富士通(F)との最初の出会いは1968年(昭和43年)春になる。しかしこれは直取引ではなく横河電機を介したものだ。当時東燃和歌山工場はOG-2(大崖地区第2期;重質油脱硫関連装置)と呼ばれるプロジェクトが立ち上がっており、ここで精製部門としては始めてのプロセスコンピュータ導入が進められていたのだ(グループとしては石油化学のSPC;高度プロセス制御;が最初)。このコンピュータ制御システムはSPC-DDC(直接ディジタル制御)の二段構成で、下位のDDCは横河電機製のYODIC-500が使われ、大規模なDDC適用としては本邦初のものであった。その上位システム、SPCはこれも横河電機が作り上げたCCS-3000(だったと思う)がDDCとセットで導入され、プラント運転データの収集や高度制御に供されるようになっていた。ただこのCCSシリーズ(2000や8000もあった)に使われるコンピュータは横河製ではなく、3000には富士通製のF-270がプラットフォームとして使われ、その上にプロセスデータを処理する横河が開発したパッケージソフトが載ってDDCと一体化され動くようになっていた(2000は沖電気製、8000はDECのPDP-8がプラットフォーム)。
F-270はIBM-1800から多くを学び、当時のわが国の代表的な科学・技術用コンピュータだったことと横河電機がプラットフォームとして採用していたので、大きな議論を呼ぶことも無く導入が決まった。OG-2コンピュータ導入のプロジェクト・エンジニアの立場でこの機械に関わったものの、アプリケーション開発はPSE(プロセス・システム・エンジニア)のSZKさんがチーフで進められていたので、試運転稼動確認に留まり、F関係者との接触もCEレベルまでだった。
本格的な富士通とのつながりができるのは、1972年秋川崎工場に石油精製・石油化学一体化経営改革組織のシステム開発室(工場長直轄の石油化学の組織)が設立されそのメンバーになってからである。この組織の活動は、Fとの関係も含めて、本ノート“迷走する工場管理システム作り”に詳しく書いているが、メーカー側に東芝・山武ハネウェル連合、富士通・横河連合の二つのチームを作ってもらい、それぞれに最先端情報技術を駆使した工場経営の将来図を我々と一緒に描いてもらうものだった。この“メーカーと組んでの調査・研究推進”には多くの批判があったし、IBMを落としていることにも疑問が投げかけられたが、室長のISDさんは闘魂の塊のような人、断固反対を退けたし、工場長も彼を強力にサポートした。
ISDさんはグループ初のコンピュータ制御システム(石油化学のエチレンプラント効率改善)のプロジェクト・リーダーだった人。その成功はエクソングループの中でも高い評価を得ていた。このプロジェクトのコンピュータ選択に関しては当初IBMも声を掛けられていたのだが、例によって“自社の請負・責任範囲”に拘り彼の心証を著しく害した。一方東芝はGEが提供するプロセスモデルや最適化手法に関する情報提供、求めるカスタマイゼーション要求をほとんど受け入れたので、採用が決まった経緯がある。
次世代の工場運営構想デザインに東芝が選ばれGEを通じて縁のあるハネウェルの子会社山武がそれと組むのは自然な流れだった(数年後ハネウェルはGEのコンピュータ部門を買い取る)。それと比べると、富士通・横河連合は横河のSPCプラットフォームにFの製品が使われているとはいえ、当事者たちの間にも「何故?」の感がある組み合わせ。外野の声は“東芝本命”“富士通当て馬”を流していた。しかし、私の当時の感覚は「(汎用機に関し)富士通はともかく、何故IBMを落として東芝なのか?」と言うところであった。
この調査研究プロジェクトにおける私の役割は“基盤技術グループ”のリーダー。つまりメーカー4社の現状と将来技術を調べ、工場業務改善グループが具体的な改善案を起草出来るようにすることである。Fの汎用機技術に触れる機会がこうして始まった。
(次回;私とIとF;つづく)
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