2010年5月5日水曜日

今月の本棚-20(2010年4月)

<今月読んだ本(4月)>
1)戦場出稼ぎ労働者(安田純平);集英社(新書)
2)世界ぐるっとほろ酔い紀行(西川浩);新潮社(文庫)
3)世界ぐるっと朝食紀行(西川浩);新潮社(文庫)
4)スペースシャトルの落日(松浦晋也);筑摩書房(文庫)
5)ベルリン・コンスピラシー(マイケル・バー=ゾウハー);早川書房(文庫)
6)ホース・ソルジャー(ダグ・スタントン);早川書房
7)トレイシー(中田整一);講談社
8)ホーネット、飛翔せよ(上、下)(ケン・フォレット);ヴィレッジブックス
9)JAL崩壊(客室乗務員2010グループ);文芸春秋社(新書)
10)困ります、ファインマンさん(リチャード・ファインマン);岩波書店(文庫)

<愚評昧説>
1)戦場出稼ぎ労働者
 戦争の民営化が進んでいるという。嘗てのフランス外人部隊(これは民営ではないが)のような、いわゆる傭兵に近い存在を思い浮かべていた。しかしこの本で紹介されるのは、勇ましい戦闘者ではなく、イラク戦争で後方支援(警備、輸送、建設・工事、給食・清掃など)に当たる、底辺の戦場派遣労働者である。
 筆者は信濃毎日の記者としてイラク戦開戦当時この地に赴き、取材中武装集団に一時身柄を拘束されたこともある人。その後フリー・ジャーナリストに転じ、2007年戦場労働者のこのルポルタージュをまとめるため、クウェートで求職活動しイラクへ不法潜入。約一年にわたって、戦場に近い警備会社の寮賄い人として過ごした体験を記したものである。
 現在も戦闘が続くイラクには、民間人が単独で入国することは簡単ではない。多くの出稼ぎ人は、比較的治安が安定し、入国も容易なクウェートに入り込む。そこには、貧しい国々からの求職希望者がうごめき、いかがわしい私設労務斡旋所が多数存在する。しかしイラクでの就労を許されるヴィザも無い日本人が、容易に仕事を見つけられるわけが無い。ネパール人の宿泊所に転げ込み、同国人に化けてようやく料理人補助の仕事にありつく。国境通過も種々のトラブルに見舞われ、辿り着いたところは、鉄条網で囲われた英系護衛・警備会社の基地(オフィスと寮)。本業の警護スタッフは白人主体、基地の警備はネパール人、寮賄いのチーフはインド人。
 経歴を偽って(料理人の経験など全く無い)潜り込んだことを何とか誤魔化し、やがてインド人チーフの帰国に伴いその後任を務めるまでなってゆく。
 経済的に貧しい国々(インド、パキスタン、バングラディッシュ、スリランカ、ネパール、フィリピンなど)からの出稼ぎ労働者のコストと見返り、その背景・リスクなどを身近な情報源から取り上げているので、戦場を取り巻くビジネス実態とそこでの格差が臨場感をもって伝わってくる。

2)世界ぐるっとほろ酔い紀行、世界ぐるっと朝食紀行  新刊の“ほろ酔い”を先ず買った。酒と肴に関するエッセイである。グルメでもなく酒も強くない私にも酒と肴の組合せの妙は解かる。どの食事もいかにも美味そうであった。それで旧刊の“朝食”を求めた。
 筆者紹介には、写真家、料理研究家、作家、画家とある(本業は写真家であるようだが)。私は知らなかったが、料理研究家としてもTVなどに出演して有名な人らしい。若いときから海外に長期逗留したり、撮影で訪れた土地どちで味わった酒と肴、朝食を書き綴った随筆集である。
 生年は私より一つ下、食糧事情の悪い時代を過ごした人の思いに共感するくだりも多い。街の市場や田舎の食堂、一宿したB&Bでの食事や仲間内での一杯が材料で、有名レストランや豪華ホテルが舞台でないのも親近感をおぼえる。
食べ物の本は表現に工夫が要るものだが、なかなか巧みな文章で、口の中に思わず唾が溜まってきてしまう。本職の写真も多く、目で楽しめるのもいい。

3)スペースシャトルの落日 買い求めたのは丁度シャトルによる日本人最後の宇宙飛行士、山崎さんがスペースラボに滞在中である。マスコミが派手に騒ぎたてるわりには、実験室での成果が何も伝わってこない。毛利さんから山崎さんまで宇宙へ飛び出す以外、一体何をしているのだろう?“実りのある研究活動は行われているのだろうか?費用はどうなっているんだろう?これで終わるというアメリカのシャトル計画との関係は?こんな思いで本書を手にした。
 この本は、2003年のコロンビア号事故後、2005年に出版されたものだが、今回かなり増補・改訂され、最後の打ち上げ以降の課題も取り上げられている。アポロによる月探査後のアメリカ宇宙開発の実態が技術面を含めて解かり易く描かれ、シャトル計画の問題点、それと絡んだわが国の主体性を欠く宇宙政策が浮き彫りにされている。
 アポロ(打ち上げロケットはサターン)式の宇宙飛行は基本的に“使い捨て”である。しかしこれでは“もったいない(不経済だ)”、だから飛行機のように何度でも使えるものを作ろう。これがスペースシャトル計画の出発点である。素人にも一見わかり易い論理で、納税者の説得材料にもなる。しかし結果は、打ち上げ回数が当初予定(年間50回)の1/10(2009年度5回)と言う惨憺たるものである。これなら実績済みのアポロを改善しながら行った方が安くて安全だった(実際ロシアは未だにソユーズを使っていし、これからの宇宙行きはしばらくこれに頼るしかない)。
 月探査計画が一段落したらあと何をやるか?これは当時の米国宇宙政策の最大の課題だった。既に巨大組織となったNASAに縮小計画はのめる話ではない。宇宙産業の中核を担う航空機メーカーも同様。それ等が存在する都市や州にとっても雇用を継続できる新計画が必要だ。既得権益を守ろうとする政治的視点でこの計画が具体化していく。有翼構造の非効率性・非安全性(翼が必要なのは着陸時のみ。その腹部は最も脆弱で最も面積が広い)を訴える、科学者・技術者の声は政治家と官僚に押さえ込まれ、やがてこの杞憂がコロンビア、チャレンジャーの悲劇につながっていく(コロンビアは、直接的原因は翼部ではなく固体燃料ロケットだが)。
 それでも資金面に制約のあるこの計画を、アメリカは“国際プロジェクト”に仕立て、(当時の)自由主義先進国に参加を募る、しかしフランスは真っ先に降り、英国もやがて見送る。結局金づるは日本とドイツに留まる。爾来日本は参加協賛金を払い続け、シャトル計画の遅延により、独自の宇宙開発計画は何度も修正を余儀なくされる。
 オバマ政権は月探査計画の再開を止め、遥か将来の火星探査計画に切り替えた。具体的な姿は見えてこない。自民党政権末期に成立した宇宙基本法で、政治が宇宙開発の意思決定を行うことになったが、その担当大臣、国土交通大臣はダムやJALで全くこの職責を果たしていない。いまやわが国の宇宙開発は宙に浮いたままなのだ!

4)ベルリン・コンスピラシー  軍事サスペンスの巨匠、バー・ゾウハーの最新作である。背景は国際政治。軍事緊張の対決者は米国とイラン。無論核兵器疑惑である。イラク戦争でも反対にまわったフランス・ドイツが同じ行動をとるが、ここでの強硬派はドイツである。右派の首相はアメリカ離れを売り物にし、ドイツの米軍基地(飛行場)をイラン攻撃に一切使わせないと公言する。折りあたかも選挙が間近に迫っているが、現首相の人気はライバルに勝る。
 主役は嘗てナチのSS狩りを行ったユダヤ系アメリカ老人。終戦直後にドイツ南部でSS将校を仲間と殺害している。早朝宿泊先のホテルの部屋をノックする者がいる。出てみるとそこに逮捕状をもってドイツ刑事警察の警部が待っていた。昨夜宿泊したのはロンドンのはず。何故ベルリンで!?こうして物語は始まる。
 留置場に留め置かれた彼を息子が訪ねてくる。謎解きが始まる。切れ者女性検察官との鞘当て。やがてCIA、英国のMI-6さらにはホワイトハウスも関係する陰謀が明らかになっていく。そして最終章、大団円で終わる寸前、思わぬ幕切れで止めを刺される。
 ゾウハーは1938年ブルガリア生まれのユダヤ人。ナチの迫害を逃れるため幼時にイスラエルに移住している。国防省の報道官などを務め、第4次中東戦争にも従軍、のちに国会議員にもなっている。これらの経験が全てこの小説に生かされているようだ。
 久し振りでゾウハーを堪能した。

5)ホース・ソルジャー
 最近の戦争はTVで実況まであるわりには、その実態がよくわからない。特にアフガニスタンのそれは、最新鋭兵器を持つ最強の米軍とゲリラが如何に干戈を交えているのか、地雷や携行ミサイルの話が断片的に伝わってくる程度で戦いの全容は皆目見当もつかない。たまたま本屋で平積みされていた本書の副題「米特殊騎馬隊、アフガンの死闘」に惹かれて購入した。いまどき“騎兵隊”!?まるで西部劇じゃないか!との思いで。
 陸軍特殊部隊の起源は、遥か第二次世界大戦中のOSS(現在のCIA発足母体)に遡る。敵の後方に侵入し諜報活動や破壊活動を行うのが任務だ。隊員はレンジャーや空挺部隊などの出身者、個々人の戦闘能力は正規軍と比べ桁違いに高い。対するターリバーンは、ソ連崩壊につながった神出鬼没のタフな戦闘集団。米国が9・11テロ撲滅のため取った最初の戦術は高空からの爆撃である。しかしこの時は地上管制員がいないため効果はほとんど上がっていない。ヘリコプターによる急襲作戦も、3000メートルを超える高地ゆえその能力を発揮できない。山岳地帯に分け入り、ゲリラと戦いながら、対地攻撃を誘導する特殊部隊がウズベキスタンの基地から発することになる。50人に満たない先遣隊は反ターリバーン一派と合流、彼等の唯一の移動手段、騎馬で行動を伴にする。やがて北部の要衝、マザーリシャリーフ要塞を落とす。時の国防長官、ラムズフェルドはウズベキスタンに赴き、彼等の戦果を讃える。
 作品は徹底的な隊員からの聴き取り調査を基に書かれている。ノンフィクションの典型的な手法である。しかし、この道の先駆者、ハルバースタムとはその表現力・展開力に大きな差があり、細部のみがクローズアップされ、アフガンの戦闘を知りたいという好奇心は満たされたものの、全体像や背景がいまひとつ見えてこない不満が残った。
 
6)トレイシー  トレイシーとは、カリフォルニア北東部の廃れた保養地、バイロン・ホット・スプリングスに設けられていた、日本人捕虜尋問センターの秘匿名である。太平洋戦域で捕らえられ、それぞれの戦域捕虜収容所で取調べを受けた後、さらに利用価値があると認められた者がここに送られ、組織的にも心理的にもよく練られた環境・手法で尋問されていたのである。
 皇居を守る近衛兵、徴兵された三菱航空機の工員、撃墜された零戦パイロット、生き残った潜水艦乗り、不時着した輸送機から救出された海軍高級参謀。拷問のような手荒な扱いを全く受けていないのに、彼等は効果的な戦争遂行に必要な重要情報をすすんで(あるいは知らず知らずに)米軍に与えていく。本書の冒頭に、当時取調官がまとめた皇居内の建物のプロットや名古屋の三菱エンジン工場の構成図があるが驚くほど正確である。戦術も戦略もこのような情報を基に策定・実施されていたのである。
 日系米人は信用されず、尋問官は無論通訳にも採用されていない。全て白人の将校・知識人である。僅かに宣教師など日本に長く滞在した者もいるが、ほとんどは開戦後の即席養成である。しかし、人材の篩い分け、教育過程は良く整備され、語学も高いレヴェルが求められ、日本人に心を開かせる体制が確り出来ている。米国が大戦に勝利したのは、決して物量だけではないことをこの本はよく伝えている。
 ドイツ降伏の前後、この尋問センターは閉鎖され、ヴァージニア州に設けられていた、ドイツ・イタリア兵の尋問センターに統合されるが、そこにはヨーロッパで捕らえられた外交官や軍人も収容される(外交官はやがてホテルに軟禁)。ここでの日本人捕虜(ほとんど高級軍人)の取調べを見ていると、戦後の日本統治策や今の憲法の骨格もこの尋問センターの活動から生み出されたのではないかと思われてくる。
 本書は、沖縄の核持込密約外交文書の騒ぎよりも遥かに深く、安全保障・外交を考える(情報・諜報の重要性)機会を与えてくれた。

7)ホーネット、飛翔せよ
 ケン・フォレットの痛快軍事サスペンスである。代表作“針の眼”が重苦しい作品であったのに対し、これは拷問シーンなどあるわりに明るい感じがする。それは主人公が若い男女(高校生と王立バレー学校の生徒)だからだろう。
 舞台はナチスドイツ占領下のデンマーク。西ヨーロッパ全域がドイツの影響下にあるため、英国の唯一の攻撃手段は空爆しかない。しかし、爆撃機の被害は甚大で、効果的な打撃を与えられない。どやらドイツは密かに英爆撃機隊の早期探知手段を持っているらしい。MI-6(英対外諜報部)にその秘密解明の命が下る。
 自宅のある小島でドイツ基地建設に動員された、滅法機械に強い高校生がその秘密をかぎつける。ガールフレンドのユダヤ人銀行家の娘、バレリーナの卵が彼に協力する。平和な時代、父親が使っていた複葉小型機(ホーネット・モス)が埃をかぶって、広大な敷地内の朽ち果てた教会に捨て置かれている。
 英国でOR起源を調べている時、A.V.ジョーンズと言う人が書いた“Secret War”と言う本を読んだ。ここにこれに類する話が出てくる(デンマークではないのだが)。英国は既にレーダーを実用化しているのだが、ドイツの最新情報がわからない。レーダーの存在が判っただけではダメで(厳重に防備を固めたレーダー装置に対する、ピンポイントの空爆は極めて困難)、全体システムを解明しそれへの対抗策(欺瞞策を含む)をこうじる必要がある。こんな現実の問題点も確り小説の中に取り込まれていた。
 この本を読んで思わぬ情報を得た。あの時代スウェーデンもデンマークも民間人にはほとんどガソリンや軽油の供給は絶たれていた。何と主人公は泥炭を燃やして蒸気を作りそれで動くオートバイを走らせているし、ストックホルムでは木炭自動車が走っていたのだ!役に立たぬことだが読書の楽しみは、こんなことにめぐり合うことにもある。

8)JAL崩壊 既に本件に関してはいろいろな本が出ている。筆者が個人名ではなく、“客室乗務員”とあったので、際物趣味で読んでみた。一言で言えば現場(チーフパーサーやパーサーらしい)の恨みつらみ、不平不満集、下世話な話が書き連ねである。
 書き出しはJASとの統合問題をとりあげているものの、これも突込みが浅い。機長組合の横暴など嘗ての“鬼の動労”を思わせる場面も執拗に書かれているが、ANAとて似たような環境にあるはずだから、これが倒産の原因とも考えられない。要は長く国策会社として経営され、あらゆる部署・従業員が“親方日の丸”に安住してきた結果である。
 私が初めて飛行機に乗ったのは昭和40年頃和歌山工場勤務中、伊丹から羽田へ飛んだJALである。第一印象は“慇懃無礼”である。爾来出来るだけJALは避けてきた。復活するのは縁戚関係でJALに近しくなってからである。90年代に乗り始めたJAL(国際便)は昔の第一印象とは随分違い、あの“冷たさ”は消えていた(歳のせいもあるのだろうが)。しかし、既にその頃から崩壊への道は始まっていたのだ。
 一兵士の書いた戦記ものもそれなりの価値はある。本書もそれと同様。現場の問題点は改善されて欲しいものである。二度目は誰も助けませんよ。

9)困ります、ファインマンさん  “ファインマンさん”ものの本は岩波からシリーズ化され出版されているが、読むのはこれが始めてである。動機は、前述の「スペースシャトルの落日」の本文中に、参考文献として紹介されていたからである。
 ファインマンは著名な物理学者で、1965年わが国の朝永振一郎博士と一緒にノーベル物理学賞を受賞している。この本に依れば、大学進学ではコロンビア大学を希望したがユダヤ人制限枠の関係で入れずMITに入学、その後大学院はプリンストンに進んで、卒業後原爆開発のマンハッタン計画に加わっている。戦後は主にカリフォルニア工科大学(CALTEC)で物理を教えていたが、ここでは航空工学研究で評価の高い、ジェット推進研究所(JPL)とも深く関わっている。
 それもあり1986年1月に起こった、スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故調査委員会(大統領直属)のメンバーに任ぜられる。この本の後半、約半分はこの時の彼の考え方、行動、委員会活動に対する批判等をまとめたものである。しかし、それを正しく理解するためには、事故とは関係ない前半のいくつかの談話や話題が不可欠で、一見関係の無いテーマが一冊の本にまとめられたことが意味を持つことになる。
 高校時代の恋人と、何でも包み隠さず正直に話そうと約束する。やがて彼女が不治の病に罹るが彼はそれをも正直に告げようとする。周囲は大反対。ついに意に反して偽りを語る。その自責の念。やがて病身のまま結婚し、その死を迎える。葬儀屋が死化粧をするというのを許さない。「死んだ人間に化粧をするなんて何の意味があるんだ!ありのままでいいんだ」と。
 父親はセールスマン。客を時には騙すようなことはないのかと問う。一度でも騙したら終わり。正直に話せばその時注文を失っても、長い眼で見て失うものは無いと説く。
 少年時代、大学時代仲間とよく“考えること”について意見を交わし、実験をする。そこに多様な発想があることを知る。
 このように育ってきた人が、政治・経済・官僚機構でがんじがらめの事故調査委員会のメンバーになれば、自ずと浮き上がってくる。現場(実験場、工場)に出かけて、生の声・事実を見聞したいという彼の願いはなかなか叶わない。それでも執拗に独自の調査を進める。やがて、下々(エンジニアや工員)から、寒い時に事故が起こる可能性が高いことを知らされ、既にそれについて上部に意見具申し続けていたことも明るみになる。それらに関する報告を事務局宛に送りつけるが、本人には知らせずに事務局長は握りつぶす。
 最終報告書には彼の調査報告は盛り込まれず、激しい抗議の末添付資料とされてしまう。さらにNASAに対する“勧告”はメンバーの総意で9項目に整理されるが、ほとんどのメンバーが去った後、ロジャー委員長(ニクソン政権の国務長官、やがてキッシンジャーに取って代わられる)が1項目追加したいと言い出す。それは「NASAは今までも良くやってきた。これからもこれに懲りず頑張って欲しい」と言う意のものであった。とても彼に受け入れられるものではない。大統領が勧告案を発表した後、彼は独自の記者会見で全てをぶちまける。
 米国も日本もこの点(政治と官僚が口裏合わせて、既得権を守るため責任逃れをする)は全く同じであることを知って、民主主義の限界を感じた。「アメリカよ!お前もか?」と。
 ファインマンにすっかり陶酔してしまった。他の本も読んでみようと思う。
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2010年5月2日日曜日

遠い国・近い人-1(国際関係私論;シリーズ開始に当たって))

 現在の中国東北部は一時期満洲国と呼ばれていた。1939年1月この地の首都、新京(現長春)に生まれ1946年 9月まで8年弱をここで過ごした。新京は日本が大規模な都市開発したところだったから、我々の居住区内で、近くに住む満洲人(満人と呼んでいた)は僅かの特権階級しか居なかったが、街中では肉体労働者(特に馬車牽き)の満人をよく見かけた。
 日本人小学校(当時は国民学校と呼ばれた)入学時(1945年4月)クラスに一人だけ満人の同級生がいた。通学経路が同じ方向、彼はチョッと癖はあるが日本語を話せたので、帰りは二人だけで帰ることもあった(往きは社宅の小学生が一緒になって集団登校した)。ソ連侵攻は夏休み中の8月9日、彼との付き合いは7月末まで一学期4ヶ月で終わった。学校は秋の運動会あたりまで続いたが(その後は満人の小学校になった)、夏休み明け登校した時彼の姿はなっかた。個人としての初めての“外国人”との交わりである。
 満人とは居住区を分けながらも共棲していたので、終戦まで子供心には“外国人”という意識は無かった。“外国人”を意識したのは8月下旬から進駐してきたソ連兵を見てからである。明らかに姿形が違う。日中我々に蛮行することは無かったが、大人たちはいろいろ乱暴狼藉を噂していたし、女学生は髪を短くして男のような風体になっていた。性的なことは分からなくても、ソ連兵の難を避ける策であることは理解できた。一度父と同行してかなり離れた別の社宅を訪問したことがある。冬のさ中帰りが遅くなり、日もとっぷり暮れた夜、私をソリに乗せて凍結した道路を自宅に向かっている途中、銃を持ったソ連兵のホールドアップに遭った。強盗である。幸いソ連の憲兵が近くを警邏中で事なきを得たが、ソ連兵の恐ろしさを身をもって体験した(後日、父はこの時「殺される」と思ったと語っていた)。
 私のソ連感・ロシア感は、この時から2003年まで約60年間基本的に変わることは無かった。しかし、横河の仕事で頻繁にロシアを訪れ個人的に多くの人と親しく交流することで、それが一気に好転した。この例は他の国でも同じである。ハリウッド映画を通じて憧れたアメリカも、訪れて人々の身近な生活を知ると多くの失望・幻滅を味わうことになった。書物やメディアを通じたその国・国民の理解と自ら体験した実態には大きな違いがあり、その後の見方がまるで異なると言うのが、私の国際関係論である。
 今までに訪れた国の数は26ヶ国、ほとんど仕事である。これは海外旅行を趣味とする人と比べればたいした数ではない。しかし、交換した名刺の数は1000枚弱(非訪問国を含む)、長期海外駐在経験者・貿易業務従事者を除けば相当な数ではなかろうか。定期的な手紙の交換(クリスマスカード、年賀状)やメールのやり取りをしているのが50人くらい、これを含めて、会えば“やあやあ”と直ぐに旧懐を温め合えるのが100人くらいになる。何人かの家には招かれたり泊まったりしている。家族ぐるみの付き合いもある。彼等を通じて理解した国々は、私にとって特別の国になっている。その思いをこの「遠い国・近い人」シリーズで紹介していきたい。
 話題の取り上げ方にルールは無いし、時間的な順序もあまり考慮しない。内容も人が主役だったり、国が中心だったりと一定しない。ただ、彼等と私の関係、彼等あるいは彼等の国を私がどう思っているかは出来るだけはっきり書くように心がけるつもりである。固有名詞はファーストネームだったりイニシャルだったりするが、これはある程度プライバシー上の配慮とご理解いただきたい。

2010年4月22日木曜日

決断科学ノート-40(迷走する工場管理システム作り-14;最終回;あれから30余年)

 1972年秋から’77年までプロジェクト迷走、それから3年間(’80年まで)見直し構想に基づくCOSMICSプロジェクトの立ち上げと推進。その後約10年このシステムが工場管理の中核として使われ、90年代初め和歌山システムも含めて、IBMの汎用機を基幹サーバーとしPCを端末とするIR(Intelligent Refinery)システムに置き換わった。さらに21世紀初頭、これをExxonダウンストリーム(精製・販売)ビジネス共通の、STRIPESと呼ばれる統合経営管理システムに発展的に移行、今日に至っている。38年の歳月が流れたことになる。
 当時の構想は、進歩著しいコンピュータと通信技術(今で言うIT:Information Technologies;情報技術)を駆使して、革新的な工場管理(今で言うBPR;Business Process Reengineering;省力化、省エネルギー、原料の有効利用、在庫圧縮、業務処理のスピードアップなど)を実現しようというものであった。
 現在のSTRIPESとそれを取り巻く周辺システム(例えば、プラント運転制御を掌るTCS;Tonen Control SystemやMOS、Laboratory Automation System)があの時の構想を実現した姿になっていることがわかる。しかし、そこまでに至る時間が30年近くあったことを考えると、当時の構想そのものが現実離れしたものだったともいえる。
 IT環境を見れば、電卓用のマイクロ・コンピュータは出現しつつあったが、PCはまだ世に出ていない。無論、簡単に持ち運び出来る端末装置(ディスプレイ+キーボード)も無かった。共同研究の過程で、富士通からプラズマディスプレイの紹介があったり、横河電機に液晶を使った指示計を見せてもらったりしたが、いずれも今から見れば試験研究段階の原初的なものであった。
 通信環境はもっと遅れており、汎用性のあるLANのようなものを求めたが、今のようなシステムは皆無だった。日本システム工業というヴェンチャー企業が開発した、データハイウェイと称する特殊な通信システムが唯一実用化されていたに過ぎない(それでも当時画期的な技術で、和歌山計画に採用)。
 ネットワーク技術の調査段階で知った、米国防総省のALPA(Advanced Research Project Agency)NETが今日のインターネットに発展するとは思いもよらなかった。
 ソフトの面での制約はもっと大きく、業務用アプリケーションパッケージは皆無、ワープロや表計算ソフトも無かった(タイプライターの延長線のような英文ワープロはあったが)。マイクロソフトの創設は1975年、オラクルは1977年である。
 工場中枢汎用コンピュータに関する共同調査研究の最大の課題は、工場プラントモデル(線形モデル)の処理能力にあった。当時の製油所モデルは2~3000の一次式からなっていた。これに非線形モデル加え、スケジューリングへ落とすために、一ヶ月を三期に分けるとその数は1万を超えることになる。和歌山のヴェンダーセレクションでは何とかIBMだけが要求を満たせたが、他(富士通、東芝)はハードルを超えられなかった。我々の評価でも“解ける”ことを確認するまでで、時間的には満足できるものではなかった。しかし、LP解法に関してはその後著しい進歩があり(CPLEXなど)、またコンピュータの処理能力(速度と記憶容量)も飛躍的に向上して、いまや数十万式のモデルがごく短い時間で解けるところまできている(三菱化学水島事業所)。
 つまりあの時は夢に近かった技術(計算機技術、数理技術、通信技術、ソフトウェア・パッケージ)が、その後20年近く経って次第に現実のものになっているのである。それも極めて安価に。
 しかしながら問題は“業務革新”である。あの時も社内の空気は完全に“総論賛成・各論抵抗”であった。BPRはSAPに代表されるERP(Enterprise Resource Planning;人・物・金の最適利用)パッケージと伴にやってきた。’90年代多くの会社がERP導入によるBPRに取り組んだ。つぎ込んだ金が100億円を超えるところも決して少なくない。だが、期待した業務処理プロセスの“革新”を起こしたところは少なく、良くて“改善”、ほとんどは既存システムの“置き換え”が実状である。
 国の政治・行政から工場経営まで、組織は守りを固め、既得権を手放そうとはしない。これを破れるのはトップのリーダーシップだが、不平不満を恐れる指導者は“合意形成;和”を旨としがちである。そこに“革新”が起こることは無い。
 著しい技術進歩と本質的に変わらぬ経営管理体制を見るにつけ、あの30余年前の構想が迷走した挙句、取り敢えず業務“支援”システムとしてこぢんまりまとまってしまったことを複雑な想いで振り返っている。果敢に“革新”に挑戦していればどうなっていたかと。当然技術や経済性の壁にぶち当たって、挫折していたかもしれないが、組織・業務改革に正面から取り組まずに、難所を迂回したことに忸怩たる思いが残る。

(完)

 長いシリーズにお付き合いいただき有難うございました。コメントをいただければ幸いです。

2010年4月17日土曜日

決断科学ノート-39(迷走する工場管理システム作り-13;完成したシステム)

 1978年後半から、COSMICS-Ⅱ(Computer Oriented Scheduling and Monitoring Information Control System;-ⅠはTSK)と名付けられた工場管理システムが、生産管理の新規開発と既存システムである業務(受注出荷)管理の更新置換を中心に進められた。先行した和歌山計画からの学習効果と選択したHP-3000の使い勝手の良さもあって、プロジェクトは順調に進んでいった。
 1979年に入ると早くもその一部は実用テストに入り、スケジューリング用シミュレータが期待通りの効果を発揮して、白物(軽油溜分)収率の向上が認められまでになった。
 少し遅れる形で、川崎独自の設備保全用資材管理システム;AIMS(Advanced Inventory Management System)や和歌山・川崎共通の計装保全管理システム;MOS-Ⅰ(Maintenance On-line System-Instruments;この後にⅡ(電機・回転機械)、Ⅲ(装置;塔槽類、配管)と続いていく)が別プロジェクトとして立ち上がり、HP-1000をベースに開発が進められようになる。
 非定常(異常、停止、立ち上げ)時のプラント運転自動化推進や事務部門の業務改善は未着手のまま残ったものの、生産管理、保全管理という工場運営の両輪ともいえる機能をほぼカバーする工場管理システムがやっと実現の運びとなった。工場革新を目指した、システム開発室という組織発足から7年の長い道のりであった。
 この年(’79年)の5月、まだ開発途上にあったCOSMICS-ⅡをExxonの技術会議(Technical Computing Conference;TCC)で発表するよう本社から指示があった。TCCはExxonグループ(原油探査・生産は除く)における技術分野でのコンピュータ利用に関する技術会議で、毎年この時期ニューヨーク郊外(ニュージャージに在った技術センター;ERE・ECCSのメンバーが参加しやすいよう)のホテルを借り切って3日間行われていた。対象は、プラント設計、プロセス制御、各種数理手法、研究開発支援、タンカー運用など多岐に渡り、参加者(約200名)が全世界から集まってくる大会議である。短期間に専門家が一ヶ所に集うので、情報交換にはもってこいの場である。ここでExxonグループの中でも先陣を切っている工場管理システムの紹介をして、反応を窺うことが使命であった。
 参加してみると、工場全体の生産管理に関する発表は当社を含めて3件であった。一つはフォレー製油所(UK)の発表で、発売されて間もないIBM-4300(汎用機と共通する中型機)をプラットフォームとする、生産実績データ・ベース構築とその利用に関するもの、もう一つはアントワープ製油所(ベルギー)のIBM-370(汎用機)を用いたプロセス制御システム(ACS;Advanced Control System)上のプラント運転実績データを利用するものだった。二つとも“実績データ分析システム”で、プランニング(月次計画)やスケジューリング機能との連携は無かった。そんな訳で、プランニングは本社の汎用機を利用するものの、“プランニング~スケジューリング~モニタリング~分析“と一つながりになったシステムはCOSMICSだけであったので、発表後その効用や経済性について随分質問を受けることになった。
 この会議の後、ニュージャージのEREやヒューストンのエッソイースタン(東燃の親会社)、シリコーンヴァレーのHP本社に立寄ったが、どこでも熱心なディスカッションが交わされた。不思議なもので、拙い英会話能力でも自信のあるシステムを懐にすると、実力以上に意が通ずることを実感した。
 「Japan as Number 1」が出版され、第二次石油ショック(イラン革命)が起こったのはこの年、日本そして石油への追い風が吹いていた時期でもあった。
(次回;最終回;あれから30余年)

2010年4月9日金曜日

決断科学ノート-38(迷走する工場管理システム作り-12;コンピュータの選択-2)

 通常ベンダーセレクション(メーカー選定)は、2~3社を対象に行う。しかし、今回はそれぞれに技術的な特徴(技術体系の変革期)があり、更に今までの実績(共同研究や対象外機種の使用実績など)もあって一気に絞り込むことが難しい。そこで二段階に分けて最終決定に持ち込むことにした。第一段階はこちらの要求仕様にどこまで応えられるかに主眼に置く。無論見積価格は提出してもらうが、重要なのは機能である。これで2~3社に絞り込んで、第二段階で最終決定するという手順である。
 第一回目の見積照会は前回取り上げた、ミニコン御三家(DEC、DG、HP)と汎用機で実績のあるIBM、富士通、東芝に行った。6社競札はこちらも初めてだが、応札する方も未体験だったようだ。川崎工場の会議室に全社を集めて行った仕様説明会は、後日の語り草になったほどである。
 東芝(TSKには複数のシステムが納入されていたが、東燃には実績なし)と富士通(FACOM-Uは子会社の製品)は、どうも当て馬ととった感があり、提案内容に突っ込みを欠いていた。IBMは何とか期待に応えようと努力しているのは伝わるのだが、悲しいかな、ぴったりの機種が無い。第二段階まで進んだのは御三家である。ただし、IBMに関しては、和歌山に工場管理システムとして採用していることもあり、最終決定まで継続検討を行うよう本社から指示があった(上の方は4300の発表が近いことを耳打ちされていたのかもしれない)。
 DEC、DG、HP、いずれも東燃グループに全く実績は無い。技術提携先のエクソンでもPDP-8(DEC)が一部の工場やラボに導入されているものの、それほど普及していなし、その他の会社・機種はエクソンの技術レポートでも見たことが無い。わが国・わが社の利用環境を踏まえた独自評価を進める必要がある。
 ミニコンのIBMといわれたDECは世界規模での実績は問題ない。PDP-11と言う機種の評価も高かった。日本でのビジネスは、日本DECと言う法人はあるものの、実際は理経という商社が取り仕切っていた。無論エンジニアもいるのだが、知識・技能はあくまでも標準システムの範囲内で、ユーザー領域まで達していない(これは三社とも大きな違いは無い)。北辰電機のようにPDPベースのシステム販売をする会社もあったが、制御用の色彩が濃い。また、工場設備用には多くの実績があるものの、事務処理も含む工場管理分野には必ずしも優れているわけではなかった。
 DGのNOVAは日本ミニコンが熊谷に工場を建設し、そこで組み立てられていた。三社の中で唯一日本に生産拠点がある点は強みだった。しかし、立ち上げたばかりのビジネスは標準製品の箱売りで、システム販売ではない。応札はしたものの、こちらの要求にどう応えていいか戸惑っているところが垣間見えた。
 HPも自社ではシステム含みのビジネスはやっていない。ただこの会社は1960年代の前半から横河電機と高周波測定器の合弁会社(横河HP;YHP)をつくっていた(そのための工場が八王子に在った)。応札したのはこのYHPである。また横河電機はここが販売するHP-1000をプラットフォームにしたプラント操業管理システムを、顧客ニーズに合わせてシステム販売していた。しかし、汎用性の高い(事務分野もカバーする)HP-3000はさすがに取り扱ってはいなかった。
 今まで紹介してきたように、IBMも含めて米国のコンピュータ・メーカーは標準システム販売が原則である。しかし、IBMと付き合って分かったことは、最終責任は負わないものの、実質的にはシステム統合(他社製品との結合やアプリケーション開発)を、強力に支援してくれることを知っていた。そこで御三家にその点を打診してみた。最も具体的な提案があったのはHPである。HP製品に精通した日本システム技術(のちに横河グループ入りする)を連れてきて、こちらの要求との摺り合わせをしてくれた。
 開発を担う当社のエンジニア達は、基幹ソフトのOSやデータベース(DB)、開発言語などの評価を行った。オンラインでアプリケーション開発が出来るOS;MPE、OSの一部を成す、動きの軽いDB;Image、修得し易い開発用言語;SPL。IBMや富士通の汎用機に比べ、明らかに一日の長があった。特に、多数のプログラマがCRTから同時にアプリケーション開発を行える環境は、技術的な面で高い評価を受け、決断の重要な因子となった。
 標準システム単体では、最も安いシステムではなかったが、システム統合やアプリケーションソフト開発費を勘案すれば、一番安く仕上げられると確信できた。
 最終段階になると、横河電機出身の役員が何人かアプローチしてきた。言わば横河が連帯保証人になった感じである。
 「IBMで良いんじゃないのか?(汎用機の価格を安くする手段をいろいろ提示してきていた)」という工場幹部を説得して、HP-3000の採用を決めた。
(次回;完成した工場管理システム)

2010年4月5日月曜日

決断科学ノート-37(迷走する工場管理システム作り-11;コンピュータの選択-1)

 1972年秋に立ち上がり、第一次石油危機を経て凍結事態になった川崎工場の工場管理システム構想は、和歌山計画も巻き込んで、5年間に渡る迷走を続けたことになる。しかし、この5年間は決して“失われた5年”ではなかった。この間、ITによる工場経営革新(その後の全社的な経営革新)推進の抑えどころ、生産管理の在り方、情報技術の進歩と適用限界、当該プロジェクトの経済・経営効果の把握などを当事者もその周辺も学ぶいい機会となった。
 計画のベースとなる経済効果は、製品の収率改善(重質油から少しでも付加価値の高い軽い溜分を回収・増産する;この時一番経済性向上に効いたのは軽油の増産)である。ただし、生産計画の基となる製油所LPによる月次生産計画は工場生産管理機能から外したので、それはスケジューリングと運転実績解析から実現できる分に留まる。和歌山ほど投資するのは難しい。自ずと導入候補のコンピュータは限られてくる。幸いこの時期から半導体技術が急速に進み、小型コンピュータ(いわゆるミニコン)に下位の汎用コンピュータと遜色のない、高性能のものが出始めていた。
 システム開発室発足時、二つのグループ(東芝-山武ハネウェルと富士通-横河電機)との共同研究に着手した時は、東芝、富士通ともにそれぞれの旗艦となる汎用機を担いでいたが、プロジェクトの凍結時この関係も解消され、汎用機に縛られることもなくなっていた。
 こんな時期、ミニコンの雄、DECは産業用コンピュータとして世界を席巻した、PDP-8の後継機PDP-11を発売していた(32ビットのVAXは日本では未発売)。“スカンク・ワーク”なる語を知らしめた、新興のデータゼネラル(DG)はNOVAシリーズが話題を呼び、高周波分析機器から新規分野に挑戦したHPはHP-1000で大成功、より汎用性の高いHP-3000を送り出したところ。どれも魅力的な製品だった。この中でチョッと特異なポジションに在ったのはDGである。
 国産メーカーもこの動きを必死で追っていた。東芝は産業用ミニコンでは先行しており、既にPDP-11を意識したTOSBAC-40シリーズを生産、CモデルがTSKで採用されていたし、富士通もFACOM-Uシリーズを市場に出していた。
 しかし、ITではいつの時代も同じだが、特にこの時代のミニコンはアメリカを追いかけるのが精一杯、通産省はこれに危機感を抱き、その技術をいち早くキャッチアップするため、合弁会社(日本ミニコン)設立に動いた。その相手として選ばれたのがDGである。日本側の企業ではオムロンや構造計画研究所が加わり、工場が熊谷に建設され、構造研の創始者服部さん(現社長の父)が社長を務めていた。
 問題はIBMである。コンピュータ業界の帝王だけに、新機軸のアーキテクチャー(基本構造)の製品は出し難く、辛うじてオフコン分野でS-30シリーズを出していたものの、その用途は事務分野に限られていた。工場での利用は、あくまでも旗艦、S-370を頭に持ち、その手足となるS-7やS-1しかなかった。スタンド・アロンで動く、ミニコン御三家の製品とは比ぶべくも無い。のちに大ヒットする、中型高性能機S-4300がベールを脱ぐ寸前であるのを我々(日本IBMの社員を含む)は知らない。(つづく)

2010年4月2日金曜日

今月の本棚-19(2010年3月)

<今月読んだ本(3月)>1)見えざる隣人(吉田忠則);日本経済新聞出版社
2)フリーエージェント社会の到来(ダニエル・ピンク);ダイヤモンド社
3)北米1万マイルの車の旅(笹目二朗);枻(えい)出版社(文庫)
4)緑の英国・アイルランドの車の旅(笹目二朗);枻出版社(文庫)
5)バルト三国をボルボで走る(笹目二朗);枻出版社(文庫)
6)チンクエチェントで駆け巡るイタリア5000km(笹目二朗);枻出版社(文庫)
7)U-307を雷撃せよ(上、下)(ジェフ・エドワーズ);文芸春秋社(文庫)
8)岩崎弥太郎と三菱四代(河合敦);幻冬舎(新書)

<愚評昧説>
1)見えざる隣人
 2008年、日本経済新聞夕刊に連載された「台頭する新華僑-揺れる日中のはざまで-」を大幅に加筆・修正して単行本にしたものである。いまや韓国・朝鮮人を抜いて最大の在日外国人となった中国人(2008年末で約65万人)、急速にその勢いを増す本国との間において、彼等の生き方・考え方は如何なるものなのかを、芥川賞作家から犯罪者まで、改革開放政策以前のエリート留学生から直近の出稼ぎ人まで、幅広いインタビューに基づいて掘り下げていく。
 世界に名高いニューヨークやサンフランシスコのチャイナタウン、ホンクーバー(香港からの移住者が多い)と称せられるバンクーバーの中国人社会、東南アジアの地場経済をがっちり握っている華僑、研究活動で滞在した英国の田舎町、ランカスター大学における中国人留学生の多さ、諸外国で垣間見た小中国は良くも悪くも、そこに欠かせぬ存在だった。これらに比べると、本邦最大の横浜のチャイナタウンですら、希薄なものに見えてくる。近い国だが最も遠い国と言えるかもしれない。
 維新後の近代化プロセスで醸成された中国蔑視観、一方で満洲事変・支那事変(日中戦争)に対する(わが国左翼知識人・メディアによって刷り込まれた)歪んだ原罪意識。日本人の中国(人)に対する思いは、その歴史を体験した世代が去っても複雑なものがある。そしてその特異な感情が現代の中国(人)に反射する。とりわけここに住む人たちに。そしてそれは意外と我々に伝わっていない。そこを埋めようと試みたのが本書の意図と言える。
 紹介される、池袋駅北口で起こったチャイナタウン騒動、川口芝園団地における中国人世帯の急増などによるトラブルとその収拾、独立行政法人、物質・材料研究機構における中国人研究者の活躍や企業家の出現などを見ていると、前述の諸外国とは形が異なるものの、わが国にも中国人との共棲を避けて通れない時代が来ていることを知らされる。そして彼等の存在が、新しい時代の日中関係構築の重要な礎と期待できるように思えてくる。
 それは、彼等が個人として日本と母国を見つめる複眼を持っていることである。例えば子供の教育である。中国での教育は日本とは比べものにならぬくらい厳しい。もし、初等・中等教育を日本で受けると、中国の競争社会を生き抜けないとさえ感じている。そこで子供だけは帰国させ母国で教育する。しかし、自分の日常生活を振り返ると、日本社会の落着いた環境に心の安らぎを感じると言う。本当はどちらが良いんだろう?と自身に問いかける。このような体験こそ国際社会を自ら理解する原点と言えるだろう。こういう人たちがある程度まとまって居住することは、必ずやわが国が国際社会において正しく理解されることに貢献するに違いない。
 本書を通じて、“見えざる隣人”の存在価値が少し見えてきた。

2)フリーエージェント社会の到来
 就職難である。経験の無い新卒が特に酷い。フリーターの発生はリーマンショック以降の現象ではなく随分前から起こっている。派遣社員が増えだしたのもバブルの最中90年代からだ。グローバリゼーションの掛け声の中、一層の企業経営の効率化が求められ、その後右肩上がりの経済成長が止まると、“欠員補充”的な採用が目立つようになってきた。この傾向は、成熟社会到来の早かった欧米社会(アメリカの場、経済成長は続いていたもののウェートがサービス業にシフト)ではもっと早くから始まっている。
 この本は、2001年に原著が出版されたもので、取材時期はそれ以前、1990年代後半と言うことになる。筆者はゴア副大統領のスピーチライタも務めたことのあるジャーナリストである。蒸し暑い夏のある日、冷房が故障した、ホワイトハウスの会議室でスピーチの準備会議中倒れてしまう。原因は、緊張を強いられ、不規則な労働環境に置かれることから来る過労である。その直後から、自ら時間と仕事をコントロールできる、フリーランスのジャーナリストに転じる。そしてわが身を置くことになった“フリーエージェント”の世界を探り始めのだが、以前労働長官のスタッフでもあった彼がそのコネを利用してもなかなか整理された情報が集められない。雇用統計では“非農業従事者”の中に消えてしまっているのだ。就業者なのか失業者なのかさえ定かではない。しかし身近にはこんな人が確実に増えている。そこで家族(妻と幼い娘)とともに全米を調査して歩く(出版社がスポンサー)。これはそのインタビュー結果のまとめである。
 本書の肝は、副題が『「雇われない生き方」は何を変えるか』とあるように、筆者自身獲得した、自由な「雇われない生き方」をポジティヴに捉え、成熟社会では必然であると説くところにある。
 嘗てのような組織(に縛られた)雇用に基づくピラミッド型(縦型)社会は歴史的にはそれほど長いものではなく、“退職”が可能になったのはごく最近のことで、それ以前は自営で、時には場所や顧客を変えながら一生働くのが当たり前だった。ある意味そこへの回帰が始まっている。そこではハリウッド型あるいはプロジェクト型のチームが出来上がり、必要な人材が必要な時に集められ、一仕事終われば散っていく。これは組織に依存する縦型社会とは異なる横型社会の到来であり、個人も社会もこれに適合する生き方が求められるとする(例えば、プロジェクトと人材の組合せを図る仲介企業の存在)。
 私も、現役時代「社内の仲間との比較よりも、①同業他社同職種で働けるか?→②異業種同職種で働けるか?→③異国(言葉のことははひとまずおいて)同職種で働けるか?」を“同職種”をキーに、自問するよう自らにもスタッフにも言い続けてきた。その点では筆者の主張に考え方は近い。
 しかし、現在の人材派遣会社やパートタイマーの暗部をえぐってはいるものの、働く者が自分の意志で仕事を決めることの価値を尊ぶ姿勢で貫かれた論調は、厳しい状況にある現在の労働市場をちょっと楽観的に見ているきらいがある。
 最大の問題点は、未経験者をプロの領域に高めるための仕組みである。この点も筆者は各種の教育・訓練方法などに言及しているのだが、実務を通じた知識・技能獲得にはとても及ばない気がする。
 フリーエージェント社会がフリーター社会に堕さないことを願って止まない。

3)~6)笹目二朗のドライブ紀行  筆者は日産自動車の技術者から、早い時期に自動車ジャーナリストに転じた人である。年齢は、著書から推定すると既に60代半ばと思われ、有名な徳大寺有恒(「間違いだらけのクルマ選び」で一気に売り出した)同様、この分野の“良き時代”を送った世代と言える。
 今は自動車ジャーナリズム冬の時代。若者の自動車離れが言われて久しい。理由の一端は自動車ジャーナリズムそのものにあると言える。あまりにハードウェア製品、技術(運転技術を含む)偏重なのである。クルマに乗ることの“楽しさ”を伝える記事がほとんど無い!1950年代朝日新聞が敢行した、今から思えば貧弱な国産車、トヨペット・クラウンによる“ロンドン→東京5万キロ”のような、若き血を滾らせる書き物にとんとお目にかからない。
 そんな悶々とした気分で月刊誌「ENGINE」を眺めている時、筆者がここ何年かにわたって、海外長距離ドライブを行い、それが出版物になっていることを知った。書店には置いていないし、出版社も聞いたことが無いのでインターネットで調べ、まとめて4冊購入した。
 4冊は場所(北米、英国とアイルランド、バルト三国・スカンジナビア、イタリア)とクルマ(全てメーカーの手配のレンタカー;クライスラーPTクルーザー、プジョー207、ボルボC30、フィアット・チンクエチェント)の違いだけで、内容はほとんど同じ。専ら走行距離、燃費、燃料価格、道路状況、あとは何を食って(これがかなり貧相;スーパーで買って車中食など多い)何処へ泊まったか。おまけにSEVというマイナスイオン効果で燃費や乗り心地まで改善してしまう道具に凝っていて、それがやたら出てくる(技術者であったのにその理屈が全く不明と言う)。文学的な味わいはまるで無く、ドライブ紀行というよりドライブ日誌と言っていい。足取りを辿る地図もほとんど掲載されておらず、写真がかなりあるのだが文庫本ではそれも楽しめない。人に進められるような本ではない。
 しかし、ドライブ好きの私にとってはそれなりに楽しく、好奇心を満たしてくれる小冊子。実現はしないだろうが、“欧州を走ってみたい”気にさせてくれた。

7)U-307を雷撃せよ  久し振りに優れた軍事サスペンスものに行き当たった。それも現代の最新技術とつながる、近未来SFである。荒唐無稽でないところがいい。筆者は米海軍で長年(23年間)駆逐艦に乗り込み対潜作戦に従事してきた技術エキスパート(士官か兵かは不明)である。だからその戦闘シーンには、最新の対潜駆逐艦の心臓部はかくやと思わせる臨場感に満ちている。
 20XY年、ドイツでは環境問題がエスカレートし、発電用原子炉の停止が迫ってくる。エネルギー不足はドイツ経済を大混乱に陥れること必定。ドイツ政府は密かにその最新鋭ディーゼル(燃料電池システムで推進するので静粛性が高い)潜水艦を中東のテロ国家に輸出し、石油の大量長期輸入を目論む。第二次世界大戦でのドイツ降伏記念日、5月8日キールを発った潜水艦4隻は先ずジブラルタルに向かう。英米共同作戦が発動され、それを阻止しようと海峡で待ち構えるが、逆に英艦が返り討ちに合う。東地中海から急行する米機動部隊も巧みに交わされてしまう。エジプトは親米国家ではなく、スエズ運河を封鎖しない。残されたのはイラン沖、ペルシャ湾を哨戒する米海軍の旧式巡洋艦一隻と駆逐艦・フリゲート艦三隻計4隻。4対4の戦がホルムズ海峡を挟んで戦われる。一隻でもテロ国家の手に渡れば、米国の威信は著しく傷がつく。「何としても阻止せよ」大統領(最高司令官)直々の命令が発せられる。
 最後に残った先任艦長の乗る潜水艦と最新鋭駆逐艦との一騎打ちシーンは、最新兵器による丁々発止にもまして、両艦長の心理描写に優れ、嘗ての名画「眼下の敵」を髣髴させる。
 チョッと物足りなかったのは、駆逐艦側の戦闘が克明に描かれるのに比べ、潜水艦側のそれがやや単純なことである。筆者のバックグラウンドから推し量ればやむをえないが、もう少しバランスよく書かれていれば、最後の場面の盛り上がりが違ったであろう。惜しい点である。
 しばし、この筆者の作品を追ってみようと思う。

8)岩崎弥太郎と三菱四代  三井・住友は長く続く商家、三菱(岩崎)は下級武士が維新に乗じて作り上げた海運業・重工業。こんなステレオタイプの認識しかなかった若い頃、理系を目指す人間としては三菱を一段と優れたグループと見る反面、何か堅苦しいイメージで近づき難いものと見てきた。それは社会人になってからも大きくは変わっていない。もう一つ子供の頃から何気なく不思議に思っていたことに、何故岩崎ではなく三菱なんだろうという疑問がある。
 書店でこの本を目にした時、この岩崎と三菱がひとつのタイトルに込められているところに惹かれ読んでみる気になった。
 これを読んで疑問は氷解した。グループの出発点、三菱商会はそれ以前藩の財政を豊かにするため創立された、藩立商社;三つ川商会(川の字がつく三人の役人が差配役)をやがて弥太郎が取り仕切るようになり、そのマークに岩崎家家紋;三階菱と藩主山内家の家紋;三つ柏を融合しものを考案、それに基づいて社名を改めたところから発している。三井・住友とは異なり、家業が発展したのではない。
 それにしても、弥太郎の人生は幕末・維新の時代とはいえ波乱万丈である。赤貧の地下(ぢげ)侍の子として生まれ、やがて長崎で藩の商売を行う出先機関で坂本竜馬と交友を深め、藩立の商社を自らのものとして海運業で成功するも、外国海運会社との激しい戦いが待っている。それに勝利すると、今度は大隈重信に入れ込んでいるととられ、薩長政府に徹底的に締め上げられる。この戦いの最中弥太郎は52才の若さで胃癌による壮絶な最期を遂げる。憤死、悶死と言っていい。
 しかし、この難時を温厚な弟の弥之介が救い、やがて弥太郎の長男、久弥にバトンタッチし重工業への進出に成功、さらに弥之介の長男小弥太へと引き継がれ終戦の財閥解体に至る。岩崎家は必要な時に必要な人材が事に当たる、幸運に恵まれた一族であることを、この本で知った。
 三菱グループの発祥の母体と思われている日本郵船が何故三菱を名乗らないか?薩長政府は、それに対抗する立憲改進党(党首大隈重信)とそれを人材で支える福沢諭吉(慶応義塾から自由民権を唱える人材を輩出していた。未だ早稲田は存在しない)、財力で支援する岩崎弥太郎を潰しにかかる。先ず標的にされたのが三菱商会、政府は渋沢栄一らを担いで共同海運を設立、これを強力にバックアップする。凄惨な戦いの中で弥太郎が死に、共同海運も共倒れの危機に瀕する。ここで弥之介の下両社の合併が行われ日本郵船が発足する。当初は共同海運側がイニシアチヴを握るが、やがてその道の専門家が多い三菱の人材が主導権を握り、完全な三菱合資下の会社になる。その意味で今にその名を留める日本郵船は日本近代政治史の生き証人とも言える。
 在野の史家(高校の歴史の先生か?)が書いたものだが、幕末・維新を独特の角度から描いた秀作である。

以上