2011年6月19日日曜日

決断科学ノート-78(大転換TCSプロジェクト-15;比較調査への取り組み-4)

 1980年の春、製油部長のYMDさんが席へやってきて、「今度の置換え計画、工場長は賛成ではないようだよ。一度説明しておいたほうがいいぞ」と言う。直前にあった部長会での話題らしい。当時私の属するシステム技術2課(精製部門と共通部門担当)は石油化学の技術部に属し、直接のレポートラインは技術部長だが、製油部長付として出向していることもあり伝えてくれたのである。プロジェクトの進捗状況は技術部長に適宜報告していたし、他の工場長ならともかくシステムに理解のあるFJNさんだけに思いもよらぬことであった。
 FJNさんは製造畑が長く、製造課長時代には東燃グループ初のプロコン導入プロジェクト(石油化学のナフサ分解装置最適化制御)の責任者を務めたこともあり、課長時代から親しくお付き合いいただいていた。早速アポイントメントをとり工場長室に伺った(この時の私は相当昂揚していたのであろう。あとでYMDさんから、工場長が「MDN君が目を三角にしてやってきたよ」と言っていたぞ、と聞かされた)。
 工場長の“反対”の意向は次のようなことであった。「既存システムの置換えは賛成だが、DDCの全面的な導入には大いに疑問がある」「なぜならば、DDCを採用している精製側に火災などのトラブルが多い」「特にDDC採用に際して、運転員のボードマン(計器室で計器監視・操作を行う)とフィールドマン(現場を巡回し点検・操作を行う)の常駐場所を分け、両者が情報交換を行う機会が制約されていることが問題だ」「大体日本人の祖先は南方からやってきた。ニッパハウス(柱はあるが屋根は椰子で葺き、壁はほとんどない)のようにオープンな建物で和気藹々と暮らしてきたから、欧米のように役割によって居場所を峻別するような文化はなじまないのだ」と自説を開陳された。
 “精製側にトラブルが多い”は一先ず置いて、“ボードマンとフィールドマンの峻別”については直ぐに理解できた(賛成ではないが)。この問題は第一世代プロコン導入期からのプラント運転部門の持つ不満の一つであった。それまでは両者は同じ場所に居て、役割は違っても同じような時間を過ごしていたのである。フィールドマンもボードマンにことわって、自分が担当する装置の計器操作を行うことが許され、それが経験を積む機会にもなっていた。しかし(集中型)DDCの導入に際して、パネルでの計器操作ではなくはなく操作卓でキーボードによってプラント運転を行うためボードマンに一層の集中力・注意力を期待したこと、また当時の電子機器が塵埃にきわめて弱かったことから混在方式を止め、部屋を分けたのである。この新方式のボードマンは比較的若い人に適性があり、従来の年功序列的なキャリアーパスを崩すことになったことが特にベテラン運転員に不安を与えていた(若手運転員の士気は高まったが)。
 1963年秋、この第一世代DDCが和歌山工場で稼動した直後、FJNさんをリーダーに石油化学川崎工場の調査チーム(システム部門と運転部門の混成)がやってきて現場見学し検討会を持った。この時問題点として浮かび上がったのが、集中ゆえのトラブル時の対応(石油化学のプラントは顧客とパイプラインでつながり、直ちに影響は他社に及ぶ)とこの運転組織の問題であった。運転技術者としての経験が長いFJNさんにはどうしても馴染めなかったようである。それから10年以上過ぎた今それが再燃したわけである。
 この問題については、このときは「運転方式については電子機器の耐久性も向上しているので、部屋を分けるかどうかは必要条件では無く、プロジェクト実施時までに決めましょう」と言うことで納得していただいた(結果として従来と大きく変わらず、石油化学では両種の運転員は同じ計器室に常駐することになる)。
 残る課題は“DDCゆえにトラブルが多い”である。これはこちらも簡単に認めることは出来ない。

(本項、次回に続く)

注:略字(TCC、ERE、ECCS、SPC等)についてはシリーズで初回出るときに説明しています。

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