<今月読んだ本>
1)汽車旅12ヶ月(宮脇俊三);河出書房新社(文庫)
2)競争戦略としてのグローバルルール(藤井敏彦);東洋経済新報社
3)鉄道会社はややこしい(所澤秀樹);光文社(新書)
4)工学部ヒラノ教授の事件ファイル(今野浩);新潮社
5)失われた鉄道を求めて(宮脇俊三);文芸春秋社(文庫)
<愚評昧説>
1)汽車旅12ヶ月
軍事と並んで乗り物をテーマとする本は最も好きなジャンルだ。しかしながら全般的な傾向として、最近この分野で面白いものにお目にかかる機会が減じているような気がする。特に題材や文章、話しの展開に深み(文学的、社会的)のあるものが見当たらない。一つの理由として、交通機関の高速化と大衆化があるのではなかろうか?つまり乗り物から“旅の楽しみ(特に意外性)”が失われてきているからだ。
内田百閒と並ぶ優れた鉄道作家、宮脇修三の本は文庫本だけでも20冊近く読んでいる。全てがアマゾン経由で求めたものではないが、こちらの好みをよく分析しており、売り込み情報が送られてきた。まだ読んでいないものが何冊かあったので発注した内の一冊である。
単行本が出たのは1978年。この年宮脇は長年勤めた中央公論社(編集者、役員)を退職(51歳)。代表作ともいえる「時刻表2万キロ」を世に出し、次いでこれも名著として今も人気のある「最長片道切符の旅」が発表された年でもある。そしてこの“12ヶ月”が3作目、つまりあぶらののった時期に書かれたエッセイである。
“12ヶ月”は1月から12月までの意である。しかし、一見季節感を伴う題目ながら、俳句ではないから、いつも自然に関わる季題があるわけではない。例えば1月は年末年始の混雑と平時とは違うダイヤ編成を取り上げる。狙い目は臨時列車であること、そこには普段夜行にしか使われない寝台車が座席車となって運用されたりしていることなど、サラリーマン時代、この超混雑期未乗車区間を乗り潰すため、止むを得ず旅行する苦労話が披瀝される(元旦の夜行で出かけ4日に帰ってくるケースが多かったようだ)。2月は“松葉ガニ”を主題にするが、話しは如何に1月下旬から2月上旬が鉄道の閑散期であるかと言うことを取り上げる。結びの12月は京都を取り上げ、修学旅行や団体旅行のないこの月が最も京都らしい姿を見せると賛美し、漬物の美味さを愛で、だから12月は京都に出かけることが多いのだと。思わず「で鉄道は?」と問いたくなる。それを見透かしたように話は12月に珍しく九州を訪れる機会があり、ローカル線で会った二人の老人の話に転ずる。ひとりは豊肥本線の立野駅(スイッチバック駅)で、大声で列車編成を確認する(「一号車普通車!」)お爺さん。もう一人は日豊本線で会ったお婆さん。停車駅毎に腕時計を見ながら到着・発車時刻をメモしている。「何故?」との思いで話しかけるが、耳が遠い老婆は遠くを見つめるばかりである。
自然も人もよく観察された、唯の鉄チャン物ではない、こんな本が書ける作家と環境が再び現れることはあるのだろうか?
2)競争戦略としてのグローバルルール
50年前、就職して6ヶ月の研修期間を終え最初の職場に配属になると「来年度の国家計量士試験を受ける準備をするように」と申し渡された。二日間の筆記試験にパスすると第二次試験は面接である。度量衡制度がメートル法に統一される直前、試験官の発した質問は「メートル法適用除外分野は如何に?」と言うものだった。「航空機および武器に関する分野です。ここではヤード・ポンド法が認めらます」と答えると、「何故か?」と畳み込んできた。「敗戦でわが国が大きく遅れている分野だからです」との答えに、試験官は「そうですか」と発してこの問答は終わった。幸い試験には合格したが、正解は「事実上の世界標準ですから」だったらしい。
やがて仕事は情報技術分野に転じ、プロトコール(手順)や信号が重きを置くことになると、古くはIBM、近くはマイクロソフトと言う一企業の方式がこの世界を制し“デファクト・スタンダード”なる言葉が人口に膾炙されるようになる。航空機・武器同様、強者・勝者の定めに従わざるを得ないのだ。アルファベットと数字しか扱えない世界でどれだけ“言語情報処理”にハンディキャップを負ってきたことか。
物も情報もサービスも、そして公害さえ国境をこえる時代、各種のルール作りに遅れをとると、最新技術・ビジネスモデルも競争に参加さえ出来なくなる。国連やISOのような国際機関で、各種業界で、NGOでその主導権争いにしのぎを削る戦いが行われている。バブルが弾ける前まで、ものづくりでは断突のトップランナーであったわが国が、相対的に力を低下させているのは、この点に問題無しとは言えない。
著者は経済産業省のキャリア官僚だが、比較的若いときから通商問題の交渉官としての道を歩み、日米経済摩擦時の米国駐在やブラッセルのジェトロに出向し、ルールを巡る国際交渉に精通した専門職としての経験を積んできた人である。その経験を基に書かれた、数々の事例から、わが国と他国の政・官・民における国際ルール策定・運用に関する特質が分かり易く解説される。
国際ルール作りの最も重要な点が“理念”であること。ルール作りで主導権を握るには交渉項目(アジェンダ)設定に先行すること(土俵を作ってしまう。そのためにも理念が重要)。ルールは金科玉条、守るものではなく、(理念先行ゆえに)状況に応じて変えていくものとの認識を持つこと。主張は一企業でせず、政府や学会、NGOなどオールジャパンで並行して進めること。そして、ルールは与えられるものではなく、自ら作るという考えに立つべきと論ずる。
このようなルールによる標準化(デジュール・スタンダード;Jure;掟)は今やデファクト・スタンダードよりビジネスの場で重要性を増しており、技術開発と並行してここへ力を注がないと、画期的な技術も一瞬にして水疱に帰す恐れがあることを教えてくれる。
また、これらのルール作りが、国際交渉の歴史が長く経験豊富な欧州主導で行われるケースが多く、これに新興国の勢いや思惑が絡んで複雑な様相を呈していることも、最前線で戦ってきた人の書いたものだけに、説得力をもって伝わってくる。
職人国家日本の転機を考える上で、現役ビジネスマン、エンジニアには是非読んでもらいたい本である。
3)鉄道会社はややこしい
好きな鉄道物だが、読んでみてかなり特殊な本であることが分かった。一言で言えば“相互乗り入れ解明本”とでも言えばいいのだろう。古くは明治期における官鉄と民鉄(長距離・地方)の相互乗り入れがあるが、これは後に漸次官営化され、やがて国鉄と変じていくので、それほど問題が顕在化してこなかったようだ。しかし、高度成長期、都市集中化によるターミナル駅の混雑緩和策として地下鉄を中心に相互乗り入れが始まると、技術・設備・車両・運転・運賃など多岐にわたる鉄道会社経営に、一社では解決できぬ課題が現れてくる。利便性の陰に、鉄道会社の涙ぐましい努力があるのだ。そしてその経験は国鉄分割・民営化へと続いていく。
話しの書き出しは、青森県内を走る青い森鉄道(国鉄民営化後の第三セクター)の東青森駅に置かれたゴミ箱から始まる。何故かそこには“JR貨物(八戸臨海)”と書かれているのだ。「臨海線でも貨物駅でもないのに何故?」 このからくりが実に複雑なのだ(一種の業務委託)。
次いで地下鉄(営団;現メトロ)日比谷線と都営浅草線の生い立ちからその運用に移る。日比谷線は、東武-メトロ-東急(東横)の三社が、浅草線は京成-都営-京急三社が相互に乗り入れているのだが、浅草線の方はやがて京成線が芝山鉄道、北総鉄道ともつながって5社相乗りとなる。このような運営体系で、どんな問題が生じてくるか、どう対処したか、これが本書の内容である(首都圏に留まらず、関西圏では、名古屋圏では、地方では、分割後のJRでは、と広がっていく)。
ゲージの統一(何と京成<1372mm>は標準軌<1435mm>とやや異なるゲージを使っていたが、営業運転を行いながら約2ヶ月かけて全線標準軌に改めた!)、車両の長さやドアーの数・位置、車両利用の平準化(他社線内の走行距離を均等にする;そのために京成の車両が京急の路線内を何度も往復したりする)、信号・ATSシステムの併備(二つのシステムを持つ)などなど。日頃利用している京急につながる浅草線だけに、「エッ!」「なるほど」「そうだったのか」の連続であった。
こんな話しが満載の本だから、よほど鉄道に対する関心・好奇心が強くないと、最後まで読み通す気力が続かない。個人的には面白かったが、完全にマニア向けで一般の方にはお薦めできない。
4)工学部ヒラノ教授の事件ファイル
昨年1月に出版された「工学部ヒラノ教授」(本欄-31;2011年3月分で紹介)の続編である。前作が、大学行政や大学管理に関する暗部・恥部を皮肉とユーモア(多分にブラック)を交えて抉り出したものであったのに対し、今回は“事件ファイル”が意味を持つ。つまり自らも関わった大学・大学教官の“犯罪”を扱ったものである。前作が表ならば今回は裏の内実と言っていい。
カラ出張、経歴詐称、文科省規定違反、色仕掛けによる単位略取、違法コピー、セクハラ・アカハラ(アカデミック・ハラスメント)、研究費不正流用、論文盗作・データ捏造、そしてキャンパス殺人事件まである。大学を巡る不祥事として、これらの話題はメディアでも大々的に報じられたものもあるが、ここで書かれているのは著者が関わったり、自ら犯した“犯罪”で、ほとんどバレもせず、何ら処分を受けずに済んだ話である(よかった、よかった!時効だから書けた?)。
例えば、経歴詐称は筑波大学助教授時代、米国のパデュー大学から客員“教授”として招聘される、大学当局も“教授”ならとOKを出すのだが、出発を控えて先方から“准教授”と言ってくる。直近の論文数が足りなかったのだ。大学に正直に話せば騒動になること必定。頬かむりして出かけてしまう。
パデューでの教え子の一人はグラマラスナな美人、奨学金維持のため成績の嵩上げを求めて研究室にやってくる。簡単にOKしないヒラノ教授に、ドアーをロックして彼女が迫ってくる。据え膳食うか?同じような話しがもう一話あることから、この時代先生はモテモテだったのだ。
こんな話しを前作同様、皮肉とブラックユーモアをまぶしなら料理していくのだから、楽しくないはずはない。
終わりの二話は少しトーンが変わってくる。殺人事件は中央大学理工学部の電子工学の教授が卒論指導した卒業生に刺殺される話である。ヒラノ教授は筑波大・東工大と勤務した後中央大学(経営工学)に招かれる。経営工学と電子工学では日常付き合いは無いのだが、偶々健康診断の際会話をする機会を持つ。そしてあの悲劇が起こったのだ。学生指導の難しさがここでは語られる。
最後の話は原発についてである。ヒラノ教授は大学修士課程終了後電力中央研究所に就職、与えられた仕事は「原子力発電の経済評価」、今回の原発事故を踏まえ、エンジニアの心構え、原子力行政の在り方について自説を開陳して「事件ファイル」は終わる。
前作もそうだったが、「ここまで書いてしまっていいのか!?」とたびたび思うほど、内情暴露がきわめて具体的である。そこには単なる憂さ晴らしではなく、オープンにすることにより広く知られ、外からの声も加えて大学を改善したいという意欲が強く感じられる。是非多くの人に読まれ、大学が変革するよう期待したい。
5)失われた鉄道を求めて
1)で紹介した「汽車旅12ヶ月」と一緒に注文した本である。こちらの方の単行本出版は1989年だから10年以上後になる。これだけの時間が経過すれば廃線はかなり進んでいることになるが、此処に登場するのは全て県営・村営・私鉄で旧国鉄は無い。著者の作品がほとんど旧国鉄を舞台にすることから、大変珍しい作品である(この他にバスを扱ったものが一つある)。
1980年代以降国鉄民営化の影響もあり、地方では廃線が相次いだ。これを取り上げるノンフィクションは多くの人によって書かれ、著者がこの分野の開拓者ではないのだが、やはりテーマ、文体、背景や歴史、情景描写で他の追随を許さない。確り文学になっていると言うことである。廃線巡りブームが始まるのはこの本の出版後との説もある。
第一話は沖縄県営鉄道。この島に鉄道が敷かれていたことすら知る人はほとんど居ない。那覇を基点に数本の鉄道が走っていたのだ。最初は馬車鉄道だったようだが、その後蒸気機関車やガソリンカーも導入されている。他の土地の廃線は車との競争に敗れ、経済的に立ち行かなくなるケースが多いのだが、ここでは米軍の砲撃とその後の戦闘、占領で消えていったのだ。
長く続いた占領もあり当時の地図は古地図屋にも無い。鉄道マニアの裁判官が現地調査と聞き取りで集めた情報を頼りに、鉄道敷設の遺構を捜し求めて、島内を東奔西走する。この間に鉄道稼動時の様子を古老などから聞いて、往時の姿を類推していく。「あの駅は女学校の最寄駅でいつも華やいでいた」という話が“ひめゆり部隊”の話につながっていく。
沖縄に限らず、廃線探しのキーポイントは渡河にある。どこかに橋桁や基部が残るものなのだ。また、道路に変じているところが多いのだが、カーブや勾配が自動車道と比べ緩やかなのもその特徴を浮き立たせることになる。
こんな調子で、耶馬溪鉄道(九州)、歌登村営軌道(北海道)、草軽電鉄(長野・群馬)、出雲鉄道(島根)、サイパン・テニアン砂糖鉄道、日本硫黄沼尻鉄道(福島)が取り上げられる。
廃線と言うと、何か暗くうらぶれた印象がつきまとうが、この人の手になると、哀感はあるものの、どこか消えていったものへの愛しさとユーモアが感じられるのが良い。
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以上