<今月読んだ本>
1) 燃える蜃気楼(上、下)(逢坂剛):講談社(文庫)
2) 文体の科学(山本貴光):新潮社
3) 石油と日本(中嶋猪久生):新潮社
4) 技術大国幻想の終わり(畑村洋太郎):講談社(新書)
5) フランスが生んだロンドン イギリスが作ったパリ(ジョナサン・コンリン):柏書房
6) 石油産業の真実(橘川武郎):石油通信社(新書)
<愚評昧説>
1)燃える蜃気楼
逢坂剛のイベリアシリーズは第2次世界大戦の欧州を舞台にしたスパイ小説である。本欄-82(6月)で紹介した“イベリアの雷鳴”が第1作で以降第7作まで続く。第1作はナチスドイツのポーランド侵攻に始まり、スペイン市民戦争で貸を作ったヒトラーがフランコに協力を迫る場面で終わる。ここに主役として登場するのが、駐スペイン日本公使館もその正体を正確には掴んでいないペルー国籍の日系2世、北都昭平(実は中野学校出の陸軍将校)。それにドイツと英国の諜報機関が絡み事態を複雑にする。これにスペイン市民戦争時代を引きずる反フランコ組織の陰謀が加わるので、スパイ戦は混迷をさらに深める。日本人の書いたものとしては、なかなか考えられたストーリー展開になっているが、英国の一流スパイ小説・冒険小説に比べるとサスペンス小説の肝である連続する緊迫感と凄みを欠き、何か軽い感じが残ってしまった。
本書はその3作目。「もう少し読み込んで、評価しよう」そんな気持ちで手にした。第2作“遠ざかる祖国”を飛ばして第3作を取り上げたのにはそれなりの理由がある。第2作は主題が真珠湾攻撃なので日本人作家のホームグランドと言ってもいいのだが、Webでの書評が極めて悪いのだ。端的に言えば「繰り返しが多く、くどい」との評、その根本原因はこの第2作だけが新聞連載であったことから来ているようだ。それもあってこれだけは文庫本化もされていない。シリーズ物を飛ばすのに引っかかるところはあったが、古本を求める気にはならなかった。
今回の題材は連合軍の反攻。ドイツの攻勢もロシアや北アフリカで齟齬をきたし始める中で、中立国スペインにたむろする各国スパイに新たな参戦国米国が加わり、対日・対独諜報活動を始めが、その稚拙でストレートな動きに他国が振り回される。そこに反ヒトラー活動を疑われる国防軍情報部長カナリス提督とゲシュタポの戦いが加わり、さらに独英二重スパイの動きが絡んで、連合軍の北アフリカ上陸作戦を巡る丁々発止の情報戦が繰り広げられる。加えて、北都昭平には敵味方の判別がつかない、日系米人の若い女性が登場してきて、開戦前に恋仲となった英国女性諜報部員との関係をややこしいものにしていく。第一作や直木賞受賞作品“カディスの赤い星”同様相仕掛けはなかなか凝っている。
多くのスパイ物ノンフィクション(主として英国の)を読んできた読書歴から、本書の歴史考証(特にスペイン、ポルトガルにおける英国の諜報活動)はかなりレヴェルが高いと評価できる。単行本が出たのが2003年だから、取材・調査活動はそれ以前となるが、この時期まだ翻訳物は出ていなかったので、恐らく公開されたばかりの資料に基づく原書(英書)に当たって材料をそろえたに違いない。依然ストーリーは今一つ“凄み”を欠くものの(多分恋愛小説的要素を織り込んでいることがその因だろう)、第1作よりは事実と小説の境界が渾然一体となっており、努力のあとを充分楽しむことができた。次作も既に入手している。
2)文体の科学
先日東燃時代の同僚二人と飲む機会があった。二人とも米国に長期出張の経験もあり、英語は達者な連中である。話題が英語力(会話を含む)におよんだとき、一人が「外国語をモノにできるかどうかは国語(日本語)力にかかっている」と言い出し、私ともう一人も一般論としてはそれに同意した。しかし3人の中では一番英語力に劣る私は“国語力”の中身がどうも気になって、高校時代の国語教育に話を振ってみた。現代文・古文・漢文を、それぞれを専門とする先生に学んだが、どれも好きになれず、当然良い成績を収めることも出来なかった。つまり国語力が高くはないわけで、確かに彼の論理と一致する。それではこの3教科の内どれが英語力に最も影響するのだろうと焦点を絞り込んだ。しかし、ここまで踏み込むと論拠が曖昧になり、学校で学ぶ“国語”とは別の、“日本語表現法(話す、書く)”のようなことにカギがあるような話になっていった。これでやっと彼の主張が腑に落ちた。
最近はプレゼンテーションが重視され、しゃべり方の訓練を受ける機会も多くなってきているようだが、我々の世代はそんな教育は全く受けていない(教科書の音読はしたが)。書くことについても学校で体系的な講義をきちんと聞いた記憶はない。せいぜい作文・日記を書かされ、“起承転結”を教えられた程度である。だから就職数年後エクソンのエンジニアリングセンターに派遣されていた先輩から、そこでのレポーティングに関する詳細教育資料を翻訳したものを渡されたときの印象は強烈なものだった。「内容よりも先ず形!」 これに基づいて作成した技術レポートを読んだ別の先輩が「君のレポートはカッパブックスみたいだね(当時売れていたやや軽薄な光文社発行の新書)」と評し、それに続けて「いや悪い意味じゃない。読んでみようという気になるし、一応最後まで読んだよ」と言われたときには複雑な思いをしたものである。私の書くことに関する意識の芽生えはこの辺りから始まった。
本書の広告を見た時、まず浮かんだのは谷崎潤一郎や三島由紀夫の「文章読本」である。つまり、一つは有名作家の文章を例に、書き手に“文章上達”の秘訣を教えてくれるもの(谷崎)。もう一つは同じような分析對象を取り上げ、読み手に対して“読み方指南”するものである(三島)。どちらも日常(読書とブログ投稿)に直結する題材なので「名著の現代版か?」と興味を覚えた。ただ著者名を全く知らないことが気になったが、一流出版社の新潮社が単行本として出すのだからとAmazonに発注した。
届いた本の序と目次に目を通して「ウン?」となる。そこには「今までのこの種の本は専ら文章の意味内容を検討するものであったが、それ以外の要素(特に文の形や表現法)を無視してしまっていいわけはない」との意が述べられ、対象分野が列記される。対話・法律・科学・辞書・批評・小説がそれらである。文体=文章と解釈したのは私の早とちりであった(無論無関係ではないのだが)。
ここでいう“文体”は以下のようなことを総て含んでいるのだ。文章による思想表現形式(規範的vs個性的)、文章の構成(配置;文字・語・文章・空間)、題目(章・項)のつけ方、書かれる物理的対象(紙・映像・電子)、字体(書体・サイズ・色・版組のスタイル)などである。そしてそれらが時間・空間・記憶によって種々の制約を受けることを、例を挙げながら解説する。例えば、ある小説を異なる字体で印刷した書籍、映画・TVの字幕表現にした時、さらに携帯電話利用の電子書籍にしたものを並べ、同じ思想(意思表現)でも読者・視聴者・観客に伝わる内容に差異が出てくる、逆に言えば、同じ意図を伝えるためには異なる表現法が必要になる、と。
応用編の“対話”は、我々の日常交わす会話である。これを書籍(電子を含む)で取り上げる時の表現法には「」を用いるのが一般的だが、それを連続して書くか、改行して書くか、その頭に話者名を入れるか入れないか、あるいは「」を使わず、xx(人)はyyy(発言)と語ったというように第3者が介入するような書き方にするかによって、読む時間と想定する空間がわずかに異なり、その違いが内容の捉え方に微妙に影響してくる可能性に言及する。
次の対象では法律文が極めて特異なものであることは認めつつ、著者はこれを“文章による建築物”と捉え「そう喩えたくなるほど、全体の構造に配慮がなされている」と、 成文法主義下の“天網恢恢疎にして漏らさず”の事例を「不正アクセス禁止法」を取り上げて解説する。そしてその“漏らさず”を実現するため法律文には句読点が極めて少ないことを明らかにする。これこそ網目を細かくするカギなのである。
著者・編者の主観を極力抑える科学(社会科学、自然科学)文書や辞書文体の特色、書き手の意思が表に出てくる批評や小説の文体にも前記同様ユニークな分析が、認知科学や脳科学を駆使して続く。
著者は「まだ科学と言うレヴェルには至っていない」と断っているが(タイトルは編集者が命名;初出は季刊誌「考える人」に“文体百般”と題して連載されたもの)、真摯で挑戦的な研究活動が伝わってくる内容に、(早とちりした)所期の目論見とは異なるものであったにもかかわらず、「なるほど」と教えられることが多々あり、充実した読後感を得られた。扱う世界の広がりに大差があるものの、あのエクソンの“技術レポートの書き方”と「内容だけが問題ではない」という点においては同じ考え方に立っており、改めて“読み・書き”に覚醒されるところがあった。
著者は現在文筆業ということになっているが、前歴はコーエーで10年間ゲームソフト開発に従事している。この辺りに独創的な研究展開への芽があったのかもしれない。
3)石油と日本・6)石油産業の真実
米国のエネルギー・アナリスト、ダニエル・ヤーギンが著したように、20世紀は“石油の世紀”。私のビジネスマン人生45年間はその石油に終始した。悔いはない。と言うよりも、国際情勢の緊迫、経済環境の変化に伴う世界の動きが直に伝わる職場に居られることに生き甲斐さえ感じる日々だった。その石油に関する思いは今も変わらない。ここに紹介する2冊はいずれも我が国の石油産業を取り上げた最新の書物である(両書とも本年5月発刊)。最新業界事情を知りたく手にすることになった。“雀百まで踊り忘れず”と言ったところであろうか。
石油産業は大別すると上流(アップストリーム)と下流(ダウンストリーム)に分けられる。上流は;油田探査・原油生産・原油輸送、下流は石油精製・製品販売である。広義の石油関連として石油化学やLNGもそこに含まれ、前者は下流、後者は上流と見ていいだろう。このように石油産業を包括的にとらえたとき、我が国石油産業は他国に比べかなりいびつな構成になっている。つまり過度に下流に偏っているのである。大規模油田を持たぬ大国や工業国でもその利権を確保して、上下一貫体制を目指す国家がある中で、その経済規模に比し我が国のアンバランスは極端である。二つの著書が問題とするのもこの点だ。何故そうなったのか、これから如何にすべきか、これが核である。
先ず“石油と日本”(以下3)と略す)、“石油産業の真実”(以下6)と略す)ともに歴史から説き起こす。3)は世界史的な視点、6)は日本史的な視点から展開するところに違いがある。また3)が明治期から戦前の石油政策・石油産業をかなり丁寧に解説するのに対して、6)は初期の外資の活動に言及はするものの、戦時統制に重きが置かれている。戦後占領期の石油業活動禁止と外資復活は両者ともその後の我が国の石油産業の特異な発展の背景として詳しく解説され、中でも外資と民族系企業・政府のせめぎ合いが生々しく語られるところは双方ともに読みどころの一つになっている。ただその内容は3)が官民広く俯瞰するのに対して、6)は専ら政策的な面に力点が置かれる違いがある。このような視座の違いは、講和条約発効後の産業政策や業界の動きについても同じように引き継がれる。これはそれぞれの著者の経歴・立場の違いから来ているものと推察される。つまり、3)は中東にも滞在している石油をめぐる金融業務に従事した経験を持つ銀行マン(東海銀行)。これに対して6)は経済学者(東大)で政府(通産省・経産省)の審議委員を務めた人であるからだろう。
両書を面白くしている要因に、数人の石油人を章や項を設けてクローズアップしている点がある。3)では出光佐三、山下太郎にそれぞれ1章が割かれ、6)でもこの二人は取り上げられ、加えてイタリア炭化水素公社(ENI)を創設したエンリコ・マッティと私の勤務していた東燃の社長・会長を務めた中原延平・伸之親子にかなりの紙数が割かれている(強力な外資に対する中からの改革者として)。
さて、上下流のアンバランスである。いずれも石油製品利用初期段階からのメジャーの経営戦略、国策ともに(原油の)産地精製主義を採っていたため、上流部門への進出が遅れたとしている。安全保障上消費地精製主義に転じたときは日本にとって国際情勢がそれを容易に受け入れる環境ではなく、戦後もそれを引きずることになる。
このような状況を改善する動きとして、3)はアラビア石油を取り上げるが、山下太郎亡き後通産官僚によってコントロールされ、挑戦的な先行投資を行わず、利権を失った経緯を掘り下げ、国家資源戦略を再考すべきとの結言に留まる。対して6)は、過小過多(小さな開発会社が数多く存在する)を解消し、イタリアENIのような、消費国としての力(輸入量・額)をバ-ゲニングパワーとして活用、上流利権交渉に当たれる、ナショナル・フラグ・オイル・カンパニー(産油国が対等な交渉相手と認める)を設立すべきと、具体的な提言を行う(現実に石油公団解散と石油天然ガス・金属鉱物資源機構;JOGMECと国際石油開発帝石;INPEXの誕生はその方向に沿ったもの)。
いずれの書も大まかな内容は業界では既知のことではあるが、細部は「そんな背景・経緯があったのか!」と驚かされる局面が多々あらわれる。例えば、モサディク首相による突然の国有化政策で禁輸状態にあったイランの石油製品を出光が輸入した話は、当時高校生だった私にも記憶に残る出来事だったし、戦後の石油業を語るときしばしば話題になる歴史的事件だった。それが実行できたカギの一つに“保険と金融”問題の解決があったことはあまり知られていない。つまり国際取引では必須の、損害保険やL/C(支払確約書)開設で如何に(建前上)英米の公的機関を欺くかに知恵と手段を総動員する話である。解決策は裏で英米の金融機関とつながる一種のマネー・ロンダリングを行うのであるが、この話は3)の独壇場。詳しい裏事情が明らかになるのは、日本側でそれを引き受けたのが、著者が後に勤務することになる東海銀行だったことと無縁ではあるまい。一方6)では異形(極端に縛りの多い)の石油業界が出来上る基となった(第2次)石油業法(1962年制定)が、(第1次)石油業法(1934年制定)成立までのメジャーとのタフな交渉経験を踏まえて作られていくプロセスと重ね合され、新旧法の関係を対比しつつ詳述・解説され、キーポイントの“外資抑制策”を浮き彫りにする。
読み物としては断然3)が面白い。しかし、我が国石油産業を、政策面を中心に現在から将来に向けて理解するには6)がよくまとまっている。3)は一般読者向け、6)は業界関係者向けと言っていいだろう。
4)技術大国幻想の終わり
1991年、NHKドキュメンタリー番組“電子立国日本の自叙伝”が何回か連続して放映された。1980年代の半導体を中心とした我が国電子製品が世界を席巻していく姿を、国内外トップクラスの研究者や企業への取材を交えながら紹介する内容に惹きつけられ、“日本人としての誇り”すら励起される番組だった。爾来四半世紀、サンヨーは消え、シャープも風前の灯火、ダントツのトップブランド、ソニーもサムソンの前では存在感が薄い。半導体に限っても米・韓・台に大きく水を開けられ青息吐息の状態である。「一体全体、あれは何だったのだろう?」「やがて自動車産業も同じ轍を踏むことになるのだろうか?」こんな疑問や不安がよぎる日々である。
情報技術に長く携わってきた者として、振り返ってみると時々にこれを予見させる疑念がなかったわけではない。90年代中頃、韓国石油企業の知人が来日した際携帯電話を2台持って使い分けている。聞けば「日本だけ国際的に普及している方式が使えないから」との返事が返ってきた。TV放送がまだアナログの時代、ハイヴィジョンTVのデモを見たことがある。北海道の冬を扱ったもので、風の舞う雪原で雪の一粒一粒が飛ぶように映し出された画面に感動した。しかし、世界はこの方式を受け入れようとはしなかった。また、これは電子技術と直結することではないが、米国永住権を持つ台湾人の知人は「日本の自動車は本当に故障しない。しかし、適度に買い替えたくなる身には、踏ん切りがつかなくてかえって困る。要するに過剰品質なんだ」と。
日本が1世紀をかけてキャッチアップした高度・最新技術を瞬く間にモノにする、台・韓・中。「彼らはコピーキャットだ」と切り捨て、納得してしまうことは容易だし、プライドも保てるかもしれない。しかし「それではいけない!」と警鐘を鳴らし、これからの日本の製造業の在り方に私見を開陳するのが本書である。
先ず、何故高度・先端技術の移転がしやすくなったのか?20世紀の技術は設計から生産に至るまで随所に理論と経験に基づくノウハウの習得と蓄積を要した(つまり時間がかかった)。しかしディジタル技術の発展普及は簡単(資本投入は必要だが)に熟練者の技能を機械的に再現できるようにしてしまった。日本の製造業の強みは各段階における“すり合わせ”の妙にあったが、これすらディジタルで置き換えられるようになってきている。
次は市場と生産のグローバルな広がりである。汎用品と言えども先進国基準では新興国では売れない。先端技術・多機能・高品質だから高くても売れる、は通用しないのだ。日本や米国のユーザー向けに開発された製品がこれで壁にぶちあたる。韓国製品が伸びているのは、機能を抑え価格を低くして現地ニーズによくマッチしているからだ。彼らはこれを実現するため、現地に精通した人材育成に日本とは桁違いの力を注いでいる。
実は“現地ニーズ”の重要性は新興国マーケットに限らない。先進国で韓国製半導体や電子製品が大きなシェアーを獲得したのは、製品の品質や信頼性の考え方を日本と変えている点にある。歩留りが少々悪くても、安く作り、トラブルが起これば交換すればいいとの戦略を採るからである。
高度な工業製品の供給先(生産者)が増えれば、相対的に技術以外の要素が差別化因子になってくる。特に広義のデザインが重要だ。ここでは少々価格が高くても、“かっこいい”物が売れる。この点で日本製品は欧米に遅れをとっている(ここではアップルの戦略をクローズアップする)。
ではこれから日本の製造業はどうすればいいか?上記のような環境を踏まえ、「考え方を変える」「からくりを変える」「教育を変える」が著者の提言である。
考え方を変える;戦後の日本は復興・発展に懸命の努力をし、稀に見る豊かな社会を実現した。しかし、昨今それが当たり前に存在するものと思っている。“人並みに努力すれば人並みに幸福になれる”ではなく、現状に満足せず主体性を持って環境(与件)改善に努力する。書かれてはいないが“常に危機感を持って、前へ進もう”と解釈した。
からくりを変える;成熟社会到来と経済成長の停滞、少子高齢化と人口減少、終身雇用制の後退。社会も日本企業も従来の成長拡大モデルを見直し、変える必要がある。しかし、移民を大量に受け入れることはドイツ滞在の経験から、極めて懐疑的。むしろ高齢者や女性の活用を奨める。同感である。製造業はマザー工場を日本に残し、設計から製造まで市場の近くに移すべきだ。
教育を変える;考え方を変えるにも社会のからくりを変えるにも、根本は教育にある。何を変えるか。一つは親の所得で子供が教育を受けるシステムを変える(経済的に恵まれない子供の支援体制)。もう一つは時代に合わなくなった教育カリキュラムを見直す(知識重視、記憶力重視からの脱却)。その結果として“自分なりの仮設を作り、それを自ら検証・修正できる人材を増やしていく。これは情報技術活用のカギが“仮説設定能力の向上!”と四半世紀前から主張してきた私の考えと同じである。
著者は東大名誉教授だが知名度を上げたのは退官後工学院大学に移り“失敗学”を提唱し始めてからである。多分その影響であろう、福島原発事故の調査委員会委員長を務めている。大学卒業後一旦民間会社(日立)に入社、三現主義(現地・現物・現人)の重要性を学び、学者になっても世界の現場を訪れ、そこから得た知見が随所に取り上げられている。ただ新書と言う性格もあろう、断片的・一般的・抽象的な軽さは否めない。
5)フランスが生んだロンドン イギリスが作ったパリ
この種の本(日常生活や興味の対象と全く関係なく、何の役にも立たない)を買うのは、外国(特に欧州;現役時代ほとんど訪れる機会が無く、友人知人も居ない)に対する好奇心からである。両都市とも短い日数滞在し観光もしたが、ほとんどツアー定番の有名スポットのみ。二つの都市を関連付ける未知の雑学情報を知るだけでもいい。こんな思いで内容も確かめずAmazonに衝動発注した。届くまでぼんやり想像していたのは都市開発とそこでの生活、それに中学生時代読んだチャールズ・ディケンズの“二都物語”(フランス革命期の冒険と悲恋)にでてくるような両都市在住者の交流であった。この予想は、時代(18~19世紀)も取り上げられるテーマも当たらずとも遠からず。英仏を中心に、現代につながる欧州近世・近代社会の相互依存性・共通性形成過程を人々の日常生活を通じて教えられた。
原著タイトルは“Tales of Two Cities”、つまり複数の話から構成されている(ディケンズはThe Tale of Two Cities)。それらは、家(建物)・通り・レストラン・ダンス・夜の街と密偵・死者と埋葬である。それぞれの章は、参考文献に一部共通性はあるものの、基本的には独立している。しかしこれだけ脈絡のない項目で両都市の比較し相互作用を語られると、かえって包括的な近しさ沸いてくる。その近しさを読む者に身近に感じさせるのは、著者の意図が“両市民は互いに学び合っていた”ことを明らかにすることにあるからだ。因みに著者はオックスフォードで歴史を学んだ米国人である。
英仏は狭い海峡を挟んで隣国、何度も激しく戦い、妬み恨み合ってきた歴史がある。本書の導入部では、フランス人男性が洒落たフランス風のいでたちでロンドンの通りを歩いていて襲われるシーンが当時の版画で示される。この背景にはフランスが英国の植民地であった米国の独立を支援したことがあると解説され、仏人の英国訪問に際しての種々の警告書が刊行されていたことが紹介される。一方で宮廷文化に発するパリの最新女性ファッションが好まれ普及するのはパリよりもむしろロンドン、売込みのために小型のマネキン人形にミニュチュア衣装をまとわせ、海峡へ急行する場面が出てくる。
本書の邦題は“フランスが作ったロンドン イギリスが作ったパリ”とフランスが先になっている。どういう考えでフランスが先になったのかは分からないが、読んでいるとサーブはフランスから始まるものが多い。しかし、普及段階では速度も広がり(量)もロンドンが勝り、強く・数多く打ち返し、それがパリを変えていく。これはフランスの強い王権による中央集権的で華やかな宮廷(格差)文化が、時代の先を走り、その成果物が分権的で相対的に中流階級が多かった英国で広く受け入れられたからである。
種々の比較項目の中でも、打ち返しのスピードや頻度に差がある。極めてゆっくりとかつ一方的な例は“家”である。アパート形式はパリから始まるが、この様式がロンドンで本格的に普及し始めるのは19世紀末からである。それ以前は貧民街の一掃などの場合に限られている。無論両都市の交流の中でロンドン市民はアパートを知っていたが、外観(パリはこの規制が厳しかった)はともかく、そこでの生活は極めて猥雑なものと信じていた。雑多な人間が同居し、充分はプライバシーが確保できず、時には不道徳な交流(不倫)が行われる場所と捉えていたのだ(ゾラの小説などの影響)。ロンドン市民は代わりに低層のテラスハウス(石造りの長屋)を好み、城壁の外へ広がり出て行ったのである。
社会構造の差から違ったスタートをした例に“通り”がある。通りに歩道が出来るのはロンドンが早い(街灯や側溝も)。中流階級の中から街をぶらつく遊歩者が出現してきたからだ(パリ発の最新ファッションがロンドンで普及するのも、この遊歩者の存在による)。パリで通りを歩くのは、そこで仕事をする人に限られていた。貴族は馬車で往来するから歩道など必要なかったのだ。今のシャンゼリゼ大通りからは考えられない事象である。
人間の最後は死。欧州の大教会・大聖堂には建物内の床下や壁際に石棺が多数埋められたり積み上げられたりしている。庭も墓石でいっぱいだ。特に城壁で囲まれていた時代はスペースに限りがあった。貧しい庶民の大多数は共同墓穴(1ヵ所1000~2000体)に袋詰めで放り込まれ、石灰を撒いて土をかぶせるだけ。いつも周辺には腐臭が漂っている。これを郊外の広い公園墓地で一人ひとり埋葬するように変えたのはロンドンが先、パリではナポレオンが天下を取ったあとロンドンを参考に郊外墓地の建設が始まる。死に関係した話題では葬儀費用の話も面白い。ヴィクトリア時代、英国は不透明だがフランスは定額制が確立され、料金も手ごろだったと記されている。
この他にも現在もパリの名物として演じられるカンカン踊り(フレンチ・カンカン)は英国のスカートダンスの影響を強く受けていることやシャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルがフランスで人気が高かった探偵小説家ガボリオの信奉者であったことなど、身近なところで両都市の密接な関係を教えてくれる。
雑学好きの方にはお薦めの一冊と言っていい。
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以上