2011年4月30日土曜日

決断科学ノート-72(大転換プロジェクトTCS-9;Exxonコンピュータ技術会議-3;次世代システムに関する発表)

 TCCミーティングは、ニューヨークの郊外ライタウンで開催され、5月6日(日曜日)夕方のウェルカム・パーティでオープン。ここには遠方からの出席者、会議の幹部・幹事などが出席。本会議は7日~9日の三日間である。事前に渡された資料で、私の出番は二日目の午前。工場管理システムに関するテーマは、川崎の他に英国フォーリー製油所のものがあった。次世代制御システムに関する発表は3件である。初めての海外での発表は何とか用意したものを時間内でしゃべり終え、質問は一件。それでも発表後の休憩時間ほかに数人から質問を受けたから、まずまずの出来だったと思いたい。工場管理システムはこれからの大きな挑戦域としてECCSでの調査も含め、多くの情報を得たが、以下にはTCCにおける次世代制御システムに絞って記すことにする。
 この関係のトップを切ったのは、エッソ・ベルギーから参加したトッテン氏のアントワープ製油所におけるACSの適用である。本社情報システム部需給担当部門の長で、製油所の運転制御よりは工場全体・本社経営管理のための情報処理能力に関する内容が濃いものだった。これはACSがIBMの汎用機(370)をプラットフォームにしていることから、従来のユーザー層(プラント運転制御・解析)を超えて、その広がり持つことになったことからきている。ただ、事務処理用(相互にバックアップ)とは別に導入したため、費用が嵩むことを問題にしていた。SPCはほとんど触れられず、その点ではやや物足りなかった。しかし私の発表テーマや、フォーリーの工場管理システムと共通する話題が多く、フォーリーの発表者を交えて情報交換する機会があり、ここでフォーリーのローマン氏は発売されたばかりのIBM-4300(中型機だが汎用機と同様のO/Sを使っている)のコストパフォーマンスの良さを強調、これは大きな収穫だった。
 余談だが、このトッテン氏はACSの仕事で忙しく、ぎりぎりまで出発日時が決まらず、普通は利用を許されない超音速旅客機コンコルドで、発表前日パリ経由でやってきた。この時のサービスや飛行の話が発表導入部で紹介されたことが印象に残っている。
 ACSの話はもう一件あった。Exxon USAベイタウン製油所におけるユーティリティでの適用例である。これも製油所既存の370にACSを装備し主に情報処理を行うもので技術的にはあまり得るところは無かったが、“Exxon USAがACSに取り組んでいる”ことを知ったのはトクダネだった。これを切っ掛けに発表者のラーセン氏から、Exxon USAにおける次世代システム推進の中心人物、ボブ・ボルジャー氏(パトンルージュ製油所)を紹介され、彼のACSに対する一方ならぬ思い入れ(これには“ERE何するものぞ!”というUSAの誇りも多分に絡んでいる)に強く惹かれることになる。彼のこの強い思いがやがて彼の運命を変えていくことをこの時窺わせるものは何も無かった。
 ハネウェル新システムの発表者は、TCSプロジェクトリーダーを務めることになるMTKさんの古くからの友人ロイ・リーバー氏、私も川崎工場で一度会っている。所属はERE(NJ)ながら数年前からアリゾナ州フェニックスのハネウェル工場内にオフィスを構え、住居も移してPMX(Exxon版SPC)-TDC3000のシステム開発(仕様の摺り合わせからシステムテストまで)を担当している。しかし発表内容はTDC3000のデバッグが中心でPMXについては構成図に紹介される程度だった。驚かされたのは、試作が出来上がったTDC3000のバグの数が数千(確か三千件位)に及んでいたことである。そしてその虫潰しは遅々として進んでいないことであった。ただリーバー氏はこれを深刻に捉えている風ではなく、「いろいろ問題はあるが、若干スケジュールが遅れている程度」と結んでいた。しかしこちらとしては、「ハネウェル新システムの完成はかなり先だなー」と言うのが率直なところだった(実際に大幅に遅れた)。
 発表は無かったものの、ここでの交流からExxon Chemicalが進めていたBOP(Baytown Olefin Project)において稼動を始めていたPMX+TDC2000に関する情報が得られた。これは実用上に問題はないことが確認されたのだが、DCSが一世代古いことが気になった。
(次回;EREでの議論)
注:略字(TCC、SPC等)についてはシリーズで初回出るときに説明するようにしています。前の方をご参照ください。

2011年4月23日土曜日

決断科学ノート-71(大転換プロジェクトTCS-8;Exxonコンピュータ技術会議-2;Foxboro訪問)

 TCCミーティング参加海外出張は本社情報システム室と調整し、TCC(NY)の他にERE・ECCS(NJ)、Esso Eastern本社(ヒューストン)、Foxboro社(ボストン)それにヒューレットパッカード社(シリコーン・バレー)を廻ることになった。旅程はボストン→NY→NJ→ヒューストン→シリコーン・バレーの順である。
 間もなく開港一周年を迎える成田空港を出発したのは1979年5月3日、9年前の羽田からの旅立ちと違い、見送るのは家族だけだった。搭乗機はJALのDC-10、NYまで無着陸は無理で、アンカレッジに立ち寄り給油する。機外へ出るとき法被を纏ったファーストクラスの外人乗客の中に日本公演を終えたペリー・コモ(人気ポピュラー歌手)を見つけたので、持っていた次女(生後10ヶ月)の写真にサインを依頼したところ快く応じてくれた。
 ケネディ空港に同日昼到着、一旦マンハッタンの東燃NY事務所に寄り、夕方ニューアークからボストンに飛んで、市街とフォックスボロー(地名でもある)の中間点にある、モーテル風のシェラトン・タラにチェックインした。長い一日だった。
 翌朝Foxboro(F社)の営業マンの迎えの車でF社の本社工場を訪問した。既に横河との提携は解消されており東燃との関係も薄まっていたが、依然としてアナログシステムでは関係会社も含めて国内では大手ユーザーだったし、Exxonグループではハネウェル(H社)とここが主制御システム供給者であるため、Exxon担当の営業責任者や技術者(後に情報・制御システムの調査会社、ARCの共同経営者になるDick Hillもこの中にいた)を揃えて丁重に対応してくれた(この訪問アレンジはF社の東京事務所長、横河OBのNKMさんにやっていただいた)。F社の狙いは、やっとH社のTDC-2000に対抗すべく商品化にこぎつけたSpectrumと言う分散型ディジタル・コントロールシステム(DCS)である。この時点ではExxonグループで本格導入した工場は無かった。「何とかExxonグループに実績をつくりたい」そんな熱意が強く感じられる応対だった。
 実のところ本社も含めてこちらにはその気はほとんど無かった。東燃グループでのF社とその製品に対する評価はアナログ時代には極めて高いものだったが、中途半端なSpec-200と言うシステム(アナログだがコンピュータとの接続をしやすい構成;本ノート-61参照)に人と金を使い、ディジタル化に対する遅れは決定的になっていた。かてて加えて横河への信頼がその評価をさらに裏打ちしていたのが失われた今、到底次期システムの有力候補にはなりえなかったのだ。率直に言ってEREとのディスカッションのために、F社の現状を一応見ておこうと言うのが訪問目的だった。
 Spectrumは後発なだけにTDC-2000に比べると優れた点もいくつかあった(筐体の小型化、運転操作卓機能など)。しかし、H社は既にその後継機、TDC-3000を開発中で、EREはその評価のためにフェニックスの工場に担当者を常駐させていた。また、横河も初のDCS(32制御点を1システムで処理)、CENTUMの次期システム(更に制御点を減らして分散度を上げる)が具体化していた。国内にサービス網が無くなったF社の製品を敢えて候補に取り上げる材料を見つけるのは難しい。
 このときの見立ては間違っていなかった。SpectrumはF社初のDCSとしてそこそこ市場で評価され、既存のF社ユーザーを中心に導入されていったが、アナログ時代世界のマーケットをH社と二分した勢いは失われ、やがてエマーソン、ABB、横河などにシェアーを奪われ、最終的に英国のInvensysに身売りすることになってしまう。
 ニューイングランド地方を訪ねたのはこのときが始めて。新緑が美しかった。夕食の接待はボストン・コモン(広場)に面した「Half Shell」と言うシーフードレスランだった。ここではシュリンプカクテル、ロブスターを堪能した。後年(1990年代)MITやDECなどボストン所在の大学や企業を訪れる機会が何度かあった。あの味が忘れられず店を探し求めたが見つけられなかった。電話帳にも無く、ホテルのコンシュルジュもその名を知らなかった。フォックスボローと言う会社名は消え、事業内容もソフトサービスに変じつつある。その転換点があの時期であったように思っている。
(次回;TCCにおける制御システムの話題)

2011年4月16日土曜日

決断科学ノート-70(大転換プロジェクトTCS-7;Exxonコンピュータ技術会議-1)

 最初のプロセスコンピュータ稼動(1968年)から10年、既述のようにグループ内状況は次世代システムの検討に向けて胎動が始まっていた。1979年春、当時川崎工場のシステム技術課長だった私に、初めての米国訪問(1970年)来久し振りに渡米する話が舞い込んできた。目的は例年5月ニューヨーク近郊で行われているExxon Technical Computing Conference;通称TCCミーティング)に参加し、稼動したばかりの川崎工場の工場管理システム(COSMICS-Ⅱ;Computer Oriented Scheduling and Monitoring Information Control System;-Ⅰは石油化学、-Ⅱは石油精製および共通部門;本ノート-27~40;“迷走する工場管理システム”参照)の紹介を行うことだった。
 このTCCミーティングは1970年代中頃から始まったもので、Exxonの全ビジネス(原油探査・生産、輸送、研究開発、精製、石油化学)における技術分野でのコンピュータ・通信技術利用に関する、ワールドワイドな会議である。主催者はECCS(Exxon Computer and Communication Sciences )、かつてはExxon Research and Engineering;通称EREの一部門であったが、この時代は独立同等の位置にあり、ニュージャージ・フロ-ハムパークの広大な敷地内にEREとは別棟の高層ビルを建て、その勢いを誇示していた。TCCではほとんど話題にならない事務系統やIT基盤技術もミッションとしては含んでおり、世界の動きを知るために、それらの部門からも参加者があった。
 会議は日曜日夕方のウェルカム・パーティから始まり三日間、会場はこの時分はマンハッタンから1時間ほど北に走った、Raytownと言う町のヒルトンで開かれていた。これはERE・ECCSのメンバーの便宜を考えたためであったと思われる。参加者は常時200名程度だが、フローハムパークからの参加者は部分参加が多いので、延べにすると500名位あったのではなかろうか。会議形式は全て全体会議で、分科会はない。発表テーマと順序もあまりきちんと整理されていないし、オープニングの基調講演を除けば発表時間も質疑を入れて20分、深みのある会議ではないが、浅く広くExxonの当該分野におけるIT活動を理解するには適当な場と言えた。それもあり、海外からの参加者はこの週の残り二日間をEREやECCS訪問に当てている者が多い。私もそれぞれの組織に一日ずつとり、工場管理システムの一環として開発途上にあった保全システムと次世代プロコンに関する情報交換を行う予定を組んだ。
 東燃からの参加者は通常管理職1名・若手1名計2名で、概ね若手が発表テーマを持って参加していたが、今回は発表テーマの関係で私が行うことになった。管理職の立場で私が9年ぶりの米国出張、若手として本社制御システム課のYMBさんが派遣されることになった。私にとっては初の海外発表、彼にとっては始めての海外出張である。話が出たのが3月中頃、会議は5月初旬に開かれるので、準備期間は1ヶ月半しかない。発表形式はスライド利用と決められている。だが手の込んだものは出来ず、文字だけの資料を何とか間に合わせる。
 このTCC参加に並行して進められたのが、次世代プロコンに関する調査とEREに対する事前説明への対応である(本来、これは本社の仕事だが、当時は海外出張の機会は滅多に無く、“ついでに”となりがちであった)。調査の方は国内でも情報の入りやすい、(山武)ハネウェル、IBMは訪問調査を見送り、横河と長く技術提携しその後契約が切れたフォックスボロー社を訪れプロコン分野の活動をヒアリングすることにした。これは顧客が調達先を訪れるのでそれほど準備を必要としないが、EREに対するこれからの次世代システム検討の事前説明は、TCCでの他社の発表を含めての話し合いとなる可能性が高く、“出たとこ勝負”の感を免れなかった。果たして上手く出来るだろうか?不安が募った。
(次回;-2;Foxboro訪問)

2011年4月9日土曜日

決断科学ノート-69(大転換TCSプロジェクト-6;グループ内状況-3)

 前回の予告で、次回は“Exxonコンピュータ技術会議”としましたが、もう一回“社内状況”編を書くことししました。
 東燃グループのプロコン導入会社・事業所には、東燃和歌山工場、同川崎工場、同清水工場、東燃石油化学(TSK;現東燃化学)川崎工場、ニチモウ石油精製(NSK川崎)があった。この内清水工場はタンクローリー専用で、導入も比較的新しかったので次世代への置換え検討対象外だった。        
 これらの会社・事業所に導入されていた、制御システム・プロコンが各種各様であることは、今までのノートで触れてきた。そしてそれには技術進歩に加えて、各社の経営形態や歴史が大きく影響していた。
 TSKの設立は1960年末、川崎地区の関係会社事業所はこの新規ビジネスのために設立されたもので、この地区の中核会社であった。プロパー社員を1962年から採用、経営の独自色を高めていた。そこには「親会社何するものぞ!」と言う気概が満ち溢れ、SPC導入ではグループの先頭を走り、着実に実績を上げていた。経営形態・プロセス構造(製品在庫が極めて少なく、顧客にパイプラインで直接つながる)からくる制約(主に経済上の)があり、集中型DDCには批判的であった。しかし、DCS(分散型DDC)が普及し始めるとそれも解消し、第二ナフサ分解装置にハネウェルのアナログ電子式システムを採用していたこともあり、TDC-2000への関心が高まっていた。
 NSKは規模が小さいこともあり、エンジニアの絶対数が少ないので、オンサイトのコンピューターシステムは東燃川崎工場と同じもの(IBM-1800+YODIC-600)を採用、独自システムへの取り組みは共同出資者(日本魚網;外貨に制約のある時代、漁業のための原油輸入枠を持っていた)との関係が深い出荷システムに留まっていた。
 和歌山工場は、川崎工場が本格的に増強されるまで(1969年)はグループ内で圧倒的な大きさと多彩なプラント構成を誇り、一時は“和歌山関東軍”と揶揄されるくらい、野心的現場技術者活躍の場であった。その伝統はその後も脈々と続き、ここにも「本社・他社・他工場何するものぞ!」の意気が高かった。また古い設備が多く計測・制御システムは遠隔化や自動化が遅れており、その環境改善に切実な思いが強かった。
 川崎工場は最新鋭、装備が整っていたこともあり第一次石油危機への対応ではプロコンに依る素早い効率改善を実現して、その利用に自信を深めていた。またTSKとの交流も日常的であったし、NSKや本社も近く情報交換も頻繁に行われていた。つまり、本社以上にグループの状況把握が出来るところでもあった。
 会社・事業所の文化の違いに加え、システム部門の運営をややこしくしていた(必ずしも仲が悪いわけではない)のはそこに属するエンジニアの出自・育成過程からくるプロコン利用に関する考え方である。
 システムズ・エンジニアリングを担う人材を大別すると、化学工学出身者、広義の経営科学出身者(管理・経営・数理)、計測・制御技術出身者に分けられる。
 化学工学系の人はSPCアプリケーション開発のし易さを望み(極論すればメーカーは問題ではない)、経営科学系は経営情報システムとしての情報処理能力に高い優先度を与え(汎用コンピュータへの傾斜)、計測・制御系の関心はDCS、マン・マシーン・システムや通信系技術などシステム技術そのものに向かう傾向があった(メーカーと機種)。        
 このような環境の中で、本社(情報システム室数理システム課+技術部制御システム課)は統一システムの導入を目論みつつあったのである。
(次回;Exxonコンピュータ技術会議)

2011年4月4日月曜日

今月の本棚-31(2011年3月分)

 11日に大震災が起こった。それ以降月末に至るまで、地震直後に届き直ぐ紐解いた「工学部ヒラノ教授」を除いて、一冊も読んでいない。こんなに読書量の減った日々も珍しい。

<今月読んだ本>

1)暗闇の蝶(M. ブース);新潮社(文庫)
2)旅の終わりは個室寝台車(宮脇俊三);河出書房新社(文庫)
3)帝国の落日(上、下)(ジャン・モリス);講談社
4)工学部ヒラノ教授(今野浩);新潮社

<愚評昧説>

1)暗闇の蝶
 業界からの引退を目前にした、殺人者向けの銃を製作する闇世界の住人が主人公。生まれ育ちは英国らしいが、今はイタリアの田舎町に身分を偽り、蝶を描く画家として潜んでいる。田園が広がる長閑な町は居心地もよく、周囲の人たちからもやっと仲間として認知されるようになってきた。彼自身は殺人者ではないし、組織犯罪とも関わったことはない。しかし、長年の経験から誰かに付け狙われていることを感じ取っている。それは誰なのか?
 情景も人物描写も巧みで、2008年一度訪れたことのあるイタリアと完全に重なり、違和感無く書かれた世界に誘われていった。サスペンス物には珍しく、ひたすら“私”の立場から書かれ、文庫本で500ページ近くの話を全く章立て無しで書くスタイルは、独特の緊張感を持続した。
 作者は英国人、既に故人である。スリラーやサスペンス専門ではないが、この分野の本場だけに、並のストリー展開ではなく“当たり”であった。

2)旅の終わりは個室寝台車
 前月ご紹介した原武史によれば、鉄道作家御三家は、この作者と内田百閒、阿川弘之となっている。しかし現代につながることと鉄道に関する造詣の深さでは、何といっても宮脇俊三であろう。月に一冊は乗物紀行を読みたい(これを読んでいるときが一番リラックスできる時間である)私にとって、既に彼の作品は全了と思っていたが、残っていたのが本書である。グリーン車や寝台車にはめったに乗らない人だけに、こんなタイトルにびっくりした。
 著者が「中央公論」の編集長を退職後1980年代月刊誌「新潮」に連載されていたものが、新潮文庫として出版されたのが1984年10月、それが河出文庫として復刻したのが昨年。人気は今に続いている。出版人としてこれら代表的な出版社と関わりを持てたのも著者の人徳と作柄であるに違いない。またあのマニア独特の臭み(一種の自慢)が無いのが何といっても万人に愛される最大の理由だろう(内田百閒にも同様に狭量なマニアの臭みが無い)。
 この一連の旅には“藍さん”という新潮社の編集者が同行するのだが、その人が次第に鉄道ファンになっていく過程が面白い。それだけ本質的な感化力があるのだ。
 私が最も面白かったのは「東京-大阪・国鉄のない旅」(路線バス一部利用。帰りは新幹線の日帰り)、多分今では実現不可能だろうが、一度試してみたい気になった。

3)帝国の落日  
 ハートカバーで上下二冊、ページ数800強の大作である。しかもそれは“パックスブリタニカ”3部作(前二作;大英帝国最盛期の群像、ヘーヴンズ・コマンド)の最終編に過ぎないのだからそのヴォリュームに圧倒される。本編で取り上げられるのは、ピークといわれたヴィクトリア女王の死後から第二次世界大戦後、インド独立で帝国が消えるまでを扱っている。
 OR発展の歴史を理解ためには、その背景となる20世紀初頭から戦後までの英国政治環境の変化を知ることが不可欠である。そのために本書を購読した。
 これを読むと(地続きでなく、他民族を含む)大帝国を維持することが如何に大変かが分かる。七つの海を支配するための海軍力とその根拠地はそこからの収入以上に支出を伴う。歴史的・文化的な不連続性を融和させるためのコストも膨大である。それでも当時は拡大こそが国家生き残り・発展の術と考えられていた。
 先人たちの成功を追う冒険者が次々と現れ、紛争の種をチベット、ナイル域(エジプト、スーダン;ファッショダ)そして南アフリカ(ボーア戦争)、さらには中東・バルカン半島へと撒き散らしていく。
 英国の歯車が狂いだすのはボーア戦争からで、本書はこの戦いを掘り下げて描写している。この辺は高校の西洋史の知識では全く知覚できていなかった。この戦いではロシアが隙を突いてアフガニスタンやインドを侵す恐れが充分あったのだ。これが第一次世界大戦における中東戦線おける英国の二枚舌・三枚舌政策につながり、現代に至るこの地域の複雑な国際環境を作り上げてしまったといえる。
 この地球規模に広がった帝国を、その社会変化を踏まえて変えていこうとする動きは本国にも植民地の側にもあるのだがなかなか上手くいかない。同じアングロサクソン・プロテスタントが主流のオーストラリア・ニュージーランドですらまとまらないのだから、反英感情の強いアイルランドや民族・宗教の異なるインドなど論外である。しかも、一方にはチャーチルに代表されるような(彼は社会変革を理解はしていたが)帝国維持に腐心する政治家や王族もいる。結局1930年に成立するウェストミンスター憲章で大帝国は、英本国・自治領・インド帝国・属領・委任統治領・保護領・条約国などからなる無原則な英連邦に変じていく。
 著者は本書(第三巻)で綴ったことは「惜しがる気持ちを伴わない哀しみである」としている。現代の地理的な大国は、ロシア・米国・中国・インドといったところで、いずれも覇権拡大維持に余念がないが、この大英帝国の隆盛と衰退を見ると、こじんまりまとまった国家も悪くない気がしてきた。
 それにしても世界史の中で日本人なら比較的よく知っている英国史ですら、未知のことだらけであった。他国の歴史を理解することの難しさを、あらためて知らされた。

4)工学部ヒラノ教授
 何度か本欄で著書を紹介してきた、中央大学工学部教授(東工大名誉教授)今野先生の“エンジニア小説”である。“エンジニア小説”というジャンルは他で目にしたことは無いので、多分著者のオリジナルであろう。私の見立てでは“小説”と思って読んだのは「すべて僕に任せてください」(新潮社)と「スプートニクの落とし子たち」(毎日新聞社)の二作(いずれも本欄で紹介済み)で、これが三作目である。 前二作が“私”も登場するものの、主人公が若い同僚であったり、大学の同級生であったのに対し、本作は“私”が主人公である。また前二作が主人公の死に物語の山場があったのに対し、今回は無事停年退職に至るところに大きな違いがある。つまり、いろいろ苦労はあるのだが明るい気分で読み終えることができた。
 大学の内情を書いた代表作に山崎豊子の「白い巨塔」(医学部)、筒井康隆の「文学部唯野教授」(文学部)がある。緻密な調査で大作を飽きさせずに読ませる山崎の技法と比較するのは適当ではないが、大学人の生き方・大学運営管理の在り方を外部の人間に知らしめるという点において、本書は決してそれに劣らない。一方で筒井の作品は彼の持つブラックユーモアのセンスを下敷きにしているが、本書にもやや自虐的なユーモアが随所に見られ、思わず「いやー、本当にご苦労様!」とつぶやきたくなる。
 しかし、この本の凄さは登場する有名大学人(主に東大、筑波大、東工大、スタンフォード大)がほとんど実名であることである(役人や民間人の実名は出ない)。それも本人が見たら決して愉快ではないことどもを、臨場感をもって書いている。この迫力は職業作家にはチョッと出せない。これも70歳(停年)に達したからであろうか?
 国際AAA級研究者への道、伝統校と新設校の違い、昇進制度・学長選び、官学・私学の役割(研究vs教育)、教養部と学部・大学院の格差、新規研究組織の創設や定員、研究費の管理、文部官僚(事務官)と教官の力関係などあらゆる大学活動を自らの体験を基に取り上げている。この背景を成すのが著者のきわめてユニークな経歴である。純粋培養の教授と違い、修士課程を終えた後民間研究所に就職、そこからスタンフォードに留学し国際級の研究者たちとの壮絶な戦いを経験、帰国後新設の筑波大に奉職、ここでいろいろあり東工大の教養の教授に転じ、さらに学部・大学院にポストを得ていく。一流国立大でこんな多彩なキャリアーパスの教授を知らない。この点からも工学部の中を窺うに異色のガイドブックといえる(とはいっても受験生には読ませたくないが)。
 それにしても国際級(理系はこの領域まで行って一人前)の学者を目指しながら(引用例の多い論文を書き続ける)、学内行政(の末端;ここを上手くやらないと良い研究環境が確保できない)を合わせて執り行うことの大変さを知るとともに、わが国高等教育(研究を含む)の在り方に抜本的な改革が必要と痛感させられた。
 因みに、今野先生は決して平教授で終わったわけではない。東工大では新設大学院コース社会理工学研究科を立ち上げその初代科長(学部長に相当)に就任、さらに学長補佐業務をも務めている。もっともこれらは当に雑用で、研究活動を妨げこそすれ、処遇面では報われることは少ない。したがって、“平教授も悪くないなー”と言うのが本音・本題となっている。
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