2021年1月15日金曜日

活字中毒者の妄言-2


■半藤一利訃報に思う


歴史ノンフィクション作家半藤一利が亡くなった。格別この人のファンだったわけではないが「ノモンハンの夏」と「ソ連が満洲に侵攻した夏」は“私の昭和史”に欠かせぬ作品である。ノモンハン事件は1939年(昭和14年)5月から9月にかけて満蒙国境で戦われた日ソ戦争。私はこの年の1月当時満洲国の首都であった新京(現長春)で生まれた。無論満1歳にもならぬ時に起こったこと、何の記憶もないが、同じ年同じ場所で生じた大事件だけにこの戦争は特別な意味を持つことになる。“ノモンハン”と聞いただけで条件反射的に“自分”を意識させられるのだ。「ノモンハンの夏」第一刷は1998420日、購入日は同月24日となっているからほぼ発売と同時と言っていい。条件反射の一例である。これに先立つ19748月には五味川純平の「ノモンハン」を、近いところでは200588日に出た津本陽「八月の砲声-ノモンハンと辻正信-」も同月16日に求め、“満洲(関東軍関連を含む)コーナー”に収まっている。

この中で在満体験があるのは五味川のみ。1916年関東州(満洲)生まれで東外大を出たあと鞍山の昭和製鋼所に勤務、1943年に応召し“ソ連が満洲に侵攻した夏”ソ満国境で戦い九死に一生を得ている。その在満体験を基に書かれたのが「人間の条件(全六巻)」である。この本を読んだのは大学入学が決まった1958年春、当時住んでいた松戸の貸本屋で借り、一気に読んだ。かなり左派の筆致だが、当時はそれが受けた。五味川作品は「ノモンハン」以前のものとして19732月刊の「虚構の大義」も持っているが、これは関東軍誕生から崩壊までを扱っている。ただ、紙数の半ばは1945年(昭和20年)に割いており、自身の戦場・戦闘体験そのものを描いたに違いない。


“ソ連が満洲に侵攻した夏”で半藤作品以上に身近に感じたのは三木卓(1935年生れ)の1973年芥川賞受賞作「砲撃のあとで」である。この冒頭シーンは夏の強い日差しが木の間からキラキラと漏れ輝いているところから始まる。私の記憶に残る当日の朝とまったく同じなのだ。当時私の父は満洲重工業グループ傘下の満洲自動車新京工場の総務課長のような役職に在った。夏休みに入っており朝食時「これから社宅廻りをするが、一緒に来るか?」と問う。社宅が市内各所に分散していたため対応策を取りまとめるためである。クルマ好きの私を誘ったのは「今生の別れ」と思ってかも知れない。クルマはダットサン、走り出してしばらくするとエンジンの調子がおかしくなった。冷却水の不足である。幸い近くに女学校があり校門付近の事務棟で給水することになった。木々に覆われたそこで見た木漏れ日が、当に三木が描くその日の朝に重なるのだ。当然のことだが「砲撃のあとで」は出版直後に購入していたのだが、転々とするうちに失い、その続編である「裸足と貝殻」(引揚後の日常)しか手元にない。


当日の午後遅く父を始め社宅に居た成人男子は現地召集のためどこかへ去っていった。夕刻少数の保安要員と女子供はトラックを数台仕立てて南下、公主嶺工場へ疎開、そこで終戦を迎え、数日後新京へ戻った。正規の軍人でなかった父も直ぐに復員、元の社宅で一家そろって暮らせるようになったのは幸いであった。気の毒だったのは開拓団の人々、着の身着のままで何とか治安維持が保たれていた新京に逃げ込んだものの、ほとんど乞食同然の姿、子供ながらに戦争の悲惨さを身近に知らされることになる。

自動車工場と言うのはどんな軍隊にも価値がある。ソ連軍→国民党軍→八路軍と統治者は変わったが、人も工場も引揚開始(19468月)まで操業され、家族全員無事帰国することができた。

しかし、開拓団や大きな組織に守られない人々には過酷な運命が待ち受けていた。家族離散とそれによる残留孤児の発生、30余年を経た1981年に母国への受け入れが始まり、山崎豊子の「大地の子(文庫本4巻)」で広く知られることになる。この小説の主人公陸一新は私と同じ昭和14年生まれで、もし運命の歯車がどこかで狂っていれば、我が家(両親、私、妹二人)にもそんな悲劇が生じていたかもしれない。


もう一つの“If”は「あの時引揚が叶わなかったら」と言うことである。新京は大多数の日本人が去った後中心部は国民党(国府軍)支配、周辺は共産軍(八路軍)が押さえ国共内戦下に置かれる。籠城作戦対包囲作戦、両軍とも柵を巡らせ対峙する。残された日本人は医師など国府軍に不可欠な技術を持つ人達だ。しかし、食糧不足に陥った市内は餓死者続出、国府軍は日本人の追い出しにかかる。一方八路軍は兵糧攻めを加速するため脱出を阻止する。二つの柵の間は食料真空地帯、今中国ウォッチャーとして活躍している遠藤誉筑波大学名誉教授(出版時は一橋大学物理学研究室所属;理博;昭和16年新京生れ;父親は薬剤の専門家、それ故中共にも必要とされ真空地帯を脱するものの引揚は1952年になる)一家がここで見ることになる地獄図絵、19847月に出版された「卡子(チャーズ;関所)」と翌年出たその続編で初めてその惨状を知り、「一歩間違えば」の感で読んだ。

満洲コーナーにあるのは、正史と言ってもいい児島譲「満州帝国(全3巻)」、草柳大蔵「満鉄調査室(上、下)」は我が国初のシンクタンクを丁寧に紹介するものだ。あとは満洲国崩壊後の混乱や引揚の記録、関東軍関係多数。暗い話ばかりでなく壮大な都市計画、特急アジア号など“王道楽土”(「五族協和」と並ぶ建国の理念)を垣間見せるものもある。しかし、小説ではあるが満洲国を知るのに最もお薦めするのは船戸与一「満洲国演義(全9巻)」だ。司馬遼太郎に代表される歴史小説家が実在の人物を主人公に据えるのに対して、ここではほんの端役、それだけに客観的に、かつエンターテイメントとして楽しみながら、満洲史そして太平洋戦争(大東亜戦争)史を学べる。

「ノモンハンの夏」から「ソ連が満洲に侵攻した夏」+1年(計8年)、今の歳から計算すれば居留期間は僅か110に過ぎないのだが、この時の体験が如何にその後の人生の糧になったか計り知れない。満州は私にとっては“心のふるさと”、我が国にとっては、経済大国の一つとして世界に覇を唱えた時期が一時あったとしても、依然米国の属国のような現状に甘んじなければならなくなった、因縁の地でもあるのだ。久し振り、半藤の訃報で、いっときあの時代に戻った。

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1 件のコメント:

山田 美代子 さんのコメント...

眞殿さん
毎月に文字数に換算するとどのくらいの量を読まれているのでしょうか。すごいですね。
早速ですが「スマホ脳」の冒頭でいきなり、「偶然目に入るのはゲームやせわしない手の動き」の言葉に、笑いというより、噴き出してしまいました。まるでその場に眞殿さんを見ている感じでした。臨場感と言いますか・・・。
「依然ガラ携でそれも非常用、車中では専ら文庫・新書の私は当に前世紀の遺物である。他人のスマホをのぞき見する趣味はないが、偶然目に入るのはゲームやせわしない手の動き。LINEやトゥイッターではなかろうか?どうも電子本を読んでいる雰囲気ではない。中学1年生の孫は最近スマホを持つようになり、年始に来た時も落ち着きがない。「何に使ってるんだ?」と聞くと「LINEだよ」との答えが返ってきた。今度来たらこの本書の話をしてやろうと思っている。」
眼を大切になさってくださいね。山田美代子