次期メインフレーム(MF)の候補はそれまで使い続けてきたIBM(I)が本命、国産第一人者、富士通(F)が対抗馬、穴馬が日立(H)という位置づけなる。ただHにはFの日本語処理システム(JEF)のような切り札が無かったから、Fを別の角度(国産機)から評価するという面が強かったし、私は本社勤務になるまでHのコンピュータ部門とは全く無縁だった(プロセスコンピュータの情報収集はやっていたが、それは汎用機とは異なる計測制御担当の事業部が主管)。
ここでは次期システム検討が始まるまでの、私の本命(I)・対抗馬(F)の関係を振り返り、最終決定までのプロセス背景理解の一助として紹介したい。
IBMとの初めての接触は1966年(昭和41年)頃、まだ和歌山工場勤務時代である。それまでにプロセス制御用コンピュータ(プロコン)について他社(主に横河電機)の製品について学ぶ機会は何度かあったが、フォートラン言語を学ぶためIBMの研修センター(確か日本橋に在った)に工場の先輩・同僚と出向いた時である。このプログラムは、初の自社専用汎用機(S/360)導入を控え、本社情報システム室が主宰する全社規模の教育プログラムの一環であった。従って、我々研修生がIBMの担当営業やSEと直接接することは無かった。
私がIの営業やSEと本格的に付き合い出すのは、1969年5月建設部勤務になり川崎工場の建設準備が始まった時からである。それまでの川崎工場は石油化学主体のプラント構成だったが、この時は重質油分解装置を含む本格的な精製工場(オンサイト)とそれにマッチするタンクや出荷設備(オフサイト)を建設するもので、言わばグラスルート(更地)に一大製油所を作り上げる大プロジェクトであった。この新工場にはオンサイト、オフサイトにそれぞれIBM-1800(プロコン)を導入することが決し、導入準備(教育を含む)、システム設計、プログラミング、試運転とあらゆる面でIの担当者(営業;NKWさん、SE;KZWさん・SGUさん→KITさん)と一体となって働いた(私の役割はオフサイトシステムのプロジェクト・エンジニア)。
これらの作業が進められている1970年6月半ばから約3週間の海外出張では、1800の生産拠点であったサンホセ工場を訪問する機会もあり、IBMの圧倒的な力を実感もした(1800生産はここからフロリダのボカラトン工場に移設中だったが、顧客受け入れ・研修施設や周辺にあるプロセス関連技術(ガスクロマトグラフ)の研究施設などの設備や人材に触れた印象)。
ただ、この時の日本IBMの営業組織(SEを含む)はMFとは別で、DACS(Data Acquisition &
Control System)営業所が主管していたのでMFの関係者と交流することはなかった。
Iの機械はプロコンといえどもリースベースで導入した。MFがS/360→S/370と発展したように、1800もシリーズ化された次期システムを予測し「いずれは高性能新機種で新たなアプリーションの開発を」と考えての策である。特に第一次石油危機(1973年)以降はその期待が高まるのだが、これといったプラント現場レベルのシステムが出てこない(S/7と言うシステムが発表されるがプロセス用には不適)。この前後1800の需要も先が見え始め、DACS営業所は解消。Iの営業体制は大型機と小型機(主にオフィスコンピュータ;S/3Xシリーズ)に再編され東燃への営業活動はMFの石油担当に一本化される。私がMFと関わりを持つのは1972年からだが(この時は東芝と富士通;本ノート“迷走する工場管理システム”参照)、IBMのMF担当者(YMDさん)と親しく付き合うようになるのはこの再編成以降である。
(次回;私とIとF;つづく)
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