<今月読んだ本>
1)オホーツク核要塞(小泉悠);朝日新聞社出版(新書)
2)道と日本史(金田彰裕)日経新聞出版(新書)
3)発酵道(寺田啓佐);河出書房新社
4)鉄のカーテンをこじあけろ(ジョン・ポンフレット);朝日新聞出版
5)シニアになって、ひとり旅(下川裕治);朝日新聞出版(文庫)
6)新幹線全史(竹内正浩);NHK出版(新書)
7)朝日新聞政治部(鮫島浩);講談社
<愚評昧説>
1)オホーツク核要塞
-千島列島は原潜が潜むオホーツク核要塞の内濠、北方領土はそのために不可欠なのだ-
本欄でソ連・ロシア本を紹介する際何度か枕で語ってきたように、2003年から3年近く、横河電機の海外営業部門でロシアの石油関連企業向けプラント制御システムの売り込みを担当した。当時の現地法人は40名くらい、日本人は社長一人、管理部門(翻訳・通訳、ドライバー、食堂担当を含む)、営業、営業技術、保守サービス各10名程度の陣容だった。私と行動を伴にしてくれるのは通訳・営業・営業技術担当で、程度の差こそあれ皆英会話ができた(出来る人を採用していたのだろう)。従って、地方出張時などでは家族が共通話題になることもしばしばだった。そんな中にGという比較的若いセールスエンジニアがいた。日ごろ口数の少ない彼が、何かの折に「父親は潜水艦乗りで、日本の周辺を頻繁にパトロールしていたらしい」と語り、ウラジオストクを基地に、そんな活動が冷戦時活発だったことを知らされた。しかし、オホーツク海については全く話題にならなかったし、数少ないソ連海軍に関する書物にもカムチャッカやオホーツクに関する記述はほとんどない。それ故、本書の表題に強く惹かれた。
著者は1982年生れ、東大先端技術研究センター准教授、ウクライナ戦争開戦以降ロシア軍事専門家としてメディアに頻繁に登場している。ロシアのシンクタンクに客員研究員として所属、夫人はロシア人でロシア情報に関しては他の軍事評論家とはひと味違う存在、本書はその最新出版物である。ひと言で言えば“ソ連(ロシア)太平洋艦隊原潜史”である。
軍事組織には軍種と兵種というものがある。軍種はその軍だけで敵国を和睦に追い詰められる組織、古いところでは陸軍と海軍やがて空軍がそれに加わり、現在でも3軍構成の国が多い。核弾道ミサイルが実用レベルに達するとソ連のように戦略ロケット軍を他軍種から切り離し新たに創設することもある。兵種は分かり易い陸軍で言えば、歩兵・騎兵・砲兵・工兵などがそれに相当。海軍では艦に各種兵種が混乗、航海・砲術・機関・水雷・航空・通信などがそれに当たる。ただ陸軍でも海軍でもかなり独立性の高い兵種があり、陸軍では機甲軍・空挺部隊、海軍では潜水艦隊がその代表格だ。大陸軍国であるソ連(ロシア)では長く海軍は陸軍の一兵種のような存在であったし、第二次世界大戦後も潜水艦の役割は隠密兵器の枠内に留められていた。それが戦略兵種に転ずるには米・英のような海洋国家とは異なり、かなり高いハードルを超えなければならない。これを打破し、変革を強力に推進したのが1956年~1985年まで30年間にも渡って海軍総司令官を務めたセルゲイ・ゴルシコフ元帥(最終)、かつての沿岸海軍(~200km)は大洋海軍(2000km~)へと変身し、ソ連(ロシア)核抑止力の一翼を担うことになる。本書は、一当たり革命以降現在に至るソ連海軍史に触れるものの、大部分は1960年代初期から始まる原潜(特にSSBN;弾道ミサイル搭載原潜)と核ミサイルの解説に費やされる。米国のような空母中心に多数の水上艦艇で構成する機動部隊(核攻撃可能)は持たず、原潜+核ミサイルでそれを阻止、米本土を脅かす現実的なアプローチである。ソ連(ロシア)がここを重点的に強化することに理はあるし、著者がそれを深く掘り下げてその海軍戦略(さらには国家戦略)を分析して見せることにもうなずける。
ソ連(ロシア)の艦隊は、北方艦隊(バレンツ海)、バルト艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊の四艦隊からなる。この内戦略軍として重きを置かれているのは北方艦隊と太平洋艦隊。現在SSBNは北方艦隊に8隻、太平洋艦隊に4隻、SSGN(巡航ミサイル搭載原潜)は両艦隊に5隻ずつ配備されている(他艦隊はいずれもゼロ)。
1961年就役したソ連原潜一番艦658型(ホテル級)搭載の核ミサイルR-13の航続距離は600km、その後R-21に代わっても1200kmに過ぎない。これは70年代に667A(ヤンキー級;米原潜ジョージ・ワシントン級に相当)に代わり搭載ミサイル数も16発、ミサイルの航続距離は2500kmと倍増するものの。米本土を狙うにはいまだ十分ではない。おまけに騒音レベルが高く、アリューシャン列島から千島列島近海まで張り巡らされている米のSOSUS(音響探知網)や対潜哨戒機に検知される危険性が高い。ゲームチェンジャーとなるのは80年代に就役した667B‐DR型(デルタⅢ級)とそれに搭載されるR-29ミサイル、航続距離は8000kmにおよびしかも多弾頭ミサイルゆえに米国主要都市やミサイル基地を多数同時攻撃ができる。こうなると危険を冒して太平洋東部へ進出する必要がなくなり、彼等の内海ともいえるオホーツク海に潜んでいればいい。千島列島はいわば内濠、そこに対空・対艦基地を配備することに依り守りを固める。氷結すれば衛星・航空機からの探知は不可能、オホーツク核要塞がこうして出現したのだ。太平洋艦隊の原潜基地はウラジオストク(原潜基地はその北東)とカムチャッカ半島ルィバチーの2ヵ所にあるが、ウラジオストクは宗谷・津軽・対馬の三海峡で扼され、自衛隊艦隊・米第7艦隊が遊弋する日本海を要塞化することは不可。オホーツクの重みが増すわけである。
著者はここでカムチャッカ半島原潜基地ルィバチーの調査分析に傾注する。そこで明らかになってくるのが基地機能の増強と北極圏の軍事設備(レーダーなど)強化である。幸い日露の間に軍事的緊張関係は薄い、しかし4島返還はオホーツクの要塞化で難しい。これが日露関係の現実なのだ。
情報源としてユニークなものに、ソ連崩壊後いっとき許されたカムチャッカ地方へのジャーナリスト探訪記、自費で入手した同地方の衛星写真(多数;港湾機能ばかりでなく、原潜の存在有無からパトロール期間(出港・帰港)まで分析して見せる)、それにロシア海軍の部内誌「海軍論集」(購読契約で入手;航海や戦術ばかりでなく、乗組員の艦内生活までうかがえる)がある。見えてくるのはソ連崩壊で壊滅的打撃を受けたロシア海軍(特に潜水艦隊)復興の動きである。プーチン政権下で誕生した955型や885型は静粛性も高く、ミサイル母艦としての性能も著しく向上、新たな脅威になりつつある。
数少ないロシア海軍(特に潜水艦)に関する書物ゆえ参照資料として利用するための索引が欲しかった。
2)道と日本史
-馬車が現れるのは維新以降、通る主役は車輪か足か。これが現代の道路事情につながっている-
学生時代小金井で一人暮らしをしていた祖母宅に2年ほど住んだ。親しい級友の家が府中にあり、よく自転車で出かけ多摩丘陵辺りまでサイクリングを楽しんだ。その折多摩川に沿う道が鎌倉街道と名付けられていることを知り、「こんな道が鎌倉に通じているのか」と記憶に残った。現在鎌倉に隣接する横浜市南端に住いがあり、近くを県道21号線が通っていて、これも通称鎌倉街道である。前者は府中から町田、横浜市の西端瀬谷を経て鎌倉に至る道、後者は横浜市中区を経て首都圏環状道路16号線につながっている。明らかに両者の経路は異なるのだ。分かったことは、鎌倉街道は「すべての道はローマに通ず」の日本版、ということである。しかし、彼我の違いは大きい。地元イタリアばかりでなく、欧州西部各所で見られるローマ街道は石畳舗装、自動車交通の現代でも充分通用するのに対し、日本版は完全に作り直され、往時の面影はまったくない。日本の道路はいかなる過程をたどり現状になったのか、それを知りたく本書を読んでみた。
著者は1946年生れ、京都大学名誉教授。専攻は人文地理学、歴史地理学。この分野の一般向け啓蒙書をいくつか著しており、本欄でも2020年9月「景観から読む日本の歴史」を紹介している。学者の著したものゆえ、参考文献がしっかり記されているが、特定の道路(代表的なのは東海道)、特定市街の道路(例えば、奈良・京都・鎌倉)を語るものは多々あるものの、日本全体を歴史的に俯瞰したものは寡聞だ。その点で本書はユニークな一冊と言える。
「道の文化史」を著したオーストリアの歴史地理学者ヘルマン・シュライバーに依れば、道には①自然の道、②改修された自然の道、③建設された道、があると言う。本書で扱われるのは主として③の範疇に属するもので(官道)、大和朝廷時代から明治期までの我が国道路建設・変遷史である。これを日本書紀、延喜式、方丈記、徒然草、梁塵秘抄、吾妻鑑、太平記などの古典・法典、各種絵巻物・古地図、幕末・維新期に滞在した外国人の滞在記などを援用、その通史を描いていく。焦点を当てるのは古都の街路とそこから延びる街道。前者は藤原京、平城京、平安京、鎌倉、江戸など、後者は七街道(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、畿内(大和周辺);一部は時代とともに経路も名称も変化)が重点的に採り上げられている。
都の場合は都市づくりの基本が道路になる(条里プラン)。公的施設、住居域、寺社域、商工域などの配置。道路は大別して、大路、狭い大路、小路。藤原京では大路の幅は16m、狭大路は9m、小路は7m。平城京では朱雀路は74m、一般大路は24m、坊内小路は5~6m。いずれの古都も道路は碁盤の目状になっている。ただし整然とした区割りが保たれるのは平安中期までで、その後田畑や住居に蚕食され、道は細く曲がりくねっていく。統治力の低下がそうさせたのだ。
街道は国司をはじめとする役人の赴任・帰任、租庸調(徴税物)運搬、巡察、辺境防衛、参詣、それに江戸時代になれば参勤交代などに使われる、このためには適当な距離を置いて駅を設けそこに宿泊設備や馬を用意するようになる(やがて宿場町に変じていく)。ここで注意すべきは物資の運搬である。都の周辺と中心部を結ぶ近距離輸送では牛に車を曳かせることもあるが、遠距離になると専ら駄馬輸送(馬の背に荷を載せる)になる。馬車と言う発想がないのだ。欧州の道路との違いはここにある。もし馬車輸送が行われていれば道路の仕様(幅、舗装、歩道・車道分離)はまったく異なるものになっていたであろう。これが実現するのは明治に入ってからになる。
官道(街道)建設には一定の考え方がある。出来るだけ直線で結ぶこと、高低の勾配を緩やかにすることだ。無論地形から無理な所はあるが、切通しの多いことはその証と言える。一方で橋の建設は技術や経済上の制約もあるものの、治安維持策のために敢えて架橋させないケースも多々生じている。防備策は橋梁に限らず近世の城下町道路にも採用され、街道接続口から城下に至る経路を意図的に屈折させることになる。熊本、彦根、金沢などがその好例だ。
古代や中世における道路行政機関に関する解説は皆無だが、徳川幕府は道中奉行を置き、これを街道整備に当たらせている。対象は、東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中、これらに加え美濃路をはじめいくつかの脇街道を担当。その他の道は各藩が負うことになる。
明治初期の駐日英公使パークスは当時の道路事情をつぶさに考察、「英国領事報告」としてまとめているが、そこには、「大道は商品輸送のためでなく、行政上・軍務上の便利を図るため設けられた」とあり、「マガダム法(小砕石を利用した舗装法)を知らなかったので、豪雨の後は車両交通不能に陥った」と、車道としての脆弱性を指摘している。これは彼が馬車を利用した時の体験だろう。ただ、日本人が舗装を知らなかったわけではない。東海道箱根山中には部分的に石畳が現存しているし、18世紀逢坂山(日の岡峠)付近から山科盆地にかけて「小石を入れ、築あげ、一面大石を敷く」運搬用牛車道が歩道と並行して築かれたとの記録があり、遺構も残っていると著者はそれを糾している。要は長距離馬車輸送の有無が、道路の違いを生んだと言うことだ。
時代考証・引用文献はしっかりしており、鎌倉についての記述も詳しく、近隣散策の新たな楽しみ方に役立ちそうだ。ただ、個人的な関心は技術面(例えば、橋梁、切通し、舗装、排水、工法)にあったため、その点ではいささか不満が残った。比較対象は塩野七生「ローマ人の物語;すべての道はローマに通ず」。これは工学的話題満載。両者とも道路史であるが、本来比べるようなものではないかもしれない。
3)発酵道
-日本酒とは何か?製法ばかりでなく、ビジネスまで大いに勉強になりました-
子供の頃の父の酒は良いものではなかった。成人してその歳になればそれも理解できるようになったが、当時は酒がそうさせているとしか思えず、子供心に酒には親しむまいと誓った。学生時代はせいぜいコンパで軽く飲む程度、社会人になっても独身時代は酔うほど飲むことはなかった(そこに至る前にひと眠りしてしまうのが常だった)。飲むのはビールかハイボール、せいぜいコップで3杯程度、日本酒は極力避けた。理由は「頭が悪くなる」と聞かされていたことにある。当時1級・2級・特級の格付けがあり、安い2級酒は不純物混入量が多く、二日酔いになりやすかったことがそんな話の源らしい。晩酌をするようになったのは結婚後、350mℓのビール缶ひとつ空けるのは今に続く。時にはワインも飲むが、日本酒を購入し自宅で飲んだことは一度もない。従って、日本酒に関する知識はゼロに近い。本書は最も私から遠い酒類、日本酒に関する話である。無論自ら求めたものではなく、水泳仲間の女性が回してくれたものである。
著者は1948年生れ、大学を中退して家業の電化製品販売店の営業を担当していた25歳の時300年続く造り酒屋「寺田本家」に婿入りし、やがて“下戸だが利き酒には自信”と自他ともに認める23代目当主となる。本書の発売元は河出書房新社だが発行は有限会社スタジオK、自費出版を企画・発行する会社のようで、初版発刊は2007年と古いが23版を重ねている。
全体の流れは、①著者が従事するようになってから現在に至る日本酒ビジネスの変遷→②酒造りのかなめである麹菌に関する解説→③麹菌機能を抽象化し自然食材生産販売さらには麹菌的(普段目立たず、必要な時に必要な役割を果たす)人材による理想社会像。率直に言って、個人的に読む価値があったのは①、日本酒ビジネスに関する部分のみであった。一方、著者の重点は②、③に置かれている。
日本酒の売上げは1973年がピーク、婿入りした74年はその勢いがまだ続いている。この酒造家は女系家族、義父も養子で本業は高校教師から千葉県教育委員長に登りつめており、婿が決まるとそちらに専念。こんな兼業経営が長く可能だったのは、大手に原酒を丸ごと渡す「桶売り」をしてきたからである。この商法は量が決め手、成長期さしたる創意工夫は要しなかった。しかし、しばらくすると日本酒離れ(洋酒への置換わり)が起こり、中小造り酒屋経営苦悩の時代に突入する。ディスカバージャパンによる地酒ブームや純米酒ブーム、さらには大吟醸ブームなど、間欠的に日本酒人気が起こるものの、長期の凋落傾向は止まらない。この危機を如何に克服してきたか、これが①の要旨である。答えは、伝統的日本酒造りへの回帰である。とは言っても全面切り替えではない。自社ブランドを際立たせることで、業界での存在感を増す戦略である。
本来の日本酒は米+米麹+水から醸造される。しかし、これだけでは量に限界がある。戦時中これに合成アルコールを追加、さらに製品の味を調えるために各種の添加剤(ブドウ糖、コハク酸(果実酸)、グルタミンソーダなど)を加え、元の3倍量の酒を作り出すことが普及する。コストは安いし量産も楽。このやり方が戦後は一般的になっている。米から生産されるアルコールと合成アルコールの割合で、本醸造・本造りなど格付的な名称が許され、等級審査に反映される。しかし、この等級審査そのものには厳密な数値基準があるわけではなく、国税庁酒類審査会の味見で決まるのだ。国税庁は出来るだけ量がでることを期待、審査はそれを反映し質は二の次となる。さらに問題なのは、米をアルコールに転じさせるための米麹である。本来米を蒸し手間と時間をかけて酒蔵内に自然に住みついた麹カビを利用して作り上げてきたのだが(野生酵母;ときに腐敗菌(火落ち菌)が発生し壊滅的な打撃を与える)、昨今はこれが日本醸造協会提供の「協会酵母」(人工酵母)に置き換わっているのだ。これではどこの蔵の製品も味に大きな差がなくなってしまう。
著者の挑戦は、原料米の選択から始まる。無農薬・有機肥料(化学肥料を使わない)で生産された米(原価3倍)の確保。さらに無添加剤、蔵内麹菌による発酵へとつづく。乗り越えなければ課題は価格ばかりではない。伝統製法を知る杜氏もほとんど存在しない。独自販売ルートの開拓も一筋縄ではいかない。幾多の苦労を乗り越えた末生み出された「五人娘」(先々代から縁のあった歌人土屋文明による命名;女系家族で娘が多かったことに因む)が300年続く老舗造り酒屋の命脈を保つことを可能にしてくれる。
この伝統製法回帰に際し、著者は各種の専門家に教えを乞うている。それを通じて自然食材への関心を高め、その普及活動に加わり、今やその方面の伝道師とも言える位置に在る。本書が23版も重ねていることと無縁ではあるまい。ただ、ここは私の関心事ではなく、ほとんど読み飛ばした。さらに、菌類の働きを人の資質・活動と重ね合わせるところは牽強付会の感を免れず、異教の聖書のような読後感を覚える結果になった。
4)鉄のカーテンをこじあけろ
-ポーランド、ソ連支配の数ある東欧の一国と思っていたが、その親米度の違いを明らかにする諜報ドキュメント-
まるで命令形の邦題で惹きつける米冒険小説家クライブ・カッスラーの新作かと紛う題名だ(ベストセラーの一つに「タイタニックを引き揚げろ」がある)。原題は「From Warsaw with Love」、007シリーズ作品「ロシアから愛をこめて」からの借用だ。しかし、ジャンルは冒険小説ではなく諜報戦ノンフィクションである。ポーランドについては18世紀の3国による分割、ショパンそれに第二次世界大戦でナチスドイツに蹂躙された国くらいしか知識がない。それだけに冷戦下そこに米国と深く関わる諜報活動があったという話は、ここに格別の関心を持つ者にとって捨て置けないテーマだ。少々高価(3200円)だが取り寄せることにした。
著者は1959年生まれのジャーナリスト、作家。ワシントンポストの外国特派員を長く務めポーランドに3年滞在、1997年から2003年まで北京支局長も務めている。
諜報物の定番は、先ず組織(KGB、CIAなど)の通史、その中での大きな事件(例えば、トップが絡む組織内スパイ)あるいはそれと関わる特定人物、と言ったところである。しかし、本作品はこれらとはいささかおもむきを異にする。原題の「ワルシャワから愛をこめて」がピッタリの内容なのだ。つまり、ポーランドの米国に対する熱い思いが冷戦時代から現代までの多様な“事件”を介して語られる。そして、なにゆえにポーランドがそれほどまでに西側傾斜を深めてきたかを解き明かしていくのである。
原点は1945年2月のヤルタ会談にある。欧州戦線の帰趨が見え戦後の中東欧の勢力圏を調整するに際し、ロンドンに亡命政権が在ったにも関わらず、ルーズベルト、チャーチルは最終的にスターリンの要求を飲む。戦後東側に取り込まれても共産党独裁は他の東欧諸国と比べれば弱く、スターリンをして「ラディッシュ(この場合、外側は赤いが中は白い大根)」と言わしめるほどだ。諜報治安組織は国内の締め付けでは厳しいものがあったが、対外的には産業スパイが主体で、本書の中でも1970年代軍事技術に深く関わりのあったヒューズ・エアクラフト社に対する技術情報を巡る活動が導入部の話題となっている。80年代やがて「連帯」につながる民主化運動が活発化するとやっとCIAが動き出すものの、殺しのような殺伐とした場面があるわけではない。ただ鉄のカーテンはポーランドからほころび始めていることは確かだ。
ゴルバチョフ登場で東西融和が進む中でポーランドが最も懸念していたのは、東西ドイツ統一が独ソ二国の間で進んでいくことである。東独は冷戦時代現在の国境(旧ドイツ領に200km西進)を承認していたが西独はそれを認めていなかった。ソ連はかつてナチスと交わし占領したポーランド領を返還する意思はまったくない。米国の力を借りて、何としても現西部国境を国際的に認知させたい。これが、熱い思いの背景にある。加えて、政治・経済・文化・宗教(カトリック)に対する西欧との親和性がEU加盟を熱望、将来の安全保障政策としてのNATO加盟も世論が切望する。いずれも、米国の支援が決め手とポーランドは読んでいる。
この親米政策として紹介される2件の事例が興味深い。一つはイラクがクウェートに侵攻した湾岸戦争。この侵攻作戦は米陸軍によって予知されており、侵攻直前現地に軍諜報部員が派遣されている。彼らは大使館員を偽っているが、
“人間の盾”としてバグダードに移送され、他の外国人たちと拘束される。ポーランドは冷戦時代からイラクに企業進出しており数千人が滞在していたので、米軍諜報員をポーランド人労務者に変じて、トルコへ向け脱出させる。成功後ブッシュ(父)大統領は「米国はポーランドの情報員が米国市民を救ってくれたことを決して忘れない」と語り、当時330億ドルあった対外債務を半減するよう西欧諸国に働きかける。この部分はサスペンス小説もどきだ。
もう一つは9・11同時多発テロに関してアフガニスタンや中東で拘束したテロ犯罪人取り調べに関する話だ。有名なのはキューバの一角グアンタナモ米軍基地内に設けられた収容所だが、もう一ヶ所がポーランドに存在した。国内(グアンタナモ基地はその扱い)に抱える捕虜・戦争犯罪容疑人に関する情報は赤十字に報告する義務がある。しかし、国外はその限りでない。米国はポーランドに秘密収容所の設立を打診、ポーランドはある種の主権侵害に当たるにも関わらずこれを受け入れる。この収容所は数年後跡形もなく消え失せ、両国は公的には一切その存在を認めていない。ここはまさに外交秘史だ。
これら以外にも、冷戦時代から外交関係がある北朝鮮など米国が直接接触できない国々の情報を提供するなどその紐帯は強く、EU・NATO加盟に一貫して反対してきたフランスは「米国のトロイの馬」と揶揄するほどだったが、1999年NATO加盟、2004年にはEU加盟を成就する。
ただ、このような親米国家の心情も米側にとっては次第にインパクトが薄まってきており、著者はこれを問題視する。つまり、「米国は盟友の立場に合わせる必要がある」と。これは、対日関係にも言えることではなかろうか。
5)シニアになって、ひとり旅
-元祖バックパッカーも70歳、旅のスタイル激変、高齢者旅行ノウハウ教えます-
2020年更新を機に運転免許証を返納、これからは鉄道で一人旅と考えていた矢先、コロナ禍で旅行は封じられ、やっと昨年実現した三陸の旅はツアー参加で我慢する結果になった。一人旅の計画をあれこれ検討してみたが、時間はいくらもあるが、列車の乗り換え・接続、見所を巡る足の問題、お一人様高齢者を積極的に受け入れてくれる宿泊先確保など、意外と面倒なことが分かった。しかし、初めて参加したツアーは時間効率の良さやドアーツードアーの利便性は享受できたものの、これはこれでお仕着せへの不満も多々味わい、一人旅への思いを断ちきれずにいる(とは言っても6月初旬離島ツアーに参加するが)。シニアの一人旅ずばりのタイトルに惹かれ読んでみることにした。
1974年生れ、費用を最小限に抑える冒険的バックパッカーの始祖とも言える著者も本年で70歳、私よりは15歳若いがシニアを称する資格は充分ある。この歳で昔のような厳しい旅にチャレンジしているのか、旅に対する考え方に変化はあるか、高齢者として配慮しなければならないことは何か、具体的な旅先はどんな所か、そんな疑問に応えてくれることを期待した。
本書は一種のセンチメンタルジャーニーである。とは言っても同じ場所を訪れるわけではない。旅をするのはすべて国内。そこには高尾山や都バス路線、さらには自宅(阿佐ヶ谷)近辺の散策すら含まれている。しかし、七話から成るこれらの旅の中で少年時代の想い出やかつて訪問した地での体験や乗物を語るのだ。
著者の作品は、2012年1月に本欄で取り上げた「世界最悪の鉄道旅行」(2011年刊)を皮切りに直近は2018年に紹介した「世界の「超」長距離列車を乗りつぶす」まで10巻ある。これらを通じて著者像はほとんどつかんでいたつもりでいたが、本書でさらに旅行作家としての生い立ち・背景がはっきりと見えてきた。付加調査を含めると、おおよそ以下のようなものになる。両親、著者とも松本市出身、父親は地方公務員で長野県内を移動し、一時期は長野市や諏訪に住んでいたことがあるが、高校は松本深志高校、ここで山岳部に属し後年のバックパッカーとして行動する基礎が築かれている。慶応義塾大学経済学部に進み部活は新聞部、就職先は産経新聞だがサラリーマン生活に馴染めず3年で退職、その後旅行作家として独立する。高校・大学での部活、新聞記者としての経験(執筆)を生かす人生。タフ(予算制約、奥地・辺境、強行軍・危険)な旅、暖かい現地を見る眼、難題にもユーモラスな筆致、作品愛読の源泉が本書で見えてきた。
旅先は、花巻(廃業した地方デパートに残る大食堂;子供の時家族で訪れた長野駅近くのそれと重ねる)、小湊鉄道(ディーゼルカー;長野県内移動、高校生時代の一人旅)、阿佐ヶ谷近辺の暗渠道(自宅近辺散策路、水源を善福寺池、妙正寺池、三宝寺池などに発する小川が暗渠化、ここから江戸時代の上水やメコン河に思いをはせる)、苫小牧発仙台行きフェリー(ユーラシア旅行で利用した数々のフェリー)、高尾山登山(コロナ禍中のトレーニングで少なくとも月2回は出かける。6コースあり、無論ケーブルカーは使わない。山岳部回想)、都区内路線バスの旅(新宿駅西口を発し→曙橋→江戸川橋→目白駅→練馬駅に至る白61路線は約14km、23区内を走るバスで二番目の長さ、世界各地でのバス旅行(安価を求めればこれにたどり着く)、著作の1/3はバス旅に関するもの)、小豆島一人旅(著者の趣味の一つは俳句;小豆島で没した自由律俳人尾崎放哉(ほうさい)を偲ぶ)、の七カ所。旅行作家は旅が収入源だが、コロナ禍でそれが封じられたことでこのような特異な“旅”を題材にする。シニアには近場がお薦めという意図もあるのだろうが・・・。
シニアだから味わえる旅、仕事や家族と離れてのそれだ。そのキーワードは「ひとり」、題名はここから来ている。著者は今年で満70歳、体力の衰え(高校山岳部時代はどんな厳しい山も50分歩いて5分休憩、景色が良くてもそこでの休憩なし。今は適宜景観を楽しみ30分歩いて10分休憩)からシニア割引(LCCは安いがシニア料金はない。JRは各種シニア割引があるが、年齢制限のない青春18切符の方が安い。ホテルの夫婦シニア料金は高い!)まで、シニアならでは旅のノウハウを開示する。
路線バス旅の面白さから、まだ海外に出かけるがやがて国内となり最後は都内を走る路線バスにたどり着く気がすると結ぶ。クルマを手放してはや4年、遠方への鉄道旅行に一人で出かけることに不安を感じる今日この頃、著者が教えてくれた近場の旅の楽しみ方を私なりに応用してみたい気になって来た。
6)新幹線全史
-東海道新幹線から最近開業の西九州新幹線・北陸新幹線延伸まで、全新幹線の我田引鉄を白日の下にさらす-
1964年和歌山工場はOG-1プロジェクトと名付けられた大拡張工事のさ中にあった。入社2年に過ぎない私が担当したのはオフサイト(タンクヤード、出荷設備、ガソリンおよび重油調合装置)のディジタル化(と言ってもコンピュータではなく専用ディジタル制御システム)の設計・構築、このため頻繁に本社やメーカー(すべて京浜地区在)に出張していた。その中でいまだ記憶に鮮やかなのは、9月30日から10月6日にかけてのそれである。9月30日に大阪駅から乗ったのは東海道線最後の上り電車特急“こだま”、10月6日に東京駅から乗車したのは開業間もない東海道新幹線“ひかり”である。10日には東京オリンピックが開催される。在来線最後の特急乗車、オリンピック直前の新幹線利用、こんな鉄道史の節目を体験出来たことは、鉄道ファンとして無形財産である。爾来新幹線は北海道から九州まで延伸、ビジネス、観光ともにそのスタイルが激変している。本書は東海道新幹線・山陽新幹線の前身とも言える戦前の弾丸列車構想から始まり、最近開業した西九州(長崎)新幹線・北陸新幹線、工事中のリニア新幹線を含む、全新幹線の計画から開業に至る経緯を明らかにするものである。
著者は1963年生れ。大学卒業後日本交通公社(現JTB)に入社、「旅」の編集部などに在籍、2004年退社し地図や鉄道、近現代史に関する取材・執筆を行っている。
いずれの新幹線も説明の展開は、建設目的・背景→着工までの経緯→ルート→駅→駅名、となっている。どの段階も地形を除けば技術的問題より政治的(広義の経済を含む)課題がはるかに大きく、本書の重点もそこに置かれている。
歴史ゆえ流れは東海道新幹線から始まりミニ新幹線・リニア新幹線で終わる。これを3部作で構成する。第一部は東海道新幹線・山陽新幹線(いずれも前史を含む)、第二部は東北新幹線、上越新幹線それに付加程度の成田新幹線、そして第三部がそれ以降建設・開業した新幹線。第一部の両線は戦前の弾丸列車構想の復活、既にかなりの用地買収も進んでいたこと(ただし大阪以西は戦後返還した)、戦後の輸送量回復・増加は著しく、特に東海道線(在来線)は1955年(昭和30年)の段階で、営業キロ数は全国鉄の3%に過ぎないが、旅客輸送は25%、貨物は24%を担っており、輸送限界に達していた。当初計画は狭軌複々線敷設であり、法律も戦前からの鉄道敷設法がそのまま適用可の状態だった。つまり、予算以外大きな政治問題は存在しなかった。これに対し、第二グループは国民経済発展・国民生活地域拡大を旨とし1970年成立する議員立法「全国新幹線鉄道整備法(全幹法)」が推進基盤。やがて「列島改造論」と一体化していく。新線建設を決定するのは鉄道建設審議会、この会長は自民党総務会長、審議会の下に課題整理に当たる小委員会がありこの委員長は政調会長、いずれも指定席だ。全幹法提出の代表者は鈴木善行(総務会長;岩手県)、提案者は田中角栄(幹事長;新潟県)と水田三喜男(政調会長;千葉県)。さらに成田新幹線は常磐新幹線の一部、ときの運輸大臣は橋本登美三郎(茨城県)、次官は成田を地盤とする村山新次郎。3線が真っ先に決まったのは、政治家による「我田引鉄」なのである。全幹法はこれ以降順次認可・着工の予定だった。しかし、1978年秋第一次石油危機到来、加えて国鉄の赤字がその経営を危うくしていく。ここで鈴木善行内閣の下中曽根行政管理庁長官は臨調トップに土光敏夫を据え、1982年「整備新幹線計画、当面見合わせ」を閣議決定する。1987年4月中曽根内閣によって実施された国鉄民営化は予想以上の成功を収め、自民党内に「整備新幹線建設促進特別委員会」「整備新幹線財源問題検討委員会」などが発足、ミスター新幹線と称せられようになる小里貞利(鹿児島県)が党内推進のリーダーとなり凍結されていた九州新幹線あるいは長野オリンピックに向けた長野新幹線が着工されていく。
政治絡みは新線認可・着工ばかりではない。国鉄(JR)の新幹線敷設計画には技術(地形、速度、ダイヤなど)や経済(用地買収、工事費、営業収入など)上の配慮が必要だ。前者ではできるだけ駅間を直線にし(急カーブを避ける)、勾配も緩やかにしたい。また、駅間距離も適度に長くとりたい。これに対し、それぞれの地方には中心都市や既存駅との関係で別な要求を様々出してくる。例えば、仙台駅は既存駅をバイパスしその東方に在る仙台貨物駅付近に新駅を設ける方がはるかにスムーズな運行が可能なるが市や商店会は現駅利用を切望する。これは仙台駅が優等列車(東海道新幹線で言えばこだまに対するひかりやのぞみに相当)停車駅となるので駅前後の速度が低いことで、地元の提案を飲む結果になる。
駅の配置もなかなか難しい。岡山-広島間でもめたのは福山・尾道・三原、誘致合戦が繰り広げられ、結局新尾道は請願駅(全額地元負担)としてのちに設けられる。これは東北新幹線の水沢・北上・花巻も同様、水沢江刺と新花巻は請願駅として設置が決まる。
駅名も一筋縄ではいかない。上越新幹線の燕三条は、人口で勝る三条が燕の後塵を拝することを嫌い、三条または三条燕を主張、田中の一声で決まる。当時田中角栄は新潟三区(三条)、対する燕は新潟一区でここは自民党の重鎮小沢辰雄の地盤、どうやら田中が小沢に貸を作ったようだ。因みに北陸自動車道のIC名は三条燕である。那須塩原、水沢江刺などもそれが決まるまでには、外からうかがい知れないそれぞれの経緯があるのだ。
立法・予算確保と議員の動き、国鉄(JR)の経営事情・考え方、実行計画案の決定過程(特にルートと駅)、それぞれの地元事情など、ときどきの社会情勢もむくめ、“全史”に相応しい内容になっている。しかし、期待効果や現状の問題点への言及がほとんどない。ミニ新幹線(在来線を3線にして利用;秋田・山形新幹線)はフル規格の1/10~1/20の費用で建設できたとある。大都市との直結、時間短縮ならこれで充分のはずだが地元は納得しない(フルスケールを求める)。在来線廃線が地方に与える影響が問われる昨今、新幹線延伸をこのまま続けることに疑問を感じており、開業までの歴史を語るだけでなく、“その後”にも踏み込んでほしかった(例えば、請願駅は期待した結果を得られているのか?道路や空路との競争は?)。
7)朝日新聞政治部
-ときに国政・国際関係さえ動かす朝日新聞、政治記者が体験で語る問題点は組織風土の劣化だ-
「朝日の政治記事と日経の経済記事は信用するな!」というブラックジョークがある。あながちジョークでない気もするが、その朝日と日経を定期購読している。朝日で経済記事を、日経で政治記事を読むためではない。子供時代の我が家の新聞は朝日であり、これに関して強烈なインパクトを受けたことと無縁ではない。ある時(小学校4,5年生頃)読売の販売促進員が売込みに来た。母が「うちは朝日と取っているから」と断わると、その販売員は「奥さん、あれはインテリが読むもの、面白くないでしょう」とたたみ込んできた。普段怒号など決して発することのない母が「私は高等女学校を出ています!」とやり返した。「朝日はどうやら高級な新聞らしい」。これが朝日の第一印象である。中学、高校と進むにつれ、他の新聞を取っていなかったこともあり、「朝日こそ世論」と洗脳されていく。大学2年生の時から祖母宅で暮らすことになり、彼女の愛読する読売新聞に触れるようになる。祖母はラジオ・TV欄が楽しみでのようだった。ここで得た読売観は「芸能・スポーツ新聞」。それは電子版を閲覧している今もあまり変わらない。ただ、朝日観は年齢とともに激変、今では日経新聞内容チェック用(それに家人用)に過ぎない。否、一時は人民日報東京版あるいは朝日(ちょうにち?)新聞とさえ思え、慰安婦問題では反日売国新聞の感を強くした。本書は、同様に騒動となった吉田調書(福島原発事故に関する吉田発電所長の発言)スクープ時のデスクであった著者の就職から退職までの回想記である。朝日新聞の内にあった者の書物など滅多に手にしない私だが、本欄を閲覧してくれている友人が「是非」と回してくれたので読むことになった。
著者は1971年生れ、京大法学部卒業後1994年朝日新聞入社、地方支局を何ヵ所か回ったのち1999年政治部に配属、他部署にも一時身を置くものの、一貫して政治記者である。吉田調書事件もあり早期退職制度を利用して2021年5月退職(満50歳)。現在はウェブメディアを主宰している。自己弁護と取れる部分は気に入らないが、大手新聞社の内部、特に取材活動から記事掲載に至るプロセスや組織・人事の内幕を知ると言う点において、これほど具体的に書かれた著書を知らない。「読んで良かった」と言える一冊だった。
朝日新聞の社員は約4000名、記者2000名、政治部の記者は約50名。これだけでも政治部記者がかなり選ばれた者であることが分かる。部長の下に4人のデスク(次長)がおり2人は本社、他の2名の内一人は官邸長、もう一人は政党長。さらに官邸長の下に官邸クラブと霞クラブ(外務省担当)、政党長の下には平河クラブ(与党)と野党クラブが在る。著者が最初に配属されるのは政治記者スタートポイントである総理番。小渕恵三政権のときである。ひたすら総理秘書官を追い回す(夜討ち・朝駆け)のが仕事。翌年霞クラブ担当になると同期の小池百合子がそこに居り、社内どころか他社も圧倒する勢い、著者は失格。今度は野党グループ回され、菅直人番となり、後年民主党政権が誕生するとそれが生きてくる。2001年小泉純一郎政権誕生で再び官邸グループに戻り、竹中平蔵経済財政担当大臣番になる。竹中は民間からの起用と言うこともあり霞が関/永田町(小泉改革抵抗勢力)に相手にされない。ボヤキを聞かされるのは著者の役割。しかし、官邸主導が強まるにつけ竹中の存在が大きくなり、経済官庁を根城とする経済部記者以上の働きをする。これが評価されキャップ(デスクの下)に昇進したところで、“好事魔多し”、2008年地方記者メモをまとめた記事が虚偽であることが判明、責任を取らされる形で新設された調査報道班(独自取材・調査に基づく記事を書く)に回される。この種の記事は社会部が得意とするところ。ここでは出身母体の違いからくる軋轢もあるが、調査報道の方法を学びその重要性に目覚める。2007年再び政治部へ、第一次安倍晋三内閣では官房長官番、さらに平河クラブ・サブキャップ(部下10名)となり、2009年の麻生太郎内閣解散、民主党政権誕生を目の当たりにする。菅直人との関係から期するところがあったが、社内パワーゲームで野に下った自民党担当となる。事実上の降格人事だ。2010年4月には特別報道センター(かつての調査報道班の改組)勤務となる。この間民主党は失速していくが6月の菅直人内閣誕生で政治部デスクに抜擢される。30代(38歳)のデスクは極めて異例なことだ。
多少の波乱はあったものの順風満帆の記者人生が一転するのは2014年に起こる「吉田調書」誤報事件。東日本大震災で被災した福島原子力発電所は、二つの発電所から構成される。壊滅的な打撃を受けたのは第1発電所、その発電所長吉田昌郎(2013年死去)は7月から11月にかけて内閣官房事故調査・検討委員会の聴取をうける。この時作成された聴取記録が吉田調書である。取扱いは厳秘となっていたが、これを朝日新聞の二人の記者が入手、そこには、おおむね(正確な文書は示されていない)「9割に当たる650名の作業員が、所長の待機命令に従わず、約10km南に在る第2発電所に撤退した」と記されていた。これを朝日は「命令違反」として東電を糾弾するととともに3年以上秘匿したと政府にもその矛先を向ける。社会に及ぼす衝撃は大きく、安部内閣はこれを公開する。メディア各社は調書を精査(約300頁)、吉田の指示も作業員の受け取り方も“命令”ではないことが判明、「誤報事件」と報じられることになる。このとき著者は特別報道部デスク、この記事の責任者である。当時、朝日は「慰安婦問題」、これを難じた「池上彰コラム掲載拒否」などバッシングのさ中にあり、この件も含めて窮地に陥っている。木村伊量(ただかず)社長は「誤報」を認め辞任、編集担当役員解任、部長は停職2カ月、記者2人は減給(のちに退社)、著者は停職2週間後知的財産室に配置替えとなる。しかし、本書の中で著者は「誤報」を認めておらず、表現に配慮を書いた「危機管理」の甘さにある、と繰り返し主張している。つまり、責任は個人ではなく社内風土の劣化にあるとの見解だ。
ここで思い出したのは40数年前コンピュータ・メーカーが研修施設で催した石油・化学企業管理者向けセミナーである。この時の講演者は朝日の論説委員を務めるK氏、東大航空学科(旧制)出身で科学・技術分野のジャーナリストとして著名人だった。たまたま講演後の昼食時同じテーブルに着くことになった。同席したのは面識のある化学会社の情報システム部長Tさん、話題は化学工場の事故と報道に関する話になった。二人とも事故報道に不満がありそれを訴えた。それに対してK氏は「明らかに間違いならば誤りますし、時には修正もします。しかし、見解の相違は正しようがありません」と応えた。爾来関連する報道を目にすると“見解の相違”を意識するようになった。彼らは、“読者受けする”、さらに言えば“売れる”記事を見解の原点にして報じているのだと。その証拠に本書各章の扉には4紙(朝日・読売・毎日・産経)の販売部数とその前年比が記されている。新聞は社会の木鐸?それとも商品のひとつ?本書を読んでも前者のイメージは沸いてこなかった。
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