2010年9月26日日曜日

遠い国・近い人-11(踊るプロフェッサー-2;ギリシャ)

 ESCAPEはその頭文字“E”が示すように、ヨーロッパで開催される国際会議だが、参加者・発表者は世界規模で北米やアジア諸国から多数の出席者がある。ロードス島の空港に着きタクシー乗り場に向かっていると、3年前コロラドのクレステッド・ヴューで開催されたFOCAPOで知り合った、韓国先端科学技術大学院大学(KAIST)の朴善遠教授に出会い同道することになった。「今年は韓国から多数参加する」という。
 アテネからの便は多く、我々は少し早い便だったのでホテルに着いたのは昼前、部屋の準備が出来ていなとのこと。仕方なく二人でロビーのコーヒーハウスで軽く一杯やりながら、準備が整うのを待つことにした。この3年間の、互いの仕事を取り巻く環境変化や共通の知人の話などをしているなかで「日本人が少しハードワークのペースを緩めてくれれば、世界中がハッピーになるんだがな」と彼がつぶやいたことが記憶に残っている。いまや攻守は逆転し韓国企業の躍進が著しい。振り返ってみると、その転換点はどうもあの時期にあるように思えてならない。
 ロードス島は2時と8時を長径とする楕円形の島。空港は短径の11時、中心街は2時の位置にある。学会の会場であり宿泊場所でもあるImperial Palace Hotelは、空港と市街地との中間点に在るリゾートホテル。部屋はかなり上階の海側、下に広がるビーチの先は青いエーゲ海、その遥か彼方にトルコの陸影が遠望できる。午後になるとESCAPEの参加者が続々と女性・子供を交えて到着する。ヨーロッパのヴァケーションにはチョッと早いが、大学は実質的に年度末を迎え自由な時間がとれる時期、家族を連れて一足早目の休みをエンジョイしようという魂胆なのだ。3時頃オープンした受付で登録をするとプログラムや参加者リストが渡される。それを見ると300名を超す参加者があることがわかる。さすがに英、仏、独それにホスト国ギリシャが多いが、ヨーロッパのほとんどの国を網羅している。ヨーロッパ以外ではアメリカが最も多く約30名、それに次ぐのが韓国の12名である。日本人の名前は東工大の仲勇治先生と三菱化学の名取さん、それに私の僅か3名であった。その他旧知のPSE人をリストの中に多数発見しその中にはジョージの名前もあった。何と、国際プログラム委員会委員長である。しかし、8時からプールサイドで開かれたウェルカムパ-ティーでこれらの人々に会うことは無かった(日本人二人は遅い到着だった)。
 ESCAPEのプログラム構成は45分の招待講演が二つ、これは大広間で全体会議になる。その後は並列セッションでテーマ別の会場に別れて1時過ぎまで。昼食後5時まではシエスタ(昼寝時間だが観光に出かける人が多い)で、5時から8時まで並列セッションが続く。この他にポスターセッション(ポスター形式の発表を時間割無しで、関心のある人が集まると始める)もあり全体の発表数は200件程度になる。発表・ディスカッションは全て英語。資料は概ねその場で配られる。
 招待講演は三日間で6件、5件が企業から、その内2件(三菱化学の名取さんの講演は当時水島工場で進められていた「21世紀のプラント」;初日のトップ。私は二日目の二番手)が日本で、当時のわが国製造業に対する世界の関心が高かったことをうかがわせる。しかし、並列セッションの大半は大学からの発表で、日本の学会同様細部(実験・数理・シミュレーション)の話が多く、PSEが袋小路(理論と現場の乖離)に入り込んでいると強く感じさせられたものである。
 二日目の自分の講演は、時間ギリギリで終え質問は一件、今ひとつ納得のいくものではなかったが橋本先生に託された大任を果たすことができホッとした。その夜のフォーマル・ディナーをこんな気分で迎えることになる。
(つづく)
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2010年9月23日木曜日

決断科学ノート-45(トップの意思決定と情報-5;経営者と実データ・情報)

 経営情報システムの謳い文句の一つに“ビジネス最前線のデータや情報(工場の操業状況や販売実績など)を経営者や経営幹部がリアルタイムで把握できる”というのがある。TIGERを構築している時期にはまだ技術的にも経済的にもそのような環境ではなかったが、「やがてはそんなシステムに発展させたい」という夢はあった。しかし、一方で工場に長く勤務した経験から、「そうなると工場独自の管理はやりにくくなるな」と、こんなシステムに対する疑問も起こった。
 工場でエマージェンシー(大規模なプラント運転異常や緊急停止)などが起こった時、一応フォーマルな情報伝達ラインは決められているのだが、部門間・個人ベースのインフォーマルラインも動き出し、多忙な時に電話対応に時間を取られたり、タイミングや信頼性に問題があるデータや情報が独り歩きすることが無いわけではなかった。こんなときプラント運転の状況をリアルタイムで本社スタッフが見られたら、当面の現場対応は工場に任せ、現在の運転状況やトラブル発生時のデータを基に技術的分析や商売上の対応策を、工場を煩わせることなく進めることが出来る。だが、場合によって、データが直ちに見えるだけに、運転方法に口を出したくなる恐れもあるのだ。もしそれが役員レベルだったら・・・。
 この杞憂(?)は1990年代ITの進歩に依り現実のこととなった。SPIN(東燃システムプラザ)時代、特殊なデータ圧縮技術でプラント運転データを正確に記憶・解析できるソフトを某大手石油会社に納入した。本社の製造課長には「あのシステムで工場がよく見えるようになった」と感謝される反面、工場担当者からは「皆見えてしまうんで、チョッとね・・・」との愚痴も聞かれた(とは言ってもここ10年の大掛かりなM&Aで数を増した全製油所にこのソフトが採用され、経営に役立てていただいている)。
 それでもプラント運転データのような物理的データを自動処理するようなシステムは、経営を根本から誤らせたり、混乱させるようなことはまず無い(皆無ではないが)。問題は人手を介するデータ・情報である。例えば販売データの場合、先ず本当に受注できたのかどうかが曖昧なことがある。次にそれは正しいとしても、価格付けやどんな販売手段(店頭での並べ方など)を取ったかが影響してくる。嘗て学会である乳酸飲料会社のシステムの話を聞いた時、発表者も苦笑しながら話していたが、季節変動要因は考慮してあったが、所有するプロ野球球団の優勝まではパラメーターとして織り込んでおらず、そのまま取り込まれたデータがその後の需要予測に影響してしまったことがあると話していた。
 同じような時期、経営トップに資する情報システム、SIS(Strategic use of Information Systems;戦略的情報システム)の話題が巷間を賑わすようになってくる。そんな中で牛丼チェーンを展開していた大手が経営に行き詰る。再建に当たったスーパーの関連情報システム会社役員は「倒産の一因は、社長のところに各フランチャイズ店の情報が逐一上がり、これに社長が一喜一憂、次から次と指示を出し、現場が大混乱したことにある」と語っていた。最前線から上がってくる情報に、その場しのぎの兵力逐次投入でガダルカナル転進を余儀なくされた大本営の姿がそこに重なる。
 一方、セブンイレブンのPOS(Point of Sales;販売管理)システム成功談が雑誌や経営書で紹介されていた。印象的だったのはヨーカ堂グループ総帥の鈴木敏文氏の「もちろん小売業にとって売上データ収集のスピードと精度は重要だが、それにも増して大切なことは、経営者や管理者が市場の動きに対する商売上の仮説や文脈を作り上げ、それを日々検証するために情報システムを使うことだ」と述べていたことである。日常の業務管理システムから提供される実データ・情報を経営の視点で使いこなす。経営者・管理者向け情報システムの在り方について、これほど的を射た見解を未だ目にしていない。ここには第二次世界大戦における英国の危機を救ったOR適用の考え方と共通するものがある。消費低迷で次々とスーパー経営が不振に陥る中、ヨーカ堂グループが健闘している理由はこんな経営者と情報のかかわりにあると考えるのは穿ち過ぎだろうか?
(次回;経営者と情報システム部門)

2010年9月20日月曜日

遠い国・近い人-10(踊るプロフェッサー-1;ギリシャ)

 ジョージ・ステファノポウラス、わが国のPSE(Process Systems Engineering;化学工業へのIT利用)関係者にはよく知られた人である。MITの化学工学科でシステム工学を担当する教授で何度も来日しているし、一時は三菱化学のCTO(Chief Technology Officer)を務めるほど日本との縁が深い。
 彼との最初の出会いは1982年夏、京都国際会議場で開かれたこの分野の国際会議、PSE’82でたまたま席が隣だったことで始まる。その時彼はまだMITではなく、アテネに在る国立工科大学に所属していた。これは後で知ることになるのだが、ギリシャの大学を出た後ミネソタ大学に留学、ここで博士号を取得して一旦帰国上記の工科大学に就職、その後MITに移ったようである。休憩時間の会話で、当時東燃の同僚KRHさんが開発したFCC運転最適化システムを話題にしたところ、滔々と自説を開陳され、辟易とさせられた記憶がある。のちにExxonのエンジニアでギリシャ人と話したときも、相手に完全に会話のペースを握られ、ソクラテス、プラトン等を生んだ、雄弁で鳴る古典哲学発祥の地をあらためて印象付けられ、「そう言えばあの時も…」とジョージのことが思い起こされたものである。
 次に会ったのは1991年秋、化学工学会経営システム研究会の渡米メンバーの一員としてMITを訪れた時である。わが国はバブルの絶頂期、アメリカ化学工学会(AIChE)の年会で先方のマネジメント部会とジョイント・セッションを持つことになり、その前にいくつかの大学や研究機関を廻る中での訪問であった。ジョージの名刺には、Professorの一段上に“Leaders of Manufacturing”とあり、学内で指導的な役職を担っていることをうかがわせた。この時の団長は当時筑波大学経営大学院教授であった梅田さん、若き日やはりミネソタ大に学んだこともあるので、ジョージの受け入れ準備は万全。日本の製造業に太刀打ちできるよう立ち上げたMOT(技術経営)コースや化学工学界の重鎮たちとの交流、教授食堂での昼食会など丁重で実りある歓待を受けた。
 そして三度目が1996年5月ロードス島で開催された第6回ESCAPE(European Symposium on Computer Aided Process Engineering)である。これはヨーロッパで行われるPSEの国際会議で4年毎の開催、同じように4年毎に世界持ち回りで開かれるPSE‘X年、アメリカでPSE分野のテーマを変えて(設計、運転、エンジニアリングなど)2年毎に夏コロラドで行われるFOCAPO(Foundation of Computer Aided Process Operation)と合わせて、PSEの三大国際会議を構成している。
 その年の初め、わが国におけるこれら活動の事務局機能を行う、学術振興会143(PSE)委員会の委員長を務めていた京大の橋本伊織先生から連絡があり、ESCAPEで発表をしてほしいとの依頼があった。テーマはその少し前同委員会で紹介した、化学工学会経営システム委員会が行った「わが国プロセスCIM(Computer Integrated Manufacturing)実態調査」についてである。自分が中心になって進めた調査研究だし、既に何度か内外でプレゼンテーションも行っていたので喜んでお受けすることにした。橋本先生が共同発表者として名を連ねていただけたのも心強かった(最終的には参加できなかったが)。
 ESCAPEの事務局とのやり取りも全て橋本先生にやっていただいたので、誰が務めているのかも知らなかった。出かける直前得た事務局情報も名前は知らない人だったが、コンタクト先はあのジョージが一時所属していた国立工科大学だった。
 ロードス島に移る前に事務局や橋本先生とのやり取りもあり、二日間アテネに滞在した。この間、半日のアテネ観光に参加したところ日本人家族3人(夫婦とその母親)と一緒になった。男性は似たような年頃、どこかで会ったような気がしたので「エスケープ(こちらはESCAPEのつもり)ですか?」と聞いたところ「そんなもんです」との答えが返ってきた。実はやがて判るのだが、この人は当時世間を騒がせていたエイズ問題に関わっていた東大医学部のGNJ教授だった(血液製剤認可は厚生省の課長時代。この時の訪希は公衆衛生関係の学会参加)。顔に見覚えがあったのは、しばしばTVに登場していたからなのだ。とんだ“エスケープ”違いだったのである。
(つづく)
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2010年9月18日土曜日

決断科学ノート-44(トップの意思決定と情報-4;経営者と情報技術)

 入社したころ(1960年代初期)の話しだが、その時代コンピュータ利用は本業(例えば、製造計画や経理)である程度経験を積んで、最先端技術へ転換した人たちの世界だった。そのようにユーザー・バックグランドのある専門家だから、トップと共通領域での会話は和気藹々の雰囲気だったし、実務領域の話は最後まで聞いてくれた。しかし、それがコンピュータ技術(今なら情報技術;IT)そのものに及ぶと、「わしゃ、コンピュータは嫌いじゃ!」と突然会話の流れを断たれることがあったと言う。察するに、コンピュータの利用そのものが厭なのではなく、全く意味が理解出来ない専門用語や略号の羅列が、アレルギー反応を起こしてしまったのではないかと思う。
 1970年代になるとさすがに“好き・嫌い”で断が決することは無かったものの、依然としてトップや幹部のかなりは、“時代の趨勢として、これを用いて業務の改善や革新を図らなければならない、しかしどうも今ひとつ積極的になれない”という状態になってくる。この一因は、コンピュータ技術そのものが急速に深さと広さを増していくため、情報システム部門に特化した専門職(数理や電子など)を必要とするようになり、ユーザー智見を欠いたメンバーが増えてきたことがある。丁寧に話を聞くなり、解からないことは解からないとはっきり言ってくれればいいのだが、“えらい人”はなかなかプライドがそうすることを許さない。工場のSE管理職として一番力を割いたのはこの部分の“通訳”だったと言っていい。
 TIGERの時代(1980年代初期)に入ると、経営者・幹部のコンピュータ利用への関心は技術重点から利用効果・経済効果などに移り、一見技術アレルギー状態をクリアーしたように見えるのだが、次の問題が出現する。今度は道具の“操作”である。今のようなPCがあるわけではないし、通信環境もまるで交換手が介在する電話のように制約だらけである。無論日本語など使えない。プログラムは汎用機の中で動くのだから、気軽にアプリケーションを開発したり、修正したりすることも出来ない。ユーザーが利用できるCRT端末もごく限られたその部門の専門家に割り当てられているだけである。部長も課長も使っていない。それをいきなり役員に操作してもらおうと言うのである。
 スタッフ部門から聴き取り調査で得た情報を基に担当部門別に数十枚、全体では百枚を超える画面を作り、それに番号を付けて、ファンクションキーと数字キー、矢印キーだけでアクセス出来るようにした。端末の立ち上げは毎朝秘書室員が行い、各役員の手元に画面内容・番号とキーの対応表を置いて、それを参照しながら操作してもらう方式とした。取り扱いの説明は情報システムの担当者、各部門の担当者、秘書室員が各役員室に赴いて行った。キータッチ三回程度で所望の画面に到達できるので、この操作方法には抵抗が無かったようである。
 1982年春、社長以下役員も出席して、簡単な始動式をコンピュータ室で行いサービスを開始した。TIGERには各役員が各画面にアクセスするのをモニターするシステムが組み込まれており、一部の情報システム室員(部課長と開発担当者)はそれを閲覧することができた。当初は物珍しさもあってか、あれこれアクセスしていた。社長は数字には強い人、役員の過半は技術系、最年少の経理・財務担当役員は若き日米国の大学でコンピュータを学んでいる。不満を含めてどんどん注文がつくことを期待したがそんなことも無く、二ヶ月もするとほとんど使われなくなってしまう。
 専門用語、システムの仕組みと技術、導入効果そして自ら行う操作、時代々々のコンピュータ障壁を乗り越えてきたが、役員の日常業務処理にそぐわず(データ更新は早いもので一日ベース)、従来とあまりに違う情報授受方式(情報の解説・検討がない)が受け入れられるはずはなかったのである。つまり情報技術に難解なところが多々在るのは確かだが、これが経営者向け情報システム失敗の主因ではなく、提供する情報・データの内容(コンテンツ)と本人たちの意識改革(一人で熟慮し、経営センスを磨き、情報に問いかける)こそが真の問題点であったのだ。
(次回:(TIGERを離れて)経営者と実データ・情報)

2010年9月11日土曜日

決断科学ノート-43(トップの意思決定と情報-3;トップ・スタッフ間コミュニケーション)

 トップの情報リテラシー以外にも、経営者向け情報システム(TIGER)構築には種々問題はあったが、とにかく何か作らねばならない。どんな情報が日常的にスタッフからトップにあげられているか、あるいはトップから求められているか、トップとスタッフはそのためにどんなコミュニケーションを行っているか、を調査することから始めた。各部門スタッフ(主として部・課長クラス)への聴き取り調査である。これを通して更なる問題点が露わになってくる。
1)本社コンピュータに内在し、定期的にスタッフ部門を通じてトップに提供されるデータは、全体経営情報の中で僅かな割合である;
 現在のインターネット環境のようなものが存在せず、為替レート、原油価格、タンカーレートなど重要外部データが簡単にコンピュータ内に取り込めなかった。このような情報の収集・分析はスタッフの重要な業務であった。
2)経営に資する情報(特に外部情報)は簡単に数値化できないものが多い。数値化出来ていてもそれだけで決断できない;
 例えば国のエネルギー政策に関する情報などは、専任の担当者が居て、長い付き合いから微妙な情報をひき出し、トップに報告していた。また、生産計画用LPモデルで最適解が求まったからと言って、それで一義的に決まるものではない。
3)外部データを含めて、提供されるデータはスタッフの解説があって初めて経営情報に変じる;
 この仕事はスタッフの存在意義そのものであり、この分析・解説なくしてはデータもただの数字に過ぎない。ユーザー経験の少ない情報システム関係者はなかなかこの領域に踏み込めなかった。
4)担当役員はその部門出身者が務めることが多く、縦のコミュニケーションは深耕されている;
 部長席の横には役員用の椅子が置かれ、会議机もあったので担当役員がよくそこで部課長と話し込んでいる姿があった(呼びつけるだけで、全く自室から出なかった人も居たが)。そこでの情報はトップにとってスタッフの意見を理解し断を下すのに役立つものだった。
5)各部門スタッフと担当役員は頻繁に情報や意見の交換を行うが、その内容は担当部門内で閉じ、役員間で共有することはほとんどない;
 これは役員同士仲が悪かったのではなく、長く続いた経営方式がそうさせたと見ている。当時の東燃には役員が一堂に会して行う経営会議は無かった。定例取締役会は在ったが、エッソ、モービルの非常勤役員と常勤役員の儀礼的・形式的会合の場であると聞かされていた。重要案件の決裁は、事前に部長レベルで調整し稟議書の決裁・合議の承認を主管役員までもらい、副社長、社長個別に説明し最終決裁に至る方式であった。本社常勤役員は、監査役を除くと、人事・総務、企画、経理・財務、製造・製品開発、技術・環境安全・購買の5名に、副社長(秘書室、情報システム室)、社長、会長の計8名。各役員は個室を持ちそこへ出向いて説明するが、既に担当部門から聞かされているか、スタッフが同席するのでそれほど面倒なことにならなかった(担当案件で、どうしても承認印をもらえぬことを一度だけ体験しが、それについては別途本ノートで取り上げる予定である)。
 この聴き取り調査によって、トップ・スタッフ間の経営情報のやりとりが大分見えてきた。また、いろいろな面で情報システム関係者にとって勉強になった。しかし、当時の経営方式とIT環境では、真に役立つものが出来ると到底思えなかった。それでも情報システム室開闢以来の“経営トップから声をかけられたプロジェクト”を止めるわけにはいかなかった。経営者自身の声を聞くことも無く「外部情報は手入力でもいい。部門ごとの紙芝居でもいい」と突っ走っていく。
(次回予定;経営者とIT)

2010年9月3日金曜日

今月の本棚-24(2010年8月)

<今月読んだ本(8月)>1)ベルリン陥落1945(アントニー・ヴィーバー);白水社
2)シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々(ジェレミー・マーサー);河出書房新社
3)周恩来秘録<上、下>(高 文謙);文藝春秋社(文庫)

<愚評昧説>
1)ベルリン陥落1945

  8月になるとやはり戦争物が読みたくなる。しかし、戦後65年、ほとんどあの戦争に関しては書き尽くされた感がある。そんな時見つけたのが本書である。最も惹かれたのは、冷戦終結後ロシアで公開された資料がふんだんに引用されていることであった。
 仕事でしばしばロシア通いが続いていた時期、モスクワの戦勝記念堂を訪れたことがある。そこには独ソ戦の主要な戦闘をリアルに再現した戦場ごと(レニングラード攻城戦、モスクワ攻防戦、スターリングラードの勝利、クルスク戦車戦など)の広いジオラマ展示室が設けてあり、“ベルリン陥落”室がそのトリを受け持っている。そして、ここでのロシア人たちの表情・動作には、明らかに他室とは違うものがあった。
 ソ連軍実戦指揮官・一般兵士から観たベルリン攻略は単なる戦争の終結ではなく、それまでに蒙ったドイツ軍・ナチスによる数々の暴虐への復讐の総仕上げでもあった。否、ドイツ領土へ攻め込んでからはむしろそれが主目的ともいえる様相を呈する。一般市民の殺戮、掠奪、凌辱(旧ドイツ領全体でレイプされた女性は“少なくとも”200万人、ベルリンだけでも13万人)による被害の凄まじさは、もはや“戦闘”ではない。これがかえって敵の反ソ感情・行動を高めると、禁じようとする将軍や政治将校もいるのだが、半狂気で戦う兵士たちの耳には聞こえない。空爆による被害しか体験していないわが国民間人には、想像を絶する凄惨な世界がそこには在る。
 将軍たちそして役人たち(秘密警察)の功名争いも激しいものがある。陰険なスターリンは作戦や人事に介入しては彼等を競わせる。それも最後の栄光は自分に向かうように。この戦いの最大の功労者、ジューコフ元帥の失脚は、彼の名声に嫉妬したスターリンと功名争いに破れたベリヤ一派(秘密警察)の画策によるものだったのだ。
 さらに高いレベルでは、ベルリン陥落の重要性(東欧諸国の戦後処理)を読んでいたチャーチルとスターリンの駆け引き・騙し合い、外交に未熟なアメリカ人(ルーズヴェルト、アイゼンハワー)の能天気さも、この戦いをより陰惨なものにしたことを明らかにしている。
 それに輪をかけたのが、ヒトラーの狂気とドイツ指導部のこの期に及んでの主導権争いである。不退転の決意のヒトラーはベルリン市民に疎開を禁じるが、高官たちは何か理由を作っては本人や家族の移動を画策する。ゲーリング、ヒムラー、ボルマンらはヒトラー亡き後自分が終戦処理に当たれるよう後継者指名を競い合う。
 残存正規軍(主に西方;英米軍と対峙する側に残った)の一部と少年と老人で構成された国民突撃隊が幽かな抵抗をする中、4月30日深夜国会議事堂の頂上に赤旗が翻る。何が何でも5月1日のモスクワ・メーデーに間に合わせると言うスケジュールが達成されたのだ。
 ベルリンへ急ぐソ連軍の中には特命を受けた部隊もある。スパイを通じてアメリカの原爆開発を知り、ウランと学者を抑えるための特殊部隊、ヒトラーの死亡確認をするためのグループ(歯科医を立ちあわせ歯型から確認し頭蓋骨の一部を持ち帰り、スターリンを喜ばせる。これは冷戦終結まで秘密であった)。こんなエピソードも交えながらのノンフィクションは、600ページを超えるハードカバーを飽きさせることなく読み続けさせた。
 筆者は1949年生まれの英国人。サンドハースト(英陸軍士官学校)卒業後5年間軍務に服し、その後ノンフィクション・ライターに転じた人である。軍人としてのプロフェッショナルな目とジャーナリストとしての調査力・表現力に優れ、単なる戦記ものの域をはるかに超えた、異常な戦場とその背景を活写している。もしポツダム宣言受諾の決断が遅れ、本土決戦に至っていたらあの65年前の8月はどうなっていたのであろうか?考えさせられた一冊である。

2)シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々
 画家、作家、音楽家、政治亡命者、パリは昔から多くの若者を惹きつけてきた。それは現代でも変わらない。ニューヨークやロンドンが、ビジネスチャンスを求める場所であるのに対して、“お金”とは無縁の文化的・精神的なもの求めて彼等ややってくる。だからいつも“金”に困っている。そんな金欠病の若者の駆け込み寺とも言うべきものが、本書主題のシェイクスピア&カンパニー書店(以下S&Cと略す)である。
 ここに登場するS&Cは二代目で、初代は1920年代アメリカ人宣教師の娘によって英米書籍の書店としてスタート、ヘミングウェイなども滞在し、その作品「移動祝祭日」に登場している。1941年ナチのパリ進駐でこの店は閉じられ、1950年代当時のアメリカではアウトローとも言える、共産主義者を自称するジョージ・ホイットマンによって再スタートする(と言っても初代と法的に関係があるわけではない)。この二代目も初代同様、作家たち(特にアメリカ人)に愛され、ヘンリー・ミラーなどが逗留している。
 この本は2000年を跨いで、そこに数ヶ月滞在した筆者がオーナーのジョージを含め、交流した多くの友人・知人たちとの日々を綴った、ノンフィクションである。
 筆者はカナダ・オタワの新聞の犯罪記者であった。ある事件が切っ掛けで、オタワを去らねばならぬことになり、パリに逃避する。しばらくは安ホテルに投宿するものの、持ち金は直ぐに底をつき、S&Cに転がり込むことになる。と言っても書架の間にあるベッドが提供されるだけで、食事は日曜の朝のパンケーキ以外は自分で工面しなければならない。トイレは共用のものがあるもののシャワーも無い。仲間(とそのガールフレンドなど)と助け合いながら、苦しい生活の中で夢を追い続ける(皆物書き志願)。恋あり(超老いらくの恋も)、別れあり、病あり、奇跡のような幸運あり、仲間内やオーナーとの葛藤あり、とてもノンフィクションとは思えぬ展開で最後まで一気に読ませる。
 最近こんなにほのぼのした気分で読書をしたことがない。原書のタイトル「Time was Soft There」がピッタリ、「良い本に出合えたなー」と言うのが読後感である。

3)周恩来秘録  現代中国生みの親は毛沢東。この事実は彼の生き方が如何に異常なものであっても否定できない。しかし、この人の権力欲と権力把握後の猜疑心・嫉妬心の深さから来る後継者粛清は凄まじい。これに比べれば、民主党の代表争いなど児戯に等しい。その毛沢東に最後まで仕えた周恩来の生き方は、常人には到底耐えられない波乱に満ちたものだった。そこには我々の知る周恩来像とは全く違うものがある。それを、文化大革命を主要舞台として紹介したのが本書である。
 文庫本上下で800ページを超えるこの大作の導入部は、120ページを割いて、1919年から1943年までの中国共産党基盤確立の中での、毛と周の関係経緯を概説し、周の苦痛に満ちた最期につながる背景をダイジェストしている。そこから時代は一気に1966年の文化大革命に飛び、強力なカリスマ・リーダーである毛が、何故あのような混乱を招く革命を自ら起こし、どう推進し、起こった社会の混乱を如何に収拾しようと考えていたかを、二人のその時々の立場・言動から詳しく考察していく。毛がこだわったことは「死後に至る名誉の持続」であり、周がしばしば口にし、変節とも思える行動をとるのも「晩節を汚さず」という同じ主旨の生死感であることを明らかにしていく。
 1949年中華人民共和国成立によって建国の父となった毛は、1958年国力と生活環境向上を目的とした「大躍進運動」を始めるが、実体経済を無視したそれは失敗し、数千万人の餓死者を出して不評を買う。数年前のスターリンの死とその後のフルシチョフによるスターリン批判は、毛に「自分も死後ああなるのではないか?」との疑念・恐怖感を齎すことになる。ここから起こるのが実務を担当する指導層・高級官僚を中抜きにして、大衆直結でこの不名誉を消し去ろうとする、あの「文化大革命」である。最初に血祭りに挙げられたのは劉少奇(国家主席、党主席に次ぐナンバー2)に代表される実権派である。つづいて林彪、鄧小平らが同じナンバーツーの座から引き下ろされるが、周恩来だけは飛びぬけた能吏であり(毛の苦手は細々した実務、その点で毛にとって周は欠かせない人物)、かつ生き残るために君子に絶対服従の姿勢を貫く故に簡単には切れない。ある意味優れた風見鶏で、生き残るためには毛のみならず四人組におもねることを厭わない。それによる心の苦しみはあるものの、“(毛による)革命の成就”という大義のために自分を殺して批判・非難に耐えていく。
 大躍進運動の失敗を消し去るために始めた文化大革命も大混乱をもたらしただけで、何の成果も出てこない。各方面から批判の声が上がってくる。毛は焦り、四人組みに責任の一端を押し付け「成功七分、失敗三分」で納めようとする。この環境づくりのために周は奔走する。
 しかし、ついに追い詰められる時がやってくる。1971年の“米中和解”である。これは無論毛の了解の下に進められるのだが、国際社会は周の功績を高く評価し、一躍世界のリーダーの一人として脚光を浴びる。毛のプライドは傷つけられ、嫉妬の炎が燃えさかる。その少し前に発見された膀胱癌を、毛は「検査不要、治療不要」と許可しない。治療が許された時は既に手遅れ、死に際して周が口ずさんだのは、毛を讃える歌「東方紅」の一節だったという。毛は周の葬儀を大々的に行うことを禁じた、出席することも無かった。
 毛の死後、文化大革命は失敗と断を下されるが、その責任は全て四人組に帰せられ、毛の国父としての名誉は生前の願望どおり汚されていない。著者の問題意識はここにある。
 著者は中国共産党中央文献研究室で、周恩来生涯研究小組組長を務めた人。従って党員でも限られた人しか閲覧出来ない資料にアクセスできる立場にあった。1989年に起こった天安門事件(鄧小平が鎮圧指示)で学生の立場を支持したことから実質的に米国に亡命、ハーバード大学に所属して本書をまとめ、2003年にニューヨークで「晩年周恩来」の原題で出版した。
 さすが歴史を重視する国の著作、その中に登場する人間たちの権力闘争の凄さは、ノンフィクション故に、三国志などとは一味違う面白味がある。
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