<今月読んだ本>
1)経済学者たちの日米開戦(牧野邦昭);新潮社
2)テンプル騎士団(佐藤賢一);集英社(新書)
3)千年、働いてきました(野村進);新潮社(文庫)
4)世界の超長距離列車を乗りつぶす(下川裕治);新潮社(文庫)
5)最高機密エージェント(ディヴィッド・E・ホフマン);原書房
6)戦国大名と分国法(清水克行);岩波書店(新書)
<愚評昧説>
1)経済学者たちの日米開戦
-行動経済学と社会心理学で解く開戦決定の経緯-
夏休み、孫たちがやってきた。下は小学校1年生、丁度私が終戦を迎えた学年である。彼女は初めての夏休みをどのように憶えていくのだろうか?ふとそんなことを思った。私の記憶は8月9日ソ連軍の満州侵攻から始まる。その日の朝から翌1946年年9月末日本に引揚げて来る間の諸々の出来事は今でも鮮明によみがえる。内地で疎開や空襲を体験した同級達も同じようだ。しかし、当然のことだがあの戦争の開戦時(1941年)のことを、憶えている者はいない。戦争の背景・動機・経過をぽつりぽつりと知るようになるのは中学の半ば、サンフランシスコ講和条約が調印されて以降からになる(1951年)。爾来、誕生の地満州と深く関わるあの戦争への関心はひと方ならず、夏が近づくと出版されるその種の書籍に、どうしても目が行ってしまう。
本書の表面的なテーマは「英米(特に米)と(広義の)経済力に圧倒的な差があることが分かっていながら、何故開戦に踏み切ったのか」にある。これについては既に幾百の論考が戦後加えられ、関連書物・論文も出尽くした感がある。つまり“我が国の当時の最高意思決定システム(天皇制を含む)”に問題があったのだと。そして、本欄でも2017年3月猪瀬直樹「昭和16年夏の敗戦」、2018年4月井上寿一「戦争調査会」でその一端を紹介し、私自身も概ねこの結論に納得していた。従って、「今さら」と思ったのだが“経済学者たち”と“秋丸機関”、さらに著者の若さ(1977年生)に惹かれて読むことになった。秋丸機関とは何なのか?経済学者たちとは誰なのか?意思決定にどう影響したのか?我々の子供の世代があの戦争にどうアプローチするのか?こんなところが関心事である。
“秋丸機関“とは陸軍省経理局課員兼軍務局課員秋丸次朗主計中佐を長とする、総力戦準備(現状分析、特に英米との)を行い、経済戦の一翼を担うことを目的に、昭和14年9月に創設された一種のシンクタンクである(対外名称;陸軍省主計課別班)。秋丸中佐(終戦時は大佐)は、幼年学校・士官学校入試は身体検査で不合格、経理学校に入学その後高等科に進み、さらに東大経済学部依託学生となった非兵科(軍医や技術士官と同じ)の将校。前職は関東軍第4課(国政指導、産業政策;この時代満州国経済部次長だった岸信介と昵懇となる)。学者のリーダー格は有沢広巳(東大経済学部、治安維持法起訴中;英米班)。これに中山伊知郎(東京商科大学;現一ツ橋大;日本班)、宮川実(立大;マルクス経済学者;ソ連班)、武村忠雄(慶大;ドイツ留学;主計少尉を兼務;独伊班)、蝋山政道(東大;平賀粛学に反対し4月大学辞任;近衛文麿のブレーン;国際政治班)が主査として名を連ねている。つまりこれらが“経済学者たち”と言うことになる。各人の背景を見ると、当時の社会情勢の中でかなり異色のメンバーが名を連ねる(反体制派が多い。特に有沢は起訴中)。陸軍がこれほど太っ腹(ある意味リベラル)であったことを初めて知った。これは収穫である。
秋丸機関の正規の位置づけは難しい。秋丸と武村を除けば軍内の地位・資格が明確ではないが、報告書(焼却されたと言われていたものの一部が著者らに依って最近見つかった)を通して陸軍の中枢(武藤章軍務局長、岩畔豪雄軍事課長等)と深く関わっていていたことは確かである。開戦決定に対しての影響は、各班の経済分析報告がいずれも勝ち目のないことを明記していながら、全体報告に「ドイツが英国を屈服させたなら、米国の民意が厭戦に転じ、日本の勝機がゼロではない」との要旨をまとめたことで、陸軍上層部に口実を与えた可能性があるのだ。
劣勢必至は、軍・政治家など国家指導層のみならず、メディアや市井の人々の共通認識だったにもかかわらず、何故開戦に踏み切ったのか?ここで援用されるのが最新経済学理論の行動経済学とこれも新しい社会心理学である。最適合理性追求を前提とする既存経済学では採択されるはずのない選択肢を選んだことが行動経済学できっちり説明がつくと断じ、また「船頭多くして船山に上る」のような集団意思決定の場においては、極端な意見が通りやすくなることを社会心理学では“集団極化(Group Polarization)”と呼び、開戦決定はこの典型的な事例と論ずる。戦後の左翼歴史観に毒された世代に危惧を感じて読み始めたが、意表を突かれた展開に「最近の若者は・・・」をいささか見直すことになった。
著者は経済史を専門とする少壮学者(摂南大学准教授)。本書は二つの科研費対象研究が基となっている。
2)テンプル騎士団
-十字軍の背後にあった国家を超えるプロ軍事集団-
“騎士団”と言う言葉を初めて知ったのは多分高校の世界史の授業だったように思う。十字軍遠征と対になって記憶している。初めて騎士団の実態に触れたのは、1996年ロードス島で開催された国際学会に参加し、ロードス騎士団の居城跡を訪れた時である。城壁の外側、多分堀だった所に直径40~60cmくらいの丸い石がいくつも転がっており、16世紀オスマントルコがこの城を攻め落としたときの砲弾だと説明された。2013年南仏を旅しアヴィニョンを訪れ、ここに一時期教皇庁が在ったことを知り、このアヴィニョン捕囚(教皇がフランス王の下に、実質的に囚われていたこと)がテンプル騎士団と関わっていたと教えられた。爾来“テンプル騎士団”が頭の隅に残っており、日本人には珍しくヨーロッパ中世を舞台とする小説で直木賞を受賞した著者が書いた本書を知り、読んでみることになった。
さすが直木賞作家。導入部が上手い!1307年フランス王フィリップ4世がフランス国内に在るテンプル騎士団の根拠地を急襲、一説には3000人と言われた(実態は700人程度であったらしい)騎士(貴族)や従者(平民)を捕らえシーンから始まる。欧州から中東にかけて一大勢力を誇ったこの騎士団はここから衰亡していくのだ。アヴィニョン捕囚はこの2年後に起こり、教皇を自家薬籠中のものとし異端裁判(男色など)で騎士団員を裁いていく。フィリップの狙いは、もう一つの強力騎士団聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団を併合し、その上に自分が立ち、王権を不滅のものにすることにあったのだが、息のかかった教皇の提言をテンプル騎士団が拒絶したことに怒り、一気に行動に出たのである。
テンプル騎士団の創設は第一次十字軍終了後の12世紀初め、イスラム教の支配下に入った聖地エルサレムへの巡礼を守ること(ルート拠点防衛、巡礼者同行保護)から始まる。創設メンバーはわずか9名、清貧を旨とするいわばボランティアである。これを教皇が支援し、種々の特権(免属特権;司教・司祭の支配を受けず教皇直轄、免税権など)を与えることで、各地の王権を凌ぐ力を持つようになっていく。宗教的な献身と教皇直轄は領主や貴族の関心を惹き、自ら土地財産を騎士団に寄進し団員になるものが続出する(辺境ではそれを守ってもらうと言う下心もあるが)。“テンプル”の名は騎士団の本部がエルサレムの“神殿”内に置かれたことからきている。
一般に騎士と言うと貴族戦士をイメージするが、テンプル騎士団員は騎士を出自とし修道士を兼ねる者、聖ヨハネ騎士団は修道士(特に修道院付属病院担当)が騎士としての素養を身に付けた者で構成されている。出発点は真逆だが修道士であることに大きな意義があり、ただの戦士ではないのだ。また当時の騎士は戦争時に王の下に集まるだけの臨時編成軍であるのに対して、これら騎士団はいわば教皇直轄の常備軍である。集団としての力がまるで違うのだ。加えて、個人の名誉や家名にこだわる、いわゆる騎士道とは異なり、チームワークを重んじ“アンチヒーロー主義”。本業の巡礼保護の他、これと深く関わる不動産業(偏在する領地の整理・管理)、農場経営、輸送・通信事業、金融業(利息を取ることを禁じられているが、経費と言う抜け道があった!日常的に国際金融決済を行える唯一の存在)などを手広く営み、財政は極めて豊か。各国にまたがる独立国の様相を呈する。王たちが煙たがり恐れる存在であるわけだ。それに切れてしまったのがフリップ4世、他王家にも協力を呼びかけ、異端裁判は1312年一応成功するが、これを助けたクレメンス5世は4月に、フィリップ4世は12月に相次いで崩御、フィリップ4世の息子3人も王位に即位すると次々に亡くなり王朝断絶、「テンプル騎士団の呪い」と噂されるようになる。当の騎士団はフランスでは首脳陣を失ったものの、他国では無罪となったものが多く、聖ヨハネ騎士団やチュートン騎士団に吸収されることになる。そしてロードス騎士団は聖ヨハネ騎士団の末裔だったのである。また現代のフリーメーソンはそれにつながるとの説もある。
著者は作品の題材を探すために、騎士団について文献調査をしたのであろう。参考文献リストには日本語のものもあるが、フランス語のものが圧倒的に多い。おそらく、テンプル騎士団について我が国で得られるノンフィクションとしては、これ以上詳しいものは無いのではなかろうか。書き手が小説家だけに、読み易さ、面白さに不満は無い。
3)千年、働いてきました
-世界を圧する長寿製造業の数々、秘訣はコア―技術を生かした経営革新-
小学校から高校まで上野・御徒町界隈で過ごした(住まいは松戸だったが)。お蔭で面白い家業の友人たちと親しくなった。今でも親交があるのが、森鴎外の『雁』にも登場する、上野仲通りの蕎麦屋「蓮玉庵」の当主SWS君、1859年創業で彼は6代目である。クラスは違ったが、1913年から営業する広小路のどら焼きで有名な「うさぎや」のTNG君も同じ小学校だ。高校では学区が広がり1922年に事業を始めた鳥越の鹿野神輿製作所(神田明神の神輿はここ製)のSKN君(次男のため家は継がずサラリーマン)と2年生の時同じクラスだった。いずれも長い歴史を有する老舗の息子たちである。この他小学校の近くには「岡野栄泉堂」(元サッカー協会会長岡野俊一郎氏の実家)や福神漬けの「酒悦」、鰻割烹「伊豆栄」、「鈴本演芸場」などが在り歴史的名店に事欠かない。しかし、これを社会の変化に応じて持ち堪えるには苦労も多いようである。例えば、仏具店や和装小物、洋品店など消えていったものもあるし、「鹿野神輿」は既に神輿制作は行っておらず、カップやメダル作りが主体になっている。また「酒悦」は拡大策に失敗、経営母体が変わっている。本書はこんな創業100年以上の老舗を、広義の製造業(醸造業などを含む)19社に絞り、長寿“モノ作り”企業の延命・発展策を探る話から成る。
ギネスブックに記載されてはいないが、世界最長寿企業は大阪に在る“金剛組”、寺社建築企業である。創設は西暦578年(古墳時代後期)、難波の四天王寺を建てた記録が残ると言う。本書の題名“千年”はここから来ている。他はこれほど古くは無いが、西川産業(ふとん、1566年)、吉字屋本店(油・塩問屋→太陽光発電、1568年)、ヒゲタ醤油(1616年)から最も短い呉竹(書道の墨(原料はすす)→液体墨→筆ペン→融雪剤、1902年)まで18社が登場する。
選択方法は、3万社(10万社説もある。世界でダントツ)と言われる創業100年を超す企業から、製造業関連約600社をリストアップ、ここから業種などを勘案して百数十社を選び、さらに調査分析を加えて30社近くに絞り込み、取材に応じてくれた21社から、本書で19社を取り上げている。比較的よく知られたところでは、貴金属販売の田中貴金属(1885年)、前出のヒゲタ醤油、DOWAホールディングス(旧同和鉱業、1884年)、金鳥蚊取り線香の大日本除虫菊(1885年)、エプソントヨコム(旧東洋通信機、1891年)などがある。
当然だが、創業時の本業に関する記述はサラッと触れ、“時代の変化にいかに対応してきたか”に力点が置かれる。田中貴金属(金加工技術;超小型モーターの接触ブラッシ、振動素子、IC素子配線)、福田金属箔粉工業(金属箔・粉技術;たばこ包装紙、金粉・銀粉印刷、プリント基板、携帯・スマフォの電磁波シールド(銀粉))、1700年)、エプソントヨコム(天然水晶発振器→人工水晶発振器→超小型・耐温度人工水晶発振器;世界の携帯・スマフォの大半はここの製品を利用)、DOWA(日本一の廃棄物処理会社;非鉄金属鉱山(金含有量;60g/トン)→都市鉱山(携帯のゴミ;280g/トン)。磁気記録に使われるメタル粉の世界シェアー70%)、ヒゲタ醤油(抗がん剤による頭髪抜け落ちに着目した、微生物応用羊毛回収剤;バリカンに比べ羊と羊毛双方の損耗激減)、勇心酒造(米の醸造技術を応用したアトピー薬、美容・健康薬品;同社売上の99%;1854年)。いずれもエレクトロニクス、バイオ、環境の最前線で堂々とビジネスを行っているのだ。
これら日本企業に対して、世界の長寿企業を概観するところは、その秘訣を解く鍵の一つとなっている。欧州には家業経営歴200年以上の会社が参加を許される「エノキアン協会」なるものが存在する。ここの最長命は1369年創設のトリーニ・フィレンツェと言う名のイタリアの金細工メーカー。この程度だと日本には100社以上ある。中国は、漢方薬、中国茶、書道用具、陶磁器、料理店など100年以上続くものが多数(200年以上は9社)あるが時代とともに変化する製造業はほとんどない。韓国は「三代続く店は無い」の通り、製造業以外も含め100年以上の企業は存在しない。一方で国としての歴史は短いが、米国には長寿企業が多く、200年以上続く会社が14社もあると言う。日本と米国に共通するのは、外敵侵入を受けたことが無いこと(戦国時代や南北戦争は局地戦に過ぎない)と職業に対する貴賤意識(士農工商身分制度は、インドのカーストや欧州の階級構造ほど社会を分断していない)が薄いこと、が浮かび上がってくる。“商人のアジア(歴史的に中韓印では職人の地位がきわめて低い)”に対して“職人の日本(しばしば名人と言われる人が出現し、歴史に名を残している)”は極めて例外的な存在である。これが日本の将来にどのように影響してくるか、を考えさせられる。
因みに、別途世界動向を調べてみた。創業200年以上の企業は5580社、内訳は:日本56%、独15%、オランダ4%、フランス4%となっている。最古の製造業として西暦1000年創設のMerielli Bell
Foundry(伊;教会の鐘)が出てきた。
とにかく元気の出る本だった。チョッと大げさだが、これからの日本の生きる道が見えるような気もした。しかし、現実を見ると明治以降この国は文系優位が明白だ。また製造業が3K職場視され人気がないことや後継者難の廃業も目立ち将来を楽観視できない。何とか生き延びても下手をすると商人国家に国ごと下請け化されかねないとの懸念を持った(材料や部品で生きるのも一つの道だが、雇用に限界があるし、商人国家に良いとこ取りされてしまう)。21世紀も隆盛を続ける世界に冠たる“職人国家ニッポン”を念じてページを閉じた。
本書の単行本出版は2006年、かなり時間が経っている。ここで取り上げられた二つの企業、金剛組と(株)林原がその間破産申請し、営業権譲渡などで辛うじて命脈を保っている。その点で内容の古さがいささか気になるところである(文庫本あとがきで著者もそれに触れている)。
4)世界の超長距離列車を乗りつぶす
-最短2泊3日最長6泊7日、普通寝台・軟座席で過ごす倹約長距離列車旅-
下川裕治の最新作、それも最近はもっぱら週末の東南アジアが続いたが、世界の長距離列車乗りつぶしときては読まないわけにはいかない。それにしても元祖バックパッカーもよわい64歳、「よくやるな~」
最初の企画が著者・出版社どちら側から出たのかは不明だが、本書は2017年1月から「新潮45」に9回にわたり連載されたものを大幅に加筆修正して出来上がっている。文中やあとがきに企画検討段階での考え方やそれぞれの旅の詳細が決まるプロセスが語られ、当初から “バックパッカー的旅(つまり倹約旅行)”を志向している(あるいは求められている)ことが分かる。おそらく「何本か世界の長距離列車に、始発から終点まで途中下車せずに乗って、その旅行記を書いてください」こんな提案だったのではなかろうか。先ずサイトで長距離列車を調べていくと、ウラジオストック-キエフ(10,260km)、平壌-モスクワ(10,267km;最長)、ウラジオストック-モスクワ(9,250km)、北京-モスクワ(8,948km)と中露を走る列車ばかりが上位を占める。これでは面白くない。「少し短くなってもいいから地域を分散させよう」こうして選ばれたのが以下の6路線である。1)ウラジオストック-キエフ、2)広州-ラサ(4980km)、3)トロント-バンクーバー(4466km)、4)シカゴ-ロスアンゼルス(4390km)、5)シドニー-パース(4352km)、6)ディブラガル-カンニャクマリ(インド、4273km)。しかしながら、実施前に詳細を調べていくと;1)はウクライナ紛争の影響で運行停止、仕方なく何度も乗っているウラジオストック-モスクワに変更(平壌発は外国人不可)、5)は運行されてはいるものの椅子席車両はなくなり一番安い寝台でも20万円もすることで中止になる(原則普通寝台かリクライニングの椅子席)。
乗車順序は6)のインド路線から始まる。インド北東端ミャンマー国境近くからインド亜大陸最南端まで82時間半、4泊5日。8人用寝台席に20人が詰め込まれての凄まじい乗車記は、推定実施時期10月ごろとは言え、こちらが読んでいるのは猛暑が続く8月、蒸せかえる熱気に食欲減退・シャワー渇望の様子がその場にいるように伝わってくる。次は2)2泊3日の広州から西安・蘭州を経てのラサ行き。先ずチベットへの入域許可とキップ入手の難航、写真撮影にピリピリする乗務員、漢人とチベット人の微妙な関係、12月の高地の厳しい自然環境を描く乗車記以上に、現代中国が抱える問題点を訴える。3番目はキエフがモスクワに変わった6泊7日かけてのシベリア鉄道の旅、実施時期は2月だ。何度も乗ったこの路線はウラルを超えるまで、ほとんど森林が続き退屈極まりない。食糧調達では同じコンパートメントの乗客のアドヴァイスが大いに助けになる。車内販売・駅販売は避け、長い停車時間に街中まで買い出しに出かけるのだ。このあと直ぐに、モスクワからオランダに出て空路カナダへ渡る予定になっていたのだが、ベテランも疲労困憊、寄る年波に勝てず一旦帰国。カナダ行きは6月になる。カナダは新緑のシーズン。日本からの出発に変わったためルートはバンクーバーからトロントへとオリジナルとは逆になる。VIAと称する長距離列車は基本的に区間々々(特にバンクーバー-ジャスパー間;カナディアンロッキー)の観光が主目的、通しで乗る客は少ない。リクライニングで寝るのが苦手な著者は毎夜2階建て車両の展望席で横になる。鉄道の経営は貨物で成り立っているため、貨物優先で停車時間が長く大陸横断に4泊5日も要する。飛行機やバスに客を奪われるわけだ(これは米国も同じ)。最後はトロントから空路シカゴへ出てロスアンゼルスまでの長距離列車、何とテキサスのダラスやサンアントニオを経由するルート、従って3泊4日もかかる。寝台車はのんびり大陸横断を楽しむ豊かなシニア、食堂車は共用だが厳しい視線が耐えられない。椅子席は比較的短距離利用者だが飛行機やグレーハウンドの方が安くて速いのに何故乗るのだろう。肥満が多い米国ではそんな人が何とか列車の椅子なら身体を落ち着けることが出来るからだ!
毎度書いていることだが、著者は旅に定番の景色・名所旧跡・食べ物・乗り物ばかりでなく、社会や人物観察に独特の味がある。倹約旅行はいやでも目線が現地ベースとなるからだ。今回は、限られた空間に長時間とどまっての旅、いつも以上にこの視座が生きている。
5)最高機密エージェント
-処刑後CIA本部に肖像画が掲げられた、ロシア人電子技術者スパイ-
冷戦の真っただ中1967年7月モスクワドモジェドヴォ空港の航空ショーで、のちにMIG-25と名付けられることになる新鋭戦闘機が高速でフライパスした。西側に与えた衝撃は強烈で、これが現在でも世界最強の制空戦闘機と言われるF-15開発の動機になっていく。MIG-25はそれから9年後、1976年9月沿海州の基地に勤務し、亡命を謀るソ連空軍ベレンコ中尉によって函館空港に強行着陸する。この時航空自衛隊は飛来を検知したものの、本土近くでは低空飛行のため、迎撃に飛び発ったF-4はレーダーのルックダウ機能が十分でなく探知できなかった。このMIGは分解され、米軍のC-5大型輸送機で百里基地に運ばれ、自衛隊と米軍に依り綿密な調査が行われ、初めてソ連最新鋭戦闘機の実力が明らかになる。
1977年1月、モスクワ駐在CIAの一人がガソリンスタンドで給油している時、ロシア人の運転者が近づき、英語で「あなたはアメリカ人ですか?わたしはあなたと話がしたい」と声をかけてくる。「いまは都合が悪いが、用件はなにか?」と問うと、男は紙片を渡して去っていく。そこには「米国大使館員と話をしたい」とある。当時のCIAモスクワ支局はソ連内にほとんどエージェント持っておらず、限られたそれらとのコンタクトに失敗もしている。また本国政策や上層部の考えもあり、積極的な工作は著しく制約されていた。CIAは罠の可能性を疑いこちらからは動かない。しかし、男は何度かメモで他の大使館員にも接近を試み、「MIG-25亡命のため搭載レーダー更新の指示が出ている(ルックダウン/シュートダウン機能強化)。私はそれらの情報にアクセスできる」と知らせてくる。さらに信頼をうるために自分の身元を略記した手紙を、他日車の窓から投げ入れる。中身は「私は(あなたたちが疑う)罠を仕掛けるような人間ではない。非公開の企業に勤めるエンジニアである。自宅の電話番号は・・・」とある。本国の許可を得てCIA工作員が彼との接触(デッド・ドロップ;特定の場所を指定して、相互に顔を合わさず行うメッセージ交換)を始めるのは1978年8月。これが本書の主人公、極秘の軍事電子技術研究所の主任技師アドルフ・トルカチェフ、暗号名<スフィア>との1985年6月まで続く、諜報活動の始まりである。
トルカチョフが研究所から持ち出した膨大な情報(主に、電子機器関係の図面や設計資料)は米国における当該分野の対電子兵器研究期間を少なくとも5年は短縮し、空軍による金額評価は20億ドルと見積もられる(原題は“10億ドルのスパイ”だが)。
スパイ志願の最大の動機は、ソヴィエト体制に対する不満・復讐。前の世代(両親、祖父母)がスターリン治下で粛清あるいは強制収容所送りになっていること、加えて大学は出ているものの、共産党員にはならず、そこからくる現状批判が反体制志向に結集された結果である。カネの問題は本書の中で縷々述べられるが、それが究極の目的ではない。一番喜ぶのは息子が好きなロックなどの欧米音楽のテープや製図用具(息子は建築学校生)。また亡命も希望せず、何かあった際のために自殺用ピルを要求するほどだ。ある意味確信犯である。
トルカチョフのスパイ行為が露呈するのはCIA側の密告。新任モスクワ支局員に指名されていたものが赴任直前、不適任と判断され任務に就けないばかりか解雇される。恨みを晴らすためこの男が、KGBと接触、最終的に亡命する。1985年6月トルカチョフは不意を襲われ、ピルを飲む間もなく逮捕、1986年10月処刑される。ラングレーのCIA本部には、彼が密かに自宅で機密書類を撮影する姿を描いた肖像画が掲げられている。それほどCIAそして米国にとって貴重なエージェントだったわけである。
本書のイントロは、先ずトルカチョフ以前のCIAによる対ソ諜報活動について、KGBによる対米活動も含めて、ソ連国内における困難な状況をいくつかの事例(失敗が多い)で示す。それ故にトルカチョフとの関係構築は用心深く周到に進められ、エージェントとして採用・活動するまでの過程は、本部や国務省さらには大統領府を巻き込む複雑な様相を呈する。次いで、スパイ行為そのものの詳細内容と接触するCIA工作員とトルカチョフのやり取りが心理面まで踏み込んで描かれる。本書の読みどころもここにあるわけで、KGB・民警の監視をかいくぐるやり方、盗み出した情報内容(質ばかりでなく量も;一度に数千枚におよぶことがある!)、情報・成果物交換方法(基本的に写真撮影しフィルムで渡す)、特殊小型カメラの開発(大部分は機密資料を昼休み自宅に帰りペンタックスで撮影するのだが、一時期それが不可能になる)、CIA本部や軍からの要請事項(空軍はどんどん要求内容をエスカレートさせていく)と評価、報酬を含むトルカチョフからの要求、研究所機密管理体制の変化、そして大きいのがCIA工作員の交代(2~3年)による双方の信頼性再構築(結局これが命取りになる)、などスリリングな場面が次々にあらわれる。当に“事実は小説より奇なり”の連続、スパイ小説ファンとして大いに楽しんだ。
この諜報戦の成果を著者なりにまとめたものが米対ソ(露)空戦の非撃墜比。朝鮮戦争;1:6(米1機に対しソ(露)6機)、ヴェトナム戦争;1:2、イラク・バルカン戦争;0:48。つまりヴェトナムとイラン・バルカンの差が<スフィア>が米国にもたらした貢献度だと。
著者は元ワシントンポスト記者・編集者、モスクワ支局勤務経験がありその体験を基に書かれた冷戦時の兵器開発を取り上げたノンフィクション(The Dead Hand)で2010年度ピュリッツァー賞を受賞している。最近機密を解かれたCIA資料が基になっているようだが、その他の引用資料、注もしっかりしている。また、問題の多い原書房の翻訳物だが、今回は満足できた。
6)戦国大名と分国法
-それぞれのお国柄・領主の人品が表出する、領国統治のための憲法-
本欄-118(2018年5月)で紹介した「狂歌絵師北斎と読む古事記・万葉集」は百人一首から北斎が選んで浮世絵にした27首とその基となる古事記・万葉集の関係を解き明かす、ユニークな研究書である。ここでは日本政治史・日本語史・言語学などが駆使されるのだが、とりわけ私の興味を惹いたのは数論(歌番)や幾何学(構図)を用いた推論である。そして持った疑問が「当時(平安)の人はどの程度数理の知識があったのだろう?」と言うことである。土地の評価、税・年貢の徴収、神事と暦の関係などに数理が不可欠なことから推して、専門家が居たことは間違いない。少し調べてみるとこの時代“算士”なる官位があったことが分かった。演算手法は大陸伝来のようである。
中学以降体系的に日本史を学んでいないし、その種の本も好んで読まない私にとって、こんな形で日本史に近づく機会を得たことは当に“ビギナーズ・ラック”であった。理系ばかりでなく、不得意な文系の世界にも個別の関心事で日本史を手繰ってみたら面白いかもしれない、そんな気を起こさせてくれたのだ。例えば、本書のような法律の世界。
聖徳太子の17条憲法、大宝律令、御成敗式目ここから一気に飛んで明治憲法、現在の日本国憲法。日本史で習うのはこれらの名前と時代との関係くらいである。分国法という言葉とそれが各藩の藩法・家法であるくらいのことは知っていたが、それ以上の知識はまったくなかった。群雄割拠し社会が混乱していた戦国時代、法律など実効があったのだろうか?雑学好奇心が沸いてきた。
ここで取り上げられるのは、下総国結城「結城氏新法度」、陸奥国伊達「塵芥集」、近江国六角「六角氏式目」、駿河・遠江・三河国今川「今川かな目録」「かな目録追加」、甲斐・信濃国武田「甲州法度之次第」の5大名家が定めた分国法である。
制定者とその関係者(跡取り、家臣)、法の概要(目的、対象)と特徴(条文)、その時代の領国(まだ藩にはなっていない)の国内事情と周辺国との関係、法の実施状況、などが共通事項として解説されるが、紙数が割かれるのは“国内事情と周辺国との関係”である。これによって、発布の目的や対象が変わり、条文に特色が出てくるのだ。全体としては、大名の権限を徹底的に発揮できるようにする、各種の争いの解決はまず当事者同士で喧嘩をせず(私闘禁止)自力救済する、公共性を具体化する(公正な裁判や職権主義;官僚制度の核)、既存の法慣習を整理する、ことを記しているが条文の多寡や記述内容に、置かれた国情が反映されてくるのだ。何とか下剋上を抑えたい。面倒な土地争いや跡目争いを封じたい。家臣の職権を明確にし、組織として粛々と仕事を進められるようにしたい。獲得した複数の領国を統一支配する法体系を作りたい。こんなそれぞれの領主の思いが、分国法に込められているのだ。面白いのは「六角氏式目」、大名権の制約に関する条文があり、最終署名者には六角承禎(じょうてい)の他家臣数名の名もある。これは合従連衡の時代、他国との同盟に際して承禎と家臣団の意見が分かれ、承禎が敗れた結果なのだ。著者はこれを“日本版マグナカルタ”と呼んでいる。歴史が学校で習うような一直線でないことは十分承知していたが、このような細部を知ると、あらためてその感を強くした。
全体を通しての読後感は「領国統治は大変だな~」。のちに雄藩となる伊達家にしても「塵芥集」を作った伊達稙宗(たねむね)は息子に幽閉されて生涯を終わり「塵芥集」もそれに則った治世が実現したわけではない。そして、この伊達家を除けばいずれの国も徳川幕府誕生前に滅んでしまう。つまり、分国法は権力低下故に定められ、時代は“法より戦争”だったわけである。
著者は中世の習俗・法習慣を専門とする歴史学者(明大教授)だが、学術的な構成・展開をさけ(参考文献や出典は明示)、読み物風の筆致で綴られているので、楽しく読み進められた。
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