2017年9月20日水曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-32


15.新役員と後継者問題-2
社長の役割は様々あるが、後継者を育てることは最も重要な責務と言われる。早くから候補者を絞り込み内外に分かる形で指導していく、数人を選んで競わせる、など代表的なやり方だろう。ただ、100%子会社となるとこのような手法がそのまま適用できるわけでないことは、前任の二人の社長、それに私自身をみても明らかである。つまり、最終決定権は株主にあるのだ。まして、東燃から横河に移り、新株主の意向がいかなるものかよく見極める必要がある。社長内示を受けた時TKWさんを第一候補と考えたのは、東燃グループ内で彼の力量が既に周知されていたことが大きい。
1998年横河グループに移り、経営も順調に推移していた2000年、主管の執行役員の上司に当たる常務で、若い頃からの知り合いであるOTBさんから「MDNさんはいつまで社長をやれと美川さんから言われているのですか?」と問われたことがある。SPIN買収に際して「しばらく現経営陣に任せること」と美川英二社長が当時の役員に明示していたが、前年現役で亡くなったことを受けての発言である。私自身美川さんからは「いつまで」と言われたことは一度もなかったから、その旨応えた。しかし、いずれ横河本社の意向を反映した役員人事が行われることは十分予想されたから、これについて真剣に考えなければと意識するようになった。
ただこの段階でいきなりSPIN次期社長候補を絞るには大きな問題があった。横河グループには似たような子会社がいくつもあり、本社経営陣にとって、ETS(ソリューション提供)戦略を進めるにあたりその再編成が懸案になっていたからである。本社情報システム部が独立したYIT、横河の旗艦製品デジタルコントロールシステムCENTUMのソフトを扱うYSE、中国・九州地方を地盤とするYES、銀行から乞われて筆頭株主になったYDCなどがそれらで、いずれの社長も皆横河電機出身である。正式な経営課題として再編成が身近に迫っていたわけではないが、SPINが単独で時期社長を社内で育てていくことは逡巡される環境だったのである。
その当時の役員は、会長のNKMさん、社長の私、常務のMYIさん、取締役のYNGMさんの4名で、年齢差は2歳、この中から次期社長を出すことは考えられない。次代を担う新役員を選ぶことが先決である。候補者は3人居た。技術系情報システム畑が長く工場のSE課長も務めた経験を持つFRHさん、この時は開発部門の部長職にあった。総務・人事畑を歩みこれも工場の事務課長を経てSPINに移り、事務部長から営業部長に転じていたYMTGさん、制御システムが専門でTCSプロジェクト推進中核として活躍、この当時はルネサンス事業を率いていたYNG-Kさんである。
横河の子会社管理は東燃からみるとやや自由度が大きく、給与体系(特に役員)などは各社各様、採用・役職登用もそれほど厳しく口を挟まれることはなかった。しかし、美川さんの後任であるUCD社長はこの体系を改め、一元管理する方向で全人事体系の整備が進められ、現職の役員も、過渡的な経過処置はあったもの、基本的に“社員”の身分となり、その格付けが行われ始めた。こうなると定年は60歳。2000年これが動き出した時点で、3人の役員候補者の内一番年長のFRHさんは50代後半、YMTGさんは前半、一番若いYNG-Kさんが51歳位であった。力が奮える時期を考えると、とにかくこの3人をできるだけ早く役員にしたい。東燃の慣行から見るとあと1年その地位に留まれるMYIさんには常任監査役に退いてもらい、私とYNGMさんも再編成を仕上げたところで退任する条件で、3人の取締役就任を認めてもらった。


(次回;情報サービス会社再編成)

2017年9月16日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-31


15.新役員と後継者問題
SPIN創設時(1985年)の常勤役員は、東燃常務で技術・購買・情報システムを主管していたMKNさんが社長、情報システム部長だったMTKさんと東燃化学(TCC)の経理次長だったKKTさんが取締役、の3人構成であった。実質この仕事(情報システム)に精通しているのはMTKさん一人だから、下馬評ではMTK社長説もなかったわけではないし、部員たちもそれを望んでいたが、ある役員から「それはないと思うよ。彼は東燃の役員経験がないからね」と言われ「そんな必要条件があるのか」と知らざるハードルを認識させられた。私が取締役に就任した1988年、社長は東燃で経理・財務担当役員だったSMZさんが就任、広報室長で同期入社のMYIさんが加わり、3人体制はそのまま継続した。前回と違い、SMZさんもMYIさんも事務部門のコンピュータ利用をとりまとめる機械計算課長を経験しているので、順当な役員構成と言えた。
1993年も押し迫った頃、東燃のNKH社長に呼ばれ、1994年から社長に任ぜられる内示をうけた。この頃になると、先の必要条件(東燃役員経験者)が崩れる先例が出ており、それが適用されたのであろう。MYIさんは常務に昇格して残ることが決まっていたが、もう一人枠がある。NKHさんにそれを問われたとき、SPIN創設時の技術システム部長でその後本社システム計画部部長を務め、1年ほど前から本社常務付き兼SPIN社長付(実質技術部門担当)となっていたTKWさんを候補として挙げ、内諾を得た。和歌山工場、川崎工場、本社さらにSPIN立ち上げと同じ職場で働き、力量も人柄も熟知していたし、歳は5歳下と言うこともあって、内心「次は彼に」と思ってのことである。その“次の人”が年明け、まだ新体制が固まる前に脳梗塞で倒れてしまう。幸い回復したものの、激務が無理なことは明らか、加えて予想もしなかったNKHさんの東燃社長退任が決まる。社長室から役員候補としてTKWさんの後任システム計画部長であるHRIさんを推薦してくる。HRIさんは本来TCCの社員だが、人事交流で東燃に回って来ていた。私が一時期TCC川崎工場のシステム部門に出向していた時には部下だったこともあり、気心は知れていたから異存はなかった。ただまだ若かったこともあり、転出ではなくTCC社員の身分のままの就任である。私もその方が好都合と思っていた。と言うのも、SPINスタート時のビジネスシステム部長であったYNGMさんをいずれSPIN役員に登用したいと考えていたからである。こうして私の社長時代も3人体制でスタートした。
始めは3部(営業部、技術システム部、ビジネスシステム部)構成だった組織は、業容の拡大に伴い子会社、事業部、部や出先(大阪支店、東燃グループ事業所駐在)も増えて、部長クラスの数もそれに伴い増加していった。東燃自体が早期退職を奨励する中で、本籍に帰る者は限られ、どの部長も経験豊か人ばかりである。しかし、300人程度の会社では常勤役員は監査役(常任監査役はSMZ社長時代MTKさんが短い期間務めたあと空席だったが、私の時代東燃の要請で受け入れた)も含めて45人で充分やっていけた。最初に自ら考えで任用したのは前出のYNGMさん、清水に在った電算機センターは東燃システムサービス(TSS)と言う子会社になっており、2年前に唯一の専任役員として赴任、HRIさんが1998年横河への譲渡が決まり本籍のTCCに戻ったあとを埋める形で登用した。YNGMさんは東燃労組の委員長を務めたこともある、人心掌握力に優れた人、経理をバックグラウンドとする機械計算課の勤務も長く、新役員として申し分なかった。ただ歳は私より2歳若いだけだったから次期社長と考えたことはなかった。SPIN創設時からの戦友ともいえるこの人の役員就任がある一方、もう一人の戦友TKWさんは東燃の早期退職制度を利用して、米系の計測・制御調査機関に移っていった。
横河電機は交渉過程の約束通り、常勤役員はSPINのメンバーだけとし、経営を任せてくれた。非常勤としてその時のシステム事業部担当執行役員だったHRSさんが、監査役に経営企画室のUKIさんが就任した。この非常勤体制は、人は変わるものの、唯一の例外として常務だったNKMさんが会長として加わったことを除いて、2003年グループの情報サービス会社再編成まで変わることなく続いた。


(次回;新役員と後継者問題;つづく)

2017年9月12日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-30


14EM合併と東燃経営
1994年私はSPIN社長に任命された。当時の東燃社長はNKHさん。その直後にNKHさんは大株主のExxonMobil(以下EM)によって会長に祭り上げられ、後任社長に私の入社一年先輩(大学院卒なので年度扱いは3年上)のTMBさんが就任した。この予期せぬトップ入れ替えは、NKHさんの新規事業への傾注にあったと言われている。常務まで昇った後子会社の社長であったTMBさんが復帰したのは、石油精製の本流である製造畑出身であったからであろう。EMは既に本業回帰を強く進めており、これに適う人材として登用されたわけである。この年から年々EMの経営介入は高まり、常勤役員の一部にも外国人が加わるようになって来ていた。TMBさんのもとで立ち上がった“チェンジ”プロジェクトは石油化学を含む東燃グループ全体のドラスティックな経営改善を目指すもので、SPINが横河電機に株式譲渡されたのもこの一環と考えていい。これによる横河電機の期待は代表的なユーザーである東燃との関係強化にあったとするのは当然のことである。19987月の譲渡以来両者の考えはほぼ目論み通り推移していた。
それに激震が走るのが1999年の年末である。世界最大の石油会社であるExxonと後続するメジャーの一つMobilの合併である。1909年の反トラスト法によってロックフェラーのスタンダードオイルは33の会社に分割され、スタンダードオイル・ニュージャーがのちのExxonに、ニューヨークがMobilになって以来のトラスト復活に等しいことが起こったわけである。この背景にはグローバルな石油企業の再編成があり、反トラスト法の適用が大幅に変化していたことがある。
長く東燃が日本人による経営を持続できたのは、ExxonMobilの間に在る経営方針の違いを巧みに利用してきたことにあるのだが、TMBさんの時代になるとこれが少しずつ崩されて行き、ついに2社が合併することで、Exxon方式に切り替わっていく。20007月にはエッソ石油の子会社の位置にあったゼネラル石油と合併し東燃ゼネラル石油が誕生、日本法人のエッソ石油、モービル石油もこれに合体する。20014月にTMBさんが社長を退くと、いよいよ米国人の社長が乗り込んできて、経営は完全な外資型に変わってしまう。工場でも課長クラスは英語を使えないと一人前には扱われなくなってしまうほどだ。
このような激変は情報システム関連も例外ではなく、統合経営情報システムはExxonSAPをベースにカストマイズした世界共通のSTRIPESに置き換えるプロジェクトが立ち上がるが、SPINにその仕事は廻ってこない(サーバー機能はUSに在るので、動き出してもコンピュータ使用料が入ってこない)。さらに日常的なユーザーサポート(ヘルプデスク)機能まで、アウトソーシング競争に敗れ、日本語対応可能なタイの会社に奪われてしまう。残っている経営陣や管理職が頑張ってくれるが、それにも限度があり、確実に東燃向けサービスは落ちていった。ただ幸いだったのは、SPIN設立当初からグループ外へのビジネス展開を積極的に進めていたので、2001年頃にはグループ向け売上割合は全体の20%のレベルまで減じており、一方既存システムの完全な置き換えまでには数年要するので、何とか対応策は講じられる見通しは立った。
この合併は横河電機にも大きなショックであったことは間違いないのだが、SPIN全体の経営が難局を乗り越えつつある状況では特に経営に深入りしてくることはなかった。むしろ、別の視点でこの合併の影響を懸念し始めていた。それはプラント運転制御システムに関することである。1980年代東燃はIBM・横河と共同でTCS(東燃コントロールシステム)を完成させ、関係会社を含め全社展開をしていた。これは当時Exxonエンジニアリングセンター(ERE)がHoneywellと開発中のシステムと激烈な競争の下で決したものである。両者を選択していた時代はIBMを用いたものもExxonグループで導入されていたが、その後HoneywellTDCS3000システムがグローバルスタンダートとなっていた。導入開始から20年を経過していたTCSの次期システムがどうなるか?これこそ横河のコアービジネスゆえに、一方的に見積もり参加も出来ぬような状態だけは避けたい、と横河のみならず東燃担当部門、SPINも念じていた。
結局この答えは、私がSPINを去る2003年まで出ていなかったが、その後Exxonはあれこれ機種選定に干渉しTDCS3000システムの採用を認めさせてしまう。東燃から横河への譲渡に関わった誰もが予期も期待もしない事態が、この合併劇で起こってしまったのである。


(次回; 新役員と後継者問題)

2017年9月9日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-29


13.海外提携会社動向-4
企業経営には種々の機能がある。製造業ならば、研究・開発、製造・技術、営業・販売、受注・出荷、購買・調達、人事・労務、経理・財務、総務、広報、経営企画それに情報システム。企業へのIT利用の歴史を振り返ると、最初はこれら機能の一部をコンピュータで処理するところから始まった。そしてその処理手順は各社各様、手作りのプログラムを開発して機械化・自動化を進めていった。この手作りプログラムは、担当者や特定の機械に依存する度合いが高く、運用維持・改造に手間と費用がかかるとともに、早い技術変化にタイムリーに対応するのが難しくなっていった。ここで登場するのが、適用業務ごとに作られたパッケージソフトである。SPINの例で言えば、プラントのリアルタイム運転データを収集するPI、生産計画を立案するMIMI、あるいは保全管理に供されえるPLAMI、品質管理を行うLabAidなどがそれに当たる。また事務部門では他社に販売はしなかったものの東燃グループ各社共通の経理システムFASTなどもこの範疇に含められる。
しかしながら、これらのシステムは機能ごとに独立したシステムで、工場全体や全社の経営を横断的に把握するには、新たな手作りソフトでつなぐことが必要になる。ここで再び最初の問題(手作り)に戻ってしまうのである。これを解決するためには、初めから個々の基幹業務をカバーするとともにそれを統合的に扱えるシステムが望まれるのである。こうして1990年代半ばに登場したのがERPEnterprise Resource Planning;基幹業務統合)パッケージであり、プロセス工業の総合的なシステムインテグレータを目指すSPINにとって、それぞれの機能で優れたパッケージを持ってはいるものの、それを統合する機能は依然手作りであったことから、この分野への取り組みが不可欠となった。
トップランナーはドイツのSAP社、かつてのIBM同様突出した優位性で価格が高く、我が国で導入し始めたユーザーも超大手に限られていた。また、プロセス工業に特有な機能が当時は整っていなかった。つまり当社で扱うには、あまりにもハードルが高い製品であったのである。そんなとき(1993年末)に知ったのが米国Ross社のルネサンス(Renと略す)と言うパッケージで、1994年に総代理店のなっていた(本件経緯については-3、-4に既述)。決めた理由は、主たる(米国における)導入企業が中小・中堅企業で、プロセス特化(特に食品・薬品・化粧品・特殊化学品など)も進んでいたことによる。総代理店になるための契約条件で最大の問題点は、年間販売ノルマ、年々伸ばす方式で、初年度から2億円程度支払う必要があった。これは経常利益の半分を超す額だが、横河への譲渡前は内部留保もかなりあったので、先行投資として決断した。その後売り上げは伸びてはいたものの、経営への負担は依然として重く、横河譲渡調査の際「Renに社運を賭しているように見えますが・・・」と問い質されたほどであった。新規顧客は電子部品や食品、食肉・鉄鋼商社などに広がっていったものの、ノルマとして納める額が高すぎて、全体利益になかなか貢献しなかった(売上増には大きく寄与)。そこで1999年その引き下げ交渉を、当時事業部長だったYNG-Kさんを主体に取り組んでもらい、それに成功、2000年から売上利益率が大幅に改善した。私がSPINを去る少し前には特殊化学製品ではトップクラスのダイセル化学が全社的に採用するところまでになり、我が国マーケットでの存在感も出てきた。
やっと順調になり出した日本における市場開拓だったが、進歩の速いIT環境変化対応が、もともと強くなかったRoss社の財務上の負担となっていたこともあり、香港資本が導入され、これが筆頭株主になって、経営陣が大幅に入れ替わる。しばらくすると日本法人が設立され、総代理店の権利はそこに移る。2007年販売や技術サービスは日立システムズが担当するようになり一部メンバーはそこに移り、それを良しとしないユーザー企業の要請もあったようで、MTSさん、KWNさんらRenビジネスの中核スタッフが、導入技術サポートとメンテナンスを主務とする会社を設立して独立していった。横河グループの情報サービス会社統合再編成により“システムプラザ”が消滅したこともあり、独立新会社の社名は“システムプラザ(SPIN)”を名乗っている。

結局、SPINの発展を支えてきた、OSI社のPICDS社のMIMIRoss社のRenaissanceはそれぞれ事情は異なるものの、総代理店の権利を手放すことになった。総代理店はともかく、ソリューションビネスを標榜するとき、ソフトベンダーとの関わりは極めて重要なのだが、その認識が横河電機本体に希薄だったような気がしてならない(私の努力不足もあるが・・・)。参考にすべきはやはりIBMである。表計算ソフトのロータス社やシステム監視ソフトのTivoli社およびプライスウォータのコンサルティング部門買収は1990年代、SPINとも提携したフランスの国営研究機関がスピンオフした数理システム特化のILOG社(SPINはこの会社の提供する“組み合わせ問題解法ソフト”のシステムインテグレータでフィルムや板の型取り最適化やディズニーランドのスタッフ勤務システムを開発した)もその後傘下に収め、情報サービス会社に大変身した。横河にとって昨年の石油精製・石油化学技術コンサルタント会社KBC社買収が転機であってくれればと願うばかりである。


(次回; EM合併と東燃経営)

2017年9月5日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-28


13.海外提携会社動向-3
英国の石油コンサルタントKBC社については本篇―8ですでに触れた。KBCはエクソンヨーロッパ技術センターの3人の元技術者の頭文字、皆化学プロセスエンジニア。コンピュータを扱うシステムズエンジニアとは職種が違い、石油精製プロセスの設計や改善を主たるサービスとする、技術コンサルタントである。KBCはプロセス工業向けソフトウェアパッケージを扱うCDS社やOSI社と異なるのでSPINとの関わりは、シグマファイン(ΣFine)と名付けられた、化学工業向け物質収支や熱収支の調和を数理的に処理するパッケージの付加価値販売に限られていた。化学プロセスは相の変化(気体⇔液体⇔固体)を伴うために、原料と製品総量のバランスが正確に一致しない。これを計測器の精度に合わせてつじつまの合う数値に補正するのが、Σファインの機能である。KBCにとってみれば、自社の仕事(生データによるプロセス解析)を進める上で必要な道具を外販している形である。従って、経営的にはそれほど重要ではなく、人員も少ない。当然海外まで販売するための営業マンを手広く展開することは考えられない。そんなことで、SPINが国内総代理店になったわけである。
SPINにとってKBCは海外石油精製工場に関する情報収集に役立つことがメリットだったし、KBCにとっては国内の石油会社へのアプローチとして利用価値があった。お互いΣファイン以外のところにむしろ相互に利用価値を認めていたのが実態である。実際、東燃がPIPProfit Improvement Program)と称するKBCの石油精製プロセス診断・改善サービスに取り組む手助けをしたり、太陽石油への本プログラム売り込みのために、元東燃の役員で太陽石油の会長になっていたKNIさんを引き合わせるなど、昔のExxonの仲間として、ビジネスを超えた良い関係を維持していた。そして、それらがきっかけとなり、やがてKBCJapanが設立される。日本代表になったのはモービル石油(日本)の元技術担当常務でそののち極東石油副社長を務めたKWKさんが就任。これも旧知で、関係強化に役立った。この間Σファインは東レで採用され、さらにいくつかの製油所にも導入され、OSIのリアルタイムプラント運転データ収集システム、PI(パイ)で集めた生データを調和させ、全社のERP(統合経営情報)システムにつながる道が見え始めてきた。
そんな矢先、OSI社社長のPatから「KBCがΣファインを売りに出している。買おうと思うがどうか?」とのメールが私のところに入ってきた。無論「プラントと経営をつなぐ有効なツールだから是非買うべきだ」と答えた。譲渡交渉はスムーズに進み、ヒュートンに在ったΣファインの開発センターはOSIの下に入り、OSIにとっては石油の首都に進出する機会にもなった。
身軽になったKBCは折からの原油価格の上昇や新興国(特に、インド、中国)の石油製品需要増を受けて事業は躍進、ついにロンドン株式市場の新興企業部門(NASDAQに相当)で上場を果たす。ΣファインがOSIに移った段階で、会社としての関係は切れ、KWKさんやBCとの関係はその後も続いたが、私がSPINを去る2003年より前に、いすれも第一線を去っていった(社長だったCPeter Closeはその後も長くシニアコンサルタントとして同社に残っていた)。
横河電機はプロセス向けソフトウェアを扱う会社には関心が高く、一時はこの世界のトップランナーであるAspenTechとも業務提携していたが、SPIN買収後はそれ以前からSPINが扱っていた生産管理パッケージMIMI以外の関係を断ちOSI社、Ross社とはSPIN通じて間接的に提携関係を持続した。しかし、KBC社とはSPIN買収以前から関心が無く、この会社に興味を持つ人は皆無だった。2003SPINを去り、本社海外営業事業部の顧問に就任してから、私は「ソリューションビジネスに本気で取り組むなら、石油精製に関してはKBCと何らかの関係を構築すべき」と機会あるごとに、関連事業部門や経営者に薦めてきたが、2007年退職するまでそれが叶うことはなかった。去って9年、20162月日経の新聞記事で驚かされる。「横河電機、KBCを傘下に」と報じていたのだ。かつての同僚で海外企業との提携を熱心に論じ合い、今はヒューストンに居るKBYさんから直ぐにメールが入った。少しは在籍時代のことが役に立ったのだろうか?今はその成功を願うばかりである。


(次回; 海外提携会社動向;つづく)