<今月読んだ本>
1)ポピュリズムに揺れる欧州政党政治(パスカル・ペリノ―);NHK出版(新書)
2)読書と人生(寺田虎彦)角川書店(文庫)
3)貨物列車で行こう(長田昭二);文藝春秋社
4)ナチ親衛隊(SS)(バスティアン・ハイン);中央公論新社(新書)
5)わたしと日産(西川(さいかわ)廣人);講談社
6)勝敗の構造(大木毅);祥伝社
<愚評昧説>
1)ポピュリズムに揺れる欧州政党政治
-右も左も共通項は“我々と奴ら”、格差と差別がポピュリズムを増長させる-
ポピュラー(Popular)なる英語を知ったのは小学生の高学年の時。他の英語と違い、はっきり何から知ったかを記憶している。古本屋で表紙(飛行機)に惹かれ小遣いで手に入れた日本語版(オリジナルは米国誌)「ポピュラーサイエンス」を通じてである。ただこの時よく意味は分からず、“ポピュラーソング”など身近な言葉から “人気のある”あるいは“有名な”あたりが適当な日本語と解釈していた。しかし、この言葉は意外と広い意味を持ち、のちに“大衆の・人民の・通俗の・庶民”のなどがむしろ本来の意に近いことを知る。私が当時手にした雑誌も今振り返れば“人気科学”より“通俗科学”が相応しい内容だった。そして“ポピュリズム”、“ポピュリスト”は両者を併せ持つ言葉として、今や完全な日本語になってきている。折しも欧州議会ではポピュリスト政党が躍進、その現在を知りたく本書を手にした。ただし、原著(仏)出版は2021年であり、いささか古いが、良く整理された内容は現状理解に何ら不足するところはない。
著者は1950年生まれの仏政治学者。パリ政治学院名誉教授。フランス国民戦線(Front National;FN)研究の第一人者である。
本書を知ったのは新聞書評に依る。その際著者が学者であることは承知していたが、新書であることから、現状を解説するジャーナリスティックなものと受け取っていた。しかし、紐解いてみると、見開きに「私の学生たちに捧げる」とあり、これが一種の教科書であると告げられる。その観点で、内容理解に歯ごたえを感じるが、ポピュリズムを歴史的・体系的にとらえる点において巷間あふれる同種の書とは一線を画す、「学んだ」の読後感を残す一冊であった。
先ず、ポピュリズムの起源を辿り、革命前のロシアの農民あるいは米国の人民党、1930年代の南米などの政治・統治形態から、ポピュリズムの特質を抽出する。そこにあるのはエリート(既得権者)と大衆(訳者は“人民”を多用するが、これはイデオロギーを連想させるので敢えて“大衆”とする)。この大衆を惹きつける手段に理念的なものと(例えばマルクス主義、宗教)と非理念的なもの(例えば、民族主義・国粋主義)があり、時代と社会情勢によって右も左も存在することになる。いずれにしてもこれによって“我々”と“彼等”を分かつことで存在感を示すことになる。現代欧州のそれは、新自由主義によってもたらされた経済格差や難民・移民問題が分水嶺の役割を果たし、反グローバルゼ―ション(反EUやブレグジット)に帰結していく。
著者はフランス人、現代に関しては同国ナショナル・ポピュリストの動向を国民連合(RN)のマリーヌ・ルペンを中心に語る比重が高いが、この他「ドイツのための選択肢(AfD)」、「ハンガリー市民同盟」、「オランダ自由党」、「スイス国民党」を始め、30を超えるポピュリスト政党に言及、さらに欧州外ではトランプ前米大統領やベネズエラなど南米のポピュリズム動向にも触れて、伝統的な民主主義との関係を論じ(ポピュリズムは民主主義の不調に対する薬?)、民主主義の在り方を問い直す
諸学説(多くの政治学者がポピュリズム研究に携わっている)、データ(特に各国ポピュリズム政党関係)、引用文献を総動員しての現代欧州ポピュリズム解説、気軽に読める本ではないが、欧州政治への関心が一段と身近になったことだけは確かだ。
2)読書と人生
-物理学者の冷徹さと文人としての温かみで、読書・社会・人生を語る。一世紀近く経ても変わらぬ教訓・警世-
寺田寅彦(1878年(明治11年)~1935年(昭和10年))の名を知ったのはおそらく中学の国語の授業のときだったと記憶する。当時既に理系志望、物理学者でありながら漱石や鴎外のような文豪たちと並んで登場したのが忘れられない。だからと言って、作品に触れてみようと言う域には達してはない。それが、どんなきっかけだか思い出せないのだが、高校時代文庫本の随筆集を手にする機会があり、そこで読んだ「竜舌蘭」と題する一話が著者を強烈に印象づけることになる。寅彦は次々と妻に先立たれ三度結婚するのだが、この作品に最初の妻との間に生れ、母に先立たれた幼い娘(長女)を哀しむシーンがあり、それが寅彦の名を目にするたびに頭を過るようになった。しかし、印象深い作家の一人となりながら、さらに彼の著作を読むことはなかった。それが直球ど真ん中の題名「読書と人生」で目の前に現れたからには、読まずにいられない。
本書は30数話から成る随筆集。掲載時期は明治期の1点を除けば大正後半から昭和10年(没年)にわたる。掲載は新聞、文芸誌、総合雑誌から特定の同人誌、大学・学術機関の広報誌など多様。読書論・人生論としてひとくくりになっているものは数百字程度の短いものがある一方、「レーリー卿」(英物理学者ジョン・ウィリアム・ストラット;第3代レーリー男爵、1904年ノーベル物理学賞受賞)は50頁近い長編だ(昭和5年)。内容の大半は、読書・書籍・書評(歌集が多い)に関するものだが、書物に集中するものではなく、社会時評、文芸や科学評論そして人生論が交わるので、当時の世相と寅彦のそれに対する考え方が浮き彫りにされ、それは読む者に現代社会を見る新たな視点を与えてくれる。本書を読む価値はそこにあると言える。
例えば、「一つの思考実験」(大正11年)は新聞批評に関するものだが、「新聞は不幸や不安の原因」とし、しばらく新聞を読むのを止めてみる。その結果「のんびりした」「情報を緊急に要する者はごく限られている。週間・旬間で充分」と結論付ける。これは現役時代海外出張後に読む新聞感覚と同じだ。それに続く「ジャーナリズム雑感」(昭和9年)では「文章の中に出現しているのでも(記事の意)、前後関係で意味や価値にずいぶん大きな開きがある」とし「誠につかまえどころのない化物のようなものである」と厳しい。またこのテーマでは、地震に関する問題を記者に問われたが、この問いが「あまりの奇問ばかりで返答できなかったから黙っていたら、それを肯定ととられ」「筆者(寅彦)自身が自発的に滔々と弁じたような形式で掲載されていた」と体験談を語る。工場で取材を受けた報道が思い浮かぶ(日経ビジネスに勝手な記事を載せられ大迷惑した。今での記者の名前は憶えている)。
「アインシュタインの教育観」(大正10年)、これは外国人が書いたアインシュタインに関する書物(原著)の紹介。“俗書”と断じながら、そこに「数学嫌いをいじめるな」とあり「それは教師の側に問題があるのだ」と記されているらしい、寅彦は賛意を示し、これを受けて自説を開陳する。
「藤原博士の『雲』を読んで」(昭和4年)は短評だが、この時代の我が国科学に対する寅彦の気概を感じさせものだ。藤原咲平(1884~1950;東大理学部教授、中央気象台長)は本邦気象学の草分け。『雲』は大衆向けの気象講話といった内容のようだ。西洋の先進科学技術を学び・導入することを主務とし、それを本流と見るこれまでの学界の在り方を「外国の植民地」と難じ、返す刀で『雲』を「日本人の気象学者でなければ書けない本である」と絶賛する。
寅彦は俳人でもあったので、(伊藤)左千夫、(齋藤)茂吉らの歌集や芭蕉に関する話題も掲載され、ここは興味の対象外であったが、大部分は科学者としての、鋭いが優しさを感じさせる論調で終始し、すっきりした読後感が残った。
3)貨物列車で行こう
-読後感、「あまりにも貨物列車輸送に無知だった!」「頑張れ!JR貨物」-
新家庭は横浜市鶴見区に会社が何室か借りていた民間アパートからスタートした。そこは川崎市との境界、鶴見川の近く。橋を渡って川崎側に進むと川以上に幅がある広大な国鉄の貨車操作場が在り、おそらく30線近い側線で膨大な数の貨車が、絶え間なく編成替えされていた。現在横須賀線と湘南新宿ラインが走り、新川崎駅や武蔵小杉駅が設置されている辺りまで相当な長さもある。国鉄がJRに変わると、次第に操車場の線路が取り払われ、一部貨物列車編成機能を残すものの、大部分は更地化にされ、そこにマンションやショッピングセンターあるいは工場などが立ち並んで様相は一変してしまった。往時は川崎や横浜の貨物専用線からここに集められ、全国に散っていった。あの貨車は今どこでどのように扱われているんだろうか?そんな疑問をここを通るたびにおぼえていた。本書を知ったのは夕刊の短評、もしかしたらこの疑問が解明するかもしれない、そんな期待で手にした。
著者は1965年生まれ、フリーのルポライターだが文藝春秋社との縁は長いようで、あとがきに15年以上とある。本書の記事も大多数の初出は文春オンラインとなっている。仕事の性格上、医療記事などの執筆もあり、特別鉄チャンと言うわけではないが、子供の頃から惹かれるところはあったと記されている。これは私も同じだ内容は6話から成り、テーマが異なるので貨物列車の世界を幅広く知ることが出来る。
かつては山手線内でも貨物列車が並走する場面にしばしば遭遇したものだが、現在ほとんど見かけない。昭和40年代まで首都圏旅客増対応で周辺の貨物線が整備されていったことが主因だ。現在の湘南新宿ライン・埼京線・武蔵野線・京葉線はすべて貨物線としてスタートしている。私が鶴見操車場を見たのもこの時代である。しかし、鉄道から自動車へのモーダルシフト(物流転換)が急速に進み、加えて国鉄民営化で貨物輸送は激減する。民営化直後のJR貨物は「余命幾ばく」とささやかれていたものの、トラック運転手不足やCO²削減政策、さらには自身の経営革新で、2016年には黒字に転じるほど貨物列車輸送を巡る環境は変わってきているのだ。
かつては都内主要駅(上野、新宿など)に在った貨物取扱機能は隅田川駅と東京貨物ターミナル駅(以後東タ駅と略す)の二カ所に集約され、荷姿はコンテナー以外扱っていない(これ以外は石油輸送のタンク車など、“車扱い”とよばれる)。話はこの二つの駅の業務紹介から始まる。隅田川駅は常磐線南千住駅の東側に戦前から在る老舗貨物駅、東タ駅は大井の新幹線基地に隣接して出来た新駅。隅田川駅は東北・北陸・北海道方面の貨物を扱い、東タ駅は東海・西日本方面の貨物を扱っている。駅の荷役作業、トレーニングセンター、機関区(電車化した旅客輸送とは違い機関車牽引ゆえに独自の車両管理が必要)などの機能を、現場体験を交えて語っていく。そこには、土浦貨物駅から隅田川駅までの乗車体験、あるいは新鶴見信号所(旧鶴見操車場;信号所と駅の違いは、荷扱いの有無;信号所は行わない)から東タ駅に至るおもわぬルート紹介が含まれる。新川崎駅隣接の信号所を出ると途中で南武線支線に入り臨海地帯の川崎貨物駅を経由し羽田空港の下をくぐるトンネルを抜け広大な東タ駅に到着するのだ。
第3話はJR貨物社長インタビュー。ここでは最近のモーダルコンビネーション(貨車とトラック)が興味深い。JR貨物荷扱量は2011年1961万トンから2017年には2263万トンへ増加し、その傾向はその後も続いていることを知る。ただ、この効率化には貨物集約がカギ、例えば、山陰本線沿線には貨物駅はなくトラック輸送拠点(ORS;Off Rail
Station)だけ設け、そこから山陽本線の貨物駅にトラック輸送するシステムになっている。すると、山陽本線有事の際(ここでは2018年の大水害)、山陰本線を迂回に種々の問題が生ずる(運転士が経験のない路線を走る)。
広島の車両所(機関車、貨車の保守整備)訪問記、広島駅東側の難所、セノハチ(急こう配で有名な瀬野駅・八本木駅間上り線)での補機(後押機関車)添乗記なども一般の鉄道旅行記ではうかがうことができない世界、本書ならではの記事だ。
しかし、何と言っても掉尾を飾るのは最終章「「文藝春秋」を北に追え!」だ。月刊誌「文藝春秋」は毎月10日に店頭に並ぶ。2021年10月号が製本され9月6日トーハン上尾センターでトラックに積み込まれ、それが隅田川駅でコンテナー収められるのを見届ける。貨物はここから東北本線経由で青函トンネルを抜け、札幌貨物ターミナル駅に向かうのだが、著者は新幹線で青森に先回り、翌朝ここから青森信号所に出てやって来た貨物列車添乗。これは在来線ゲージ(新幹線を含め3本レール)で走る貨物列車の乗車体験をしてみるためだ。函館貨物駅で下車、今度は函館本線で札幌に先回り、コンテナーが到着する札幌貨物ターミナル駅で「文藝春秋」を待ち受け、それが丸善札幌店に到着(9月9日)、店頭に並ぶまでを見届けるのだ。隅田川駅からここまで担当運転士7名でリレーしていく。如何に貨物列車輸送に無知だったか、思い知らされた。
4)ナチ親衛隊(SS)
-率先してホロ―コーストを実行した平凡なドイツ人。ナチスとSSに罪をかぶせ禊をすませたドイツ人-
先月英・米・ポ―ランド共作の映画「関心領域」を観た。カンヌ映画祭のグランプリ、英米のアカデミー賞もいくつか受賞した話題作だ。アウシュヴィッツ絶滅収容所を扱った映画は、古いところで高校生時代公開された戦後初のポーランド映画「アウシュヴィッツの女囚」から1990年代半ば大ヒットした「シンドラーのリスト」までいくつか観ているが、「関心領域」は明らかに他のアウシュヴィッツ物とは違っていた。収容所と壁を接した快適な住まいに暮らす所長一家を描いているのだが、収容所の悲惨な状況は一切画面に出てこない。もう一つ、ナチス親衛隊員(SS)である所長ルドルフ・ヘス(同名の副総統とは別人)もステレオタイプの権力者ではなく、穏やかな人物になっている。それだけに見えない恐怖が伝わってくる。製作者・監督の狙いもここにあるのだろう。我々が映像や書物で印象づけられているSS像は偏りがあるのかもしれない。SS関連の本は何冊か読んでいるが、出版間もない本書を紐解いてみることにした。
珍しくドイツ人の書いた原著をそこから直接訳した新書である。著者は1974年生まれの独現代史研究者。本書はSS通史と言ったところだが、戦後の彼らを追うところに他書との違いがある。
第一次世界大戦に敗れた後の独ワイマール時代、右も左も政治活動は暴力的な色彩が強い。ナチスのそれは突撃隊(SA)。それを率いていたのは旧軍人エルンスト・レーム。しかし、ヒトラーはSAを信用せず自身の警護班を別に持ち、これがやがてSSに発展していく。ミュンヘン一揆でヒトラーが拘束されている間、レームはSAの勢力を伸展させていく。しかし、ヒトラーに限らず、プロレタリアの多かった党内で反SAの空気も強く、政権取得後の1934年6月、のちに「長いナイフの夜」とも称せられるレームを始めとするSA中核メンバー数百人を粛清する事件が起こり、ヒトラーの対抗勢力(党内左派を含む)は一掃され、それまでSAの下部組織だったSSが独立を果たす。
それを率いることになるのはハインリヒ・ヒムラー、ヒトラーの熱烈な信奉者、やがてSSのみならずドイツ警察長官も務めることになり、SSと警察の併合が進んでいく。反ヒトラーを封じるための諜報機関である国家保安本部(SD)も取り込み、ここから国家秘密警察ゲスターポも生まれる。
ナチスの最も分かり易いスローガンは「反ユダヤ主義」、ナチスの支配力が強まるとユダヤ人排斥の動きは強制収容所に行きつき、ここもSSが主管することになる。SSはナチスの中のエリート、隊員資格取得は厳しく、当初は身体条件が「北方種」であることに加え、1800年以降家系にユダヤの血が混じわっていないことを証明する必要があったほどだが、さすがにこれでは隊員数を確保できず改正されている。しかし、人種へのこだわりは最後まで強い。
次に取り組むのが党軍事組織としての武装SS創設。もともとSAは旧軍人たちが主導権を持つ軍に類似する組織形態だったことからSSもそれを継承。国防軍からは「戦争ごっこ」と揶揄されていたものの次第に力をつけ、国防軍にその存在を公的に認めさせる。量的にも質的にもドイツ全体の軍事力としてはさしたる兵力ではなかったが、第二次世界大戦中、獲得した占領地支配を担うことから始まり、やがて一線に投入され、一部の部隊は国防軍から高い評価をうけるレベルまで達したものもあった。
全体構成は、SS前史とその後の発展を人(個人)に焦点当てて解説していく。そこには、ヒトラー、レーム、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲッベルスなどナチス史でよく知られた人物ばかりでなく、我が国では無名の関係者も多数登場、それを通じて党内事情やヒトラーの変化・変身を知ることが出来、ナチス史・ドイツ現代史深耕に役立つ一冊と言える。
最も評価するのは最終章「戦後ドイツ社会と親衛隊」。進んでSS隊員(エリート)に志願したにもかかわらず、戦後早い時期から旧SS隊員もドイツ一般市民も、「裁きは済んだ。今さら何を?」としてきた風潮に対する批判的なスタンスである。「ナチスが悪かった。 SSが悪かった」とすべてをそこに押しつけ、SS隊員は「命令に従っただけ」と責任回避し、続々復権し行ったドイツ戦後史を最新の研究で見直している。著者が力点をここに置いていることは、参考文献(すべてドイツ語)の発刊・発表時期が今世紀になってからのものがほとんどであることから推察できる。
5)わたしと日産
-ゴーンの後継社長が語る、日産凋落の道、ゴーン・リバイバル、そしてゴーンの背任-
大学入学と同時にメンバーが機械科学生中心の学生自動車工学研究会に入会した。この会は他大学の同種研究会と学連を構成し、合同の工場見学会や実車テスト、遠征などを行っていた。3年生の時に学連委員となり、新旧委員交代の引き継ぎを兼ねた懇親会が開かれ、学連先輩である日産自動車のOTNさんをお招きして話を聞く機会があった。OTNさんは東大機械科卒で当時は開発実験部門に属していた。お願いしたのは前年(前々年?)ダットサン1000がオーストラリアで開催された“サザンクロスラリー”でクラス優勝した際のドライバーの一人だったからである。我が国自動車産業における乗用車のレベルは欧米に遅れをとっていた時代、これは画期的な出来事だった。その後1960年代末期、サファリラリーでのブルーバードSSS優勝を題材にした石原裕次郎主演「栄光の5000キロ」が製作されるほど、一時期の日産にはホンダと並んで“世界に挑戦している会社”の印象が強かった。それがトヨタ、ホンダの後塵を拝するばかりか、ルノーの支援を仰ぐまでに至った経緯に何があったのか?これを知りたく、カルロス・ゴーンからCEO職を引き継いだ著者の作品を読んでみることにした。
予想したことだが、本書は単なる経営者の回顧録ではない。題名を「わたしとゴーン」と改題する方がより実態を表す内容だ。
著者の経歴概要;1953年生れ(ゴーンは1954年生れ)、1977年東大法学部卒・日産入社、配属先は購買(専門分野となる)、3年後社内試験で米国留学(MBA)、帰国後秘書課勤務(社長付)、1998年日産ヨーロッパ勤務(在英、購買以外も担当)、1999年ルノー資本参加(ゴーンが日産COOとして赴任、2001年CEO)、2001年ルノーとの共同購買会社RNPO(Renault Nissan Purchasing Organization)社に計画段階から参画、COO(登用面接で初めてゴーンと一対一で対面、CEOはルノーの取締役兼務で常勤せず実質著者が社長)、日産ヨーロッパ統括責任者(2005年~2006年、日産取締役)、米国日産統括責任者(2007年~2008年、前任者はゴーン兼務)、ゴーンは2009年よりルノーCEO兼務となり次第に日本滞在が減じていく(特に、2015年以降)、2016年日産Co-CEOとしてゴーンと二人三脚、2017年4月日産CEO就任(ゴーンは会長、著者はルノー取締役兼務)、2018年11月ゴーン逮捕、2019年9月著者日産CEO退任。この略歴からゴーンの信頼が厚かったことがうかがえる。
著者の語る日産経営の行き詰まりは、先陣を切った海外生産にありとする。グローバルビジネスの組織・人材を欠き、旧来の輸出型ビジネスモデルで運営したため赤字が拡大(特に米国)。加えて、1990年代のバブル崩壊で国内市場も大型車・高級車が売れず、ついに経営破たんしたというものである。国内市場の件は他社も大同小異だったはずだから、主因は海外ビジネスということになる。組織風土や人材については各所で問題点が縷々述べられるものの、経営指標の数字が一切示されないので、経営不振の根源が見えてこない。このことは、ルノー資本参加(6000億円投入)後の日産リバイバルプランによるV字回復も同様で、目標はあるもののどこでどのように改善したのかはっきりしない。経営者が書いた本だけに不満だ。V字回復のカギが厳しい部品調達にあったとする風説は当に著者の専門分野に関すること、一言あってしかるべきだろう(最近も下請けいじめが問題になり、賃上げ税制優遇資格を失った)。
ゴーンの光と影は、絶賛から極悪人に豹変したジャーナリズムと違い、背任行為を厳しく責めながら、身近に接してきた者のクールな分析に納得感がある。一対一や少人数の話し合いでは他人の話をよく聞く“聞き上手”。しかし、大勢の人間の前で話すときは決断力のあるリーダーとして振舞う。これが日本では“カリスマ”と奉られ、彼を裸の王様にしてしまったとの見方である(ルノー社内ではまったくカリスマではない)。この裸の王様に至る過程に、日産の(そして日本の)グローバル人材不足が大きく影響したと断ずる。具体的には、技術系のリーダーは務まるが経営中枢は無理、経営中枢を支える法務・財務/経理・人事・広報など管理部門に国際化を担える人材がおらず、欧米出身者ばかりになり(典型的なのはCEO補佐となりゴーンと同時に逮捕されたケリー;ルノー出身ではなく米国日産勤務中ゴーンに抜擢される)日本人の下請化が常態化、ゴーンに私欲が強かったのは確かであるが(堂々と高報酬を食むことに嫌悪感の強い日本で、それを表に出ないようにしたい)、不正を早くに見抜けなかった。
有名人の自伝は、とかく都合の悪いことは避け、自慢話と失敗の言い訳が巧妙に組み込まれが、本書にもそれを感じる。“購買”についてあれこれ触れながら具体的内容(締め付け、縁切り)には言及しない。ルノー、フランス政府、国内司法、マスメディアよる西川叩き、逮捕後のゴーン、ケリーによる西川非難に対する反論・弁解が随所に見られる。
我が国社長職の期限は2年を1期、通常最低2期(4年)務めるのが通例。しかし、著者は1年半で辞任している。個人的な不祥事を起こしたわけではなく表向きはゴーン事件の責任をとる形だが、本当にそれだけか?
問題含みではあるが、著者のルノーを含む国際企業における管理者・経営者としての立ち居振る舞いには、国際ビジネスに関わる人々に学ぶ点は多々ある一冊だ。
6)勝敗の構造
-第二次世界大戦における11作戦を用兵思想に着目、最新情報で定説にメスを入れる-
第二次世界大戦、とりわけ欧州戦線を語る時、“電撃戦(独語;Blitzkrieg)”は欠かせぬ軍事用語になっている。英国冒険作家レン・デイトンはそのものずばりの「Blitzkrieg」を著しているし、電撃戦生みの親ハインツ・グーデリアンの回想録も「電撃戦」のタイトルで邦訳出版されている(原題は「一兵士の回想録」)。しかし、この言葉が独国防軍の中で使われてきた痕跡はどこにもないと知ったのは、2003年我が国で翻訳・出版されたカール=ハインツ・フリーザー著「電撃戦という幻」(邦訳2003年刊、原著1995年刊)による。ここに書かれているのは「言葉として使われていない」ということばかりでなく、「戦略・作戦としてひとくくりにまとめられたものなど皆無」ということである。どうやらポーランド侵攻の速さを端的に表現するためマスメディアが作り出した言葉のようで、それ独り歩きし戦史や作戦研究にまで普及する結果になったらしい。こうなると西方作戦そのものを問い直す必要が出てくる。本書は、今次大戦における著名な11の作戦(真珠湾攻撃を除き他はすべて欧州戦線)を、用兵思想(戦略、作戦レベル)の視点から、直近の資料を基に質すもので、第一話は「ドクトリンなき「電撃戦」」。
著者は1961年生れの現代史家、本欄で「独ソ戦」「「砂漠の狐」ロンメル」「戦車将軍グーデリアン」「「太平洋の巨鷲」山本五十六」をすでに紹介している。私が好んで作品を読んできたのは、大学卒業後公費(独学術交流団体)でドイツに留学、最近の独語文献やソ連崩壊後のロシアの史料(独訳、英訳)などを丹念に調べ、従来からの定説に批判的な眼で考察を加えるところにある。時には“重箱の隅をつつく”感無きにしもあらずだが、新鮮な情報・切り口に触れられることの方が多い。
第1章「ドクトリンなき「電撃戦」」は西方作戦に先立ち「電撃戦」作戦構想があったわけではなく、第一次大戦開始時採用されたシュリーフェンプランの近代化(空軍力を加える)とアルデンヌ突破奇襲作戦、それと仏軍のマジノ線防衛戦略が相互に作用し、独参謀本部も予想しなかったスピードで大西洋岸まで到達、結果がたまたま“電撃的”になったとする。また、アルデンヌ奇襲作戦のおおもとは1920年代制約された国防軍教育訓練部が作り上げ改定を繰り返してきた「諸兵科協同による指揮および戦闘」がヴェルサイユ条約破棄後(1933年)「軍隊指揮(トルッペンフールング)」として刷新された結果であり、マンシュタイイン(アルデンヌ突破案の提唱者)やグーデリアンの創造した作戦ではないと見る。
唯一太平洋戦争(真珠湾攻撃)が取り上げられる第6章「戦略的失敗だったのか?」は、真珠湾攻撃を計画実施した山本五十六連合艦隊司令長官に関する二つの問題を扱う。一つはあの攻撃に依り米国の参戦をもたらし反日世論が沸騰、これを戦略ミスと断じることに対する反論だ。もう一つは第2次攻撃を行わず機動部隊を引き返させたことに関する批判的定説に対してだ。第一の問題は、開戦は政府・大本営の決断事項であり、実行部隊の長に責任を負わせるのは見当違いであることを当時の外交交渉も含め実証する。第二では、米国戦史家複数人の論を引き、もし第2次(ドックや保守設備、石油タンク)攻撃を行っていれば、航空部隊に大損害が生じた可能性が高かったことを論じ、山本・南雲(機動部隊司令長官)の判断を是とする。
この他の事例は、英上陸作戦(最近行われた英国でのシミュレーションでは、上陸作戦に成功しても短時間で撃退される)、イタリアのエジプト侵攻作戦(伊軍の惨状)、クレタ島攻略(空挺作戦の難しさ)、バルバロッサ作戦(モスクワか南方か)、エル・アラメイン(モントゴメリーの考え方)、クルスク会戦(戦車戦;国防軍内の意見相違)、ワルシャワ蜂起(ソ連軍のワルシャワを前にした進軍停止は作意か?)、バルジ作戦(独最後の西方反撃)、レーマーゲン鉄橋攻防戦(連合軍ライン川渡河)。いずれも定説を根本から覆すほどではないが、戦史に関心のある者にとって、無視出来ない考察が加えられている。
覚醒させられたのは各作戦の内容ではなく、ドイツの戦記・戦史ジャーナリズムに関する話である。1950~60年代ドイツの戦いに関する著書を多数上梓、邦訳も多いパウル・カレルという作家がいる。私も「砂漠の狐」「バルバロッサ作戦」など何冊か保有しているのだが、彼は元ナチス党員・親衛隊員・外務省報道局長でありながら、筆名で身分を隠し、一般の歴史認識に多大な影響をおよぼしてきた。しかし、1997年没したものの、2005年ナチ時代の経歴が暴露され、評価が地に落ちた、と本書の注に記されていた。
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