-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-
11.ポツダム-2
プロイセン国王の居城であったサンスーシ宮殿(公園)を1時間弱見た後10時50分に発ち、いよいよポツダム会談が開かれたツェツィーリエンホーフ宮殿に向かう。ここも世界文化遺産だ。北東方向に走り到着は11時過ぎ。第一印象は「これが宮殿?」と言う程度の規模。イギリスでよく見かけたマナー(manor;領主の館)に近い。建てられたのは1917年、第一次世界大戦の真っただ中、何とドイツがモノ不足で困っていた時期、ウィルヘルム・フォン・プロイセン皇太子(ドイツ帝国最後の皇太子、英ヴィクトリア女王の曽孫、1951年没)とその妃のために造られたものである。
さてここで1945年7月17日~8月2日にわたって開催されたポツダム会談である。先ずこの前後の第2次世界大戦終盤を巡る重要事項を時間とともに追ってみたい。○ヤルタ会談(ソ連対日参戦、国際連合、ドイツ分割と戦後の欧州統治構想);2月4日~11日、○ルーズベルト死去とトルーマン大統領誕生;4月12日、○ヒトラー自死;4月20日、○ドイツ降伏;5月8日、○英総選挙;7月5日~19日(19日チャーチルの敗北が決まる。後任はアトリー首相)、○原爆成功;7月16日(トルーマンは会談中にこれを知らされる)、●ポツダム会談;7月17日~8月2日(対日宣言;7月26日)、○広島原爆投下;8月6日、○ソ連対日宣戦布告;8月9日、○長崎原爆投下;8月9日、●日本がポツダム宣言条件付き回答;8月10日(正式受諾は8月14日)。
我々日本人には、ポツダム会談は専ら太平洋・アジア戦域における我が国終戦処理のための会議との認識が強い。しかし、世界情勢激変の半年、2週間も要したこの会議の主題は日本ではなかった。対日宣言(無条件降伏)の作成は米国が行いそれに英・中(不参加)が署名して発せられる。ソ連はいまだ日本とは戦争状態にないから署名には加わらない。この会談の言い出しっぺはチャーチル。対独戦勝利で欧州戦線から早々と撤退を始める米国、一方ヤルタで決めたことを破り東欧を着々と支配下に置くソ連、疲弊する英国経済。このままでは別の独裁者に欧州が支配されてしまう。この調整には電文や特使派遣ではらちが明かぬと見たチャーチルが巨頭会談を提案、多くの時間がこれに割かれる。つまり、ある意味では“冷戦の始まり”と言ってもいいのだ。日本の運命が決した場所に間違いないが、ここに“ポツダム”に対する欧州人と日本人の大きなかい離ある。
屋敷の見学は事前に時間登録されており、グループごとにまとめられ専任のガイドが付く。写真撮影は制約が多く少ないチャンスでも費用がかかる。各国代表団の出入り口、休憩室、会議室の座席配置、細かいところまで平等の原則を貫くために、内部を改築までしている。ハイライトは何といっても首脳(チャーチル、トルーマン、スターリン)が会する主会議室。この会議室への出入り口も三つ用意される。大きな円卓に120度分割線中央に3人の首脳席(造りが他とは異なる)、その両脇や後ろに随員やスタッフの席がある。別に同時通訳室(英⇔露)も設けてある。部屋の天井は高く、床は絨毯が敷き詰められ、庭に向かって張り出している大きなガラス窓がある。庭をこの窓越しに見られる席が一番上席。ここは米国が取る。既にこの地域はソ連が占領しているのだが、この会談のための諸費用を米国が負担したことから、そのようになったとの説明があった。
一巡して中庭に出る。ここは撮影OK。丸い庭園の中に赤い花が星形に植え込まれている。冷戦が終わってもここは赤い星の支配地区なんだろうか?
写真上から;宮殿外側、上からの全景・会議室・3首脳(以上絵葉書)、中庭
(写真はクリックすると拡大します)
(次回;ベルリン)(メールID:hmadono@nifty.com)
0 件のコメント:
コメントを投稿