹から広がる巨大な藤棚。植木屋が裸の枝を剪定している。シーズンには見る者を圧すること必定である。十円硬貨に採用されている鳳凰堂の見学は時間制で案内がつく。しかし、開始時刻は9時半。少し時間があるので、池の周りを散歩などして時間を過ごす。寒い!
黒いスーツを着た女性の案内は、中心部の中堂の中で行われる(撮影禁止)。ここには金色に輝く国宝の阿弥陀如来が収められ(光背・天蓋を含む)、その周辺の壁には雲の中を飛んでいる52体(これも国宝;一部は博物館蔵)の菩薩像が取り付けられている。柱や梁の一部には色褪せた朱色が残り、往時の華やかさが偲ばれる。
宝物の一部は、鳳凰殿の景観を壊さぬようその背後の小山に半地下式で作られた博物館(鳳翔館)に収められているので、そこも見学。その後これも国宝の鐘楼をみて、南門から出た。そこから宇治川を渡りこれも世界遺産の一部である宇治上神社を詣でて京阪宇治駅へ向かった。
京阪宇治駅から中書島駅まで5人一緒だが、ここで枚方に居る弟さんを訪ねるSKIさんと別れ、残りの4人は京阪本線に乗り換えて、京都方面一駅目の伏見桃山駅まで行き、伏見巡りを始める。最初に訪れたのは薩摩藩士が同士討ちをしたり、竜馬が襲われそれをお龍さんが逃すことになる寺田屋。観光バスが行き交う、何やら下町ぽい場所にそれがあり、今でも“旅籠”寺田屋の看板がかかっていた。
次いで出かけたのは伏見の造り酒屋の並ぶ一帯。川の複雑な流れとそこに穿たれた運河に沿って倉庫や酒作りの作業場がある。ここら辺はMRNさんの散歩コース、一段と案内に熱が入る。月桂冠の本社近くに来たとき、向こうの方からやけに背の高い男がゆっくり歩きながら、お供二人(男と女)とやってきた。昨年日経新聞に“私の履歴書”を書いた会長である。男は露払い、女性は背中を支えている。書面から感じた覇気は全く無い。
昼食の予定はこの月桂冠の経営する「月の蔵」の予定だった。しかし、今日は有志参加ということになっていたので予約をしていなかった。どうやら観光コース人気スポットのようで、大分待たなければならない。幸い酒蔵を改築した食事場所はここだけではない。MRNさんは直ぐに近くの、焼き鳥を売り物にする店へ案内してくれた。美味しい伏見の新酒を味わいながら、身体を暖めこの旅の総仕上げをした。
(冬の京都を巡る;完)
平等院は高校の修学旅行が最後である。駅周辺の記憶は無いが、高架駅で駅前広場も広々と整備されていることから、当時とは全く違っているはずだ。道々KWBさんとMRNさんが少年時代の思い出を語っている。宇治川の源流、琵琶湖畔の瀬田から川沿いにここまで歩いたことがあるようだ。
平等院の境内に入ると先ず目に付いたのは一本の幹から広がる巨大な藤棚。植木屋が裸の枝を剪定している。シーズンには見る者を圧すること必定である。十円硬貨に採用されている鳳凰堂の見学は時間制で案内がつく。しかし、開始時刻は9時半。少し時間があるので、池の周りを散歩などして時間を過ごす。寒い!
黒いスーツを着た女性の案内は、中心部の中堂の中で行われる(撮影禁止)。ここには金色に輝く国宝の阿弥陀如来が収められ(光背・天蓋を含む)、その周辺の壁には雲の中を飛んでいる52体(これも国宝;一部は博物館蔵)の菩薩像が取り付けられている。柱や梁の一部には色褪せた朱色が残り、往時の華やかさが偲ばれる。
宝物の一部は、鳳凰殿の景観を壊さぬようその背後の小山に半地下式で作られた博物館(鳳翔館)に収められているので、そこも見学。その後これも国宝の鐘楼をみて、南門から出た。そこから宇治川を渡りこれも世界遺産の一部である宇治上神社を詣でて京阪宇治駅へ向かった。
京阪宇治駅から中書島駅まで5人一緒だが、ここで枚方に居る弟さんを訪ねるSKIさんと別れ、残りの4人は京阪本線に乗り換えて、京都方面一駅目の伏見桃山駅まで行き、伏見巡りを始める。最初に訪れたのは薩摩藩士が同士討ちをしたり、竜馬が襲われそれをお龍さんが逃すことになる寺田屋。観光バスが行き交う、何やら下町ぽい場所にそれがあり、今でも“旅籠”寺田屋の看板がかかっていた。
次いで出かけたのは伏見の造り酒屋の並ぶ一帯。川の複雑な流れとそこに穿たれた運河に沿って倉庫や酒作りの作業場がある。ここら辺はMRNさんの散歩コース、一段と案内に熱が入る。月桂冠の本社近くに来たとき、向こうの方からやけに背の高い男がゆっくり歩きながら、お供二人(男と女)とやってきた。昨年日経新聞に“私の履歴書”を書いた会長である。男は露払い、女性は背中を支えている。書面から感じた覇気は全く無い。
昼食の予定はこの月桂冠の経営する「月の蔵」の予定だった。しかし、今日は有志参加ということになっていたので予約をしていなかった。どうやら観光コース人気スポットのようで、大分待たなければならない。幸い酒蔵を改築した食事場所はここだけではない。MRNさんは直ぐに近くの、焼き鳥を売り物にする店へ案内してくれた。美味しい伏見の新酒を味わいながら、身体を暖めこの旅の総仕上げをした。
(冬の京都を巡る;完)
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2011年2月6日日曜日
写真紀行-冬の京都を巡る-(5);金閣寺と舞妓
祇王寺を出るとしばらく東に進み薬師寺と言う、これも由緒のありそうな寺の境内を抜け、タクシーの拾えそうな道に出た。運よく個人タクシーが一台やってきたので、無線でもう一台仲間を呼んでもらい、分乗して金閣寺に向かった。運転手に「金閣寺まで」と言うと「お客さん、今が一番良い時間ですよ」と応じてきた。時刻は3時過ぎ、西日が一段と強くなってきているのだ。車は広沢の池の南側を通り、御室を経て、仁和寺、竜安寺などよく知られた寺々の前を通り、20分ほどで大文字山の懐にある金閣寺(金閣鹿苑寺)に到着した。
周辺の高い木々に囲まれた参道・寺務所は西日の影で薄暗く感じるほどだ。そこに突然現れたのが池を隔てて日の光に燦然と輝く“金閣”であった。ここもそれほど混雑しておらず、皆写真撮影に余念が無い。しかしあまりの反射光の強さに「これではハレーションを起こして、うまく撮れないのではないか?」と思うほどの明るさだった。後で見てみると、人物を入れた記念撮影はフラッシュを“強制発光”にして撮影したものだけが上手くコントラストの強さを殺していた。車を降りる際運転手さんが「風が無いといいのですがね」と言っていたが、やや微風があり池の面に映るそれはゆがんでしまっている。それでもこれほど美しい金閣を見られたことに大満足だった。
この夕日に映える金閣を愛でるために作られた、小高い丘にある夕佳亭(せきかてい;茶室)や不動堂などを見学し4時過ぎここをあとにした。
北の外れにある金閣から市内中心部(四条河原町)へは、次の予定(夕食)まで時間もあるので、路線バスで出た。これも京都に精通したメンバーがいるからである。
四条川原町で下車、三条近くまで北に上り高瀬川に出て、今度は川沿いに木屋町通りを南へ下る。まあ東京で言えば赤坂という感じだ。昔は風情があったのかも知れぬが、何やら風俗ぽい店が散見される。四条まで出て今度は一筋東の先斗町の路地のような狭い道を北へ戻る。ここはさすがに派手な店は無く、門燈や表札だけの置屋やお茶屋らしきものが軒を接して延々と続く。まだ薄暮なので舞妓さんが歩く時間には早いのか、通行人は我々のような観光客風情が大半である。
この路地が終わり三条の大通りへ出る手前、MRNさんが「ここもちょっと由緒のある寺なので見て行こう」と案内してくれたのは京都瑞泉寺。57歳にして初めて実子、秀頼を得た秀吉は、跡取りと定めていた甥(姉の子)、秀次を自害させ、一族の妻妾子女30余人を三条河原で殺害してこの付近に曝す。高瀬川を開削した京の豪商角倉了以は秀吉の死後それを弔うためにこの寺を建てたのだという。猫の額ほどの境内に小さな墓石がいくつか並んでおり、夕闇の中に彼らの怨念が漂っている雰囲気がした。
そこから広い御池通り渡りさらに二条に向かうと今日の会食場所、「がんこ高瀬川二条苑」がある。外壁に大きな石が積まれた角倉別邸の庭を生かした料理屋なのだ。昨日の「坂の上」に比べると大衆的で賑やかだが、我々は坪庭・床の間もある落ち着いた和室が用意されている。料理は昨晩同様京懐石だ。それが半ばまで進んだとき、仲居さんが「舞妓さんが参りました」と言ってくる。やがて印半纏を来た番頭さん(?)に案内され、本日の主役登場である。
これは本番のお茶屋遊びとは違い、少し早い時間帯に観光用に店が客の求めに応じ提供するサービス(30分間;有料)。先ず番頭さんが挨拶し、これからの次第を説明。手元には携帯用コンポがある。舞妓が丁寧に挨拶する。名前は「ふく里」さん。少し酒席を移動し踊りが舞えるようスペースをつくる。今日はまだ正月の内、演題は失念したが、お目出度い曲に合わせて一舞いしてくれる。その後衣装の説明などがあり、しばらく宴席に侍り皆と話や記念撮影などする。
ふく里さんは何と東京初台の出身。現在20歳。話の経緯から中学卒業後この世界に入り、京言葉や立居振る舞いからはじまり踊りの稽古まで厳しい修行を積んできたようだ。今の舞妓は大方京都以外の出身者とのこと。彼女の居る置屋は舞妓五人・芸妓二人が所属、人数は多い方らしい。異世界体験の30分はアッという間に過ぎ、丁寧に挨拶をして去って行った。
おじいさんたちは大満足。残りの時間、お開きまで話はこれだけだった。
(次回;最終回;平等院・伏見)
周辺の高い木々に囲まれた参道・寺務所は西日の影で薄暗く感じるほどだ。そこに突然現れたのが池を隔てて日の光に燦然と輝く“金閣”であった。ここもそれほど混雑しておらず、皆写真撮影に余念が無い。しかしあまりの反射光の強さに「これではハレーションを起こして、うまく撮れないのではないか?」と思うほどの明るさだった。後で見てみると、人物を入れた記念撮影はフラッシュを“強制発光”にして撮影したものだけが上手くコントラストの強さを殺していた。車を降りる際運転手さんが「風が無いといいのですがね」と言っていたが、やや微風があり池の面に映るそれはゆがんでしまっている。それでもこれほど美しい金閣を見られたことに大満足だった。
この夕日に映える金閣を愛でるために作られた、小高い丘にある夕佳亭(せきかてい;茶室)や不動堂などを見学し4時過ぎここをあとにした。
北の外れにある金閣から市内中心部(四条河原町)へは、次の予定(夕食)まで時間もあるので、路線バスで出た。これも京都に精通したメンバーがいるからである。
四条川原町で下車、三条近くまで北に上り高瀬川に出て、今度は川沿いに木屋町通りを南へ下る。まあ東京で言えば赤坂という感じだ。昔は風情があったのかも知れぬが、何やら風俗ぽい店が散見される。四条まで出て今度は一筋東の先斗町の路地のような狭い道を北へ戻る。ここはさすがに派手な店は無く、門燈や表札だけの置屋やお茶屋らしきものが軒を接して延々と続く。まだ薄暮なので舞妓さんが歩く時間には早いのか、通行人は我々のような観光客風情が大半である。
この路地が終わり三条の大通りへ出る手前、MRNさんが「ここもちょっと由緒のある寺なので見て行こう」と案内してくれたのは京都瑞泉寺。57歳にして初めて実子、秀頼を得た秀吉は、跡取りと定めていた甥(姉の子)、秀次を自害させ、一族の妻妾子女30余人を三条河原で殺害してこの付近に曝す。高瀬川を開削した京の豪商角倉了以は秀吉の死後それを弔うためにこの寺を建てたのだという。猫の額ほどの境内に小さな墓石がいくつか並んでおり、夕闇の中に彼らの怨念が漂っている雰囲気がした。
そこから広い御池通り渡りさらに二条に向かうと今日の会食場所、「がんこ高瀬川二条苑」がある。外壁に大きな石が積まれた角倉別邸の庭を生かした料理屋なのだ。昨日の「坂の上」に比べると大衆的で賑やかだが、我々は坪庭・床の間もある落ち着いた和室が用意されている。料理は昨晩同様京懐石だ。それが半ばまで進んだとき、仲居さんが「舞妓さんが参りました」と言ってくる。やがて印半纏を来た番頭さん(?)に案内され、本日の主役登場である。
これは本番のお茶屋遊びとは違い、少し早い時間帯に観光用に店が客の求めに応じ提供するサービス(30分間;有料)。先ず番頭さんが挨拶し、これからの次第を説明。手元には携帯用コンポがある。舞妓が丁寧に挨拶する。名前は「ふく里」さん。少し酒席を移動し踊りが舞えるようスペースをつくる。今日はまだ正月の内、演題は失念したが、お目出度い曲に合わせて一舞いしてくれる。その後衣装の説明などがあり、しばらく宴席に侍り皆と話や記念撮影などする。
ふく里さんは何と東京初台の出身。現在20歳。話の経緯から中学卒業後この世界に入り、京言葉や立居振る舞いからはじまり踊りの稽古まで厳しい修行を積んできたようだ。今の舞妓は大方京都以外の出身者とのこと。彼女の居る置屋は舞妓五人・芸妓二人が所属、人数は多い方らしい。異世界体験の30分はアッという間に過ぎ、丁寧に挨拶をして去って行った。
おじいさんたちは大満足。残りの時間、お開きまで話はこれだけだった。
(次回;最終回;平等院・伏見)
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2011年2月1日火曜日
今月の本棚-29(2011年1月分)
<今月読んだ本(1月分)>1)猛き海狼(上、下)(C.マケイン);新潮社(文庫)
2)ネット・バカ(ニコラス・G・カー);青土社
3)昭和が遠くなって(小林信彦);文藝春秋社(文庫)
4)制限戦争指導論(J・F・Cフラー);原書房
5)流刑の街(チャック・ホーガン);ヴィレッジブックス(文庫)
<愚評昧説>
1)猛き海狼 第二次世界大戦時の若いドイツ海軍士官を主人公とする小説である。戦争小説は国と国、正規軍と正規軍が正面から戦う第二次世界大戦もの、特に欧州・大西洋を舞台にしたものが面白い。しかし戦後65年も過ぎると、さすがにこれを好む読者も作者も少なくなってきているのであろう、新作はほとんど出ない。そんな中で印刷発行日の一日前本書を書店で見つけた。直ぐに購入したのは言うまでもない。
主人公こそフィクションだが、海戦の戦場も登場する艦船や艦長も一部実在のものだ。特に最初の戦闘、ポケット戦艦(ヴェルサイユ条約の制約から、巡洋艦の船体に戦艦に匹敵する攻撃力を搭載)アドミラル・グラフー・シュペー号のラプラタ沖海戦と自沈は史実を忠実になぞっている。
インド洋における、乗り組んだ仮装巡洋艦(商戦改造)の沈没と長期の漂流。やがてUボートの艦長となり、フロリダ沖での通商破壊に従事、霧中誤って客船を沈め命令違反の救助活動を行うシーン。どれをとってもリアルな筆さばきで臨場感がある。
この救助活動で船客を米駆逐艦に移乗させた後、Uボートを自沈させ、主人公を含め乗組員は全員捕虜になる。それ以降どこまで事実からは分からぬが、ミシシッピさらにはニューメキシコのドイツ軍捕虜収容所が登場し、収容所の環境、管理体制やドイツ人捕虜たちの行動(親ナチ派が牛耳っている)が詳しく描かれる。これらの場面は今まで小説や映画でもほとんど紹介されたことがなく、新たな知識を得た。
ドイツ海軍をテーマにしながらアメリカの陸が小説に取り上げられているのは、筆者がアメリカ人で軍や海とは関係のない人(西洋史を専攻、長く金融関係のビジネスに携わっていた)だからである。従来であればドイツ海軍の話はドイツ人が、英米海軍なら英米人が書いていたので、その点でこの本は大変ユニークなものと言える。
ただ、主人公が乗り組む艦船が、戦艦、仮装巡洋艦、潜水艦と全く艦種が違い、現実にはこんな転属(特に水上艦から潜水艦)は考えられないことやそれぞれの舞台に関連性が薄いいため、一冊の本として書くことにどれだけ意味があるのか疑問の残る作品であった(反ナチ・戦争批判と言う点では一貫性はあるのだが、冒険小説なのか戦争に舞台を借りた社会小説なのかがあいまい;こちらは軍事サスペンスを期待した)。ダグラス・リーマンのような英国の冒険小説作家なら3部作にしたのではなかろうか?
2)ネット・バカ
今年まだ一ヶ月しか経っていないが、おそらく「私の選ぶ本年のNo.1」になるのではないかと思っている。この本を知ったのは昨年の9月、直ぐに購入したが同時に購入した同じ作者の前作「クラウド化する世界」(本欄-26で紹介)を先に読んだので、今年になってしまった。
主題はインターネットが及ぼす個人そして社会への影響、それも相当深遠部へのインパクトである。今までもネット社会批判の本は数々読んできたが、その焦点の当て方・深さ・衝撃度においてこれ以上のものはない。
英語の題名は「The Shallows(浅瀬)」であり、邦題の軽薄な印象とはまるで違う(訳者もこのことで一言ことわりを書いているが)。筆者の命題は「インターネットによって人間の思考プロセスが大きく変わり、それが社会の在り方をも変えていく;深く・じっくり考えなくなり、決断だけが早くなる」と言うところからきている。
ソクラテス・プラトン時代の“思考”は雄弁に“語ること”であった。時代が下ってもしばらくは“貴重な書き物”を“多数の前で音読”することが主流であった。しかしグーテンベルクの印刷機発明による安価な書物の普及は“一人で黙読”しながら考える世界を作り、それはごく最近まで続いてきた。今インターネットの普及によって、メディアの世界で起こってきている変化はTV(視聴時間決して減少していない)よりは圧倒的に出版に大きい(印刷物の発行数、読書時間の減少は著しい)。書物をじっくり読むことが無くなれば社会はどうなっていくのだろう?
思考と脳や神経の成長・働きはどうなっているのだろう?1980年代までは「幼少時に急速に発達し、その後経験は蓄積されるものの、思考プロセスそのものはほとんど変わらない(脳に可塑性はない)」と言うものだった。しかし、最近の脳・神経科学はその内部の動きをかなり正確に観察・測定できるようになってきた。これらに依る研究が進み、脳は手段やその使い方によってその環境に適した、新たな思考回路が作り上げられる(脳に可塑性がある)ことが明らかになってきている。
これは本書の事例ではないが、最近わが国のでもプロとアマチュアの棋士(将棋だったか囲碁だったかは失念したが)の脳の動きを比較研究し、その間に差があることを報じていた。
筆者は最新テクノロジー(特にIT)を中心に社会・文化・経済を論じる、いまやこの世界の第一級ジャーナリスト、決してインターネット否定論者ではない。自らもそれを使って日々の仕事をしている中での疑念を、広範な視点から整理し、解明しようと取り組んだのが本書である。脳科学・神経科学の面では本欄-27で紹介した「数覚とは何か?」と共通する話題も多々あり、一般読者だけでなく、その方面の専門家にも価値のあるものだと思う。
ブログ(インターネット)を使って、読後感を紹介することは相乗効果になるのか?それとも逆に相除し合うのか?これは私の問題である。
3)昭和が遠くなって
今までにも本欄で何度か紹介した、週間文春に連載されている小林信彦の「本音を申せば」の最新文庫版である(掲載時期;2006年1月~12月)。軽妙な筆使いの割には辛口なところが好きで文庫版が出ると買っている。
少し時間は経っているのだが、それほど時差を感じない。政界批判など誰が総理になっても同じところも良い(つまりわが国政治の本質を突いているのだ)。また、TVやラジオに関する話題が多く、知らない世界を垣間見るにも適当だ(しかし映画人を含めほとんど知った名前は無いのはさすがに歳を痛感させられるが)。
それでも<イーストウッドが描く「星条旗」の暗部>など多少は知った人物の作品や人となりの紹介に「そうだったのか!」と教えられたり、<まちがいだらけの昭和史>では「全く同感!」と言うような、“おじいさん”に合ったテーマも取り上げられ、息抜きにぴったりであった。
4)制限戦争指導論 原著は1961年英国で出版されたもの。訳本も1970年代に一度出版されたものの復刻版である。
筆者は第一次世界大戦で世界最初の戦車軍団参謀長を努めた人。その経験を基に陸戦における機甲力の将来性に着目、機甲軍の独立兵種化提言(大規模実用演習を含む)を行ってきた経歴を持つ。しかし、彼の主張は海洋大国英国では容れられず、むしろ大陸軍国ドイツ、ロシア、フランスで注目され、特にドイツ装甲軍生みの親グーデリアンに大きな影響を与えて、その先見性を不朽のものにしている。少将まで昇進するものの、1933年(ヒトラー政権誕生の年)に退役しその後は軍事学者の道を歩んできた(1965年没)。
本書は、彼の第一次世界大戦における体験(戦勝国も米国を除けば実質敗戦国)が基になっているものと思われるが、第二次世界大戦後も含め戦争が本来の目的(政治課題解決の一手段;クラウゼヴィッツの論)を外れ民間人を含めた総力戦なって行くことに対する批判・非難をフランス革命から説き起こし体系的まとめ、制限戦争に持っていく考えを示したものである。
ナポレオン戦争までの戦争は宗教戦争を別にすれば、国王や領主の傭兵による経済戦争(領土や領民の取り合い)だった。利害関係者はこれらの所有者だけなので、どこかで折り合いを付けないと勝っても持ち出しになってしまう。自ずと“制限戦争”になっていた。しかし、フランス革命で一般人民が徴兵され戦いに参加するようになると、和平の条件が世論に左右されるようになり殺戮や略奪の度合いが酷くなってきた。それは産業革命で兵器の質や量が変わるとともに激しさを増していく。それでも為政者が統治力をしっかり保持していれば限度があった。その例として普墺戦争や普仏戦争におけるビスマルクの存在を挙げている。これが完全に壊れるのは第一次世界大戦で、最初の休戦条件はウィルソンの14か条(ここではドイツにあれほど過酷な条件を課していなかった)で、ドイツ側もこれならば受け入れられるとして交渉に入るのだが、英仏の国民感情はそれを許さず、指導者たちの態度もそれに応じて厳しく変化していく。時を同じくして起こるロシア革命の根底にはマルクスの“階級闘争”があり、これも当時の世論を動かす。結果としてのヴェルサイユ条約は一方的な戦勝国の要求条件で締結されてしまう。
これは新たな恨みを生み、第二次世界大戦はドイツの失地回復を目指す戦から、やがて他民族制圧・絶滅へと発展、連合国側もこれに対して“無条件降伏”を条件に戦い、市民を巻き込む無差別都市爆撃、さらには原爆投下までエスカレートしていく。
結果はどうだったのか?ヒトラーと言う独裁者を倒す戦いは、もう一人の独裁者スターリンを味方に引き入れ、ソ連の勢力圏を広げただけだった。
チャーチルは乱世の指導者として高い評価を得たが“ナチス憎し”で本来の反共思想を豹変させ、それが大失敗だったことに終戦間際に気がつくが、その時には米ソの力には抗しきれず主導権を握れないまま不本意な結末を迎える。
もっと酷いのはルーズヴェルトで、最後までアンクル・ジョー(スターリン)にオープン・マインドで(当面の要求を聞いてやる;軍事援助など)付き合えば米国の思い通り(対日戦参戦、国際連合構想による平和の回復など)になると信じていた。“無条件降伏”も戦争の真の意義を知らない彼から出た発想である。これが戦争を長引かせ、徹底抗戦しか選択肢がなくなってしまった。
国際政治のリーダーたちが「戦争は政治課題の解決の一手段である(目的ではない)」と言うクラウゼヴィッツの戦争哲学を正しく理解し、あの戦争に当たっていたら、純軍事的戦闘で収拾し、今(戦後の世界;1950年代)の世界はいま少しまともなものになっていたであろう。現下の冷戦、やがて来るであろう共産中国の台頭、共産主義者の戦いの根底には(妥協の無い)階級闘争という考え方がある。まだまだ無制限戦争発起の危機は去っていない。リーダー達よ心してこれに当たれ。
以上が本書のダイジェストである。
伝統的に勢力バランスを旨としてきた英国外交、二度の大戦で勝者となりながら崩壊してしまった大英帝国、戦後に出現した米ソ二大超大国の対峙、どこかにそんな英国人の悲哀・悲憤を感じないわけではないが、米国人のように理想だけに走らない、経験・歴史に立脚した論に共感を覚える。
これを読んでいて感じたことの一つに“民主主義と戦争”と言う視点がある。これは彼だけではなく英国エリートにしばしば見られるのだが、“大衆が戦争をより残酷なものにする”という考え方ある。大衆とメディアと言い換えたほうがいいのかもしれないが、強い政治リーダーの存在を好まぬ風潮が、大衆迎合主義に向かい、かえって戦争の危機を産むような気がしてならない。
原題は「The Conduct of War」だが訳題に“制限”を付けたのは適切である。
5)流刑の街
冷戦終結後、軍事・スパイサスペンスの面白い作品になかなかお目にかかれない。国対国、組織対組織という対称系が壊れたたことが主因である。代わって現れたのが、テロ組織や麻薬取引組織であり、そうでなければ架空の未来戦(例えば米中戦争)である。テロや麻薬は“犯罪”の要素が強く興味の無い(好きでない)警察が主体、未来戦はほとんどSFの世界で今ひとつ臨場感を欠く。と言うような按配で最近フィクションに関してはフラストレーションが溜まっている。
この本を買った動機は、そんな欲求不満状態の中で、主題は麻薬取引犯罪であるにもかかわらず、“イラク戦争帰還兵”が主役であることに惹かれたからだ。
読み始めは「ああやっぱり」感じた。ヴェトナム帰還兵物と同じなのだ。建前では勇士と称えられながら、現実にはまともな仕事もみつからない。不幸な少年時代を逃れるように陸軍に志願、イラクに派遣され(何と自衛隊が派遣されたサマワ)、特殊部隊員に選抜されるほど優れた兵士として活躍した男の挫折感がしばし続く。
ある雨の夜、パートとして働く駐車場で二人組みの強盗に襲われるが、難なく撃退する。数日後一人の女がやってきて名刺を渡し、そこに連絡するようことづける。退役軍人で成る私的麻薬撲滅団からのスカウトなのだ。
彼らの手法は、麻薬取引の現場を急襲して現金だけを奪い、現物は排水口に流してしまう。リーダーは情報収集と作戦策定・指導だけで現場には来ない。しかし、作戦は次々と成功していく。ボストンの麻薬シンジケートは恐慌状態となり、価格は上昇していく。
主人公はやがて「リーダーはどこからどのように情報を得るのか?」と疑問を持つ。それを直接聞き質すがはぐらかされてしまう。
謎の多いリーダー、麻薬捜査官、三つの組織が絡む複雑な麻薬取引、リーダーに囲われる女。あとは読んでのお楽しみ、である。
作者は北米(米国・カナダ)のミステリー賞として有名な「ハメット賞」受賞者、その作品「強盗こそ、われが宿命(さだめ)」は「ザ・タウン」として映画化され、近々公開される(もう公開されている?)。これも読んでみたいと思っている。
(以上)
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2)ネット・バカ(ニコラス・G・カー);青土社
3)昭和が遠くなって(小林信彦);文藝春秋社(文庫)
4)制限戦争指導論(J・F・Cフラー);原書房
5)流刑の街(チャック・ホーガン);ヴィレッジブックス(文庫)
<愚評昧説>
1)猛き海狼 第二次世界大戦時の若いドイツ海軍士官を主人公とする小説である。戦争小説は国と国、正規軍と正規軍が正面から戦う第二次世界大戦もの、特に欧州・大西洋を舞台にしたものが面白い。しかし戦後65年も過ぎると、さすがにこれを好む読者も作者も少なくなってきているのであろう、新作はほとんど出ない。そんな中で印刷発行日の一日前本書を書店で見つけた。直ぐに購入したのは言うまでもない。
主人公こそフィクションだが、海戦の戦場も登場する艦船や艦長も一部実在のものだ。特に最初の戦闘、ポケット戦艦(ヴェルサイユ条約の制約から、巡洋艦の船体に戦艦に匹敵する攻撃力を搭載)アドミラル・グラフー・シュペー号のラプラタ沖海戦と自沈は史実を忠実になぞっている。
インド洋における、乗り組んだ仮装巡洋艦(商戦改造)の沈没と長期の漂流。やがてUボートの艦長となり、フロリダ沖での通商破壊に従事、霧中誤って客船を沈め命令違反の救助活動を行うシーン。どれをとってもリアルな筆さばきで臨場感がある。
この救助活動で船客を米駆逐艦に移乗させた後、Uボートを自沈させ、主人公を含め乗組員は全員捕虜になる。それ以降どこまで事実からは分からぬが、ミシシッピさらにはニューメキシコのドイツ軍捕虜収容所が登場し、収容所の環境、管理体制やドイツ人捕虜たちの行動(親ナチ派が牛耳っている)が詳しく描かれる。これらの場面は今まで小説や映画でもほとんど紹介されたことがなく、新たな知識を得た。
ドイツ海軍をテーマにしながらアメリカの陸が小説に取り上げられているのは、筆者がアメリカ人で軍や海とは関係のない人(西洋史を専攻、長く金融関係のビジネスに携わっていた)だからである。従来であればドイツ海軍の話はドイツ人が、英米海軍なら英米人が書いていたので、その点でこの本は大変ユニークなものと言える。
ただ、主人公が乗り組む艦船が、戦艦、仮装巡洋艦、潜水艦と全く艦種が違い、現実にはこんな転属(特に水上艦から潜水艦)は考えられないことやそれぞれの舞台に関連性が薄いいため、一冊の本として書くことにどれだけ意味があるのか疑問の残る作品であった(反ナチ・戦争批判と言う点では一貫性はあるのだが、冒険小説なのか戦争に舞台を借りた社会小説なのかがあいまい;こちらは軍事サスペンスを期待した)。ダグラス・リーマンのような英国の冒険小説作家なら3部作にしたのではなかろうか?
2)ネット・バカ
今年まだ一ヶ月しか経っていないが、おそらく「私の選ぶ本年のNo.1」になるのではないかと思っている。この本を知ったのは昨年の9月、直ぐに購入したが同時に購入した同じ作者の前作「クラウド化する世界」(本欄-26で紹介)を先に読んだので、今年になってしまった。
主題はインターネットが及ぼす個人そして社会への影響、それも相当深遠部へのインパクトである。今までもネット社会批判の本は数々読んできたが、その焦点の当て方・深さ・衝撃度においてこれ以上のものはない。
英語の題名は「The Shallows(浅瀬)」であり、邦題の軽薄な印象とはまるで違う(訳者もこのことで一言ことわりを書いているが)。筆者の命題は「インターネットによって人間の思考プロセスが大きく変わり、それが社会の在り方をも変えていく;深く・じっくり考えなくなり、決断だけが早くなる」と言うところからきている。
ソクラテス・プラトン時代の“思考”は雄弁に“語ること”であった。時代が下ってもしばらくは“貴重な書き物”を“多数の前で音読”することが主流であった。しかしグーテンベルクの印刷機発明による安価な書物の普及は“一人で黙読”しながら考える世界を作り、それはごく最近まで続いてきた。今インターネットの普及によって、メディアの世界で起こってきている変化はTV(視聴時間決して減少していない)よりは圧倒的に出版に大きい(印刷物の発行数、読書時間の減少は著しい)。書物をじっくり読むことが無くなれば社会はどうなっていくのだろう?
思考と脳や神経の成長・働きはどうなっているのだろう?1980年代までは「幼少時に急速に発達し、その後経験は蓄積されるものの、思考プロセスそのものはほとんど変わらない(脳に可塑性はない)」と言うものだった。しかし、最近の脳・神経科学はその内部の動きをかなり正確に観察・測定できるようになってきた。これらに依る研究が進み、脳は手段やその使い方によってその環境に適した、新たな思考回路が作り上げられる(脳に可塑性がある)ことが明らかになってきている。
これは本書の事例ではないが、最近わが国のでもプロとアマチュアの棋士(将棋だったか囲碁だったかは失念したが)の脳の動きを比較研究し、その間に差があることを報じていた。
筆者は最新テクノロジー(特にIT)を中心に社会・文化・経済を論じる、いまやこの世界の第一級ジャーナリスト、決してインターネット否定論者ではない。自らもそれを使って日々の仕事をしている中での疑念を、広範な視点から整理し、解明しようと取り組んだのが本書である。脳科学・神経科学の面では本欄-27で紹介した「数覚とは何か?」と共通する話題も多々あり、一般読者だけでなく、その方面の専門家にも価値のあるものだと思う。
ブログ(インターネット)を使って、読後感を紹介することは相乗効果になるのか?それとも逆に相除し合うのか?これは私の問題である。
3)昭和が遠くなって
今までにも本欄で何度か紹介した、週間文春に連載されている小林信彦の「本音を申せば」の最新文庫版である(掲載時期;2006年1月~12月)。軽妙な筆使いの割には辛口なところが好きで文庫版が出ると買っている。
少し時間は経っているのだが、それほど時差を感じない。政界批判など誰が総理になっても同じところも良い(つまりわが国政治の本質を突いているのだ)。また、TVやラジオに関する話題が多く、知らない世界を垣間見るにも適当だ(しかし映画人を含めほとんど知った名前は無いのはさすがに歳を痛感させられるが)。
それでも<イーストウッドが描く「星条旗」の暗部>など多少は知った人物の作品や人となりの紹介に「そうだったのか!」と教えられたり、<まちがいだらけの昭和史>では「全く同感!」と言うような、“おじいさん”に合ったテーマも取り上げられ、息抜きにぴったりであった。
4)制限戦争指導論 原著は1961年英国で出版されたもの。訳本も1970年代に一度出版されたものの復刻版である。
筆者は第一次世界大戦で世界最初の戦車軍団参謀長を努めた人。その経験を基に陸戦における機甲力の将来性に着目、機甲軍の独立兵種化提言(大規模実用演習を含む)を行ってきた経歴を持つ。しかし、彼の主張は海洋大国英国では容れられず、むしろ大陸軍国ドイツ、ロシア、フランスで注目され、特にドイツ装甲軍生みの親グーデリアンに大きな影響を与えて、その先見性を不朽のものにしている。少将まで昇進するものの、1933年(ヒトラー政権誕生の年)に退役しその後は軍事学者の道を歩んできた(1965年没)。
本書は、彼の第一次世界大戦における体験(戦勝国も米国を除けば実質敗戦国)が基になっているものと思われるが、第二次世界大戦後も含め戦争が本来の目的(政治課題解決の一手段;クラウゼヴィッツの論)を外れ民間人を含めた総力戦なって行くことに対する批判・非難をフランス革命から説き起こし体系的まとめ、制限戦争に持っていく考えを示したものである。
ナポレオン戦争までの戦争は宗教戦争を別にすれば、国王や領主の傭兵による経済戦争(領土や領民の取り合い)だった。利害関係者はこれらの所有者だけなので、どこかで折り合いを付けないと勝っても持ち出しになってしまう。自ずと“制限戦争”になっていた。しかし、フランス革命で一般人民が徴兵され戦いに参加するようになると、和平の条件が世論に左右されるようになり殺戮や略奪の度合いが酷くなってきた。それは産業革命で兵器の質や量が変わるとともに激しさを増していく。それでも為政者が統治力をしっかり保持していれば限度があった。その例として普墺戦争や普仏戦争におけるビスマルクの存在を挙げている。これが完全に壊れるのは第一次世界大戦で、最初の休戦条件はウィルソンの14か条(ここではドイツにあれほど過酷な条件を課していなかった)で、ドイツ側もこれならば受け入れられるとして交渉に入るのだが、英仏の国民感情はそれを許さず、指導者たちの態度もそれに応じて厳しく変化していく。時を同じくして起こるロシア革命の根底にはマルクスの“階級闘争”があり、これも当時の世論を動かす。結果としてのヴェルサイユ条約は一方的な戦勝国の要求条件で締結されてしまう。
これは新たな恨みを生み、第二次世界大戦はドイツの失地回復を目指す戦から、やがて他民族制圧・絶滅へと発展、連合国側もこれに対して“無条件降伏”を条件に戦い、市民を巻き込む無差別都市爆撃、さらには原爆投下までエスカレートしていく。
結果はどうだったのか?ヒトラーと言う独裁者を倒す戦いは、もう一人の独裁者スターリンを味方に引き入れ、ソ連の勢力圏を広げただけだった。
チャーチルは乱世の指導者として高い評価を得たが“ナチス憎し”で本来の反共思想を豹変させ、それが大失敗だったことに終戦間際に気がつくが、その時には米ソの力には抗しきれず主導権を握れないまま不本意な結末を迎える。
もっと酷いのはルーズヴェルトで、最後までアンクル・ジョー(スターリン)にオープン・マインドで(当面の要求を聞いてやる;軍事援助など)付き合えば米国の思い通り(対日戦参戦、国際連合構想による平和の回復など)になると信じていた。“無条件降伏”も戦争の真の意義を知らない彼から出た発想である。これが戦争を長引かせ、徹底抗戦しか選択肢がなくなってしまった。
国際政治のリーダーたちが「戦争は政治課題の解決の一手段である(目的ではない)」と言うクラウゼヴィッツの戦争哲学を正しく理解し、あの戦争に当たっていたら、純軍事的戦闘で収拾し、今(戦後の世界;1950年代)の世界はいま少しまともなものになっていたであろう。現下の冷戦、やがて来るであろう共産中国の台頭、共産主義者の戦いの根底には(妥協の無い)階級闘争という考え方がある。まだまだ無制限戦争発起の危機は去っていない。リーダー達よ心してこれに当たれ。
以上が本書のダイジェストである。
伝統的に勢力バランスを旨としてきた英国外交、二度の大戦で勝者となりながら崩壊してしまった大英帝国、戦後に出現した米ソ二大超大国の対峙、どこかにそんな英国人の悲哀・悲憤を感じないわけではないが、米国人のように理想だけに走らない、経験・歴史に立脚した論に共感を覚える。
これを読んでいて感じたことの一つに“民主主義と戦争”と言う視点がある。これは彼だけではなく英国エリートにしばしば見られるのだが、“大衆が戦争をより残酷なものにする”という考え方ある。大衆とメディアと言い換えたほうがいいのかもしれないが、強い政治リーダーの存在を好まぬ風潮が、大衆迎合主義に向かい、かえって戦争の危機を産むような気がしてならない。
原題は「The Conduct of War」だが訳題に“制限”を付けたのは適切である。
5)流刑の街
冷戦終結後、軍事・スパイサスペンスの面白い作品になかなかお目にかかれない。国対国、組織対組織という対称系が壊れたたことが主因である。代わって現れたのが、テロ組織や麻薬取引組織であり、そうでなければ架空の未来戦(例えば米中戦争)である。テロや麻薬は“犯罪”の要素が強く興味の無い(好きでない)警察が主体、未来戦はほとんどSFの世界で今ひとつ臨場感を欠く。と言うような按配で最近フィクションに関してはフラストレーションが溜まっている。
この本を買った動機は、そんな欲求不満状態の中で、主題は麻薬取引犯罪であるにもかかわらず、“イラク戦争帰還兵”が主役であることに惹かれたからだ。
読み始めは「ああやっぱり」感じた。ヴェトナム帰還兵物と同じなのだ。建前では勇士と称えられながら、現実にはまともな仕事もみつからない。不幸な少年時代を逃れるように陸軍に志願、イラクに派遣され(何と自衛隊が派遣されたサマワ)、特殊部隊員に選抜されるほど優れた兵士として活躍した男の挫折感がしばし続く。
ある雨の夜、パートとして働く駐車場で二人組みの強盗に襲われるが、難なく撃退する。数日後一人の女がやってきて名刺を渡し、そこに連絡するようことづける。退役軍人で成る私的麻薬撲滅団からのスカウトなのだ。
彼らの手法は、麻薬取引の現場を急襲して現金だけを奪い、現物は排水口に流してしまう。リーダーは情報収集と作戦策定・指導だけで現場には来ない。しかし、作戦は次々と成功していく。ボストンの麻薬シンジケートは恐慌状態となり、価格は上昇していく。
主人公はやがて「リーダーはどこからどのように情報を得るのか?」と疑問を持つ。それを直接聞き質すがはぐらかされてしまう。
謎の多いリーダー、麻薬捜査官、三つの組織が絡む複雑な麻薬取引、リーダーに囲われる女。あとは読んでのお楽しみ、である。
作者は北米(米国・カナダ)のミステリー賞として有名な「ハメット賞」受賞者、その作品「強盗こそ、われが宿命(さだめ)」は「ザ・タウン」として映画化され、近々公開される(もう公開されている?)。これも読んでみたいと思っている。
(以上)
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