このシリーズ2回目に書いたように、コンピュータ業界で突出したIBM(I)に批判的な考え方はある。そんな中で私が親IBM的な心情を強めていくには幾つかの背景が在るし、一方でIに拠らない意思決定をしたこともある。
Iに対する批判の一つに、プロジェクトをターンキー(ユーザーの望む形に、アプリケーションソフトの開発や他社製品と組み合わせて、直ぐ使える形で納品する)で提供しないことがある。しかし、IBM-1800のユーザーになってみて、確かに契約上はメーカーとユーザーの境界をはっきり分けているものの、実際面ではSE、CE(Customer Engineer ;メンテナンス担当技術者)は顧客の要望に応えるべく、有形無形の問題解決サービスを行ってくれるのだ。
そのことは1969年から70年にかけて、オフサイト(受入れ・出荷・貯蔵・ブレンド装置)・システムを作り上げる際最初に体験している。自社製品でない物(タンクゲージ、出荷制御装置、DDCと呼ばれプラント運転制御用コンピュータ)が沢山つながるシステムには、インターフェースとそれを制御するソフトが必要だが、その設計や適切な業者選びに情報提供をしてくれ、滞りなくスタートアップすることが出来た。
もっと感銘を受けたのは、第一次石油危機(1972年)によって原油価格が高騰、省エネや収率改善が強く求められ、オンサイト(主要生産設備)システムの拡張・強化が不可避となった時である。主記憶容量の倍増、それに伴うO/Sの変更、外部記憶装置の入れ替え(プロコン専用から汎用機用へ)などを約2ヶ月の定期修理期間に行う作業は煩雑を極めるものだった。この時のCEの体制は、専任担当者、地域管理者、機種専門技術者が動員され、献身的なサービスを行ってくれ、大きくプラント運転の効率化推進に寄与した。そこでのCEの働き振りが、その後次期プロセス制御コンピュータシステムとしてIのMFの上で動くACS(Advanced Control System)システム選択の一因になったことは、本ノート“TCS”に詳しく述べた。
しかし、何とかして解を見つけようと努力はするものの、Iが「(自社の製品とサービスで)出来ないことは出来ない」と言うのも確かである。この例は1978年に行った川崎工場の生産管理システムの選定の時に起こっている。この計画は1972年に立ち上げられた、石油精製と石油化学を一体的に工場管理するシステム検討に端を発する。そこでは生産管理ばかりでなくプラント運転の効率化、保全や技術さらには人事・経理など事務部門も含めた人員合理化を図る大掛かりな工場運営の革新を目指すことが目論まれていた。当然当初からメインフレーム(MF)の導入が前提となるのだが、第一次石油危機の到来でそれまでの計画検討は凍結、再スタートは76年に始まる。見直し計画は石油化学、石油精製それぞれが生産管理に絞ってシステム構築を行う構想である。この時期になるとミニコンが能力を上げてきており、MFの下位機種を凌ぐコストパフォーマンスを示すようになっていた。唯一ミニコンに欠けていたのは工場線形モデル(LP)の最適化を解く機能だったが、川崎工場の場合は本社へ出かけてそれを処理することが容易に出来たから、MFであることが必要条件とはならなかった。一方でIは中型汎用機IBM-4300が発表される少し前、一番辛い時期で競札には応じたものの、要求仕様は満たすことが出来ず、導入機種はHP-3000に決まった(このいきさつは“迷走する工場管理システム”に詳述)。
本社転勤前のIBMとの関係は以上のようなことだったから、次期MF検討の話を聞いたとき「IBMで良いじゃないですか」と発言した次第である。このことはMTKさんを通じて情報システム室の一部メンバーに通じていたようで、それが富士通にも伝わり、本人が知らぬ間に“IBMシンパ”のレッテルが貼られていたのである(このことを知るのは数年後であるが)。
(次回;私とIとF;つづく)
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