2025年9月13日土曜日

満洲回想旅行(19)


19.ハルビン観光-3


627日(金)晴。明日朝は大連のホテルから空港へ直行だから、この日が最後の観光である。列車は1342分発だから実質午前中のみの観光。先ず出かけたのは黒竜江省博物館、元々はロシアのデパートだったものを日本統治時代博物館に転用、共産中国になってもそれが継続された保存建造物である。何カ所かの都市で博物館を見物したものの、地方史を知る上ではそれなりの価値はあるものの、国内を含め、個人的には科学博物館や交通博物館にしか興味のない私にとっては時間の浪費に過ぎなかった。むしろ、この博物館が在る紅博広場(日本統治時代は単に大広場)周辺にかつて存在し、対ソ諜報活動の拠点であった、日本総領事館や陸軍特務機関のその後を知りたかったが、それは叶わなかった。と言うのも、このツアー参加以前に読み終え<今月の本棚-20320259126月)>で紹介した「消された外交官宮川舩夫」の舞台だったからである。宮川総領事は最後の総領事として日ソ停戦交渉に臨み、外交官でありながらモスクワに連行され獄死(スパイ容疑、ソ連崩壊後名誉回復)した人物。まあ、近くを訪れることが出来ただけでも良しとしよう。


次に訪れたのは中華巴洛克(バロック)街。ここは面白い歴史を残す場所。ロシア人の街を見よう見まねで中国人が作った街、一見外観は西洋風ながら、ファサードをくぐり中庭(四合院)に至れば中国そのもの、建物もよく見ると華洋折衷。中華巴洛克とはよく名付けたものだ。建物の銘板などを見ると漢字・キリル文字・ローマ字混在、ある意味ハルビンが古くから国際都市であったことの証になっている。

実は、一時期かなり荒廃した街になったようだが、2000年代半ばからハルビン市政府によって修復・保護事業が進めら

れ、「老道外中華バロック歴史文化区」として再開発が進み、観光スポットとして再興した場所、現在もリノヴェーションが進められている。


このあとは昼食。比較的駅に近い、何か街全体が安っぽい感じのする所で食した。店の名前は「老昌春餅」、意味からすると春巻き店だが、食したのは普通の中華の印象だった。この名前他所でも何回か見かけたのでチェーン店かもしれない。バスに乗ると雨がぱらついてきた。今度の旅で初めての雨だ。幸い駅前の駐車場に着いた時にはほとんどやんでいた。



 

写真は上から; 中華巴洛克街入口、市歴史建造物銘板、百年老店ビル入口、四合院(中庭)、キリル文字・漢字併記のビル、華洋折衷の街並み

 

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(次回;大連へ戻る)

 

2025年9月9日火曜日

満洲回想旅行(18)


18.ハルビン観光-2


この日は太陽島から始め、大聖堂、スターリン公園、キタイスカヤ通りと、ロシアの面影を追う観光だった。日本の統治で少々変わったとはいえ、ハルビン最大の見所が“ロシア”であることは確かだ。バスで移動し、名所各所で30分から1時間程度の散策をするのだが、歩き回るのが辛い。すぐに日陰と座れる場所を求め、そこでぼんやり人の動きを眺めて集合時間までを過ごすような体たらくだった。旅順で東鶏冠山や二〇三高地を巡ったのとは大違いだ。これは体力低下が第一ではあるが、暑さがそれ以上に影響している。北上するに従い気温が高くなってきているのだ。この日は一通り市内観光が終わると、一旦ホテルに戻り、しばらく休憩ののち夕食に出かけるスケジュールになっていた。部屋へ戻ると冷蔵庫キャビネットの上の棚に、ミネラルウォーターが4本置いてあり、漢字で書かれた手書きのメモが添えてある。おおよその意味は「このところ異常な暑さが続いており、役所からも防暑対策に関し警告が出ています。そのためいつもは2本のミネラルウォーターを用意していましたが、今日は4本にしましたのでお使いください」である。ここも異常気象、へばるわけだ。


この日の夕食は今までとは一風変わった串焼きの店「那些年(ナー・シエ・ニェン;懐かしいあの頃)」で摂った。レストランというより大衆酒場の趣だ。スープは別にして、焼き鳥は無論、牛・豚・ソーセージ、淡水魚・野菜類、あらゆる料理が鉄製の長い串焼きで供される。私の席は調理場の直ぐ横、おじさんとおばさん(オーナーか?)が、若者が持ってくるオーダーを手際よくさばいていく。格別美味しい料理ではなかったが、農耕民族よりは遊牧民族の食事を連想させ、面白い体験だった。

 

写真は上から; 店の入口、看板、店内風景、調理場のおじさんとおばさん

 

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(次回;ハルビン観光 つづく)

 

2025年9月4日木曜日

満洲回想旅行(17)


17.ハルビン観光-1


626日(木)曇り。今日はハルビン観光一日目、10時にホテルをバスで出発し、向かうは松花江の対岸(北岸)に在る太陽島。ロシア時代に広大な川中島を整備して造られたた大公園である。平日の午前ではあるがバス駐車場の公園入口近くはすでにかなりの数の観光バスが駐車しており、中国人の観光客が大勢公園入口方面に移動している。入口にはかなり距離のある所から歩行者誘導の柵が設けられているところを見ると、休日はかなり長蛇の列となるのだろう。今日はそんなことはないものの、園内を廻るカート待ちの行列は出来ている。既に旅行社が用意したのであろう、我々は2台のカートに分乗して、園内見学に出かける。


最初の下車地は太陽を模した彫像があり、南側にハルビン市内を遠望する岸辺の小広場、ここから見るハルビンは、例によって高層アパート群の林立する、おなじみの風景だった。次は人工の大きな岩が目立つ池。まるでテーマパークのようで、感心しない。この公園か否かは不明だが、幼い頃の写真には母とボートに乗っているものがあり、ガイドの瀋さんに「ボート乗り場はあるか?」と聞いたところと「ある」との返事をもらったが、この公園では見かけることはなかった。


昼食は市内へ戻り「珍粥道」というレストランで摂った。字から想像できるようにお粥の店である。具はいろいろあり、単品で食べられるものが多く、いつもの中華のつもりで、それを食していると、やがて白米のお粥が出てくる。味はついていないし日本のお粥のように梅干しや塩昆布のような塩辛い具がないので、食塩が欲しくなる。ところが醤油や酢はあっても食卓塩は置いていない。ウェイトレスにオーダーすると、一瞬怪訝な表情をして、小皿に塩を盛ったものが供され、皆でそれを回して食した。中国人はお粥を白米のご飯と同じような食べ方をするのかも知れない。


午後の観光はいよいよ“ロシア”。最初は聖ソフィア大聖堂、周辺もロシア時代の建物が多く、赤いクレムリン(城塞)はないものの、大聖堂のタマネギ屋根などチョットしたモスクワ赤の広場の雰囲気だ。大聖堂内は見学不可だが、結婚式のカップルが何組も順にその前で写真を撮っている。若い人に人気の場所のようだ。


広場付近にはロシア時代の由緒ある建物もあり、しばし与えられた自由時間を使って見学をと思ったが、暑さは半端ではなく、ベンチにへたり込んで、ミネラルウォーターを飲みながら、専ら広場を行き交う人々を観察することで終わった。


このあと松花江沿いに長く延びるスターリン(斯大林)公園の一画で、この河をまたぐ長大な鉄道橋、松花江特大橋の袂で小休止、古い橋(1903年建造、現在は観光用)と新しい橋(2015年)が並走しているところを観光する。


次は、100年以上前にロシアが建設・整備したキタイスカヤ(中国人の意)通り(中央大街)。全長1.5km、幅22m、道路全面敷石の見事な通りである。かつては“東方のパリ”とも称され、往時は馬車が往来したのであろうが、今は歩行者天国になっている。古い建物がリノヴェーションされ、現在は通りそのものが、市による保存地区となっている。道路を掃除するおじさん・おばさんによって、ゴミ(見ているとアイルクリームの棒が多かった)は即座に回収される。ここには日本統治時代デパートだった松浦洋行のビルも残り、観光サービスセンターとして利用されている。

大聖堂広場同様ベンチで休んでいると添乗員補助の孫さんがやってきて「どうですか、この通りを行き来する若い女性は?」と聞いてきた。彼に言わせると中国人の女性は北へ行くほど美しくなるのだという。通りでじっくり通行人を観察したのは瀋陽以来、格別それと差があるとは思えなかったが、日本でも秋田や新潟は美人の産地と言われることを思い出した。


 

写真は上から;ハルビン地図、太陽島カート、太陽島シンボル(市内遠望)、人工岩と池、レストラン珍粥道、大聖堂、大聖堂広場近景、スターリン公園から望む新旧鉄道橋、キタイスカヤ通り(旧松浦洋行付近)、おじさん掃除夫、旧万国洋行(商店街)

 

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(次回;ハルビン観光 つづく) 

2025年9月1日月曜日

満洲回想旅行(16)


16.ハルビンへ


長春駅改札で今回の旅行で初めてのトラブル発生。夫婦で参加している一組が入場チェックで止められる。大連から同行の添乗員補佐孫さん、長春ガイドの艾(アイ)さんが

改札駅員に抗議するが頑として受け付けない。どうやら「駅事務所へ行け」と言っているようで、時間が迫る中二人はどこかへ消え、しばらくして戻り、二人の入場が許される。あとで聞くと、二人の内のどちらかのパスポートに、他国に旅した際入出国スタンプに不備があったことが原因だったらしい。こんなことは珍しいが、入国時ならともかく、ここまでの過程で一切問題にならなかっただけに、孫さんや艾(アイ)さんにも納得できない突発事故だったようだ。民営化前の国鉄も、いかにも公務員然とした職員がいたものだが、下僚役人ほど小さな権力を振りかざす。そんないちシーンだった。ハルビン経由チャムス行きの高鉄は1426分、正確に長春駅を発車した。


今回訪れた5都市(大連、旅順、瀋陽、長春、ハルビン)の内、旅順以外は戦前一度は滞在している。住んでいた長春、引揚げ途上1カ月近くとどめ置かれた瀋陽、1942年の一時帰国でかすかに風景が思い浮かぶ大連近郊、ここまでは「そこに居た記憶」が残る。しかし、ハルビンを訪ねたのは1939年夏、まだ8ヶ月の赤ん坊、母に抱かれて写した写真が数葉残るだけだ。この時は、母の末弟が旧制中学の夏休み来満、両親が彼をハルビンに案内している。叔父の最晩年「僕が訪れた時はハルピンと言っていたが、最近はハルビンと呼んでいる。どちらが正しいんだろう?」と尋ねられ、答えに窮したことを車中ぼんやり思い出す(駅の英語表現はbであった)。


記憶に全くない地方に踏み込むので、景観の違いに注視したが、見渡すがぎり続く広大な平地はそれ以前の沿線風景とまったく変わりなく、あらためて満洲という土地の特質を印象づけられる。

列車の外観はそれまでと大差ないものの、車輌内装は丸味を持った部分が多くソフトな感じを与える。1606分列車は定刻にハルビン駅に到着した。迎えてくれたのは日本留学も経験している女性ガイドの瀋さん。ホテルは駅北西の松花江沿いに在るのでバスで移動、チェックインし夕食まで休憩となる。部屋は9階で見晴らしは良いが、残念ながらリバーサイドではなく街や駅を見下ろす位置にあった。それまでのシャングリラとの違いは初のツウィンベッド・ルームだったくらい。


夕食にはバスで「龍門貴賓楼酒店」なる所で摂った。実は駅の南側に在るハルビン・ヤマトホテルのレストランである。赤絨毯が敷き詰められたそこは当にクラシックホテルそのもの、部屋は我々貸し切り、ロシア料理のフルコースが供された。今回の旅は朝食を除けば、種類は多々あったものの、すべて中華料理。初めての洋食である。しかし、料理も味も今ひとつ、ロシアの雰囲気さえ感じない内容、ただの三流洋食フルコースだった。赤ワインの小瓶が100元(2000円相当)だったのも、評価を落とした。

ハルビンは大連同様連泊。ホテルへ帰ると洗濯に励むことになる。

写真は上から;長春駅改札、ハルビン駅、生後8ヶ月のハルビン、ヤマトホテルの食事会場

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(次回;ハルビン観光)