2014年5月25日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-7

“模索”の話をもう少し続けてみたい。と言っても東燃グループのそれではなく、当時の情報サービス産業を取り巻く環境である。“コンピュータ、ソフト無ければ、ただの箱”などとソフトウェアの重要性を訴える川柳が巷間語られるようになるのは1960年代後半だったように記憶する。いまやコンピュータ利用の核心を突く古典的名格言だ。こんな詩がうたわれたのは、実態はむしろその逆で、“ソフトはハードのおまけ”と言うような風潮とビジネス・モデルがあったからだ。
これが本格的に見直されるのは、IBMが独占禁止法に絡んで、1969年アンバンドリング(Unbundling;ハードウェアとソフトウェアの価格分離)策を打ち出してからである。それまでのIBMビジネスは、ハードウェアの他に自社製品の基幹ソフトウェア(O/S、プログラミング言語など)やそれらをユーザーが使いこなすための教育・保守を含む技術サービスなどを一括りにしたやりかたで、価格構成がはっきりしていなかった。また、個々のユーザーアプリケーション(例えば販売会計)ソフトはこれらIBM提供のサービスの下でユーザーの責任と費用で開発する形を採り、IBMがそこまで含めてターンキー(アプリケーションが設計通り動くことを保証する)受注することは通常なかった(国家プロジェクトの様なものを除いて;東京オリンピックやNHK番組編成など)。これはある意味IBMの弱点でもあり、国産各社はターンキー受注策でそれに対抗しある程度成功していたが、そこに“おまけ”的な施策・意識も醸成されていったのである。
このハード/ソフ分離策が行われてもIBMがシステム開発全体を請け負うことはなかったが、やっとアプリケーション・ソフト開発が独立したものとして認知されだしたことは、この業界の知名度と地位を高める上で大きな意味を持った。この流れに乗って、70年代後半に入ると、本業と職場環境の大きく異なる、金融業から情報システム部門の分社化が始まり、他社の仕事を手掛けるところも出てくるようになる。ただ、製造業では各種計算は本業そのものだったから自社内に抱えておくのが一般的だった。従って外販も行っていたとはいえ、1981年石川島播磨重工のSE80人が、コスモ・エイティとして独立した時には大きな話題を呼ぶほどだった。
しかしこの前後、製造業でも多くのグループ会社を抱える企業や膨大な小口金融を扱う業種では、主にグループ内情報サービス提供効率化を目的に一部分社化を進める動きが出てきていた。例えば、石油や化学関連では、前者に三菱化成(現三菱化学)グループへのITサービスを目的に設立された菱化システム、後者では旧日本鉱業が傘下のガソリンスタンド精算業務を請け負うセントラル・コンピュータ・システムを1970年にスタートさせ、1980年頃からグループ外ビジネスを積極的に展開し始めることになる。
こんな時期、まだ私が川崎工場在籍だった時(~1981)、一度情報システム室分社化の話を聞かされたことがある。この出所は新事業担当のNKHさんからではなく、情報システム室も主管であったTAI副社長からだった。どうも業界か財界の集まりで誰かから吹き込まれたようで、どこまで本気であったか不明だが、当時の情報システム室長にご下問があり、本社の管理職中心に検討が進められていた話が洩れてきたのだ。
東燃の情報サービス機能は大別すると4分野になる。一つは事務系全般を取り扱うもので、もともと経理部機械計算課として発足したもの。第2は、線形計画法を生産計画や設備計画に適用するところから発し製造部数理計画課としての歴史をもつもの。第3は各種技術計算、そして第4はプラント運転制御分野である。一体どこをどう分社化するのか?OTB室長は第2分野の出身者、SMZ次長は経理バックグラウンド、技術部制御システム課長兼務で室長付のMTKさんは計測制御が長い。室長の意向は当然数理技術を中心に考えていたが、結局話はまとまらぬうち熱も冷めていった。ここでの室長案、数理技術を差別化因子にする発想はこの業界の常識であった“量でこなす(薄利多売)”ビジネス・モデルとは一線を画すもので、のちの分社化検討にそれなりに影響力を与えることになる。


(次回;“新会社創設”つづく)

2014年5月19日月曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-6

情報システム外販の芽となるTCS販売は、当初はTTEC技術部内に10年近く前に設けられ休眠状態にあったシステム技術課を舞台に進められたが、’841月にこれがシステム部に昇格して本格化する。またその少し前’839月には備蓄基地のメインテナンス業務を担当するTTECの子会社、東燃メインテナンスが設立されている。いずれの新組織も話題になってから誕生するまで時間が随分かかっていた。それは本体東燃の組織改編でも同じで、この件が取締役会決議事項であったところからきている。
日常の経営は常勤の東燃役員によって執行されているが、取締役会はそれぞれ25%の株式を保有するExxonE)とMobilM)が議決に加わる。出席者は各々1名だが票の重さは半数になるわけで、その同意が取り付けられなければ承認されない。本業(石油精製・石油化学)に直結した組織改編・新設であれば、それほど問題にならないようだったが、“模索(新規事業関連)”に関してE/Mはかなり神経質になっていた。本業以外への資産(カネ・人)投入を慮ってのことである。
E70年代かなり情報産業(電子タイプライター、半導体素子など)に投資をしてきていたが、結局モノにすることは出来なかったし、Mは製造業以外小売業(百貨店のモントゴメリーなど)の買収まで手を広げたが上手くいかなかった。結果80年代に入ると両社とも本業回帰を鮮明に打ち出す経営に切りかえ、事業のリストラクチャリングを大規模に行った経緯がある。従って東燃の“模索”の動きを慎重に吟味する姿勢を強めていたのである。
一方の東燃は、2回の石油危機を乗り越えた日本経済全体の勢いと経営体制の変換期にあり「これから新規事業への取り組みを本格化するのだ」との空気が漲り、中央研究所に隣接するダイセル化学の研究所を購入して80年にはこれを新規事業開発の拠点とし、大幅な組織改革や人員増強を目論んでいた。つまり当時の大株主とプロパー経営陣の間に新しい事業取組に関する考え方の違いがあり、柔軟な組織の改廃が出来ない背景があったのである。
TTECの中でTCSビジネスをスタートさせたとき、TTEC経営陣も我々担当者も本籍である情報システム室も分社化は全く考えていなかった。TCSの開発はExxonとの共同開発だったし、TTECはもともとExxonEREExxon Research & Engineering)技術を日本のユーザーに販売する会社だったので従来からのTTECの商売のやり方と齟齬をきたすこともなかった。
ただExxonと表裏一体とは言っても、TCSの潜在顧客は広義の装置産業(石油精製・石油化学のみならず、鉄鋼・非鉄金属・電力・ガス・化学・紙パルプ・ガラス・セメント・食品・薬品など)全体にわたるので、他の業種から引き合いがあった時(あるいは売り込みをかけるとき)一々Exxonの了解を取り付ける必要はないと考えていた。根幹をなすACSIBMに帰属するし、(石油関連)ユーザー知見は持ち出す必要はないからである。しかし王子製紙苫小牧工場向け売込み活動を進めている中で客先から“パルプ原液のブレンド最適化制御”の提供可否を問われたときに思いがけない回答が返ってきた。ERETTECの連絡担当者(米人)が来日した際、この件を問い質すと「業種が異なるから問題ないだろう」との返事を得たが、帰国してEREの主管部門と検討した結果「対象業種は違っても同じ制御手法を適用するので、他社への技術供与は一切まかりならない」との訂正回答。我々もまた上部組織との考え方の違いを思い知らされることになる。
東燃(TTECを含む)はExxonとの間でSRAStandard Research Agreement)と称する包括的技術提携契約を結んでいる。これはグループ会社間でEREの活動を支えその成果を共有することが目的でグループ外への販売を目的としていない。「外へ伸びるためにはSRAとの縁切りが必要か?」 こんなことを親しい同僚たちと話し始めることになる。


(次回;“新会社創設”つづく)

2014年5月13日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-5

TTECTonen TEChnologyExxon石油プロセス技術の日本における販売会社)で始めたTCS(プラント運転制御システム)関連ビジネスは、当事者たちも新規事業の“模索”というよりは、従来の技術サービス販売業務の延長線と捉えており、ここから新会社を立ち上げようとの考えは当初無かった。むしろ追風がある時にどこまで外で戦えるのか試してみようと始めたものである。追風とは、きわめて挑戦的であったTCS開発とその実用化が1982年には和歌山工場で無事山を越え、その中核メンバー(56人)が当面浮いてきたことと日本IBMが強力にACSTCSの中核をなすプロセス制御用ソフトウェア)ビジネス展開を進めようとしていたことである。
最初にIBMから話があったビジネスは、住友化学千葉工場エチレンプラント向けACS売り込みである。IBMが売るのはACSとそれを動かすハ-ドウェア、IBM4300である。この4300IBMの旗艦ともいえる370アーキテクチャーを持つ中型機で、1970年代末に登場、370では大きすぎる適用分野に大いにうけてベストセラーとなったものである。Exxonでは早くからこの機種に注目しており、関係会社や工場用システムとしてこれを広く導入すべく、IBMとの間で世界規模の数量ディスカウント契約を結んでいた。東燃の最初のTCSも無論この恩恵を受け、通常価格より安く購入できている。IBMが目を付けたのはこれを東燃グループを通すことによって他社に適用できないかということである。Exxonの所轄部門に問い合わせると「契約数量がかなり高いところに設定されているので大いにやってくれ(目標に達しないとペナルティを払うことになるので)」との回答を得た。僅かな手数料であったが、ほとんど何もしないのに利益を上げることが出来た(しかも売上高は大きい)。「こんなところに商売のネタがあるのか!」
次いでIBMが持ってきたのは川崎製鉄(現JFE)千葉製鉄所の2基の高炉用プロセスコンピュータ更新プロジェクトである。ACSのことを海外の鉄鋼学界関係会議で知ったIWMさんと言う計測制御課長が関心を持ち、帰国してIBMに問い合わせてきたのが始まりだったように記憶する。IBMにも営業SEは居るが自社コンピュータの専門家、顧客のアプリケーションに踏み込むには限度がある。売り込みに際してIWM課長を始め川鉄関係者にACSの中身をきちんと説明するとともに、鉄鋼プロセスへの適否検討を細部にわたって求められ、さらに和歌山工場の見学もしたいとの要求。これらの活動が功を奏してASC採用が決まる。その報償対価として “アフィリエート・マーケティング”と名付けられた販売協力金を得ることができた。「営業技術的なビジネスも悪くないな~」
また、高炉操業データ処理の膨大なアプリケーション・プログラム開発の仕事もACSに精通したSEが東燃グループにしか存在しないことから、自ずとそのコアー部分を請け負うことになる。競争者のいないビジネスゆえ、人工単価(時間ベース)とはいえ通常のソフト開発と比べかなり恵まれた条件の下で受注できた。「この辺りの仕事を数量的に大きくするのがよさそうだ」
しかし、こちら(TTECのみならずIBMや顧客を含む)の目論見が思惑通りにいかないことも出てくる。それはプロセス制御技術の提供である。プラント運転制御用コンピュータ利用の最大の眼目はそれによって、省エネルギーや収率改善(このような経済性向上を“プロセス・クレジット”と言う)を図ることである。東燃におけるTCS導入の経済効果をある程度具体的に示しながら営業活動を進めていくと、次のステップとして「それではその技術も提供するのか?」と問われる。石油・石油化学の場合、これは完全にExxon(厳密にはエンジニアリングセンター;EREExxon Research & Engineering)の承認が必要になる。そしてその答えは「Exxonのプロセスライセンスを販売した時のみ、程度に応じて」と言うことになる。「程度に応じて」とはライセンスで開示し、公知になっている制御技術までと言うこと。他社のプロセスで作られたプラントへは事実上提供不可である。このプロセス制御開発サービスこそ、最大の差別化因子、高収益の基と考えていただけに悩ましい問題であった。「一番価値のあるユーザー知見をどこで生かすか」
このように1983年から84年にかけて、TCS技術サービスの実務を通じて少しずつこの業界と自分たちの力が見え始めてくる。

(次回;“新会社創設”つづく)


2014年5月10日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-4SITさん追悼)

この話は会社創設の部のもう少し先に紹介するつもりだった。その主人公となるSITさんが57日急逝された。昨日開催された東燃本社OB会にも出席の返信があったほどだから誰にとっても突然の訃報だった。本日はその葬儀の日に当たる。そこで予定順序を変えて、今回はSITさん追悼編とする。
SITさんは昭和35年(1960年)の入社、私の2年先輩になる。事務系で企画畑が長かったから、入社以来工場勤務20年の私とは長いこと言葉すら交わす機会はなかった。加えてチョッと普通の社員とは違うスノビッシュ(高踏)な感じがして、先輩だとは知りつつ挨拶すらしなかった。その彼と一気に親しくなるのは1979年秋に行われた管理職研修(通称松平研修)で一緒のクラスになってからである。
この研修は中堅課長10人弱が、浜名湖の北、三ケ日に在った研修所に集められ1週間コース2回にわたって行われるもので、一回目と二回目の間隔は23か月ある(一回目の行動計画結果フォローアップのため)。研修の概要は個々人の管理職としての資質分析とそれに基づくその後の行動改善計画を具体化・検証するもので、特に心理面からの資質分析に特色がある。この指導に当たる松平先生は桑名藩主の末裔、東大で心理学を学んだあと、海軍で航空機搭乗員の選抜をその面から担当し、この経験を基に企業研修ビジネスを行っていた。分析の素データは部下・同僚・上司(それぞれ3人)と本人に事前に配られた多岐にわたる詳細なアンケート結果(これはしばらく先生の手の内)。テーマを与えられ作文を書いたり絵を描かされたりする。それを材料に社会人(管理者ばかりではなく家庭人としても)としての問題点を浮き上がらせていくのである。そこでは当然SITさんのスノブな雰囲気が問題にされ、それがどこからきているのか生い立ちまで明らかになっていく(因みに私の問題点;マイペースで我が儘;本人納得)。参加者全員が裸にされるので、その後には何か“戦友意識”の様なものが形成され、本音の話が一気にし易くなる。
さて、1984年後半から本格化し始めた新会社創設である。新会社構想検討の正式手続きは、設立計画案を主管部門(情報システム室)が作り、課長会(全員ではなく部を代表する課長で構成)→部長会→経営会議と上げていくのだが、経営会議の議題になるまでには途中で何度もダメがでる。1985年に入ってからのことであるが、論点の一つとして“情報サービス産業の将来性”に関することが問題になったことがある。ユーザーとして深い関係があるIBMや富士通から得た情報、通産省(現経産省)や郵政省(現総務省)の息がかかった団体がまとめた業界予測などを揃えて“情報化時代を迎えて、如何にSE不足が深刻になっていくか”を、課長会で説明したことがある。説明役は私、SITさんは企画部代表の課長だった。課長会は「そんなもんか」と言うことで無事済んだが、会が終わるとSITさんが寄ってきて「俺はあんな数字信じないぞ」と言う。実は当時の情報サービス産業の実態、特に売上高利益率やSEの対価から、この数字があまりにも楽観的であると薄々は感じていた。
企画部の仕事は海外・国内調査と対官庁折衝(特に通産省)、外の数字に強いし役所に人脈もある。「もしやその線から、公開されている情報とは異なる話でも聞いているのだろうか?」そんな気もあって「何を根拠に、あれだけ出所のはっきりしているデータを認めないんですか?」と反問した。
返ってきた答えは予想もしないことだった。「昔本か何かで読んだことがあるんだが、アメリカで電話が普及し始めたころ、『もし各家庭に電話機が入ったら、電話交換手の数がとても足りない』と思われていたが、実際は自動交換機がその問題を解決した、とあった。SEも同じじゃないか?」「ウーン(参った!)」 しかし、紳士である彼はこれを課長会で蒸し返すことは無かった。
その後のプログラム開発用簡易言語や業務用パッケージの出現・普及、さらにはここ数年急速に拡大しつつあるクラウド・コンピューティング(自社内にコンピュータや業務アプリケーションソフトを持たない)環境を見れば、SITさんの予言は(当時とは別種のSEを必要とするが)、ズバッと本質を突いたものであった。

追記-1;祖父の代から3代続く大企業のサラリーマン(役員)家庭、都心の山の手住宅地に居住。昨日の通夜の裏方は母校学習院大学馬術部(今上天皇陛下も在籍された)。真の育ちの良さを“スノブ”と感じたのはこちらの育ち方の問題であった。

追記-2SPIN設立後56年経ったころ、当時日本ユニカー(ユニオンカーバイドと東燃化学の合弁会社)役員を務めていたSAIさんの紹介でユニオンの米国本社情報システム部(ニュージャージー州)訪問の機会を作ってもらい、そこでテキサスにある工場を含めて電話会議をしたことも印象的な出来事だった(本社にはプラント制御システム担当部門がないため)。こういう話を日本の顧客に話すだけでも営業活動の一助になった。

SITさん、大変お世話になりました。ありがとうございました。どうか安らかにおやすみください”

(次回;“新会社創設”つづく)」


2014年5月5日月曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-3

NKHさんによって、IBM作成のACSAdvanced Control System)国内需要予測内容検討を指示されたのは1983年。これが情報システム室分社化を目論んだものであったかどうかは結局明らかになることは無かったし、次期メインフレーム(グループ全体の中核汎用コンピュータシステム)の選定に影響することもなかった。しかし、この前後の東燃経営環境を見ておくことは、情報サービス会社設立の背景を理解するうえで役立つと考えるので、少し解説しておきたい。
多くの人がイスラエルとアラブの対立がもたらす一過性のものと思っていた、第一次石油危機の到来は1973年秋。この動きを我が国石油需要の転換期と見た東燃経営陣は、既に機器の発注あるいは一部納入すら行われていた、和歌山第2製油所とも言える有田工場建設の取りやめを決断、他の工場建設・拡張計画もすべて凍結される。これらの決定に大きく影響したのは危機発生の翌年(1974年春)常務に昇格したNKHさんの言動にあったと言われている(後日私自身本人から聞かされた)。その後新事業に向けた動きが胎動し始め、第2次石油危機(1979年春)の前年(1978年春)新事業開発室が発足している。この時代、グル―プ戦略を端的に表すキャッチフレーズとして“強守と模索”と言う言葉がよく使われるようになってくる。“強守”は石油関連事業の経営効率を一層高めること、“模索”は新規事業の探索を意味した。
この標語を情報技術関係に敷衍するとTCSTonen Control System)の開発・適用は当に“強守”に相当し、その販売は“模索”の一つと言えよう。ただTCS販売を次なる新事業の目と見ていたのはその関係者に留まり、新事業開発部が狙う(そしてNKHさんが期待する)情報科学関連探索は高機能マイクロチップ(一時期Zailogのチップを調査していた)や人工知能などこの段階では将来動向がまだはっきり見えていないものに注がれていた。
また“強守”に関しては「各部門はプロフィットセンターを目指せ」と意識改革を求められ、例えば財務はその資産運用、購買は競争購買などに工夫を凝らす動きが出てくる。究極は部門毎の収支を定量的に表し、その存在意義と効率・生産性を評価し、更なる改善につなげることにあった。この部門としての収支をはじくという命題は情報システム室にとってさして難しいものではなかった。それは本社にメインフレームが導入されて以来“付け替え方式”を適用してきていたからである。
この“付け替え方式”とは、コンピュータのリース費用、運用にあたるスタッフの人件費、オフィスのスペース費用、電力費などを基にしたプログラム走行時間当たりの費用をユーザー部門に負担してもらう(付け替える)方式である。ただ目的がコンピュータ利用の効率化にあったので“利益を上げる”と言う発想はなかった。しかし、「各部門プロフィットセンターを目指せ!」はこの従来方式に一石を投じることになる。利用部門はコスト削減のためにコンピュータ利用を削減しようとする。情報技術が経営に深く入り込んでくる時代にも拘わらず、もっと積極的に利用して利益をそれ以上にあげようと言う発想が出てこないのだ。あるいは比較的簡単なプログラムを、部門経費で賄えるPCに置き換えようとする動きなどが出てくる。情報システム室も付け替え費用低減に何が手を打ち、かつ利益を出せる体質に転じなければ縮小(有能な人材の新規事業への転用)、地方移転(工場や研究所の余剰設備活用)に追いやられる恐れもある。実際本業と異質な業務が肥大化しそれを分社化する動きは、IT利用依存度が高まってきていた金融業を中心に石油危機以前から始まっていた。
この1983年、我々はそのような内外の動きに手をこまねいていたわけではなく、11月ついにメインフレームをIBMから富士通に置き換えた(この経緯は事例“メインフレームを替える”に詳述)。リース費用は増加させず、処理能力は飛躍的に上がり、本社業務をオンライン化するに欠かせない優れた日本語処理能力は社内ユーザーから高い評価を得ることが出来た。それ以上に大きな収穫は、この切り替えおよび本社業務アプリケーション開発の中核を担った事務系SEの自信である。TCS以外にも外に打って出る下地が出来たのだ。

(次回;“新会社創設”つづく)


2014年5月1日木曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-2

TTECはもともとExxonの石油精製技術を日本で販売するために設立された会社である。先ず高度成長期の精製設備・工場全般の建設、次いで重質油をガソリン留分にするための分解装置、さらにオクタン価を高める鉛添加剤の使用禁止をにらんだアルキレーションプラント(もともと航空用ピストンエンジン用高オクタン化燃料製造装置だが自動車用に適用)の建設、また石油危機を契機に始まった国家備蓄関係の仕事にと業容を拡大していったが、80年代に入るとそれらが一段落、本体の東燃同様ここも新事業分野の開拓が必要になってきていた。タイミングよく先端プラント制御システム、TCSが和歌山工場で順調にスタートしたこともあり、日本IBMと協力してこのTCSを我が国で販売することになり、1982年からTTECを通してそのビジネスを始めていた。世界的に高い評価のExxonの石油プロセス技術、コンピュータ業界におけるIBMの突出した力、我が国石油会社の中で抜群の収益力を誇る東燃、この3社が一体となったイメージを持つTCSは当然注目を浴び、活発な引き合いがあり、TTECの新事業として期待できるようになってきていた。
19831TTECにシステム部が創設されTCSビジネスを本格化させる。技術課と営業課の二つで構成され、技術課はTCS開発の中心人物だったTKWさん、営業課は私が担当した。技術はともかく営業活動は全く未経験分野、IBMの営業やTTEC営業部にくっついて見よう見まねで学んでいった。そんな素人営業でもJapan as No.1の時代、潜在顧客の目はことさら最新技術に向いており、ポツリポツリと成約が出始めてきた。プロセス技術ライセンス販売とは桁違いだが、確り利益も出るようになる。ただここにからくりのあることは一部の人間しか知らなかった。
先ずシステム部員は私に含めすべて情報システム室からの出向者。TTECの人件費は実働時間ベースなのでごくわずか。加えてIBMからの販売協力報奨金が極めて高かった。TTECも事業分野毎やプロジェクト毎の収支分析は行っていたが、全員が出向者だったしライセンス料もExxonとの間でルールが出来ていたので、それほど厳密なものではなかった。だから見かけ上の高収益が本社を含めて独り歩きしていたに違いない。
当時NKHさんは経理・財務それに新事業担当の常務。TTECは技術担当役員の下にあったから、NKHさんにシステム部の活動内容が詳しく伝わることはなかったと思われるが、入社以前の米国留学でコンピュータを学び、先駆者を自負していた人だから、それなりに情報収集をしていたのであろう。ある日秘書室からお呼びがかかりNKHさんと11で対面することになった。「TCSのビジネス、順調のようだな。ところでIBMがこんな資料を持ってきた。内容を吟味してコメントをくれ」 示されたのはACSTCSの母体システム;ExxonIBMで共同開発したプラント運転制御システム;この時点ではIBMの所有)の我が国における市場予測である。あらゆるプロセス工業(電力・ガスなどを含む)が網羅され潜在需要は100セットを超えている。直ぐに「(これほどの需要はありません)」と思ったが、一応その場は資料を受け取るだけで引き取り、後日分析結果をまとめて報告にうかがった。実質「ノー」の回答に何か言われるかと思ったが「こういう分析が欲しかった」と何事もなく落着した。
当然のことだが私はこの裏を考えた。誰が何のためにあの資料をNKHさんに渡したのだろう。行き着いた結論は「IBMが何かの共同事業を持ちかけているのではないか?でも何故いま?既に一緒にACSを売り歩いているのに」と言うことだった。
実はこの時期、先に連載した次期メインフレームの検討が始まっており、今までのIBM一辺倒を見直す声が情報システム室内で出始めていたのだ。「それを察知され、阻止策を打ってきたのだろうか?」

(次回;“新会社創設”つづく)