28.中辺路 京から熊野三山に至る古来からの道は、高野山から南下し十津川を経る小辺路(こへじ)、田辺の湊からほぼ半島の中心部を東へ向かう中辺路(なかへじ)、田辺に上陸後海岸伝いに新宮まで至り熊野川を遡上する大辺路(おおへじ)がある。小辺路は陸路だけで至る最短ルートであるが、今でも高野以南は人の住むところは無く、山岳ルートと言っていい。当時このルートを歩いたのは主に修験者であったろう。大辺路は半島の外周を廻るので他のルートに比べるとかなり遠回りになる。中辺路がこの三本の道の中で最も往来があったのは、田辺から距離的に近いのと、山深いわりに途上に所々平地がありそこには旅を援ける環境もあったからに違いない。
昭和44年11月、ブルーバードSSSで中辺路を走った時は紅葉の真っ盛りと言うこともあり山中ドライブを大いに楽しんだ。カーブの連続する狭い山道だが勾配はそれほど急でなく、交通量も少なくて自然の中を人車一体となって走る高揚感に浸ることが出来た。時たま行き交う車とはどちらかが待避所までバックするのだが、これも心が通じ合うようで煩わしさは無かった。今回同様出発は“あづまや”から。41年前は再現されるのだろうか?
5月22日の朝は小雨だった。横浜を発つ前に調べた天気予報どおりである。しかし傘を差すほどではない。この程度の雨はむしろ半島深奥部のしっとりした情景に相応しい。
ワイパーを間欠動作にして宿の車庫から出発。集落の出口に広い舗装された駐車場がある。嘗てはこんなものは無かった。そこを出ると道は舗装されてはいるものの昔と変わらぬ風情になる。やがて小さな谷を挟んで下り坂になった向こう側の道に、黄色とオレンジに塗装されたバスが止まっている。どうやらこちらを見つけ、待避所でやり過ごすために待っていてくれるようだ。以前もこうして国鉄バスと入れ違った記憶がある。谷川にかけられた橋をUターンする格好で渡り、上り坂をバスの方に向かう。バスはこの地の足、竜神バスだった。滅多に使わないホーンを鳴らして挨拶をする。しばらく道は折れ曲がりながら峠まで上りそこから下りになる。はるか先に橋があり渡りきったところはT字型で、もう一本の道路と交差している。どうやら中辺路が変じた国道311号線らしい。田辺・竜神方面へ右折すると、道は完全舗装の2車線、水はけのための側溝を備え幅も十分ある。直ぐに長いトンネルに入った。あの谷沿いの林間を走る曲折した道は消えていた。
旧道らしき道が時々交差するがとてもスポーツカーで走るような道ではない。ガードレールで塞いである部分もある。一部が林道としてでも使われているのだろうか?今回のドライブで最も期待していた道はこうして思い出から飛び去ってしまった。
中辺路は巡礼の道の名前であると共に、その途上の集落の名前でもある。41年前は町だったかどうか記憶に無いが、今は中辺路町である。湯の峰を出るときナビにセットしたのは、観光案内書にP(パーキング)マークのある“なかへち美術館”だ。ここにしばし車を停め、熊野古道を散策するためである。
何処にでもある一般道と同じ311号線を約1時間走って盆地状の中辺路地区に入るとナビは右折を指示してきた。道がいかにも旧道と言うように狭く曲がりくねり上下し出す。やがて郵便局や小さな農協経営のスーパーが在る町の中心部(?)に達したので、傍にある自動車修理工場で美術館の駐車場を教えてもらう。吃驚したことにその駐車場は大型バス数台、小型車は数十台停められる広さがあり、大きなトイレまであった。この日は平日、そこに停まった車は我々の一台だけだった。正式には“近露(ちかつゆ)王子公園”駐車場と言い、この駐車場に隣接して“なかへち美術館”がある(この時は休館中だった)。
この駐車場や公園、美術館の存在から推察すると、どうやらここは熊野古道巡りのベースキャンプの役割を果たす土地のようだ。集落は道路同様41年前とはすっかり姿を変えている。地元の人々にとっては暮らし易くなったに違いないが、あの如何にも鄙びた雰囲気は全く失われてしまい、41年前黄葉の下でSSSを撮影した場所すら見つけられなかった。取り敢えず付近を廻り熊野古道への道案内を探した。広い駐車場の片隅に地図看板が在った。
(写真はダブルクリックすると拡大します)
2009年10月30日金曜日
2009年10月26日月曜日
決断科学ノート-20(科学者と政治;ティザードの場合①)
ヘンリー・ティザードの名前は、第二次世界大戦における科学の役割を論ずる時、必ず真っ先に出てくるほど英国では有名な科学者である。英国防空システムの生みの親としての優れたリーダーシップと、それを実現していく過程でのチャーチルとその科学顧問(最終的には科学ばかりでなく政治的同志となる)、リンデマン(のちのチャーウェル卿)との激しい主導権争いは、OR起源研究で目にしたいずれの書物にも章や項をあらためて紹介されている。
防空システムは彼の考え通り実現し、バトル・オブ・ブリテンに勝利をもたらすが、それ以前、チャーチルが政治力を強めるに従い国防科学における中心的役割を奪われ、1940年のフランスの戦いとそれに伴うチャーチルの首相就任で、勝負は決定的になる。しかし、戦後明らかになったこの争いの論者たちの評価は圧倒的にティザードに同情的である。“科学に勝ち、政治に敗れた”と。
ティザードはブラケットのように、特定の政党と関わりを持つことは無かった。むしろ“Politics”を意識的に避けてきたと言ってもいい。これが政治的論争に巻き込まれた最大の要因だったと見る識者もいるくらいだ。
第二次世界大戦は科学戦であった。欧州では第一次世界大戦でその兆候は現れており、科学と国防は密接に結びついてきていた。飛行機、潜水艦、戦車、電波利用は次の戦争の主役となっていくが、とりわけ島国英国にとって敵(二つの大戦間はフランスも仮想敵国)空軍力は脅威であった。また航空は未だ工業レベルとしては未完・未知の部分が多く科学者が技術者にまして問題解決の役割を担わなければならない時代でもあった。
ヘンリーの父方の祖父は小さな造船会社の経営者、母方の祖父は土木技師、父は海軍の測量技師(士官)、と言う英国の典型的なミドルクラス出身である。子沢山(姉二人、妹二人)の海軍士官にはパブリックスクールに進ませる経済的余裕も無かったことから、ヘンリーは海軍兵学校の予科に進むが、初年度の夏休み左目にハエが入り著しく視力を低下させ、その道を断念せざるを得なくなる。幸い数学に秀でていたのでパブリックスクールのウェストミンスター校特待生試験に合格、ここでも優れた成績を修めオックスフォードのマグダーレン・カレッジに進み化学を専攻する。1908年卒業後文部省給付学生としてベルリン大学で物理化学(熱力学)の研究に当たり、ここでのちに“Bitter Enemy(不倶戴天の敵)”となるリンデマンと親交を結んでいる。
オックスフォードに戻った彼が飛行機に興味を持ったのは1914年5月キャンパスで行われた飛行デモだったがこれは純科学的なものだった。軍事航空との関わりは開戦後、砲兵隊で対空射撃の訓練担当士官となり、その訓練方法が上層部の注目を引いたところから始まる。これを切っ掛けに飛行実験隊に配属され、爆撃照準方法の確立に当時の科学の粋を駆使しながら創意工夫を凝らしていく。そこには危険な投下地点での連続写真撮影や未熟な無線技術の活用などもあるが、何と言っても「良い仕事をするためには自ら飛んで見なければいけない」と飛行訓練を志願し、単独飛行が出来るまで打ち込む姿勢である。これがプロの軍人たちの高い評価を勝ち取ることになる。
爆撃照準器のみならず、速度計、高度計の厳密な測定方法の確立や高性能航空燃料(のちのハイオクタン・ガソリンにつながる)の開発など八面六臂の活躍をし、1918年4月陸軍航空隊と海軍航空隊が合体して独立空軍がスタートすると両者の研究・実験機関も一体化され、その副長に収まるまで昇進する。この少し前にはチャーチルが兵器省担当大臣となり両者の接触が始まっているが、1918年11月の停戦でその関係もしばし途絶える。
このまま航空実験隊で実学を続けるか、再びオックスフォードで理論の世界に戻るか?いずれにしてもここまでの人生に政治のにおいまだしない。
防空システムは彼の考え通り実現し、バトル・オブ・ブリテンに勝利をもたらすが、それ以前、チャーチルが政治力を強めるに従い国防科学における中心的役割を奪われ、1940年のフランスの戦いとそれに伴うチャーチルの首相就任で、勝負は決定的になる。しかし、戦後明らかになったこの争いの論者たちの評価は圧倒的にティザードに同情的である。“科学に勝ち、政治に敗れた”と。
ティザードはブラケットのように、特定の政党と関わりを持つことは無かった。むしろ“Politics”を意識的に避けてきたと言ってもいい。これが政治的論争に巻き込まれた最大の要因だったと見る識者もいるくらいだ。
第二次世界大戦は科学戦であった。欧州では第一次世界大戦でその兆候は現れており、科学と国防は密接に結びついてきていた。飛行機、潜水艦、戦車、電波利用は次の戦争の主役となっていくが、とりわけ島国英国にとって敵(二つの大戦間はフランスも仮想敵国)空軍力は脅威であった。また航空は未だ工業レベルとしては未完・未知の部分が多く科学者が技術者にまして問題解決の役割を担わなければならない時代でもあった。
ヘンリーの父方の祖父は小さな造船会社の経営者、母方の祖父は土木技師、父は海軍の測量技師(士官)、と言う英国の典型的なミドルクラス出身である。子沢山(姉二人、妹二人)の海軍士官にはパブリックスクールに進ませる経済的余裕も無かったことから、ヘンリーは海軍兵学校の予科に進むが、初年度の夏休み左目にハエが入り著しく視力を低下させ、その道を断念せざるを得なくなる。幸い数学に秀でていたのでパブリックスクールのウェストミンスター校特待生試験に合格、ここでも優れた成績を修めオックスフォードのマグダーレン・カレッジに進み化学を専攻する。1908年卒業後文部省給付学生としてベルリン大学で物理化学(熱力学)の研究に当たり、ここでのちに“Bitter Enemy(不倶戴天の敵)”となるリンデマンと親交を結んでいる。
オックスフォードに戻った彼が飛行機に興味を持ったのは1914年5月キャンパスで行われた飛行デモだったがこれは純科学的なものだった。軍事航空との関わりは開戦後、砲兵隊で対空射撃の訓練担当士官となり、その訓練方法が上層部の注目を引いたところから始まる。これを切っ掛けに飛行実験隊に配属され、爆撃照準方法の確立に当時の科学の粋を駆使しながら創意工夫を凝らしていく。そこには危険な投下地点での連続写真撮影や未熟な無線技術の活用などもあるが、何と言っても「良い仕事をするためには自ら飛んで見なければいけない」と飛行訓練を志願し、単独飛行が出来るまで打ち込む姿勢である。これがプロの軍人たちの高い評価を勝ち取ることになる。
爆撃照準器のみならず、速度計、高度計の厳密な測定方法の確立や高性能航空燃料(のちのハイオクタン・ガソリンにつながる)の開発など八面六臂の活躍をし、1918年4月陸軍航空隊と海軍航空隊が合体して独立空軍がスタートすると両者の研究・実験機関も一体化され、その副長に収まるまで昇進する。この少し前にはチャーチルが兵器省担当大臣となり両者の接触が始まっているが、1918年11月の停戦でその関係もしばし途絶える。
このまま航空実験隊で実学を続けるか、再びオックスフォードで理論の世界に戻るか?いずれにしてもここまでの人生に政治のにおいまだしない。
2009年10月20日火曜日
センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(27)
27.あづまや
本宮を出たのは5時過ぎ、曇天もあり少し辺りも薄暗くなりかけていた。1キロくらい熊野街道を新宮方面に戻って“湯の峰”方面へ分岐する道へ分け入る。ほぼ熊野古道に併走する道だ。舗装こそされているが、道の勾配や曲がり具合、覆いかぶさるような木々は41年そして48年前と変わらない。途中で“民宿あずまや”と描かれた看板を見かける。「(あそこは由緒ある旅館で、民宿ではなかったはずだが、経営が変わってしまったのだろうか?)」と疑問がわいてくる。道は一寸した峠を越えて小さな谷合に降りていく。ここまで対向車は全く無い。下方、木々の合間から村落が見え出し、やがて車は狭い谷の両側にわずかな家がへばりつくような、古い湯治場に到着した。雰囲気はほとんど往時のままだ。
少し下り坂のメインストリート(?)。左側は小さな谷川が流れ、川の向こうに何軒か旅館がある。確か“あづまや”は右側のはずだ。風呂場の記憶だけは残っているが、建物の印象はまるでない。駐車をすると大きな車は行き交えないほど狭い道。車速を落として、何か見当になるものは無いかと探っていると、十数軒しかない村の真ん中辺り、貧相なお土産物屋に続いてそれは在った。通りに並ぶ家々が道路から直ちに立ち上がるように建っている中で、そこだけ狭いが一段高くなった車寄せがあり、道路から少し距離を置いて建てられた落着いた佇まいの寄棟木造二階建がある。取り敢えずそこに車を停め、無人の玄関で来訪を告げると和服を着た若い女性が現れた。荷物を下ろして駐車場を問うと「しばらく道を進み最初の橋のところで左折して直進すると当館の駐車場があります」とのこと。出かけてみるとそこはかなり広い未舗装の広場で奥の方にトタン屋根の車庫まである。広場の一辺には “民宿あづまや”も在った。この狭隘な土地では本館・駐車場も含めると大地主に違いない。
玄関に戻るとぼんやりと昔が戻ってくる。先ほどの女性が「お部屋へご案内します。お二階です」と言い左手のほうに進んでいく。「(違う。右だったはずだ)」 階段を上がった所で廊下はやや不自然は感じで部屋へとつながっている。部屋の名前は「杉」、杉で作られた部屋である(部屋は造作に主に使われる銘木で名付けられている。はるかに立派な部屋には「槙」、「こくたん」などがある)。案内を終え部屋を去る女性に聞いてみた「48年前そして41年前にもここに泊まったことがあるんだが、何か昔と違うんですよね」「あー ここは後から建て増ししたからでしょう」との答えで納得した。
それでも部屋からの眺めは変わらない。同じように川を見下ろす二階の部屋だったからだろう。まずしたことは、あの思い出深い大きな木製の湯船に浸かることである。案内の女性とその話をしたとき「槙のお風呂ですね。そのままでございます」と嬉しい返事が帰ってきた。館内の案内によればこの浴場は大正時代に作られ、いまでもそのときのままの状態だという。洗い場に使われている石は碁石で有名な那智黒である。誰も居ない大きな湯船の中で一日の疲れを癒すとともに、来し方を懐かしんだ。そう 2月に逝ったMNとの48年前の旅だ。
湯の峰温泉は日本最古の温泉と言われている。おそらく熊野詣での人々が旅の垢をこの湯で洗い流したに違いない。そんな歴史の中で江戸中・後期(明確な時期はわからないほど古い)に出来たこの“あづまや”には皇室の方々や有名人も大勢泊まっている。色紙の中に高浜虚子の名が見えるし、現皇后が皇太子妃時代お子様連れで滞在された写真などもある。また外国人ではフランスの文人で文化大臣も務めたアンドレ・マルローが夫人と滞在したとの記録もある。確かに由緒ある旅館なのだ。
こんな立派なところでも貧乏学生だった我々が泊まれたのは幸運(工場研修で得た若干の手当て、瀞八丁観光拠点としての場所選び;観光船はここから近い宮井大橋の袂から出る)もあるが、この地があまりに都会から離れ温泉以外何もない(景色も特別美しいわけではない。夜遊びするところは全く無い)場所だからである(相対的に宿泊料が安い)。しかし、この“温泉以外何もない”ことがこの地の貴重な財産なのかもしれない。
夕食時若女将が挨拶に来た。41年前は未だこの世に存在しなかった年頃と推察した。昔話をしてみたが、学生時代から東京に出ていたという彼女との共通話題は、あの槙の風呂場だけだった。
熊野牛のしゃぶしゃぶをいただきながら、格差社会(都会と地方;日常と旅)をいっとき考えた静かな夜で、今日の旅は終わった。
この日の走行距離はおおよそ170km。
本宮を出たのは5時過ぎ、曇天もあり少し辺りも薄暗くなりかけていた。1キロくらい熊野街道を新宮方面に戻って“湯の峰”方面へ分岐する道へ分け入る。ほぼ熊野古道に併走する道だ。舗装こそされているが、道の勾配や曲がり具合、覆いかぶさるような木々は41年そして48年前と変わらない。途中で“民宿あずまや”と描かれた看板を見かける。「(あそこは由緒ある旅館で、民宿ではなかったはずだが、経営が変わってしまったのだろうか?)」と疑問がわいてくる。道は一寸した峠を越えて小さな谷合に降りていく。ここまで対向車は全く無い。下方、木々の合間から村落が見え出し、やがて車は狭い谷の両側にわずかな家がへばりつくような、古い湯治場に到着した。雰囲気はほとんど往時のままだ。
少し下り坂のメインストリート(?)。左側は小さな谷川が流れ、川の向こうに何軒か旅館がある。確か“あづまや”は右側のはずだ。風呂場の記憶だけは残っているが、建物の印象はまるでない。駐車をすると大きな車は行き交えないほど狭い道。車速を落として、何か見当になるものは無いかと探っていると、十数軒しかない村の真ん中辺り、貧相なお土産物屋に続いてそれは在った。通りに並ぶ家々が道路から直ちに立ち上がるように建っている中で、そこだけ狭いが一段高くなった車寄せがあり、道路から少し距離を置いて建てられた落着いた佇まいの寄棟木造二階建がある。取り敢えずそこに車を停め、無人の玄関で来訪を告げると和服を着た若い女性が現れた。荷物を下ろして駐車場を問うと「しばらく道を進み最初の橋のところで左折して直進すると当館の駐車場があります」とのこと。出かけてみるとそこはかなり広い未舗装の広場で奥の方にトタン屋根の車庫まである。広場の一辺には “民宿あづまや”も在った。この狭隘な土地では本館・駐車場も含めると大地主に違いない。
玄関に戻るとぼんやりと昔が戻ってくる。先ほどの女性が「お部屋へご案内します。お二階です」と言い左手のほうに進んでいく。「(違う。右だったはずだ)」 階段を上がった所で廊下はやや不自然は感じで部屋へとつながっている。部屋の名前は「杉」、杉で作られた部屋である(部屋は造作に主に使われる銘木で名付けられている。はるかに立派な部屋には「槙」、「こくたん」などがある)。案内を終え部屋を去る女性に聞いてみた「48年前そして41年前にもここに泊まったことがあるんだが、何か昔と違うんですよね」「あー ここは後から建て増ししたからでしょう」との答えで納得した。
それでも部屋からの眺めは変わらない。同じように川を見下ろす二階の部屋だったからだろう。まずしたことは、あの思い出深い大きな木製の湯船に浸かることである。案内の女性とその話をしたとき「槙のお風呂ですね。そのままでございます」と嬉しい返事が帰ってきた。館内の案内によればこの浴場は大正時代に作られ、いまでもそのときのままの状態だという。洗い場に使われている石は碁石で有名な那智黒である。誰も居ない大きな湯船の中で一日の疲れを癒すとともに、来し方を懐かしんだ。そう 2月に逝ったMNとの48年前の旅だ。
湯の峰温泉は日本最古の温泉と言われている。おそらく熊野詣での人々が旅の垢をこの湯で洗い流したに違いない。そんな歴史の中で江戸中・後期(明確な時期はわからないほど古い)に出来たこの“あづまや”には皇室の方々や有名人も大勢泊まっている。色紙の中に高浜虚子の名が見えるし、現皇后が皇太子妃時代お子様連れで滞在された写真などもある。また外国人ではフランスの文人で文化大臣も務めたアンドレ・マルローが夫人と滞在したとの記録もある。確かに由緒ある旅館なのだ。
こんな立派なところでも貧乏学生だった我々が泊まれたのは幸運(工場研修で得た若干の手当て、瀞八丁観光拠点としての場所選び;観光船はここから近い宮井大橋の袂から出る)もあるが、この地があまりに都会から離れ温泉以外何もない(景色も特別美しいわけではない。夜遊びするところは全く無い)場所だからである(相対的に宿泊料が安い)。しかし、この“温泉以外何もない”ことがこの地の貴重な財産なのかもしれない。
夕食時若女将が挨拶に来た。41年前は未だこの世に存在しなかった年頃と推察した。昔話をしてみたが、学生時代から東京に出ていたという彼女との共通話題は、あの槙の風呂場だけだった。
熊野牛のしゃぶしゃぶをいただきながら、格差社会(都会と地方;日常と旅)をいっとき考えた静かな夜で、今日の旅は終わった。
この日の走行距離はおおよそ170km。
2009年10月14日水曜日
センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(26)
26.熊野三山-2(本宮へ) この日は朝から曇り勝ち、日が射したのは那智大社に詣でている時だけだった。速玉大社を出たのは3時過ぎ、この時刻にしてはやや暗い感じだ。42号線を新宮市内で別れ168号線に入るとしばらく緩い坂道が熊野川の西岸を上っていく。48年前バスで初めて上って今回で4度目だ。道そのものは基本的に変わっていないが、舗装状態は著しく改善し落石防護柵やガードレールも整備され、道幅や曲がり具合が修正されずっと走りやすくなっている。曇天の暗さで水墨画のような対岸の景色がむしろ強く印象付けられる。
小一時間分ほどこんな景色が続いて宮井大橋で瀞へ向かう169号線と分かれ、168号線は西に向きを変える。記憶では本宮までほとんど川と併行していた道が長いトンネルに入り再び川沿いに戻る。あきらかにこの道は新しい道だ。ちょっと不安がよぎる。「(中辺路への道もここ同様新しくなってしまったのだろうか?)」と。やがて“川湯温泉”、“湯の峯温泉”への分岐標識が現れるがそれらには構わず直進すると本宮の町に入る。明らかに景観が41年前とは違う。歩道が幅広く取られ、小奇麗な古い田舎家風に造られた土産物屋や飲食店など両側に続いている。最近あちこちで見かける、いかにも観光のために造りましたという雰囲気が見え見えで残念だ。道路を改修するなら、バイパスを造って旧道を残し、お宮さんと古い町そのものを一体として残せなかったのだろうか?
英国に居た時、代表的な田園地帯と言われるコッツウォルズを訪れた。幾つかの村々を廻ったが、それぞれに特徴があり、古いものが見えないところで手を加えられ、そのままの形で保存されているような所から、この町同様いかにも人口臭・商売臭のする再開発まで各種在った。人気があり、高い評価を受けているのは前者である。わが国の歴史的町並み保存はどうも後者が多い気がする。数少ないこの種の訪問地;倉敷(ここは美術館が主役)、馬籠宿、妻籠宿(ここはかなりまし)、三春町そしてここ本宮で感じたことである。
さすがに高い杉木立に覆われた長い石段や本宮境内は昔のままである。他の二社が朱塗りであるのに対して、ここの社殿はいずれも無垢の木のままで、それが黒っぽく変色しているのが時代と清廉さを感じさせる。やはり神道はこうありたい。
無論崇神天皇(B.C.33?)の御世と伝えられるこの神社が何度も建て替えられていることは想像していたが、往時を偲びつつ石段を降りてそこに立つ大社由来の説明書きを読んで驚いた!実はこの社殿は明治後期にここに建てられたもので、元々の所在地は熊野川の中洲に在ったのだという(鳥居の跡だけ残っているとのこと)。中世からの熊野詣はそこで行われていたのだ。何故明治期に移されたのか?!更に説明を読んで二度吃驚!洪水である。無論ただの洪水ではない。明治に入ると近代化が始まる。木材の需要は急騰する。森林資源の権利関係が徳川の手を離れ統制が効かなかったようだ。乱伐が山の保水力を失わせ、洪水が頻発した。人災である!環境破壊である!それにしても罰当たりな事をしたものである。現在発展途上国で広がる環境破壊を非難できない前科が身近なところに在ったわけだ。
いま紀伊半島は木々に覆われ、熊野川の上流(十津川)にはダムもいくつかある。最近はこの地の水害も聞かなくなっている。明治の人災が何とか復旧したということであろう。しかし、木々と水くらいしか資源のないこの土地で再び何が起こるかわからない。豊かな保水力を持つこの半島の土地を中国資本が狙っているという噂まである。
小一時間分ほどこんな景色が続いて宮井大橋で瀞へ向かう169号線と分かれ、168号線は西に向きを変える。記憶では本宮までほとんど川と併行していた道が長いトンネルに入り再び川沿いに戻る。あきらかにこの道は新しい道だ。ちょっと不安がよぎる。「(中辺路への道もここ同様新しくなってしまったのだろうか?)」と。やがて“川湯温泉”、“湯の峯温泉”への分岐標識が現れるがそれらには構わず直進すると本宮の町に入る。明らかに景観が41年前とは違う。歩道が幅広く取られ、小奇麗な古い田舎家風に造られた土産物屋や飲食店など両側に続いている。最近あちこちで見かける、いかにも観光のために造りましたという雰囲気が見え見えで残念だ。道路を改修するなら、バイパスを造って旧道を残し、お宮さんと古い町そのものを一体として残せなかったのだろうか?
英国に居た時、代表的な田園地帯と言われるコッツウォルズを訪れた。幾つかの村々を廻ったが、それぞれに特徴があり、古いものが見えないところで手を加えられ、そのままの形で保存されているような所から、この町同様いかにも人口臭・商売臭のする再開発まで各種在った。人気があり、高い評価を受けているのは前者である。わが国の歴史的町並み保存はどうも後者が多い気がする。数少ないこの種の訪問地;倉敷(ここは美術館が主役)、馬籠宿、妻籠宿(ここはかなりまし)、三春町そしてここ本宮で感じたことである。
さすがに高い杉木立に覆われた長い石段や本宮境内は昔のままである。他の二社が朱塗りであるのに対して、ここの社殿はいずれも無垢の木のままで、それが黒っぽく変色しているのが時代と清廉さを感じさせる。やはり神道はこうありたい。
無論崇神天皇(B.C.33?)の御世と伝えられるこの神社が何度も建て替えられていることは想像していたが、往時を偲びつつ石段を降りてそこに立つ大社由来の説明書きを読んで驚いた!実はこの社殿は明治後期にここに建てられたもので、元々の所在地は熊野川の中洲に在ったのだという(鳥居の跡だけ残っているとのこと)。中世からの熊野詣はそこで行われていたのだ。何故明治期に移されたのか?!更に説明を読んで二度吃驚!洪水である。無論ただの洪水ではない。明治に入ると近代化が始まる。木材の需要は急騰する。森林資源の権利関係が徳川の手を離れ統制が効かなかったようだ。乱伐が山の保水力を失わせ、洪水が頻発した。人災である!環境破壊である!それにしても罰当たりな事をしたものである。現在発展途上国で広がる環境破壊を非難できない前科が身近なところに在ったわけだ。
いま紀伊半島は木々に覆われ、熊野川の上流(十津川)にはダムもいくつかある。最近はこの地の水害も聞かなくなっている。明治の人災が何とか復旧したということであろう。しかし、木々と水くらいしか資源のないこの土地で再び何が起こるかわからない。豊かな保水力を持つこの半島の土地を中国資本が狙っているという噂まである。
こんな歴史を三度目の本宮参拝で初めて知った(熊野街道を走るのは四度目だが、初回は本宮には来ていない)。
(写真はダブルクリックすると拡大します)
2009年10月8日木曜日
決断科学ノート-19(科学者と政治-2;ブラケットの場合②)
政府・国策検討の場から遠ざけられていたブラケットは、その後も講演や雑誌などに政治的発言を積極的にしている。その関心事はおよそ次の三分野に整理できる。核戦略(核軍縮)、後進国救済支援、英国の科学技術振興策がそれらである。いずれのテーマも高度に政治的な問題を含むが、彼の主張の根底には全て科学者としての考え方が貫かれている。それは“科学は、産業を振興し、貧しさからの脱却を図り、世界の平和を実現する最良の手段だ”と言う考え方である(核戦略に関しては、大量殺戮に関する人道的な視点、またアメリカの一極支配に対する警戒感もあるが)。
この情報発信の間、物理学者としての研究活動に大きな変化が起こっている。戦前・戦時在籍し、長年勤めたマンチェスター大学(1937~53)を去りインペリアル・カレッジに移って、物理学部長としてその拡大計画(財務を含む)実現に深く関わるようになっていく。また本人の研究関心事も、宇宙線→地磁気学・古地磁気学→岩石磁気学へと移って行くのだが、これも“宇宙と地球の関係を物理学で解明する”と言うテーマの中で極めて緊密な関係にあり、機軸は一貫性を保っている。(余談だが、潜水艦磁気探知機の発明・発案は諸説ある。戦時中ブラケットもこの開発に関わっており、英国では彼を実用システムの研究開発者する説が有力;旧帝国海軍の関係者は、航空機搭載用は日本が唯一実用化に成功したと言うが…)
この様な活動の中で、人々は彼のそれまでの言動の本質を理解するようになり、容共主義者(あるいは共産主義者)と見る誤解が少しずつ解けていく。のちに二度にわたって首相を務めることになるハロルド・ウィルソンと知り合うのは、ウィルソンがアトリー内閣の商務大臣の時で、政府研究機関の成果を民間に普及するための組織、National Research and Development Corporation(N.R.D.C.)のメンバーの一人としてブラケットを選んだ時、1949年からと言われている。このポストは戦時中あるいは学者としての名声かから見れば高い(国の大きな施策に深く関わる)ものではないが、彼の復権につながる切掛けをつくることになる。ここで戦後の先進国の貿易・産業分析(無論OR的に)を行った彼は、敗戦国のドイツにも劣る英国の実情(技術革新、生産性、貿易額など)に危機感を強く持つようになる。しかしアトリー政権は1951年下野、保守党がその後1964年まで政権を担当する。彼はその危機感を在野から訴えるしかなかった。
1960年の労働党党首選でヒュー・ゲイッケルに敗れたウィルソンは、1963年思いがけないゲイッケルの急死で党首への道が開けてきた。その年の労働党大会でウィルソンはブラケットが提唱していた産業振興策の目玉、生産省(Ministry of Production)構想をぶち上げる。総選挙を予測された翌年、ブラケットは更にこれをN.R.D.C.を母体にした、政府のR&D予算を統括する、科学技術省(Ministry of Technology;MOT)として練り上げ、著名な左翼系週刊誌、The New Statesmanに発表し、ウィルソンもその設立を約束する。
1964年10月の労働党の勝利とウィルソン政権の誕生でこのMOT構想は実現、初代担当大臣は科学者で作家のC.P.スノー(のちのスノー卿;代表作「The Two Cultures;科学と人間性」)が任ぜられ、ブラケットは省運営委員会の副委員長(委員長はスノー自身)として1969年秋までその地位に留まって、自ら描いた構想を実現すべくこの役職に情熱を注いでいく。特にその前半はまるで副大臣のように彼の考えは全て受け入れられ、仕事の優先度も彼によって決せられたと言う。しかし、ウィルソンが後年「彼が望めば貴族院議員にして大臣にすることも可能だったが、彼はそれを望まなかった」と述べているように、政治的野心とそれによる役得など、全く心の内に無かったようだ。それもあってか、後半はMOTと他省庁との整理統合が進められ、彼の意図とは異なる組織に変貌、居場所を失ってしまう。
科学と人間を愛することで際立った彼に、その良きバランスをとるために必要な政治性がいま少し有ったらと言うことであろうか?
この情報発信の間、物理学者としての研究活動に大きな変化が起こっている。戦前・戦時在籍し、長年勤めたマンチェスター大学(1937~53)を去りインペリアル・カレッジに移って、物理学部長としてその拡大計画(財務を含む)実現に深く関わるようになっていく。また本人の研究関心事も、宇宙線→地磁気学・古地磁気学→岩石磁気学へと移って行くのだが、これも“宇宙と地球の関係を物理学で解明する”と言うテーマの中で極めて緊密な関係にあり、機軸は一貫性を保っている。(余談だが、潜水艦磁気探知機の発明・発案は諸説ある。戦時中ブラケットもこの開発に関わっており、英国では彼を実用システムの研究開発者する説が有力;旧帝国海軍の関係者は、航空機搭載用は日本が唯一実用化に成功したと言うが…)
この様な活動の中で、人々は彼のそれまでの言動の本質を理解するようになり、容共主義者(あるいは共産主義者)と見る誤解が少しずつ解けていく。のちに二度にわたって首相を務めることになるハロルド・ウィルソンと知り合うのは、ウィルソンがアトリー内閣の商務大臣の時で、政府研究機関の成果を民間に普及するための組織、National Research and Development Corporation(N.R.D.C.)のメンバーの一人としてブラケットを選んだ時、1949年からと言われている。このポストは戦時中あるいは学者としての名声かから見れば高い(国の大きな施策に深く関わる)ものではないが、彼の復権につながる切掛けをつくることになる。ここで戦後の先進国の貿易・産業分析(無論OR的に)を行った彼は、敗戦国のドイツにも劣る英国の実情(技術革新、生産性、貿易額など)に危機感を強く持つようになる。しかしアトリー政権は1951年下野、保守党がその後1964年まで政権を担当する。彼はその危機感を在野から訴えるしかなかった。
1960年の労働党党首選でヒュー・ゲイッケルに敗れたウィルソンは、1963年思いがけないゲイッケルの急死で党首への道が開けてきた。その年の労働党大会でウィルソンはブラケットが提唱していた産業振興策の目玉、生産省(Ministry of Production)構想をぶち上げる。総選挙を予測された翌年、ブラケットは更にこれをN.R.D.C.を母体にした、政府のR&D予算を統括する、科学技術省(Ministry of Technology;MOT)として練り上げ、著名な左翼系週刊誌、The New Statesmanに発表し、ウィルソンもその設立を約束する。
1964年10月の労働党の勝利とウィルソン政権の誕生でこのMOT構想は実現、初代担当大臣は科学者で作家のC.P.スノー(のちのスノー卿;代表作「The Two Cultures;科学と人間性」)が任ぜられ、ブラケットは省運営委員会の副委員長(委員長はスノー自身)として1969年秋までその地位に留まって、自ら描いた構想を実現すべくこの役職に情熱を注いでいく。特にその前半はまるで副大臣のように彼の考えは全て受け入れられ、仕事の優先度も彼によって決せられたと言う。しかし、ウィルソンが後年「彼が望めば貴族院議員にして大臣にすることも可能だったが、彼はそれを望まなかった」と述べているように、政治的野心とそれによる役得など、全く心の内に無かったようだ。それもあってか、後半はMOTと他省庁との整理統合が進められ、彼の意図とは異なる組織に変貌、居場所を失ってしまう。
科学と人間を愛することで際立った彼に、その良きバランスをとるために必要な政治性がいま少し有ったらと言うことであろうか?
2009年10月5日月曜日
センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(25)
25.熊野三山-1(那智大社、速玉大社) 熊野三山とは本宮・新宮(速玉大社)・別宮(那智大社)から成る。本宮は二度詣でているものの、速玉、那智は今回が初めてである。本来の参詣順序は本宮→新宮→別宮ということになっている。これは京都を出発し海路で田辺に上陸、本宮に至った後は熊野川を舟で下ることからそうなったのではなかと推察する。我々は東から来たので伊勢同様ここでも参詣順序が逆になってしまった。ご利益は如何なものであろうか?
昼食を摂った茶店の直ぐ脇から急な石段が続く。両側には何軒か小さなお土産物屋もあるが平日だからか、ほとんど客は居ない。途中分岐路がありいくつかの観光・参詣スポット選択の便を供している。これは急な階段のバイパスの役目も果たしている。それには目もくれず一気に大社への階段を進むと、それほど大きくない数棟の建物から成る境内へ辿り着いた。建物は皆朱塗りである。東方向、本殿とその他の建物の間から三重塔、さらに先緑の山肌の中に那智の滝が遠望できる。この頃には曇天も晴れて木々の緑、滝の白、三重塔の朱のコントラストが鮮やかだ。
大社は一番高いところにあり、東側一段下がった所に青岸渡寺(せいがんとじ)の本堂がある。これは国の重要文化財で秀吉が再建したと言われている。神仏一体は三山共通で、他の神社に寺は付設していないものの、それぞれのご本尊(ご神体?)は、阿弥陀如来(本宮)、薬師如来(新宮)、千手観音(別宮)である。この寛容な(いいかげんな)宗教観を持った日本人は、世界の主流、一神教や無神論の政治イデオロギーでがちがちに固まった国々・人々とこれからどう共存していくのか?長閑な山中の神社に隣接する寺でお賽銭を投げ入れる時、フッと厳しい現実世界が過ぎった。
三重塔や滝がよく見える展望台などを巡って茶店に戻るともう2時過ぎ。これから速玉大社、本宮を訪れるのでそれほど時間の余裕がない。カーナビに速玉大社の電話番号をセットしてルートを決める。ほぼ来た道を戻る感じなので最後の大社へのアプローチだけナビに頼ることでいいだろう。
昼食を摂った茶店の直ぐ脇から急な石段が続く。両側には何軒か小さなお土産物屋もあるが平日だからか、ほとんど客は居ない。途中分岐路がありいくつかの観光・参詣スポット選択の便を供している。これは急な階段のバイパスの役目も果たしている。それには目もくれず一気に大社への階段を進むと、それほど大きくない数棟の建物から成る境内へ辿り着いた。建物は皆朱塗りである。東方向、本殿とその他の建物の間から三重塔、さらに先緑の山肌の中に那智の滝が遠望できる。この頃には曇天も晴れて木々の緑、滝の白、三重塔の朱のコントラストが鮮やかだ。
大社は一番高いところにあり、東側一段下がった所に青岸渡寺(せいがんとじ)の本堂がある。これは国の重要文化財で秀吉が再建したと言われている。神仏一体は三山共通で、他の神社に寺は付設していないものの、それぞれのご本尊(ご神体?)は、阿弥陀如来(本宮)、薬師如来(新宮)、千手観音(別宮)である。この寛容な(いいかげんな)宗教観を持った日本人は、世界の主流、一神教や無神論の政治イデオロギーでがちがちに固まった国々・人々とこれからどう共存していくのか?長閑な山中の神社に隣接する寺でお賽銭を投げ入れる時、フッと厳しい現実世界が過ぎった。
三重塔や滝がよく見える展望台などを巡って茶店に戻るともう2時過ぎ。これから速玉大社、本宮を訪れるのでそれほど時間の余裕がない。カーナビに速玉大社の電話番号をセットしてルートを決める。ほぼ来た道を戻る感じなので最後の大社へのアプローチだけナビに頼ることでいいだろう。
車は県道46号から国道42号へ出て新宮市内へ順調に往路を逆走する。しかし、街の中心部の大きな交差点でナビは右折を指示してきた。頭の中で「速玉は42号線の左のはずだが・・・」と思ったが「市内一の観光スポットだから何か規制でもあるのかもしれない」とナビに従った。やがて道は海岸に出て防波堤に沿って進んで行く、すると「左です」と言うので細い道へ左折し、しばらく進むと「目的地周辺です。これで案内を終わります」と言って黙ってしまった。ほとんど住宅街、周辺にそれらしきものはない。どうやら電話番号の最終4桁に間違いがあったようだ。
何とか車が停められるスペースを見つけ、誰かに確認するつもりで車を降りると、少し先に何を扱うのかはっきりしないが一軒小さな店があった。近づいてみるとそれは酒屋で、店には誰も居ない。声をかけるとオバサンが奥から現れたので「速玉神社はどこでしょうか?」と尋ねると「(一体こんな所で何を聞いているの?)」という表情で「速玉?」と聞き返してくる。そんなところへ配達にでも行っていたのだろう、カブに乗ったオジサンが帰ってきた。「速玉神社やて。どう行ったらいいかの?」「駅の方やからな」 何やらここから行く道を言葉で説明するのは難しそうな雰囲気である。するとオジサンが「よっしゃ。わしがカブで案内してやるさけついておいで」と言ってくれた。忙しそうだが好意に甘えることにした。細い道を何度も曲がり、こちらがついてくるのを確認しながら街の中心部まで案内してくれ「ここを真っすぐ行けば直ぐ分かる」と言ってもと来た道を戻っていった。「有難うございました」と窓から叫ぶのが精一杯のお礼だった。
速玉大社は前方は熊野川、背後に神倉山と言う巨石信仰の山を頂く平地に在るこじんまりした神社だが、街の中心部に在る事を忘れさせるような静かな佇まいだった。佐藤春夫記念館や宝物殿など見所もあるのだが、今日のメインエベント、本宮訪問が後に控えているので、お参りを済ませ記念写真を撮って早々に車を熊野街道へと進めた。
速玉大社は前方は熊野川、背後に神倉山と言う巨石信仰の山を頂く平地に在るこじんまりした神社だが、街の中心部に在る事を忘れさせるような静かな佇まいだった。佐藤春夫記念館や宝物殿など見所もあるのだが、今日のメインエベント、本宮訪問が後に控えているので、お参りを済ませ記念写真を撮って早々に車を熊野街道へと進めた。
(写真はダブルクリックすると拡大できます)
2009年10月3日土曜日
今月の本棚-13(9月)
<今月読んだ本(9月)>
1)本当は恐ろしいアメリカの真実(エリコ・ロウ);講談社
2)ローマ人の物語-最後の努力-〔上、中、下〕(塩野七生);新潮社(文庫)
3)オバマ大統領は黒人か(高山正之);新潮社
4)中流社会を捨てた国(ポーリー・トインビー、デイヴィッド・ウォーカー);東洋経済新報社
<愚評昧説>
1.本当は恐ろしいアメリカの真実 先にご紹介した日高義樹の「不幸を選択したアメリカ」が共和党シンパの日本人の書いたものに対して、これは民主党シンパの日本人女性ジャーナリストが書いた、同じオバマ政権下のアメリカの現状と将来である。「ブッシュは酷かった」「共和党は問題だらけだ」それに引き換え「オバマには期待できる」と言う主張を、アメリカでの教育と生活(結婚相手はアメリカ人)、現在の居住地カナダ、そして日本人と言う三つの視点から行うユニークな評論である。“本当は恐ろしい”は共和党政権下のアメリカであり、“変わる変わる”と唱えながら根底はなかなか変わらないアメリカだと、筆者が自ら体験したこと、見聞したことから説き起こし、しかしオバマはやってくれるのではないかと結んでいる。
オバマは選挙中そして大統領当選後も演説の中でしばしば“United States of America”を強調し、それが大衆に大受けしてきたのだという。裏返せばアメリカは“United(結合)”されていないと言うのが筆者の見解である。それ故に種々の問題が噴出し“恐ろしいアメリカ”になってしまったのだと。その身近な事例を、人種差別、女性差別、宗教上の対立、経済格差、政官癒着(規制や情報開示など)、イラク・アフガン問題、ジャーナリズムの変化などの面から取り上げ、特に9・11同時多発テロ以降のアメリカ社会変容に対する危機感を浮き彫りにしてみせる。
2000年の大統領選挙の投票日私はマンハッタンに居た。その前日民主党贔屓のユダヤ系アメリカ人夫妻と夕食を共にした。「どちらが勝つと思うか?君はどちらを支持するんだ?」と単刀直入に聞かれた。曖昧な受け答えに共和党シンパと読まれ(実際そうなのだが)「愚かなブッシュが大統領になったら世界は大変なことになるぜ」と決め付けた。昨年連休この夫婦が我が家を訪れた。大統領選挙の年、話題はあの時を再現することになる。「前回の事を憶えているかい?世界は酷いことになったろう!」と。
身近な事例から現代社会・政治の問題点を突きつけられると簡単に反論は出来ない。結果を総括して述べられればその通りである。9・11以降二度渡米し、セキュリティ・チェックでたびたび人種差別と思われる不快な思いにさせられ、“アメリカに行く気がしない”心境にある。
しかし、これがオバマ・民主党で変わるとはとても思えない。また、日米関係の歴史を見れば民主党政権下の方が緊張の高まる傾向にある。筆者は草の根民主主義(特にネットを利用した)が“それでも希望の国、アメリカ”を実現すると期待するのだが…。
2)ローマ人の物語-最後の努力-〔上、中、下〕 愛読している塩野七生の長編である。単行本にすると全15巻の13巻目に当たる。いよいよローマ帝国の滅亡も間近になってきた。ここで主に取り上げられるのはディオクレティアヌス(AD284~305)とコンスタンティヌス(AD306~337)の二人の皇帝であるが、この間に統治形態が二頭政・四頭政を経るので二人以外の皇帝・副帝が登場する。
ディオクレティアヌスが多頭政を敷くのは帝国の広がりに起因するが、それと同時に延びた防衛線の外側からの侵攻が激しくなってきたことも要因である。やがてはローマ帝国を滅ぼす“ゲルマン民族大移動”の兆候とも言える。
この多頭政は単に担当地域の変化のみならず、政治や軍の組織・機能を変えていく。従来の皇帝は独裁権力者ではなく、市民そして元老院によって統治権を委託されていたものが、この時代になると元老院の存在や市民の関与はほとんど無力になっていく。軍も防衛線に張り付く形態から、皇帝直轄の機動性を高めた軍が主流になっていく。言わば絶対王権への道を進むようになってくるのである。
もう一つの社会変革の要素はキリスト教の扱いである。帝国の東方で発したキリスト教は時どきの皇帝によって迫害されたりしてはいたが着実にその信者を増やしてきており、それは特に帝国の東方(小アジアやパレスチナ)で顕著だった。ディオクレティアヌスはその布教を禁じ、厳しい政令を発しているが、実態はそれほどでもなかったようで、殉教者の数は多くない。
この公式見解が一転するのは多頭政を清算したコンスタンティヌスの時代である。彼はキリスト教をローマの伝統的な多神教の神々と差別しないことを宣言し、次いでこれの普及に力を貸すことになる(教会の財産保持を認める)。彼は最後までキリスト教を国教としたわけではないが、これらの為政によって、後年キリスト教会・教徒からは特別な人物として崇められるようになる。
独裁的な権力獲得の後首都をローマからコンスタンティノープル(今のイスタンブール)に移し、ここに帝国を代表する教会を建立する。これらによってローマは衰退していく。
コンスタンティヌスは何を考えていたのだろう?絶対王政の確立、王権の世襲を考えるなら、その権利・権威・資格を“神から与えられた”とすることが説得力がある。それには“人を助ける”ローマの神々“より“人を導く”キリスト教が体制にとって相応しい。やがて中世へつながる権力者とキリスト教の関係がこうして始まった。と言うのが塩野ローマ史観と言えるようだ。
(写真は昨年ローマを訪れた際撮影したコンスタンティヌス凱旋門;オリジナルのハドリアヌス帝凱旋門を4代の皇帝の凱旋門として利用している;場所を変えて4代の戦勝の様子が浮き彫りされている)
3)オバマ大統領は黒人か 面白そうな新聞広告が出たので書店に行ったが見当たらなかった。仕方なくAmazonに発注したら発送は3週間くらい後だと言う。つまりよく売れていて2刷目が刷り上るまで待たされた。筆者は元産経記者、テヘランやロサンゼルスの支局長も務めており国際経験も豊かな人のようだ。退社後週刊新潮に書いているコラム「変見自在」をまとめたものが本書で、私は今まで知らなかったが既にこのコラムの単行本がかなり出ていることから多くの固定ファンがいるのだろう。帯に“「偽善と欺瞞」を一刀両断!”とあるが当にその通り、アメリカ、フランス、中国、韓国(朝鮮)、オーストラリアそして何と言っても“朝日新聞”を切って切って切りまくる痛快なコラムである。よく売れているのに合点がいった。
発行部数比較はともかく、全国紙で朝日が左の極ならば産経は右の代表格と言っていいだろう。毎日はもっと左かもしれないし、部数で勝負の芸能スポーツ新聞;読売ですらやや左の論調に見える。左寄りの方が売れるのだろう。自民党があまりに長く政権を握ってきたことの反作用なのだろうか?
日本人は「大新聞の言っていることは正しい」と考える傾向にあるようだが、日本のジャーナリズムが総じて政権・体制に極めて批判的なのは、外国人でも日本の事情に通じている人にはわかっている。嘗てバンクーバーから東京に飛ぶフライトの中で台湾系カナダ人に「日本の新聞みたいに政権の悪口ばかり言う新聞は、他の国にはありませんよ」と言われたことがある。確かにジャーナリズムには“社会の番犬”と言う役割はあるが、国民と政府を力づける役割も同じように重要なはずである。その点で“朝日新聞とは何様だ!?”と言う思いを抱いている人は多い。
政府に対する不信、周辺諸外国に対する卑屈な外交姿勢は長年にわたる左翼知識人・左翼ジャーナリズムによって洗脳された国民の己が姿と言っていい。その代表格、朝日離れが私の周辺でも起こっている。良いことである。
筆者・産経の主張に全面的に賛成するわけではないが、この様な主張が多くの人に受け入れられている(売れている)のは、我々もやっと大新聞の呪縛から逃れて考えるようになった証であろう。(週刊誌は買わないが)週刊誌ジャーナリズム頑張れ!
4)中流社会を捨てた国(原題;Unjust Rewards;不正な報酬) 久し振りに読み応えのある本に行き当たった。ここで取り上げられるのは英国。筆者の一人、ポーリー・トインビーは歴史家として有名なアーノルド・J・トインビーの姪、社会問題を専門領域とするジャーナリストである。
2007年滞英中に友人が日英社会・経済比較を特集した週間東洋経済を送ってくれた。英国はサッチャー政権から持続する好景気の中に在ったし、日本経済も小泉改革でやっと長期不況から脱しつつあるように見えた。特集では英国の問題点も多々あるものの、日本経済は失われた10年を取り戻すまでには至っていないことを物語っていた。その特集の中に囲み記事があり、そこで豊かになったように見える英国社会に実は格差が広がっている事を、身分を隠して下流社会に身を投じたポーリーが解説している件があった。指導を受けていたカービー教授にこの特集の話とポーリーの記事について掻い摘んで話すと、「私の政治信条は彼女に近い」との返事が返ってきた。中道左派というところであろうか?
原題には使われていないがタイトルと文中に頻繁に現れる中流階級、中産階級は本来“ミドルクラス”、英国では単に収入・財産だけではなく、無形の安定的(あるいは伝統的)な生活様式をも含む言葉である。このクラスの繁栄こそ英国社会の落着いた豊かさの根源と言う考えがこの語の中にある。そのミドルクラスが確実に崩壊している。どんなことが起きているか?その因はどこから来ているか?それを正すにはどうすれば良いか?これが本書の骨組みである。
まず取り上げられるのが、金融機関トップの法外な報酬である(これが原題の“Unjust Rewards”になっている)。しかも彼等があらゆる手段を使って脱税を行っている事を浮き彫りにしていく。これと併行して、サッチャー、ブレア(労働党であるにもかかわらず)が富裕税を大幅に下げたことによって、英国がヨーロッパの税金天国になり、英国籍でない者が社会保障面では税金の恩恵を蒙りながらほとんど税金を払っておらず、結果としてそれが中流階級に重くのしかかっていることを明らかにする。
金融サービスの盛況は効率の悪い(資金回収に時間のかかる)製造業を衰退させ、多くの中流階級を下層に追いやる結果をもたらしている。オックスブリッジへの登竜門、パブリックスクールへの進学者は金融成金や外国籍の金持ち階級に置き換わり、学問への志しさえ金儲け主義に堕して、ノブレス・オブリージュ(高い地位にあるものはそれだけの責任を果たす)の精神は失われ、真の社会指導者に相応しい人材が育たなくなってきている。
どう対応するか?まず子供がその階級に縛られる環境を平等なものにしよう!そのために社会保障制度を充実しよう!親の失業、シングルマザー問題、住環境はそれと無縁ではない!この面でも社会保障制度を見直そう!そのためには富裕税と相続税を累進的に上げ、脱税を徹底的に封じよう!慈善寄付は景気に左右される!しっかり税金で財源を確保するのだ!北欧社会が落着いている背景には高い税金がある!出ていきたい者は出て行け!家族ともどもロンドンの住み心地を享受できる場所は在りはしないのだから!これを最終章で18の提言としてまとめている。
原著は2008年金融危機前に初版が出たが、直ぐ金融危機を受けて増補版が出版されている(本書はこの増補版)。“それ見たことか!”と。
もう一人の筆者、デイヴィッド・ウォーカーは社会調査の専門家らしく、分析・主張の裏づけも確りしている。翻訳も良くこなれている。
対応策;大きな政府、特に増税策は議論を呼ぶところだろうが、全国会議員に配りたい本である。
2)ローマ人の物語-最後の努力-〔上、中、下〕(塩野七生);新潮社(文庫)
3)オバマ大統領は黒人か(高山正之);新潮社
4)中流社会を捨てた国(ポーリー・トインビー、デイヴィッド・ウォーカー);東洋経済新報社
<愚評昧説>
1.本当は恐ろしいアメリカの真実 先にご紹介した日高義樹の「不幸を選択したアメリカ」が共和党シンパの日本人の書いたものに対して、これは民主党シンパの日本人女性ジャーナリストが書いた、同じオバマ政権下のアメリカの現状と将来である。「ブッシュは酷かった」「共和党は問題だらけだ」それに引き換え「オバマには期待できる」と言う主張を、アメリカでの教育と生活(結婚相手はアメリカ人)、現在の居住地カナダ、そして日本人と言う三つの視点から行うユニークな評論である。“本当は恐ろしい”は共和党政権下のアメリカであり、“変わる変わる”と唱えながら根底はなかなか変わらないアメリカだと、筆者が自ら体験したこと、見聞したことから説き起こし、しかしオバマはやってくれるのではないかと結んでいる。
オバマは選挙中そして大統領当選後も演説の中でしばしば“United States of America”を強調し、それが大衆に大受けしてきたのだという。裏返せばアメリカは“United(結合)”されていないと言うのが筆者の見解である。それ故に種々の問題が噴出し“恐ろしいアメリカ”になってしまったのだと。その身近な事例を、人種差別、女性差別、宗教上の対立、経済格差、政官癒着(規制や情報開示など)、イラク・アフガン問題、ジャーナリズムの変化などの面から取り上げ、特に9・11同時多発テロ以降のアメリカ社会変容に対する危機感を浮き彫りにしてみせる。
2000年の大統領選挙の投票日私はマンハッタンに居た。その前日民主党贔屓のユダヤ系アメリカ人夫妻と夕食を共にした。「どちらが勝つと思うか?君はどちらを支持するんだ?」と単刀直入に聞かれた。曖昧な受け答えに共和党シンパと読まれ(実際そうなのだが)「愚かなブッシュが大統領になったら世界は大変なことになるぜ」と決め付けた。昨年連休この夫婦が我が家を訪れた。大統領選挙の年、話題はあの時を再現することになる。「前回の事を憶えているかい?世界は酷いことになったろう!」と。
身近な事例から現代社会・政治の問題点を突きつけられると簡単に反論は出来ない。結果を総括して述べられればその通りである。9・11以降二度渡米し、セキュリティ・チェックでたびたび人種差別と思われる不快な思いにさせられ、“アメリカに行く気がしない”心境にある。
しかし、これがオバマ・民主党で変わるとはとても思えない。また、日米関係の歴史を見れば民主党政権下の方が緊張の高まる傾向にある。筆者は草の根民主主義(特にネットを利用した)が“それでも希望の国、アメリカ”を実現すると期待するのだが…。
2)ローマ人の物語-最後の努力-〔上、中、下〕 愛読している塩野七生の長編である。単行本にすると全15巻の13巻目に当たる。いよいよローマ帝国の滅亡も間近になってきた。ここで主に取り上げられるのはディオクレティアヌス(AD284~305)とコンスタンティヌス(AD306~337)の二人の皇帝であるが、この間に統治形態が二頭政・四頭政を経るので二人以外の皇帝・副帝が登場する。
ディオクレティアヌスが多頭政を敷くのは帝国の広がりに起因するが、それと同時に延びた防衛線の外側からの侵攻が激しくなってきたことも要因である。やがてはローマ帝国を滅ぼす“ゲルマン民族大移動”の兆候とも言える。
この多頭政は単に担当地域の変化のみならず、政治や軍の組織・機能を変えていく。従来の皇帝は独裁権力者ではなく、市民そして元老院によって統治権を委託されていたものが、この時代になると元老院の存在や市民の関与はほとんど無力になっていく。軍も防衛線に張り付く形態から、皇帝直轄の機動性を高めた軍が主流になっていく。言わば絶対王権への道を進むようになってくるのである。
もう一つの社会変革の要素はキリスト教の扱いである。帝国の東方で発したキリスト教は時どきの皇帝によって迫害されたりしてはいたが着実にその信者を増やしてきており、それは特に帝国の東方(小アジアやパレスチナ)で顕著だった。ディオクレティアヌスはその布教を禁じ、厳しい政令を発しているが、実態はそれほどでもなかったようで、殉教者の数は多くない。
この公式見解が一転するのは多頭政を清算したコンスタンティヌスの時代である。彼はキリスト教をローマの伝統的な多神教の神々と差別しないことを宣言し、次いでこれの普及に力を貸すことになる(教会の財産保持を認める)。彼は最後までキリスト教を国教としたわけではないが、これらの為政によって、後年キリスト教会・教徒からは特別な人物として崇められるようになる。
独裁的な権力獲得の後首都をローマからコンスタンティノープル(今のイスタンブール)に移し、ここに帝国を代表する教会を建立する。これらによってローマは衰退していく。
コンスタンティヌスは何を考えていたのだろう?絶対王政の確立、王権の世襲を考えるなら、その権利・権威・資格を“神から与えられた”とすることが説得力がある。それには“人を助ける”ローマの神々“より“人を導く”キリスト教が体制にとって相応しい。やがて中世へつながる権力者とキリスト教の関係がこうして始まった。と言うのが塩野ローマ史観と言えるようだ。
(写真は昨年ローマを訪れた際撮影したコンスタンティヌス凱旋門;オリジナルのハドリアヌス帝凱旋門を4代の皇帝の凱旋門として利用している;場所を変えて4代の戦勝の様子が浮き彫りされている)
3)オバマ大統領は黒人か 面白そうな新聞広告が出たので書店に行ったが見当たらなかった。仕方なくAmazonに発注したら発送は3週間くらい後だと言う。つまりよく売れていて2刷目が刷り上るまで待たされた。筆者は元産経記者、テヘランやロサンゼルスの支局長も務めており国際経験も豊かな人のようだ。退社後週刊新潮に書いているコラム「変見自在」をまとめたものが本書で、私は今まで知らなかったが既にこのコラムの単行本がかなり出ていることから多くの固定ファンがいるのだろう。帯に“「偽善と欺瞞」を一刀両断!”とあるが当にその通り、アメリカ、フランス、中国、韓国(朝鮮)、オーストラリアそして何と言っても“朝日新聞”を切って切って切りまくる痛快なコラムである。よく売れているのに合点がいった。
発行部数比較はともかく、全国紙で朝日が左の極ならば産経は右の代表格と言っていいだろう。毎日はもっと左かもしれないし、部数で勝負の芸能スポーツ新聞;読売ですらやや左の論調に見える。左寄りの方が売れるのだろう。自民党があまりに長く政権を握ってきたことの反作用なのだろうか?
日本人は「大新聞の言っていることは正しい」と考える傾向にあるようだが、日本のジャーナリズムが総じて政権・体制に極めて批判的なのは、外国人でも日本の事情に通じている人にはわかっている。嘗てバンクーバーから東京に飛ぶフライトの中で台湾系カナダ人に「日本の新聞みたいに政権の悪口ばかり言う新聞は、他の国にはありませんよ」と言われたことがある。確かにジャーナリズムには“社会の番犬”と言う役割はあるが、国民と政府を力づける役割も同じように重要なはずである。その点で“朝日新聞とは何様だ!?”と言う思いを抱いている人は多い。
政府に対する不信、周辺諸外国に対する卑屈な外交姿勢は長年にわたる左翼知識人・左翼ジャーナリズムによって洗脳された国民の己が姿と言っていい。その代表格、朝日離れが私の周辺でも起こっている。良いことである。
筆者・産経の主張に全面的に賛成するわけではないが、この様な主張が多くの人に受け入れられている(売れている)のは、我々もやっと大新聞の呪縛から逃れて考えるようになった証であろう。(週刊誌は買わないが)週刊誌ジャーナリズム頑張れ!
4)中流社会を捨てた国(原題;Unjust Rewards;不正な報酬) 久し振りに読み応えのある本に行き当たった。ここで取り上げられるのは英国。筆者の一人、ポーリー・トインビーは歴史家として有名なアーノルド・J・トインビーの姪、社会問題を専門領域とするジャーナリストである。
2007年滞英中に友人が日英社会・経済比較を特集した週間東洋経済を送ってくれた。英国はサッチャー政権から持続する好景気の中に在ったし、日本経済も小泉改革でやっと長期不況から脱しつつあるように見えた。特集では英国の問題点も多々あるものの、日本経済は失われた10年を取り戻すまでには至っていないことを物語っていた。その特集の中に囲み記事があり、そこで豊かになったように見える英国社会に実は格差が広がっている事を、身分を隠して下流社会に身を投じたポーリーが解説している件があった。指導を受けていたカービー教授にこの特集の話とポーリーの記事について掻い摘んで話すと、「私の政治信条は彼女に近い」との返事が返ってきた。中道左派というところであろうか?
原題には使われていないがタイトルと文中に頻繁に現れる中流階級、中産階級は本来“ミドルクラス”、英国では単に収入・財産だけではなく、無形の安定的(あるいは伝統的)な生活様式をも含む言葉である。このクラスの繁栄こそ英国社会の落着いた豊かさの根源と言う考えがこの語の中にある。そのミドルクラスが確実に崩壊している。どんなことが起きているか?その因はどこから来ているか?それを正すにはどうすれば良いか?これが本書の骨組みである。
まず取り上げられるのが、金融機関トップの法外な報酬である(これが原題の“Unjust Rewards”になっている)。しかも彼等があらゆる手段を使って脱税を行っている事を浮き彫りにしていく。これと併行して、サッチャー、ブレア(労働党であるにもかかわらず)が富裕税を大幅に下げたことによって、英国がヨーロッパの税金天国になり、英国籍でない者が社会保障面では税金の恩恵を蒙りながらほとんど税金を払っておらず、結果としてそれが中流階級に重くのしかかっていることを明らかにする。
金融サービスの盛況は効率の悪い(資金回収に時間のかかる)製造業を衰退させ、多くの中流階級を下層に追いやる結果をもたらしている。オックスブリッジへの登竜門、パブリックスクールへの進学者は金融成金や外国籍の金持ち階級に置き換わり、学問への志しさえ金儲け主義に堕して、ノブレス・オブリージュ(高い地位にあるものはそれだけの責任を果たす)の精神は失われ、真の社会指導者に相応しい人材が育たなくなってきている。
どう対応するか?まず子供がその階級に縛られる環境を平等なものにしよう!そのために社会保障制度を充実しよう!親の失業、シングルマザー問題、住環境はそれと無縁ではない!この面でも社会保障制度を見直そう!そのためには富裕税と相続税を累進的に上げ、脱税を徹底的に封じよう!慈善寄付は景気に左右される!しっかり税金で財源を確保するのだ!北欧社会が落着いている背景には高い税金がある!出ていきたい者は出て行け!家族ともどもロンドンの住み心地を享受できる場所は在りはしないのだから!これを最終章で18の提言としてまとめている。
原著は2008年金融危機前に初版が出たが、直ぐ金融危機を受けて増補版が出版されている(本書はこの増補版)。“それ見たことか!”と。
もう一人の筆者、デイヴィッド・ウォーカーは社会調査の専門家らしく、分析・主張の裏づけも確りしている。翻訳も良くこなれている。
対応策;大きな政府、特に増税策は議論を呼ぶところだろうが、全国会議員に配りたい本である。
2009年10月1日木曜日
決断科学ノート-18(科学者と政治-1;ブラケットの場合①)
科学者が国家戦略と絡む仕事をするようになると、高度に政治的な場に踏み込まざるを得なくなる。純然たる科学・数理・論理で決断することが出来なくなる背景は様々だが、ORの起源に関わった学者たちにもそれは例外ではなかった。これからしばらくこの問題を取り上げていく。
ORの父と称せられるブラケットは、戦後“ラディカルな左翼”とレッテルを貼られ、ノーベル物理学賞(1948)を受賞するほどの専門家だったにも拘らず、長期に国の原子力施策推進から締め出されている。また、アメリカは“共産主義者”として入国を禁止し、メキシコで開催された学会に参加した帰路、カナダ経由で英国に戻る彼の乗る飛行機がニューヨークで給油する際、搭乗機を離れた彼の身柄を拘束している。戦時中軍事戦略策定にあれほど貢献した彼が共産主義者だったのか?素朴な疑問がわいてくる。勿論ノーなのだが、そう誤解させる言動は確かに随所に見られる。
OR歴史研究のため滞英中師事したランカスター大カービー教授(経済史)は「あの時代(ロシア革命から世界大恐慌、そして第二次世界開戦に至るまで)にオックスブリッジで学んだ学生は、程度の差こそあれ社会主義こそ理想の政治理念と信じていたからね」とその時代の英国知識人について解説してくれた。
彼の出自にその芽はあるのだろうか?父方の祖父は牧師、父はロンドンの株式仲買人、母方の祖父は陸軍少佐でインドにも勤務。本人は9歳の時パブリックスクールへ進むための予備校に入学しているから階級は典型的なミドルクラスと言って良い。その後パブリックスクールへ進まず海軍兵学校(予科→本科)で学び、士官候補生として第一次世界大戦に参加している。この間家族や彼の周辺で政治思想に影響を与えるような異変は見当たらない。何度か願い出た航空兵科への転属が成らなかったのが挫折と言えば言えないことも無いがこれが政治的信条を変えたとも思えない。
19世紀末期“友愛”をモットーとし、穏やかな社会変革を目指して設立され、労働党の起源ともなるフェビアン協会のメンバーになるのは海軍退役後のケンブリッジ時代である。どうやら心境の変化は、海軍末期からケンブリッジ初期にあるらしい。1922年には労働党の候補者として立候補を乞われるがそれには応じていない。“政治そのもの”に強い関心があるわけではなかったようだ。
少し彼に関する文献・書物を追って、この時期の彼の心の内を推し量ると、いくつかの不安定要因が浮かび上がってくる。一つは軍艦内における厳しい階級差別に対する反発である。士官である彼が上級者と差別されることよりは士官と下士官・兵の間のそれである。二つ目はケンブリッジに残るヴィクトリア朝封建・権威主義でこの雰囲気になじめなかったようである。第三は師であるラザフォードの関心が研究仲間の一人、ロシア人のピーター・カピッツァに向き勝ちな点である。第三の問題は直接社会・政治思想とは無縁だが、第二の問題意識を助長したに違いない。
階級差別や権威主義への反発の基にあるものは弱き者、貧しき者への友愛である。そしてそれを解決するのが科学であると言う信念だ。彼ののちの政治的活動を見ているとこの軸はぶれることがない。
戦前・戦中時の実力政治家、為政者と激しく対立することになる“無差別爆撃反対論(当初は戦略爆撃無用論)”はその典型的な例と言える。第三の軍種として空軍が誕生する拠りどころは、爆撃機によって敵国の軍事中枢(政治、、軍事、経済・産業の)を長躯飛行して叩くことに依り勝利する考え方にあった。しかし、若い頃海軍の砲術士官を務め、科学者として空軍省航空研究委員会で爆撃照準器の開発に当たった経験から、精密爆撃はきわめて難しく、一般市民を巻き添えにする無謀で残虐な方法であると強く反対する。内務省で爆撃被害分析に当たっていたザッカーマンも各種データーからブラケットの考え方を支持する(ブラケットのこの考えの先には、実効の薄い無差別爆撃に大量の爆撃機を投ずるよりも、真に国家存亡の危機である対Uボート作戦に爆撃機を振り向けるべきと言う資源配分問題があった。この問題提起にはチャーチルも惹かれるところがあったようだが・・・)。
これに対して、英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)で都市爆撃を受けた英国の大衆・ジャーナリズムは「やられたらやり返す」考えに傾いていき、チャーチルもそれで軍・民の士気を高めようとする。結局ブラケットの考えは入れられず、ドイツ大都市;ハンブルク、ドレスデン(これは主に米軍だが)、ベルリンなどへの無差別爆撃が行われ、都市の壊滅的破壊と大量の民間人死傷者を出すことになる。
戦後この民間人大量殺戮は英国内でも問題として取り上げられるが、政治家は爆撃機軍団とその長に責任を押し付けて頬かむりを決め込む。
広島・長崎に対する原爆投下は当然ブラケットの考えと相容れない。英国の原爆開発(1940年からその計画があった)、米国による核物質国際管理案に彼は激しく抵抗する。これが“親ソ主義者”“ラディカルな左翼”はては“共産主義者”と呼ばれることになる真相である。戦後政権をとった労働党、アトリー内閣すら彼を国防・原子力政策から締め出し、復活を見るのは1960年代のウィルソン政権になってからである。
ORの父と称せられるブラケットは、戦後“ラディカルな左翼”とレッテルを貼られ、ノーベル物理学賞(1948)を受賞するほどの専門家だったにも拘らず、長期に国の原子力施策推進から締め出されている。また、アメリカは“共産主義者”として入国を禁止し、メキシコで開催された学会に参加した帰路、カナダ経由で英国に戻る彼の乗る飛行機がニューヨークで給油する際、搭乗機を離れた彼の身柄を拘束している。戦時中軍事戦略策定にあれほど貢献した彼が共産主義者だったのか?素朴な疑問がわいてくる。勿論ノーなのだが、そう誤解させる言動は確かに随所に見られる。
OR歴史研究のため滞英中師事したランカスター大カービー教授(経済史)は「あの時代(ロシア革命から世界大恐慌、そして第二次世界開戦に至るまで)にオックスブリッジで学んだ学生は、程度の差こそあれ社会主義こそ理想の政治理念と信じていたからね」とその時代の英国知識人について解説してくれた。
彼の出自にその芽はあるのだろうか?父方の祖父は牧師、父はロンドンの株式仲買人、母方の祖父は陸軍少佐でインドにも勤務。本人は9歳の時パブリックスクールへ進むための予備校に入学しているから階級は典型的なミドルクラスと言って良い。その後パブリックスクールへ進まず海軍兵学校(予科→本科)で学び、士官候補生として第一次世界大戦に参加している。この間家族や彼の周辺で政治思想に影響を与えるような異変は見当たらない。何度か願い出た航空兵科への転属が成らなかったのが挫折と言えば言えないことも無いがこれが政治的信条を変えたとも思えない。
19世紀末期“友愛”をモットーとし、穏やかな社会変革を目指して設立され、労働党の起源ともなるフェビアン協会のメンバーになるのは海軍退役後のケンブリッジ時代である。どうやら心境の変化は、海軍末期からケンブリッジ初期にあるらしい。1922年には労働党の候補者として立候補を乞われるがそれには応じていない。“政治そのもの”に強い関心があるわけではなかったようだ。
少し彼に関する文献・書物を追って、この時期の彼の心の内を推し量ると、いくつかの不安定要因が浮かび上がってくる。一つは軍艦内における厳しい階級差別に対する反発である。士官である彼が上級者と差別されることよりは士官と下士官・兵の間のそれである。二つ目はケンブリッジに残るヴィクトリア朝封建・権威主義でこの雰囲気になじめなかったようである。第三は師であるラザフォードの関心が研究仲間の一人、ロシア人のピーター・カピッツァに向き勝ちな点である。第三の問題は直接社会・政治思想とは無縁だが、第二の問題意識を助長したに違いない。
階級差別や権威主義への反発の基にあるものは弱き者、貧しき者への友愛である。そしてそれを解決するのが科学であると言う信念だ。彼ののちの政治的活動を見ているとこの軸はぶれることがない。
戦前・戦中時の実力政治家、為政者と激しく対立することになる“無差別爆撃反対論(当初は戦略爆撃無用論)”はその典型的な例と言える。第三の軍種として空軍が誕生する拠りどころは、爆撃機によって敵国の軍事中枢(政治、、軍事、経済・産業の)を長躯飛行して叩くことに依り勝利する考え方にあった。しかし、若い頃海軍の砲術士官を務め、科学者として空軍省航空研究委員会で爆撃照準器の開発に当たった経験から、精密爆撃はきわめて難しく、一般市民を巻き添えにする無謀で残虐な方法であると強く反対する。内務省で爆撃被害分析に当たっていたザッカーマンも各種データーからブラケットの考え方を支持する(ブラケットのこの考えの先には、実効の薄い無差別爆撃に大量の爆撃機を投ずるよりも、真に国家存亡の危機である対Uボート作戦に爆撃機を振り向けるべきと言う資源配分問題があった。この問題提起にはチャーチルも惹かれるところがあったようだが・・・)。
これに対して、英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)で都市爆撃を受けた英国の大衆・ジャーナリズムは「やられたらやり返す」考えに傾いていき、チャーチルもそれで軍・民の士気を高めようとする。結局ブラケットの考えは入れられず、ドイツ大都市;ハンブルク、ドレスデン(これは主に米軍だが)、ベルリンなどへの無差別爆撃が行われ、都市の壊滅的破壊と大量の民間人死傷者を出すことになる。
戦後この民間人大量殺戮は英国内でも問題として取り上げられるが、政治家は爆撃機軍団とその長に責任を押し付けて頬かむりを決め込む。
広島・長崎に対する原爆投下は当然ブラケットの考えと相容れない。英国の原爆開発(1940年からその計画があった)、米国による核物質国際管理案に彼は激しく抵抗する。これが“親ソ主義者”“ラディカルな左翼”はては“共産主義者”と呼ばれることになる真相である。戦後政権をとった労働党、アトリー内閣すら彼を国防・原子力政策から締め出し、復活を見るのは1960年代のウィルソン政権になってからである。
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