<今月読んだ本>
1)戦争はいかにして終結したか(千々和泰明);中央公論新社(新書)
2)捕虜収容所の死(マイケル・ギルバート);東京創元社(文庫)
3)職務質問(古野まほろ);新潮社(新書)
4)植民地残酷物語(山口洋一);カナリアコミュニケーションズ
5)コーランを知っていますか(阿刀田高);新潮社(文庫)
6)清張鉄道1万3500キロ(赤塚隆二);文藝春秋社(文庫)
<愚評昧説>
1)戦争はいかに終結したか
-ペテンもどきのウィルソン和平14か条、“無条件”を回避したイタリア、いまだ休戦状態の朝鮮戦争、始めるよりも終わる方が難しい戦争-
私の就学同期は1938年(昭和13年)4月~1939年3月生まれとなる。日華事変(日中戦争)は既に始まっていたものの、1939年9月のドイツのポーランド侵攻に発する第二次世界大戦は未だし、太平洋戦争はさらにその2年後のことである。無論赤子・幼児ゆえいずれの戦いも開戦は記憶外だ。しかし、国民学校(小学校)入学は1945年4月、戦争最末期にはそれぞれの思いでがある。学童疎開や3月10日の東京下町大空襲は小中学校(いずれも台東区立の黒門小学校、御徒町中学校)の同級生から体験談をたびたび聞かされたものだ。ただ、それらは私の戦争体験とはまるで異なるものだった。米英や中国と戦争状態にあることは何となく知ってはいたものの、疎開も空襲も無く日常生活は8月9日ソ連が満洲に侵攻する日まで、なんら戦争をうかがわせるものは無かった。私の戦争はこの日に始まり、1946年9月半ば満洲を去るまでの約1年間と言っていい。最初にやってきたのはソ連軍、冬を越すと国府軍(国民党政府軍)、それが八路軍(中共軍)に駆逐され、再び国府軍に変わる。八路軍の統治時期を除き強盗・殺人・略奪は日常茶飯事。国府軍と八路軍の市街戦も体験した。後年昭和史や欧州戦史を学び思い浮かんできたのは、満洲における戦争終結は内地と異なりむしろベルリン陥落に近かったのではなかろうか、と言うことである。いくらポツダム宣言受諾をしたからと言って、そこで戦争状態が終結したわけではなかったのである。同じ戦争で同じ日本人が体験した終戦ですらこんな違いがある。第一次世界大戦から湾岸戦争・アフガン戦争・イラク戦争までの戦争の終結を少壮(1978年生れ)の国際安全保障研究者(防衛省防衛研究所主任研究官)が、体系的に整理して見せたのが本書の骨子である。
本書は著者の専門分野(日米同盟史・防衛政策史)や職歴(防衛研究所、内閣官房副長官補付(安全保障、危機管理))から、学術論文を一般向けに書き改めた性格を持つ。つまり、戦争終結形態に関する仮説を設定した後、個々の戦いを分析、仮説との検証を行い、一般化すると言うプロセスを採る。戦争の動機や抑止については既に多くの研究が在るが、出口戦略に関しての一般化はごく限られている(特に我が国では)ことから、そこに着目しこれに取り組む。
研究の視点は、大別すると①権力政治的アプローチ(パワーで圧倒し戦いを終わらせる。これには単独と同盟を考慮した二種がある)、②合理的選択的アプローチ(紛争根源の除去・解決、広義の費用対効果を考慮した妥協)があり、本書では両アプローチを併用する。仮説は、『戦争終結は優勢側の「将来の危険」と「現在の犠牲」を巡るシーソーゲームの中で「紛争の根本的解決」か「妥協的和平」に向かう』と言うものである。
分析対象は、第一次世界大戦、第二次世界大戦(欧州とアジアを分ける)、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争(2004年のタリバン政権崩壊までで、昨年の米軍撤退・タリバン復権は取り上げられていない)、イラク戦争。
際立ってユニークなのは第二次世界大戦における連合国の“無条件降伏”貫徹である。しかし、子細にみると伊・独・日の降伏形態は異なっている。伊は戦いの根源であったムッソリーニが国内の政争により失脚したことで条件降伏(短期(軍事)、長期(政治))となる。独の場合は完全な無条件降伏、国土が戦場となりベルリンが落ち、ヒトラーは自殺、ナチス党は崩壊して“紛争の根本的解決”が徹底的に図られたケースだ。日本の場合、戦いの主導権は米国が握っておりポツダム宣言は外交文書として公式なものでなく、ソ連には事前に諮らず発表、原爆投下で、“国体護持”の条件は曖昧なまま一種の“妥協的和平”が成る(全土が占領されるので“紛争の根本的解決”に限りなく近いが)。米国にとって無条件降伏を求めての本土決戦は「現在の犠牲」が大きいと読んでのことである(局所的には沖縄戦は対独戦に近い)。
ヒトラー最期の日、ベルリン陥落、ポツダム宣言と終戦詔書(玉音放送)、あの戦争の終末について、個別には書物や映画でよく知られているところだが、こうして他の戦争とも並べて整理されると、あらためて優位・劣位を問わず、戦争の終わり方の難しさが分かってくる。
2)捕虜収容所の死
-映画「大脱走」を彷彿とさせる、捕虜脱走兵だったミステリー作家に依る体験的戦争サスペンス小説-
今年の初映画鑑賞は「キングズマン・ファースト・エージェント」、第一次世界大戦を舞台にしたスパイ活劇である。古い映画ファンの一人として戦争物は必見なのだが、最近はめっきり減ってしまい、ほとんど観る機会がないのが残念だ。高校生から社会人になる頃までは年に3,4本は楽しめた。そんな戦争映画のジャンルに捕虜収容所からの脱走劇を扱ったものがある。ビリー・ワイルダー監督、ウィリアム・ホールデン主演「第17捕虜収容所」、ジョン・スタージェス監督、スティーヴ・マックィーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームス・ガーナ―などオールキャストの「大脱走」などがその代表的なものだろう。前者は収容所内のスパイを巡る話。モノクロでチョッと暗い感じの内容だが、ウィリアム・ホールデンはこれでアカデミー主演男優賞を受賞している。後者は3時間に及ぶ大作でトンネル掘りが一つのヤマ場、50人を超す脱走劇も多様で緊迫感のあるものに仕上がっている。現在でもときどきTVで放映されるほどの人気作品だ。
本書を少し読み進めた時「ひょっとするとあの二つの映画のどちらか(特に後者)の原作はこれではないか?」と思い調べてみた。結論は違っていたものの、「大脱走」原作者の戦争体験と本書著者とよく似ていた(「第17捕虜収容所」はブロードウェイの舞台劇が基)。
「大脱走」の原作者は英空軍の戦闘機パイロット、北アフリカ戦線で撃墜され独軍の捕虜となりドイツの捕虜収容所に囚われの身になっている。かたや本書の著者は英陸軍砲兵隊所属でこれも北アフリカで戦ったのちイタリア戦線で独降下部隊の捕虜となって北イタリアの捕虜収容所に収容、そこから脱出して再び最前線に戻った経験を持つ。両者とも英国人、実戦に参加し捕虜となって点も同じ、そして共通するのがトンネル掘りによる集団脱走である。大きく異なるのは前者の収容所はドイツ、後者はイタリアで監視兵も独・伊の違いがあり、これが本書の筋に大きく影響してくるのだ。つまり、北上してくる連合軍の占領域とそれによるドイツの収容所への移管や過酷な独軍管理への恐れが、脱走計画の時間的制約になってくる。
大筋は、「第17捕虜収容所」のテーマである捕虜の中のスパイ、「大脱走」のトンネル掘りに依る大量脱走、それに殺人ミステリーが加わる。と言うよりもこの殺人事件の解明が本書の主題である。それもそのはず、作者(1912年生れ)は1947年「大聖堂の殺人」でデヴューし、1953年英国推理作家協会(CWA)が創設されたときの中心メンバー、1994年には同協会からダイヤモンド・ダガー賞を贈られるほどの著名推理小説作家なのである(2006年没)。本職は弁護士、いかにもアマチュアリズムを尊ぶ英国らしい。
イタリア北部にある英軍士官専用捕虜収容所で密かに掘られていた脱出用トンネル内で一人の士官(ギリシャ人)が死体で発見される。それは仲間からスパイを疑われていた男なのだ。トンネルの完成まであと6週間、まだイタリア軍には気づかれていないし、トンネルへの入口は大型ストーブの下に巧妙に隠されており、その操作には少なくとも4人が必要だ。彼は何故一人でトンネル内で死んでいたのか?ともかくこのトンネルを秘匿すべく、脱走委員会は別のトンネルに死体を移し崩落事故を装うことにする。この事故を厳しく追及するのはカラビニエーレと呼ばれるファシスト党組織(独ナチス党親衛隊に相当)の大尉。捕虜、カラビニエーレ両者にとって最も気になることは連合軍の北上だ。大尉たちは逃げるため、捕虜たちは脱出後の行動のため。諸々の疑惑と不可思議な出来事の連続する中でトンネル掘りは着々と進んでいくのだが・・・。独・伊軍が混在する戦域描写が緊張感を高める。
エラリー・クイーンがかつて「プロの中のプロ」と評した作家の作品。私は初めて読んだが、戦争とミステリーの両面でそれを愉しんだ。
3)職務質問
-万が一職務質問されたら法律論などかざさず素直に応じてやってください-
同年輩の知人で東大法学部を卒業、上級公務員試験に合格したにもかかわらず「採用を決めてくれたのが自治庁(現総務省)の警察部門だったからやめた」と1年民間企業に勤めた後文部省(現文科省)に転じた者が居る。自治庁を蹴った経緯を聞いた時「もったいない」と思った反面「自分でも警察はちょっとな~」と彼の考えに同調するところがあった。世界に誇る治安の良さが優れた組織と人に支えられていることは分かっていても「出来るだけ距離を置きたい」と言うのが率直なところである。交通違反や遺失物届はともかく、それ以外で今まで警察にお世話になることがなかったのは、一市民としてはそれで良かったと思っている。しかし、高齢化で認知症にでもなったら、何をしでかすか分からない。母が父を認知できなくなり「家に変な人が居る」と言い出しパトカーが駆けつけたことなど、ボツボツ他人ごとではない歳になってきている。本書によればこのようなパトカーは<機動警ら>と言うものらしい。好みのジャンルではないものの警察を少し知っておこう。そんな動機で本書を手に取った次第である(認知症になってしまったら役に立たないのは承知の上で)。
著者は東大法学部を卒業後警察庁第Ⅰ種警察官(上級国家公務員)として採用され、海外留学もし、警視庁を始め現場経験(主に公安関係)も豊かな人のようだが、その後の経歴を明らかにせず覆面作家に転じている。
本書を知ったとき「職務質問についてあれこれ面白い話が記されているのだろう」と半ば野次馬根性から求めた。しかし、目論見はかなり違っており、“職務質問法律入門”と言っていい内容だった。つまり意外と真面目で奥が深いのである。
先ず、職務質問(職質)の法的論拠は1948年(昭和23年)に制定された“警察官職務執行法(警職法)”第2条に依るのだが、戦後間もなくの制定もあって時代の変化にそぐわず、最高裁の判例で細部解釈を決めてきたものであることが図解も含めて具体的に解説される(例えは、身体接触や所持品検査(法律なし、すべて判例)など)。根本にあるのは警察官の任意活動(職質)か強制活動(取り調べ)なのかの違い。またこの際どこまで“有形力の行使(いわゆる実力行使)”が許されるかが職質の適法・違法判別の重要因子となる。日本の警察が許される範囲は外国では“悪い冗談”と間違われるほど制約されているのだ。つまり、職質を受ける方だけでなくやる方もかなり緊張を強いられていることが分かる。
職質を行うのは“地域警察官(外勤)”。つまり交番・駐在所・パトカー(PC)勤務の警察官。これは全警察職員の1/3を占め、すべて制服・制帽を着用、そこに識別票を付けており、「警察手帳を見せろ」は通用しない。また、署に詰める刑事はこれに該当しない。地域警察官の勤務メニューは<警ら(PC警らを含む)>、<巡回連絡(家庭訪問)>、<見張>、<在所>でどの勤務時にも職質を行え、職質の99.99%はこれらの中で実施される。
職質の主目的は“職質検挙”。その構成は、自動車警ら中;37%、自転車・徒歩警ら中;22%。職質検挙率は刑事犯全体の12%程度で推移しており、決して無視できる数字ではない。職質をなおざりにする地域警察官は「犬のおまわりさん」と揶揄されているようだ。
従って、警察官育成における職質教育は極めて重要、“職務質問技能指導者制度”が制定されており、警察署長が指定する“職務質問準技能指導員”から、警察庁長官が指定する“広域職務質問指導官”まで、4階級の指導員・指導官が存在する。最高位の“広域”は存在しない県の方が多いくらい稀有なランク、当に“神さま”に近いその道の超ベテランなのだ。
このような超ベテランはともかく、一般の地域警察官が職質の達人になっていく一般的コースは、交番・駐在所勤務→警察署PC勤務→警察本部PC勤務(この段階でプロ棋士)と言ったところ。
読者へのメッセージは「(後ろめたいことが無ければ)生半可な法律論など仕掛けず素直に応じてやってください」である。平成14年285万件でピークとなった刑法犯認知件数が“職質シフト”で令和2年には65万件に急減したことを知らされれば(「誤記ではありません」とことわり書きがある)、このくらいのことは協力したい気になってくる。
先にも書いたように法律解説が多く面白い読み物ではない。しかし、街のおまわりさんが日ごろ何をしているのかが分かると言う点において一読の価値は十分にある一冊だった。
4)植民地残酷物語
-大使まで務めた外交官の書いたものとしては薄っぺらいなー。でも狡猾な欧州の政策や中華帝国再興の動きには最大限の警戒を!-
現役時代某外資系IT企業と付き合う機会が多かった。日本で、米国で、その他の外国で多くの社員と出会い、その名刺数は日本人を除き100枚を超す。そんな中に米国に居住する私より3歳年長のオランダ人が居た。私が務める会社も外資系で顧客の立場だったから、当時は日本や日本人の悪口などひと言も口にすることは無かった。1980年代半ばユーザー事例紹介のため彼とジャカルタへ同行し、少年時代この地で過ごしたことを知ったが、格別記憶に残る話は無かった。それから30年、お互い引退者の身でFB友達になったが、太平洋戦争開戦や終戦の時期になると彼の投稿に日本軍の残虐行為を取り上げた新聞記事や写真がこれでもかと載るようになった。投稿記事の内容から分かってきたことは、終戦まで家族とともにジャワ島の収容所に閉じ込められたばかりでなく、兵士だった身内は泰面鉄道(映画“戦場にかける橋”で知られる)の使役に従事させられたことも分かってきた。被害者としての個人的な日本批判・非難は、立場は異なるものの一切を失い満洲から引揚げた体験から理解はするものの、国や民族として見た場合、欧州諸国の植民地が過酷な環境下に置かれことを思うと、「彼らの身にもなってみろ!」と叫びたくもなる。12月に嫌な思いを新たにした時Amazonのお薦め情報で知ったのが本書である。
著者は1937年生れの職業外交官、大使(マダガスカル、トルコ、ミャンマー)も含め欧州・アジア・アフリカ諸国に勤務、そこにはインドネシアもあったから、歴史を踏まえ俯瞰的視点と微視的視点の両面から植民地支配を詳らかにしてくれることを期待して読んでみることにした。
先ず属州・属国・植民地統治方式を俯瞰する段階でこれを①共存・同化型と②支配・搾取型に大別する。①の代表格はローマ帝国、②は英国に依るインド支配が特に何度も取り上げられる(インドに限らず、分割・間接統治、地場産業の破壊など)。ただこれを細部に落とす段階で、①ではオスマントルコ帝国やミャンマーの古代王国、②では近代ミャンマーやキプロス島など、あまり植民地史では目にしない国や地域が詳述され、何か内容に偏りを感じさせる。大使として赴任したところに焦点が当てられていることは明らかだ。かつ当時の赴任国・政権側に肯定的だ(キプロス問題ではトルコ、ミャンマー問題では軍事政権;私もアウンサンスーチーは胡散臭いと感じているが)。この段階で「この本は注意深く読む必要がある」と警戒心が過るようになる。「そう言えば出版社も聞いたことが無いところだ」と。
大航海時代以降、富(金から香料まで)とキリスト教布教を目的に初期にはスペイン・ポルトガル、それを追い落とすように英国・オランダ・フランス、さらには米国がアフリカ、中南米、東南アジアに進出、奴隷貿易や収奪的貿易を重ね、富を蓄積したのは確かだ。また宗教も現地の人々の平穏をもたらすものではなく侵略の先兵・洗脳者であったことは間違いない。ただ、本書の中でこれを語る時、それは極めて表層的で、赴任先の国情・歴史を除けば、高校の世界史で学んだことと著名な歴史作家の作品(ローマ帝国に関してはほとんど塩野七生の「ローマ人の物語」からの引用)を重ね合わせればごく常識的な内容で、とても経験豊富な職業外交官がまとめたものとして物足りない。日本の植民地(台湾、朝鮮、満洲)については①共存・同化型を援用、自画自賛ばかりで客観性を欠く(私の満洲時代の体験を含め)。
著者の主張で顧慮すべきは二点。一つは、西欧を中心とした世界観に対する批判である。かつての植民地支配が形を変えて今に継続しており、それに取り込まれぬよう注意せよ!と言う件である。昨今の宗教と見紛うばかりの“脱炭素社会キャンペーン”はその典型であろう。もう一つは、中国の帝国主義的膨張策、これも大航海時代以降の欧州による領土拡大・植民政策と極めて近いと言う警告である。
残念ながら、インドネシ勤務があったにもかかわらず、オランダの植民地支配には一言も触れていなかった。
5)コーランを知っていますか
-存在感を増すイスラム、その聖典を軽妙洒脱に語る、面白い入門書-
私が初めてイスラム世界と関わったのは1985年5月、ジャカルタで開催されたIBM主催のセミナーに事例紹介者として招かれた時である。成田からのフライトはインドネシアのフラグキャリアー、ガルーダ航空。離陸し間もなくスチュワードが飲みものの注文を取りに来た。米系航空会社ではいつもマティーニを所望していたから、深く考えず同じものを頼んだ。スチュワードは一瞬戸惑った表情で「どんなカクテルで?」と問いかけてきた。今度はこちらが「エッ!」となり「ジンとベルモットをミックスしビターを一滴たらし、レモンを一切れ添えて」と指南する羽目になった。持ってこられたそれを口に付け、甘すぎてとても飲めるものではない。ベルモットには甘口もあるからそれをたっぷり注いだ結果である。「これはマティーニではない」とつき返した。この顛末を見ていた、通路を隔てて隣り合った日本人のビジネスマン(あとで、一時帰国していたゼネコンの社員であることが分かる)が「インドネシアは初めてですか?」と話しかけ「インドネシアはイスラム教の国で酒を飲むことは禁じられているのです。国際便でも缶詰め・瓶詰めが無難ですよ」と教えてくれた。その後、トルコ、バーレーン、イランなどイスラムの国々を訪れる機会があったし、米国ではバングラディッシュ出身のエンジニアの家にも泊った経験があるが、禁酒の戒律はしっかり守られていた。コーランがそれを禁じているからである。
コーラン(本来は“クアルーン”が近いようだ)なるものを知ったのは高校の世界史を学んでいた時である。中世のイスラム世界拡大と併せて「コーランか剣か」のひと言が記憶に残る。その後石油会社に在籍し中東・イスラムに関する書物は読んできたがコーランについては本書まで手にしたことはなかった。硬いノンフィクションが多い中で、息抜き・気分転換にと求めた。作品は一点も読んでいないが直木賞受賞作家であることを知っていたことも後押しをした。期待通り軽妙平易、ユーモアに満ちた楽しい読み物であった。単行本の発刊は2003年(文庫化は2004年)、解説によればオリジナルは小説誌に連載されたエッセイとあるから、同時多発テロ9・11(2001年)の間近から始まったと推察される。イスラムのイメージが急落した微妙な時期、おそらく当時の読者はこれを読んで、悪評を正せたのではなかろうか。私自身も「コーランか剣か」の過激派は払しょくできた。
第1章開端(かいたん)から始まるものの、学者の書くような体系立った解説書ではない。時に揶揄や疑問を交えながら「その時代(7世紀)の社会情勢や風俗習慣を知らないと理解できない」と好意的なコメントを加える。例えは“4人の妻を持つ”ことを許容する背景として布教活動の中での戦闘に依る未亡人や孤児の多発・救済に著者の見解を示す。実際マホメットは早くに両親を失い親戚に育てられるが奴隷に近い扱いだった。彼の才覚を見出したのは裕福な戦争未亡人、最初の妻は遥か年上のこの人で、彼女が亡くなるまでは他の女性と関係は持たなかったが、生涯と言うことになれば妻妾は10人近くなる、と言うようにである。
コーランはマホメットが書き残したものではなく、40歳ころ「このまま生きて、死んで、それでどうなるのか?」と懐疑、山籠もりでアラー(神)の啓示を受け、それが発端となり新たな啓示を受ける度にそれを繰り返す、これを死後他者がまとめたものなのである。従って、啓示はマホメットの意識を経ることによって、“変容”されていない、とされている。しかし、著者は聞き手(預言者)であるマホメットの考えも含まれている可能性は無視できないとの見解を示す(先人の研究)。
コーランは114章から成り、その章建ては論理的な構成ではなく、開端を除けば概ね長いものから短いものへと移っていく。章題は、婦人、食卓、家畜、戦利品、預言者、信者、山、星、月、離婚など多岐にわたる。婦人の章では“男は女より上位”が明記されているし、
“禁酒や豚肉禁止”は食卓の章にある。信者の章では“六行五信”(六行;アラー、天使、啓典、預言者、来世、天命。五信;信仰告白、礼拝、斎戒(断食)、喜捨、巡礼)について著者が丁寧な解説を加える。ここはコーランと言うよりイスラム教徒の理解に有用だ。ただ、同じ戒律・教訓が何度も繰り返され、著者いわく「親父のお説教」同様、あとでじわーっと効いてくるのは冷酒みたいなものとも言えるとのこと。分かり易い例えだ!
著者は同趣のシリーズとして“ギリシャ神話を知っていますか”、“旧約聖書を知っていますか”、“新約聖書を知っていますか”を上梓している。出版順序は不明だが、これらとコーランの関係が面白い。特に、旧約聖書とコーランの類似に驚かされる。“アダムとイヴ”、“ノアの箱舟”、“出エジプト記”などがそれらだ、コーランに記載された人物の名前(ユダヤ教、キリスト教)は以下の通り;イーサー(イエス)、ムーサ―(モーゼ)、ヌーフ(ノア)、ファウラウン(ファラオ)。決して、ユダヤ教やキリスト教は敵対する存在ではなかったことが、ここからうかがえる。原点は同じ、最後に出現したイスラム教が“良いとこ取りした”と言えなくもない。
おそらくエッセイ掲載中と思われる2002年著者は夫人とともに日本初のサウジアラビア・ツアーに参加、首都リヤド(現代都市)や隣国ヨルダンを訪れるものの、メッカやメディナの聖地訪問は許されず(信者のみ)、隔靴掻痒の感で帰国せざるを得なかった体験も本書の最終章に記され、これも現代イスラムとコーランの関係理解の一助となる。
信徒数約12億人、イスラム理解は21世紀の大きな課題。イスラム入門として格好の書、が読後感である。
6)清張鉄道1万3500キロ
-清張作品全320編に目を通し、鉄道初乗り路線とその距離を積算、自身の旧国鉄全線乗りつぶしと重ねて文学評をこころみる-
書架に20冊を超える宮脇俊三の鉄道エッセイが並んでいる。1978年に出版された国鉄全線完乗記録「時刻表2万キロ」や一筆書きで1万3千キロをつなぐ「最長片道切符の旅」は言わば座右の書だ。しかし自動車と新幹線シフトが進んだ昨今、鉄道旅の面白味を伝える出版物がめっきり減っている。自家用車や新幹線の移動は運転や時間優先、土地の生活や旅情に深みを欠きがちになるのは、2007年から13年間スポーツカーで全都道府県3万5千キロ走破後の実感でもある。
2020年2月運転免許書を返納、「これからは鉄道で」と満を持していたところで長いコロナ禍、それでも同年秋に発売された「鉄道旅がもっと楽しくなる地図帳」(山と渓谷社)を購入し、チャンスを待ち続ける日々である。残された時間に限りある身、出来るだけ事前に情報を集め、訪れる場所を絞り込んでおきたい。そんな時広告で目にしたのが本書である。松本清張の作品に出てくる鉄道旅を整理・集大成したものとあった。結論から言えば、旅の楽しみは一先ず置いて、「超一級の清張研究」と評価する内容だった。
著者は1948年生れ、北九州で生まれ育ち、九州大学卒業後朝日新聞社に就職した新聞記者。西部本社勤務がベースで山口総局長を最後に2009年定年退職している。根っからの鉄道少年が今に継続する本格派乗り鉄。現役時代の出張でも時間が許されるときにはわざわざ遠回りの旅程も辞さない。こうして挑んできた旧国鉄路線乗りつぶしを達成するのは2013年4月、その距離は1万9981キロ、これは宮脇の場合とあまり変わらない。この間多くの路線が廃線になっていることを考えると解せないが、新幹線を含むのだろうか。
この鉄チャンが以下のような手順・条件で清張作品の鉄道旅に挑む。手順;①320編(ノンフィクションを除く)を読む(2014年~2016年)、②発表順に並べる、③鉄道が出てくるものを選別する、④初登場した線区・駅間を抽出する(2度目以降はカット)、⑤その駅間距離(キロ数)を算出する。条件;対象路線;旧国鉄(JR、第3セクター、新幹線)、私鉄(路面電車は含まない)、距離数;基本は2007年版時刻表記載の営業キロ数、ただしその後廃線になったり新線に切替えられたものがありその調整を行う(例えば北陸トンネル)、作品出典;松本清張全集(文藝春秋社)、ここに無いものは他社の出版物。こうして積算された総距離数1万3550.1キロを“清張鉄道”と名付けたのだ。
構成は作品発表年次順、最初は「西郷札」(1951年、直木賞候補)、最後は「犯罪の回送」(死後1992年刊)となる。320編の内鉄道が登場するのは162、ダブりもあり初乗りは100編に絞られる。この中には鉄道トリックが謎解きのカギとなる「点と線」(1958年)が含まれるのは言うまでもない。
本書の内容はただ鉄道路線や距離を解説するものではなく、初乗り区間を中心に路線情況・乗車場面を抜き出し、当時の社会情勢に対する清張の見方・考え方が如何に作品に影響したかを考察する。この考察の中で著者が発見するのは「清張鉄道の三つの聖地」である。中国山地、信州、武蔵野がそれらだ。作品はこの順で地域を広げ行く。中国山地は父の出身地(島根)、薄幸だったその人への思いが、北九州育ちでそこから作家活動をスタートさせた清張を惹きつけたことは容易にうかがえる。九州から東京に居を移した清張は諏訪地方を頻繁に登場させるようになる。著者も北九州出身、あの周辺の景観は九州では決して見られず、山河の造りの大きさに感動させられるが、清張も同様ではなかったかと推察する。作家活動と新聞社社員を並行させるため1953年東京に転居、荻窪・練馬・石神井・高井戸などもっぱら東京西部に住んだことから土地勘のある武蔵野を舞台に取り上げた作品が多いのだろう。それぞれの項に著者の乗り鉄体験や社会批判を重ねるところにも、文学と鉄道のフュージョンを楽しめるようになっている。
実はこの本の元は北九州市立松本清張記念館が行った2015年度研究奨励事業応募に採用された「清張鉄道1万3500キロ 作品中の乗車記録詳細と文学的効果の考察-清張世界への乗り鉄的アプローチ」の研究報告であり、地図や作品名、発表年次、ごく短い乗車場面、初乗り路線・区間・距離をまとめた一覧表(旧国鉄、私鉄別)を添付、ただの乗り鉄記でないことがエピローグで明かされる。これからの鉄道旅行に事前準備も含め必須・必携だ。
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