<今月読んだ本>
1)国防の危機管理と軍事OR(飯田耕司);三恵社
2)世界最悪の鉄道旅行-ユーラシア横断2万キロ(下川裕治);新潮社(文庫)
3)在日米軍司令部(春原剛);新潮社(文庫)
4)「宗谷」の昭和史(大野芳);新潮社(文庫)
5)クラシックホテルが語る昭和史(山口由美);新潮社(文庫)
<愚評昧説>
1)国防の危機管理と軍事OR
選挙権を得てこの方、大方自民党には入れてこなかった。だからといって共産主義・社会主義の信奉者ではない。引揚者と言うことから来る“反体制”気質がそうさせてきたのだ。そんな私でも国防(国家安全保障)については、自民党の主張すら歯がゆい思いを抱いて既に半世紀以上が過ぎた。資源・貿易・金融どれをとっても、熾烈な世界規模の競争が起こっている時、正面から国防を論じ、確たる政策を作り上げてこなかったツケが国力低下に拍車をかけているように感じてならない。特に民主党政権下の二人の首相(鳩山・菅)の国家安全保障観(危機管理を含む)には全く幻滅させられた。
このような認識は私の世代だけでなく、より若い世代にも最近は多くなってきており、憲法改正を含め、この問題を国民的論議の場に持ち出す時期に来ているのではなかろうか(安部首相はそれに取り組もうとした)。その点で本書の出版は時宜を得たものといえる。ただ同種のものと少し変わっているのは“OR(Operations
Research;本来軍事作戦への数理応用が起源;現在は企業経営や政策立案に広く利用されている)”に焦点を当てて書かれていることである。私にとっては“決断科学”に欠かせぬテーマであり、出版以前にAmazonに予約し入手した(書店店頭には置かれていない)。
著者は元海上自衛隊技術将校(一般大学工学部(船舶)出身、一佐、防衛大学教授、工博)で軍事ORの泰斗(おそらく自衛隊関係者で、一般向けの軍事OR解説書・啓蒙書を出している唯一の人)。内容は、国防の危機管理、意思決定の理論、軍事OR概要の3部から成り、第一部、第二部は最終部“軍事OR”の基礎・導入と言った位置付けになる。第一部では現在のわが国を巡る安全保障上の環境と問題点(脅威、国防に関する精神風土、危機・災害における部隊運用とそのシステムなど)を概説。第二部では合理的な意思決定の必要性を、問題に応じた各種数理手法を解説しながら、不確実性の配慮など軍事施策への応用の特異性に言及していく。第三部はORの歴史、各国軍事組織におけるOR適用の実態、自衛隊におけるOR活動、そして軍事ORの三大適用分野;捜索・射爆・交戦理論の概要が紹介される。
第一部、第二部はその分野の既刊のものと共通するところが多いが、いずれも落とし所をORに向けていること、それぞれのテーマに関する著者の思いが込められている点が特色といえる。これらの準備をした上で核心の第三部に入るのだが、ここは当に本邦唯一無二の内容で、ORの生い立ちからその自衛隊での利用実態まで、軍事OR活動が各国における事例も含めて詳細に語られ、内部関係者でなければ窺い知れなかった世界を露わにする。特に最近の自衛隊におけるOR利用・研究が本来の戦闘・戦術支援を離れ、専ら政策策定(特に予算)のツールとして重きを置かれていることに対する著者の批判は圧巻である。「原点に戻り、現場に確り信頼され、利用されるOR活動を行おう!」と言う著者の主張は、軍事に限らず広くOR関係者へのメッセージと言って良い。
さて、この本である。誰に読んで欲しいか。著者が第一部で述べているように、わが国の軍事アレルギーは異常である。世界の大学では堂々と“軍事学”が講じられ、学会などで諸説が開陳される。こうであってこそ健全な、その国に合った国防思想が生まれてくる。それに支えられた軍事組織は真に我々を守るものとして強固なものに育っていく。そのような活動を活発化するために、安全保障に関心が高い社会人のさらなる啓発と一般大学の教養課程や国際関係論専攻者、あるいは官僚を数多輩出する学校で本書が教材として使われることを期待したい。
2)世界最悪の鉄道旅行-ユーラシア横断2万キロ
乗物好きゆえ多くの鉄チャン物を読んできた。そして「こんな本を読みたかったんだ!」と心底感じた本に巡り合えた。これが読後感である。
時は2011年4月から7月(途中切符の入手困難や国境閉鎖で二度帰国)、出発は間宮海峡を挟むシベリアの東端からポルトガルのロカ岬に至る2万9百kmを鉄道で一筆描きする(計画;結局2ヶ所空路と自動車にせざるを得ない)。ロシア領内を、シベリア鉄道を利用すれば比較的簡単にいけるが(これは既に何冊か出ている;著者も試みている)、敢えて中央アジアから紛争の地、カフカスを経るところにこの旅の面白さがあり、広軌・標準軌が入り乱れ、19カ国のお国柄やシステムの違いに戸惑うとことに冒険性を楽しめる。特にカザフスタンからトルコにいたるルートは旧ソ連に属するのだが、独立後はロシアとのスタンスが微妙に違ってきていること、敵の敵は味方のような複雑な国際関係が思わぬ障害となって、行く手に待ち受けている。如何にそれを乗り切るか。このハラハラ感に満ちた解決案とその実行にグイグイ惹き込まれていく。例えば、アゼルバイジャン共和国のバクーを目指す路線では、チェチェン絡みの爆破事件が起きるし、やっと国境までたどり着いても外国人は追い返され、やむなく空路を利用することになる。
二点目の面白さは、著者がただの鉄チャン(鉄道マニア)ではなく旅行作家であることからくる。つまり鉄道ばかりではなく、人や社会(歴史や政治)を観察する目が確りしているのだ。例えば、北京まで来てなかなかウルムチ行きの長距離列車(全寝台車構成)の指定券が取れない。友人に頼んで一旦帰国するが窓口では結局入手できず、ダフ屋から購入することになる。この背景には鉄道職員の組織ぐるみの汚職(指定券を全部抑えて転売する)があることを明らかにしている。この人と社会の観察こそ、旅行記のエキスと捉えている私にとって「こんな本を読みたかったんだ!」という因となったのだ。
他の作品も読みたくなり既に入手している。
3)在日米軍司令部
わが国の国防を担う軍事力は自衛隊と在日米軍である。在日米軍が表に現れるのはほとんど基地問題としてである。安全保障に関わる、より根幹的な話題、特に在日米軍の全体像は余り伝えらないし、組織構成やその位置付け、自衛隊との関係などもほとんど目にしない(合同演習は時々記事になるが)。嘗て占領下に君臨した“総司令部”はどうなっているのだろう。軍事関係の著書を多く読んできた割にはこんな基本的なところを正確に把握していなかった(多分多くの日本人がそうではなかろうか)こともあり手にすることになった。この本を読んで、その歴史的変遷と現状を理解すると共に、一朝有事の際の安全保障策に疑問や不安も顕在化してきた。
在日米軍は、陸軍(約1700名)、海軍(約4300名)、空軍(約13500名)、海兵隊(約16000名、計35,500名弱から成る。海兵隊は米軍独特の軍種なので、これを除いて陸・海・空をみると陸軍が異常に少なく(調べてみると主に座間の司令部要員と沖縄鳥居の電子諜報部隊、それに嘉手納空軍基地内のパトリオット部隊)、空軍が突出している。この数が反映しているのか、司令部は横田基地の中にあり司令官も歴代空軍中将が務めている(第5空軍司令官兼務。副司令官は海兵隊指定席)。そしてこの司令部機能には部隊の統合的な運用を指揮する権限はなく、ハワイに在る上部機構の太平洋軍司令部が作戦指令を行うことになっている。いわば在日米軍司令部は「連絡調整事務所」と言うことになる(本書の中で「指揮系統は複雑きわまる」と表現されている)。
東アジア安定化の要石として、このような位置付けを改善しようとする動きは米政府・軍内にもある。例えば“上がり中将(中将で退役)”を“キャリアーパス中将(大将・参謀総長へのステップ)”へ変えていく動きなどにそれが見られるし(マイヤーズ元統合参謀本部議長)、政府間交渉における役割見直し(外交・防衛関係閣僚との定期交流など)がそれに当たる。しかし、一方で中途半端な存在を合理化して軍の指揮系統をすっきりしようとする動き(究極は司令部不要論)もあり、座間の陸軍司令部が米第一軍の前方司令部として整備が進んできていることなどこの流れともとれる。
1)の“軍事OR”に述べられる“戦後レジーム(左翼思想に基づく体制批判風潮→軍事アレルギー)”によって手足を縛られた自衛隊とこの統一指揮機能を欠く在日米軍によって有事に国民と国土を守る即応体制がとれるのか?なかなか目が離せない問題である。
この本は2008年に単行本として発行されているが、3・11大震災の“トモダチ作戦”における米軍の任務部隊(統一実戦部隊)活動を、自衛隊との協力も含めフォローし、在日米軍司令部の存在がそれに貢献したことを導入部に特記している。著者が「こうあって欲しいとの」との思いからであろう。同感である。
4)「宗谷」の昭和史
著者は本書の中で、敗戦後の日本人に活力を与えたものとして、古橋広之進(競泳;1948~9年)、湯川秀樹(ノーベル物理学賞;1949年)それにこの宗谷(南極探検;1957年)を上げている。実は前二者とは10年近い差があるのだが、私の世代(当時高校生)には納得感がある。壮挙に心踊り、オングル島(昭和基地)に資材と越冬隊員を下ろした帰路、氷海に閉じ込めたれた宗谷の救援に向かうソ連砕氷船オビ号の動きを新聞で追いながら、一喜一憂したのが昨日のことのようだ。
当時から、宗谷が海上保安庁の灯台補給船で砕氷能力を買われて南極探検用に転用されたことは知っていたが、そこに至る数奇な歴史はこの本で初めて知った。
進水は1938年、ソ連通商代表部が発注した3隻の砕氷能力のある貨物船(全長82メートル、総トン数2224、機関は石炭ボイラー!)の一隻としてである。建造者は長崎・香焼島(今は三菱重工の造船所がある)の川南工業。オリジナルの名前は「ボロチャベツ」。しかし翌年第二次世界大戦が始まり、この船がソ連船として活躍することは無かった。本書の第一幕は「何故この船(他の姉妹船を含め)はソ連に引き渡されなかったか?」である。ノモンハン事件停戦後の交渉の中に、この船の補償を求める条項が記載されるほど、一時は日ソ間の重大外交懸案事項だったのだ。
この砕氷船は強固で特殊な船体を持つばかりではなく、カムチャッカの未整備港湾に出入りするため、ソ連側の要求で各種水測機器を搭載していた(川南がこの船をソ連に渡さなかったのは、この能力を海軍が評価し、裏で動いていた可能性がある)。この能力こそ本書第二幕、太平洋の戦いにおける本船(艦)活躍の最大の武器なのである。侵攻する水路の測量、占領した未知の島々周辺の海図作り。南洋諸島へ、ソロモン海へ、アリューシャンへ、自衛のための貧弱な対空兵器を積んだだけの本船が、弾雨の中で黙々と任務を果たしていく姿は感動的ですらある。戦争末期は輸送艦、対潜護衛艦(爆雷自動投下装置がないので人力投下;遠くへ飛ばせない)としても使われる。大海軍と姉妹たちは海の藻屑と消えたが、宗谷は確り生き残った。
やがて終戦、今度は引揚船として声がかかる。樺太や北朝鮮の港湾は氷結するからだ。それが一段落すると、大きな貨物搭載能力(当時海上保安庁最大の船)が必要な灯台補給船の役割が回ってくる。僻地や孤島で待つ灯台守たちへ希望をもたらす船として活躍するのだ。老兵はまだまだ死なない。これが第三幕。
船の寿命は20年と言われている。南極探検の話が出たとき、宗谷にとってその年限は目前だった。当初は候補になっていなかったが、予算、工期そして能力の面でその改造計画(石炭ボイラーをディーゼルに換装するような大工事を含む)が最も有利との結論が出る。それから5年間(1957~62年)回春手術を受けた老体は、南極探検船として初めて晴れやかな舞台に登場する。最も輝いた時代。それが第四幕
これで終わると思った「宗谷劇」はその後巡視船に戻り、北の海で地味な仕事を黙々とこなす最後の15年にもスポットライトが当たる。今宗谷は有明の船の博物館に係留され、船籍は無いものの、2008年には“古希”の祝典が行われたという。
もしこれが人間であれば誰もが「ご苦労様。いい人生を送ったね」と労っただろう。
さて、船を中心に読後感を書いたが、この本はそれ以上に「昭和史」の本である。国際関係、戦争、戦後復興、科学技術政策などがそれぞれの幕の演題となっている。中でも大きなウェートを占めるのは当然ながら“南極探検”である。登場人物は新聞人、政治家、大学人それに役人。地球物理学と言う世俗とかけ離れた(と一般人に思われている)ところで演じられる、利権・権力闘争の醜さ(特に大学人)には怒りさえ感じる。宗谷がこれを知っていたなら「君たちみたいなエゴイストは乗せてやらないよ」といったに違いない。
蛇足;宗谷が灯台補給船だった時代(南極探検船になる以前)、麻布学園中等部の海洋少年団員数人を夏休み中の航海に乗船させている。その中に奥野亨と言う少年が出てくる(毎日中学生新聞に航海記を連載、後年本書執筆のために著者が取材)。日本は無論米国(一時米国駐在;お宅にご招待いただいた)、カナダでも何度かご一緒したことのあるIBM関係者である。ハワイから西海岸まで大型帆船で航海した話を聞いたことがある。半端な船乗りではなかったことを知った。
5)クラシックホテルが語る昭和史
クラシックホテル=戦前からある有名ホテル、との認識で本書に惹かれた。明らかに大衆が利用するところではなかったので、当時の有産・有閑階級の優雅な暮らしぶりを窺うことが出来ると思ったからである。中産階級が膨らむことは社会全体が豊かになることで、全体としては良いことなのだが、それで失われるものも少なくない。クラシック音楽・オペラ・バレーの創作、大作絵画・彫刻、教会・寺院建築、各種モニュメント、庭園・公園などなどは、強力で個性あるスポンサーが在って始めて生まれたと言っていい。往時と今のホテルの違いから社会の違いを推察する。これが期待するところであった。
しかし、この本は “ホテル”より、前著「宗谷」同様圧倒的に“昭和史”にウェートがかかったものであった。
最初に登場する富士屋ホテル(箱根)では大東亜戦争開戦前の戦争回避のための日米交渉が、次の強羅ホテル(箱根)ではソ連を通じた終戦工作が秘かに進めらていたことを、その歴史や地理的関係(周辺に在る有力者の別荘などからのアクセスや機密保持)から語られる。
戦中の話は、満鉄の経営したヤマトホテル(大連・奉天・長春・ハルビン)と対支・対満政策との関係が取り上げられ、上海・香港・シンガポール・インドネシアの元西欧資本ホテルの経営に当たる金谷ホテル(日光)や万平ホテル(軽井沢)が登場。現地軍との関係や個々のホテルの経営方式で、敗戦後の個人の運命が大きく変わっていくさまを浮き彫りにする。末期にはフィリピンのラウレル大統領が亡命した奈良ホテル(奈良;“ラウレルの間”が公開されている)に匿われ、その時同行した五男(サルバドール;15歳;のちにアキノ政権で副大統領)の手記で8月15日の様子が紹介される。
敗戦、8月30日マッカーサーが厚木から直行したのが横浜グランドホテル(横浜;三日間滞在;当時使った部屋は“マッカーサー・スィート”として今も残る;実は1937年このホテルに二度目の妻ジーンとの新婚旅行で滞在している)。供された食事はスープとパンそれにスケソウダラのソテーだったと言う。ホテルでも食材はほとんど無かったのだ。彼はスケソウダラには手をつけなかった。
とりは帝国ホテル。9月2日戦艦ミズーリーの降伏調印に向かう重光葵はここから出立する。疎開先が日光だったためだ。帰った重光にビールさえ出せないほど、ここも物資が欠乏していた。
9月8日ついにマッカーサーが東京に進駐、米国大使館で進駐式を済ませて昼食会(食材は米軍が用意)のため帝国ホテル入りする。少し早く到着したマッカーサーは支配人の犬山徹三(長春ヤマトホテルからホテルマン生活をスタート)に東京案内(といっても永田町、霞ヶ関、神田や銀座など)を命ずる。今や天皇以上の地位にある人物と同席してそれを粗相無く行う。どんなときにも平常心を保てる一流のホテルマンだから無事出来たことかもしれない。
以上のようにこの本はあの戦争を中心にしたノンフィクションである。しかしながら終章で内容はガラッと変わる。フィクション、それも芥川賞対象作品のように人間の心の内を探る小説調になっていく。娘が今は亡き母の言動を思い返し、推察しながら“クラシックホテル”との関係を手繰っていくのである。実は、著者は富士屋ホテル創業者の曾孫、母は孫なのである(経営は血族間のトラブルが原因で今は国際興業(故小佐野賢治)の下にある)。母の代まで家族はホテル住まい。外の世界を知らずに育った文字通りのホテル人。高校から東京に出た著者とはいたるところで齟齬をきたすのだが、長年ホテルや旅をテーマに創作活動を続けてきて、やっと母が理解出来るようになる。明らかに母は
“クラシックホテル”人なのだと。
この終章で私の期待(クラシックホテルが育てる人と社会を探る)も適えられた気がする。血の通った、良いノンフィクションであった。
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