2018年7月15日日曜日

ドイツ周遊3000km-16



-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-


12.ベルリン
ポツダム会談の開かれた場所は市中心部北の閑静な所。ここを12時過ぎに発ち南へ10分ほど下るとバーベルスベルク(Babelsberg)地区と呼ばれる官公庁・オフィス街に達する。昼食はここの旧市議会庁舎(現カルチャーセンター)地下に在る創業1899年の“Ratskeller(市議会亭)”なるレストランで摂る。メニューは鶏の胸肉料理それにジャガイモを加工して弾力性のあるボールにしたようなもの、クネーデルである。飲み物は生ビールにした。ここの食事は気に入ったので店の名刺をもらい115分頃ベルリンに向かって出発。来るときときの点在する湖水を左右に眺めながらの道ではなく、比較的人口密集地帯を通る。東の住宅政策の名残りだろう、単調な作りの高層アパートが多く、第一印象の“リゾート都市”にそぐわない景観だ。しかし、それはせいぜい15分程度で、間もなく緑の多い豊かな大都会に変わる。旧西ベルリン地区に入ったからだ。
冷戦時代のドイツ、特にベルリンを理解するにはここへ来てみないと分からないことがある。先ずベルリンは言わば東ドイツと言う海に浮かぶ孤島、その孤島が4分割され、西半分は北から仏・英・米、東半分がソ連の占領地区になる。しかし各国の分割線は複雑に入り組んでおり、ブランデンブルク門周辺は、門を取り囲む感じでソ連地区が西側に突出している。そして突出した部分の北はフランス、南は米国、そして西正面は英国の占領域だったのだ。つまり4国が一点に集まるのがこの門なのである。
我々を乗せたバスは、東ドイツ統治地区だったポツダムから、西ベルリンの旧米国統治地区だった所に入り、門に近い広々とした公園地帯で停車した。ここから先バスは乗り入れ禁止である。そこは明るい日差しと大勢の観光客が行き交い、華やかな雰囲気に満ち満ちていた。
ベルリンのシンボルはこの門に尽きる。完成は1791年、ベルリンを取り巻く城壁が取り除かれ、主要街道に税金取り立ての関税門が作られた(1418)。ブランデンブルク辺境伯領につながる道に設けられたのがこの門である。
門はギリシャのアクロポリス神殿の正面を模した感じ(大英博物館も同じ)。頂点に東に向いて4頭立ての戦車に乗った勝利の女神ヴィクトリア。右手に持つ杖のようなものの先にはプロシャ軍人を称える紋章、鉄十字(カギ十字ではない)がある(現在のドイツ軍のマークも鉄十字)。この部分は東独時代にはオリーブの葉だったとか。この馬車と女神はナポレオンに征服された際にはフランスに持ち去られたが、ナポレオン戦争後ここに戻される。またソ連軍占領時はしばらくの間赤旗が翻っていた。1961年には高いコンクリート製の壁が門に沿って建てられ幾多のドラマがここで演じられる(壁を巡る数々の悲劇、ケネディ大統領、レーガン大統領、コール首相などの演説)。門の高さは26m、幅は65.5m、奥行きは11m。重厚さではパリの凱旋門におよぶべくもないが、近代から現代の西欧の歴史を象徴するモニュメントなのである。
壁の在ったところは広い道路になっており、往時の面影は全くない。しかし、何故かこの門に接するように、それらしくない平板な作りのアメリカ大使館やフランス大使館がそれぞれの国旗を翻し、かつての占領・冷戦時の一端をとどめている。
観光客であふれる門前の広場(パリザー広場)。ここは完全な歩行者天国(自転車はOK)。どこの国から来た人も、私同様ベルリンではここを訪れることが必須なのだろう。日陰を求めて門の下には広場以上に大勢の人が集まっている。“来た、見た、良かった!”ポツダム会談会議場と含め、個人旅行でも同じような近現代史を追うようなコース取りをしたに違いない。まずは満足。

写真上から;ポツダムのレストラン、ベルリン中心部地図、西側からの門、4頭立て戦車、東側からの門

(写真はクリックすると拡大します)

(次回;ベルリン;つづく)(メールIDhmadono@nifty.com
  

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