2012年2月27日月曜日

決断科学ノート-107(自動車を巡る話題-1;エンジン開発)



 
決断科学ノートは、ここのところ東燃時代に関わった事例紹介が続きました。お蔭さまで読者の方々から沢山のレスポンスをいただきました。これからも折を見て取り上げていく予定です。しかし、身近なものが続き過ぎるのもマンネリに陥る恐れ大です。しばらく事例から離れ企業経営に関わる話題(必ずしも直接“決断”に関わるものばかりではありませんが)を取り上げてみようと思います。手始めに、大好きな“自動車”をテーマにスタートしますのでご一覧いただき、コメントがいただければ幸いです。


226日(日曜日)の日経新聞一面「ニッポンの企業力」に“ハイブリッドの死角-車もガラパゴス化の懸念-”と言う見出しが大書きされていた。記事には、自動車エンスー(エンスージアジスト;愛好者)と自他とも(?)に認める私にとって、以前から知人・友人に語っていたハイブリッド・エンジンの将来性(市場における位置と純粋の内燃機関のさらなる発展の可能性)に対する疑念を具体的に示す数字とキーワードが並んでいた。
曰く、今年一月の国内自動車販売数に占めるハイブリッド車の比率は2割を超えるが、世界最大の自動車市場、中国では約1800万台の内3000台に過ぎず、米国でも30万台と全体の2%程度だったと。
初代プリウスが発表されたとき、面白いアイディアだとは思ったが、一方で複雑なメカニズムに、コストやメンテナンスに不安を感じた。また、試乗してみて運転の面白味(人車一体感)が全く感じられず、生活の道具であると同時にドライブを楽しむ文化のあるヨーロッパでは、自動車発祥の地を自負するプライドも含めて、普及しないだろうと直感した。確かにダイムラーやポルシェがハイブリッド車を市販しているが、それは地球環境問題へのポーズの域を脱していないし、ブレーキ回生エネルギーを電池に蓄え補助(あるいは瞬発)動力に使う単純なメカニズムに留まっている。
欧州勢が環境問題の提起者だしそれに真剣に取り組んでいることは間違いないが、その主戦場は内燃機関の更なる効率アップのための技術開発である。早くから小型ディーゼルを実用化してきた彼らは(当初は軽油の価格が安いことが大きな理由だった)、先ず原理的に熱効率の良い(高圧で燃焼させるため)ディーゼルをガソリン車に置き換えていく流れをつくり(既に50%を超えている)、次いで同じ考えをガソリンエンジンに敷衍し、電子制御(着火のタイミングや段階的着火)や過給(燃焼用の空気をやや過剰に供給する;自然吸気では不十分)方式を工夫して、一回り小さいエンジン(ダウンサイジング)で従来以上の馬力を稼ぐ(それによって総CO2排出量が減る)のである。これに先鞭をつけたのはフォルクスワーゲン(VW)で2005年に発売されたゴルフGTに搭載されたTSITurbo charged Stratified Injection;ガソリン直噴)エンジンがその嚆矢である。
嘗て(1970年代)マスキー法旋風が吹き荒れたとき、ホンダはCVCCエンジンを開発、見事に難しい排ガス規制を乗り越えた。それまでもホンダの評価はエンジンにあった。そのホンダも今やハイブリッドを売り物にしている(次世代NSX;高性能スポーツカーまでも)。また、省燃費エンジンとして高い評価を得ていたリーン・バーンエンジンを多くの車に搭載していたトヨタは、完全にハイブリッドに舵を切ったように見える。日産と三菱は電気自動車が客寄せパンダ。スズキがVWとの合弁を解消しフィアットの小型ディーゼルを導入しようとしている。
どこも正面から、内燃機関だけで、環境問題解決に当たる意欲が見られない中で、マツダが孤軍奮闘している。ハイブリッドに劣らぬ燃費を達成したスカイアクティブ・エンジンがそれだ。世界で唯一ロータリー・エンジンを実用に供したDNAがここに繋がっているのだろうか。ガラパゴスにならぬために、このエンジンとビジネスが成功することを願って止まない。
(この項完)

2012年2月23日木曜日

工房フォトギャラリー-2;モスクワ戦勝記念公園



 
モスクワには軍事博物館の他に、もう一ヶ所第二次世界大戦兵器の展示場がある。戦勝記念公園(正確な名前は不明)である。ここは横河ロシアのスタッフに案内され2003年の10月と12月二度訪れている。
公園は広く、園内にドーム状のジオラマ館(独ソ戦の激戦場を、ドーム・ホール周辺に設けられた八つの円形小ホール内の大型立体模型で展示・解説、最後はベルリン陥落である)、高い記念モニュメント、屋外展示場などが配置されている。軍事博物館との違いは、第二次世界大戦の兵器に限られていること、他国の兵器も一部含まれていることなどである。また、軍事博物館が市街地とは言え余り人通りの無い街区にあるのに比べ、四辺が大通りで車や人の往来が盛ん、壮大なジオラマ館には子供の団体などもおり、賑わいは格段にこちらの方が高かった。
屋外展示場の入り口で最初に目にするのは、色丹島で鹵獲された日本の軽戦車(右上)、ハ-5や電撃戦で主力となった併合されたチェコのシュコダ工場で生産された38t戦車(左上)、自走砲(右)などが置かれている。ハ-5はともかく、38t号戦車もT-34には太刀打ちできずドイツ軍は苦戦する。それに対抗できたタイガー戦車は残念ながらここにはなかった。
軍用機の展示場には、だるまに翼をつけたような太っちょのポリカルポフ-16(左;赤いスピンナー)や強力な対地攻撃機、イリューシュンIL16などが置かれている。
大陸軍国らしい巨大な列車砲(右)やそれを牽引する蒸気機関車には圧倒される。
陸上戦闘場面を模したトーチカや塹壕も配置され、そこには救護所などもあって、往時の一端を体験できるのも面白い。
写真にある少女は従業員の娘、リヤーナ(左)。10月に父親とヴォルガ流域のサマーラに出張した時「娘は海を見たことがない」というので、人からもらった沖縄石垣島の貝殻珊(砂粒に近い)をプレゼントしたところ、お礼としてここを案内してくれた。英語の勉強をしているといっていた彼女ももうハイティーン、どうしているだろうか?
(写真は10月と12月の分が混在)

(写真はクリックすると拡大します)

2012年2月20日月曜日

工房フォトギャラリー-1;モスクワ軍事博物館


工房フォトギャラリー

本ブログは、決断科学ノート、今月の本棚、遠い国・近い人、旅行記・ドライブ記で構成してきた。決断科学ノートはTCS(東燃次世代制御システム)に関する長期連載が先月終わり、遠い人・近い人も“韓国”の一話が先週終わった。この二つについては続くテーマはいくつかあるのだが、頭の中をリフレッシュするため一休みしたい。今月の本棚は月刊なのでしばらく掲載の機会が無い、旅行もここのところしていない。と言うわけで、撮り集めた写真をベースにフォトエッセイのようなものをスタートさせるので、気分転換などにアクセスいただければ幸いである。


私のライフワーク(?)は、戦略的軍事システム(通常兵器;飛行機、戦車、潜水艦など)の発展を、技術・生産、戦略・戦術、組織・人の面から考察し、これを経営における広義のIT利用の将来に敷衍することにある。そのための活動の中心は書物を当たることだが、機会を見て海外の軍事博物館や科学博物館を訪ねることがある。

トップを切るのは、20038月末訪れたモスクワ軍事博物館である。おそらくソ連崩壊前はもっと手入れが行き届き、参観者も多かったのではないかと推察するが、落ち葉の散り始めた雨の日曜日、市内の中心部にありながら、これが冷戦の一方の旗頭だったとはとても思えない、寂しい佇まいの中に在った。
それでも正面には祖国大戦争のエース、T-34(スターリン戦車;中型戦車)が飾られ(右)、屋外展示場には同じように活躍したロケット砲(カチューシャ)や重戦車(左下)から朝鮮戦争で米空軍を圧したMig17ジェット戦闘機(右下)、アフガンで使われた八輪兵員輸送装甲車(一番下)までぎっしりと並んで迫力満点であった。

運営資金難なのか、いいかげんな塗装が残念だ。
本館内にはソ連邦成立後の国際紛争・戦争の歴史解説コーナーがあり「ノモンハン事変」のところで、ロシア人の若いカップルから「これは本当にあったことなのか?」と聞かれた。ウラル以東は大方のロシア人にとって別世界であることを知った。


(写真はクリックすると拡大します)

2012年2月16日木曜日

遠い国・近い人-19(ハンディキャップを超えて-7;韓国)



 翌20056月にも次女を訪ねて訪韓した。前回は私がJHと会っている間(三家族会食の翌日)、家内が市内ツアーに参加した程度だったが、今回は観光目的である。板門店、慶州なども訪れ、韓国版新幹線も試すことにしていた。これらは横河韓国を通じて旅行社を紹介してもらい準備した。ホテルは繁華街にあるチョースン(朝鮮)・ホテル。クラシカルで落ち着いた雰囲気が良い。

ソウル到着の夜、ホテルにJHが訪ねてくれ、コーヒーハウスでこの一年の変化など話し合った。最新IT(通信を含む)の話題を講演などで提供し、具体的な関心を示す潜在顧客と韓国や日本のメーカー(NTTなどを含む)とのマッチングの機会を作る。プロジェクトが動き出すとどちらかのコンサルタントを務める。これが彼のビジネスモデルなのだ。こうして最近のビジネスが中国やモンゴルに向かっていること知り、その発展振りに「この身体でよく頑張るなー」と、あらためて彼のヴァイタリティに感じ入った。
話がオフビジネスになり、今回の観光に及んだとき、1989年二度目の訪韓の際初めて訪れた慶州の話になった。コンプレックス(石油・石油化学複合工場)の在る蔚山から慶州に行き一泊。翌日慶州観光をした後釜山に出て帰国する旅を、全てJHにアレンジしてもらったのである。オリジナルプランは全ての移動をタクシー(慶州観光とそこから釜山までは日本語が話せる)で行うことになっていた。しかし、当日になってJHが慶州まで自分の車で送ってくれることになり、夕刻彼とした1時間強のドライブを懐かしく語り合った。
話は転じて日本の韓流ブームから当時話題になっていた韓国のエンターテーメントに及んだ。娘から「今ソウルでは「ナンタ」と言うミュージカル(?;出演者が包丁で俎板をたたきながら演ずるパフォーマンス)が人気」と言う話を聞いていたので、その話をすると、「あれは大人気だ!観たいのか?予約しないと観られない。いつがいいのか?」と畳み込んできて、二、三電話をすると「予約が取れた」と当日窓口で告げるべき予約番号をメモしてくれた。このサービス精神、アクションの速さが人脈作り、ビジネスに生かされていることは間違いない。
こんな会話の最後は家族、特に子供たちに関するものだった。初めて知り合ったとき、末っ子の次女は10歳、彼の二人の子(姉・弟)はまだ就学前。「大きくなったらホームスティさせよう」などと話し合ったこともあった。それは実現しなかったが次女は韓国の大学で学んでいる。「あなたの影響に間違いない!大変嬉しい!」 この言葉には、日韓の歴史問題を乗り越える何かが確実に存在する、と感じさせる一言だった。
一昨年秋、突然彼からメールが飛び込んできた。「仕事で近く訪日する。是非会いたい」と言うものだった。出来たら我が家に招待したい気分で歓迎の返信をした。残念ながらビジネスの都合が変わりこれは実現しなかった。中止を伝えるメールには、それでも嬉しいニュースが加えられていた。「信じられるかい?!僕は祖父になったんだ!」と。
昨年義父母が亡くなったこともあり、海外の友人宛年末年始の挨拶状も欠礼した。代わりに我々夫婦と二人の孫の写真を添えて近況報告のメールを送った。先月着た彼からの返信メールには「信じられるかい?!僕も二人の孫を持つことになったんだ!」と二葉の可愛い孫(女・男)の写真が添付されていた。
三代目の交流が出来るまで長生きしたいものである。

(“ハンディキャップを超えて;韓国”の項 完)

2012年2月12日日曜日

遠い国・近い人-18(ハンディキャップを超えて-6;韓国)



仕事で韓国を訪れた最後は19973月。既にJHは石油ビジネスを離れ専らSK C&Cで通信関係を担当していた。それでも油公本社・蔚山コンプレックスとは密接な関係にあり、そこを訪問する私のためのスケジュール調整とソウルでの安さんとの面談などに尽力してくれた。実はこの時期、外貨借金経営のバブルで膨れきった韓国の経済危機が眼前に迫っていたことを私は全く気がついていなかった。やがて起亜自動車の倒産、財閥グループの整理、IMFの財政介入などが続き、それは油公にもおよんで、間もなく大リストラが始まったのだ。
1999JHが久し振りに来日した際、恵比寿のSPIN新オフィスを訪ねてくれた。聞けば蔚山の同僚たちの多くが油公を去ったとのこと。日本での訪問先はNTT傘下企業、NE C子会社など専ら通信システム関連企業で、石油より遥かに環境変化が急で刺激的な分野だと興奮気味に話してくれた。しかし率直に言って、プロセス工業にこだわりを持つ私にはチョッと寂しいことであった。
その後時々メールのやり取りやクリスマスカード・年賀状の交換などあったものの、SPINが発展的に解消し横河情報システム(YIC)が発足する(そして私がSPIN社長を退任する)2003年には音信が途絶えてしまった。後でわかるのだがこの時期彼は独立して自分の会社を立ち上げるべく奔走していたのだ。
2004年初め、次女の韓国留学(高麗大学)が具体化してきた。韓流ブームよりかなり早くから韓国文化(と言ってもポップカルチャーだが)に関心が高かった彼女は、社会人生活2年間でその準備をし、この年大学から入学許可が出て、長期滞在のための身元保証人が必要になった(お金で解決できるのだが)。そこで何とかJHと連絡を取ることを算段したが上手くいかなかった。時間も迫っていたので、その役割は別の友人(Mr. Huh(許);油公とは全く関係の無い;いずれ本欄で紹介予定)に頼むことで解決した。
JHの消息を探していることはしばらくして彼に伝わったようだ。久し振りのメールが届いた。SK C&Cを退職し数年前から自分の会社を経営していると言う。メールアドレスはWorlditechとなっている。これが彼の会社名なのだ。ホームページ(英語版も確りある)を辿ると、事業はIT関係(通信を含む)のコンサルティングであることが分かった。オフィスが中国とマレーシアにある立派なグローバル企業なのだ。
6月、娘の生活環境チェックを兼ねて家内と訪韓することにした。この際許さんには身元保証人を快く引き受けてくれたことのお礼、JHとは久しぶりの再会を楽しむことにする。限られたスケジュール(とは言ってもこちらはソウル観光程度だったが)の中で効率よく会うのは三家族が一堂に会することが適当と考え、泊まっていた新羅ホテルの日本レストランに夫人同伴で招待することにした。
JHは不自由な身体ながら以前通りエネルギッシュな立ち振る舞い、くりくりした愛嬌のある目で私の前に現れた。連絡の途絶えたことを詫びるが、見るところどうやら仕事は順調なようだ。こちらもホッとする。
JHと許さんは初対面、許さんも化学工学出身でエンジニアリング会社に勤務した後独立してプロセス工業向けソフトウェアサービス会社を経営しているので、仕事上JHとの共通点は多い。直ぐに打ち解けた雰囲気になっていった。男同士は英語で、韓国人と娘は韓国語で、我々親子は日本語でと言うやや複雑なコミュニケーション環境だが、食事・家族(特に子供;男の子の軍務)・学校生活など楽しい会話が弾んだ。仕事を離れても良い友人関係が持続できたことに感謝いっぱいの気持ちであった。
(つづく)

2012年2月7日火曜日

遠い国・近い人-17(ハンディキャップを超えて-5;韓国)



オリンピック後の韓国は日本がそうであったように、急速な経済発展段階に入る。それに伴うエネルギー需要の伸びで、蔚山コンプレックスも建設に継ぐ建設が続いていた。TCSの順調な導入後も、この新増設と併行してIT利用の機運は益々高まり、訪韓の度に日本の実態を紹介するよう求められる。生産計画・スケジューリング、受注出荷管理、在槽管理、品質管理、設備管理さらには当時日本でも開発途上にあったCIMComputer Integrated Manufacturing;製販一体システム)にまで及んだ。
こちらにとってもビジネスチャンス、1989年には大掛かりな設備保全管理システムの開発を受注する。このプロジェクトは単なるソフトウェア開発だけではなく、設備保全の仕事そのものを再設計することを含むので東燃テクノロジー(TTEC)との共同プロジェクトとなった。これが実現したのもJHが安常務理事(本社)や崔常務理事(蔚山)に高く買われていたことが決め手となっている。このプロジェクトが終わるとJHは本社情報・通信企画部長に栄転する(93年)。
この少し前から安さんはSPIN経営に強い関心を示すようになっており、しばしば彼の個室で情報サービスビジネスについて意見を交わすようになっていた。あるとき「今日は専務と会ってくれ」と言われ、後に社長になる総合企画室長の趙圭郷専務理事(元空軍将官、私より2歳年長)と三人で話すことになる(90年)。趙専務は「若い人(安さんとその部下の意)が情報ビジネスをやりたいというんでね」と日本語で切り出した。直ぐに子会社がスタートしたわけではないが、安さんのこの分野への思い入れが一方ならぬものであることを理解した。
さらにその後、JHは間もなく本社へ移るという趙政男理事に同道来日、川崎工場・SPINを訪問し情報交換の機会を持つことになる(91年)。92年に訪韓した際にはこの趙さんは専務理事の趙さんが務めていた総合企画室長の後任になり、やがてSKグループが国営の韓国移動通信(現SKテレコム;韓国最大の携帯電話会社)を買い取ると(97年)副社長→副会長と通信ビジネスに重要な役職を占めていくことになる。つまりこの時期(90年~93年)安さんのみならず油公(そしてSKグループ全体)が真剣に情報・通信ビジネスを模索していた時代だったのである。
94年先ず油公の子会社としてYC&CYukong Computer & Communication)が設立される。安さんは本社常務理事のまま社長に、JH他のメンバーも兼務でここに席を移した。新社屋に安さんを訪ね意外に思ったことは自社ブランドのPCを販売すると言うことであった。ハードの量販は在庫など経営リスクが大きくなるからだ。
YC&CはやがてSKグループ全体の情報・通信サービス会社に変じ名前もSK C&Cとなる(97年)。自社ブランドのPCは全く話題にならなかった。JHはここでネットワークや通信ビジネス(移動通信サービスを除く)の本部長に昇進、オリンピック後の新ビジネスセンター、江南のPosco(浦項製鉄)ビルにオフィスを移していた。しかし生みの親とも言える安さんの姿はそこには無く、SKグループ第二の柱となるSKテレコムの技術開発本部担当専務に転じていた。JHに連れられソウル大学近くにある郊外のオフィスを訪ねると、暖かく迎えてはくれたが何か引っかかるものがあった。これが安さんとの最後の面談であった。
99年横河グループ入りした後、初めてJHSPINを訪れたとき安さんに話題が及ぶと「彼はハッピーではないんだ」との答えが返ってきた。どうやらYC&Cの経営は上手くいっていなかったようだ。
この後しばらくして韓国は財政破綻で経済は混乱、SKグループも大幅な再編成を余儀なくされることになる。
(つづく)

2012年2月4日土曜日

今月の本棚-41(2012年1月分)



<今月読んだ本>
1)国防の危機管理と軍事OR(飯田耕司);三恵社
2)世界最悪の鉄道旅行-ユーラシア横断2万キロ(下川裕治);新潮社(文庫)
3)在日米軍司令部(春原剛);新潮社(文庫)
4)「宗谷」の昭和史(大野芳);新潮社(文庫)
5)クラシックホテルが語る昭和史(山口由美);新潮社(文庫)

<愚評昧説>
1)国防の危機管理と軍事OR
選挙権を得てこの方、大方自民党には入れてこなかった。だからといって共産主義・社会主義の信奉者ではない。引揚者と言うことから来る“反体制”気質がそうさせてきたのだ。そんな私でも国防(国家安全保障)については、自民党の主張すら歯がゆい思いを抱いて既に半世紀以上が過ぎた。資源・貿易・金融どれをとっても、熾烈な世界規模の競争が起こっている時、正面から国防を論じ、確たる政策を作り上げてこなかったツケが国力低下に拍車をかけているように感じてならない。特に民主党政権下の二人の首相(鳩山・菅)の国家安全保障観(危機管理を含む)には全く幻滅させられた。
このような認識は私の世代だけでなく、より若い世代にも最近は多くなってきており、憲法改正を含め、この問題を国民的論議の場に持ち出す時期に来ているのではなかろうか(安部首相はそれに取り組もうとした)。その点で本書の出版は時宜を得たものといえる。ただ同種のものと少し変わっているのは“OROperations Research;本来軍事作戦への数理応用が起源;現在は企業経営や政策立案に広く利用されている)”に焦点を当てて書かれていることである。私にとっては“決断科学”に欠かせぬテーマであり、出版以前にAmazonに予約し入手した(書店店頭には置かれていない)。
著者は元海上自衛隊技術将校(一般大学工学部(船舶)出身、一佐、防衛大学教授、工博)で軍事ORの泰斗(おそらく自衛隊関係者で、一般向けの軍事OR解説書・啓蒙書を出している唯一の人)。内容は、国防の危機管理、意思決定の理論、軍事OR概要の3部から成り、第一部、第二部は最終部“軍事OR”の基礎・導入と言った位置付けになる。第一部では現在のわが国を巡る安全保障上の環境と問題点(脅威、国防に関する精神風土、危機・災害における部隊運用とそのシステムなど)を概説。第二部では合理的な意思決定の必要性を、問題に応じた各種数理手法を解説しながら、不確実性の配慮など軍事施策への応用の特異性に言及していく。第三部はORの歴史、各国軍事組織におけるOR適用の実態、自衛隊におけるOR活動、そして軍事ORの三大適用分野;捜索・射爆・交戦理論の概要が紹介される。
第一部、第二部はその分野の既刊のものと共通するところが多いが、いずれも落とし所をORに向けていること、それぞれのテーマに関する著者の思いが込められている点が特色といえる。これらの準備をした上で核心の第三部に入るのだが、ここは当に本邦唯一無二の内容で、ORの生い立ちからその自衛隊での利用実態まで、軍事OR活動が各国における事例も含めて詳細に語られ、内部関係者でなければ窺い知れなかった世界を露わにする。特に最近の自衛隊におけるOR利用・研究が本来の戦闘・戦術支援を離れ、専ら政策策定(特に予算)のツールとして重きを置かれていることに対する著者の批判は圧巻である。「原点に戻り、現場に確り信頼され、利用されるOR活動を行おう!」と言う著者の主張は、軍事に限らず広くOR関係者へのメッセージと言って良い。
さて、この本である。誰に読んで欲しいか。著者が第一部で述べているように、わが国の軍事アレルギーは異常である。世界の大学では堂々と“軍事学”が講じられ、学会などで諸説が開陳される。こうであってこそ健全な、その国に合った国防思想が生まれてくる。それに支えられた軍事組織は真に我々を守るものとして強固なものに育っていく。そのような活動を活発化するために、安全保障に関心が高い社会人のさらなる啓発と一般大学の教養課程や国際関係論専攻者、あるいは官僚を数多輩出する学校で本書が教材として使われることを期待したい。

2)世界最悪の鉄道旅行-ユーラシア横断2万キロ
乗物好きゆえ多くの鉄チャン物を読んできた。そして「こんな本を読みたかったんだ!」と心底感じた本に巡り合えた。これが読後感である。
時は20114月から7月(途中切符の入手困難や国境閉鎖で二度帰国)、出発は間宮海峡を挟むシベリアの東端からポルトガルのロカ岬に至る29kmを鉄道で一筆描きする(計画;結局2ヶ所空路と自動車にせざるを得ない)。ロシア領内を、シベリア鉄道を利用すれば比較的簡単にいけるが(これは既に何冊か出ている;著者も試みている)、敢えて中央アジアから紛争の地、カフカスを経るところにこの旅の面白さがあり、広軌・標準軌が入り乱れ、19カ国のお国柄やシステムの違いに戸惑うとことに冒険性を楽しめる。特にカザフスタンからトルコにいたるルートは旧ソ連に属するのだが、独立後はロシアとのスタンスが微妙に違ってきていること、敵の敵は味方のような複雑な国際関係が思わぬ障害となって、行く手に待ち受けている。如何にそれを乗り切るか。このハラハラ感に満ちた解決案とその実行にグイグイ惹き込まれていく。例えば、アゼルバイジャン共和国のバクーを目指す路線では、チェチェン絡みの爆破事件が起きるし、やっと国境までたどり着いても外国人は追い返され、やむなく空路を利用することになる。
二点目の面白さは、著者がただの鉄チャン(鉄道マニア)ではなく旅行作家であることからくる。つまり鉄道ばかりではなく、人や社会(歴史や政治)を観察する目が確りしているのだ。例えば、北京まで来てなかなかウルムチ行きの長距離列車(全寝台車構成)の指定券が取れない。友人に頼んで一旦帰国するが窓口では結局入手できず、ダフ屋から購入することになる。この背景には鉄道職員の組織ぐるみの汚職(指定券を全部抑えて転売する)があることを明らかにしている。この人と社会の観察こそ、旅行記のエキスと捉えている私にとって「こんな本を読みたかったんだ!」という因となったのだ。
他の作品も読みたくなり既に入手している。

3)在日米軍司令部
わが国の国防を担う軍事力は自衛隊と在日米軍である。在日米軍が表に現れるのはほとんど基地問題としてである。安全保障に関わる、より根幹的な話題、特に在日米軍の全体像は余り伝えらないし、組織構成やその位置付け、自衛隊との関係などもほとんど目にしない(合同演習は時々記事になるが)。嘗て占領下に君臨した“総司令部”はどうなっているのだろう。軍事関係の著書を多く読んできた割にはこんな基本的なところを正確に把握していなかった(多分多くの日本人がそうではなかろうか)こともあり手にすることになった。この本を読んで、その歴史的変遷と現状を理解すると共に、一朝有事の際の安全保障策に疑問や不安も顕在化してきた。
在日米軍は、陸軍(約1700名)、海軍(約4300名)、空軍(約13500名)、海兵隊(約16000名、計35,500名弱から成る。海兵隊は米軍独特の軍種なので、これを除いて陸・海・空をみると陸軍が異常に少なく(調べてみると主に座間の司令部要員と沖縄鳥居の電子諜報部隊、それに嘉手納空軍基地内のパトリオット部隊)、空軍が突出している。この数が反映しているのか、司令部は横田基地の中にあり司令官も歴代空軍中将が務めている(第5空軍司令官兼務。副司令官は海兵隊指定席)。そしてこの司令部機能には部隊の統合的な運用を指揮する権限はなく、ハワイに在る上部機構の太平洋軍司令部が作戦指令を行うことになっている。いわば在日米軍司令部は「連絡調整事務所」と言うことになる(本書の中で「指揮系統は複雑きわまる」と表現されている)。
東アジア安定化の要石として、このような位置付けを改善しようとする動きは米政府・軍内にもある。例えば“上がり中将(中将で退役)”を“キャリアーパス中将(大将・参謀総長へのステップ)”へ変えていく動きなどにそれが見られるし(マイヤーズ元統合参謀本部議長)、政府間交渉における役割見直し(外交・防衛関係閣僚との定期交流など)がそれに当たる。しかし、一方で中途半端な存在を合理化して軍の指揮系統をすっきりしようとする動き(究極は司令部不要論)もあり、座間の陸軍司令部が米第一軍の前方司令部として整備が進んできていることなどこの流れともとれる。
1)の“軍事OR”に述べられる“戦後レジーム(左翼思想に基づく体制批判風潮→軍事アレルギー)”によって手足を縛られた自衛隊とこの統一指揮機能を欠く在日米軍によって有事に国民と国土を守る即応体制がとれるのか?なかなか目が離せない問題である。
この本は2008年に単行本として発行されているが、311大震災の“トモダチ作戦”における米軍の任務部隊(統一実戦部隊)活動を、自衛隊との協力も含めフォローし、在日米軍司令部の存在がそれに貢献したことを導入部に特記している。著者が「こうあって欲しいとの」との思いからであろう。同感である。

4)「宗谷」の昭和史
著者は本書の中で、敗戦後の日本人に活力を与えたものとして、古橋広之進(競泳;19489年)、湯川秀樹(ノーベル物理学賞;1949年)それにこの宗谷(南極探検;1957年)を上げている。実は前二者とは10年近い差があるのだが、私の世代(当時高校生)には納得感がある。壮挙に心踊り、オングル島(昭和基地)に資材と越冬隊員を下ろした帰路、氷海に閉じ込めたれた宗谷の救援に向かうソ連砕氷船オビ号の動きを新聞で追いながら、一喜一憂したのが昨日のことのようだ。
当時から、宗谷が海上保安庁の灯台補給船で砕氷能力を買われて南極探検用に転用されたことは知っていたが、そこに至る数奇な歴史はこの本で初めて知った。
進水は1938年、ソ連通商代表部が発注した3隻の砕氷能力のある貨物船(全長82メートル、総トン数2224、機関は石炭ボイラー!)の一隻としてである。建造者は長崎・香焼島(今は三菱重工の造船所がある)の川南工業。オリジナルの名前は「ボロチャベツ」。しかし翌年第二次世界大戦が始まり、この船がソ連船として活躍することは無かった。本書の第一幕は「何故この船(他の姉妹船を含め)はソ連に引き渡されなかったか?」である。ノモンハン事件停戦後の交渉の中に、この船の補償を求める条項が記載されるほど、一時は日ソ間の重大外交懸案事項だったのだ。
この砕氷船は強固で特殊な船体を持つばかりではなく、カムチャッカの未整備港湾に出入りするため、ソ連側の要求で各種水測機器を搭載していた(川南がこの船をソ連に渡さなかったのは、この能力を海軍が評価し、裏で動いていた可能性がある)。この能力こそ本書第二幕、太平洋の戦いにおける本船(艦)活躍の最大の武器なのである。侵攻する水路の測量、占領した未知の島々周辺の海図作り。南洋諸島へ、ソロモン海へ、アリューシャンへ、自衛のための貧弱な対空兵器を積んだだけの本船が、弾雨の中で黙々と任務を果たしていく姿は感動的ですらある。戦争末期は輸送艦、対潜護衛艦(爆雷自動投下装置がないので人力投下;遠くへ飛ばせない)としても使われる。大海軍と姉妹たちは海の藻屑と消えたが、宗谷は確り生き残った。
やがて終戦、今度は引揚船として声がかかる。樺太や北朝鮮の港湾は氷結するからだ。それが一段落すると、大きな貨物搭載能力(当時海上保安庁最大の船)が必要な灯台補給船の役割が回ってくる。僻地や孤島で待つ灯台守たちへ希望をもたらす船として活躍するのだ。老兵はまだまだ死なない。これが第三幕。
船の寿命は20年と言われている。南極探検の話が出たとき、宗谷にとってその年限は目前だった。当初は候補になっていなかったが、予算、工期そして能力の面でその改造計画(石炭ボイラーをディーゼルに換装するような大工事を含む)が最も有利との結論が出る。それから5年間(195762年)回春手術を受けた老体は、南極探検船として初めて晴れやかな舞台に登場する。最も輝いた時代。それが第四幕
これで終わると思った「宗谷劇」はその後巡視船に戻り、北の海で地味な仕事を黙々とこなす最後の15年にもスポットライトが当たる。今宗谷は有明の船の博物館に係留され、船籍は無いものの、2008年には“古希”の祝典が行われたという。
もしこれが人間であれば誰もが「ご苦労様。いい人生を送ったね」と労っただろう。
さて、船を中心に読後感を書いたが、この本はそれ以上に「昭和史」の本である。国際関係、戦争、戦後復興、科学技術政策などがそれぞれの幕の演題となっている。中でも大きなウェートを占めるのは当然ながら“南極探検”である。登場人物は新聞人、政治家、大学人それに役人。地球物理学と言う世俗とかけ離れた(と一般人に思われている)ところで演じられる、利権・権力闘争の醜さ(特に大学人)には怒りさえ感じる。宗谷がこれを知っていたなら「君たちみたいなエゴイストは乗せてやらないよ」といったに違いない。

蛇足;宗谷が灯台補給船だった時代(南極探検船になる以前)、麻布学園中等部の海洋少年団員数人を夏休み中の航海に乗船させている。その中に奥野亨と言う少年が出てくる(毎日中学生新聞に航海記を連載、後年本書執筆のために著者が取材)。日本は無論米国(一時米国駐在;お宅にご招待いただいた)、カナダでも何度かご一緒したことのあるIBM関係者である。ハワイから西海岸まで大型帆船で航海した話を聞いたことがある。半端な船乗りではなかったことを知った。

5)クラシックホテルが語る昭和史
クラシックホテル=戦前からある有名ホテル、との認識で本書に惹かれた。明らかに大衆が利用するところではなかったので、当時の有産・有閑階級の優雅な暮らしぶりを窺うことが出来ると思ったからである。中産階級が膨らむことは社会全体が豊かになることで、全体としては良いことなのだが、それで失われるものも少なくない。クラシック音楽・オペラ・バレーの創作、大作絵画・彫刻、教会・寺院建築、各種モニュメント、庭園・公園などなどは、強力で個性あるスポンサーが在って始めて生まれたと言っていい。往時と今のホテルの違いから社会の違いを推察する。これが期待するところであった。
しかし、この本は “ホテル”より、前著「宗谷」同様圧倒的に“昭和史”にウェートがかかったものであった。
最初に登場する富士屋ホテル(箱根)では大東亜戦争開戦前の戦争回避のための日米交渉が、次の強羅ホテル(箱根)ではソ連を通じた終戦工作が秘かに進めらていたことを、その歴史や地理的関係(周辺に在る有力者の別荘などからのアクセスや機密保持)から語られる。
戦中の話は、満鉄の経営したヤマトホテル(大連・奉天・長春・ハルビン)と対支・対満政策との関係が取り上げられ、上海・香港・シンガポール・インドネシアの元西欧資本ホテルの経営に当たる金谷ホテル(日光)や万平ホテル(軽井沢)が登場。現地軍との関係や個々のホテルの経営方式で、敗戦後の個人の運命が大きく変わっていくさまを浮き彫りにする。末期にはフィリピンのラウレル大統領が亡命した奈良ホテル(奈良;“ラウレルの間”が公開されている)に匿われ、その時同行した五男(サルバドール;15歳;のちにアキノ政権で副大統領)の手記で815日の様子が紹介される。
敗戦、830日マッカーサーが厚木から直行したのが横浜グランドホテル(横浜;三日間滞在;当時使った部屋は“マッカーサー・スィート”として今も残る;実は1937年このホテルに二度目の妻ジーンとの新婚旅行で滞在している)。供された食事はスープとパンそれにスケソウダラのソテーだったと言う。ホテルでも食材はほとんど無かったのだ。彼はスケソウダラには手をつけなかった。
とりは帝国ホテル。92日戦艦ミズーリーの降伏調印に向かう重光葵はここから出立する。疎開先が日光だったためだ。帰った重光にビールさえ出せないほど、ここも物資が欠乏していた。
98日ついにマッカーサーが東京に進駐、米国大使館で進駐式を済ませて昼食会(食材は米軍が用意)のため帝国ホテル入りする。少し早く到着したマッカーサーは支配人の犬山徹三(長春ヤマトホテルからホテルマン生活をスタート)に東京案内(といっても永田町、霞ヶ関、神田や銀座など)を命ずる。今や天皇以上の地位にある人物と同席してそれを粗相無く行う。どんなときにも平常心を保てる一流のホテルマンだから無事出来たことかもしれない。
以上のようにこの本はあの戦争を中心にしたノンフィクションである。しかしながら終章で内容はガラッと変わる。フィクション、それも芥川賞対象作品のように人間の心の内を探る小説調になっていく。娘が今は亡き母の言動を思い返し、推察しながら“クラシックホテル”との関係を手繰っていくのである。実は、著者は富士屋ホテル創業者の曾孫、母は孫なのである(経営は血族間のトラブルが原因で今は国際興業(故小佐野賢治)の下にある)。母の代まで家族はホテル住まい。外の世界を知らずに育った文字通りのホテル人。高校から東京に出た著者とはいたるところで齟齬をきたすのだが、長年ホテルや旅をテーマに創作活動を続けてきて、やっと母が理解出来るようになる。明らかに母は “クラシックホテル”人なのだと。
この終章で私の期待(クラシックホテルが育てる人と社会を探る)も適えられた気がする。血の通った、良いノンフィクションであった。
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