2015年6月30日火曜日

今月の本棚-82(2015年6月分)


<今月読んだ本>
1) カディスの赤い星(上、下)(逢坂剛):講談社(文庫)
2) プーチンはアジアをめざす(下斗米伸夫):NHK出版(新書)
3) 世界で闘う仲間のつくり方(ジェニー・チャン):ダイヤモンド社
4) イベリアの雷鳴(逢坂剛):講談社(文庫)
5) 工学部ヒラノ教授と昭和のスーパーエンジニア-森口繁一という天才(今野浩):青土社
6) イスラーム国の衝撃(池内恵);文藝春秋社(新書)

<愚評昧説>
1)カディスの赤い星(上、下)
1986年の直木賞受賞作品である。あとがきによれば、出版の当てもなく本書を書き上げたのは19776月とあるから、日の目を見るまでに9年、私が読むまでには40年近く経っている。日本人の書いた通俗小説を先ず読まない私が本書を手に取った理由は、今月前半行ったスペイン旅行にある。ガイドブックとは異なるスペインの仮想滞在体験を得ておきたい、そんな動機からである(同時に浮かんだのはヘミングウェイの“誰ために鐘は鳴る”だが時代が古すぎる;スペイン市民戦争)。この本も少々時間を経過ぎた感はあるものの、おそらく現在手軽に入手できる、現代のスペインを舞台にした小説はこれくらいだろう。
カディスはスペインの南西端、地中海の外側、大西洋に面する町だが、今回訪れることになるアンダルシア州に属する。赤い星は本来ルビーだが、名匠(故人)が市民戦争中に作り上げた、それを埋め込んだフラメンコギターである。作品はこのギターを巡るビジネスと国際政治をテーマとするサスペンスである。
主人公は大手楽器会社を得意先にもつ個人広告代理店の経営者(著者自身博報堂勤務、フラメンコギターに惹かれスペインを訪れたこともある。スペイン語も堪能なようだ)。得意先がギター販促のためにスペインから名工(カディスの赤い星を作った名匠の弟子;老人)を招聘することになりその面倒を任される。孫娘(大学で日本語を学んだ)と来日した名工は、戦後来西(スペイン)し、しばらく彼の下に留まった日本人ギター演奏家を探し出してほしいと主人公に依頼する。この依頼には裏がある。演奏家探しは名目で、その演奏家が持ち逃げした“カディスの赤い星”を取り返すことが目的だったのだ。
これに絡むのが楽器会社間のビジネス戦争と日本赤軍や革丸派を模した日本のテロ集団と反フランコ革命を目論むスペインの極左勢力、その摘発に当たるフランコ政権の治安組織。日本人の作品には珍しいスケールの大きさが特色である。
オリジナル作品は原稿用紙約1500枚の大作。出版社から200枚削るように求められ、書き直した単行本を元にこの文庫本となるのだが、上下2巻で合計約千ページ!超大作である。上巻は主に国内におけるビジネス戦争、下巻は舞台をスペインに移して、“赤い星”の行方を追うことと反フランコ闘争が中心となる。従ってスペイン旅行の情報は専ら下巻に凝縮されていた。マドリッドは主人公の動きを地図上で追いながら土地勘作りに励み、グラナダは3次元的広がり(谷を隔てた城塞や古くからの市街地)を紙上体験。カディスを訪れる予定はなかったものの、そこが属するコスタ・デル・ソル(太陽海岸)には立ち寄ることになっていたし、作中で列車を乗り換えるセビーリャも観光スポットの一つだったから、しっかり記憶にとどめた(しかし、残念ながら、現代の新幹線駅は新設されたものだった)。というようなわけで、旅の予備知識入手に関してはそれなりに期待を満たしてくれた。
また、小説としては英米の一流(軍事)サスペンス作家の作品と比べ緊迫感や恐怖感にやや緩い感があるものの(国や大きな組織が背景にないことが影響か?)、外国をテーマにした日本人の作品としてなかなか読みごたえのあるものだった。

2)プーチンはアジアをめざす
ソ連(ロシア)という国の存在を知ったのは194589日の朝である。入学したばかりの国民学校(小学校)は夏休みの最中。のんびり寝ているところを父に起こされた。「ソ連軍が新京(満州国の首都;現長春)に向けてやってくる」というのだ。午後には父は現地召集を受けて、にわか兵士に転じてどこかへ去っていった。8月下旬、町は完全にソ連軍の支配下にはいり、女学生や若い女性が髪を切ったり、顔を汚したりするようになった。12月のある日、用務で散在する社宅巡りをしていた父(幸い終戦後直ぐ自宅に戻ってきた)と遅くなり、凍てついた暗い夜道を帰宅途中、ソ連兵の物取りに襲われたが、危ういところで巡邏中の憲兵隊があらわれ命は救われた。爾来2003年まで私にとって、ソ連は“悪の帝国”であった。
2003年横河電機海外営業本部顧問となり、810日初めてロシアへ向けて旅発った(この時はウクライナのオデッサも訪問している)。ソ連侵攻の夏から丁度58年目のことである。この年はさらに10月、12月と3回も出かけ、12月はボルガ河中流域のクイヴィシェフ(現サマーラ)、その南のノボ(新)クイヴィシェフに在るユーコス石油の製油所を訪問している。ユーコスのオーナー、ホドルコフスキーは反プーチンのオリガルヒ(新興寡占資本家)、やがて彼は拘束されユーコスは潰されるのだが、この時は彼も会社も意気軒昂であった。しかし、英語が達者な横河ロシアのスタッフは皆強烈なプーチン支持で「国家・国民の資産を、ソ連崩壊のどさくさまぎれに私した者」として、陰でホドルコフスキーを糾弾していた。この時代からプーチンが石油資源を国家の管理下に置こうと考えていたのは明らかだし、これが国民の願いでもあった。12月クイヴィシェフ製油所のゲストハウスに滞在中、議会と大統領選挙があり、プーチンが再選、与党も勝利した。横河のスタッフが、顧客であるユーコスの総帥が危ういというのに、喜んでいたのが印象的だった。プーチンの評価は西側(日本を含む)メディアとはまるで異なるのだ。本書の内容もこの時私が体験した、国民の強い支持を受けるプーチン像である。
現在の西側が伝えるプーチンは“かつてのソ連邦再興を目論む狡猾な独裁者”というトーンである。その最もホットな話題はウクライナからのクリミヤ半島奪取であろう。しかし、クリミヤは長くロシア領であって、ウクライナに組み込まれたのは1954年、フルシチョフがロシア・ウクライナ合邦300周年にあたり、憲法手続きを踏まずに行ったことである。ウクライナは国際連合原加盟国(1945年;51ヶ国)の一つであったのだから、これはかなり無理筋な領土再編で、ソ連崩壊時ウクライナは一旦ここをロシアに返還すべきであったのだ、というのがロシア国民とプーチン(そして著者)の考えなのである。著者が追及するウクライナ問題はクリミヤに留まらない。キエフ公国とロシア帝国の関係、ハプスブルグ家とロマノフ家の境界、カソリックとロシア正教の争い、ファッシズムとコミュニズムの戦い、いずれも歴史的に見てウクライナがEUそしてNATOに組み込まれることを是とする、ウクライナ自身と欧米の主張に数々の疑義があることを分からせてくれる。米国はともかく“西欧信ずるに値せず”。これがロシア国民とプーチンに芽生えてきているのである。
プーチンの抱える問題は領土問題ばかりではない。それ以上に大きいのが経済問題である。大国でありながら国家経済は過度に資源に依存している。しかもその資源はヨーロッパ・ロシアから遥か彼方の極東・シベリアにあり、その地に住むのは総人口14千万の内のたった6百万人。この富と人口の偏在は、経済発展著しく、長い国境で接する中国との関係を考えると安閑としてはいられない。西が信頼できなければ東に向かおう、しかし中国への依存度を過度に高めたくないし、労働力は受け入れたくない。技術と資本を持ち安全保障を脅かす恐れの少ない日本に期待するものは大きい。
現代ロシアの数々の国際政治課題を、著者独自の視点から掘り下げ中で注目すべきは、プーチンを支える勢力・人脈の分析である。よく取り上げられる、KGBやレニングラード(大学、市)人脈、オリガルヒ排除に代わり経済分野に進出した“シロビキ”と呼ばれる軍人や政治警察関係者の他に、“古儀式派”という、ロシア正教の異端(正教以前の古い信仰;三位一体説を否定)との関わりが面白い。帝国成立以前から存在し帝政も敵視したため、弾圧の対象になるが国の力が弱まると頭をもたげる。実は「ソビエト(協議会)」なる言葉も、教会設立を禁じられた古儀式派がそれに代わるものとして、革命以前から用いていたところからきているらしい(因みにプーチンの祖父はレーニンのコックだった)。プーチン一族はその古儀式派に属し、現代ロシア保守勢力の多数派なのである。「保守主義;反西欧型近代化;東方志向;ユーラシア主義」「愛国的」「禁欲的」「真面目」が特質で、ソ連時代要職にあった、モロトフ、グロムイコ、ロシア初代大統領エリツィン(首相にプーチンを指名)も家系的にはこの派につながっている。また政界だけではなく伝統的に治安機関や赤軍にも多かったようである。国民の強い支持ばかりではなく、政治エリートとしてのプーチンがここから浮かび上がってくる。この古儀式派の話は、プーチン物で初めて目にしたもので、なかなか興味深い報告であった。
著者はソ連時代からのロシア政治の専門家、プーチンが年に一度主宰する勉強会「バルダイ・クラブ」にも何度か参加し、プーチンと言葉を交わす機会があるようだ。現代ロシアを取り巻く国際政治とプーチンを学ぶ上で、価値ある一冊であると確信する。
2007年ビジネスの世界を去るに当たり横河ロシアのスタッフにその旨メールを送った。そこに満州時代に出来上がったロシア人感とはまるで異なる“親愛の情”を持つように変じたことを付記した。彼らからも暖かい感謝の辞が届いた。本書には西側首脳がボイコットする中でソチ五輪に列席した安倍首相に、プーチンは最大限の感謝の気持ちを表したとある。強いプーチンが存在するうちに、日ロ関係の新たな歩みが始まることを期待したい。

3)世界で闘う仲間のつくり方
特定企業の成功譚、現役時代はよく読んだビジネス書の類である。ビジネスの世界を去ってからは先ず手にすることの無いジャンルである。現役時代目を通したものもMBAの著名教授や経営コンサルタントの書いたものは、一過性でほとんど役に立たなかった。典型は「エクセレントカンパニー」、称賛されたHPIBMの凋落は目を覆うばかりだ。懲りずに今でも、経営書出版社は次から次と似たような本を出しているが売れているのだろうか?
そんな経験が嫌というほどあるのに、本書の広告を見て取り寄せてみたのにはそれなりに理由がある。一つは直近の年金機構や早稲田大学の例に見るように、コンピュータウィルスが猛威をふるい、IT依存社会の不安が高度なアンティウィルス対策をあざ笑うように日々高まってきていること、第二は台湾ベースのこの会社がいつの間にか、世界3大コンピュータセキュリティソフト会社の一つになっていたからである(一時は約500社あったものが淘汰される。他の二つは、マカフィーとノートン)。会社名はトレンドマイクロ、製品名はウィルスバスターである。いずれも日本人PCユーザーにはお馴染みの名前である。セキュリティに限らず、ここまでグローバルに戦っている日本のソフトウェア開発会社は残念ながら皆無である。
トレンドマイクロ社は1988年カリフォルニアで産声を上げた会社である。創設者は3人;スティーブ・チャン(CEO)、ジェニー・チャン(スティーブの妻;本書の著者;当初は主に人事を担当)それにジェニーの妹エヴァ・チェン(CTO;技術担当役員)。いずれも台湾で大学教育まで修め、米国に渡って修士課程に進んでいる。スティーブの専攻は大学・大学院とも応用数学・コンピュータサイエンスだが、ジェニーは中国文学、エヴァは政治哲学・経営学である。設立時コンピュータに精通していたのはスティーブのみ、そこから後の東証一部上場会社が育っていくのだから台湾人の特質、米国の起業環境は日本国内で日本人だけで起業するのとは大違いである。本書の読みどころの一つはここにある。
もう一つは、企業経営における、日・台・米の違いである。米国に永住権を持つ台湾人の会社が何故日本で飛躍のチャンスをつかんだのかという点である。彼らの発展の切っ掛けはインテルとの提携にあったのだが、その肉食人種的な経営手法(数字と賞罰による管理)に次第に馴染めなくなっていく(MBA経営批判が随所で語られる)。彼等との販売契約で欧米はインテル、アジアはトレンドマイクロとなっていたことがあり、好調の日本経済の下ビジネスは順調に伸びていくので、東京にもオフィスを構え、来日する機会も多くなる。すると何故か気持ちが落ち着くのだ。スティーブとジェニーは生活の場も東京に移し、日本市場に注力、やがて初の株式公開のチャンスをつかむことになり、これがNASDAQ上場につながっていく。この台湾人から見た、米国と日本の経営比較は極めてユニークで本書を際立たせる。
しかし、これら以上に著者が紙数を割いている(中国文学専攻者として薀蓄を傾ける)のが、多国籍企業(インテルとの提携は解消し全世界を対象とするようになる)としての企業文化創出についてである。それはやがて自らを世界初のCCOChief Culture Officer;最高文化責任者;文化長)と名付けるほど著者の専権事項になっていく。新企業文化を象徴する言葉は;Change(変化)、Collaboration(協力)、Customer(顧客)、Innovation(創造)、Trustworthiness(信頼);略して“CCCiT”である。ここには直接的な経営事項ばかりではなく、慈善奉仕や文化芸術支援なども含まれる。ただこの部分は個人的にはやや冗長すぎる印象をもった(飛ばし読みした)。
いまや創業者3人の内、スティーブは完全に会社経営から離れ、著者もCCOに専念し直接経営責任を負う立場にはない。一人エヴァが二代目CEOとして残るに過ぎないが、会社経営は順調(中国市場の伸びもあり)に行っているようである(現在の東証株価4300円。5年前に比べ1800円アップ)。
成功者の回顧談的内容無きにしも有らずだが、ほのぼの感が残る点で、一般のビジネス書とは異なる読後感を持てた。

蛇足;私もウィルスバスターのユーザーの一人であるが、この会社の電話サービスを高く評価している。電話接続応答が自動音声応答ではなく、初めから人間が対応してくれる。その対応の仕方も丁寧で気持ちがいい。

4)イベリアの雷鳴
1)と同じ作者による、第2次世界大戦におけるスペインを舞台にした諜報戦を扱った作品で、これ以降“イベリアシリーズ”として代表作になっていくものの第一作である。スペイン旅行から戻ってそれを反芻する楽しみを味わうのが第一の切っ掛けだが、テーマが好みのスパイ物であることとも読もうと思った動機である。“お手並み拝見”と。
時代はナチスドイツのポーランド侵攻から翌年の西部戦線電撃戦でフランスが席巻され、英国上陸作戦実施目前の時期。舞台はスペインである。ドイツは市民戦争でフランコ政権実現に大きく貢献、その代償としてスペインを何とか枢軸側にひき込み、対英戦のカギを握るジブラルタルを狙おうとする。しかし、フランコは非交戦国宣言(中立に近いが、物資補給などは戦争当事国に行う。このケースの場合は対独支援)まで行うもののそれ以上踏み込まない。この状況を変えるべく暗躍するのが、ドイツ側では国防軍情報部(アプヴェア;カナリス機関)、英国側では秘密情報部(MI-6)である。しかし、主人公は日系ペルー人の宝石商北都昭平、実は中野学校出の陸軍将校である。潜入目的は欧州戦線の情報収集。独ソ不可侵条約で一時中断していた三国同盟交渉再開に向けて陸軍上層部の一部が、駐在武官では限界のある裏情報を求めての工作である。これに絡むのが、アプヴェアと諜報戦の主導権を争うナチス親衛隊保安部(SD)、フランコ暗殺を目論む共和国派残党、それを取り締る治安警備隊。史実も適当に利用され、舞台仕掛けは英米のスパイ物に見劣りしない。“ガディスの赤い星”では緊迫感や恐怖感(凄み)に物足りなさを感じた。これは背景に強力な組織がないことに一つの因があるのではないかと推察したが、今度はその点で申し分ない。
がしかし、である。やはり読後感は同じであった。何か登場人物全体優しいというか、甘いというか、あるいは薄っぺらく、サスペンスものの肝である怜悧で凄みのあるシーンが現れないのである。著者は、物語の構成は上手いが人物考察・描写が不得意なのかもしれない、そんな思いが残る作品であった。「限界かなー」と思わないではないが、題材が日本人作家には稀なものであるので、あと一、二作読んでみるつもりである。

5)工学部ヒラノ教授と昭和のスーパーエンジニア-森口繁一という天才-
本欄で何度も登場している“工学部ヒラノ教授シリーズ”第9作目(“ヒラノ教授”と題したものはこれ以外に2作ある)である。プロの創作作家ではない著者によるシリーズ物の小説?(著者は“セミ”フィクションと称している)がこれだけ続くのは珍しい。自らの体験に基づく内容だけに、登場人物や話題には重複するところもあるが、主題は異なるのでその都度添えられる副題を積極的にを意識しながら読み進むことが面白味を味わうためのカギとなる。今回のテーマは大学時代の恩師森口繁一東大教授である(それ以前のテーマ;周辺に在った大学人、大学行政、事務方・秘書、海外留学・研究、学内不祥事、家族など)。
森口先生には現役時代、社内も含め何度かお会いしている。すべてOR学会関係の催しで、いつも上司の情報システム部長(企業人として初期のOR普及活動に貢献)と一緒の時だった。コンピュータ科学(特にソフトウェア)・ORの世界では既に日本を代表する権威・著名人であったが、東大教授にありがちな権威主義的なところのまったくない、若輩にも親しみやすい方だった。つまり私にとっても身近な人物が今回の主人公なのである。また伝記は好きな分野で外国の大学人なども読んできたから、その点でも本書に惹かれるものがあった。
人物をテーマにする作品の書き方には各種のスタイルがある。個人通史としての伝記(歴史中心)、何かの分野で頂点を極めるまでトピックスをつないでいくもの(地位・業績中心)、人となり(性質や人格形成、対人関係)を掘り下げるもの(人間中心)などがそれらである。無論一つの視点だけで一貫するものは少なく、これらが相互に関連しつつ描写されることが多いことはいうまでもない。本書もその点ではいずれの角度からも森口像が語られるが、整理すれは人間中心に(工学部)大学教授とは何か、ということに重点が置かれている。教育者・研究者・エンジニアとしてのそれである。
教育者としては、教える目的をどこに置くか、どんな教え方をするか、教え子の将来をどう考えるか、研究者としては、研究目的、研究テーマの選び方と進め方。エンジニアとしては、研究成果の生かし方、などが取り上げられ、内外の関係者との相違をクローズアップする。
ここで読者として強く印象付けられたのは“実用化重視”と“人材育成に関する責任感”である。工学部の教授であれば誰しも実用化に力を注ぐものであるが、それでも真理の追究(細部の過度の掘り下げ)あるいは哲学(課題への取り組み方針、考え方)をより重く見る人は決して少なくない。そして“学者”としての評価はこちらの方が往々にして高いことがある。この違いを著者はエンジニアと一体化した教育者・研究者として敬意をこめて披瀝しながら、一方で学者としての評価を、批判者を実名で登場させ生々しく伝える。道を通すこと(実用化の目途)には情熱を傾けるが、あとの舗装は他に任せ、更なる未開の土地開削に挑戦するタイプなのだ。
もう一つの、後進指導に関する責任感では、博士育成や就職における誠意ある取り組みにうたれる。ヒラノ教授も将来像は大学教授、当然博士課程まで進むことを希望するのだが、修士課程まで面倒を見てくれた森口教授から「ポスドクの処遇を考えると、博士課程は3年に一人くらいしか採用できない」と断られる。これは一見冷たい扱いのようだが、一流研究者の需給関係を考慮した誠実な回答なのである。また、ヒラノ教授の修士課程修了後の就職に関し、研究課題をより生かせる職場を希望する若者のため、奨学金を提供してくれていた企業に詫びを入れることまでしてくれる。さらに、後年停年近くになると「自分が現役でいる内に論文博士を取るように」と助言し、それを実現させる(ヒラノ教授は既にスタンフォード大でPhDを取得していたが、当時の文部省の評価は日本の大学の博士号により重きが置かれていた)。この博士号に関しては本書中にも同じ学科の酷い話(課程途中の弟子を残してさっさと退官してしまう)が紹介されるし、私自身も政府委員などを務める有名教授ながら、一人も博士を誕生させず停年退官した人を知るだけに、大学人の鑑と感じ入ってしまった。
愛(まな)弟子が書いた作品である。当然バイアスはかかっているであろう。しかし、近くで接した人でなければ知ることのできなかった世界を通じ、20世紀末期我が国を技術大国の先頭ランナーの一つとなるべく導いてくれた巨人の生き方を書き残した本書は、読み方によって、新世紀における新たな技術立国をめざす力を覚醒させる素材に満ちたものでもある。工学を目指す者、若い工学者、エンジニアに是非薦めたい一冊である。

6)イスラーム国の衝撃
本書初版の発行は本年120日、ISIL(イスラム国;以下ISと略す)による日本人処刑数日前である。何ともタイムリーな出版である。私が購入したのは2月初旬。130日発行の第3刷になっていた。この売れ行きは凄い!これだけ見れば、際物で稼ぐジャーナリズム(出版物・著者・出版社)の典型のように感じる。しかし、私の購入動機は「今ホットな話題だから」ではなかったし、著者もそれを期待していたわけではないことは読んでみればすぐわかる。
私が今月まで寝かせておいたのは、あの事件を「おっちょこちょいの目立ちたがり屋が一攫千金も期待しながら犯した自業自得、フォローするほどのことではない」ととらえ「雑音が消え、ほとぼりが冷めてから落ち着いて読もう」と考え、「この著者ならそれで内容が古く感ずることはないだろう」と推察したからである。この推察はピッタリと当たった。新聞・TVに代表される、表層的・煽情的な雰囲気におもねるものではなく、長年の専門分野研究(イスラム政治史)に基づく、ISを巡るイスラム過激派の歩みを丁寧に追い、今後の課題(更なる発展拡大の可能性や世界への影響)を予見するものだった。
話は、過激派指導者の経歴や言動、“カリフ制”“ジハード”などイスラム史上の用語解説から始まり、911以前のアル・カーイダやアフガンのタリバン政権から過激派活動を説き起こす。例えば、カリフを名乗ることは全世界のイスラム教徒指導者を宣言することであり、今までの過激派や宗教政治を国是とする国にも無かった主張であることをその歴史を踏まえて概説する。また911後の指導者・組織攻撃で崩壊していた地域支配は一旦分散化・ネットワーク化の方向に向かっていたものの、イラク戦争やアラブの春の影響で国家の統治力の及ばない地域が各所に発生、ISのような広範な地域支配が再現するまでの過程を明らかにする。つまりこの段階ではISに留まらずイスラム過激派の全容を歴史的・思想的・政治的背景も含めて俯瞰させて見せるのである。
次いで、ISに焦点を合わせ、イラク戦争後の国内政治混乱(シーア派とクルドの棲み分けとスンニ派排除)とアラブの春によるシリア国家統治力の低下がIS誕生につながり、現政権に追われたフセイン政権下の支配層(特に行政、軍事の専門家)がその発展を支え、戦闘からの避難域としてシリアが利用され、国際関係を複雑化させていることに注視する(例えば米国とイラン、シリアとの連携)。この部分は本書の肝であり、著者の専門領域でもあるので、新鮮な知識を多々得ることができた。
第一次大戦後無理やり引かれた国境線、弱まる国家の統治空間(それに勝る宗教・部族意識)、希望なき若者の聖戦戦士志向、米国覇権の希薄化。ISの存在はこの地域ばかりではなく、世界に不安を与える、眼を離せない存在になってきていると本書は訴える。先週には、フランスで、チュニジアで、クウェートで、ソマリアでIS絡みのテロが発生、60名を超す犠牲者が出ている。幸い日本人被害者は居なかったが、人道派気取りの自称ジャーナリストはともかく、一昨年のチュニジア日揮事件に見るように日本にも無縁ではないのだ!
ISに関する本はこれが初めてだが、歴史的・体系的理解ができる優れた入門書と評価できる。今後の利用のために索引が欲しかった。

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2015年6月27日土曜日

魅惑のスペイン-2


2. バルセロナへ
訪問先をアンダルシア地方に重点を置き、あとはマドリッドとバルセロナの2大都市に絞り込んで旅行会社のプランを調べていくと、基本的に時計回り(バルセロナ→アンダルシア→マドリッド)かその反対になることが分かる。この条件にAVE(スペイン新幹線)乗車を加えると、バルセロナスタートにほぼ決まってしまい、あとはスペインまでの航空路をどう選ぶかくらいが残る選択肢になる。スペインで費やす時間を少しでも多くとるためには直行便が好ましいが、現在イベリア航空も含めてそれは無い(日本法人なし)。少し調べてみると国家財政が危機的な欧州の国(PIGS;ブタたち;ポルトガル、アイルランド、ギリシャ、スペイン)へは見事に直行便がないことが分かった。ここから類推されるのは、ビジネス(クラス利用者)の無い所へ直行便は飛ばない、ということである。観光客は航空会社にとって考慮外の存在なのである。
ではどのように行くか?ロンドン、パリ、フランクフルト経由が多く、これにローマ、アムステルダムさらにはヘルシンキ経由などがある。フィンエアーを利用するツアーは成田・ヘルシンキ間はビジネスクラスでも他会社のプレミアムエコノミー程度の料金で行けるのでチョッと魅力だったが、あとのフライト(ヘルシンキ・バルセロナ間)はエコノミーでより時間もかかるので避けることにした。結局決まったのは、BA(英国航空)をヒースローで乗り継ぐプログラムになった。帰りはマドリッドからロンドンまでイベリア航空(英国航空傘下)になるが同じくヒースロー経由である。
一昨年南仏ツアーで困ったのは、その旅が催行定員(10名)を満たして実行されるかどうかがギリギリまで決まらなかったことである。パリで延泊も予定していたがそれも固められないのだ(結局9名で実施された)。それもあり、今回は最低催行人数2名からのものを選んだ(他は15名)。これなら我々二人だけでもプランを変える必要は生じない。結局66日朝集まったのは14名。多くもなく少なくもなしといったところである。引退高齢夫婦が3組(おそらく我々が最高齢)、新婚2組、比較的若いDINKSDouble Income No Kids)夫婦1組それに母娘1組である。添乗員は推察年齢30代後半、体格の良いSSKさんという女性。次第に分かってくるが非常に諸事に優れた添乗員であった。
1055分発のBA0006便、座席は前回のツアー(エールフランス)でプレミアムエコノミーを利用してみてコストパフォーマンスはこれが一番(座席は現役時代利用したビジネスクラスに同等、食事は基本的にエコノミー)と感じていたので、今回も同じにした。しかし機内に乗り込んでがっくり、何と4掛けの中2席である!2名催行で随分早くから申し込んだにもかかわらずこれである。多分土曜日発でビジネス個人客が多かったからだろうか(帰路は金曜日の昼出発で窓側・通路側2席だった)。これでは実質エコノミーと変わらない。実は乗り込むときからエールフランスのときと違っていた。あの時はチェックイン・搭乗もビジネス客扱いだったが今回は完全にエコノミーと同じだった。この辺り航空会社で違いがあるようだ。12時間半のロンドンまでの飛行はトイレのタイミングに気を遣いながらの長い道中、起きている時間は「もう決してBAのプレミアムエコノミーは利用したくない」こんなことばかり考えていた。ロンドンには定刻通り1530分着(現地夏時間)。そこからバルセロナへの乗り継ぎは2時間弱、入国審査はスペインだがセキュリティチェックは厳しく結構時間がかかる。我々の搭乗機は小型のA-320だが隣には総2階建てのA-380が駐機している。目を見張る大きさだ。定刻にゲートは離れたが滑走路混雑で離陸は1750分、機内で粗末な夕食(サンドイッチ、菓子パン、パック入りジュース)が配られる。2時間程度のフライトでバルセロナ空港着。入国審査は書類申請全く不要(事前に用紙を配られていたが)、簡単この上ない。EUに違法移民が大量に流れ込むわけである。
現地ガイド(WKBさん;日本人女性)によれば目下サッカーのヨーロッパチャンピョンリーグがベルリン行われており、バルセロナが勝てば3冠(スペインリーグ、国王杯、ヨーロッパチャンピョンリーグ)達成となるので、夜中に近くで騒ぎがあるかもしれぬとのこと。20時半頃ホテル アベニダ パレスにチェックイン。欧州風の雰囲気がいい。
荷ほどきを済ますと直ぐに表へ出た。ガウディの作品の一つバトリオ邸が直ぐ近くに在り、ライトアップを行っていると案内があったからである。それに水やビールも欲しい。
ホテルへの帰途、クルマが一斉に警笛を鳴らしている。バルセロナFCが勝利したのだ。

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(次回;バルセロナ)

2015年6月23日火曜日

上州・信州山岳ドライブ-7


6.小布施
小布施町に寄ろうと思った動機は二つある。一つは2008年夏、十日町から飯山を経て白樺湖方面に向かって走っている時通りがかり、街道沿いの古い街並みの保存状態を目にして、記憶に残っていたこと(松之山・蓼科グランドツーリング;200882日本欄投稿)。二つ目は昨年知人の紹介で知り合った「そうだ、トマトを植えてみよう!」(今月の本棚-7120147月)にブログアップ)の著者大塚洋一郎さんの開いた農商工連携6次産業(農産物の生産=1次、加工=2次、流通=3次、合計6次)に関するセミナーで、ここの町づくりの話を町長から聞く機会が在り、興味があったからである(因みにこの時のもう一人の講演者は小泉純一郎元首相であった)。
信州中野で国道403号線(谷街道→大笹街道)に入り15分も南下すると、道の両側は統一感のある古い民家や商家が続くようになり、江戸時代に戻ったような雰囲気になっていく。南信の馬篭宿や妻恋宿に似ているが、そこを国道が貫く点で見世物ではなく生活感に満ちているのが良い。予め中心部の町営森の駐車場をナビにセットしておいたが、収容台数が少ないにもかかわらず運よく駐車できる。4時間以内なら300円。駐車場管理事務所は観光案内所も兼ねており、散策用の地図が用意され、管理人が丁寧に説明してくれる。あとのスケジュール(特に善光寺参り)を考えると、徒歩では少し距離のある6次産業センターやフローラルガーデンはパスせざるを得ないようだ。
駐車場を出て先ず街道に出て南へ歩く。当然と言えば当然なのだが、大部分の商店は土産物屋、飲食店、名物の栗を材料にした和菓子店、専ら観光客相手の店がほとんどだ。東へ入る小交差点に交通整理の人が居る。聞けばその奥の欅の大木が在る広場が、街歩きの中心点だと言う。近くに北斎館(美術館)やカフェテラス、大型バス用駐車場が配置されていて、観光客が集まっている。我々もしばらくカフェテラスで人の動きを観察しながら、昼食を含めて3時間程度の行動計画を考えてみる。北へ向かう“栗の小道”、次いで“(個人住居の)オープンガーデンを巡る散策路”、“北斎館”、いくつかの“和菓子店”、それに昼食くらいで時間はいっぱいのようだ。
表街道の一見江戸時代風から徒歩行しかできない小路に入ると、昔のものがそのまま上手に保存されている(見えないところで近代技術が使われているのだろうが)。暑さを増す日中、影が多いのに助けられる。オープンガーデンは少し中心部を離れると、立派な庭園が拝見できるようだが、町中はささやかな小庭園や道沿いの植え込み程度でチョッと物足りない。歴史を誇る銘菓店はどこも外見は時代劇に見るような大店風だが中はいたって現代風。菓子によっては冷やしたり、日持ちを良くするために缶詰や特殊包装になっているのだから、この辺りのバランス感覚は決して悪いものではない。ただ産地だからといって決して安くない(というよりもかなり高価)ことに驚かされた。そんな店の一つでお土産用に“栗かのこ(栗きんとんと同じようなもの)を求める。北斎館を除いて見所を一巡した後、広場に戻り、近くの食堂で“栗ごはん定食”をいただいた。
最後の訪問場所は“北斎館”。小布施と北斎の関係は、晩年この地に住んで、画業の集大成を図ったことによる。赤富士や神奈川沖浪裏代表的な版画ばかりでなく、肉筆画や祭りの屋台装飾の作品なども展示されており、版画ファンとして種々の角度から北斎を学ぶことが出来た。街並み保存は随分見てきたが、日常生活との共存と言う点でここはなかなか高い水準にあるといえる。

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(次回;善光寺)

2015年6月20日土曜日

魅惑のスペイン-1


1. 何故スペインへ?
2007年ビジネスマンをやめてから、1年に1回は海外旅行をする予定にしていた。初年度は英国に半年滞在、翌年は北イタリアに友人たちを訪ねる旅をした。しかし、その後は家内の両親の超高齢化により、しばらく中断せざるをえなかった。再開したのは2013年の南仏・パリ旅行。この時初めて成田から添乗員の付くツアーに参加したのだが、個人旅行に比べ、とにかく移動が楽なことに格段の差があった。知人もいない、特別個人的な関心事が無い国(仏には個人的な関心事があったが、すべてパリで済ませられるので、ツアーの後延泊した)にはこの方が、経済的にも肉体的にも遥かに望ましい(精神的には何か物足りなさが残るものの)。
昨年も年初には秋のヨーロッパ旅行を考えていたが、家内の白内障の手術で見送らざるをえなかった。今年はそれを取り戻すためにも晩春か初夏にはどこかへ出かけたいと考えていた。残る最大の関心国はドイツなのだが、ここはあまりにもやりたいこと訪れたい場所が多く、なかなかいい案がまとまりそうにない(どんなツアーでも一回では無理、一度ツアーで出かけ、誰でも出かける観光名所を訪れ、ある程度土地感をつかんだ上で、多分一人で再度出かけることになりそうだ)。ドイツを除けば北欧にはほとんど興味が無い。その結果浮かんできたのが南欧である。
太平洋戦争に負けて輝いて見えたのはアメリカ、明治維新以来我が国近代化に深く関わったのは、英・仏・独。我々以前の世代が強い関心を持ったのはこれらの国々であろう。これに近隣の大国、中・露と鉄砲伝来のポルトガル、鎖国時代唯一通商関係のあったオランダあたりが中学生までに何がしかの知識を得ていた外国である。
しかし、高校で世界史を学んで外の世界が一気に広がる。ヨーロッパ文明の起源、ギリシャ・ローマ。時代を下ってスペインの偉大さ、欧州における特殊な歴史に惹かれるものがあった。スペインの偉大さは何と言っても英国に先駆けて“日の沈まぬ帝国”を作ったこと、特殊な歴史は西欧には珍しいイスラムとの深い関わりである。ギリシャ、ローマは既に出かけている。「よし、今回はスペインにしよう」 そう決すると別のことにも興味が向いてきた。第2次世界大戦の前哨戦である“スペイン市民戦争”、広軌を走る新幹線“AVEAlta Velocidad Espanola;スペイン高速)”、それに先史ヨーロッパ時代の遺産“アルタミラ洞窟壁画”である。
旅行計画を作るに当たり先ず参考にしたのが紅山雪夫著「-添乗員ヒミツの参考書-魅惑のスペイン」(新潮文庫)である。この人の旅行案内はほかにも持っているが、ガイドブックとしては他に類を見ないほど優れている。歴史、景観・自然、文化、地方ごとの名産品や宿泊・食事から建物などの改築履歴、写真撮影の適所や時間帯、そこへの移動手段まで克明に説明される。初期の添乗員(1927年生れだからもう現役ではないだろう)で数か国語をあやつれ、何十回もそれぞれの場所を訪れた経験を集大成しているのだ。この本を読んでいると「ここにもあそこも行きたい。あれもこれもしたい」となってしまうが、時間もカネも限りがあるので、自分の希望を絞り込んで何とか89日で要所だけを巡る案にまとめた。
訪問拠点はアンダルシア地方(グラナダ、コルドバ、セビーリヤ;いずれもイスラムとの関係)それにバルセロナ(ここは専らガウディ)とマドリッド(古都トレド訪問を含む。アルタミラ洞窟のレプリカ)である。移動にはAVEに乗ることを必要条件にとするのは言うまでもない。加えてどこか一カ所でパラドール(古城、城塞、修道院などを改築したホテル)に泊まることと草花の好きな家内の意見も入れてひまわり畑が盛りであるシーズンを希望した。以上の要件と費用概算を “旅行仕様”としてまとめ近くの旅行代理店に渡し、提案を求めた結果66日に成田を発つ日本旅行の「魅惑のスペイン8日」に参加することが決まった。
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(次回;バルセロナへ)

2015年6月16日火曜日

上州・信州山岳ドライブ-6

5.渋峠を越えて                                                                  
翌日428日(火)の朝も好天だった。宿を出たのは9時過ぎ、玄関前は何とかクルマ一台は停められるスペースはあるものの、それは宿泊客のチェックインの一時駐車のみ。それが済むとどこか別の場所に回送されてしまう。こんなことは湯の峰温泉、銀山温泉、城崎温泉など古い温泉地で何度か経験している。草津の場合はかなり宿からは離れた西(サイ)の河原公園の一画に在る町営駐車場だった。そこまでは狭い路地を宿のマイクロバスで送ってくれる。
駐車場を出て直ぐ町北側の外周道路ベルツ通りを経て草津から志賀高原に抜ける国道292号線にでる。この道を走るのは45年ぶり。その時は軽井沢から志賀高原の横手山まで行って、浅間山方面へ戻っているからそこから先は、何度かスキーでは滑っているもののクルマでは初めての道である。
連休前の平日、適度に曲折しながら上る道は空いており行き交うクルマはほとんどない。高度を上げるにつれ開け放した窓から吹き込むが冷たく、爽快な気分で運転できる。やがてちらほらと雪だまりが見えるようになり、国道最高地点(2,172m)を目指すルートが実感できる。雪原は少しずつ広がり、駐車スペースにはSUVが停まっていたりする。多分近くで春スキーを楽しんでいる人が居るのだろう。やがて眼前に白根山が現れる。又従兄弟の情報も、宿での話でも火山活動が活発化しており、山頂付近は駐車禁止とのこと。かつて志賀高原からスキーで万座へ行く途中見た、緑の水をたたえたお釜を見学することはできない。確かに硫黄の匂いが一面に漂い、山の斜面や道路の両側も瓦礫で荒々しく、長居をする所ではないので下車することもなく、素早く通り過ぎる。最高地点に近づくと、24日に通行可能になったにしては、それほど高くはない雪の壁が残っている。もう少し高くて長い雪廊を期待していたのだが・・・。
峠を越えた最初の休憩場所は志賀高原スキー場の頂点である横手山ヒュッテ、駐車場も広く諸設備も整っている。残念ながら真冬ほど空気は澄んでおらず、周辺の山々は春霞の中にぼんやりとしか見えない。ここからは下りになり、熊の湯、丸池など有名スキー場への案内表示版が現れては消えていく。この辺りで滑ったのは40年位前のこと、それも冬だったから景観に全く異なる。新緑にはまだ早く、山岳ドライブ時期設定の難しさ(雪・桜・新緑を同時に味わいたい)を実感させられる。
この日の予定は山岳道路の走行次第で二つのオプションを用意していた。いずれもこの後小布施に寄るのだが、山岳地帯で時間を費やし、そこから松本郊外の浅間温泉に直行する案、山で過ごすのが適当でなければ“御開帳”が行われている善光寺に寄りそれから最終目的地の浅間温泉に向かう案である。横手山ロープウェイ、猿の湯あみで有名な地獄谷温泉など見所もあるのだが、山歩きは少々早いと断じ、善光寺参り案を採ることにした。
スキーシーズンには鉄道からバス乗り換える基地、湯田中を過ぎると道は平坦になり、道も観光道路から生活道路に変じ軽自動車やトラックが増えてくる。この辺りの平野部は北陸新幹線と上信越道の影響で新旧の道が錯綜する。旧道(谷街道)を走って、そのまま小布施の街中に達したいのだが、ナビが新道を選ぶので、これにちょっと苦労した。11時小布施の町営駐車場着。

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(次回;小布施)