2015年5月18日月曜日

上州・信州山岳ドライブ-3


3.八ッ場ダム建設地
草津を熟知している又従兄弟からの案内には、ドライブの道程として上信越道の碓氷軽井沢ICからの道と関越道渋川伊香保IC経由の2案が記載されていたが、渋川伊香保ルートが一般的とあり、この案を採るなら道の駅“八ッ場ふるさと館”に立ち寄ることを薦めるとあった。八ッ場ダムのことは行政改革の中で断片的には聞いてはいたが、それが全国に知れ渡ったのは何と言っても民主党政権成立で前原国土交通大臣が工事にストップをかけてからだろう。しかし、今回のドライブまで正確にはどこにあるのか知らなかったので「あの有名地に是非寄ってみよう」と昼食地としてここを定めた。
榛名湖を発ったのは12時過ぎ、県道28号線を北西にとって国道145号線との合流点を目指す。道は概ね舗装された2車線、交通量も極めて少なくアップダウンとワインディングで運転を存分に楽しむ。郷原と言う所で国道に入るとこれが草津方面への幹線道路となるので、クルマの往来が多くなるとともに、ダンプが増えてくる。道も随所で工事の進捗状況に合わせて迂回路を走らされる。はるか遠方の高い位置を走る橋が見えてくるが、クルマは長いトンネル(吾妻峡トンネル;1769M)に入り視界から消える。トンネルを抜けると直ぐに、目の前に先ほど遠景した橋が現れ、それを渡ると2車線の道路がやがて湖水に沈む利根川の支流、吾妻川の谷を下に見ながら西へ延びていく。あとで分かることだが、これがTVに“(未完の)建設中の橋”として何度も出てきていた八ッ場大橋(494M)である。ダムの直前に架かる第一湖面橋だが今はまだ水が無いので、橋脚の高さは驚くほどだ(TVではこれを下から撮っていた)。ここから更に上流へ2kmくらい遡った所に湖面第二橋の不動大橋(590M)が完成しており、その横に“八ッ場ふるさと館”が在った。
最近のドライブではトイレ休憩、昼食、お土産と何かと便利で利用することの多い道の駅。観光客ばかりが相手ではなく、地元のコミュニティ・センターやショッピング・センターの役割を兼ねているところが多いが、ここは専ら“八ッ場”を売り物にする観光特化のこじんまりした施設であった。ダム完成後を模した立体地図、事業計画・進捗状況を説明する資料などがあり、話題の公共投資の実態を学ぶには格好の場所である(とは言っても今までに投入された予算額は全くここでは分からない)。昭和27年(1952年」に調査予算がついて、今年まで63年、延期された完成時期は2020年だからほぼ70年の歴史となる。水の需給は計画立案時とは大きく違ってきており、水がめとしての役割は必要なくなってきている。こんなことならこの地区に居住する成人全員を定年まで雇用する別事業(+道路整備)を進めた方がはるかに税金投入は少なく済んだに違いない。だからといってあの段階で中止は無かっただろうが・・・。昼食は天ぷらそば、天ぷらとそばが別に供されるのがいい。
昼食後不動大橋の上を対岸まで歩いてみた。かつての吾妻線が谷底に錆びついた姿をさらしている。旧国道はまだ工事用に使われているようだ。橋を渡り切ったところには名前の基となる不動滝があるのだが、好天で水量は乏しかった。山にも全く雪は見えない。ダムが完成しても、充分水がたまるのだろうか?こんな疑問が残った八ッ場であった。

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(次回;草津温泉)

2015年5月16日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-25


51990年経営トピックス
役員一期目の19889年に比べると1990年は大きなトピックスは無く、経営は順調に推移した1年と言える。ただ年月を経て振り返ってみると、世界にも日本にも、そしてSPINにとっても大きな節目の年だったことに気付かされる。
ベルリンの壁が取り払われたのが198911月、ソ連の崩壊が19913月。この間19901月には湾岸戦争が起こっている。日本経済を見ると、‘80年代後半から始まったバブルが弾けるのが1991年初め。この渦中に、1996年を期限とする特石法廃止を前に、1989年にはガソリン生産枠が撤廃される。日本の石油ビジネス環境が変わるとともに、株主であるExxonMobilの世界戦略にも変化が生じ始めてくる。
コンピュータ技術に目を転ずれば、IBMが長く市場支配してきたメインフレーム中心の環境がオープンシステムの小型機(PC、ワークステーション)とネットワークに取って代わられてくるのも大体1990年を境にしている。例えば、IBMの製品だけ見ても、第2世代のPCPS/21987年、OA用ワークステーションのAS/4001988年、そしてエンジニアリングワークステーション(EWS)、RS/60001990年に発売され、ダウンサイジング対応策が打たれていく。しかし、IBMの経営環境は大きな時代変革の中で必ずしも好転せず、1993年初頭にはルウ・ガースナーが生え抜きに代わりCEOに就任する。
情報サービス分野に焦点を絞ると、手作りアプリケーションソフトが小型機普及に合わせて出来合いの用途別パッケージソフト主力に移る傾向が強まってくる。中でも注目すべきは、のちにERPEnterprise Resource Planning)と称されるようになる統合型業務ソフトウェアパッケージの出現で、今もそのリーダーである独SAP社の製品が世界市場で存在感を示し出してくる(日本法人設立は1992年)。
こんな時代SPINのビジネスの主体は、依然としてメインフレームをプラットフォームとする手作りソフトウェア開発やプラント運転制御システムパッケージ(IBM ACS)、やっと生産計画・スケジューリング用パッケージMIMIEWSに取り組みだしたところであった。
東燃と子会社の間には年2回(春・秋)合同役員会が持たれていた。両社の役員と事務方が一堂に会し、情報交換を行う場である。とは言っても実態はこちらの報告が主で一種の査問会議の様な雰囲気の中で進むので、大変緊張を強いられる場であった。幸いこの年の経営状況(売上・利益)はまずまずの調子だったから比較的楽な気分で臨めたのだが、会議の終盤NKH社長から「ACSは相変わらず調子がいいようだが、いつまで続くのかね?次の策は何か考えているのか?」とご下問があった。SPINの出席者は事務方を含め技術系は私しかいないから、これに答えるのは私の役割である。実は、この問題については小型化・ネットワーク化が進んできている中で、顧客から何度か投げかけられてきた問だったから、問題意識は持っていたのだが、具体策は見出せていなかった。痛いところを突かれたが「ACSはまだ数年は行けます。その間に生産管理、設備保全管理、品質管理などプラント関連サービス・商品の幅を広げるとともに小型機対応のパッケージを探します」と答えて、何とかその場をしのいだ。実際ハネウェルや横河電機のような制御機器メーカー以外は競合製品が無かったから、これ以外に答えようは無かったが「何か案を考えなければ」の感を強くし、関心をIBMExxon外に具体的に向け始めるきっかけになったことは間違いない。


(次回;1990年度の経営トピックス-2

2015年5月12日火曜日

上州・信州山岳ドライブ-2


2.圏央道を経て榛名湖へ
我が家(横浜市金沢区)から自動車道を利用して草津を目指すには、二つのルートが考えられる。いずれも関越道に出るのは同じだが、一つはそのまま渋川伊香保ICまで行き、そこから吾妻線に沿う国道353号線を西に向かう道。オプションとして県道28号線や33号線を使って榛名湖経由の行程もある。もう一つは藤岡JCTから上信越道に入り碓氷軽井沢ICで下りて国道146号線を北上する案である。軽井沢周辺は何度か走っているので、今回は渋川伊香保まわりのルートを採ることにする。
では関越道にはどう出るか?今までの常道は横々から横浜BPを経て第3京浜を一旦都心に向かい、環状8号を谷原まで行きそこから練馬ICに取りつくのだ。しかしこれは何か逆方向に行く感が強いし、環8の混雑にイライラさせられることが多い。今回はここに一工夫できる余地がある。未経験の圏央道が藤沢から利用できるようになったからである。この場合、距離的には横々→横浜BP→藤沢BP→新湘南BPとつないで圏央道へ入るのが最短路だが、戸塚から藤沢までしばらく一般道を進むのがどうも気に入らない。チョッと遠回りになるが、横々→保土ヶ谷BP→東名横浜町田ICから東名を下り海老名JCTで圏央道に入ることする。難点は海老名JCTの渋滞だが、口コミを調べると、朝の北行きには問題ないことが分かる。
このルートをナビタイムで調べると自宅から渋川伊香保ICまではおよそ190km3時間弱の行程である。いつもの長距離ドライブに比べれば距離も時間も半分から三分の一、楽勝である。出発は朝8時、こんな遅い旅立ちは北海道ドライブでフェリーに乗るため大洗に向かった時以来である。晴天の空の下一か所も滞ることなく海老名JCTに至る。このJCTが時間帯によって渋滞するのは、合流までの車線が一車線で並走助走路が短いからであるが、この日の朝は全く問題なし。あとは空いた2車線を淡々と相模川に沿って快適に走る。今のところ自動速度取締機もなさそうだ。ただ関東平野の西辺、丹沢や奥多摩の丘陵地帯に新しく作られたのでトンネルが多い。その点では景観を楽しむ道路ではない。難なく関越道との結合点、鶴ヶ島JCTに至り、高坂SAで小休止。ここまで自宅から丁度1時間半、思ったより早い。これは北関東へ向かうには使い勝手の良い道だ。
次の休憩点は渋川伊香保ICの手前に在る駒寄PA。ここで休んだのは、予定より早い展開に、このままオリジナル案で進むと、八ッ場で昼食、チェックイン時刻である3時頃草津到着が相当早まってしまうので、時間調整の榛名湖観光を挟むルート設定をやり直すためである。11時頃ICを出てしばらく渋川市内の平坦路を行き、伊香保温泉へ向かう県道33号線に入る。道は温泉街に向かい少しずつ上りになっていく。空は青く、木々は新緑には早いが遅咲きの桜が時々現れ、目を和ませてくれる。温泉街を過ぎるといよいよ登りカーブの連続、ハンドルさばきとアクセル・ブレーキ操作に集中する山岳ドライブのステージだ。実はこの道は運転免許証(19613月取得)を取った後、友人の家のクルマ(ドイツフォード製タウヌス)で連休日帰りドライブに来たところだが、あの時の恐る恐るの運転(運転技術も道もクルマもはるかに劣る)が嘘のように緩急をつけてグイグイ登っていけるのがうれしい。途中雪をかぶる谷川岳方面を見晴らす展望台で一休み。湖畔の広い駐車場に着いたのは11時半だった。

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(次回;3.八ッ場ダム建設地)

2015年5月9日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-24


41989年経営トピックス-71989年総括
日本経済は依然バブルを膨らまし続けており、東燃もSPINもその恩恵に与っていた。親会社の東燃は創立50周年を迎えNKH新社長の下、本業は“強守”、新規事業は“展開”が力強く進められていたし、新規事業の一画を担うSPINは計画時から目論んでいたプロセス工業向け特化も軌道に乗り、業界での存在感も認められてきていた。私はこの年満50歳、この前後個人的にもビジネスマンとして最も充実していた時代だったような気がする。
受託システム開発は、IBM藤沢工場の購買管理システム、富士通沼津工場への技術修得を兼ねた派遣常駐、電気化学工業の全社にまたがる事務関連システム再構築、三菱油化BCLの化学分析システム、三菱石油の工場操業管理システムなど大型ジョブの引き合い・受注で多忙を極めた。
また技術システム関係では、依然としてIBM製プラント運転制御システムACSビジネスが活況で、2年前から手掛けていた大阪ガスのLNGプラント運転用シミュレータを完成させ、新しい適用分野を開拓した。また、コスモ石油、三井石油化学(現三井化学)、太陽石油などへの導入が具体化していた他、IBMがアジア・パシフィック・グループへの市場拡大を目指して活動を活発化、米国フィラデルフィアでセミナーが開催され、これらの場にはいつもSPINが重要な役割を担った。
さらに技術関連ビジネスでは、本格的にこの年から販売を開始した生産管理ソフトMIMIへの引き合いが出光石油化学、旭化成、日本石油、三菱石油などからあり、これを専門にする組織(課)を新設し、ACSに次ぐ第2の目玉商品に育てるべく取り組み体制を強化した。加えて東燃グループ向けに開発していた設備保全管理システム、MOSMaintenance On-line System)に関して、ACSビジネスで関係が出来た韓国油公がこれに強い興味を示し、ビジネスチャンスが出てきたため、東燃テクノロジー(TTEC)と組んで、この売込みを始めた。TTECが加わったのは、油公の希望が単にコンピュータソフトとしてのシステムばかりではなく、設備や部品のコード化や故障分析・分類法などにもコンサルティング・サービスを求めてきたからである。
目をグル-プ内に転ずれば、和歌山・川崎両工場の工場管理システムを、本社を含めて更新・統一するインテリジェント・リファイナリー(IR)計画、事務作業合理化OA計画、品質管理システム(LISLaboratory Information System)更新など大型プロジェクトが数多く走っており、こちらも外部ビジネスに劣らずフル回転の状況を呈していた。
このようなビジネスの他に、個人的には前々回紹介のLS研の活動、プロセス制御に関する国際学会(PCPI;京都で開催)組織委員(主にスポンサー集め)や化学工学会経営システム研究会におけるCIMComputer Integrated Manufacturing)システム実態調査主査などがあり、忙しい中にも刺激的で将来につながる仕事に携わることが出来た。
東燃グループの役員任期は通常2年を単位とする。この年は私にとって1期目の区切りになる。任命時NKH社長から「これからの君の評価は損益計算書次第」と言われた第一期目の成績は、売上:35億円、営業利益11千万円、前年に比べ、売上高では約10億円増、営業利益では約8千万円増。なんとか合格であったようである。


(次回;1990年度の経営トピックス)

2015年5月5日火曜日

上州・信州山岳ドライブ-1


1.どこに泊まり、どこを走るか
例年この時期には長距離ドライブをしてきた(とは言ってもゴールデンウイークまっただ中は避けてきたが)。一昨年は紀伊半島中央部、吉野・高野・竜神、昨年は八幡平・奥入瀬・八甲田・白神・鳥海を駆け抜けた。大体3泊か4泊の日程、遅い桜か新緑が楽しめる。しかし、今年は6月に海外へ出かける計画なので、近場の温泉2泊を第1要件とした。第2要件は当然山岳路である。
関東から甲信越の有名温泉場は大方出かけているのだが、唯一抜けているのが草津である。日本の温泉ベストテンのような催しがあると必ず上位にランクアップされるし、歌にも唄われるほどなのに、何故か出かけるチャンスがなかった。クルマでの走りもこの周辺は軽井沢辺りくらいで、白根山や志賀高原は冬季にスキーで越えたことはあるが自動車走行は未知である。こんな事情から草津温泉と国道292号線渋峠越えのルートが決まる。
2泊目はどこにするか。3日目の帰宅路を考えると中央道に近い所がいい。白馬から諏訪辺りまでの温泉場を調べるとともに、面白そうな町や道を探した。観光スポットして先ず引っかかってきたのは長野市の北東に在る小布施町である。ここは古い街並みが残るとともに農業6次(1次+2次+3次の意)産業化の成功地として知人から紹介されていたことが動機である。ここで昼過ぎまで過ごし、出来れば善光寺の御開帳を参詣して5時頃チェックインできる温泉場を探す。既に出かけているので諏訪や安曇野パスして、松本周辺を当たると市の東側に在る浅間温泉が宿泊地として浮かび上がってきた。ここへ泊れば美ヶ原スカイラインからビーナスラインにつないで蓼科・茅野方面に抜けドライブが楽しめる。あとは中央道・圏央道を走れば、ハンドルさばきを楽しむことはほとんどできないが、自動車道だけで自宅までたどり着ける。
おおよそのルートと宿泊地は決まったが問題は他にもある。6月の旅行を考えれば実施時期は4月下旬にしたい。しかし292号線もビーナスラインも冬季は雪で閉ざされ、例年開通は連休直前なのだ。Webで道路状況を調べてみると、292号線は424日が開通予定日。ビーナスラインは出てこなかった。ともかく出発をギリギリ遅くして開通を期待するようにし、もし通行不可ならビーナスラインは何度か走っているので現地勝負、上田から佐久方面に廻るか、松本から中央道に出て蓼科や白州を巡ればいい。こんな構想で全体計画をまとめる。
日程はこの通行制限解除予定・読みを前提に、427日(月)出発、29日(水)帰着と決める。最終日は連休にかかるが夕刻都心に向かうのだから渋滞はないだろう。
どこへ泊るか。このところ温泉地は出来るだけこじんまりした(団体の入らない)老舗旅館・ホテルを選ぶようにしているが、その地に詳しい人から情報が得られればそれに越したことはない。幸い草津に関しては、毎年家族でスキーに出かけている又従兄弟がいる。彼自身は友人のリゾートマンションを利用することが多いようだが、草津事情には詳しい。アドヴァイスは「温泉場として楽しむなら泉源中心である湯畑間近の旅館が便利。例えば奈良屋はそのひとつ。しかし街中は細い道が錯綜。クルマで行くなら少し離れたホテルの方がいいのでは…」とのこと。あれこれ口コミも参考にして“湯畑間近”に期待して奈良屋に決める。浅間温泉はどこにするか。昨年奥入瀬を巡るルートを検討中星野リゾートの施設があり、これがかなり魅力的だった。しかし翌日の行程を考え弘前にしたいきさつがある。今回浅間温泉をWebで調べていると“界松本”と言う旅館が星野リゾート・グループであることが分かった。施設・料理それに料金もほぼこちらの要求に合うので、ここを2泊目の宿泊場所に決めた。

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(次回;2.圏央道を経て榛名湖へ)

2015年5月3日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-23


41989年経営トピックス-6;海外調査関連
中小の情報サービス企業(東燃関係を除けは主にソフト開発)として生き残り成長していくためには、大手と対抗できる分野で互角以上に戦える戦場を持たなければならない。我々が目指したのは化学プロセス工業、会社設立の動機となったIBMのプラント運転制御システムACSは親会社ExxonIBMの共同開発ソフトだったから、石油精製。石油化学マーケットでは先手を取ることが出来きた。ただこのソフトはIBM汎用機をプラットフォームとするのもので、少種大量連続生産の石油関連産業では抜きんでた力があるものの、同じ化学でも多種少量バッチ(間欠)生産には向いていなかった。ここで事業展開をするには、もっと多様なハード、ソフトの品揃えが要る。ハードはミニコン、ワークステーション、PC。ソフトは、プラント運転制御ばかりでなく、生産管理、プラント保全、品質管理などが必須だ。いずれも東燃グループに手作りのシステムはあったが、汎用性は無かった。
当時の日本の製造業は世界のトップクラスにあると思われていたが、それは主として機械や電機・電子工業に代表される組立加工産業で、鉄鋼・セメントなど一部を除けばプロセス産業では欧米が先行しており、早期に品揃えをするには彼らの製品を導入することが早道と考えた。その第一弾が前年提携したChesapeake Decision Sciences社(CDS)の生産管理システムMIMIである。前年の独占販売権をうけて、この年出光石油化学を始めいくつかの石油・石油化学会社から引き合いを受け、CDS創設者のTom Bakerも来日し、そのマーケティング・販売活動に力を入れ始める。
一方で化学プロセスに絞った業種から面白い仕事を受注する。三菱油化(現三菱化学)の子会社三菱油化BCL(現LSIメディエンス)という化学分析(特に血液分析に強く、ドーピング検査の我が国先駆者)システムである。これもIBM汎用機をプラットフォームとする手作りなのだが、品質管理に近い性格のもので展開力がありそうに感じた。
このような環境を踏まえ、5月の連休IBMからフィラデルフィアにおけるACSセミナーでのプレゼンテーションを乞われたこともあり、技術システム部の課長で滞米経験も長いYNGK)さんと一緒に米国のプロセス関連ソフト会社の訪問調査を(部分的には手分けした)行った。
シリコンバレーでは鉄鋼生産管理ソフト(Qronos社)、ボストンでは半導体生産管理(Promis社)、NYロングアイランドではBCLに似た血液分析ソフト(Axiom社)などである。結論から言えばいずれもIBMの機械の上で動く面白いソフトなのだが、ミニコン(オフコン;AS400)をプラットフォームにするものでそのまま当社が扱えるものではなかった。また彼らから積極的に日本マーケットに売り込む意欲を感じなかった。ただAxiom社で聞かされた話は意外なものであった。専ら犯罪捜査関連にこのシステムが威力を発揮しているとのことであった。「なるほど。それも一種の化学プロセスだ」
この時の調査の印象は、「アメリカには広義の化学プロセスに使えるいろいろなソフトが特徴のある会社から発売されている。継続的なウォッチングが欠かせない」「化学プロセスをもっと広い範囲でとらえてみよう」と言うことだった。このことはやがて我が国初のパイプライン・モニタリング・システムやリアルタイム・プラント・モニタリングシステムPIなどのビジネスにつながっていく。


(次回;1989年経営トピックス;1989年総括)

2015年4月30日木曜日

今月の本棚-80(2015年4月分)


<今月読んだ本>
1) 教養としての聖書(橋爪大三郎):光文社(新書)
2) 「裏国境」突破東南アジア一周大作戦(下川祐治):新潮社(文庫)
3) 数学記号の誕生(ジョセフ・メイザー):河出書房新社
4) 無人殺人機ドローンの誕生(リチャード・ウィッテル):文藝春秋社
5) 窓際のスパイ(ミック・ヘロン):早川書房(文庫)

<愚評昧説>
1)教養としての聖書
自慢できることではないが、私の本棚に宗教に関する本は皆無と言っていい。神道・仏教関係は絶無。キリスト教は宗教戦争や西欧文明史をテーマとするものが少々。イスラムに関しても歴史・文化に対する興味から数冊あるが、コーランに絞ったものはない。ユダヤ教関連も、ユダヤ人理解のためのものに限られる。無論聖書など持っていないし読んだこともない。ぼんやりとした理解は、旧約聖書・新約聖書・コーランが同根であるということくらいである。“教養”以前の状態にあるのだ。
好んで読む本の一分野は、小説であれノンフィクションであれ、欧米を舞台としたものが多い(歴史・戦史・外交から軍事サスペンス・紀行まで)。そこには章の扉や文中に欧米人なら常識と思える警句や格言それに聖書の一文が援用されることがしばしばあるのだが、どうもこれがピンとこない。日本人が書いたものに“盛者必衰”とあれば、それは4文字の漢字の意味に留まらず、源平盛衰の歴史に思いがおよぶのだが、こんな気分に浸れない。「もしかすると、このもどかしさを解消する一助になるかもしれない」。こう期待して本書を紐解くことになった。
著者が著名な社会(宗教)学者であることは承知していたが、今まで新聞記載の評論を除けば著作を読んだことはない。本書を読んで著者の研究活動の一部(宗教と現代社会)を垣間見ることになるのだが、宗教に関心の薄い私にとって、目は専ら内容そのものより文献学的なところにいってしまい、結論として「聖書っていい加減なものなんだな」「このいい加減さを取り繕い、もっともらしくまとめるのが修道院の修験僧、それを信徒に解釈・説教するのが司祭や牧師の役割なんだ」と言うことになってしまった。だからと言って本書を貶す気は全くない。むしろ“社会とともに進化する宗教”の視点で読めばなかなか面白い本である。
旧約聖書も新約聖書も30に近い書物から成る。それらは個々に時間をかけて完成され、更に一冊の“聖書”としてまとめられるのである。本書に取り上げられるのは、旧約聖書では;創世記、出エジプト記、申命記の3編、新約聖書では;マルコ福音書、ローマ人への手紙、ヨハネ黙示録の3編、計6編である。
創成記や出エジプト記はアダムとイヴ、ノアの箱舟や十戒など巷間知られた内容を含むので我々にも親しいものだ。これらはモーゼが書いたと伝えられるのだが、聖書学者の研究によれば実際はモーゼが生きた時代から700年後くらいに成立したらしい。本書ではこのような時代考証ばかりでなく、内容解釈の変遷も論じられる。つまり時代の社会環境を踏まえ、宗教権力者や統治者によって適当に改変が行われていたことも示されるので、現世に迎合する宗教と社会の関わりに何か不真面目なものに見えてくる。
無論これは著者(キリスト教徒)が意図するところではなく、思想や哲学は以前のものの解釈を新しくするとともに、それに更なる新理論を加えて変化発展するものと見ており、むしろ社会科学の本質を示す事例として、敢えて諸編諸説の不自然さ・不一致を開示しつつ聖書の持つ意義を訴えようとするものであろう(もし教典のオリジナルに忠実であろうとすれば“原理主義”に陥り、殺伐とした(特に異教徒排斥)世界になっていたと推察される)。
本書は6回の教養講座をまとめたものであり、著者・受講生間の講義、質問やコメントのやりとりで進んで行くので、テーマが硬いものだけに、一呼吸入れながら読んでいけることは評価できる。反面、聖書原典内容、聖書学者などの考え、著者のコメントの区別がつき難いところがあり、編集の仕方にもう一工夫欲しかった。なお、購読目的の「援用される聖書の一言の踏み込んだ理解の一助」は聖書を確り深読みしないことには実現できないことを痛感させられただけである。

蛇足;本書によれば、“多様な解釈”が行われるようになった背景の一つに、教典(旧約聖書の原典はヘブライ語)の翻訳を許したことがあるとしている。それに対してイスラム教はアラビア語からの翻訳が許されていないそうである。アラビア語圏以外の国・民族はどのように内容理解をするのだろうか?

2「裏国境」突破東南アジア一周大作戦
訪問した外国数は約30ヶ国、渡航回数は100回に近いが、陸路で国境を超えたのは3国境9回に過ぎない。内訳は、6回が度のナイアガラ滝観光における米国とカナダ間の往復、マレーシアからシンガポールへの移動(片道)、香港からの深圳観光で往復2回である。いずれもメジャーな観光入出国地点で何もややこしいことはなかった。
しかし、かつての冷戦時代の東西国境あるいは現代の南北朝鮮国境や中東周辺の国境のように、生死をかける場面もあるような危険極まりない国境がいたる所に在るのが世界である。そして政治や軍事対立が無くなっても、外国人には簡単に往来できない国境が東南アジアにはまだまだ多くあるのだ。本書はこの地域をホームグランドとする(タイには家族とともに数年居住し言葉も使える)著者が、それらの裏国境を突破する冒険譚である。
普通の旅行記では売れないと見たのか、出版社が持ち込んだ企画は辺境の国境ばかりである。バンコクを扇の要として、270度くらいに広げて東南アジアを反時計方向に回る。計画ルートは、バンコクを出発、カンボジャ、ヴェトナム、ラオス、タイ北部、ミャンマーを北から南へ縦断し、タイ南部を経てバンコクに戻る。移動手段は主に長距離バスだが乗合マイクロバスやフェリー、小さな川下りの船もある。泊まるのは現地人が利用する旅籠のような所。これだけでもシニアバックパッカー(この時60歳)には大変な旅だが、辺鄙な場所に在る国境通過点は様々な不確定要素がある。開いているのかどうか、ビザの必要性、外国人の扱い、通過後の行動規制や交通手段などなど、そこまで行ってみなければ分からないことだらけなのだ。
それぞれの国境通過が計画通りいかないのは、島国に育った日本人ゆえのところもある。入出国と言うのは厳密には2ヵ所(出国・入国)のチェックポイントを通過することである。ある国の出先外交機関で「あそこの国境は超えられますか?」と問うと「出国は出来るが入国はこちらでは分かりません」とか、自国であっても中央では地方のことが分からなかったりする。また現地住民だけは生活圏内の移動が相互に融通が効くようになっていたりするのだ。結局少数民族との争いが絶えないミャンマー東北部は通過することが出来ず、タイからヤンゴンへ向かうメインルートでしか超えることが出来なかった。一方で南端では船で海路を一跨ぎ、難なくタイに入国する。
乗り物(バスからバイクタクシー、メコンの川船まで)、食べ物(ヴェトナム人は早食い民族、ラオスで飲まされたなんだかわからぬ動物の血、ミャンマーでの蛾の幼虫の素揚げ;えびせん風味;ビールのつまみに合う)、国境通過や国内の持ち物検査(タイは周辺国より厳しい)、辺境への中国人や韓国人の進出(ラオスでは中国元が流通))、タイの外国人労働者(130万人の内107万人がミャンマー人)、ミャンマーにおけるバス転倒事故の顛末(バンコクに戻って肋骨3本骨折が判明)。いずれの話題もこの地に詳しく、暖かい目で観察する下川節が冴えわたる。比較的若い写真家との二人旅、文庫本の白黒写真(見開きに数葉カラーもあるが)では今一つインパクトは弱いが、それでも奇態な旅の情景をビジュアルにうかがうことが出来る効果は大きい。楽しみはゆっくり味わいたいと思いつつ、2日で読んでしまった。

3数学記号の誕生
文字(我々の世代はカタカナを最初に習った)を使って手紙を書けるようになったのは5歳くらいだったと思う。母の手ほどきを受けながら、日本に住む祖父に「ノラクロノホンヲオクッテクダサイ」というような手紙を出した。返事は「もう戦時下の物不足で漫画の本など入手出来ない」とのことだった。この記憶はかなりはっきり残っている。しかし、数学記号(+、-)をいつ頃覚えたのかまるで記憶が無い。小学校へ入る前に簡単な加減算は出来たから、おそらく字を覚えた直後ぐらいだろう。爾来×、÷、分数の分割線、更にはπ、∞、Σ(積算)、∫(積分)、各種関数表記などを習ったが、算数・数学に使われる記号は文字同様長い歴史があるものと、本書を読むまで思っていた。実際は大違い。何と15世紀ころからポツリポツリと数式が数字と記号で表記されるようになり17世紀以降広く使われるようになってきたのである!つまりニュートンやデカルトの時代までそれらは一般的ではなかったのだ。
それではピタゴラスやユークリッドの有名な定理や一連の幾何の命題や証明をどのように記述されていたのであろうか?「点を表す文字、直線を表す2文字、角を表す3文字以外には、数学的記号は無かった」。これ以外はすべて“言葉”によって説明するのである。例えば、(a+b)a2+b2+2abは「直線を任意に切り分けると、全体による正方形は、線分でできる二つの正方形と、線分で囲まれる長方形の2倍に等しい」となるのだ。この程度の計算ですら文字だけと数式では直観的理解に時間差が生じる(言葉と数式では脳の働く部分が違う)。代数学が17世紀以降急速に発展したことがよく分かる。
記号導入のきっかけは同じ説明を繰り返す手間を省こうとしたことにある。「abに等しい」と言うような表現は数学によく現れる。長さの等しい線分を2本並べて=(当初はもっと長い)が生まれる。こんな具合におずおずと記号が文中に用いられ、時間をかけ統一・普及されていったのだ。四則演算記号、平方根・立方根、虚数表現、数々の身近な演算記号の誕生と成長(あるいは淘汰)が語られるところは、生物の進化を連想させるような興味深い世界である。
本書の内容は数学記号だけではない。数字誕生の歴史(文字で代行する数字、アラビア数字、ローマ数字、漢数字、ゼロの発見;“無”以上に重要な“位取り”など)に始まり、これらを使った多様な計算法(10進法が当たり前ではなかったことによる複雑さなど)、数学の使い手と利用分野の広がり(取引、暦、測量、税金から賭け事まで)、代数発展史におよぶ。最終章はこの代数学の爆発的発展を踏まえて、記号論・認知科学の観点から記号による新たな思考力触発の可能性を論じる。ただこの最終章は著者が最も含蓄を傾けているのだが、それまでの話(主に歴史)に比べ難解で独り善がりの感無きにしも非ず、私は読み飛ばした。
著者は米国大学(マルボロ・カレッジ)の数学科名誉教授だが数学の歴史や哲学も講じた経歴を持ち、数学読み物を他にも出しているようである。読後感は「歴史は面白いが、哲学は?」である。

4)無人暗殺機 ドローンの誕生
本書を読み終わった直後に「首相官邸屋上にドローン!」が報じられた。“ドローン”はもともと“蜂の羽音(ブンブン)”に発し、無線操縦で飛ばす標的機(射撃演習などに使う;小型エンジンの発する音が羽音に似ていた;第2次世界大戦中米陸軍15千機購入)の呼称になったもので、 “無線操縦機”と言う意味では同じだが、本書で取り上げられるものとは、歴史(半世紀以上)、飛行技術や武器としての完成度から見て、とても同じものとは言えない。大騒ぎする一方で「デパートのおもちゃ売り場にも同種のものが置いてある」と揶揄されるのも、むべなるかなの感がある。だからと言って、あの事件を軽視していいと言うわけではない。現代の最先端ドローンも黎明期には「おもちゃ」と蔑まれていたのだから。
原題は“PREDATOR The Secret Origins of The Drone Revolution(プレディター;画期的ドローン誕生の秘話)”である。Predatorとは捕食動物の意だが、シュワルツェネッガー主演の同名の映画に登場する、人間狩りをする昆虫に似た宇宙人から来ている。つまりそのような渾名を持つ“特定(実戦投入された世界初武装無人)”ドローンの誕生から今日までを辿るノンフィクションである。
1937年バクダットに生を受けた模型好きのユダヤ少年カレムは、長じてイスラエル軍の優れた航空技術者になるが、自らの夢(無人偵察機)を実現するため、1970年代初めに米国に移住、ガレージ企業を起す。ポイントは、従来の無人機(戦後も標的機やその延長線にある戦場攪乱機が開発・生産されヴェトナム戦争にも投入されている)の欠陥である滞空時間の短さ(23時間)と信頼性欠如(特に墜落事故の多さ)克服である。長躯敵地に潜入長時間(24時間以上)そこを監視・撮影し無事基地に戻れる、本格的な無人偵察機こそ彼の理想とするものなのだ。当時のコンピュータ・通信技術、材料を考慮すれば、これが如何に難しいものであるか、想像に難くない。
原題の“Revolution”の第一はこの技術革新にある。同時多発テロ9.11前後、アルカイダの最高幹部(オサマ・ビン・ラディンを含む)殺戮を目論むドローンは40時間以上飛行可能で、作戦行動域(アフガニスタン)の飛行を地球の裏側(ワシントン郊外のCIA本部)から操縦・監視し精密攻撃できるほどになるのだ(プレディターの離着陸地点は隣国のウズベキスタン)。技術開発が進み作戦実施が近づくと純技術的課題に外交や国際法の問題が絡んでくる。例えば遠隔操縦装置をどこに置くかによって設置国が参戦国になる可能性が出てくる。問題の無い遠隔地に置けば通信遅れが操縦性に著しく影響する。衛星利用では限界があるところを光ケーブルが解決する。攻撃も一気に無人機からとはいかない。最初はレーザー照準まで無人機が行い、爆弾は有人攻撃機に搭載・発射する。無人機、操縦装置、有人機の連携が必要になる。最終的に無人機にすべてを行わせるためにはさらなる困難な技術開発が求められる。
第二のRevolutionはこれを利用する人間や組織面からの変革である。始めは「あんなオモチャみたいなもの」と見ていたのが、やがて実用性が高まってくると、主導権争いを演じるようになるのだ。最初に関心を示したのは航空兵力の弱い陸軍と隠密作戦が必要なCIA、だがやがて空軍が全権掌握に乗り出してくる。海軍は独自のものにこだわる。個人のレベルの変革もある。始めは軽視・敵視していた有人機パイロットやその志願者が無人機操縦に関心を寄せるようになってくる。本書ではその過程が個人ベースの経歴や考え方を交えて披瀝される。
三のRevolutionは使い方の変化である。隠密偵察、精密攻撃支援、戦術対象の直接攻撃など前線の戦闘・戦術レベルの利用から、大統領や国務・国防長官、統合参謀本部議長などがリアルタイムで関わる、高度な政略的・戦略的利用法への変化まで、戦いのやり方が無人機の高度化に従い変わってきている実例、将来の可能性が示される。
いずれのRevolutionも戦略兵器(飛行機、戦車、潜水艦など)発展の歴史と酷似しているのが個人的に最も興味を惹かれた点である。
カレルの企業は早すぎたこと、彼の独善的な性格が因で倒産するが、その価値を評価され、人(彼自身が残ることが条件)も機材も設備もゼネラルアトミック社(兵器会社ゼネラルダイナミック社の原子力部門だったが投資家に売却)に引き継がれる。その会社経営の側面や政治絡みの産軍複合体の権限・利権を巡る動きも面白い。
あの首相官邸ドローン事件が騒がしかった時、確か日経の外報記事に「米軍、無人機への空中給油に成功」とあった。またこの記事に合わせて「海軍は空母からの運用も実証済み」とコメントが加えられていた。世界の軍事ドローンはそこまで到達しているのである。これは本書の続編領域であろう。一方で市販の玩具もどきに大騒ぎする我が国ドローン開発の実態は如何様なものなのであろうか?今度の事件では防衛省や国土交通省の専門家の言動が目立ない。能ある鷹は爪を隠すであれば良いのだが。
著者は長くペンタゴン記者を務めた軍事ジャーナリスト。この経験が生かされた正統的なドローン史として評価できる一冊だ。ただし佐藤優の解説は完全な蛇足。彼の知名度で売上を伸ばそうと言う魂胆が見え見え。文春の様な一流出版社にこんな卑しい商売はしてもらいたくないものである。

5)窓際のスパイ
フィクション、ノンフィクションいろいろなスパイ物を読んできたし本欄でも紹介してきた。基本的に“スパイ”とは、競合あるいは競争する相手組織を内偵し、こちらが勝者になるよう工作する者であった。第2次世界大戦では英・独、独・ソ、日・米、日・ソに著名な組織やそれに属するスパイが暗躍し、冷戦下ではCIA(米)、KGB(ソ)、MI-6(英)などが丁々発止の戦いを繰り広げてきた。そして最近は専ら国や国際治安組織とテロ集団との関わりが主題となっている。「今度英国の保安組織とテロ集団らしい」と読んで本書を手にした。
冒頭のシーンはロンドンのキングス・クロス駅におけるテロ容疑者の捕縛作戦、実はこれは部内(英国保安部;MI-5を想定)の昇級試験である。与えられた情報は“白いTシャツの上に青いシャツ”を着た中東人風の男。それと思しき男を見つけ取り押さえるが、ターミナル駅を大混乱に陥れた末の結果は人違いであった。これで、伝説的なスパイを祖父に持つ主人公は<泥沼の家>送りとなる。そこは彼のような落ちこぼれが勤務する、将来の希望を絶たれた島流し組織である。
話しは、この組織勤務そのものが如何に本部と異なり惨めなものか、またそれを預かるリーダーと同僚が如何に胡散臭い連中であるかにかなり長く費やされ、なかなか“事件”は起こらないし対抗組織や怪しい人物が現れない。やっとそれらしき動きが出てくるのは三分の一くらい読み進んでからである。インターネット動画に若いパキスタン系英国人の誘拐が流され、国粋団体による反イスラム活動(イスラム圏に拘束されている英人解放を引き換えに求める)が背景にあることが分かってくる。本部も泥沼の家もそれを追って動き出す。しかし何か事件そのものには緊迫感を欠いた描写が続き、むしろ部内トップや落ちこぼれ組織内の人物表現に多くが割かれ、そこに面白味が出てくる。この段階で彼が犯したドジの原因が本来“青いTシャツの上に白いシャツ”と与えられるべき情報が反転していたことが疑われてくる。その課題情報を彼に伝えたのは同期の男、何故こんなことが?この辺りから事件は保安部内組織闘争主題に転じいく。つまり、本書は純然たるスパイ小説ではなく、むしろ人に力点を置いた組織社会小説範疇のものであった。
組織対抗でないスパイ物には今一つ興味が持てない。しかし、落ちこぼれたちの本性が露わになった今、本編(本邦初訳)の続編(Dead Lions)が、冒険小説・推理小説の世界で最も権威のある英国推理小説家協会ゴールド・ダガー賞受賞していることを知って、次が読んでみたくなっている。

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