<今月読んだ本>
1)不屈の弾道(ジャック・コグリン);早川書房(文庫)
2)ミッドウェー海戦、第一部・第二部(森 史朗);新潮社(選書)
3)工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち(今野 浩);技術評論社
4)戦場でメシを食う(佐藤和孝);新潮社(新書)
5)ネジと人工衛星(塩野米松);文芸春秋社(新書)
<愚評昧説>
1)不屈の弾道
最近はめっきり減ってしまったスナイパー(狙撃手)ものだが、久々に新人登場である。作者は元海兵隊の狙撃手、ジャック・コグリンとストリーテラー、ドナルド・A・ディヴィスの共作。軍事サスペンスは兵器技術の高度化に伴い、このような共作が増えており、トム・クランシーも専らこの方式を採って作品を量産している(オプセンター・シリーズなど)。この方式は確かに新兵器の細部をうかがう面白味がある反面、シリーズ化するとストーリーがマンネリ化して飽きてしまう。本書はその点第一作目だから今までのスナイパーものとは違う緊迫感を持続できるに違いない。購入の動機である。
一昔前のスナイパーはヴェトナム戦士であったが、今はアフガニスタンそれにイラクで戦った経験を持つ兵士である。本書の主人公もアフガニスタンでCIAと協力し隠密狙撃作戦を成功させるが、政治・外交上のトラブルに巻き込まれ、CIA不信に陥った過去を持つ海兵隊の第一級狙撃手。数年後、アメリカ軍が平定したイラクで海兵隊准将の一行が何者かの奇襲に会い、唯一生き残った准将は拉致され、シリアに移送される。テロ集団はこの人質との取引をアメリカ政府に求めてくる。動き出す国家安全保障会議(NSA)を牛耳るのは大統領国家安全保障担当補佐官。休暇中イタリアで高性能狙撃銃の試射を依頼されていた主人公は、特殊部隊の一員として急遽、地中海を航行中の空母に空輸され、その銃を持って救出作戦に参加することになる。しかし、ヘリコプター2機による隠密侵攻作戦は着陸直前接触事故で失敗、主人公一人だけが辛くも助かる。
この事件は一見イスラム過激派の陰謀のように見えるが、後ろで動いているのはアメリカの議会・業界で戦争の民営化(傭兵)政策を推進する一派。こんなことは主人公にはまったく分っていないのだが、与えられた命令「准将の救出に失敗したら彼を射殺せよ」に疑念を持つところから、少しずつ巨悪が露見していく。
何とか准将を救出して味方との会合点に急ぐ二人に、今は傭兵となった海軍特殊部隊(SEAL)出身者と元グルカ兵の追っ手が迫る。そこで高性能銃が威力を発揮するのだが・・・。
さて、読後感である。導入部はアフガン、特殊任務にあたる海兵隊の狙撃兵、高性能銃、政府高官の陰謀、政府内の女性協力者(主人公の恋人はNSAのスタッフ)、皆どこかで読んだ様な気がしてきた。そう、本欄42(2012年2月分)で紹介した、スティーヴン・ハンターの“デッド・ゼロ”と同じなのだ!先月の本欄で「あらゆる小説は模倣である」を紹介したが、当にその通りの本であった。原本の出版はデッド・ゼロが2011年、本書は2007年だからこちらが手本と言うことになる。息抜きに読む本としては面白かったので、既に邦訳されている次作も読むことになるだろう。
2)ミッドウェー海戦
あの運命の海戦があってから今年は丁度70周年になる(日本時間1942年6月5日)。それまで向かうところ敵無しだった機動部隊の4隻の空母と練達の兵士が一日で失われ、その後の日本は守勢一方になる。それだけにわが国に限らず、米国においてもこの海戦は太平洋の戦いの転換点としてよく知られているし(ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館の一隅には空母艦橋の一部が再現され、戦闘時の無線や艦内放送が流され、大人も子供もそれに聞き入り、興奮している)、研究もされている。もう書き尽くされたはずのテーマと思っていたところに上下二巻計8百ページの大冊として本書が出版された。まだ何か新しい切り口、情報があるのだろうか?そんな思いで本書を購入した。
この海戦に関する本は随分読んでいるが、一番古いところでは1951年(昭和26年)この作戦に参加した淵田美津雄(真珠湾攻撃総隊長;この作戦でも総隊長を予定されていたが盲腸になり赤城で静養中)と本作戦の陽動(アリューシャン)作戦で空母龍驤に乗り込み、これを側面から観測した奥宮正武(のちに本海戦の戦闘詳報を配布された唯一の航空戦隊主参謀)共著の“ミッドウェー”。この本は父が購入したもので表紙にそのサインがあるものを現在も保有している(写真上左)。中学生になったばかりの頃読んだこの本で「何故ミッドウェー島基地攻撃用の爆弾をそのまま装着して敵空母攻撃に向かわなかったのか?」との疑問と孤軍奮闘する飛龍の姿が今に残っている。当然今回もそこに大きな関心があった(戦記もので記憶に残る最も古い本)。
この本の構成は第一部;知略と驕慢(序章を含めて八章)、第二部;運命の日(終章を含めて九章)の二部から成る。第二部は今までのミッドウェーものと大筋において同じで、米機動部隊の確認が出来ぬままミッドウェー島攻撃隊が離艦するところから始まり、飛龍の沈没までの戦闘場面を詳細に追い、終章;海戦の果てに、で関係者のその後、連合艦隊と海軍の敗戦に対する対応とその敗因分析を行って終わる。私見では、本書が書かれた真の意義は主に第一部(+終章)にあり、第二部はそこで推論した敗北の遠因を、戦術や個人の言動を通じて具体化したものと見る。つまり第一部では帝国海軍、連合艦隊、第一航空艦隊(機動部隊)と言う組織とその意思決定機構の特質、さらにはそれによって作り上げられた作戦計画に焦点を当て、そこに内在した病根(情報軽視と驕り)が明らかにされ、第二部ではその病根から発した問題が、矛盾に満ちた戦闘命令となり、誰もが想像もしなかった大敗につながっていくことを、戦闘員個人レベルまで掘り下げて詳述していく。
負け戦を後から振り返り、あれこれ理由付けすることは易い。しかし本書にはそう一言で片付けられぬ綿密で時間をかけた調査がある。取材活動を開始したのは25年前!今はほとんど故人となっているようだが、聞き取り調査は当時の参謀長(草鹿第一航空艦隊参謀長)やその他の高級幕僚(源田実;艦隊航空甲参謀)・指揮官(淵田美津雄;攻撃総隊長(予定者))に始まり、下士官・兵にまでおよぶ。また、途中で戦史家、秦郁彦氏から膨大な資料提供を受け、氏が米国留学中インタビューした敵将スプールアンス大将の証言なども引用されている。
最も新鮮な情報は、第一航空艦隊航空乙参謀が、著者の執拗な問いかけについ口にした「本日敵出撃の算なし」と言う全軍(連合艦隊司令部を含む)に向けた敵情報告である。このことは海戦直後に書かれた戦闘詳報(現存する唯一の貴重な資料)に一度記載されるのだが、本人によってその後削除されたのだった(著者の「何故?」の問いに「そんなみっともないこと書けますかいな!」;取材に対して“旧海軍の名誉を守るために不都合な事実はすべて隠蔽してしまったと、率直に認めた”)。この状況見通しは航空甲参謀の源田が起案し、首席参謀・参謀長・司令長官の承認を得て吉岡が発するのだが、確たる証拠も無しに、このような楽観的な報を発するほど当時の航空艦隊首脳部が、驕り油断していたことをここから明らかにしていく。これは今までのミッドウェーものにはなかった特ダネである。これによって、その敗因を“運命の5分間(戦後草鹿参謀長が語った言葉;偶々運が悪かった説)とするものがほとんどであったが、“組織としての士気弛緩”が問題視されることになる。
もう一つ私が「やはりそうだったのか」と腑に落ちたのは、著者の山本五十六評価である。この人が理の人ではなく情の人であることが種々の場面で語られ、これが大きな敗因の一つとして浮かび上がってくるのだ(個人的には優れた“平時”のリーダーと見てきた;政治性の高さ;陸軍の方がよかったかもしれない)。敗戦の報告に大和(連合艦隊旗艦)にやってくる南雲長官以下の第一航空艦隊首脳が乗艦する前、連合艦隊参謀たちに向かって「叱ってはいかん!」と抑え、結局責任を不問に付し、第三艦隊の指揮を任せる処置をとる。キング(米作戦部長)やニミッツ(太平洋艦隊司令長官)にこのような甘さは無い。
日本人が仲間内で庇い合ってやっていける時代は既に終わったような気がする。題材は古いが、これからの時代、如何に生きるべきかを深耕する格好の教材として、各界リーダー・管理者候補生に薦めたい。
個人的には、丁寧な調査活動に基づく作風に魅力を感じたので、しばらく著者の作品を追ってみようと思う。
3)工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち
有名大学工学部の内情を種々の角度から、シニカルかつユーモラスに詳らかにする“ヒラノ教授”第3弾である。今回取り上げられるのは大学運営の裏方(否、実力者?)、学科・教授の事務職員・秘書である。事務職員と一口に言っても、文科省からの出向者からアルバイトまで種々あるようで、ここではヒラノ教授に親しく仕えた専任(パート)女性秘書の話が中心である。
私と大学人との関係は、先ず学生時代、その後は社内委託教育、学会研究会、リクルート活動などがあり、しばしば研究室を訪問する機会を持ったが、専属秘書の存在は極めて少なかった。学生時代の早大機械科では学科事務室にプール(おそらく事務員1対3,4人の教授・助教授くらいか?)されているだけで、特定の教授専属の秘書はいなかった。専属秘書に初めてお目にかかったのは京大化工のTKM研究室で「やはり旧帝大は違うなー」と思ったが、後を継いだHSM先生の時代になると奥様がお手伝いをされていた。また1990年代初め化学工学会で講演をお願いした東大経済学部のTCY教授も専属秘書は居らず、連絡は学科共通事務担当の女性を介して行った。旧帝大教授だから専属秘書が付くというものでもないようだ。だからチョッとびっくりしたのは2007年英国での研究活動のため東工大社会理工学研究科(大学院;ヒラノ教授が中心で出来た大学院)の研究生として指導いただいたKJM先生のケースである。入口の小部屋に若い秘書が一人、先生の部屋に中年の秘書がもう一人と計二人いたことである。この他にも数多くの大学研究室を訪れているが、専属秘書が居た記憶はない。海外の大学も、短い期間滞在したカリフォルニア大学(バークレー)経営大学院ではガラス越しに研究室が見渡せる共通事務室に秘書がプールされていた。これらの実態から見ると、パートとはいえ専属秘書を抱えられるヒラノ教授は決して平教授ではない。どうも専属を持てるのは、ある程度の学内実績(特に学校運営)がある上に財源を用意できる人、つまり甲斐性の有る無しに依るようだ。
導入部は教授が学んだ東大の応用物理学科の教授と秘書の話から始まる。当時(1960年前後)は1講座(教授、助教授)に国費採用(公務員試験合格者)の秘書が1名ついたようで、要件は、1.口が固い、2.身持ちがいい、3.頭がいい、こと。自ずと名家のお嬢様(やがて院生や助手などと結婚し、奥様となるのだが)専有ポストだったようだ。
次に紹介されるは博士号取得で学んだスタンフォード大学OR学科の運営事務のシステム。学長に指名された学科主任(指導を受けた教授ではない。大先生は、自らの研究、若手研究者の指導、それに研究費獲得活動)の下に4人の秘書がいて雑務を一手に引き受けてくれるので、若い平教授は教育と研究に専念できる体制が整っていた。ヒラノ教授(まだこの時は院生だが)はここで高校生時代タイプ早打ちコンテスト優勝のスーパー・セクレタリーと出会うことになる。因みにアメリカでの秘書要件は、1.2.は日本と同じだが、3.は(身持ちがいいことではなく)タイプが早いことだそうである。この外国の例ではその後メンバーに加わるウィーンの応用システム分析研究所の秘書との比較が行われるが、そこの秘書を“コンチネンタル・セクレタリー”と揶揄している。つまり“働かない秘書”と言うアメリカ隠語である。
さて、ヒラノ教授の秘書である。帰国後得た最初の筑波大学助教授職は新大学構想で、セールストークでは雑用の無い大学であったにもかかわらず全く支援事務部門が無く、種々の雑用に追いまくられ、それが転学の動機にもなる。やっと秘書が得られるのは東工大に教養担当の教授として迎え入れられ、科研費(3年で8百万円)を手にしたときからである。同僚教授が秘書採用で2人に面接したが、甲乙つけがたいので一人引き取ってくれないかと言う話から名門女子大を出たばかりのお嬢様を週三日(他の日は六本木のブティック勤務)一日5時間勤務の条件で採用することになる。美人で若い秘書。今まで閑散としていた研究室に学生や助手たちが頻繁に訪れるようになる。席の位置を変えたり、衝立を設けたり、気を遣うことしきりである。やがて、それまで規則的に出勤していた彼女がある時から欠勤するようになってくる。国際学会の準備に終われる中での欠勤で教授の仕事は大いに乱される。理由を質すと、最初は学内でのセクハラのようなことを言っていたが、実際は六本木絡みの男の問題であった。この秘書とは結局3年付き合うことになるのだが、総括すると、週平均二日、一日4時間がいいところだった。
二人目の秘書も他大学に移る同僚絡みである。今度は良家出身の成城マダム。ただ家庭環境は恵まれず、現在は夫と離婚裁判中で、子供を抱えて何がしかの収入は必要らしい。この取引?には裏があり転出者のアルバイト・ポスト(つまり収入がある)付きで“ミセスK”がヒラノ教授の二代目秘書となる。結論から言うとミセスKは極めて有能な秘書で、本書の大半はこの人の仕事ぶりや人柄を紹介しながら、大学のあれこれが語られる。
やがてヒラノ教授は60歳の停年(公務員は定年ではない)を迎え、中央大学理工学部に移る。この時の秘書としてミセスKに同道を乞うが既に子供も社会人に成長した今その必要は無く、断わられてしまう。しかし、ミセスKは自分の代わりとして3人目の秘書を用意してくれる。この人もミセスK推薦だけに有能で、同僚から「ヒラノ先生のところは、学生ばかりでなく秘書も優秀でね」と言われるほどのしっかり者であった。ところが義父の介護のためヒラノ教授の下を去っていく。そして4人目は?
学校運営や学会活動のための雑事が、如何に“国際A級”大学教官の本来の仕事である教育・研究活動の妨げになっているかをあらためて本書で実感した。因みに“国際A級”とは定年までに100篇以上のレフリー付き論文を書き(当然大部分は英語)、海外の学会で年2~3回は発表して初めてそう言える。著者は長年難病の夫人の介護に当たりながら、これを達成した一人である。その夫人も定年退職直前亡くなり、今“工学部の語り部”として一人暮らしをしている著者の次作に期待したい。
4)戦場でメシを食う
戦史や戦記、各種兵器の技術解説や発展史、軍事サスペンス小説、軍事・戦争に関する分野は乗り物と並んで最も好みの読書分野である。また旅と食事への興味はそれらに次ぐだろう。しかし、“戦場の食事”となると記憶に残るようなシーンはほとんど無いし(酒は時々ある;特に英海軍もの)、それを取り上げた本など全く持っていない(飢餓シーンは別にして)。今回取り上げた“ミッドウェー”にしても戦闘中に握飯が出てくる程度で、汁もおかずも全く触れられない(戦闘前の酒とつまみは出てきたが)。そんなわけでこの本を目にした瞬間「オッ!」となり衝動買いした。
近代正規軍の場合、缶詰類を中心にいろいろな戦闘食(戦闘糧食が正式らしい;英語ではRation)があるが、前大戦で記憶に残るのは乾パンや鮭缶・大和煮缶などで終戦直後放出品が学校給食などに供された。それに近いものを食したのは1988年灘潮と遊魚船が衝突した日、観艦式を見物するため護衛艦「ひえい」に乗っており、昼食時に食べた、ご飯といわしの蒲焼が詰まった平べったい小型の弁当箱のような戦闘食である。ご飯にはもち米が混ざっており結構美味しくいただいた。旧陸軍の場合、兵隊さんは飯盒を持っていたから缶詰メシではなく、炊飯できる所ではそれで炊いていたようだ(米があり火が使えればだが)。
ロンメルのアフリカ軍団の車両編成を見てみると、戦車や装甲車に混ざって、パン焼き車や厨房車が含まれている。輜重部隊はトラックに食材を積み、戦場の後方で調理して前線に供給していたのだろう。しかし、あの戦いでのドイツ軍の最大の弱点は補給であった。北アフリカは小麦の生産地故パンはともかく他の食材はどんなものが使われ、どのように調達されていたのか不明である。
シカゴの科学博物館には戦時中鹵獲されたUボートが展示されている。隙間という隙間に食料品(パンやソーセージなど)が詰め込まれ、長期航海における密閉空間での食材との共棲を身近に見ることが出来、「一体どんな臭いがし、食べる時にはどんな状態になっているのだろう?」との疑問がわいてくる。しかし、海軍や空軍の食環境は調理を含めて陸軍に比べれば恵まれている。種類や鮮度はともかく一応量は確保できているし、調理する場所もある。
さて、本書である。結論から言うと“メシ”は全く主題ではなく、圧倒的に“戦場”なのだ。その意味では“羊頭狗肉”以上に看板に偽りありである。だからと言って、読後感に不満があるわけではない。この題名が無ければ、メディアで断片的に垣間見る程度の、縁の無い土地々々の紛争の背景・実態を知ることは出来なかったのだから。
その戦場は、ソ連支配下のアフガニスタン、サラエボ、アルバニア、チェチェン、アチェ、イラク(ここだけは陸上自衛隊が派遣されたので他に比べ身近に感じるが)である。それぞれの戦場での思い出に残る食物が取り上げられているのは確かだし、目次の各章のキーワードにもそれらが含まれているのだが、内容は行軍や戦場あるいは紛争の背景で、“メシ(食い物・飲み物)”は刺身のつま、と言うところである。例えばアフガンの場合、冬の峠越えで食する“雪と凍ったナン”と副題がついているが、反ソゲリラの構成員や対立する親ソ部族との戦いを描く中でわずかに登場する程度である。しかし、この時代(1982年)のアフガン反ソゲリラの中に日本人ジャーナリストが居たことだけでも驚きであり、その体験を語ることは、外信の報ずる短いニュースとは桁違いに中身が濃い。アルバニア(長い独裁・鎖国で人々はバナナがどんな物だか知らなかった)しかり、アチェ(スマトラ北部のインドネシアからの独立運動;ココナツミルクカレー)しかりである。各話に共通するのは、食糧確保・飢餓の話が無いことである。それだけ一般人と近いところで戦闘が行われているのだ。普段関わりのほとんど無い国・地域だけに、新知識がふんだんに得られ(だからどうした?と問われると答えに窮するが)、思わぬ拾い物をした感、しきりである。
著者は、いわばフリーの戦争・紛争ジャーナリスト。TV局(日本テレビが多かったようだが、TV、特に民放をほとんど観ない私にはこの本を読むまで、そんな番組が放映されていたことも知らなかった)などをスポンサーに、いろいろな伝を辿って、現地のゲリラや住民の中に入り込み、時には生命の危険に曝されながら取材、これを携帯と衛星を介してリアルタイムで送り出すような仕事を続けてきた人である。当然外務省や国の出先(例えば、イラク・サマワの自衛隊)などには評判が悪く、それ故に苦労も並大抵ではない。その苦労が本書を通じて臨場感をもって伝わってくる。
取材時期は古く、出版も2006年だがここに取り上げられた国や地域は依然として世情不安定な状況が続いているので、その古さを感じさせない。国際情勢に関心のある人には、“メシ”はともかく、お薦めの書である。
5)ネジと人工衛星
機械工学を学ぶ中で実習がある。溶接、鋳物吹き、旋盤・平削り盤操作などなど。旋盤実習ではネジを切ることもやったが、まるで上手くいかなかった。実習担当職員の手さばきの見事さに、ただただ見惚れるばかりだった。いっぱし理屈は知っていても自ら作ることは出来ない。これが大方のエンジニアである。特に機械の分野では“考えること”と“作ること”のギャップが大きいように感じる。それに比べると、化学、電気・電子はこの差が小さいし、数理やソフトウェアは考える人=作る人と言ってもいい。しかし、情報技術の進歩、特に自動化技術の普及・拡大によって、機械の分野でも職人技に頼るところが減じ、考えること(開発・設計)さえ出来ればモノが出来る方向に向かっている。日本が長年(半世紀以上)かけて欧米の技術キャッチアップしたのに対し、新興国のスピードが遥かに速いのは、この自動化技術に負うところが大きい。ものづくりが誰にも出来るようになったことがグローバル競争を熾烈にしている。究極は自動化による無人工場なのか?職人技は不要なのか?否!これが本書の訴えようとするところである。
取材場所は東京蒲田と並ぶ中小・零細町工場が集まる東大阪市の高井田地区、最盛時の半分に減ったとは言え、今での6千を超える事業所がある。その中から13社を選び17人の関係者に取材、その聞き語りをまとめたもの(ほとんど話し言葉)が本書である。
表題の“ネジ”と“人工衛星”はこの地区の製品・技術の象徴として使われているので、“ネジ”はともかく、“人工衛星”はほとんど登場しない。しかし、2009年1月種子島から打ち上げられた雷観測衛星「まいど1号」は、地域活性化を目指して、ここの事業主たちによって設立された、東大阪宇宙開発共同組合が阪大や大阪府大の協力を得て、開発したもので、その高い技術力を証明することになった。人工衛星に限らず、航空機(ボーイングの認定工場がある)、新幹線、新兵器のような先端技術を駆使した工業製品が、ここの技術で支えられているのだ。それもほとんど手作業に近い職人技によってである。
取り上げられるのは、バネ、ネジ、金型(表面処理や金型補修専業を含む)、特殊金属加工、鋳造、球体製造(パチンコ玉から精密機器用まで、金属からプラスティックまで)、リサイクル用破砕・粉砕機など多種多様だが、どこも数人から数十人規模。祖父から父そして息子・娘へと受け継がれていく、家業と言っていい経営規模・形態である。息子や娘の代になると高学歴になるが、大方の人が徒弟制度の下で厳しく鍛えられている。著者の表現を借りれば「(ここで)物を作る人たちは手で考え、それを頭に還元し、疑問を解き、そのなかでひらめきが生まれてくる人種なのだ」という。
共通するのは機械・素材(特に金属)加工が多いこと(電子、ソフトが少ない)、特注品・多種少量(1個まで)生産であること、(コンピュータ内蔵)自動化機器でも個別多種生産のノウハウをプログラム化して使っていること(これは自動化本来の、大量生産とは逆の使い方)など、生き残りのための経営戦略がユニークなことである(競争者の多い、価格競争の場を徹底的に避けている→従って規模拡大を考えない→零細・中小に留まる)。
この経営形態は、3K職場を嫌う社会風潮、大企業の海外移転や新興国(特に、この地の人も意識している中国)台頭の中でどこまで通用するかは大きな課題だが、縮む日本の今後の行く末に大いに参考になるのではなかろうか。狭い製造業の範疇に留まらず、農漁業を含めて日本人の職業民族性に他には少ない(ドイツ、スイス辺りには確実にある)“職人気質”を感じ私としては、商人国家が幅を利かす中で、職人立国の概念を整理するヒントを多々与えてくれた。「わしらおらんかったら、人工衛星も飛ばへんのや」 東大阪のおっちゃんたちの矜持を日本人全体が世界に示せるような存在になりたいものである。
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以上
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