2016年12月31日土曜日

今月の本棚-100(2016年12月分)


<今月読んだ本>
1) さらばスペインの日々(上、下)(逢坂剛):講談社(文庫)
2) 帝国の参謀(アンドリュー・クレピネヴィッチ、バリー・ワッツ):日経BP
3) 医学の勝利が国家を滅ぼす(里見清一):新潮社(新書)
4)反・民主主義論(佐伯啓思):新潮社(新書)
5)読書と日本人(津野海太郎):岩波書店(新書)

<愚評昧説>
1)さらばスペインの日々
昨年6月“イベリアの雷鳴”から始め、先月その第6話“暗殺者の森”を紹介した、第2次世界大戦欧州戦線における日本陸軍情報将校を主人公とするスパイサスペンス小説の最終話(第7話)である。毎回その時代に起こった史実を核にして、諜報員北都昭平と恋人の英国秘密情報部員ヴァジニア・クレイトンが遭遇する枢軸国対連合国のスパイ戦を描いたものである。当初からその道(スパイ小説)でははるか先を行く英国物に対してスパイ物独特の冷たさや緊迫感を欠くことを批判してきたが今回はその極め付け、シリーズ物の欠陥がもろに出た(種切れで竜頭蛇尾;どんなシリーズ物もその傾向にあるが、今回は“完結させるために何とか書き上げた”感が強く残る)。史実として、終戦工作・ポツダム宣言・日本敗戦・冷戦の始まり・在欧日本人の引揚、が取り上げられるのだが、ほとんどよく知られている内容をチョッと色付けしたに過ぎなし、終わり方も締まりがない(盛り上がりの無いハッピーエンド)。従って今回は本巻に関する読後感は省き、シリーズ全体の講評をしてみたい。
イベリアシリーズを読むきっかけは昨年6月に出かけたスペイン旅行にあった。帰国直後に著者の出世作直木賞受賞の「カディスの赤い星」を読み、特異なスペイン体験(ギターとスペイン語習得のために滞西)に惹かれたからである。特に謎のギターにまつわる話は、彼の地によほど詳しくないと引き出せない情報が多かった。「関心のある欧州戦線の秘話があれこれ得られるのではないか?」そんな期待で読み始めたわけである。確かに第1話、まだ市民戦争の余韻が残り、ナチスドイツのポーランド侵攻前、不安定なフランコ政権下で各国が疑心暗鬼の諜報戦を展開する話は、当時のスペイン国内情勢が中心で、それなりに新鮮な話題に満ちていた。それに恋愛小説に変じる予兆さえ感じられなかった。ただ、原書を含め欧州の戦いについてかなり読み込んでいた私にとって「ははーん、これはあの話・あの本がネタだな」と思えるシーンが散見され「日本にはよく知られていないノンフィクションをちょっと料理するだけではなかろうか?」との疑念が芽生えていた。そして、それぞれの巻で評してきたたように、危惧していたことが現実となってしまったのである。
著者の創意に面白味を感じたのは実在の人物たち(ドイツ国防軍情報部長カナリス提督、英国秘密情報部MI-6に潜り込んだソ連スパイキム・フィルビー、当時の駐スペイン公使須磨彌吉郎、スペイン外相セラノ・スニェルなど)の扱い、特に危機一髪の時に必ず現れるカナリスは伝記などで理解していた人物像とは大違い、「正義の味方、黄金バット(死語かな?)登場!」と苦笑してしまう。おまけにサスペンスとロマンの二兎を追うことで、ジョン・ル・カレやレン・デイトンのような正統なスパイ小説とは似ても似つかぬ作品になってしまったのである(もっともこれは読み手としての勝手な期待で、著者はもともとそんなものを目指していなかったのかもしれない)。
最終巻の唯一の読みどころは「作者によるエピローグ」。ここで初めて取材活動や参考文献・資料が明かされる。「やっぱりあの本から引いていたのだ」と分かったし、著者がネタ本和訳出版前に既にそのテーマの部分を書き上げていてホッとしたことも語られる。とにかく膨大な資料調査と実在の人物(元スペイン外相を含む)へのインタヴューなど、司馬遼太郎、塩野七生や山崎豊子ばりの取材努力は認められる。また、16年(週刊現代に連載、各話に繰り返しが多いのはこの“連載”ゆえ)を要して書き上げた気力はそれなりに評価してもいい。しかし、欧州戦線を克明に紹介した点では故児島襄(のぼる)が週刊ポストに長期連載したノンフィクション「ヒトラーの戦い」(文春文庫全十巻)に、戦争長編フィクションなら今年読み終えた故船戸与一の満州事変に発し大東亜戦争へとつながる「満州国演義」(新潮文庫全九巻)の史実との絶妙なマッチングに、およぶべくもない。週刊現代はどこかで中止にしたかったが、我が国推理・冒険小説界のボス(元日本推理作家協会理事長)、退くに退けなかったのではないか?そんな勘繰りさえしたくなる、締まりのない超長編シリーズだった。

2)帝国の参謀
私の軍事への関心はハードウエア、特に飛行機から始まり、次いでこれらの運用体系や作戦へと進んでいった。従って本来はこれらの大もととなるべき国家戦略・安全保障に対する諸施策をきちんと調べたり考え方を整理したことはない。また最新兵器に関しては核や弾道ミサイルを含めてほとんど興味がない(機械としての面白味がないので)。つまりあれこれ軍事知識を開陳してはいるものの、所詮第2次世界大戦に関する兵器オタクに過ぎないのである。それでも、米国の核の傘に大きく依存する我が国安全保障政策が現状のままでいいとは思っていなしトランプ政権誕生でその感を強くしている。一体全体戦後彼らは同盟国を含む安全保障をどう見てきたのであろうか?兵器オタクの真逆からその歴史展開を学んでみよう。こんな動機で本書を読むことにした。
本書で取り上げられる人物アンドリュー・マーシャル(1921年生まれ)は、ニクソンからオバマに至る8代の大統領の下で米国の国家戦略策定の影武者として活動してきた戦略思想家である。影武者ゆえに知名度は高くないのだが“知る人ぞ知る”、昨年長く続けてきた公職を退いたことから、その教え子(セント・アンドリューズ・スクール;彼のファーストネームを由来とする)である二人が「舞台裏から舞台の中央へ引っ張り出すことを試みる」目的で著わされたのが本書である。
いかなる公職に在ったのか。国防総省総合評価局長(Office for National AssessmentONA)、時代によって異なるが、国防長官あるいは国防次官へ直接レポートする政治任用ポストに1973年から2015年まで42年間在職しその重責を務めた。高位の政治任用ポスト在任期間としてはFBI長官のまま他界したフーバーと比肩する長さである。
ONAの主たる業務は米国と対峙する大国の軍事力評価にある。それ以前はCIA、国家安全保障会議(NSC)、国防総省がそれぞれ行い大統領府にレポートしていた。これを一本化する動きはキッシンジャー国家安全保障担当補佐官時代に始まり、NSCの一部署の位置付けで構想されるのだが、結局ジェームズ・シュレジンジャー国防長官就任に際しその下でスタートすることになる。シュレジンジャーはランド研究所(空軍のシンクタンク)で同僚であったことから、マーシャルの起用を決めるのだ。
ここでマーシャルが戦略思想家として注目されるようになるのは、従来の評価法(上記3機関による)が兵員数、兵器数やその公称性能(つまり定量化しやすいもの)に重きを置いたものであったのに対し、生産技術や兵士の技量・士気、あるいは軍事組織内の意思決定のプロセスなどに踏み込み、より現実的な戦力比較を行ったことにある。このためには政治経済や歴史・文化に関する知見を深耕する必要があるのだが、シカゴ大学で経済学修士まで学んだ経験がそれに生かされる。さらにこの総合分析は、国家経済にもおよびソ連の軍事費が、巷間言われているよりも遥かに財政に負担をかけていることを見抜く。これを知った為政者たちに「ソ連にもっと軍事費を使うように持っていけばやがて財政は破綻する」との考えを想起させるのである。結果としてソ連そして冷戦構造はこうして崩壊していった。
マーシャルが長期にわたりその地位にとどまることが出来た理由として“(徹底的に)診断はするが処方はしない(処方は政治家や戦略策定組織が行うもの)”と言う考えを貫いたことが挙げられる。これは組織の役割として当初から定められていたわけではなく、もともと地味な人柄が(塗装職人の貧しい白人家庭出身、一度工業高校に進み、学資を準備してからシカゴ大学に入学。博士課程に進める成績ながら、その費用が賄えぬためにランドに就職する)そうさせたようだ。つまり自助の人だけに、“自分で徹底的に考える”ことをそれぞれの立場の人間に求める姿勢である。これは日々の部下(著者ら)指導でも同じだった。
冷戦後の分析としては広義のITを駆使する軍事革命(Revolution in Military AffairesRMA)を予見、これよる精密誘導ミサイルの出現により前進基地や大型空母の脆弱性を指摘し、また非対称戦争による接近阻止・領域拒否の可能性に警告を発している(特に対中国・イラン)。そこから生まれたのが統合エアーシーバトル構想。これは自衛隊の作戦行動にも反映されているようだが、残念なことに我が国防政策に直接触れる調査・分析は何も言及されていない。
本書はマーシャルの評伝。業績が主体とは言え(多くがいまだ機密扱い)、大統領や政府高官(特に歴代国防長官)あるいは高名な学者などとの人間関係にもおよび、国家安全保障と言う硬いテーマを身近なものとして感じ取ることが出来る。ただ、日常的に馴染んでいない世界だけに、やはりかなり歯ごたえのある読み物であった。
その理由の一つは二人の著者が著述を生業とする者ではなく軍人研究者であることからくる読み難さがあるのではないかと推察する。さらに問題なのは訳者である。一言でいうと軍事に関しては全くの素人、「書かれた内容をどこまで分かっているのか?」との疑念が常に付きまとった(日本文としては問題ないが文意が通じないことがしばしばある。訳者あとがきもないので専門家の関与も不明;大そうな肩書(慶応大学大学院教授、内閣参与)を持った解説者は居るが翻訳をきちんと読んだ形跡がうかがえない;読んでいれば以下の誤訳に気付いたはず)。誤訳の極めつけの一つ;「マーシャルが最も興味を持ったのは、1918年から41年の戦間期のアメリカ海軍による軍用輸送機の開発事例だった」とあり、その後何度か日・英の海軍“軍用輸送機”が出てくる。「何故ここで“海軍の輸送機”なのだろう?」 どう考えても前後の話とつながらない。しばし考えたのち「原書では“Aircraft Carrier”と書かれているのではなかろうか?」と思い至った。字引を引けば、Aircraftは航空機 Carrierは運ぶ人・運ぶ道具、ここから“輸送機”と解釈したのだろうが、Aircraft Carrierとは“航空母艦”のことである。そう置き換えれば文脈は通じるのである。これは編集者の問題でもある。日経BP社は日本経済新聞社の系列企業だが、内容にふさわしい翻訳者も用意できなし、解説者と翻訳者の協調も配慮されていない、自らもチェックもしていないらしい(気が付かなかった?!)。同じ系列下に日本経済新聞出版社がありこちらの方は翻訳者も一流どころを起用しており経験的に安心して読めるが、「日経BP社の翻訳物(ビジネス関連は特に翻訳物が多い)には要注意!」が読後感である。

3)医学の勝利が国家を滅ぼす
来年度予算案が決まった。歳入58兆円弱に対して歳出は97兆円強、この歳出の内社会保障関係が32兆円強(大略;年金13、医療13、その他(介護・生活扶助・少子化対策等)13)。完全にここが財政赤字の元凶である。30年くらい前から経済学者の野口悠紀雄などが「財政悪化の主因は公共投資ではなく社会保障」と警鐘を発していたにもかかわらず無為無策でここまできてしまった。この異常な不均衡予算に対して「少子高齢化は早くから分かっていたのに何も手を打たなかった官僚が悪い」と言う人が居るが、法律を粛々と守って仕事をしている役人だけを責めるのは酷だろう。法律を変えない限り減じる手立てはほとんどないのだ。それを変えるのは国会、票が頼りの議員は不人気必須のそんなことに積極的に取り組む考えはさらさらない。そしてそんな議員を選び子・孫にツケを回しているのは我々なのである。もし天の声があれば「甘ったれのお前たちこそが根源だ!」と宣告するに違いない。
こんな亡国歳出、年金・その他はひとまず置いて、“医療(特に高齢者向け)”こそ大胆なメスを入れるべき分野、と言うのが本書の論点である。
著者(ペンネーム)は東大医学部卒業後癌研に長く勤め、その後三井記念病院、日赤医療センターと移り現在同センターの化学療法部長を務めている内科医である。
本書の内容は、医療に関する様々な問題を新潮45に「日本のビョーキ」と題する社会時評として連載されたものが素になっている。従って表題のようなことが一貫して書かれたものではない。しかし、月々の寄稿(主に2015年度)を加筆修正し、第Ⅰ章が“善意と進歩による亡国”と題する高度医療と財政問題、第Ⅱ章が“裏から眺める医療論”として主に高齢者医療とそれに関する臨床医師が抱える問題を取り上げ再構成されているので、全体として纏まりのあるものになっている。
著者は臨床一筋の医師である。長く携わってきたのは癌の治療(特に肺癌)、この分野における新薬や新療法の進歩には目覚ましいものがある。ここ15年では癌の生物学的な特徴を狙い撃ちする分子標的治療、ここ23年では人間が本来持つ免疫機能を利用する対癌療法がそれだ。しかしながらそこに要するコストは従来のものに比べ2割増し、3割増しではなく100倍、1000倍も例外ではない。特に薬価はハイパーインフレの嵐。治癒改善効果と対比して、それだけの価値があるのか(命に値段はないと言うが・・・)?!膨大な国費をここに投入していいのか?!と具体例を挙げながら、覚醒を促すメッセージを送る。
我が国事例(すべて健康保険適用前);従来の抗癌剤治療(34ヶ月)薬価約60万円→分子標的剤(イレッサ)約260万円/年→分子標的剤(アレセンサ)約966万円/年→免疫療法剤(オプチーボ)約3500万円/年(体重60㎏)。しかも1年で終わるわけではないのだ!
私の次妹は20数年前40代前半3児を残し肺癌(リンパ癌)で逝った。新薬や新療法が話題になるたび「あの時これがあれば・・・」と思ったが、このデータを見て「3割負担にしてもこれでは即破産間違いなし」の感を深くした。
価格はひとまず置き、効果が絶大ならば(適用病種の拡大、完治率の向上、余寿命の著しい延長)、一応“進歩”と認めていいのだが、問題は明らかにうまくケースがある反面、腫瘍の性質によってまるで効かないこともある。この適用可否の判定が簡単ではない(一般の病院、医院では)。病理学の専門家は“効くことの研究”には熱心だが、“効かないことの分析”をする人はまずいない。結局“気休めの仁丹”のような投与が行われる可能性があるのだ。こうして医療費は医学の進歩とともにうなぎ登り、国家財政は破綻の一途をたどることになる。
ではどうすればいいのか?海外(欧米)の対応策なども紹介した上での著者の提言;(癌に限らずすべての病気に対して)75歳以上の人には延命治療は行わず、対処治療(苦しみを和らげる)のみにする(私は間もなく78歳だが、もし病に罹ったらこれでいい)。違反した医師は免許取り消しにする。金持ちが海外で治療を受けることは勝手だが、国籍(国民としての権利?)をはく奪する。
これも現実にはたわ言であるが、高齢者に高度治療を施さず(全額自己負担ならOK)、後期高齢者医療費負担軽減策をやめることくらいは一日も早く実現しなければならない、と思っている。“ゆりかごから墓場まで”をモットーにしてきた英国はここにメスを入れ、財政を改善させてきた。日本でも可能なはずである。

4)反・民主主義論
民主主義と言う言葉は、子供の頃から付与されたものだった。少なくとも大学時代までそれは“正義”、“平等”、“自由”と一体となって政治や社会を見る目を育んでいった。だから多くの人が反対する(ように見えた)60年安保のデモにも、安全保障条約の中身と必要性を熟考せず(これで独立国か?!と言う疑念は持っていたが)、何回か参加した。この動機に反米感情や反軍思想があったわけではなく、“政権政党自民党は戦前からの既得権益者の代表”と言う思い(この思いは今も引きずっているが・・・)が圧倒的に強かったわけで、振り返れば反体制意思表示の短慮の行動であった。なにも議会民主政(政治制度と主義は本来異なるのだがここでは同義として使う;本書の中でもこの違いを論じている)の下で不正義なことが強行されたわけではないのだから(国家の安全保障と安保法の関係を徹底的に議論しなかったことは今に禍根を残しているが・・・)。
今年は英国の国民投票によるEU離脱、予期せぬ次期米国大統領としてのトランプ当選(本書の出版後)などがあり、少し前から話題になっていた“ポピュリズム(大衆迎合主義)”政治への関心が一層高まっている。両投票の仕組みは厳密には同じではないが(大統領選は票の絶対数ではなく代理人の獲得数)、いわゆる全員参加の“直接民主政”ととらえていいだろう。しかし、ジャーナリズムはこれを“民主主義の危機”と報じる。
ポピュリズム批判とは直結しないものの、我が国でも、昨年後半から議論が高まった集団的自衛権解釈、本年の参議院選挙における与党勢力23以上獲得とともに具体化した改憲問題、メディアは“大規模な(?)”それらに反対するデモの動きをことさらクローズアップし、野党は「これこそ民主主義の発露」と参加者を煽る。議会の内と外のどちらの“民主主義”が正統なのか?
冷徹な観察者である著者はここで問う「「国家」「憲法」「民主主義」「平和」「国防」といった政治学の、そして「国」のもっとも根幹にかかわる概念について、いったいわれわれはまともに思索を巡らせたことがあったのか?」と、そして「われわれは、それらをすでに所与の自明の概念とみて、真正面から向き合うことを回避してきた」と断じ、「「民主主義」「憲法」が何か、本当にわかっているのだろうか?」「その前に、それを疑うことをタブーにしてきたのではなかろうか?」とさらに問い詰める。
このような背景を踏まえ「民主主義(民主政治制度)とは本来いかなるものなのか?」を起源に尋ね、その本質を解き明かし、我が国政治言動の異常性を糺すのが本書の骨子である。
民主主義の心臓部に当たるのが「平等」と言う概念。これは民主主義の起源となるフランス革命、米国独立宣言からきた考え方だが、あらゆる人に適用されたわけではない。「等しきものを等しく扱う」ことであり「等しくないものは、等しく扱わない」ことと表裏を成す。異質なものは排除した上での「平等」なのである。ギリシャでも当然奴隷には適用されなかったし、米国も同様、フランス革命では貴族・僧侶などは対象外だった。反対者は殺してまで同質性を求める血で贖った“平等”なのである。つまり「普遍的な人権に基づく」民主主義などありえないのだ。一方で理念や理想として語られる(米国が自国でも実現できず、われわれ日本人に刷り込んだ)民主主義がある。ここにどうにもならない欺瞞が持ち込まれてしまう。だから民主主義は決して神聖なものではなく、ポピュリズムとその批判に見るように、一つの政治システム以上の何ものでもない。
著者はだからと言って民主主義(民主政)そのものを否定しているわけではない。絶対不可侵なものではなく、ルールに基づく権力闘争であることを承知して、現実的に解釈していくものだとの立場に立つ。これで思い出すのがチャーチルの名言「民主主義は最悪の統治システムである。今までのものを除けばね」である。
「憲法」問題しかり。先ず「憲法とは何か?」を問い、いくつかの国の憲法とその成立・運用過程を概観し、条文上“自衛のための交戦権さえ放棄する”我が国憲法の特異性を浮きだたせる。「占領軍が守ってくれることを前提にしなくては考えられない内容」と。次いで改憲問題に移り、護憲勢力の主張に「憲法を護って、国が滅びたら、何のための憲法か?」と、改定条項がありながら端から“改憲は悪”と決めつける一部メディア・サヨクを糾弾する。ここでも著者は改憲賛成を一方的に支持するわけではなく「賛成・反対を議論する前に、国防をどう考えるかをもっと真剣に議論しろ。何故与野党ともこれを逃げるのか?」と改憲推進派にも太刀を返す。
著者は京都大学名誉教授の経済学者、本書は3)同様新潮45に連載されている社会時評をまとめたもので、著者に共感するところが多く今までも本欄で「日本の宿命」「正義の偽装」を取り上げている。テーマの選択、論理展開の分かりやすさ、切れ味の良さ、読後のスッキリ感は相変わらず。これからも適宜取り上げていきたい。

5)読書と日本人
今年最後の一冊である。平凡なタイトルだが“読書”にひかれて読むことになった。昨年本欄で紹介し強く印象に残った「百歳までの読書術」の著者が著したものだからである。文学を学んだあと、アングラ劇団の演出家、編集者、出版社役員、大学教授、図書館長を務めた、書籍を巡る幅広い体験に基づく読書エッセイにすっかり惹きこまれ、その余韻はしっかり残っていたので、今回内容をカスタマーレビューで確認することもせず購入した。
前回のものが雑誌に連載した短文をまとめたものだったのに対し、これは日本人の読書の歴史を平安時代から現代まで辿る“読書史”として書き下ろされたものである。単なる経時的な読書史ではなく、そこには、文学史のみならず文字史、印刷史、出版史、教育史、宗教史、文化交流史あるいは建築史の一部まで動員され、読書を中心にしたユニークな日本文化史・社会史が展開される。学校で習った歴史が政治史・軍事史に重点が置かれていたこともあり、新鮮な驚きの連続で最後まで一気に読み進んだ。
「本はひとりで黙って読む、自発的に、たいていはじぶんの部屋で-。それがいま私たちがふつうに考える読書だとすると、こういう本の読み方は日本ではいつはじまったのだろう。」と自問し、調査の過程で、“更級日記”に著者菅原孝標(たかすえ)の女(むすめ;当時13歳;菅原道真の五代目の孫にあたる)が残した、源氏物語をわれを忘れて読みふけるシーンから本書はスタートする。どのようにそれを入手し(親戚の女性からもらう)、それはどのような文字で書かれ(平仮名)、どんな部屋で(寝殿造りで御簾か衝立で仕切られた空間)読んでいたのかを探っていく。話はさらに発展、女性作家や読者普及の因が平仮名にあること、それを男性はどう見ていたか(軽蔑していた)などへと展開する。
ところで孝標の女の先祖であり、学問の神様と今に崇められる道真の読書環境はどんなものだったか?代々の学者一族、私塾を開いていたので人の出入りが激しい、大きな家でも寝殿造りで完全な個室は得られない(菅原孝標家同様御簾・衝立で仕切られるだけ)。22歳で“秀才”の官吏登用試験に合格後父に与えられた部屋(一隅)について「騒々しくて、落ち着かなかった」と49歳の時に書いた“書斎記”という回顧随筆に残している。書院造が現れるのは室町時代まで待たねばならない。
我が国における初期の読書は中国渡来の文書の音読や写書から始まる。つまり硬い本で目的も“読み物”ではなく“勉学・修養”を専らとする。平綴じの本が出る前は巻物が主体なので、あとでどこに何が書いてあるのか探すのが大変だ。どうするか?短冊に重要個所を抄出して書きとめていくのだ。これは半世紀前超ベストセラーとなった梅棹忠夫の「知的生産の技術」で広く知られ利用されるようになる欧米生まれのカード・システムと何ら変わらない、とその先進性をたたえる。
印刷はどうか?写書(書き間違えから種々の版が出る。古文書研究はこの付き合わせも一分野)→木版刷りが長く続いた後→宣教師の渡来で活版印刷技術がもたらされる。文字数の限られたアルファベットでは組み替えも簡単だが、漢字仮名交じり文では大変なことである。特に文字をつなぐ部分(草書連綿体)は平仮名だけでも難しい、しかし宣教師たちは優れた職人(日本人)を見つけ出し、布教を容易にするためこれを実現するのだ。それもキリシタン禁止令後は再び木版に戻ってしまう(家光の時代)。
読書習慣が広まるためには、識字率の向上が欠かせない。鎌倉時代後期から室町時代にかけて侍クラスの下級まで漢字仮名交じり文書の読み書きは出来たし、女性もこのクラスは平仮名で書状を書いている。また村の有力者もだいたい文字が書けたと考えていいようだ。さらに進んで信長の時代に来日したフロイスはその高さに驚くとともに、子供が寺院で指導を受けているさまを「ヨーロッパ文化と日本文化」に書き残している。
読書の動機は当然内容と深く関係する。硬い本ばかりでは限界がある。西鶴の出現、仮名草子にとって代わる浮世草子と称された草双紙(草は草莽、雑草の意、双紙は平仮名で記された木版刷りの薄手とじ本)による新ジャンル誕生が読者層を広げる。
教育レベル、経済レベルが高まれば読書意欲は当然高まる。徳川末期がこの状態。そこに大きな社会変革が起これば「これからどうなる?どうしたらいいんだ?」と何かにすがりたくなる。維新直後爆発的に売れたのが福沢諭吉の「学問のすすめ」(全17編、初編刊行1872年)は海賊版を含め22万部出たという。総人口3千百万人の時代に、である。
雑誌の誕生、安価な小型本(岩波文庫)の発案(ドイツの模倣)、全集ブームとその商法、大震災の影響や戦中・戦後の物不足(大震災後と戦後の出版を取り巻く環境の類似性)、そして最近の本ばなれ傾向と短命で一発勝負の出版ビジネス、活字離れとマンガブーム、さらに電子本と紙の本との比較とその先にあるものへと進む。
軽妙な筆さばきのため読んでいる時は当に“読み物”であったが、読み終わってみると中身が濃く、立派な学術研究書の趣さえある、最後を飾るトリとして相応しい本だった。加えて今回は本欄連載第100回、これでトリ年の来年に向け読書意欲が一段と沸いてきた。

2016年のベストスリー>
恒例によって今年度紹介した68冊(75巻);これは昨年度と全く同数、の中から独断と偏見で、ベストスリーを選んでみました。

1.満州国演義(全9巻)(20159月、20166月、8月)
 満州事変を遡ること3年、1928年から始まり19458月で終わる、満州を中心した昭和史を敷島4兄弟の変転とした運命で綴る歴史小説。フィクションではあるが歴史考証が確りしており、小説に留まらない価値がある。
2.ノーベル経済学賞(11月)
ノーベル賞という話題性に富んだテーマで、経済学を分かりやすく解説。学問として馴染みのなかった分野に関心を向けてくれた。
3.読書と日本人(12月)
日本読書史といえるユニークな歴史研究であるとともに、読書に関する雑学の宝庫。本好き必読の書である。

今年も本欄をご愛顧いただき深く感謝いたします。おかげさまで第100回を数えることが出来ました。1月喜寿を迎え、体力の衰えを日々実感するところですが、好奇心だけは旺盛、視力もまずまずですので来年も乱読の雑文をお届けしますが、よろしくお願いいたします
2017年が皆様にとって良い年であるよう願っております。

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2016年12月29日木曜日

台湾一周鉄道旅行-6


6.第一夜のディナー
今日は朝が早く、8時半の出発で現地到着は東京時間で12時時40分だから、どんな食事サービスがあるのか分からなかったので、空港でトーストとコーヒーの朝食を摂った。結局食事が出たのは到着1時間前の朝食、腹具合としては軽い昼食なので、博物院ではソフトドリンクだけで済ませた。そんなわけで部屋にチェックインして緊張感がとれると、急に空腹感が襲ってきた。時刻は5時近く、いつもの夕食時間には少し早いが、朝からの行動や慣れない土地であることを考慮すれば(予約の要否など)ボツボツ夕食に出かけてもいい。夕闇迫る台北駅を見下ろすと、傘をさしている人もちらほら。とにかくロビーに降りてフロントに相談することにする。
フロントの女性に「この辺りで台湾料理のカジュアルな店で良いところはないか?」と日本語で問うと、向かいにあるサービスデスクの担当者を呼んでくれた。若い男性で片言の日本語を話すその担当者が言うには「いくつかありますが今日は日曜日、外出する人が多く、予約で混んでいる可能性が高いです。待つつもりならば問い合わせてみます」との返事。先ず場所を聞くと、タクシーで出かけるのがお薦めとのこと。取り敢えず確認してもらうと案の定混んでおり「8時からなら」との返事。いろいろ当たってもらった結果19時までに終わるならOKとの店が見つかる。その店「青葉餐庁」はガイドブック“地球を歩く”にも載っており、場所もおよそ見当が付くのでMRTで出かけことを提案すると「雨が降り出してきたし、暗いのでタクシーのほうがいいです」とアドヴァイス。これは正解だった。MRTより高いが、そうしていたら簡単に店にたどり着けたかどうか、と言うような場所にあった。初めて乗ったタクシーも信頼でき、きちんとお釣りもくれた(料金は80元)。
店は48人用テーブルが10卓ほどと奥に半個室が一か所、この半個室の前の調理場に近い4人用一つだけが空いており、「7時まででいいですね」と念を押され案内される。台湾料理は前回の訪台時何度か食しているのだが、いつも現地の人が一緒だったから彼ら任せ、今回二人だけでアラカルトを選択する予備知識もなかったからセットメニュー(写真付き日本語メニューあり;つまり日本人観光客御用達の店;帰りがけにもらった名刺にはローマ字で“aoba”とある)で頼んだ。飲み物はビール、ジョッキの生はなく台湾啤酒ブランドの瓶ビールだけ、本来は紹興酒といきたいところだったが、一本開ける自信は全くないのでこれにした。先ず運ばれてきたのは卵と野菜のスープ、あとは炒め物、煮物、蒸し物などが続くが料理方法は中華と大差ないものの、食材は海産物(カニ、エビ、貝類)が多く、味付けも日本で食べる中華よりも淡白で、個人的には好みに合っていた。ボリュームは老人二人には少し多めだったので最後の炒飯は半分程度しか食べられなかった(ビールを2本飲んだせいもあるが)。これで料金2700元(1万円弱)は少々高い気がしないでもなかった(以後一度もこれほど夕食に払うことはなかった)。
帰りは雨が降っていたが、寄ってみたい所が在ったので、直ぐにタクシーを拾わず、ホテルで貸してくれた傘をさしてMRTの中山站に向かった。この駅と次の雙連站間の西側にMRTに並行して、下川裕治お薦めの“寧夏路夜市”が延びているのだ。中山站に着くと道行く人に“寧夏路”と紙片に書いたものを見せながらそこを目指したがなかなか目印となるロータリーに行き着けず、雨も本降りになってきたので、途中であきらめ中山站へ戻り、一駅乗って台北車站へ。今度は地下街で迷うこともなくホテルに9時前に帰り着いた。こうして台湾の一夜は終わった。

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(次回:新幹線と嘉義)

2016年12月25日日曜日

台湾一周鉄道旅行-5


5MRTでホテルへ
1994年に台湾を訪れた際は工業技術研究院化学研究所の招待と大学時代の同級生の紹介による国営石油会社見学だったから、すべての移動にアテンドが付いた。故宮博物院見学の際も大陸からの招待者と同道だったから彼に任せておけばよかった。しかし、今回は空港・ホテル間の移動以外は自分で対応しなければならない。ただ、今まで他の国の個人旅行でも何とかなっていたし、漢字が通じるので他の国より気分は楽だった。
博物院は傾斜地を利用して建てられているのでバス乗り場はテラスから地下へ降りるような所に在る。その階段を降りると直ぐのところにバスが停車していた。運転手に“士林站”と書いたメモを見せると頷いて乗れと手で示してくれる。空港で両替したコインを出すと“あとで”と言うように再度後ろを指し示す。10人に満たない乗客を乗せたバスは坂を下って3車線の大通りに出る。案内は音声と電子表示板。アナウンスは理解できないが字は読めるので何ら問題ない。次々にバス停に寄っては客を拾っていく。降りる人はほとんどいない。15分位走ったところで“士林站”が表示される。周りの人の動きが始まるから次で降りる乗客が多そうだ。やがてバス停に到着、予想通り半数以上がここで降りる。料金は一人15元(60円足らず)。
バス停からMRT駅までは少しあるが人の流れに従っていれば自然にそこへ到達する。意外だったのは地下鉄と思っていたのが、ここは高架線であったことだ。切符の自動販売機でチョッと手こずった。“当駅”にも料金表示が書かれている(他の駅でも同様、未だに意味不明)。一瞬「どういうことなんだろう?」と思案していると、若い女性が日本語で「どこまで?」と声をかけてくれる。今度は“台北站”のメモを見せると自動販売機の使い方を指南してくれる(一人25元)。こうしてトークン(コイン型の乗車券)を入手、この扱いを間違えて改札を通過できなくなると、駅務員のいるところまで同行して事情を説明、中に入れるようにしてくれる。すっかりお世話になってしまう。
ここを走る路線は淡水線、向かう先の終点は淡水とは反対側の象山、ホームの表示がひと目で分かるのも助かる。何故ならば日本と違いここでは車やMRTは右側交通、ボヤーッとしていると反対方向へ乗ってしまう恐れがあるからだ。
士林から台北までは6駅、しばらくは高架を走るので周辺が見渡せるのが観光客には好ましい。やがて地下に潜り20分ほどで台北駅に到着。さすがに乗り降りの客が多い。地上へ向かうエスカレーターは関東とは違い右側が立位置、左側が歩く人用になっている。改札を出ると広大な地下街が四達しており、どちらに向かうべきか直ぐには判別できない。しかし、通りの名前や台鉄(在来線)・高鉄(新幹線)の表示があるので、これらを頼りにとにかく地上に出ることを試みるのだがこれが一筋縄ではいかない。目指す表示が途中で消えてしまうのだ。丁度大手町から東京駅に広がる地下街同様である。売店やMRT駅務員に何度もホテル直近出口を意味する“M-6”メモを示すのだが、なかなか要領を得ない。やっとの思いで駅舎地上階に出て駅前広場にたどり着き、広い通りの向こうに“凱撤大飯店(シーザーパークホテルの漢字名)”を見つけてホッとしたのもつかの間。こんどは横断歩道が遥か彼方。地下道を利用する方が明らかに早い。再び迷路のような地下街に舞い戻り、何とかホテルに直結するM-6にたどり着く。MRTを降りてからおそらく20分近くかけてようやく4時半頃チェックインすることが出来た。
ホテルのフロントは赤いチャイナドレスを着た若い女性が数名、直ぐにこちらを日本人と認め、問題のない日本語で対応してくれる。その際「明日朝の朝食弁当は(午前)5時半に用意できています」と伝えてくれるとともに、先に到着していた荷物を引き渡してくれる。部屋は17階、台北駅と正対しそれを見下ろす位置に在り、本来は見晴らしが良いはずだが、南方の夕暮れは早く、加えて天気は急速に悪化してきているので、薄暗く重苦しい雰囲気に包まれていた。

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(次回:ホテル周辺とディナー)

2016年12月18日日曜日

台湾一周鉄道旅行-4


4.故宮博物院
松山空港国際線到着ロビーは日本の国内線ローカル空港程度で決して広くない。そこで黄さんと挨拶を交わし、鉄道のチケットと旅行中の注意事項(主として早朝出発の弁当手配や緊急連絡先)を書いたメモ(1枚)をもらい説明を受ける。日本語の会話は少し聴き取り難いが、こちらの話すことは完全に理解している。手書きのメモはひらがな・カタカナを含めて完璧だ。ここで打ち合わせをしたのは、この後我々は直ぐに故宮博物院に向かい、そこで彼と別れ、荷物のみホテルへ運んでもらうので、ゆっくり話す時間がないからだ。
空港ビルを出ると既に黒塗りレクサスが近くに止まっており運転手がキャリーバッグをトランクに収めてくれる。故宮博物院は空港の北西方向、市内中心部とは反対方向だが、距離的には近い。地下道を抜け川(淡水河の支流、基隆河)を渡り、少し上ると15分程度で院の車寄せスペースに着いた。高台のテラスから遥か台北中心部が見晴るかせる。黄さんは入場券の購入(250元;約千円/人)、帰りのバス乗り場への案内、さらに見所「面白ものは3階に集中しているので、先ず最上階に上がること」と助言して帰っていった。
1994年初めてここを訪れた時はやはり休日の土曜日、セミナーのスピーカーとして私同様大陸から招待されていた旧知(1982年京都で会いその後米国の学会でも再会した)の北京化工学院楊友麒教授と一緒に一日近くかけて見学した。教授の丁寧な説明もあって5千年の歴史を象徴する数々の展示物に圧倒され、ついには模写の掛け軸まで買ってしまうほどだった。従って、今回の訪台に際しても、1日フルにこれに充てることを当初計画では考えていたが、家内にはそれほど中国史に興味はないことが分かり、観光コース定番をザーッと観る半日で良しとした。
先ず向かったのは国宝の玉を彫りこんで作った“翠玉白菜”。さすがに人気一番の収蔵品、部屋へ入る前から順番待ちの行列だ。近づくと写真を撮る人でさらに混雑、暗い中でフラッシュ禁止だから、なかなかビシッと決まる画像は得られない。ただ私にとってこれは清朝時代のものだから、それほど興味はない。前回観た殷(紀元前1711世紀)の甲骨文字や周(紀元前113世紀)の鼎(青銅器)、唐(紀元710世紀)の陶磁器、あるいは王羲之(紀元303361)を始めとする書家の作品に再会したい。殷の鼎はやはり3階に在った。紀元前にこれほどのものが(日本はまだ縄文時代)!次いで甲骨文字を探すが、日本語で書かれたガイドマップをいくら繰っても出てこない。若い館員に漢字で書いて尋ねるが「ここにはない」と身振りで示すばかり。2階に降りてみるがそこにもない。年配女性の案内係に同様“甲骨文字”と書いて聞くと、たどたどしい日本語で「ここにはありません。XX院に保管されています」とのこと。家内に一番見せたかったものだけに残念至極。王羲之の書も期待外れだった。1階の館内全体概要を説明するコーナーにコピーが目立たぬ形で置かれているに過ぎなかった(しかし楷書体で書かれた1枚は1800年経ているが現代のものと全く同じ、アルファベットの時代変遷に比べて、何と美しく分かりやすいことか!共産中国の簡略体など文化破壊としか思えない)。全体としてはチョッと期待外れだったが、結論として黄さんのアドヴァイスは極めて有効であった。
カフェテリアで冷たいものを飲みながら一休み。いよいよここから路線バスとMRTMass Rapid Transit;捷運;市内中心部のみ地下鉄となる)を利用してホテルまで自力で向かわなければならない。先ずメモ用紙に“士林站”と最寄りのMRT駅名書く。
なお、翌日訪れる嘉義に南部院が昨年末開院しているが、ここは中国と周辺国家(日本を含む)との交流史に重点が置かれているようである。

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(次回:MRTでホテルへ、そして夕食)

2016年12月13日火曜日

台湾一周鉄道旅行-3


3.台北へ
出発前日(1119日)訪問地の天気予報を調べた。20日(台北)雨、21日(嘉義;阿里山森林鉄道乗車日)雨(雷雨)、22日(高雄)雨、23日(花蓮;太魯閣観光)雨、24日(台北)雨(雷雨)と全部雨、雨季・台風シーズンを外したのに曇りすらない!当たらぬことを願うばかりだ。
計画策定でこだわったことの一つに羽田発着がある。自宅の最寄り駅は京浜急行の金沢文庫、頻繁に羽田空港行の特急・急行がある。成田発には安い便もあるが、下手をすると成田まで行く間に台北に着いてしまうほど時間的な余裕は大違いだ。それに羽田の国際線を最後に利用したのは10年前のソウル行き以来だから、新しい国際線ターミナルを訪れる機会がなかった(当時は無論新駅もない)。この新ターミナルの見学・利用も経験しておきたい。
搭乗するJL097便は825分発、国際線は一応2時間前チェックインなので6時半頃と言うことになる。実際はこれほど早くいく必要はないが、朝食を摂ったり新ターミナルを探訪する時間を見て、文庫始発の国内線ターミナル行543分発の特急に乗ることにする。これで行くと621分国際線ターミナルに到着する。40分足らずの乗車である。近い!
前日駅までのタクシー予約を問い合わせたら「早朝予約は既に塞がっています」との返事。近場の海外ということもあり荷物は二人とも小型のキャリーバッグに収まったので、白み始めた空の下を家からガラガラとそれを転がして駅に向かう。
予定通り国際線ターミナル着。駅からチェックインカウンターまでの移動は成田同様エスカレータかエレヴェータ利用。出発フロアーも成田と変わらない感じだ。大いに異なるのは、出国手続き後のゲートまでの移動で、一部に動く歩道が在るもののかなり歩かされる。一旦出発ゲートを確認してからカフェテリアで軽い朝食。台北は雨の予想だが、こちらは朝日が輝いて、ビルも飛行機もキラキラ輝いている。
やがて搭乗。ゲートカウンターが「マツヤマクウコウ」とアナウンスするので思わず笑ってしまう(無論英語や中国語では“ソンシャン”)。座席は50番台(後部)なのでエコノミー客としては早めに搭乗、使用機材はB767、この機体の国際便は初めてだ。座席は232配列で飛行方向右側に並びで取れたから他人に気を遣う必要がないのが助かる。乗客の大半は日本人、満席だが大グループの団体もないので静かなのがいい。
ゲートを離れたのは8時半頃、先ず定刻出発と言っていい。しかし、飛び立つまでの地上移動の時間のかかること、約20分要した。これは発着が混んでいるわけではなく、滑走路までの距離が無茶苦茶長いからだ。ある意味羽田も大空港になったわけである。
機は飛び立つと三浦半島をかすめ相模湾から伊豆半島を横切り、駿河湾上を飛行する。光に映える富士山を右下に見て紀伊半島に向かう。その後は四国南端から鹿児島を眼下にして南西諸島の西側を南下する。成層圏に達しているのであろう、ひたすら雲上飛行が続く。やはり台湾は雨なのだろうか?
1時間半くらい経ったところで食事のサービスが始まる。どうやら朝食らしいのだが、時間的にはブランチと言ったところ。台北到着後昼食をどうしたものかと考えていたので、取り敢えずこれで一件落。
旅行案内書や飛行ルートマップを見ているうちに機長のアナウンス「現地天候は曇り」とのこと。やがて降下、雲を抜けると青い海と海岸線が現れ雨の心配が払拭される。みるみる台北都心部に近づき縦横に走る高速道路に驚かされる。
タッチダウンはほぼ定刻(1140分;台湾と日本の時差は1時間、日本時間では1240分)、向かい風の割に順調な飛行、正味の飛行時間は4時間弱だった。松山空港には1975年シンガポール出張の際一度立ち寄っているのだが、周辺の建物の建込方は相当密になっており、丁度大阪の伊丹空港のように飛行場以外は建物で埋め尽くされている。飛行機からボーディングブリッジに出ると、ムッとする暑さを感じる。空港ビルそれほど大きくなく、入国管理や税関チェックの場所もこじんまりしており、なんなくパス。
到着管理エリアから出ると“Mr.Mrs.MADONO”と書かれた紙を持ったJTB現地契約会社、新亜旅行社のガイド、黄光宇さんが半袖姿で迎えてくれた。ロマンスグレーの髪、やせ形のインテリ然とした40代と思しき人である。

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(次回:故宮博物館)