2010年8月31日火曜日

決断科学ノート-42(トップの意思決定と情報-2;情報リテラシー)

 本来、このブログはトップの決断と情報の関係について、体験や意見を紹介するものであるが、ここのところドライブ記や私的国際関係論などで主題を等閑にしてしまった。3ヶ月ぶりに再開したので、引き続きご笑覧いただきたい。

 ここで言う情報リテラシーは情報技術(IT)に関する知識ではなく、経営トップが何かを決する時の、情報に対する依存度とその内容に関することである。
 その対象を大別すると、①下(主に本社スタッフ部門)から上がってくる案件に対する決断と②自らが問題提起するケースがある。①の場合、口頭説明による内諾から公式の決断を求められ場合まで種々の意思決定がある。日常業務処理の多くはスピードを重視して口頭で行われるが、公式決裁は承認規定によって、それぞれの職位での承認対象・権限が決められている。経営トップが関わる案件は書類(稟議書など)を作り、取締役会や経営会議で最終承認をもらうことになる。そこでは手順や必要情報がかなり定型化されているので、“見かけ上”役員によってそれほど情報リテラシーの差が顕著にあらわれることは無い。それに対して②の場合は、問題提起の意図や背景あるいはその適否について、日ごろの情報収集・分析努力(スタッフに行わせることを含めて)とそれに基づく思考方法に依って個人差が大きく出てくる。一見唯々諾々と部下の説明に頷き、若干の質問や意見を述べるだけのように見えても、日ごろ自らの意思決定ロジックを鍛えている人は、何か予期せぬことが起こった時、条件変更や選択肢検討の指示内容、アクションのタイミングが適切である。
 時代をTIGER構築時(‘80年代前半)に戻すと、緩やかになったとはいえGDPは右肩上がりだったし、エネルギーや素材産業は国策による各種の規制もあり、突発的な異変(例えば大きな事故や国際紛争)を除けば、経営判断は概ね国の政策、同業他社動向、過去の事例や欧米の傾向に従って断を下せば、大きな誤りを犯すことは無かった(資金運用、新規事業などには他産業同様のリスクはあったが・・・)。こんな状態に長く置かれると、自らの視点で経営情報を集めこれを分析し、施策を打ち出すために情報を利用するというような環境がなかなか醸成され難い。
 若干の例外は、製造部門と経理・財務関係である。会社の性格上(販売を持たない)製造関係の情報システムは業界でもトップクラスにあったから、その面での情報活用(例えば工場・プラントの運転効率改善)は活発で、情報リテラシーは極めて高かった。また、経理・財務は金融環境が時々刻々変わるので、それに対応するため早くから社外情報収集に工夫を凝らしていた。しかし、当時の感触ではこれら部門担当トップの情報リテラシーが高いというよりも、スタッフの一部(部課長)に優れた人が居たと言うのが実態であった。
 この辺の事情は同じエネルギー産業でも販売を扱うところでは経営施策に情報活用度が高く、消費財メーカーやサービス産業では更にそれへ依存する度合いが大きいので、経営トップの情報リテラシーも当時から大型基幹産業よりも高かったと言える。
 それ等の業界で、経営情報システムが上手く行っている例を注意深く調べてみると二つのことに気がついた。一つは経営トップ自身が常に商品やマーケットなどの動きに対して、経験やそれに基づく感性を用いて仮説(予測モデル)を作り上げ、その仮説検証に情報を利用していること、二つ目はそこへの情報提供は何でも生のまま上げるのではなく、タイミング調整やフィルターの役目をスタッフやシステムに負わせていることであった。これは単なる経営者個人の資質と言うよりは、組織としての情報リテラシーとも言える。経営者向け情報システムの真の狙いは何か?そこに生の情報が本当に必要か?付加情報は不要か?提供のタイミングは?など情報技術(IT)検討以前にやらねばならぬ課題が山積みしていた。それを端折って構築したTIGERが使い物にならなかったのは、内部・外部情報とは別の失敗要因だった。
 2000年を前に何度目かの経営情報システムブームが起きた。“リアルタイムで現場の情報が取れます”“皆で情報を共有できます”“期間(月間、四半期など)収支が期末翌日には出ます”良いこと尽くめのうたい文句だが、いまだに20数年前が繰り返されている例は枚挙に暇が無い。情報技術は間違いなく革新されているが、トップ周辺の情報リテラシーがどこまで向上しているか、疑問の残るところである。
(次回予定;トップ・スタッフ間コミュニケーション)

2010年8月28日土曜日

奥の細道ドライブ紀行-11(蔵王)

 蔵王には過去二度出かけている。しかしそれは40数年前、いずれも春スキー行である。幸い二度とも天気に恵まれ、モンスターのような樹氷を堪能しながら滑った。もうあれだけの長いスロープを一気に滑り降りる自信は無い。だが車なら・・・。
 私のドライブの最大の楽しみは、山岳地帯のワインディング・ロード長距離走行にある。今度のドライブ行を計画する時、あの想い出の地を是非走ってみたいと思った。そのために、タイトターンで走行安定性の良い、車体中央にエンジンを収めた車(ミッドシップ)を選んだのだから。
 山形バイパスを過ぎると間もなく、蔵王エコーラインにつながる県道12号線(山形県・宮城県共通ナンバー)にとりついた。道は直ぐに上りになり、遥か西下方に上山(かみのやま)の町が見え隠れする。南西からの日差しが眩しいくらいだ。これなら例年連休にオープンする山道でも天候・道路に問題はないだろう。前後には全く車は見えない。反対車線にもほとんど行き交う車は無い。スキーゲレンデが多数ある蔵王温泉への分岐路付近では、きついブラインドターンの道が続くが、道幅があるので高速ターンでも不安は無い。車はハンドル操作通りの軌跡を辿ってくれる。チョッと気になり出したのは燃費である。この道の最高部は1800m。それへ向かっての上りは予想外にガソリンを食うようだ。先ほど満タンにしたので直ぐにどうと言うことはないのだが、自宅まで無給油で帰り着けるかどうか。白石ICで高速に乗ると、自宅近くまで一般道は走らない。この間の自動車道路には一軒もエッソ・モービル・ゼネラルのスタンドが無いのだ。しかし、上りがあれば下りもあるので、そこで取り返せると楽観的に考えることにする(実際その通りになった)。
 ワインディング・ロードのハンドル操作を楽しみながら約1時間、曇り空に変じた空の下に、やがてあのモンスターを作る針葉樹林帯が出現、苅田岳山頂近くに達した。ここら辺は山形・宮城の県境部、さすがに雪が残り、道路は乾いているがところによっては2メータ位の壁がある。駐車スペースには数台の車が停まっている。遅い春スキーを楽しんでいるらしい。下りも遠苅田(とおがった)までは小刻みにターンの続く道。苅田岳までは仙台からのドライブ圏のようで、車もやや多くなり前後に連なって走る場面も増えてくる。再び好天に戻った山くだりは、高い木が無いので遥か前方に広がる景観が素晴らしいのだが、片時も道路から目が離せないのは残念至極。しかし、期待通りの山岳ドライブを約2時間堪能した。
 国道4号線を経て、東北道白石ICに入ったのは3時少し前。一旦300km台に落ちていた次回給油距離は400km台に回復。あとは安全運転あるのみである。とは言っても高性能車での自動車専用道走行、追い越し車線が空いていると、ついスピードを上げたくなる。しかし、注意していると、宮城県、福島県はスピード監視カメラが多いようだ。旅を終えてもしばらくの間、どこかで引っかかっていないか気になる日々を過ごしたが、幸い何も送られてくることは無かった。
 国見SAで休憩したのち、自宅近くの湾岸出口、杉田到着は午後8時15分頃、山寺を出て約8時間、天童BP給油所からの距離は514km、翌日の給油量は42.7Lだから、燃費は12km/Lとなる。これはエコーラインの山岳走行を考慮すると、極めて優れた数値である。監視カメラをかわしながらの走りが、この好燃費を実現したのだろうか?
 全行程の総走行距離は1530km(総給油量;136.3L、平均燃費;11.23km/L)、三泊四日で奥の細道を駆け抜けた旅はこうして終わった。
(奥の細道ドライブ紀行
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2010年8月22日日曜日

奥の細道ドライブ紀行-10(山寺)

 今度の旅の観光の目玉は、角館の武家屋敷、それに芭蕉の“閑さや巌にしみ入る蝉の声”が詠まれた山寺(立石寺)である。この句を読んだのは陰暦では同じ5月だが、陽暦では7月。ちょっと季節は異なる。初めて山寺を見たのは40年以上前、蔵王にスキーに行った帰路。奥羽本線が不通になり、仙山線経由で上野へ戻る途中、山寺駅に停車した時だった。車窓から見上げる雪山の中に佇む僧房は、いかにも俗界と一線を隔す存在で、厳しく清々しい感じが印象に残った。いつの日か訪ねたいとの思いがやっと実現した。
 初めて明るい日の射す朝だった。今日は家へ帰るのであまり時間は気にする必要が無い。朝風呂に浸かり、銀山温泉を離れたのは9時15分頃。県道29号線経由でこの地方の動脈、国道13号線に東根(ひがしね)で達してしばらく南下する。天童で山寺街道(県道111号線)に分かれ東に向かうと、10時半には山寺駅近くの駐車場に到着していた。
 ガイドブックに依れば、1015段の階段を往復する所要時間は1時間半~2時間とある。昼食は降りてから摂ることにして、取り敢えずお茶のボトルを買って、鎌倉時代に建てられた山門をくぐり、階段に取り付いた。途中にあるお堂や洞で一休みしながらゆっくり登って行く。幸いここへ着いてからは薄曇となり、汗をかくほどではない。今日は土曜日、休日なので人出は結構ある。降りてくる人、追い越していく人、こちらも時々追い越すこともある。どうやら中国人の団体も混じっているようだ。彼の地の水墨画にも似た風景をどう感じているのだろうか。見所への分岐路もあるのだが、奥の院まで達する時間が読めないので、一先ずそこへ直行することが先決だ。スタートから40分位、いくつかの僧坊が並ぶチョッとした広場に出た。ここが奥の院の在る所、皆記念撮影やお参りに余念が無い。しかし、最も眺望が良いのはここではなく、少し下にある五大堂と呼ばれる清水寺のようは張り出し舞台を持ったお堂で、そこからは真下に山寺駅が見え、狭い谷間の向こうにも山々が見える。秋の紅葉はさぞ素晴らしいだろう。
 下りはかなりの部分別ルートになっているが、むしろ上りより歩き難い。用心しながら12時過ぎに何とか、取り付いた山門まで帰り着いた。
丁度お昼時、前夜旅館で夜食として用意してくれた、混ぜご飯のおにぎりとここの名物、力こんにゃく(丸いこんにゃくを三個串に差したもの;本来登るためのエネルギー補給用というのが主旨らしいのだが)で昼食とした。
 再び幹線路13号線に戻る道の両側は、観光用のさくらんぼう農園が広がっているが、少しシーズンには早かったようで、農家の人たちが手入れをしていた。
 13号線の天童バイパスモービルでこの旅二回目の給油、家からの距離は1016km、給油量は43.5L。酒田からここまでの距離は462kmだから、10.6km/Lは山間部ドライブとしては悪くない燃費だ。ここからいよいよ最後の山岳ドライブ、蔵王エコーラインに向かう。
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2010年8月15日日曜日

奥の細道ドライブ紀行-9(旅館藤屋)

 計画段階で銀山温泉泊を決めた時には、宿泊先の第一候補は「能登屋」だった。しかし、口コミ欄で調べると、団体が多く、それがカラオケなど歌い、客室まで漏れてくるという。宿泊の日は金曜日、この可能性は排除できない。そこで、温泉のHPでこじんまりした旅館を探すと、20人前後のところが数軒あるが、一軒を除いて“自炊可”とある。古い湯治場の長期逗留者用には今でもこんな所があるのだが、今回の旅行目的にはそぐわない。残ったのが「旅館藤屋」であった。
 藤屋を調べていくと、かなり興味深い所であることが判ってきた。一つは女将さんがカリフォルニア出身のアメリカ人であること、もう一つは2006年に建替えられたが、その建築家が隈研吾であることである。隈研吾は安藤忠雄と並ぶ現代日本を代表する建築家、大正時代の面影を残す温泉街の中で、どんな旅館になっているのか興味はいや増した。これを知って、値段はこの温泉で一番高かったが、他の選択肢は考えられなかった。
 出発前に床屋に出かけた。中学の同級生の店である。その時このドライブ行を話し、銀山温泉が話題になると、「外人の女将がTVに出ていた所だなー」と言う。知る人ぞ知る旅館なのだ。これで今回の旅で最も期待する宿泊先になった。
 大正時代とモダンのミックス。温泉の入口、橋の袂で携帯をかけた時、対応してくれたのは女性。どんなお迎えがやってくるのか楽しみだったが、現れたのは印半纏を羽織り、下駄を履いた番頭さん、典型的な日本旅館スタイルであった。駐車場から銀山川沿いを数分行くと、温泉街の半ばに橋がかかりその正面に他の伝統的な木造建築とは明らかに異なる、縦の細い格子で覆われた三層の和風建築が見えてきた。番頭さんが「あれが藤屋でございます」と言う。第一印象は「なるほどこうやって伝統的なものとの共存を図ったのか」 私にとって“違和感”はそれほど強くなかった。
 洋風のドアーを開けて中に入ると、一階は広いロビーだが、全体に光が抑えられ暗いトーンになっている。左にソファー、右にはデスクと小さなカウンターがあるが、人の気配は無く、フロントではないらいし。ロビーの先には明るい上がり框があって木の床張り。そこで履物を脱ぐようになっている。番頭さんが「お部屋に上がる前にお風呂をご案内します」と言って1階および地階にある四ヶ所(竹、石、ひばなどそれぞれ素材が違う;ここのほかに屋上に半野天風呂がある)の風呂を見せ、利用方法を説明してくれた。
 それが終わると、ロビーからは見えない事務所からスーツの女性が出てきて、エレベータで三階の部屋に案内してくれた。このエレベータは内装が濃いグリーンで、スポット照明しかないのでロビー同様暗い。部屋の作りは、玄関・洗面・トイレ区画、畳の部屋、広縁の三つのブロックで構成され、色は黄緑(畳の色に近い)で統一されている。和風ではあるが、壁構造で柱が見えない(押入れやコンセントも壁と一体で、一見区別がつき難い)。最上階なので天井は無く、建替え前の資材を再利用した梁がそのまま見える。外から見た格子が目隠しの役割を果たしている。どこまでが建築家の意志か定かではないが、全てに新和風の雰囲気で、好き嫌いがはっきりつくだろう(私は好きだが…)。
 さて、アメリカ人の女将である。チェックインの際、夕食を部屋にするかどうかを問われた時、“食堂”でも可ということだったのでそこにしてみた。二組しかテーブルの無い、渓流・道路がガラス越しに見渡せる、ロビーの一角がそれだった。ここで女将さんの挨拶があるかと期待したが、シャキッとした感じの、紺のチョッキとズボン姿の中年女性が給仕して終わった。翌朝チェックアウトする時も、この女性が対応してくれただけだった。「名物女将はどうしたのか?」 こんな疑念を残してこの旅の最終宿泊地を後にした。
 やがて、“女将さん疑念”は外から窺い知れぬ複雑な事情があることが分かってきた。女将さんは2007年頃子供を連れて帰米したと言うのである(離婚はしていないらしい)。その理由は、巷間の噂だが、2006年の建替えによる新和風建築が彼女の好みではなかったかららしい。温泉街でもこの建物が出来たとき、“周囲との調和を崩す”と随分非難されたこととも無縁ではなさそうだ。彼女は伝統的な日本を愛し、この地で頑張っていたのが、建替えによって全て壊れてしまった訳である。
 さらに驚くべきことは、この紀行を書くに当たり、ウェブで藤屋情報を整理していたところ、HPが閉じられ、この旅館が4月15日倒産していることが分かった。予約をしたのが3月下旬、宿泊したのが5月14日、宿で対応してくれたのは管財人の下で働いていた人々である。全く倒産の気配など感じさせなかったことが、せめてもの慰めである。新和風旅館の現在を米国人女将はどう思っているだろうか。
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2010年8月9日月曜日

奥の細道ドライブ紀行-8(銀山温泉)

 この旅行の準備を始める前には、銀山温泉のことは知らなかった。最後の日の観光スポットとして山寺を選んだことで、山形・宮城の温泉地を調べている時、鳴子と伴に候補として浮かび上がってきた。調べてみると古い銀鉱山跡があり、大正時代に建てられた多層木造建築の旅館街が残り、その風情が独特の雰囲気を作り出し、人気の温泉であることが分かってきた。さらに情報を集めていくと、あの「おしん」の中にも登場したと言う。これで決まりである。
 出立の朝、乳頭温泉は小雨だった。角館までは来た道を戻るのだが、途中で空が明るくなり、晴れ間こそないものの道も乾いてくる。この地方の幹線道路、国道13号線の大曲バイパスに出て南下する。横手盆地の中央部、十文字の道の駅で一休み。そこから無料の自動車専用道路、横手湯沢道路を走り、湯沢を経て雄勝(おがち)から再び一般道になる。幹線道路ゆえ、沿道の町々はほとんどバイパスが出来ており、ショッピングセンターやファミリーレストランなどが在って、車の旅の利便性はいいが、全国どこでも同じような情景なのが残念だ。
 雄勝で13号線と分かれ、本日のハイライトと期待する国道108号線(鬼首街道)に入り、鳴子温泉郷への山岳ドライブを楽しむ。途中に秋の宮という温泉場があるものの、町らしい町はないのでほとんど車は走っていない。しかし、道は舗装こそしてあるものの整備されていないので、曲がりは厳しい。秋田・山形の県境、鬼首峠までは上り、ここをトンネルで抜けるとあとは鳴子に向かって下りになる。12時過ぎ日本こけし館に到着。こけしに特別関心があったわけではないので、一通り見学して、近くにある遥かに鳴子市街を見下ろすレストランで蕎麦を食した。近くで採った山菜のてんぷらを、サービスでつけてくれたのが嬉しい。
 鳴子からは国道47号線を西に向かい、中山峠で再び山形県に入り、途中県道28号、29号に分け入って銀山温泉に、2時半頃到着した。
 温泉街は道路のどん詰まり、渓流(銀山川)の両側にあるのだが、道路は狭く、限られた業務用軽トラックが通行できるだけ。一般車は入口の橋(白銀橋)の手前までしか入れず、それぞれの旅館が用意する狭い駐車場に停めて、そこからは歩きになる。予約の時に指示されたとおり、橋の手前で電話をすると、印半纏の番頭さんがやってきて案内をしてくれた。白銀橋から川沿いの狭いコンクリート道路を進むと、両側に3層、4層の木造建てが見えてくる。その建物を河岸で写生や写真撮影をしている人達がいる。皆のお目当ては何と言っても「おしん」の舞台にもなった重要建造物指定の「能登屋」、橋からは最も奥にある。我々の宿泊先はここではなく、少し手前にある「旅館藤屋」、ここはここで銀山温泉を代表する旅館のひとつなのだが、それについては次回に譲る。
 チェックインすると直ぐ、明るいうちに銀山跡の見学に出かけた。温泉街の渓流は一番奥で滝になり、さらにその先を30分くらい登るとやっと延沢銀坑洞の入口に辿り着く。なにしろ500年前に栄えた鉱山なのでそれほど大規模な土木工事ができるわけはなく、ノミと金槌で開削した坑道は、狭く複雑に鉱脈に沿って穿たれている。出口までの時間は15分程度であったろうか、訪れる人も少ないので、チョッとした探検気分を味わった。帰りは途中から橋を渡って渓流の反対側に出て、滝が間近に見える山道をもどった。谷合の温泉街は薄暗くなり、寒さがチョッと堪えるほどになってきた。
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2010年8月5日木曜日

今月の本棚-23(2010年7月)

<今月読んだ本(7月)>1)日本人へ 国家と歴史篇(塩野七生);文芸春秋社(新書)
2)スプートニクの落とし子たち(今野浩);毎日新聞社
3)銃・病原菌・鉄(上・下)(ジャレッド・ダイアモンド);草思社
4)ドゴールのいるフランス(山口昌子);河出書房新社
5)指揮官の決断(早坂隆);文芸春秋社(新書)
6)ランチェスター思考Ⅱ(福田秀人);東洋経済新報社

<愚評昧説>
1)日本人へ 国家と歴史篇
 国内外の政治情勢を、ローマ史をなぞりながら語る、前月紹介した文藝春秋(月刊)連載エッセイの続編。時期が2006年10月号~本年4月号なので、小泉以降、そして民主党への政権交代になるので、亡国への憂慮は更に強まる。
 “安部首相擁護論”や“拝啓小沢一郎様”では指導者の交代の激しさや連立の脆さから、首尾一貫した改革の推進が行えないことを憂いているが、その後の政局をみるとほぼそれが当たっている。ローマ史でも指導者がくるくる変わるとき、衰亡が始まるのである。これは「優れた人材がいないのではなく、それを使いこなすメカニズムが機能しなくなっているのだ」という見方に基づく。うかつな増税発言→頻繁に行われる世論調査→参議院選挙における民主党大敗、をみると国民の側に問題無しとは言えない気がしてくる。
 後世世界は日本をどう見るか?「持てる力を活かせないうちに衰えたしまった民族」と評価するのではないかとする見立てが、当たらないことを願って止まない。

2)スプートニクの落とし子たち なんどか本欄に登場した著者による、自伝的エンジニア小説である。今までのものが一つを除いて(“すべて僕に任せてください”)、著者の専門領域(応用数理)の解説や動向を小説の形を借りて、興味を惹きつけ分かり易く語ってきたのに対し、本書はより“時代と人”に焦点を当てている。それだけに“小説としての面白味”ははるかに一般受けする。読み始めたら一日で一気に読んでしまった。
 1957年10月、初の人工衛星スプートニクが打ち上げられた。戦後復興から高度成長が始まる時期。“これからは理系の時代だ”との風潮が一気に高まる。そんな時代、1959年の大学進学者、本来は文系に進み、もっとましな人生を送れたかも知れぬ、エンジニアたちの悲哀と自負がテーマである。それもただのエンジニアではない。東大理一(主に工学・理学系へ進むコース)の中の超成績優秀者たちが辿った道である。
 主人公は無論著者自身だが、それ以上に重要な役を演じるのは、製鉄会社に入り、順調に活躍の場を与えられ、米国の経営大学院(MBA)へも派遣される友人である。彼の目指すものは経営トップ。しかしながら、歴史ある製鉄会社でエンジニア出身者が社長なったことはない。ガラス天井を知った彼は外資系銀行に転じ、一時は一生かかっても使いきれぬほどの資産を築く。それでも真のトップは米国に居る。満たされぬ思いが、その生き方を更に変えていく。
 著者と私は大学卒業年度で1年違い、当時の時代感覚は全く同じと言っていい。大学同級生に、文系を目指していたが、“あの人口衛星”で理科に転じた者が少なくとも二人居た。同級生で集まるとき「もう一度やり直すなら文系だな」と言う意見は意外に多い。躍進する韓国や台湾企業で日本人エンジニアOBが、現役時代満たされなかった思いを胸に、大勢活躍しているとも聞く。著者は(そして私も)エンジニアとしてやってきたことを悔いているわけではないが、この国は、理系人間に冷たいと訴えるこの小説は、そこにしか頼るものの無い、わが国の将来に対する警鐘とも言える。

3)銃・病原菌・鉄
 1998年度ピューリツァー賞受賞の少し古い本(日本語訳は2000年10月発刊)なのだが、朝日新聞で“2000年から10年間の50冊”に選ばれたので、売れている。「世界は何故今のようになったか(差がついたか)?」がテーマの人類史である。
 ナチスドイツのアーリア民族優性論はともかく、ここ数世紀は白人(特にキリスト教徒)が近代文明をリードしてきたことから、白人の優性論や進化論を基盤とする人類史がまかり通ってきた。本書は、著名な米国の歴史学者が「逆転の人類史」と呼んだように、この考え方に挑戦する、長期的な大陸形成の地理学的視点から捉えたユニークな人類発展史である。結論は、ユーラシア大陸は東西に長く、アフリカ、アメリカは南北に長い。オーストラリアは孤立している。ここからくる諸々の因子によって、現在に至る多様な発展をしたということである。そこには人種・民族に因る優性論は全く無い。
 筆者はUCLAの地理学教授だが、医学部に所属し博士号は生理学(分子生理学、進化生物学)、ニューギニアを中心に長年フィールドワークにも従事しているので、人類史と言う極めて幅の広い分野を研究するバックグランドを持っている。
 身近な食物の採集から始まり、やがて農耕・牧畜(その日暮らしで無くなる)、そこからの余力が専門職を生み道具の発達や統治組織を可能にする。統治の為には文字も必要になる。長い家畜との共存は病原菌に対する免疫度を上げていく。古アフリカ大陸に発した人類が、それぞれの大陸・島嶼に拡散し独自の発展過程を辿る13000年を自然環境、種子の伝播や動物の習性、技術移転、集団の行動特性などあらゆる角度から考察し、今日の世界が出来上がっていく様子を、自論に則って論じていく。この論が学問的にどの程度受け入れられているかは不明だが、学校で習った世界史や人文地理とははるかに違った視点で世界を見渡せるようになったのは確かである。

4)ドゴールのいるフランス
 フランスがドイツの電撃戦に敗れた後、ドゴールの亡命政府が無かったら、その政府を英米に認知させていなかったら、フランスははたして戦勝国の一員として安全保障理事会の常任理事国になっていただろうか?戦後の小党分裂の中で、ドゴールが1958年アルジェリア戦争解決のために再起しなければフランスはどうなっていただろうか?近代のフランスの危機に不可欠であったリーダー、ドゴールを日本人の目で見た評伝である。
 著者はフランス政府給付留学生で滞仏ののち産経新聞に入社、現在パリ支局長で既に彼の地に20年滞在した人である。長年の滞在経験と豊富な人脈から、フランスと言う国の特質、なかんずくその外交政策をクールに分析し、ドゴールの存在意義・言動の背景を明らかにしていく。
 「フランスが本当におのれ自身であるのは、それが第一級の地位を占めているときだけである」「フランスは偉大さなくしてフランスたりえない」という強烈な自負からくるリーダーシップは、ときにチャーチルやローズヴェルトから煙たがられ、戦後は米国人から「恩義を忘れた高慢な奴」と嫌悪感をもって語られ、ややもすると日本人もこの米国から見たドゴール感に影響されてきている、と著者は見ている。しかし、アルジェリア戦争の解決やキューバ危機に見せる彼の言動を、少し掘り下げてみると、決して頑迷な愛国主義者ではないことがよくわかる。
 昨今のわが国の混迷する政治を見るにつけ、有事の際にこんな人材を生み出し、国の威信を回復・維持できたフランスを羨ましいと思う。

5)指揮官の決断
 昭和の帝国陸海軍について、随分いろんな本を読んできたが、この人(樋口季一郎中将)の名前には記憶が無い。最終は第五方面軍(北海道、樺太、千島、アッツ・キスカ)司令官である。中央幼年学校・陸士では石原莞爾が同期、陸軍大学校では石原のほか2年遅れた阿南惟幾が同期である。兵科は歩兵だが、情報畑が専門で参謀本部第2(情報)部長の職位にもついている。
 この本でクローズアップされるのは、ハルビン特務機関長時代のユダヤ人救出とキスカ島からの撤退作戦である。前者は第二次世界大戦勃発前、ソ連経由で満洲との国境まで逃げてきたユダヤ人を、満州国外交部と協力、関東軍を説得して多数受け入れ、他国への逃避行に道をつけたことである。日本人によるユダヤ人救済では、リトアニア領事杉原千畝が有名だが、それに先立つ2年前に樋口による満州国への受け入れが実現していたのである。ロシア語専門で、シベリア出兵時代にはハバロフスク特務機関長も務めた彼を、戦後ソ連は執拗に拘束しようとするが、アメリカに本部を置くユダヤ人協会が強烈な反対運動をして難を免れる。
 キスカ島からの撤収は、負け戦の中の見事な作戦として映画にもなった。しかし、これにはアッツ島玉砕という悲劇とセットになる。樋口が北部軍(のちの第五方面軍)司令官として赴任して以来、両島守備強化の要請をたびたびしているのだが、他戦域との優先度から大本営の了解が得られないうちに、アッツ島玉砕となってしまう。それでも何とかキスカ撤収を実現しようと、一か八かの作戦を行う。種々の幸運もあって成功するが、そこには無駄死には何としても避けたいという、この人の信念が大いに与かったとも言える。
 政略好きやギラギラした勇ましい軍人、華々しい(あるいは悲惨な)作戦ばかりではなく、ひたすら本務を尽くした軍人を取り上げることも、あの戦争を振り返るには必要なことである。

6)ランチェスター思考Ⅱ  前著、ランチェスター思考Ⅰが、ランチェスターの法則を基にわが国で開発された、ランチェスター戦略(セールス・マーケティング戦略)の入門・解説書であったのに対し、本編はアメリカ陸軍の指揮官マニュアル(FM-6.0 )をベースにした、経営戦略・戦術の教導書である。おそらくわが国では初の試みであろう。筆者が軍事(自衛隊)に深い関心を持ち、しばしばその教育に招かれるほどであることと無縁ではない。
 わが国の意思決定は政治であれ、軍事であれ、経営であれ、果敢な決断よりは合意形成に力点を置く傾向が強い。最近のように経営環境がめまぐるしく変わる時代、これではタイムリーな手が打てない。また合意形成は必ずしも論理的ではない。そこで喧伝されているのがロジカル・シンキングである。MBAはいわばそのホームグランドと言ってもいい。しかし、このロジカル・シンキングは実務推進に際して、“机上の空論”化しやすいところがある。
 米陸軍の指揮官マニュアルを援用しながら、著者が訴えようとしていることは、過度なロジカル・シンキングをあらため、経験とそれによって培われる感性で、直感的・即応的な経営判断を行おう、と言うことである。
 前作同様経営学泰斗の一言や、経営上の経験談(特に失敗談)、軍事作戦上の事例などを随所に挟み、飽きることなく最後まで読ませる。また、日ごろ忙しい経営者・管理者に読みやすい形式で記述されていることも、即戦的な経営指南書と言える。

2010年8月1日日曜日

奥の細道ドライブ紀行-7(乳頭温泉)

 角館から乳頭温泉までは約40km、1時間半の走りだ。途中田沢湖に立寄っても5時過ぎには着ける。駐車場から町の北側を走る角館バイパスへ出て、しばらく東進すると町外れで角館街道(国道46号線)に合流する。低い山々の間を蛇行する道は交通量も少なく、雨も上がって、どこにでも在る日本的風景の中を、快調に駆け抜けていく。田沢湖駅近くで北へ向かう341号線に入る。観光地に向かうと言うのに、ときどき行き交うクルマは生活のための軽自動車くらいである。田沢湖への分岐路ではそれも無く。湖畔の駐車場には、旅館の送迎用のマイクロバスと数台のワゴン車が駐車しているものの、4時前と言うのに、人影も無く、迎えてくれたのは遅咲きの桜だけだった。セーターのうえにジャンパーを羽織り、湖面近くまで歩いてみたが、寒さと寂しい雰囲気に長居は無用。日本一の透明度を誇るこの湖も、いまはシーズン・オフなのだ。
 湖畔から341号線に戻り、そこから北東へ向かう県道127号線、194号線に分け入って、秋田・岩手県境に近い乳頭温泉に向かう。道は緩やかな上りで、ほとんど人家もクルマもみかけない。途中桜が満開の並木道が現れるが、そんなところにも人の気配は無い。道幅が狭まり、曲がりと上りがきつくなって、残雪が目立つようになる。おまけにガスさえ出て、フォグランプを点灯しながらの走行だ。温泉地帯に入っても、いわゆる温泉街は無く、点在する宿泊施設が見えたり、そこへの分岐路が現れる程度である。一度だけ道路際にある比較的大きなホテル前で、停車中の小型路線バスを追い抜いた。今日の最終地、妙乃湯はそんな山奥の道の端に在った。数台しか停められない旅館前の駐車場は幸い空いていた。到着時間は5時少し前。辺りは天候のせいもありほの暗い。
 この旅館の選択に特別の理由があったわけではない。インターネットで照会・予約でき、こちらの希望スケジュールに合うところを探した結果である。値段と景観(渓流側)で部屋を選んだ。地形に合わせて出来た、複雑な造りの建物のかなり奥部の部屋は、希望通り真下を雪解け水が音を立てて流れる位置に在った。部屋にはテレビもラジオも無かった(予め希望すれば無料で用意してくれることを、後で知った)。案内してくれた人は「ここには七の浴室があるので、是非全部お試しください」と言い、混浴や男女切替時間について注意をしてくれた。
 乳頭温泉の由来は、乳濁色の色にあった。しかし最近はこの源泉が枯れたようで、その色を楽しむことは出来ない。一部の温泉宿で人工的に着色したのが内部告発され、数ヶ月前TVで話題になったほどである。翌朝の入湯を含めて七つの浴場を全て巡ってみたが、いずれも無色から薄茶、“湯種よりは浴場”を楽しむ趣向のようだ。それでも林間の残雪と渓流を見渡せる野天風呂は、“冷と温”のコントラストが全身で感じられる素晴らしいものだった。
 夕食は和洋折衷の食堂で摂ることになっている。柱や床、それに食卓や椅子の茶色の木地と白い漆喰壁のシンプルな彩が、文明開化期の洋館のような雰囲気を醸し出している。食事は名物のきりたんぽ鍋が一応のメインだが、前菜、刺身から始まり、焼き物、煮物など盛り沢山、最後のご飯(無論秋田小町)はきのこ汁と漬物でいただく。このきのこ汁は絶品で、おかわりをしてしまった。
 給仕をしていた、女将さんと思しき中年女性が一時席を外した。食堂に隣接して帳場がある。席からは見えないが、明らかに英語で予約に関する電話対応をしている。外国人がここの雰囲気に浸った時、その感動はいかばかりかと想像し、鄙びた温泉場の国際化が嬉しかった。
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