-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-
12.ベルリン-2
ドイツ旅行への関心は、科学技術、第3帝国(ナチスと国防軍)それに冷戦の3点である。ツアー参加に決めた時から、これらに大きな制約があることは分かっていた。科学技術に関してはアウトバーン走行と高速鉄道ICEでひとまず最低限の希望を実現、オプションとしてミュンヘンで一日離団してドイツ博物館見学を残しておいたが、ツアーメンバーの多さから、万が一のトラブルを考え、それを踏みとどまる方向に傾きつつあった。ツアー訪問地の中で第3帝国の残滓があると思われるのはベルリンとミュンヘン。ここベルリンでは、総統府(地下壕を含む)、ゲシュタポ本部、国防軍総司令部(戦争末期には郊外に移る)、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件(暗号名ワルキューレ)に関わった場所(爆破現場は東プロシャのウォルフシャンツェだが)、中枢部を守るためティアガルテン(公園)に設けられた高射砲塔群、ナチ党No.2ゲーリングが牛耳っていた航空省などがそれらである。しかし、出発直前に送られてきた資料には全く第3帝国に関する記載はなかった(まあ当然だが)。また、事前に問い合わせた「ベルリンでの自由行動の時間は?」に対しても「ほとんどありません」と返ってきていた。残るは冷戦だけである。
ベルリン中央駅からホテルに向かう途中緑青をふいたような丸屋根の国会議事堂が遠望できた、そしてブランデンブルク門、いずれにも赤旗を掲げるソ連兵士を写した写真が残り、硫黄島のすり鉢山に掲げられる星条旗同様、勝利のシンボルとして有名だ。午前中訪れたポツダムは対日宣言発布の場として日本人には忘れられない所である。しかし、この会談での対日宣言は刺身のつま程度の重み、実は冷戦の始まりだったのである。その観点からは、ツアーも冷戦だけはそれなりに確り抑えている(意図するところは違うだろうが)。
今回は冷戦下のベルリンについて、観光順序を離れて書いてみたい。ソ連に支配される東ドイツと言う大海の中でベルリンが孤島のように別扱いになり、4国の管理下に置かれる。しかし、ソ連はその統治権をわがものにしたい。そこで1946年6月西ベルリンへの交通路(鉄道、道路、河川・運河)を封鎖する。これに対抗したのが西側によるベルリン空輸である。結局東側はこれに敗れ、西ベルリンは西独の経済力復興に伴い繁栄していく。当然西側に移り住むことを願う人々は多く、違法の越境が活発になっていく。特に国境に比べそれが容易なベルリン市内でその動きが顕著になる。1961年8月東ドイツは西ベルリンを囲む強固な壁を築き始める(全長155km)。これを越そうとして犠牲になった者は200名以上(壁だけでは“少なくとも136名”と説明板にあった)。その壁が取り払われるのは1989年11月、ソ連崩壊が見始めた時期である。
スパイ小説や映画に目が無い。1963年英国推理作家協会ゴールドダガー賞受賞作ジョン・ル・カレ「寒い国から帰ってきたスパイ」では英国秘密情報部(MI-6)の2重スパイが壁を越えるところで射殺される。映画ではリチャードバートンがそのスパイ役を演ずる。共演はクレア・ブルームだ。もう一人のスパイ小説大家レン・デイトンの「ベルリンの葬送」も検問所突破のサスペンス、この映画版は「パーマの危機脱出」。ヒッチコックもポール・ニューマンとジュリー・アンドリュースを起用して、東ベルリンを舞台とする「引き裂かれたカーテン」を作成している。いずれも20代に読んだり観たりして印象に残る作品だけに、何としても壁と検問所跡は訪れてみたかった。
壁が一部残るところは観光コースに入っていたが、検問所跡には触れていない。米・ソが接する検問所として昔からニュースなどにも登場するチェックポイント・チャーリーについて添乗員のFSMさんに問うたところ「行きません」との返事。これは壁を見た後その近くをバスで通過するときに理由が明かされた。
その前に壁である。壁のほとんどは既に撤去され周辺の再開発も進んで、それと分かるものは残っていいないが、二カ所だけ文化財として保存されている。我々が見学したのはニーダーキルヒナー通りに沿う100mほどのもので、ガラス張りの屋根を備えたものだった。壁自体はこんな薄っぺらなものか、と思うような外観だが、L字型の地下部分は相当東側に延びており、トンネルを掘り進めないようにしてある。当然今なないが前後に鉄条網も張られていた。詳しい構造は近くに在る“テロのトポグラフィー(地質・地形)博物館”で分かると言うがその時間はなかった。それより驚いたのは、その博物館の所在地が元ゲシュタポ本部、壁の反対側に在る無味乾燥はオフィスビルが元空軍省(現在は外務省)との説明があったことである。多くのツアー参加者にはまるで興味のない一言であったが、私にとっては「ここがナチスの中枢部だったんだ!」と、何か拾い物でもしたような気分になった。
壁に沿う通りからバスが何度か曲がるとホテルが在るフリードリッヒ大通りと直交し、そこが米ソ対峙の最前線、チェエクポイント・チャーリー。米軍の軍服を着た若者が二人、星条旗を背景に観光客と写真を撮っている。すかさずFSMさんが「あれは観光客相手の偽物。検問所も見世物用です」と説明。近代的な建物に囲まれ、検問所の緊迫感は全くとどめていない。「寄りません」をこれで納得。しかし、やはり未練は残る。翌朝の限られた時間ホテルから歩いて出かけてみた。まだ早朝と言うこともあり、例の兵隊は居らず、ゆっくり写真を撮れた。土嚢の積んである方が東側。付近には“壁博物館”などもあったがこれもオープンまでには時間があるのでパス。それでも冷戦に関しては一応土地勘がつかめた。「これで良し」としよう。
写真は上から;東西ベルリン図、壁、説明版、チェックポイント東側、チェックポイント西側
(写真はクリックすると拡大します)
(次回;ベルリン;つづく)(メールID:hmadono@nifty.com)
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