<今月読んだ本>
1)イスラム世界(前嶋信次);河出書房新社(文庫)
2)アメリカが劣化した本当の理由(コリンP.A.ジョーンズ);新潮社(新書)
3)日本の聖域(「選択」編集部);新潮社(文庫)
4)「生きづらい日本人」を捨てる(下川祐治);光文社(新書)
5)ペーターのドイツ鉄道旅行案内(ペーター・エンダーライン);平凡社(新書)
6)PROF(Adrian Fort);Jonathan Cape
7)運命の強敵(ジャック・コグリン&ドナルド・A・ディヴィス);早川書房(文庫)
<愚評昧説>
1)イスラム世界
イスラム世界、日本人にはかなり違和感のある世界である。特に同時多発テロ以降はネガティヴイメージが先行する。たまたまこの読後感を書いている時にアルジェリア・ガス・プラントの惨劇、違和感を通り過ぎて嫌悪感に至っている。
ある程度体系的にイスラムを学んだのは、高校2年のときに選択した世界史の授業においてである。しかし、前史とも言えるササン朝ペルシャ(紀元3世紀)からオスマントルコ崩壊の20世紀初頭まで一通り通したとは言え、王朝や領土、戦争と言う歴史教育定番の点と線に重点を置いたもの。社会や文化が掘り下げられることは無く、アラビアンナイト、細密画、建築などを断片的に記憶に留めただけである。これらが最も栄えたのは7,8世紀から15世紀位の間の中世であるから、時代との関わりは全くないまま、ただ受験のための知識として、この世界とつながったに過ぎなかった。日常生活に偶に出てくるのは「目には目、歯には歯」くらい。つまり
“身近なものではない”。ここが中国を中心とする東洋史や大航海時代を契機に世界、そして近代日本に影響力を及ぼす西洋史とは大きく異なる点であった。この辺りがその時代の日本人の平均的なイスラム観ではなかっただろうか。
事情が少し変わってくるのは石油会社に就職してからである。とは言っても原油探査や生産をしていたわけではないから、中東の人々と直ぐに関わることはなく、関心は専らイスラエルとアラブの対立とそれに伴う国際政治経済問題(つまり原油価格)に絞られており、イスラム社会・文化に向かうことはなかった。一言で言えば「石油以外は関係なーい」である。
しかしこの石油が縁で、やがてイスラム教徒と交わるようになり、イスラム教国(インドネシア、トルコ、バーレーン、イラン)などを訪れる機会も出来、アメリカではあるが教徒(パキスタン人)の家に泊まる体験まですることになる。そんな折イスタンブールやイランの古都、エスファハーンで見たモスクや美術品に触れ、その美しさにすっかり魅せられてしまった。
これらを総括すれば、「“他宗教に寛容ならば(ここが最大の問題点だが・・・。本書に依れば、ユダヤ教やキリスト教に遅れて発したこともあり、当初は他宗教に迫害されこそすれ自らは平和的な宗教だったようだ)”、世界を共に出来る人々」これが私のイスラム観である。
本書を読む動機は水泳仲間が同じ本を二冊買ってしまったことである。私も最近は偶にやってしまう。自分の好み・興味から外れた本を読むのはこんな切っ掛けからで、これはこれで思わぬ世界を知るチャンスになる。
この本は“世界の歴史”シリーズ全24巻の第8巻目として書かれたもので、カバーする時代は3世紀から15世紀まで、この間にイスラムの最盛期が在ったと見ているからである。現代のイスラム世界の存在感から考えれば、尻切れトンボの感を免れないが、原本(ハードカバー)が出版されたのは1968年なので、仕方の無いことかもしれない。この時代日本にとって石油を除けば、誕生の地、中東への関心はパレスチナ問題(それもスエズ運河航行の安全保障問題として)くらいだったのだから。
全体を通すと、教科書同様政権・王朝の変遷が中心になる。権力掌握・継承(宗教・宗派よりは圧倒的に継承争いが多い)のために骨肉相争う凄まじい戦いと陰謀、死者にまで鞭打つ敗者殲滅の徹底は、東ローマ帝国とペルシャ帝国の二大勢力に挟まれながら、そこから東西に布教と覇権と拡大していくための精神的エネルギーの根源であることも窺われるが、今の残虐非道な行動につながる道筋は読めない。
この世界だけに一冊分の紙面が与えられれば権力者以外にも目を向ける余地がある。その一つが女性である。戦いに明け暮れる男は若くして、あるいは男盛りに戦死や処刑で命を落とすものが多い。そのために残された妻や娘が有力者の第二、第三の正妻として迎えられ、次代の権力者を生み育てていく姿が数多く丁寧に描かれる(マホメット自身は20名を超す)。興味本位で伝えられる一夫多妻ではない、一種の社会共済システムが在ったことを理解させてくれる。この他にも、小説家・詩人・声楽家・建築家・科学者などにも話がおよび、イスラム文化が一世を風靡した時代を活写している点は、教科書を離れた新たなイスラムを教えてくれた。
その究極は、この本を読んでいるうちに、いつのまにかヨーロッパや中国が世界の辺境と見えてきたことである(日本はさらにその辺境)。これは日本の世界史教育が西洋史と東洋史で構成され、両者の辺境に位置付けられたイスラム観とは真逆の見方になる。現代世界で存在感を増すイスラムは、このような世界観にあるのではないかと気付かされた。
歴史書は、書かれた時代の世相を反映すると共に(この視点では本書を高く評価することは出来ないが)、それを超えた普遍的なこともあることを学ばされたことが、本書を読んだ一番の収穫であった(それでも著者が現代のイスラムを実見していたら、かなり異なった内容になったのではないかと感じないわけではないが・・・)。
著者(1903~1983)は慶大名誉教授、アラビア語を解し、アラビア語原典から「アラビアンナイト」の日本語訳を初めて行ったオリエント学の泰斗である。
2)アメリカが劣化した本当の理由
国際社会の多極化と指導力の低下、終わらない戦争、過度なポピュリズムで動く政治、不法移民の増加、格差の拡大、銃乱射事件、どんな局面を見ても、かつては憧れの地であったアメリカが、その魅力を失いつつあるのは確かである。
とは言っても依然として国際社会における存在感・影響力は他の国とは比べものにならない。だからこそ米国批判はジャーナリズムの格好の材料となるので、その種の本は巷間に溢れているし、読んできた。そんな中から本書を取り上げることになったきっかけは“本当の理由”と言うタイトルと著者が米国人法学者(同志社大学大学院教授、弁護士でもある)であることによる(ジャーナリストでないこと、特に日本人の;身近な事例に基づく微視的なものが多く、衰退要因を市場依存経済システムに落とし込む傾向が強い)。
本書のテーマは、「アメリカ=民主主義」というのは虚像であることを検証することにある。そして結論は、合衆国憲法がそもそも民主国家を作るためというよりも、一種の条約機構を再構築するために制定されものであり、2世紀以上もったのは、それが理念と理想に満ちたものだったからだが、さすがに老化・劣化が進み、時代に会わなくなってきているのだとしている。つまり、法体系・統治システムにこそ劣化の“本当の理由”があるとする。これは浅学の私にとって目から鱗の新鮮な見方であった。
話は独立戦争前史から始まる。独立を勝ち取った13州は前史ゆえに、決してそこから“一つの国を作る”と言う考えに一気に進んだわけではなく、出来るだけそれぞれの実情に合った自治を望んでいた。つまり現在のEUと同じ状況である。欧州議会が強い統治力を持たないのと同様に、連邦政府の決められることをミニマムに抑えこむことが憲法の根底にあるのだ。不可解な大統領選挙代理人の選出方法(オールオアナッシング方式)、同性結婚が認められる州の存在、銃の保有(当初は国軍は無く民兵)など今日的話題も、もとをただせばこの憲法によるのだ。
州には独自の憲法があり、これに基づく州法が作られるので、時代と伴に連邦法と州法の齟齬が目立つようになっていく。しかし、この隙間を上手く利用することで、連邦政府(大統領府)の権限を拡大する手段がある。それは「各州間の通商を規制する権限(通商規制権)」で、これを拡大解釈すればいいのだ。そしてこの適否を決められるのは連邦最高裁判所(日本の最高裁とは異なり、連邦法と絡まない一般の民事・刑事事件は扱わない)だけなので、ここの権力が極めて高いものになる。政治介入を避けるため(厳密には、欠員補充の任命・承認は政府や議会が行うので、政治が絡むが)の終身制(非行なき限り)を採るものの、政府同様連邦の権限強化に向かう傾向にあるため、結果として民主的でない政策が実施されることになるのだ。
法律や裁判の話はとかく堅いものになりがちだが、歴史や直近の話題を踏まえて、これを理解させようとする工夫が凝らされている点が、本書を読みやすいものにしている。例えば、2000年の大統領選挙におけるブッシュとゴアの接戦である。獲得選挙代理人は限りなく同数の中で、フロリダ州の票のカウントがなかなか固まらなかったことが遅延の理由としてあげられた。しかし、何日もかかるなどちょっと信じ難い。実は、犯罪者の選挙権が各州で異なり、服役後は認められるところと認められない州がある。また、この前科者が他州へ移った時の扱いも違い、ブッシュ候補の兄が州知事を務めるフロリダ州で、他州から転入してきた前科者の選挙権を不当に剥奪したことが事態を混乱させたのだという。犯罪者は貧しい者や黒人が多く、民主党支持の傾向がある。結局、最高裁が最終決定をすると言う前代未聞の方式で共和党候補のブッシュに決まったのである。この他にも、直接選挙が行われない理由(制定時における過度な直接民主主義への警戒心)、選挙人の総数(上下両院議員数(535)+3(ワシントンDC分))と一票の格差問題、最高裁が違憲審査をする権限が、憲法に明文化されていないにもかかわらず、それが慣習化したこと、などを取り上げながらアメリカ民主主義の矛盾を明らかにしていく。
結びは、世界の現役国家憲法のうち一番古いといわれるアメリカ憲法は自慢できるようなものではなく、ここから学ぶものは少ないとしている。
表層的な国際関係(戦争を含む)、経済、社会事象からこの国を見つめることが多かっただけに、この法体系・統治システムの歴史的変遷とその帰結としての現在に視点をおいた見方に、“アメリカってそう言う国だったんだ”と認識を新たにさせられた。
3)日本の聖域
「選択」と言う社会時評中心の月刊誌がある。会員制で年間定期購読のみ。書店やキオスクでは売られていない。発行部数は3万部、日本における各界指導者の数をこのくらいと想定したかららしい。東燃本社時代部・室に一冊位の割合で配布・回覧されていたから上場会社の部長辺りを対象にしていたのであろう。独自のテーマ・切り口が新聞やビジネス誌とは異なる情報を与えてくれ、中身の濃い雑誌との印象を持っていた。“日本の聖域(サンクチュアリ)”は創刊(1975年)以来続いているその雑誌の連載である。一月一対象、わが国の組織(政治、行政、各種団体、業界、学界など)の知られざる実態を暴き、改善の動機を与えようと言うものである。
今回取り上げられているのは、およそ2000年から2007年までの26件である。数が多いので全ての内容を論評することは出来ないので、目次と副題コピーを列記することでそれに代えたい。
第一部
欲望が生み出す闇
・入国管理局 知られざる光と影
・諮問機関委員会 「肩書コレクター」の玩具
・生保「総代会」 こんな「お手盛り」がなぜ許されているのか
・「人工透析ビジネス」の内幕 患者は病院で作られている
・パチンコ業界 警察利権としての30兆円産業
・原子力安全・保安院 経産省はなぜ分離独立を認めないのか
・厚労省の犯罪「ドラッグラグ」 助かる病人を殺している
・創価学会エリート官僚 「池田御輿」をかつぐ高学歴集団
・児童相談所 「父親による虐待(性的;本欄筆者注)」が問題化しないのはなぜか
第二部 とがめる者なき無為無策
・日本最大の機関投資家「農林中金」 サブプライムの汚染どこまで
・学生のいない学校「国連大学」 外務省の裏金作りの道具に
・国営「穀潰し」独立行政法人 これぞ「改革偽装」の典型
・都立松沢病院 荒廃する「精神科の総本山」
・東京高等裁判所 検察べったりの「官僚司法の砦」
・国立大学「法人化」の内幕 「東大+α」以外はなくてもよい
・二千七百万匹「ペット市場」の実態 毎年30万匹が「処分」されている
・日本銀行 問われる「経営の健全性」
・無きに等しい「検屍制度」 見逃される殺人事件
第三部 国民への背信は続く
・厚労省「医系技官」 医療荒廃の罪深き元凶
・瀕死の「国立がんセンター」 厚労官僚が「倒産の危機」に追い込む
・食品安全委員会 役立たず「農水省の植民地」
・日本相撲協会 何から何までカネカネカネ
・企業監査役 海外投資家から不信の目
・NHK 指導者不在のメディア帝国
・交通安全協会 「警察一家」の極めつけの利権
・精神鑑定の世界 これでも日本は法治国家か
この文庫本の出来る過程は、連載記事(2000年~2007年頃)→単行本(2010年発刊)→文庫本(2012年11月)となる。従ってオリジナルと現状には長い遅れがある。その点を著者(雑誌記者・編集者)、出版元も理解しており、それぞれのテーマについて現時点でのフォローアップを行っている。この文庫本の価値はそこに在る。タイトルの“聖域”には“サンクチュアリ”と振り仮名を振っているが、実態は“アンタッチャブル”、多くの問題がその後改善された様子はなく、むしろ肥大し続けているという。
最近のマスメディア(特に新聞・TV)には大いに不満で;つまらぬことを針小棒大に騒ぎ立て、どこも同じ論調で特色が無い、飽きっぽく一つの問題を徹底的に攻めない(思想的に読者を洗脳する意図がある時は別だが;例えばA紙の原発連載記事)、健全な批判精神を失っているように感じる。その点で本書(および「選択」)が創刊時の理念、ジャーナリズムの本来の姿(健全なる批判)、を継続していることに高い評価を与えたい。
4)「生きづらい日本人」を捨てる
日本のネガティヴイメージを連想させるタイトルであるが、昨年から関心を持ち始めた旅行作家、下川祐治の最新作であることで購入した。今まで読んできたこの人の作品は全て乗り物に関するものだったが、それらを通して感じたことは、乗り物以上に人と社会を見る目、描写するところに特色があり、それも文化の違いをことさら大仰にクローズアップするのではなく、普段の生活を好意的に見つめていることである。
これはこの人の人生歴から来ているようで、大学では学生運動に熱中、新聞社勤めのサラリーマン生活を辞めてから、家族も一緒にタイを拠点に東南アジアで数年暮らしており、中国にも数え切れないほど出かけていることに依るに違いない。日本人でありながら、現地の人の視座で日本を見ることが出来、しかも嫌味なく(日本も、現地も)それを語れるところに若いファンがつくのだろう(数ヶ月前、このブログを見た30歳代の国際ビジネスマンに「(お歳のわりに)下川祐治 よく読まれていますね」と尊敬?の眼差しをもって語りかけられた)。
この本では、その東南アジア(沖縄、上海もあるが)で暮らす9人の日本人の生活が、その動機から将来までを含めて紹介される。共通するのは、日本あるいは海外でもそれなりにまともな仕事・生活をしてきた人々であるが、競争社会での神経戦に疲れ果て、異郷に安らぎを覚えている人達の話である。ほとんどの人が30歳半ば過ぎ、一人を除き配偶者や子供はいない。現地での経済的な生活レベルは平均的に中の下くらいと読める。
舞台は、沖縄、上海、シュムリアップ(カンボジャ)、チェンマイ(タイ)2件、ビエンチャン(ラオス)、バンコク(タイ)2件、ホーチミン(ヴェトナム)。
単なる現実逃避ではないのか?本当に日々満足しているのか?経済的に問題はないのか?将来に不安はないのか?普通の日本在住者が感じる素朴な疑問を代弁するように著者が、責めるわけでもなく、日本に対する不満を誘導するわけでもなく、自然体で問いかけていく。著者の立ち居地が同じ所にあるからだろう、答える側も自然体で、歯を食いしばるような雰囲気がまるでないことに、読んでいる側もホッとする。自分ではとても出来ないが、こんな生き方があることは理解できるし、“捨てる”も一応ポジティヴに受け取ることが出来た。
しかし、日々の生活描写の中に、現地の人同士の、生きんがための緊迫したシーンも散見されることから、この“ホッと感”も異邦人ゆえと考えられなくもない。経済発展が進み、これらの人々が時間を経て現地に同化すればするほどこの“ホッと感”も萎えていくのではなかろうか?病(高血圧)を患い、所持金も使い果たした高齢者ホームレス(チェンマイ)の話を最後に持ってきたことは、帯に書かれた<楽><好き><ほどほど>とは異なる暮らしのあることを、読者に伝えようとしているのかもしれない。「一時的に神経は休まっても、別の苦労がありますよ」との余韻を残す一冊だった。
5)ペーターのドイツ鉄道旅行案内
長いこと介護問題があり海外に出かけていない。それも昨年で区切りがついた。ボツボツ何処かへ出かけて見たい。そんな気分の今日この頃である。再開はフランスかドイツ辺りが良い。ドイツは機械技術の国、一応機械工学を専攻した者としては是非その一端に触れる旅にしたい。ならばクルマか鉄道ということになる(出来れば、科学博物館や第二次大戦の戦跡も訪れ、兵器も見たい)。クルマは初めて訪れる国で、いきなり運転する自信はない。東西南北縦横に走り、日本と比肩する正確無比な運行を誇る鉄道なら旅程が大きく狂わされることもなかろう。まだ行くと決めたわけではないが、先ずドイツ鉄道旅行の取っ掛かりにと思い、本書を手にした。
実は“ドイツへ行くなら鉄道”との思いが発したのは約30年前に遡る。それまでも興味深いエッセイを出し、日本エッセイスト賞も受賞した、航空学者佐貫亦男の「ドイツ道具の旅」シリーズ(3巻)を読んだ時からである。この人は戦前東大航空学科を出て日本楽器(ヤマハ)に就職(プロペラ設計)、戦時中はドイツに派遣されており、当時最先端のドイツ航空技術と英米による爆撃を、身をもって体験した経歴を持つ。戦後は気象庁測器課長、東大教授、日大教授などに務め、その間多くの航空物(それに趣味の山登りに関する)エッセイをモノにしている。第一線を退いた1980年代からは、若き日過ごしたドイツの一人旅を始め、その移動手段は主に鉄道だった。テーマが“道具”だから話は鉄道だけはないのだが、それでも鉄道に関することがかなり出てくる。機関車や客車、椅子・ドアー(その取っ手も)などのハードウェアから、時刻表や乗り継ぎの便宜、キオスクにある品物のようなソフトウェアまで、独特の観察眼で見た結果を、達者な筆さばきで書き上げたエッセイは、「こんな旅をいつかしてみたいな」と思わせるものだった。シリーズ最終号は「終わりに近く」と副題が付く。癌を患いながらも旅を続ける哀感が漂う一方、ベルリンの壁が取り壊され、それまで不自由だった東部を巡る機会を得た喜びにも溢れ、ドイツ旅行への関心がいや増した。
「ペーターの鉄道旅行案内」を手にしたとき、先ず浮かんだのはこの「ドイツ道具の旅」だった。あの本にあったように、駅前の旅籠に投宿して、そこを拠点に小旅行をする、こんな旅が出来るだろうか?
第一話「ロマンティック・ラインを行く列車の旅」を読み進むうち「出来そうだな」との感を強く持てるようになっていく。ライン河中流の町、マインツかコブレンツ(ここには古城を利用した連合軍高級将校用の特別捕虜収容所が在ったのではないか?)に宿を取り、左岸を走るICE(特急列車)と右岸を走るRB(ローカル)でひと回りする。両都市の間には有名な古城もかなりあるからIC・RBだけ利用して途中下車もいいし、古城ホテルに泊まるのも悪くない。
ロケット兵器開発の拠点となったバルト海に面するペーネミュンデはどうだろう?ちゃんとハンザ同盟都市をつなぐ路線の紹介がある。泊まるのはハンブルクかリューベック、ロストフもある。
乗り換えの注意事項も懇切丁寧だ。ヒトラーが作戦を練ったベルヒスガーデンの山荘(鷲の巣;現在はレストラン)へ行くにはどうするか?ミュンヘンからEC(急行)でザルツブルクに向かう路線に乗り、途中フライラッシングでRBに乗換えればいい。
東進する連合軍が最も懸念したのはライン河渡河、何故か唯一破壊を免れたレマーゲン鉄橋へはどう行けばいいか?
出来れば西方電撃戦でドイツ装甲軍が進撃したルートを辿れないか(アルデンヌの森近くを通るベルギーへの路線があることが判る;ただしここで紹介されるのは国際急行列車だけなので、ローカル線での行き方は調査要)。
夢の旅は限りなく膨らんでいく。ドイツ語は1年間教養で学んだだけ。すっかり忘れているが、どうやら英語で何とかなりそうだ。いつ出かけられるか定かではないが、とりあえずトーマスクックの時刻表を買って机上計画検討を始めよう。そんな気持ちにさせてくれた。
著者はハンブルク大学文学部日本学科で学び、早大に一年留学後国立教育政策研究所でさらに漢字研究などに従事した日本通。現在はバーデン・ヴェルテンベルク州(州都シュットトガルト;だからシュヴァルツヴァル(黒い森)の案内は特に詳細)観光局ディレクター、自身かなりの鉄チャンと推察する。
6)PROF
これは“今月読んだ本”ではなく“今月(やっと;3年がかりで)読み終わった本”である。“決断科学(暇つぶし?)研究”のためにノートを取りながら読んでいたことが時間を要した理由の一つだが、後半(第二次世界大戦後)、“研究”対象と関わりの無い部分があり、途中で放っておいたことが大きい。
PROFはProfessorの略。チャーチルがオックスフォード大学物理学研究所長であるフレデリック・リンデマンこう呼んだことから彼の愛称(尊称)となった。そしてこの本はそのリンデマンの伝記である。
この男がどう言う人物かを紹介する前に、何故こんな本を読むことになったかを述べておきたい。“決断科学研究”の対象はリーダーの意思決定における数理(広く捉えれば科学)の役割を探ることにある。その中核を成す学問はOR(Operations
Research;応用数理科学の一分野)であり、この発展史を調べるために2007年英国ランカスター大学のカービー教授の下で半年学んだ。その時調査資料として与えられた書物・文献類にしばしば登場するのがこのリンデマンであった。どの資料もOR推進に貢献した、ティザード(本欄-18)、ブラケット(本欄-12)などと対立、あまり評判が良くなかった。曰く“典型的な宮廷官吏”“虎の威を借る狐”“数字の捏造者”などなど。しかし、一方であのチャーチルの個人科学顧問として1920年代から身近に仕え、チャーチルが戦後一端下野し再度返り咲くと再び顧問として迎えられる。単なる狡賢い人間ならば、チャーチルほどの人物がそれを見抜けないはずはない。「一度ORから離れた視点で書かれたものを読む必要がある」これがその動機である。
Frederick Lindemann、英国人とは思えない姓名、おまけに姓の最後はnnで終わる。ドイツ系ユダヤ人(manでなくmann)と思われて当然である(本人はユダヤ人であることを否定し、反ユダヤ的言動もあるが、それを疑う声も本書に出てくる)。ルーツは父アルフレッドの時代に英国に移り住んだドイツ人、専門学校・大学(ベルリン大学)教育はドイツで受けている。英国籍になるのは第一次大戦勃発時。帰国すると空軍に志願、研究所のテストパイロットとして非凡な才能と勇気を示し、それがチャーチルの耳に入る。
戦前ベルリン大学に留学していたティザードと親しくなり、彼の引きで戦後オックスフォード大学クラレンドン物理学研究所に職を得る。この時代テニスを通じてチャーチル夫人と親しくなり、チャーチルとの交流が始まる。
第一次世界大戦は科学戦の始まり。その時海軍大臣も務めたチャーチルはその力をはっきり認識し、戦後の政治活動において、リンデマンの科学知識に次第に頼るようになっていく。当時の空軍力は現在の核にも匹敵する戦略力、空軍政策に関し政敵攻撃・政策提言を科学的にすすめることが政治家の欠かせぬ素養になっていくなかで(大戦間要職に就いていないチャーチルは何とか自分を目立つようにしたい)、チャーチルとリンデマンは親密度を増していく。
空軍省防空委員会を取り仕切る、かつては親友だったティザードとの対立も、空軍戦略の違いから来ている。チャーチルは、空軍省が力を入れる防空(守り)優先が我慢なら無い。防空委員会に何とか影響力を及ぼしたい。そこでリンデマンの登場である。政治力を駆使してリンデマンを強引に委員会メンバーにするところから、防空委員会メンバーの反感を買うことになる。
チャーチルがチェンバレン内閣の海相、そして首相へと権力把握が進むに連れ、単に航空・科学ばかりでなく経済政策にもリンデマンを活用するようになる。リンデマンもその期待に応え(海軍省)統計局を立ち上げ、戦時経済の指針を次から次へと打ち出していく。遂にはPay Master(出納長)と言う閣僚ポストを得て、戦争内閣(限定された閣僚で構成)の一員となり、科学顧問の枠を超えて、戦争遂行に大きな影響力を及ぼしていく。チャーチルは彼の労に報いるため(と言うが貴族院議員にして正規の閣僚に取り立てるためとも言われる)男爵に任じ、以後チャウェル卿となる(さらに戦後子爵)。
独善的な口調、生涯独身(何度かプロポーズするが失敗)、酒もタバコもやらず、趣味はテニス、クロスワード・パズルとチェス、(チャーチルを除いて)親しい友も居らず、いつも山高帽にダークスーツの三つ揃え、終の棲家は大学の教員宿舎。修験者のように自己にも他人にも厳しい男の姿が伝記から浮かび上がる。
軍事作戦の現場に直接関わる科学者・技術者からは批判が多いものの、要素技術・特定兵器開発などを専らとする科学者(例えば、レーダー開発者のワトソン・ワット)からは比較的支持されていることから、決して権力志向の陰湿な人間ではなかったことをこの本で知ることが出来たのは収穫だった。
この本を読んでいる間、偶々大震災があり、その時の理系首相の狼狽振りから、戦時同様科学技術が国内政治や国際関係に影響を及ぼすこの時代、国策決定者を支える科学顧問に関心が移り、チャーチル周辺の科学者・技術者の役割を更に調べ、各国政治指導者のそれと比較してみようかとも思っている。
7)運命の強敵
本欄-50(2012年10月「不屈の弾道」)で紹介した著者(コグリン;元米海兵隊トップランクのスナイパー;ヒストリー・チャネルの「特集:史上最高のスナイパーたち」シリーズに何度か登場、ディヴィス;ノンフィクション作家)の第二作目の作品である。
冷戦構造が崩壊してから、軍事サスペンスの舞台は専ら中東に移り、対する相手もテロ集団になってきている。乾いた世界の狙撃は変化に乏しく、テロ相手では、国家(CIA)対国家(KGB)のような複雑な組織構造から来る多様な人材プロットもままならず、今ひとつのめり込めないところがある。
それを補うために、銃器の飛躍的な機能向上(暗視装置、GPS、レーザー照準、射撃制御コンピュータなど)で読者を惹きつけようとする。このためには軍事技術の専門家とストーリーテラーの組み合わせが必要になる。本書が共著になっている背景はこんなところにあり、軍事サスペンスの売れっ子、トム・クランシーも最近はこのスタイルで多くの作品を出している。
二作目を読んでみようと思ったのは、前回の作品で、定番である銃器の詳細な機能紹介の他に、狙撃手の射撃前後の精神状態の描写に、「これは本物のスナイパーでなければ書けない」と思わせるところがあったからだ。
獲物を仕留めた後、主人公カイルがしばし物陰で身体を震わせ、気分を落ち着かせるシーンがある。スコープで拡大された標的の死の瞬間(肉体に穿たれた小孔が拡大し、内臓物が破壊され、体外に飛び散る;相手の正常な状態をじっくり観察したあと、死に至る表情の変化もはっきり見てとれる)を見るのは、距離のあるところから銃弾を打ち込み敵が倒れるのを目の片隅に捉えながら、戦いを続けるのとはまるで違った心理的インパクトを射手に与えるのだ(上記ヒストリー・チャネルでの発言「人間を仕留めたら、すべては変わります」)。だから主人公のあだ名は“シェイク(震え)”である。
前回の舞台はシリア。ここでの相手は米国の極右政治・経済グループだった。その戦いで主人公、カイル(シェイク)は死んだことになっている。全ての個人記録が抹消された上で、大統領直轄に近い、小規模な特殊部隊(彼のミッションを支援する)か編成され、巨悪に挑む。
今回の舞台はイランである。対する相手は少年時代オサマ・ビン・ラディンに密命(いかなるイスラムの戒律を犯してもいいから、英国社会で優れた人材になれ)を受け、過激組織の一員になるアラブ系英国人。少年はやがて傑出した英海兵隊の狙撃手になる。もう一つの姿は、暗殺者“ジューバ”。
イランが開発中の大量破壊兵器(化学兵器)のフォーミュラ(化学式)を巡って、シェイクとジューバが対決する。イランで、ロンドンで、パリで、アメリカで。そしてスナイパー同士の一騎打ちが・・・。
シリーズ物は分野に拘わらず回数を重ねるに従い、マンネリ感が強まる。それを少しでも避けようとすると、舞台仕掛けが荒唐無稽になっていく。これで緊張感が欠けていき、人気を失っていく。スパイ物の、イアン・フレミング(ジェームス・ボンド)しかり、トム・クランシー(ライアン)しかり。スナイパー物では、本欄でも何度か紹介したスティーヴン・ハンター(スワーガ親子)もその轍を踏む。海戦物で、一時英国で人気の高かった、ダグラス・リーマン、フィリップ・マカチャン(キャメロン)も同様だ。その点では、コナン・ドイル(シャーロック・ホームズ)や一連のジョン・ル・カレ作品はその弊に陥らず、古典として残ることになる(ル・カレは現役で、何と昨年、あの岩波から最新作(訳本)が出版された!)。作家としての力量の差は歴然としている。はたして“シェイク物”はどうなるか?
以上
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