<今月読んだ本>
1) 輝ける闇(開高健);新潮社(文庫)
2) Knight’s Cross(David Fraser);Harper Perennial
3) マネー・ボール(マイケル・ルイス);早川書房(文庫)
4) 辞書になった男((佐々木健一);文藝春秋社
5) 日本人に生まれて、まあよかった(平川祐(示に右)弘);新潮社(新書)
<愚評昧説>
1)輝ける闇
イラクの政治・軍事情勢がおかしい。オバマ大統領が“軍事顧問団”を送ると表明したニュースを観て、急に半世紀前のヴェトナム戦争を思い出した。あの泥沼にはまり出すのはその“軍事顧問団”に始まったからだ。そしてそれは著者の代表的ノンフィクション「ヴェトナム戦記」につながっていく。著者は1958年に「裸の王様」で芥川賞を受賞しているので学生時代から名前は知っていたが、この系統の小説には関心のない私は受賞作品を読むことはなかった。しかし、朝日新聞の臨時特派員として南ヴェトナム軍と行動を伴にした「ヴェトナム戦記」は、ノンフィクションと言うこともあり、単行本を購読し、いまだ記憶に残る本だった。その内容は当時のジャーナリズムの大勢であった単純な体制(ヴェトナム、米国、日本)批判、反米平和主義を主張するものと違い、現地の人々との交流や最前線での兵士(米軍を含む)と過ごした実戦体験に基づくもので、臨場感と人間臭さに溢れ、ジャーナリストと作家の違いを強く印象付けられた。「再読してみよう」と書棚を漁ったが見つからない。「違う作品を読んでみるか」こんな動機で本書を入手した。この本が「戦記」を基にした小説だからである。
とは言ってもどこまでが事実でどこからがフィクションなのか見分けのつけにくい作品である。つまりそれだけ現場感があると言うことである。特に匂いや澱んだ空気、人肌の触感、銃撃戦の恐怖感などが、伝わると言うよりその中にどっぷり浸かったような気分で読み終えた。舞台は戦場、サイゴン、再び戦場と変わるが、その変化がこの匂いや空気の表現で確実に体験できる。そしてこれらが主人公(あるいは著者)の心(戦争観)の変化と同期する。
戦場の実態を垣間見たく、志願し認められる現地部隊(米軍・南ヴェトナム軍混成;指揮権は南ヴェトナム軍の大佐にあるが、頼りになるのは米軍の大尉)への参加。しかし、そこでは本格的な戦闘は行われない。分かってきたことは周辺住民や南ヴェトナム軍兵士の一部はヴェトコンとも通じているおり、その気になれば彼らに制圧される可能性が高いのだが、同国人同士の殺し合いを本気でする気はないと言うことだ。共産勢力浸透阻止の使命感に忠実な米軍とは明らかに考え方が違うのだ。
折しもサイゴンからは“クーデター近し”の噂が聞こえてくる。もうゴ・ディン・デェム政権は倒れ、将軍たちが国家権力をたらい回ししていた時代である。サイゴン市民は明らかにこの戦争に倦んでいる。だからと言って北ヴェトナムの支配を望んでいるわけではない。一体彼らはこの戦争をどう思っているのだろう?支局に勤める現地スタッフ、日本からの特派員、懇ろになる若い女性、人づてに知り合いになる現地知識人などを通じてそれを探ろうとするがなかなか見えてこない。世相は荒み、それを引き締めるためにヴェトコンシンパの少年の公開処刑が行われるが、いつ一斉蜂起が起きてもおかしくないほど民心は離反している。
ある時、今まで感情を露わにしたことのない現地スタッフのチャンが、主人公の「不幸な国だな」との一言に「不幸な国、不幸な国」と繰り返し、せせら笑いながら「でもね、記者には天国ですよ」と応えて「西じゃ不幸だといって涙を流すし、東じゃ勇敢だといって拍手する。・・・・・。でも、どちらの記者にとってもここは天国なんだ。あんたも楽しそうだ」とこちらの心の内をズバリ指摘する。これに対し主人公は「戦争を非難しないやつはいないだろうが、新聞に残酷な写真がでていないと物足りなくてしょうがないのじゃないか。この戦争が早く片付いたらみんなガッカリするだろうな。そう思うときがあるよ」と辛らつな批判を甘受する。おそらくここは、著者が読者に対してこの戦争(闇)および戦争報道について伝えたい核心部分であろう。
サイゴン逗留中前線で一緒だった米軍医の戦死を知り、もう一度戦場取材に出ることを企てる。同じ部隊ではあったが今度は状況が変わっていた。南ヴェトナム軍の大佐は、米軍大尉に反対されるが、示威行動として今まで立ち入ったことのないヴェトコン支配地区に遠征する作戦を実施に移す。素人の主人公にさえ無謀と思われる計画である。200人の内生き残ったのは17人。終盤の戦闘シーンの描写が凄い。ここには小難しい戦争論も教訓めいた反戦論もない。全軍が潰滅する中、米軍大尉に守られながら、震え泣きながらなんとか姿が隠せる森に逃げ込み、「森は静かであった」で終わる。
書かれた時代(1968年)や描写された内容から、一般には“反戦小説”と捉えられているようだが、過度に戦争・紛争の可視化が進んだ現在、むしろ戦争報道とそれを“楽しむ”視聴者批判の書としての価値を強く感じた。センセーショナリズムと自己宣伝を旨とする大メディアとその記者よりは、優れた作家の観察眼は遥かに遠くを明確に見通すことが出来、意味のあるメッセージを伝える技術を持つかを、この作品であらためて認識した。
2)Knight’s Cross
おそらく欧州の戦争とは縁のなかった大部分の日本人にも、唯一知られたドイツ軍人は、北アフリカ戦線でナイル河畔まで英軍を追い詰め、“砂漠のキツネ”と称されたロンメル将軍ではなかろうか?これはそのロンメルの伝記である。著者は英国軍人史家のデイヴィッド・フレーザー(退役少将)、豊富な彼我の執筆材料に恵まれた人の作品である。残念ながら和訳はなく、難解な専門用語・文語の多用と時としてドイツ語をそのまま引用する(部分的に英訳があるが)スタイルの六百頁は難行苦行の連続であった。
ロンメルは英米で最も人気のあるドイツ軍人であるし、ドイツ軍兵士にも愛された。一方でプロシャ軍の伝統を継ぐドイツ軍指導部には、参謀本部を中心に批判的な者が多く、連合軍が勝ちナチスドイツが敗れたからこそ、歴史に残った感のする不思議な人物である。
本書はその誕生から死までを扱うが、紙数のかなりは北アフリカ戦線と背景を含めヒトラー暗殺事件(結局それへの嫌疑で自害に追い込まれる)に関わる部分に割かれ、また軍人としては高級指揮官としての評価に毀誉褒貶が交錯する“戦術家”ロンメルに視点が据えられている(参謀教育を全く受けていない)。
生れは1891年南ドイツのヴェルテンベルク、祖父も父も実業学校の教師である。黎明期の飛行機に魅せられるが父の勧めで軍人の道に進む。士官学校へ入学を許されてはいるものの、この生い立ちからはとてもその後の目を見張る出世は予見できない(プロシャ(北ドイツ)育ちでユンカー(土豪貴族)出身が牛耳る)。しかし、第一次世界大戦に歩兵・山岳兵として従軍、勇敢な下級指揮官として活躍、兵士からも上級指揮官からも高い評価を受け、第一級鉄十字章、さらには1667年制定の由緒あるプール・ル・メリット勲章を授賞する。敗戦後このような功績もあって国防軍将校として引き続き軍に残り歩兵学校の教官を務める。
1933年ナチス政権誕生、当時の軍人に共通したヒトラー礼賛の空気にロンメルも同調しているが、ナチス党員にはなっていない。ヒトラーと個人的な接点が出来るのは1936年のニュルンベルクで開催されたナチス党大会に護衛隊長を命じられた時からである。その後ロンメルが教官時代に書いた教本「歩兵攻撃」を、自らも歩兵だったヒトラーが読み、注目するようになる。爾後、ズデーテン地方進駐の護衛隊長、チェコスロバキア併合の護衛隊長を務め、ヒトラーの身近に仕えるようになっていく。ポーランド戦を前にした8月、ロンメルは少将に昇進、総統大本営管理部長に任じられる。その背景には、何かと自分を見下すプロシャ貴族と違い、平民出身のロンメルに親しみを感じたことがあるようだ。
ロンメルのイメージは北アフリカ戦線における戦車戦と不可分であるが、上にも述べたように本来の兵科は歩兵である。どこの軍隊でも高級指揮官が兵科を突然変えることは先ずない(各兵科を含む総司令官は別だが)。しかし、ロンメルの場合西方電撃戦を前にして、自ら希望した装甲師団長に任ぜられる(初めての師団長職)。これには大反対があったようだが、ヒトラーの介入で許される。この辺からロンメルと陸軍上層部との折り合いが悪くなっていく。それでも西方電撃戦に際して、歩兵時代と変わらぬ率先垂範で先頭に立ち快進撃、最初に騎士鉄十字章を授与された師団長となる。歩兵でも戦車でも最前線で戦うと傑出した力を発揮する指揮官像がこうして出来上がっていく。
西方電撃戦の翌年、1941年2月、イタリアが始めたエジプトへの進軍が敗勢に転ずると、その支援のためにドイツ・アフリカ軍団が組織され、ロンメルがその軍団長に任ぜられる。この戦いは海の戦い同様機械力の戦いである。制空権、燃料や兵器の供給に制約の多かったドイツ軍だが、ロンメルの戦術は巧妙で英軍を圧倒していく。英国人がロンメルを知り、これに高い評価を与えるのはこの戦場における戦からである。騎士道精神を持った好敵手。“砂漠のキツネ”は彼の神出鬼没の作戦に敬意を表してつけられた渾名である。ここでの戦いは映画や書物でも何度も取り上げられているので解説は省くが、東部戦線と比べれば極めて規模の小さい戦いだったことは記憶のとどめておく必要がある。にも拘らずその戦いで柏葉剣付騎士十字章(全軍で6人目)を授賞、平民出身初、史上最年少のドイツ陸軍元帥(開戦時少将→中将→大将→上級大将→元帥;この間3年足らず)が誕生するのである。軍部上層部の妬み・恨みはこんなところから燻り出してくる。「戦場でワーワー騒ぎまくっているだけの指揮官じゃないか!」ハルダー参謀総長のロンメル評である。一方敵方のチャーチルは「ナポレオン以来の戦術家」と対峙する敵将に賛辞を贈る。
その後ギリシャ、北イタリア防衛の司令官を経て1943年西方総軍の南部分を担当するB軍集団司令官に任ぜられ、あのノルマンジーを含む地域が担当域になる。実戦派の彼は大西洋沿岸をつぶさに見て廻り、水際で反攻作戦を防ぐ“大西洋防壁”の強化に努めるが資材・労働力とも著しく不足し、思い通りにいかない。また装甲力を海岸近くに幅広く配置しようと言う考え方も、集中力と機動性を重視する装甲軍首脳に「歩兵支援が主務ではない」と受け入れられない。上陸地点の予想でもノルマンジーの可能性が高いことを早くに着目しているが、議論百出で重点域を絞り込めない。「もし、ロンメルの考え通り防衛策が採られていれば・・・」は米英の専門家がしばしば取り上げる“歴史のIf”である。
6月6日連合軍は上陸作戦を決行する。この時ロンメルは夫人の誕生日を祝うためドイツに帰省している。急遽司令部(パリ西方)に戻り指揮を執るが上陸部隊の侵攻を止めることは出来ない。元々この任務に当たって防衛力に疑義を持っていたロンメルは、上官である西方総軍司令官ルントシュテット元帥と語らって、休戦提案をヒトラーに飲ませることを画策する。6月29日バイエルン・ベルヒスガーデンにあるヒトラーの山荘には軍・政府主導者の主だったメンバーが参加している。ここでヒトラーは長広舌の徹底抗戦論をぶつが、ロンメルは冷静に現実の防衛体制を説明、休戦を訴える。それは「元帥、政治のことに口を出すな!」の一言で退けられ、これ以降二人が会うことはなかった。
7月17日、司令部から最前線に向かうロンメルのクルマが機銃掃射に遭い、ロンメルは頭に重傷を負う。
7月20日、シュタウフェンブルク大佐の仕掛けた時限爆弾が東プロシャに在る総統大本営、ウォルフスシャンツェで爆発するが、ヒトラーは軽傷で暗殺は未遂に終わる。この計画は“ワルキューレ”と名付けられ、暗殺後の国家運営(政治・軍事)まで細かく立てられ、多くの軍人が関係していた。その中には彼の参謀長も含まれており、常々悲観論を唱えていたロンメルの関与が疑われ、ゲシュタポの追及(拷問)に耐え切れず、それを口にする者が出てくる。国民の間で英雄として人気・知名度の高かったことと相まって、“ロンメル首謀説”がナチ首脳陣の間で確信されるようになっていく。
最初はフランスで、次いでドイツで加療していたロンメルは10月初旬自宅に戻り(軟禁)療養を続けていたが10月14日ベルリンからヒトラーの使者が二人来宅、「裁判で申し開きをするか自害するか?自害の場合は国葬をもって名誉を讃える」と伝え決断を迫る。妻と息子(軍務に服していたが当日帰省を命じられる)と短い会話をした後、自室で服毒自殺、10月18日国葬が行われる。享年53歳、表向きの死因は心臓麻痺であった。
以上が本書の粗筋であるが、第2次世界大戦以降とヒトラー暗殺未遂事件の細部を除けば巷間書物や映画で紹介されたロンメル像と大きく変わるものではない。逆に言えば、第2次世界大戦以前と西部総軍B軍集団司令官に任ぜられ戦争の趨勢に悲観的になっていくロンメルの言動の根源を掘り下げたところに本書の価値があると言っていい。特に大戦前のロンメルの戦歴やキャリアパスを知ると、大戦中の彼の作戦や戦闘行動がよく見えてくる。例えば、攻めるときは“スピード第一”、守るときは“拠点集中”で、第一次世界大戦の小隊長でも、第2次世界大戦の軍司令官でも一貫している。得意技一本勝負スタイルに持ち込むのが上手い。それが出来るのは、自分のやり方に信念をもっており、それを実現するために、状況に応じては上級者・権力者と正々堂々渡り合うことを恐れないからだ。第一次世界大戦ではしばしば上官とぶつかっているし、ナチ政権下ではSS(親衛隊)に反抗することも辞さない。それもただ言い募るだけではなく、自らやって見せるので説得力がある。ヒトラーの寵愛を受けることになったのは、このような誠実で一本気な性格と実行力にあったように感じた。直言居士に弱いワンマン経営者は我々の周辺にもよく見かける。
しかし、ロンメルは名声や勲章に弱いところがあったようだ。第一次世界大戦でもプール・ル・メリット授賞に関して上官とトラブルを起こしている(どの戦闘を戦功と認めるか)。また、ナチスの宣伝に乗ることを歓迎していたふしのあることも本書で指摘されている。これが反ロンメルの空気を国防軍内部に醸成していった可能性は高いし、暗殺未遂事件に際して総統参謀長のカイテル元帥が「黒」の判定を下すのもこの名誉・名声に対する関心の高さと無縁ではあるまい。そしてこの名声からくる自信過剰である。最後の会議には「自分ならヒトラーでも説得できる」と確信して臨んでいる。結果は再び呼ばれることが無かったばかりか、自害に追いやられる。
冒頭にも書いたように、この本の著者は英国軍人である。英国人は総じてロンメルに好意的だが、戦った相手の中にはこの評価に厳しい者もいる。特に、エル・アラメインで勝利したモンゴメリー将軍(のちに元帥)はロンメルの速攻戦こそ問題だったと見ている。対するモンゴメリーは充分な力が積み上がるまでは決して戦いを挑まない慎重タイプ、結果として勝利したのはモンゴメリーだから、“戦術家ロンメル”と言うのは正しい見方なのかもしれない。東部戦線とは規模も違うが、北アフリカの戦いにも戦略は当然あった。ここでのドイツ軍、ロンメルの戦略に関する掘り下げが、彼の資質を含めてもう少し欲しかった(エジプトを抜きシリアを経てイランに至りカフカスを攻める東部戦線南方軍と結び、英国の石油を絶ち、それを枢軸側のものにすると言う夢のような話は紹介されるのだが)。
索引・参考文献・引用聴き取り調査などもよく整理されており“ロンメル辞典”としての価値が高い一冊である。
3)マネー・ボール
ここ数年ビッグデータの活用に注目している。この欄でも統計を含め関連図書を何冊か紹介してきた。その都度閲覧者から「是非“マネー・ボール”を読め(観ろ;映画にもなっている)」とのアドヴァイスをいただいてきた。原本が米国で出版されたのは2003年、訳本が出たのも同じ年であるから10年以上を経ており、既に大勢の方が読まれているはず。あらためて取り上げるほどではないかもしれないのだが、今回の文庫本(2013年4月刊)が原書を忠実に復元した新装版と知って読むことにした。
1980年代野村克也が解説者となりTV朝日の野球中継で用いたストライクゾーンを9等分した、“ノムラスコープ”は野球観戦の面白さを一新した。何か暗く拗ねた感じのする現役時代の彼は好きではなかったが、これですっかりファンになってしまい、その後のID野球に惹き込まれていった。「ついに野球も数理を活用するようになったか!」
しかし、この人が後に書いたものなどを見ると、古くからこのように数字を分析し理論的に戦う指導者(例えば彼が師と仰いだ南海の蔭山やフレイザー監督)が居なかったわけではないが、日本の野球界では人気がなかったらしい。これは、企業経営や軍事でも同じである。そして、本書によれば、数理応用では我が国に比べはるかに先を行っていたと思われていたメジャーリーグも同じであったのだ!
主人公、ビリー・ビーンは学業(スタンフォード大学から奨学金を提示される)にも野球にも優れた資質のあるサンディエゴの高校生として本書の冒頭に登場する。1980年のことである。当時のメジャーリーグスカウトは、高校生で足の速い選手に高い評価をつける傾向にあり、ビリーはNYメッツにドラフト一位で入団する。しかし、数年経ってもマイナーとメジャーを行き来する2流選手の域を脱せず、弱小球団のオークランド・アスレチックスに移るも目が出ない。自ら限界を自覚したビリーは選手からアドヴァンス・スカウト(対戦相手の敵情視察が仕事)に転じることを志願する。メジャーの試合に出たことのある者にとって前代未聞の転身であった。
時あたかもフリーエージェント制採用の影響で球団格差が拡大している時代、アスレチックスは代表的な貧乏弱小チームに何年も甘んじてきている。何とか現状打破を図りたい球団経営者が理知的で仕事熱心なアドヴァンス・スカウトに注目し、フロント(スカウト、トレード担当)業務を任せることになる。ここから、のちにセイバーメトリックス(野球を統計学的手法で分析しチーム強化、作戦策定、観客増員さらには収益改善を図る)と呼ばれる、球団運営が始まる。
ビリーの右腕は選手経験のないハーバード出身の数理専攻者。守旧勢力の反対を排してセイバーメトリックスをゴリゴリ進めていく。ポイントは出塁率、長打力、選球眼(フォアボール率)。失敗率の高い盗塁(走力は重要ではない)やバントは重視しない。打点の評価なども個人成績としては高い評価を与えない(前に出塁者がいることで高まるものだから)。エラーの定義も曖昧なので(守備範囲を狭くすればエラー率は低下する)、これに代わる守備力評価の基準を作成する(フィールドは数百に分割し、打球の種類と併せてデータ化する)。この結果アスレチックスは対費用勝率最高の球団となり、プレーオフ進出の常連となって球団経営も黒字化する。ゲームの実戦面の他、ドラフトの順位決定、トレードのやり方、選手との契約方法など、球団経営のあらゆる面でセイバーメトリックスを推進していく。
因みに、ビリー・ビーンは実在の人物、現在もアスレチックスのゼネラルマネージャー(GM)を務め、彼の門下(野球経験のない)が他球団のGMにスカウトされたりしている。
今回の文庫版に新しく加わった部分に「ベースボール宗教戦争」と言う、著者による出版後日談がある。それによれば、セイバーメトリックスがジワジワと浸透する一方で、守旧派の抵抗も相変わらず強く、きちんと著作を読んでいないことが見え見えの批判(著者がビリー本人と誤解している者も多い)がスポーツジャーナリスト(ある記者を“球界用心棒”と酷評している)やメジャー関係者から沸々と起こっているようだ(それだけ衝撃的な話題作であることの証左)。それはまるで天地創造論者が進化論者を非難することに似たもので、終わりなき宗教戦争とも言えるとしている。
著者はプリンストン大学で美術史を学び、その後ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスで修士号を取得、債券トレーダーを務めたのち作家に転じた人。野球界と言う全く畑違いの分野でこれだけの作品を書けることに感心させられた。
国も企業も個人も、環境変化に応じて思考法を変え、必死に生き残る。(私のように)余命がそれほど長くなくても、それなりに考えさせられる本であった。
それにしても数理応用はまだまだやることが多いし、面白い。
蛇足;メジャーでは新人選手の発掘に際して、冒頭紹介したように、足の速い高校生を重視しマイナーからじっくり育てて一流選手にするする考えが強かった。これに対してビリーは大学生選手を優先する考え方を採る。その理由は、全米各地に数多ある高校まではとても調査が行き届かず、数字も地域のばらつきが大きく客観性を欠く。それに対して、大学は地域リーグもあるので、当たり外れが少ないとしている。この考え方は日本の実情とは合わないような気がする。特に甲子園の存在は大きな彼我の違いだろう。ただ、ジャイアンツを見ていると確かに大学野球出身者に一流選手が多い傾向がある。皆さんはどう見ますか?
4)辞書になった男
私の机の上にハンディサイズの国語系辞書が4冊ある。類語国語辞典(角川)、漢和辞典(角川)、漢字表記辞典(三省堂)それに明解国語辞典(明国;三省堂)である。この中で最も古くからあるのは“明国”で購入は1969年5月となっている。しかしこれは初代ではなく中学・高校時代に家で両親を含めて利用していたものがあった。昭和20年代後半のことだから版は違うだろうが、外見は全く同じと言っていい。学生時代の家庭教師の経験やその後の会社勤めでも至るところでこの“明国”を目にしている。
“明国”の編者は長いこと金田一京助と思っていた。監修者として表紙に名前があるのはこの人だけだからである。彼は有名人だから、ただの名義貸しに近い存在であることはなんとなく気づいていたが、あらためて編集者を確認すると、見坊豪紀(けんぼう ひでとし)、山田忠雄、金田一春彦の3名であることが分かった。この内金田一春彦は京助の息子で方言研究者、しばしば新聞に寄稿したりTVに出演したりしていたから知っていたが、見坊と山田は未知の人である。何も肩書のない見坊が筆頭、前日本大学教授の山田がそれに続き、五十音順なら最初に来るべき春彦は最後にある。本書を読むと春彦の関与したのは限られているようで、大部分が見坊と山田によって編まれたことが分かる。時代は下り“明国”は三省堂国語辞典(三国)と新明解国語辞典(新明解)に分かれる。現在の三国の編者筆頭は見坊豪紀、新明解の筆頭は山田忠雄である。既に両者とも故人である。“明国”誕生の背景は?この二人はどんな人物か?二人の関係は?何故同じような国語辞典が分かれて出版されるようになったか?それぞれの辞典の特徴は何か?辞書界でこの二つの評価はどのようなものか?このようなことを出版社、親族・関係者、作家、言語学者にヒアリングし、関連文献を精査してまとめたノンフィクションが本書である。
明国の嚆矢は1939年9月見坊が辞典編纂者(社員ではない)として三省堂に採用されるところから始まる。この時見坊は東大国文科の大学院生。三省堂が既に発売していた“小辞林”が文語体で書かれていたものを口語体に改めた新国語辞典(後の明国)として出版するために必要な人材としてである。三省堂の担当者も相談に与っていた金田一京助も既存の小辞林の文語体を口語体に置き換えるくらいの軽い気持ちでこれを見坊に託す。しかし、見坊は小辞林の序文(編集方針)から見直し、使いやすさを重視し、外来語を含む新規項目を大幅に取り込んだ、新たな辞書作りを提言し、たった1年余で原稿を仕上げてしまう。この時の“助手”を務めたのが同級生の山田で、さらにアクセントを整理するために春彦が加わる。戦時の紙不足もあり“明国”が刊行されるのは1943年5月になるが長期的ベストセラーがこの時生れたのだ。
言葉は生き物、時代とともに変化していくので、タイミングよく改定する必要がある。大掛かりな改定版が出たのは戦後の1952年(昭和27年)。改定作業の基となるのは用語の利用例である。見坊の関心は“明国”出版後この用例収集に集中していき(最終的に145万例!のカードが作られ、今でも三省堂の立川にある倉庫に眠っている)、ここから現代用語に即した新しい辞典を編纂すべきとの考えに至って1960年三省堂国語辞典として結実する。
しかし、明国は既に国民辞典的な位置にあり、この改定を望む声は依然として高いのだが、筆頭編集者の見坊にそれを具体化する動きはまるでない。利用者や営業の不満が次第に顕在化してくる。一方で山田には“助手”と言う見坊の言葉が引っかかっているほか、辞書の内容(語釈)にも自らの思いを反映したいとの気持ちが高まっていく。ここに出版社と山田の間で見坊外しの改定構想が生まれ、それは1972年(昭和47年)編集主幹山田忠雄の新明解国語辞典として世に出ることになる。
三国は累計1千万部、新明解は累計2千万部、両辞典とも隠れた大ベストセラーである。加えてそれらの基となる“明国”は1千万部。二人が送り出した3種の辞典の発行部数は合計4千万部と言うことになる。因みに対価は原稿料ではなく印税である。
この本の面白さは二人と2冊の辞典に纏わるストーリーばかりではなく、話を進める書き方にもある。実は二人ともその時々の思いを語釈や用例に密かに隠し込んでいるのだ。例えば、新明解;『事故』㊁その物事の実施・実現を妨げる都合の悪い事情。この語釈には、新明解発刊に際して関係者に配られた挨拶状に山田が編集主幹になった理由として「見坊に事故あり・・・」と書き出したことと深く関わっている。これには見坊も「事故などに遭っていない」と怒りを家族に露わにしている。三国では『事故』事件。故障。と載っている。山田の言動から類推すると、用例収集にかまけて明国の改定に着手しない見坊の振る舞いを表現するために“事故”を使ったようだ。これに対して『ば』の用例として三国に「山田といえば、このごろあわないな」などと書かれている。最も山田の心情を著わした例は;じつに【実に】「助手の職にあること実に17年(=驚くべきことには17年の長きにわたった。がまんさせる方もさせる方だが、がまんする方もがまんする方だ、という感慨が含まれている)」(新明解)とあり、17年間の忸怩たる思いをそのまま載せているのだ。
辞典づくりの奥の深さを知るとともに、辞書選びの難しさ、利用に際しての留意点を多々学んだ。序(編集方針)をよく読んで、同調できるかどうかがカギである。見坊は「辞書は鏡」山田は「辞書は文明批判」と言っている。私の判断は純然たる辞書としては三国が無難だが、読み眺めて面白いのは断然新明解と言ったところである。
5)日本人に生まれて、まあよかった
変な題名だし著者の名前も知らなかった。しかし帯にあった“比較文化史の大家”に惹かれて読んでみることした。基本的には現代の歪んだ国家観・国際観(戦後レジーム)を作り上げた我が国メディアと知識人批判、それに対する対応策であるが、“比較文化史”を踏まえているので同種の出版物に比べさすがに質が高い。直近の問題(例えば、従軍慰安婦問題を含む歴史認識や憲法改正問題)も取り上げているので、個々の問題についての著者の考え方を知ることが出来、それに対して読者としてどう考えるかも自問することが可能だが、むしろ、メディアの在り方や国際関係を担う人材育成・登用などへの提言に、より重きが置かれていると見るべきだろう。それを著者は“世界にもてる人材”と呼んでいる。
一言でいえば、いい意味でのエリート養成と意識の醸成である。その背景にあるのは旧制高等学校、第一高等学校へ飛び級で進学し、昭和29年大学院生の時にフランスおよびイタリアの国費留学生として欧州に渡たり長期滞在した自己の体験である。英語の他に仏・伊・独語を駆使できその後中国語も自修して、特に左翼知識人(大新聞と一緒に)が世論を主導した時代、外から冷静に日本を見てきたことが、“反大勢”と自認(自嘲?)する独特の日本論を展開する源になっている。
左翼系知識人、南原繁・大内兵衛・矢内原忠雄などをバッサリやった刀は現代の体制側エリート、外交官(著者から見ると憂うるべき語学力らしい)やキャリア官僚にも向けられ、定期的に資格試験で能力チェックを行い差別化すべしとの私見を開陳する。ここで官僚の力を問題視するのは、明治開国時代の指導層との比べ、数こそ限られていたものの、当時のエリートが突出した存在で、能力でも気力でもはるかに優れていたと見るからであり、とても現在の東大法学部出などエリートと言えないと明言する(自身は教養学部出身、エリートと自認していることは随所でうかがえる;竹山道雄の女婿)。
エリートによる国家運営は衆愚化著しい現下の民主主義政治の対極にある考え方で、惹かれるものがあるものの、一党独裁と類似の統治形態が想起され、全面的に“同感!”とは言えない。
しかし、終章『朝日新聞』を定期購読でお読みになる皆さんへ、はバランス感覚を欠いた世界認識で世論をミスリードしてきたこの新聞をグサリとやる内容で、小気味いい終わり方であった。
題名は夏目漱石が満州旅行をした後語った「支那人や朝鮮人に生まれなくて、まあよかった」から借用している。
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