2018年7月10日火曜日

ドイツ周遊3000km-14



-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-


11.ポツダム
523日(水)晴。今日のスケジュールは昼食まではポツダム、午後はベルリン市内観光、夕食の後はクラシック音楽鑑賞と盛り沢山だ。朝食は6時半から、出発は9時なので朝チョッと時間がある。この間、ご婦人方を中心にスーパーへの買い物ミニツアーが組まれている。家人はそちらに参加したが、私は一人で街歩きをすることにした。ホテルの在る場所は旧東ベルリン、周辺はホテルを含め新しい建物が多く欧米の大都会と変わりはない。そこで少し北側(西ベルリンから遠ざかる)へ、フリードリヒ大通りを20分ほど歩いてみた。路面電車が走り、通勤の人々が行き交う街は、一見大きな変わりはないものの、北に行くに従い画一観や野暮ったい感じが強くなり、「やっぱりな~」となっていった。完全に東ドイツだったポツダムはどうだろう?
個人的なポツダムへの関心は、何と言ってもポツダム宣言が発せられた場所、次いで19333月ナチス政権誕生(ヒトラー首班指名は1月だが、政権を確たるものにすべく3月に総選挙を行う。この投票日数日前に不審火で国会議事堂が炎上、ナチスはこれを共産党の仕業と決めつけ大勝する)の国会開会式場となった教会にある。しかしながら、後者に関しては観光ルートに無いことが判明、ベルリン市内でもナチス関連は皆無で、ナチスと国防軍を追い求める者にはチョッと残念。
昨日はベルリンへ荷物を積んで直行した専用の赤いバスがホテル通用口で待っている。現地ガイドは中年ドイツ人女性のキャサリンと言う人。日本語は極めて自然だ。向かうのはベルリン南西に隣接するポツダム。中心部からは約30kmの距離だ。フリードリヒ大通りを少し南に下り、直ぐに右折して東西に走る大通り、ウンター・デン・リンデン(菩提樹の下)大通りを行く。この通りは中心部で最も幅があり、ベルリン陥落寸前、ヒトラー救出のため小型機(ムソリーニ救出作戦にも使われた超短距離離着陸機;シュトルヒ)が離着陸したほどである(ヒトラーはそれを拒否した)。やがてバスは南西に向かう道に折れる一般道を進んで、アウトバーンに入る。ベルリンへ向かう道は渋滞しているが、出る側はスイスイ。ポツダムの少し手前で一般道に降りる。川や湖が左右に現れ、まるでリゾートの雰囲気だ。東ドイツ時代は政府高官、今は富裕層が住む高級住宅地域との説明がある。冷戦時代西ベルリンと接することからスパイ交換が行われた橋を通過したりする。
ポツダムで最初に訪れたのは世界文化遺産でもあるサンスーシ―公園(宮殿)、18世紀半ばプロイセン国王フリードリヒ二世の居城、夏の離宮として建てられたが専らここに住んだ所である。名前のサンスーシ(Sans Souci)は仏語で“憂いなし”。幾何学模様のフランス庭園が南斜面に、階段状に広がる。各段はバラが植え込まれてあり、シーズンには見事な景観を呈するようだが、今回は早かったようだ。宮殿から下に広がる庭園を見下ろすのはヴェルサイユ宮殿と同じ構図になる。建物はロココ様式、色がパステルカラーなこともあり、他のドイツの建造物に比べ穏やかな感じがして好ましい。
フリードリヒ二世ここで亡くなり、墓所も宮殿東側に設けられてある。お供えにジャガイモが沢山転がっており、「さすがドイツ!」の感を妙な所で確認させられることになった。王はドイツにおけるジャガイモ栽培・普及の先駆者・奨励者なのである。

写真上から;中心部北のフリードリッヒ大通り、スパイ交換の橋、サンスーシ宮殿全景、墓所とジャガイモ、宮殿中央上部

(写真はクリックすると拡大します)

(次回;ポツダム;つづく)(メールIDhmadono@nifty.com
  

0 件のコメント: