<今月読んだ本>
1)チャイニーズ・タイプライター(トーマス・S・マラニー);中央公論新社
2)モダン語の世界へ(山室信一);岩波書店(新書)
3)海図(ロム・インターナショナル編);河出書房新社(文庫)
4)ベイジルの戦争(スティーブン・ハンター);扶桑社(文庫)
5)歴史の証人ホテル・リッツ(ティラー・J・マッツェオ);東京創元社(文庫)
6)新 基礎情報学(西垣通);NTT出版
<愚評昧説>
1)チャイニーズ・タイプライター
-常用漢字だけで4千字、風刺画に描かれた漢字タイプライターは巨大な階段だ!-
現役時代は年に2,3回米国へ出かけていた。提携先との打ち合わせ、学会・業界の集まり、情報収集などが目的である。1990年代の半ばころフィラデルフィアで会議があり、そのあとプリンストン大学教授を訪れた。教授の研究室(研究所)はキャンパス内ではあるものの、木立の中にある大きな木造2階建て白塗りの瀟洒な一棟であった。つまり並みの教授ではないことを窺わせる雰囲気である。訪問前にファックスで目的や調査内容を確認していたのだが、会って話を始めると専門分野が異なることが分かり、一方的に先方の話を聞くはめになった((Process Controlを、当方は化学プロセスの制御と思っていたが、先方は(統計的)生産工程管理の研究者)。それでも嫌な顔をせず、当時先端を走っていた日本の製造業に関するQC活動を話題に歓談することが出来た。この時何かの拍子でコンピュータと日本語の関係を問われ、手持ちのPC日本語ワードプロセッサーでその説明をした。日本語原文(漢字仮名交じり)→ローマ字入力→ひらがな表示→漢字交じり文への変換(候補選択)→各文字のコード変換と保存→出力印字、と言う大まかなプロセスである。これに教授は大感激、アルファベットのように、入力したものがそのまま表示・印字される世界しか知らない人には想像を絶する異次元宇宙だったのである。「ランチを一緒に摂り、午後も話を続けたい」とまで言い出すほどだったが、午後は近くの製油所訪問が組まれており、断わらざるをえなかった。
文字入出力機械化の出発点は印刷機、電信そしてタイプライター、何万語もある漢字を効率的に伝達・文書化する道具は如何なるものか、先人たちの歩みを思想・文化・歴史そして機械と多面的に追い、その苦難や誤解あるいは文化闘争を語る本書は、多くの書物を読んできた私にとり、忘れられない一冊となった。本書にはごく簡単にしか触れられないが、先人の仮名(ひらがな、カタカナ;表音文字)の発明がどれほど我が国近代化に利したかを改めて学ぶ結果になった。
今回の東京オリンピック入場行進順序は、常に先頭と決められているギリシャ、難民選手団、ROC(国としての参加が認められなかったロシア選手団)の後にはアイウエオ順にアイスランド、アイルランドから始まり、次回開催国の米国が最後から2番目、最終は開催国の日本であった。では2008年の北京オリンピックはどうだったか?先頭はギリシャ、最後の中国は変わらないが、ギリシャに続いたのはギニア、次いでギニアビサウ、トルコ、トルクメニスタン、イエメン、モルディブとなり外国人には全く理解できない順番、メディア関係者には事前説明があったものの、多くの視聴者には知らされておらず、米国ではTV局の陰謀説(米国を最適時刻にするため)まで飛び交ったと言う。この順位付けは漢字国名表記の①画数、②書道の原則(8種あり順番がある;点・横・竪など)に依ったものであったのだ。ギニア(几内X比Y)で一番目の几は二画、トルコ(土耳其)は土が三画、イエメン(也Z)も最初の也は土と同じ三画だが、書き順が“横”から始まる土の方が優先順位か先となる。非漢字圏の人々が容易に理解できる順位付けではない。依然として漢字は彼らにとって摩訶不思議な存在なのだ。(X、Y、Zはワープロに無い漢字)
中国と非漢字圏(主として欧州)の交流は古く、漢字の存在は早くから知られ、研究者もいたが、実務レベルで双方が接近するのは19世紀以降、近代科学技術が東アジアに持ち込まれるところからである。字数が膨大な上に辞典で目的とする字を見つけるのさえ容易ではない漢字。彼らにとってそれは「まるでパズルを解くようだ!」。ここから漢字こそ近代化のガンと言う見方が西欧のみならず中国自身からも発してくる。例えば、生物におけるダーウィンの進化論が文化まで拡張され、文字は表意文字(象形文字)から始まり物とは無縁の表音文字に進化し、これによって抽象的な世界が広がり、精神文化が高まった。漢字は表意文字に留まっており、これを使うことは進化が遅れていること、と言う論理である。哲学者ヘーゲルは『歴史哲学講義』の中で「中国語筆記は学問の進展を妨げる」と断じている。また作家の魯迅も「漢字は中国の結核菌」と難じた漢字廃止論者であった。
こんな論争があっても中国の近代化は進んでいかざるを得ない。最初は印刷、これはキリスト教の布教活動に必須だった。少なくとも4千字の活字を揃えそれを版組みするのに多くの植字工が長大な活字棚の前を走り回る。それを改善するため効率的は棚の配置を考えるようになる。つまり使用頻度の高い文字を版組み作業場近くに置くようにする。この発想は最終的に漢字(和文を含む)タイプライターの肝となる。次に電信(モールス信号)、これはアルファベットと数字が基本、コード(長・短のパターン)の数は限られる。しかし、漢字をそのままコード化すると4千字を超えるパターンが必要になる。また長いコードは料金が桁違いに上がってしまう。それを避けるべく、送る文字を画数や偏・冠・旁(つくり)などに分解、それぞれをコード化して受信側で合成、元の漢字に戻す(理解できる)方式などの工夫が行われる。この分解合成法はキーボード入力型タイプライターの実現可能性を示唆し欧米人・中国人が種々の方式を試行する。中には最初の入力でいくつかの候補を示し選択する、現在のワードプロセッサーに近い発想もあった。しかしいずれも大きさ・操作性・価格それに文字品質(例えば海;氵(さんずい)と毎の間隔)に難があり、商品化に至ることはなく消えていく。結局漢字タイプライターは文字盤を操作しそれで活字を拾い印字する、ごく最近まで目にした和文タイプライターと同じ形式に収斂するのである。こうなると日本製が圧倒的に有利、軍事進出とともに中国市場を席捲する。戦後共産党中国が“国産”を謳うが、完全な日本製品コピー。違うのは文字盤上の文字の配置、頻繁に利用される文字は中央近くに集中する。それは毛・沢・東であり共・産・党であった。
紙数も割かれ興味深いのはキーボード型の模索段階である。特に欧米人が漢字に向かう姿勢が面白い。種々の分析的手法を試みるところは、生まれながらに漢字の世界に親しんできた者には滑稽に見えるが、一方でそのユニークな発想に驚かされ敬意さえ感じさせる。
本書は1950年代のタイプライター利用までを語りコンピュータ時代は次作になるようである。ただ現在の漢字入力処理は“漢語拼音(ビンイン)”と言う標準表音文字(1950年代に制定の中国語アルファベット;あるいは日本語の仮名に相当)が定められており、これで行うようになっていると記されている。
著者はスタンフォード大学歴史学教授。専攻は中国史。内容から漢字の知見がかなり深いと推察できる(多くの中国語参考文献)。
2)モダン語の世界へ
-「ももとせの 後の人こそ ゆかしけれ 今の此世を 何と見るらん」。100年前の歌を流行語で振り返る-
コロナ禍で孫たちと交流する機会が著しく減じている。それでも私たち夫婦が第2回目の接種を終えたあと、夏休みに我が家にやってきた。下の孫娘(小学4年;9歳)の楽しみは私のPCでユーチューブを視ることである(自宅では許されていない)。昨年までアンパンなど専ら漫画中心だったが、今回はなにやらアイドルグループを視ている。聞けば“嵐”とのこと。TVで視なくても名前くらいは知っている嵐、「随分前のグループだね」と言うと「友達はBTSが多いけれど私は嵐にはまっているの」ときた。ここで驚いたのが「はまっている」である。「憑りつかれている」「夢中になる」の意でだいぶ前から流行っているのは知っていたが、「こんな子まで!」が率直なところだった。
この子に反して私は子供の頃からはやり言葉を使うのが奥手だった。一つはそれを感知するのが遅かったこと、次いで使うことに何かためらいを感じたことである。先端の流行語(特殊な業界用語)が溢れるICTの世界に早くから身を置いたものにとっては、決してプラスではないのだが、それは今でも変わらない。このコンプレックス(?)を少しでも解消し、最新の流行語を知るいい機会と本書を手に取った。期待は全く裏切られた。“モダン語”の意はとてつもなく深いのである。
著者は1951年生まれの京都大学名誉教授(法学博士)、専門は思想連鎖史。学者になる前には衆議院法制局参事の職も経験している法律の専門家。本書は「モダンとは何か」から始まり「そこにおける人間とは何か」へ展開する深淵な思想史研究の一端を雑誌「図書」に連載したものをまとめたものである。タイトルに惹かれ社会学や言語学の専門家でないことを事前に調べていなかったことから来るミスマッチングである。チョッと考えてみれば“モダン”自身が死語に近いのに“流行語”と誤解した私の早とちりである。しかし、読んで損をするようなことは無く、「なるほど社会史(思想史)をこんな角度から研究するのか」と学ぶところ大であった。
モガ(モダン・ガール)、モボ(モダン・ボーイ)などと言う言葉が流行り出したのは大正末期から昭和初期(昭和元年=1926年)、この時期から“モダン”なる言葉が日本語化したと捉え、その前後を含め1910年から1939年までの20年間に焦点を当てて、“モダン語”から日本の近代化(海外拡大策を含む)の背景を探るのが本書の論旨である。つまり現代の“流行語”とは無縁の世界(社会史的に敷衍する部分はあるが)なのである。
例えば、今でも時として使われる“エロ・グロ・ナンセンス”。これは1920年代~30年代に流行ったものだが、この中の“エロ”を取り上げ、その起源がエロトマニア(色情狂)にあるとし、エロ気、エロガール、エロ百パーセントなど波及語を含めて普及場面を例示、それに対する大衆の反応、法律や官憲の対応を考察して流行語の裏にあるものを探る。そこには“真・善・美”を無前提で認めない、自らの生活世界の中の“偽・悪・醜”を前者と一体のものとして見出していこうとする意図があったとする。
モダン語発祥の由来(外来語、新造語、合成語、ギャグ、語呂合わせ、人名の転化など)、関連語との関係(例えは“エロ”であれば、当時の性風俗に関する言葉)、使用場面と社会への影響、言葉の裏にある真意(例えば差別;女性、外国人)などを時代の流れに沿う形で語っていく。
ある章の表紙にある1931年“モダン語番付”を紹介すると、東:横綱;イット(色気、セックス)、大関;エロ、関脇;ジャズ、小結;ルンペン、西:横綱;オーケー、大関;プロ、関脇;レビュー、小結;暴露作戦、である。
おわりにの一文が印象的だ。本書の対象時代は1910年に始まる。この時民俗学者の柳田國男が「時代ト農政」なる著書を刊行し、末尾に「ももとせの 後の人こそ ゆかしけれ 今の此世を 何と見るらん」との短歌を残している。「100年後の人」として柳田の問いに答えるのが著者の本書に対する心意気だったのだ。
モダン語として取り上げられている数は、正確に調べたわけではないが、関連語を含めておそらく500は超すだろう。巻末の“モダン・ガール小事典”に列記されている数はア行だけで約60(すべてが本文で使われているわけではないが)。援用したモダン語関連辞典(1912年~1940年刊)は200巻、大変な力作である。しかし、社会史の細部に興味のある人以外には薦められない。重ねて記すが、最近の流行語とは全く関係のない内容である。
3)海図
-海面下にある未知の世界を探りたかったが、我が国を巡る海洋話題のつまみ食いにすぎなかった-
軍事技術に関心のある者にとって海では何と言っても航空母艦と潜水艦が面白い。空母は航空機との統合システムとして捉えるが、潜水艦は孤高の戦略兵器(実際には各種の通信システムを介して戦略システムの一要素であるが、行動は個艦で行うので)という色彩が強く、私にとって最も興味ある存在だ。単に個艦行動をするばかりでなくそれが海中なのでめくら運転のイメージがあり、そこが隠密性と併せて好奇心をかきたてる。海自関係者(潜水艦乗りではないが)にこんな話をすると「いやー、よく見えるんですよ」とICTと組み合わされたソナー(音響探知機)の大まかな説明をしてくれる。確かに良く見えることは分かった。しかし、潜水艦映画や小説から得た知識では、こちらから音を発することは厳禁、対潜水艦・水上艦戦闘の最後の段階に限られるように受け取れる。通常の潜航航海はどのように行われているか?こんな疑問を解決してくれるのは海図にあるのではないか?こんな動機で本書に惹かれたが、残念ながらこの疑問に答えてくれるような内容ではなかった。“海図入門書”ではなく、海図を含む我が国における海洋問題の解説と言うのが本書の内容だ。
序章を含め7章から成る本書はいずれの章にも“海図”と言う言葉は出てくるのだが、それをタイトルにするには極めて散漫で深みの無い内容だ。序章で日本近海については世界(英国)版と日本版がありその違いを解説したり水深の表記法を説明、市販の海図の大きさなどを紹介する部分は導入部として悪くは無いのだが。肝心の水深測定法やそれ使われる艦船とそのための装備(測定機器)、国策との関係あるいは各国近海(領海や経済水域)における測定条件、逆に公海における測定と情報公開、さらに海図の作成方法などにはほとんど触れない。もし入門書として書くならば海図に関する歴史に触れるのも必須だろう。それも単に科学的な視点のみならず、それにまつわるか経済や国際関係(係争)も知りたい。これが読む前の期待だけに不満の残る読後感だった。
内容の大部分は、尖閣諸島・竹島問題、韓国が主張する日本海呼称問題、中国の南沙諸島埋め立て・領土拡張、新島誕生、バミューダ・トライアングル奇譚(船や航空機のミステリアスな消息不明)、沈没艦船に関わる話題(戦艦大和や武蔵)、深海艇など、船や海に関わるよく知られたトピックスを列挙したもので、個々の内容は浅く、章立て項立てもほとんど意味がなく、誰に何を伝えたくて書かれた本か分からない。著者もグループでその正体不明だ(海事の専門家でないことは確か)。
実は本書は友人のもので「海図に興味はありますか?」と問われ、珍しいジャンルで軍事技術と深く関わるので「是非」と借用したものである。
読後海図へ興味がまし、確りした入門書はないかと検索したが、数少ない専門家向けの技術解説書(教科書?)しかなく、幅広く私の関心事を満たしてくれるような本は無いようだ。潜水艦用などとなれば秘中の秘だろう。
4)ベイジルの戦争
-18世紀の古書に秘められた暗号解読のカギ。英特殊工作員ベイジルは単独占領下のパリに潜入、唯一存在する写しの入手を目論むが・・・-
購入したことは無いのだが長いこと愛読していた「ゴルゴ13」の作者斎藤隆夫が亡くなった。知ったのは半世紀前行きつけの床屋、その後は友人が自炊でディジタル化しものを覗かせてもらっていた。我が国には優れたスナイパー(狙撃手)小説は皆無だが“ゴルゴ”は世界の誇れるそのジャンルの劇画だ。海外の売れ筋は本書の著者がシリーズ化した“スワーガー”シリーズ、アル、ボブ・スワーガー親子二代が活躍するそれは母国米国でも大人気、シリーズは20話を越えている。このシリーズの第1話「極大射程」に惹かれ、以後一部を除き(日本が舞台になるもの;エキゾチズム先行で読む気がしなかった)ほとんど読んできた。作者はワシントンポスト紙映画批評部門のトップを長く務め、2003年には批評部門のピュリッツァー賞も受賞している、映画にも通じる作家だ。スワーガーシリーズは率直に言って回を重ねるごとにマンネリ感が強まり、いささか興味を失っていた(スワーガーの舞台は専ら米国、ゴルゴ13は国際関係をテーマにするものが多いのでマンネリ感が薄い)。そこで出たのが本書、第二次世界大戦時の諜報活動を扱ったもので、スナイパー物ではない。新開地開拓と言ったところであろうか。この時代を扱った早期の作品に「マスター・スナイパー(最初の翻訳題名は「魔弾」)」がある。これはナチスが開発した暗視装置付狙撃銃が道具としての主役、個人的にスワーガーシリーズに比べ、格段と高質な作品と印象付けられた。柳の下の二匹目のドジョウを期待して本書を読んだ。
史実に“ケンブリッジ・ファイブ”と言うスパイ事件がある。1930年代ケンブリッジ大学で学んだ学生5人が政府の要衝(海外諜報部、外務省など)に就職、機密情報をソ連に流していたのである。主犯格のキム・フィルビーは1960年代レバノンに勤務中ソ連に亡命、彼の地で生涯を終え、国葬された。当時から彼ら5人以外にも細胞が居ると言われていたが、それがさらに追及されることは無かった。本書は、この疑惑をテーマにするもので、ケンブリッジ大学図書館の主任司書がその細胞の一人と言う設定だ。
ソ連諜報機関と在英エージェントを結ぶ暗号のカギを握るのは18世紀異端の牧師によって書かれた「イエスの道」と題する手書きの稀覯本、原本はケンブリッジにあり、おそらくその一部はコピーされてソ連の手にある。ケンブリッジの原本を抑えればそこでスパイ網は断ち切れるが、今は泳がしておき、交換される情報を把握したい。実は、牧師による写しがもう一部存在し、それはフランス学士院図書館に保存されている。それをコピーし持ち帰る作戦がたてられ、SOE(特殊作戦実行部;軍の諜報組織)に属するベイジル大尉に託される。ドイツ占領下のフランスに密かに侵入パリにある学士院図書館を訪れ、気付かずに希書を閲覧・写しをとって帰還するのが任務だ。本部はレジスタンスと連絡をとり、彼の行動を助けるように算段しているが、ベテランの工作員であるベイジルはレジスタンスを信用せず、独自行動をとる。待ち構えているのはドイツ国防軍諜報部(カナリス機関)と親衛隊(SS)。彼らは真の目的は知らず、レジスタンス工作のための潜入と考えている。疑いをいだくのはカナリス機関の課長一人だけだ。仏語をネイティブ同様に扱かえ独語会話も解するベイジルは常に手配の先手を取り、パリに迫る。おおよそこんな展開である。
このストーリー展開を“ブリーフィング”と“任務”の章を繰り返しながら進めていき、“任務”では専らベイジルの行動を描き、“ブリーフィング”では時間を作戦策定時に戻して、上官とベイジルのやりとりを通じて“任務”の背景を説明する。それが、二重スパイや前面の敵はドイツ、隠れた大きな敵はソ連、それに古典解説や暗号解読機関からむ複雑な話を、分かり易いものにしている。
チョッと気になったのはフランス・レジスタンスの扱いである。映画や小説ではその英雄的な活動がしばしばクローズアップされているが、ここでは組織はバラバラ、分裂・抗争が絶えず、戦力的にもたいしたことは無く、ドイツに通じる者も多々あるような存在として描かれる(あらかじめ決められていた着陸地に降りない)。たまたま次項で紹介するノンフィクション「歴史の証人ホテル・リッツ」を読んでいて、同様にレジスタンスの実態はがかなりいい加減なものだったことを知り、著者はその辺を確り抑えたことが明らかになった。ここら辺にも著者が新しいテーマに取り組もうとする意欲が感じられ、次作が楽しみだ。
5)歴史の証人ホテル・リッツ
-ウィンザー公、チャーチル、ヘミングウェイ、ココ・シャネルも常客だった超名門ホテル、占領下で繰り広げられる彼らの生々しい生き方。グランドホテル様式のノンフィクションでそれを描く-
パリには2度出かけている。一度目はセーヌ川河口の石油・石油化学工場訪問が目的だったからパリ滞在は週末のみの三日間。二度目は南フランスツアーの最終地で、ここはツアーメンバーと別れ、延泊を利用して3泊した。二回合わせてパリで過ごしたのは1週間と言うことになる。フルに一週間あればともかく、第一回目(1970年)と第二回目(2013年)は半世紀近く間隔があるので、前回観たところはパスしてとはならず、結局ルーブル、エッフェル塔、凱旋門とシャンゼリゼ、モンマルトルの丘、少し遠いところでヴェルサイユ宮殿、夜はムーラン・ルージュなど観光コースの定番を巡ったに過ぎない。パリの歴史に少し興味があれば見所はいくらもあるし、街歩きだけでも楽しそうで、「今度フランスに来るときはパリに焦点を絞りたい」との思いが残った。しかし、急速に進む老化を考えればもう実現は難しい。ではせめて紙上でと手に取ったが本書である。
世界の大都市には著名人・名士の集う超高級ホテルが在る。ニューヨークでは、ウォルドルフ・アストリアやプラザ、ロンドンでは、サヴォイやクラリッジ、パリには本書の主役リッツが代表だろう。ただ米英のそれらは富豪・政治家・財界人それに映画スターの利用、小説や映画の舞台になるものの、文化の香りはあまりしない。それに対しヨーロッパ文化の起源ともいえるサロンの趣きを継承するリッツは他の高級ホテルとは異質な存在だ。そのリッツを創業(1898年)から現在(2013年大改装休業前)まで、顧客を中心にグランドホテル映画形式で紹介するのが本書の構成である。当に“事実は小説より奇なり”を地でゆくノンフィクションにすっかり惹き込まれてしまった。
1898年開業のオテル・リッツ・パリ(正式名)はスイス人のホテル経営者セザール・リッツが王侯貴族を対象顧客として作った宮廷ホテルである(ファサードだけは18世紀そこがタウンハウスだった時のものを残す)。150の客室に対して従業員が450人も居たのだからその名に恥じないサービスを誇り、本書に登場する利用者もそれに相応しい超有名人ばかりだ。1898年から2013年までの長い期間を対象にしているが、最も紙数が割かれるのは第二次世界大戦中ドイツ軍占領期で、この時代ほど人間の生々しい生き方があぶり出された時期は無かったからだろう。実名で語られる彼等の本性はとても“上流”とは言えない。
創業から第一次世界大戦時までは主にフランスや欧州貴族のサロンの場となり、そこに参集した文化人はマルセル・プルースト(小説家)、ジャン・コクトー、ピカソなど。ココ・シャネルの小さなアトリエ(ブティック)もホテルの裏の通りに開かれる。大戦に米国が参戦すると、ヘミングウェイ、フィッツジェラルドやアーウィン・ショウなど米国人作家もここを定宿にし、戦後も彼らやロバート・キャパ(写真家)、ウィンザー公など英米の著名人が利用する。第二次世界大戦が始まるとフランスが陥るまでの間、何度もチャーチルはパリに飛来しここを拠点にフランス政府との交渉に当たっている。
ドイツ軍がパリを占領すると“パリのスイス(中立地帯)”となり敵味方が同じホテルに滞在することになる。国家元帥ゲーリングは最高級スウィートを占有し、一方でウィンザー公夫人シンプソン(米国人)と独外相リッベントロップがベッドを伴にしたりしている!ココ・シャネルもこの時には大富豪、ホテルに自室を持ちドイツ貴族で外交官の愛人(戦前から)とそこで過ごすようになる。ココの香水ビジネスはユダヤ人との共同事業だったが、反ユダヤ政策を利用して、それをユダヤ人から取り上げる。ドイツ兵にとって“シャネルNo.5 ”は黄金と等価、その儲けは計り知れない。
この占領時代スパイ暗躍の場としてこのホテルの果たした役割も無視できない。総支配人、チーフ・バーテンダーは反独活動を密かに進め、ユダヤ人保護や連合軍脱走者の逃亡を助ける一方、ココやウィンザー公のように後にドイツ側のスパイを疑われる者も居る。一方で“ワルキューレ作戦”と称されるドイツ軍人によるヒトラー暗殺計画(未遂)もここで練られている。
連合軍ノルマンディ上陸で常連客の言動も変化を見せる。要するにほとんどの利用者は日和見、親ドイツ色を消しにかかる。また、ヘミングウェイを始め戦前の顧客(主に米国人)はホテル解放一番乗りを競う。8月25日英軍が一足早くそこに達したものの、ヘミングウェイに追い出され、彼が最もいい部屋を占拠、早速ここで連日大パーティを開きサルトルやボボワールなどがそれに参加する。マレーネ・ディトリッヒ、イングリッド・バーグマンも宿泊者であり、パーティ参加者でもあった。
パリ解放後の“正義の裁き”は当然フランス人顧客に向かう。ココ・シャネルはスパイ嫌疑で取り調べられるがチャーチルの手紙で救われスイスのローザンヌに移りそこでかつての愛人、ドイツ貴族と暮らし1950年代半ばパリに戻っている。
戦後はウィンザー公を始め往年の顧客が戻るものの、やがて経営難に陥り1979年エジプト人実業家モハメド・アルファイドの手に渡って大改装が行わる。ダイアナ妃が自動車事故死した時の同乗者はアルファイドの息子である。
冒頭に“主要登場人物リスト(第二次世界大戦前後)”があり、ホテル・スタッフ、ドイツ人、政治家、米国人、作家たち、映画スターと名士たち、総数50名。いずれも脇役でなく、戦争と言う異常時における主役としてそれぞれの赤裸々な姿が臨場感をもって描かれる。ノンフィクションをこれほど小説的に表現する作品は珍しい。ここが本書そして著者を高く評価するところである。
著者は米国のノンフィクション作家かつ大学で創作・文学・英語の教鞭を執る女性。
蛇足;フランス・レジスタンスは占領時の抵抗活動、ノルマンディ上陸作戦支援など、小説・映画でその活躍が英雄的に描かれるし、有名人の中に戦後それを自称するものが多い。しかし、本書によれば「占領時積極的にドイツに抵抗するフランス人はほとんどいなかった」「(レジスタンス神話は)フランスの国をあげての集団幻想にすぎない」と断ずる。前項の「ベイジルの戦争」もこの評価と通じており、第三者(英米人)から見ればそんなものだったのだろう。
6)新 基礎情報学
-シンギュラリティに翻弄されるな!人間の感性や情緒を具えた汎用AI出現は夢想だ!し同意だが、難しい本だった-
コロナ禍を契機に我が国を“ディジタル後進国”と揶揄・自嘲する声が高まっている。確かにコロナ対策における行政サービスの混乱、キャッシュレス化の遅れ、自国産SNSの不在(LINEは韓国製)、スマフォ普及率、リモートワークの実態など、ICT活用に一層の努力が必要であることは確かだが、先端技術開発や製造業の現場は、主に米系ICTコンサルタントが騒ぎ立てるほど遅れているわけではないし、むしろ流行に踊らされない、現実に即した堅実なシステムづくり・運用を行っている(これがICTコンサルタントや一部ベンダーにとってしゃくにさわることではあるが)。はやりのAIしかりである。超楽観主義者で“シンギュラリティ(人間を超えるAI)”到来予言者カーツワイルに同調する一流の研究者は我が国には居ない(これも話題性を好むビジネス誌などには気に入らないことだろう)。一体全体我が国先端ICT環境はいかがなものであろうか?それを知りたく本書を求めた。最大の理由は著者が著した2冊の本「集合知とは何か」(2013年5月本欄紹介)、「ビッグデータと人工知能」(2017年1月本欄紹介)を読んで、共感を覚えるところが多かったことにある。根本は「人間を超える汎用AIは出現せず、共生こそ現実的で望ましい」と言う考え方・主張にある。最近ICTに関して本格的に著されたもので読んだのは2020年7月紹介の「5G」が最後、いくつかのキーワードで探り当てたのが本書だった。「この著者なら間違いあるまい」と求め読み始めたが、予想に反し極めて難解なものだった。
勘違いのもとはタイトルにある。勝手に「最新の情報技術を解説する本」と解してしまったのだ。“新”も“基礎”も“情報”も一般名詞と信じ込んでいたが、“基礎情報学”とは著者が提唱する“人間と機械の在り方に関ずる学問”を表すものなのであった。言わば“西垣AI原論”と言ったところである。どんな学問にも出発点に哲学(考え方、世界観)がある。本書もそこから説き起こすので、気軽に読めるものではなく、分かりそうなところを拾い読みしたに過ぎない結果になった。
おおよそ理解できたところを紹介すると;
○最近のAI論の根底に“トランス・ヒューマニズム(超人間主義)”がある。これはユダヤ=キリスト一神教的な思想であり、論理的な普遍知と言う明るい面もあるが、文化的な多様性を押しつぶす暗い側面もある。
○これにもとづくレイ・カーツワイルのシンギュラリティ(AIが人間を超える技術的転換点)到来は最も楽観的な考え方だが、同じ転換点を予測するユバル・ハラリはその結果人間はデータを操作できる「デウス(神)」のようなエリート階級とそれを扱えない大多数の無用者階級に別れると暗い未来を、その著書「ホモ・デウス」で暗示している。
○トランス・ヒューマニズムには問題点が二つある。第一は理論的な面;人間は推論する理性は持つものの、生物学的特性(知覚など)のために神のように宇宙全体に直接アクセスできない(ここではカントの「純粋理性批判」が援用される)。第二はAIの現状;現行のAIはまだ、人間社会の実践的な課題を充分解決できるところまで達していない。論理的推論能力のみがクローズアップされているが、人間には身体的直観や暗黙知が備わっており、この面の機能をAIは備えていない。
○本書の目的は、このトランス・ヒューマニズム誤りを指摘し、ハラリの予測するデストピア(反ユートピア)回避の方法を理論的にさぐることにある。
○その出発点として、人間と機械の関係を論じた二つのパラダイムを解説する。一つはフォン・ノイマンに代表される「コンピュータ・パラダイム」、もう一つは「人間機械論」を表したノーバート・ウィナーに依る「サイバネティック・パラダイム」である。そして著者の唱える「基礎情報学」はこの「サイバネティック・パラダイム」立脚する。
○その理由は、「コンピュータ・パラダイム」が論理演算の可能性を純粋に追求するあまり、宇宙/世界さえ客観的(神のように)に眺めるのに対し、「サイバネティック・パラダイム」は主体同士の相互コミュニケーション(絶対客観不在)に注目する学問だからだ、とする。
○以上のような問題意識・考え方をもとに現状のAI論を批判しつつ、ネオ・サイバネティックスとも言える、自説を開陳していく。そこには狭義の情報科学のみならず、社会・人文科学に関する諸説が動員され、それを咀嚼する力は私には無かった。
○結論は、既に実績を示しつつある専用AI(例えばAI将棋、法律や経理に特化したAIなど)の発展性・将来性は大いに評価する反面、情緒・感性など論理と離れた人間の特性を機械が極めることの可能性を否定し、人間とAIが建設的・補完的に共生する社会の到来を予測して「ハラリのデストピアは来ない」と断じる。
○しかしながら「我が国にはその危険が大いにある。それは情報文明の本質を正しく理解しようとする人間がほとんど存在せず、「情報=コンピュータ」と信ずる傾向が強すぎる」と警告を発する。AI、ビッグデータ、DX(ディジタル・トランスフォーメーション;ICTに依る社会変革)、いずれも技術面ばかりがクローズアップされている。「もっと人間を見よ!」と解した。
とにかく理論構築の石積みの大きさ・重さに圧倒された。とても万人向けの書物ではない。ただAIブームに正面から取り組んでいることは、他書の比較でないことは確かだ。
著者は1948年生れ、東大名誉教授。東大計数工学科卒業後日立に入社、そこで第5世代コンピュータ開発(コンピューティング能力重視の人工知能を目指した)にも参加、その後東大に戻り大学院情報学環(文理融合の学門領域のようだ)教授を務めた人。
(写真はクリックすると拡大します)
0 件のコメント:
コメントを投稿