2019年3月31日日曜日

今月の本棚-128(2019年3月分)



<今月読んだ本>
1)生き残る判断 生き残れない行動(アマンダ・リプリー);筑摩書房(文庫)
2)文字と組織の世界史(鈴木董);山川出版社
3)海軍ダメージ・コントロールの戦い(雨倉孝之);光人社(文庫)
4)藩と県(赤岩州五 北吉洋一):草思社(文庫)
5)アラスカ戦線(ハンス=オットー・マイスナー);早川書房(文庫)
6)大砲と帆船(C. M. チポラ);平凡社

<愚評昧説>
1)生き残る判断 生き残れない行動
-パニック、英雄譚はメディアで作られる。大事な不断の危機意識と訓練の習慣化-

危険物・可燃物・高圧ガスを扱う工場で20年間過ごした。死亡や火災を伴う事故にも何度か遭遇した。こんな職場だから大規模な防災訓練が定期的に行われ、各種安全啓蒙活動が日常業務の中に組み込まれている。そこからの学んだことの中には、例えば、階段を降りる際片手はフリーにしておくこと、飛行機に乗れば安全マニュアルに目を通すことなど、習慣化しているものもある。幸い生死に関わる災害や事故に直面したことはないが、いざという時こうした体験が役に立つと期待している。東日本大震災から8年目の今年3月、映画館で“安全(暗中模索)”が気になった後立ち寄った書店で本書を見つけ読んでみることにした。
著者(女性)は1996年コーネル大学卒の米国人ジャーナリスト兼ノンフィクション作家、“公共政策と人間行動の間に生じる差異”をテーマに執筆活動をしており、本書もその一環である。原著の出版は2008年6月、15カ国で翻訳出版されている。邦訳単行本発刊は2009年12月、従って東日本大震災は取り上げられていないが、読んだ人は相当居るはずである。その読後感やあの大震災との関係が、文庫本(本年1月刊)あとがきに記されていないのはチョッと残念だ。
取り上げられる事例はあの2001年9・11同時多発テロを始め、2005年8月ニューオーリンズを襲った台風カトリーナなど米国の自然災害・銃撃事件・大規模火災事故・航空機事故などが圧倒的に多いが、インドネシアの地震と津波、コロンビアやエルサレムのテロ、何度も起こったメッカ巡礼の圧死事故、特殊部隊の戦闘など海外での事件・事故も調査対象にしており、事例の一般化に努めていることが窺える。もし、東日本大震災後の執筆であれば、必ず詳細な分析が行われたに違いない。
本書の特色は、世界的によく知られた災害・事故を調査分析対象にしながら、多くのジャーナリズムに見られる煽情的なトーンが皆無であることである。否、むしろ冷静で学際的な筆致が、面白味は欠くものの、「もしそんな状況に置かれたらどうするか?」を読者に真剣に考えさせる書き方になっている。
まさか自分の周辺で災難が起こるはずがない!?(否認;ある種の催眠現象)、一体全体何が起こったのか!?(思考;状況把握分析)、この場から逃れよう(決定的瞬間;行動)、これが災害時の人間がたどる3段階の基本パターン。前2段階で空費される時間が馬鹿にならない。これらの段階それぞれの内容が聴き取り調査・事後報告で整理された上、部分々々に分解され、心理学(特に行動心理学)・社会学あるいは精神医学・脳科学はては動物実験の最新理論まで動員して検証していく。ここが本書の胆なのだが「凄い!」の一語に尽きる(いささか“くどい”と感じるところもあるが)。
やはり生き残り行動につながる資質はあるようだ(米軍特殊部隊員選抜;体内の化学成分の一部が常人と異なる!)が、経験・訓練・不断の備えは軽視できない。あの9・11の中でモルガン・スタンレー社はタワーが崩壊した時中に居たのは13人(死者・行方不明者)、2687人は無事だったのである。ここには経営陣・従業員に疎まれながら1990年から繰り返し避難訓練を実行してきた警備主任の存在がある。世界貿易センターはニューヨーク市港湾公社の管轄下にある。早くからその災害時対応の考え方改善を唱えていた警備主任はそれが聞き入れられないことから「避難の際は公社の指示に従うな!」「避難は上の階から」と独自の方法を社員たちに教え込んでいた(“否認”の段階を短時間で強行突破させ、決定的行動に素早く移る)。彼は失われた13人の一人、嫌悪した役員・社員たちは事件後鬱陶しかった訓練の有り難さを思い知らされることになる(他テナントでは非常階段の在り処さえ知らない者が多数いた。非常階段を下るのに障害物が無くても1階1分かかる)。警備主任は戦場体験もある(ヴェトナム戦争銀星章受賞者)プロ中のプロ、そこから学ぶことは多い。
身近な事例もある。米国の高校には自動車教習の授業があるところが多かったようだが最近は予算不足で中止されている。両親に運転を教えられたティーンエイジャーが起こす重大事故はプロに習ったものの2倍以上。
この種の出来事でしばしば目にするパニックや英雄報道の分析もなかなか興味深い(気が動転した大混乱は少ない。英雄譚は後から作られ、本人もそうだと確信してしまう)。
その場に置かれてどこまで実行できるかはともかく、種々の災害・事故に際して、生存への行程を知識として学べる、得難い一冊である。

2)文字と組織の世界史
-統治組織は文字によって作られ運用される。文字の消長を追えば別の世界史が見えてくる-

1990年代中頃のことである。私のチョッとした誤解から(SPC;Supervisory Process Control;高度プロセス制御 とStatistical Process Control;統計による品質管理の違い)、化学プラントの高度制御研究者と信じて訪ねたプリンストン大学の教授が統計学の専門家だったことがある。しかし、先方は嫌な顔を全くせず、しばし日本について雑談することになった。何かのはずみでそれが日本語ワープロの話になり、同行した若い同僚がローマ字入力→ひらがな表示→漢字変換で文章が完成する過程を説明すると大喜び、「昼食を一緒に摂って、もっと詳しく聞かせてくれ」と求められた。残念ながら午後の予定があり、失礼することになったが、日本文に関する外国人の関心に、こちらが啓発された得難いひと時だった。
ここまで書いた文章を見ても、漢字・ひらがな・カタカナ・アルファベット・アラビア数字と、五つの文字が使われている。これに必要ならローマ数字(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)やギリシャ語(αβγ・・・)も利用する。こんな国は他には存在しないだろう。何事につけ世界史は大好きなジャンル、本書のタイトルを目にしたとき先ず浮かんだのがあのプリンストンでのこと、“組織”に気付いていたが、「多分、文字と関わる民族か国家のことだろう」と軽く受け取り、「日本が漢字圏なのは確かだが、これほど多くの文字を混合利用する国は世界史上どう位置付けられるのだろうか?」と読んでみることになった。
著者が本書で開陳する歴史学上のテーマは、人類の文化・文明の根幹に文字があり、文字の起源とその消長を辿ることによって、西欧によって作り上げられてきた既存の世界史観とは異なる、より普遍的な世界の歴史が明らかになるのではないか、と言う点にある。ユニークで面白い発想である。
先ず4大文明にはそれぞれ独自の文字があった。メソポタミアの楔形文字、エジプトのヒエログリフ、インダスのインダス文字、そして黄河流域の漢字である。このうち楔形文字とインダス文字は紀元前に消滅。ヒエログリフはフェニキア文字となり、ここからギリシャ・ラテン文字、さらにはアラビア文字が派生する。またのちにインドに発するブラフミー文字(梵字)もフェニキア文字につながる。そして現存する5大文字は、ラテン文字(米・西欧)、ギリシャ・キリル文字(ギリシャ・東欧・ロシア)、アラビア文字(中東・中央アジア・北アフリカ)、梵字(インド・東南アジア)そして漢字である。漢字からの派生文字には日本の仮名、女真文字、西夏文字などがあるのだが、仮名以外は消滅している。意外なのは女真と重なると思われる満洲文字が漢字系ではなく、フェニキア文字の末裔であることだ(シリアから中央アジアを経てウィグル文字が出来、モンゴル文字とつながり、そこから満洲文字が生まれる)。またチベット文字は梵字の系統なのである(現中国は決して一つの文字文化圏ではない)。
さて“組織”についてである。当初の予想と大きくは違わないが統治(行政、宗教)組織ととらえることが適当と言える。統治ために文字は不可欠、支配者がおのれの文字を強制することで弱者の文字が消えていく(漢字圏で言えば、西夏、女真、契丹、字喃(チュノム;ヴェトナム)またウィグル、チベットに対する漢字化)。中国周辺国が漢字に統一されていく過程には科挙の試験が漢字でしか行われなかったことも大いに預かっている。またコーランは翻訳を許さないことからアラビア語がその布教地域に広まっていく。
ここでは我々の身近に在る漢字圏を例に文字と統治の関係を取り上げたが、世界いたるところでこのようなことが生じており、文字の歴史を追うことで、本来の文化・文明圏あるいは民族が、異なる政治あるいは宗教に飲み込まれていく姿が浮き彫りされてくるのである。
タイトルの“文字と組織”に着目して内容の一端を紹介した。確かに通史では目にしたこともない多くの文字の変遷・消長はなかなか面白く、統治組織(例えば王朝)中心とは異なる歴史観を与えてくれる。しかし、全体としてはよく知られた(高校世界史程度の)平板な歴史解説に紙幅の大半が割かれ、肝心の“文字と組織”の印象が薄れ、何か時間を無駄にしたような読後感が残った。加えて、歴史特化の出版社や著者の経歴から、学術研究に近い内容を期待したが、参考文献が一切記載されておらず、資料としての価値を認められない。また、日本文字(仮名)についての解説も全くない。何故こんなことになったのか、それはあとがきを読んで分かった。朝日新聞カルチャーセンターでの講義録をまとめたものだったのだ。
著者は東大東洋文化研究所名誉教授、オスマントルコを専門としてきたようだ。その点で、イスラムおよび中央アジアの“文字(言語)と組織”を語る部分はそれなりに奥行きがある。

3)海軍ダメージ・コントロールの戦い
-戦いは攻めだけでは勝てない。損傷応急態勢は如何に変わっていったか-

本書を読んでいた今月14日~15日、日本近海で日米英三カ国Navy(韓国艦にレーザー照射を受けた海自哨戒機は「こちらJapan Navy」とやっていた。それで良いと思う)による共同演習が行われた。参加したのは、日本が護衛艦「むらさめ」・P-1対潜哨戒機・潜水艦(名称非公開)、米はP-8対潜哨戒機、英はフリゲート艦「モントローズ」である。目的は北朝鮮の瀬取り監視と言われるが、西太平洋域で活発化している中国海軍牽制説も流れている。この演習に先立ち3月9日と10日「モントローズ」が晴海埠頭で一般公開され、よくアクセスしている“乗りものニュース”でその内容が紹介されていた。タコの足のように亀裂が八方に走るホースがつながっている鉄箱、ハンマーと木栓、お椀状のプラスチック容器、締め具などの写真が添えられており、解説によれば、艦船に破損が生じた際の応急処置訓練教材とのことであった。ホースを通して鉄箱に水を流し、木栓に布などを巻いてそれを亀裂部にハンマーで打ち込み、そこにお椀をかぶせて締め付け、浸水を抑えるわけである。観艦式などで自衛艦には何度か乗っているが、こんなところを見せてもらったことはない。伝統の英海軍、戦場は攻撃ばかりではなく守りにもあることをPRするところは「さすが!」である。このような艦内活動を“ダメージ・コントロール”(通称ダメコン)と言う。本書はこのダメコンを明治期の海軍創設時まで遡り記した、きわめてユニークな内容の本である。ただし、技術面での説明が希薄で今一つ理解が進まなかった。それだけにこの“乗りものニュース”の写真付き解説は思わぬ助けになった。
この本の内容を一言でまとめると、“日本海軍ダメコン組織変遷史”である。日本海軍の手本は英海軍、その歴史は帆船時代まで遡及する。木造ゆえ水兵(操艦や砲を扱う)や海兵(敵艦に乗り込んで戦う兵士)ばかりでなく船匠(船大工)も重要な乗組員であるが、彼らは戦闘には加わらないので兵士ではない。この考え方は蒸気で推進される鉄鋼船になっても同様で技能者の扱いにとどまる。つまり、兵科(砲術、水雷、航海、通信など)とその他の部門(機関(船匠;木工、金工はここに属する)、技術、主計、軍医など)との間には厳然と身分の違いがあり、兵科(艦そのもの)を指揮することはできなかったのである。実戦となればダメコンは損傷個所の応急処置ばかりでなく艦のバランスを保つため注排水なども行わなければならないのだが、これが許されない。誰が指揮を執ればいいのか?最上位は艦長だが戦闘指揮が優先されるので副長がその任に当たるよう職務分掌が定められる。しかし兵科の士官は船体構造細部に疎い(最も優秀な人材は早くから砲術・水雷を志願しその方面の専門家になっていく;秋山真之は水雷、山本五十六、井上成美ともに砲術)ので、組織・職務分担変更だけでは実効があがらない。また、応急処置活動のためのシステム(通信など)も戦闘指揮中心に構築されており、それを場当たり的に活用するほか術はない。
このような状況を大きく変えることになるきっかけは第一次大戦におけるジュットランド沖における英独主力艦隊の戦いである。独に倍する戦艦・巡洋艦を持つ英国が独艦隊にとどめを刺せなかったのは独軍艦の設計時点まで遡ったダメコンの優位性である。英国は早速戦後その戦訓を取り入れ、それが我が国造艦技術や災害応急体制に反映されてくるのである。その一つが運用長と言うポストの新設(砲術長、水雷長と同格)、その下に運用科が設けられる。甲板上の諸々の作業と応急処置を担当することになるのだ(ダメコン総指揮官は副長のまま)。時代が少し下ると防災指揮専用のスペース(大型艦では正副2ヵ所)が設けられそこに指揮盤や通信システムを集中させ、守りの本陣とするようになっていく。戦中の昭和17年11月兵科・機関科士官の資格は形式的に同格となるのだが、指揮権(軍令承行令)問題だけは最後まで改まらなかったのである(生き残った兵科中尉の運用科員に機関中佐が従わなければならない)。
日本海軍のダメコンはダメだった、とはその筋に関心のある人たちがよく口にすることだが、著者はそれを組織に絞り込んで解説する。これはこれで新しい知識を得ることが出来たのだが、一方で、大和、武蔵、空母瑞鶴の沈没などいくつかの実例を取り上げているものの、ダメージの状況は既に書かれていることばかり、コントロールの具体的な取り組みがまったく見えてこない。また、損傷した艦船の外観や操船の写真はあるもののダメコンに直接かかわるものは皆無だし、図で説明するところは数葉の地図を除けば大和の断面図1枚のみ(これもしばしば見かける図面)、肝心の技術的な活動の理解に難儀した。
著者(故人)は戦時中東京高等商船機関科に在籍し、戦後国鉄職員に転じた人。この経歴からももう少し“コントロール”を掘り下げることはできなかったのであろうか。

4)藩と県
-本籍も現住所も、藩まで辿ると意外な姿が見えてくる-

私の本籍地は兵庫県たつの(本来は龍野;正式市名がひらがなになってしまった!)市、三木露風“赤とんぼ”の里である。町の名は、今はもう変わっていると思うが、下霞城(しもかじょう)、霞城は龍野城(現在城はなく、石垣のみが残るばかり)の別名だからその城下と言うことになる。先祖伝来の地は遥か南方の田畑が広がるところで、それなりの広さを持つ自作農であったが、祖父が次弟に家督を譲り内務官僚となり、(多分憧れの地であった)城下に家を構えたため、今は一族のものではないが、ここが本籍となった次第である。山の中腹に在る城址からの眺めは日本の原風景を留めるような景観で、何度か訪れすっかり惹かれてしまった。
龍野藩(出自は姫路藩の支藩)は小藩で歴史に残る逸話もほとんどない。秀吉の股肱の臣であった蜂須賀小六が城主だったこと(蜂須賀家はのちに徳島藩に転封)、17世紀後半信州飯田藩の脇坂氏が移り住み維新までつづく。この間松の廊下刃傷沙汰で浅野内匠頭の赤穂藩が取り潰しに遭う際隣藩として引取り役を任ぜられていることくらいが、チョッとしたトピックと言った程度である。父の自慢は藩主の末裔“脇坂君”と旧制龍野中学で同級生だったことである(脇坂家は廃藩置県で子爵に叙せられるが、東京に移らず戦後まで郷里に留まった。ゆえに郷里の人々から敬わられ慕われた)。
全都道府県が取り上げられているものの、徳川時代300を超す藩があったから、すべての藩が本書に網羅されるわけではない。しかし、幸い龍野藩は、蜂須賀小六や松の廊下ばかりではなく、名物の薄口醤油(隣藩赤穂の良質な塩に依る)や揖保素麺(これは脇坂家転封にあたり信州から持ち込まれたらしい)にも触れられており、「出てきた、出てきた」と住んだことのない父祖の地に思いをはせた。
本書の構成は、1)現在の各都道府県について江戸時代から維新までの歴史を概観(重点は佐幕か勤王か;明治政府はこれを峻別、その後の地方行政に影響をおよぼす。また他藩との関係;転封・改易などで遠隔地が思わぬ関係でつながる)、2)次いでそこに在った主要な藩をごく手短に解説(石高、藩主家系、治政上のトピックス、名物)、3)廃藩置県の顛末(初期の県統廃合)、4)地図、5)そして江戸や京都の藩邸の今昔(これもなかなか面白い)。1)で2~3頁、2)、3)、4)、5)で2頁。興味のあるところを適宜選んで読めるので、息抜きや気分転換最適。それでいて日本史の知られざる断面を発見できることもある。
例えば、私の現住所は横浜市金沢区、「ここが横浜?」と言われそうな南の果てだが、旧金沢(六浦;むつうら)藩(1万2千石)、今の横浜市中心部のほとんどはこの藩だったのだ!三浦郡や鎌倉郡は幕府の直轄地(両郡合せて3万石;会津藩・萩藩などが担当)、神奈川県の残りの部分は小田原藩(11万3千石)、荻野中山藩(1万3千石;現厚木市周辺)、それと直轄地の武蔵国(一部)。つまり今の僻地が藩の中心、現在の中心部は東海道の道筋以外は僻地であったわけである。
著者2名はいずれも歴史・旅・食などをテーマにした紀行作家のようである。
是非皆さんそれぞれのお国の歴史を楽しんでいただきたい。

5)アラスカ戦線
-ゾルゲと交流のあった親日ドイツ人探検記作家が描いた、北太平洋日米戦小説-

太平洋戦争にAL作戦と称されるものがあった。ALはアリューシャンを意味し、同時期(1942年6月)に発動されたMI作戦つまりミッドウェー作戦の支作戦の位置付けになる。真珠湾で取り逃がした米機動部隊をおびき出し殲滅することが主目的だが、北東太平洋方面からの米軍による本土攻撃(空襲)を牽制する狙いも含んだ複雑な作戦である。主作戦のミッドウェー島攻略と敵機動部隊を叩く目論見は日本の大敗に終わるが、AL作戦は陸海混成部隊(陸軍北海支隊(千島列島守備)、海軍陸戦隊)のアッツ島(6月6日)、キスカ島(7日)上陸で目標を達成する。ただ、主作戦の失敗でAL作戦が意味を持たなかったことは、その後の経過で明らかだ。アッツは翌1943年5月の米軍反攻で玉砕、キスカは“奇跡の撤退”で戦史に名を留めることになる。本書はこのAL作戦を題材にした戦争サスペンス小説である。
先ず題名と表紙の写真に眼が行った。雪山に降下するパラシュート兵と“アラスカ戦線”はピッタリだ。しかし、著者名ハンス=オットー・マイスナーで「おや?ドイツ人ではないか?」とチョッと意表を突かれ、原著名ALATNAを見て「いったいこれは何だろう?」となり、さらにその下に小さく綴られた副題Duell in der Wildnisのドイツ語表記、訳者(故人)はドイツ語からの翻訳第一人者であることからも、原著がドイツ語で書かれていると確信できた。Duellは英語のDuel(決闘)、WildnisはWildness(荒野、野生)に違いない。となると“荒野の決闘”!。何故ドイツ人が他国の戦場を小説にしたんだろう?と興味はいや増した。これは著者の経歴を知って納得したが、それは最後に述べよう。
小説の筋はAL作戦の目的を、アッツ島に長距離爆撃機(現実には無かったが、ここでは4発の重爆を日本が保持している)が利用できる飛行場建設とその後の運用に置く。ここから米本土に爆撃を行い、米国民の戦意を挫こうと言うのが意図である。しかしながら実際のAL作戦時あるいはキスカ撤退作戦でも問題なったのがこの地域における天候不順である。正確な気象情報なしで軍事行動を行うことは不可能だ(キスカ撤収は濃霧に助けられるが)。そこで大本営は気象観測のための特殊部隊(11名)をアラスカに潜入させ、そこからの情報に基づいて、爆撃機発進のタイミングを決する計画を進める。リーダーは満州の特務機関に勤務している陸軍大尉(オリンピック十種競技の銀メダリスト)、隊員は寒冷地に詳しい(自然環境ばかりでなく動植物なども)少尉、気象や通信の専門家、山岳兵さらに大尉が満州興安嶺から連れてきたオロチョン族の若者などだ。対する米側は、戦闘になった時のみ指揮官となる歴戦の勇士(大尉)が唯一の軍人、実質的なリーダーは自然保護局の役人で管理職への登用を断り続け原野で生きる、アラスカの自然を愛し知り尽くす変わり者。彼の右腕となって長いイヌイット族の相棒、それに選抜された森林スカウト(監視や防災が主務だが猟も行う)たち総勢14名。厳冬の中の越冬を含む長期にわたる追撃戦が臨場感をもって展開される。ALATNAは、海岸部を生活の場とするエスキモーには珍しい内陸部で生きるヌナミウト族の娘の名前である。
著者は、1909年現在は仏領となっているストラスブール生まれのドイツ人(1992年没)。父も本人も外交官。1936年~1939年駐日ドイツ大使館書記官として日本に滞在、瑞宝章を授章した親日家。この間ゾルゲと交流もしている(著者は東京で結婚式を挙げそれにゾルゲが招かれている)。日本勤務の後ロンドン、モスクワ、ミラノに駐在、東部戦線で装甲部隊中尉として戦い、戦後は公務を退き探検記作家に転じている。本書を書くためにアラスカに半年滞在したと解説にある。現地の動物、植物、気象、地質・地形にとにかく詳しい。足跡の隠ぺい・発見、赤い炎をたてない燃料(青い炎)としてのトナカイやシカの糞の話など、「よくここまで!」と感心させられた。下ごしらえがしっかりしているのだ。
驚くべきことは、原著の発刊は1964年(日本訳1972年発行)なのだが、米側のリーダーである自然保護局員に地球温暖化に関する発言をさせていることである(大鹿生息域の北上)。その先見性はただ者ではない。
細部の考証には問題なきにしも有らずだが(例えば、アッツ島玉砕は1943年だが、本書の戦いは1944年)、戦争小説にありがちな陰惨なシーンはなく、好敵手同士のスポーツマンの戦いを観るような気分で読み終えることができた。最後が泣かせる(読んでのお楽しみ)。

6)大砲と帆船
-何故我々非欧米はいまだに欧米スタンダードの下にあるのか-

2009年のギリシャ危機から南欧諸国の財政不安、中東・アフリカからの難民問題、それに抗する中・東欧諸国のポピュリズム政党の政権成立、極めつけは英国のBREXIT、直近のイタリアの一帯一路参加、“EUの終わりの始まり”を感ぜざるを得ない。当初は冷戦への対応、次いで日米経済力への対抗で始まったものの、その根幹に欧州の凋落に対する防衛本能が働いてことは間違いない。時には一体となり、数を頼むときはそれぞれの立場で、アフリカの旧植民地国家を巻き込みながら、狡猾に振舞いで国際ルール作りを図るのも、同じ流れの中にある。20世紀前半から中盤の日本、‘80年代の4匹の龍(香港・台湾・シンガポール・韓国)、それに続いたASEAN諸国、そして奇形な(一党独裁と中華思想)巨竜中国の目覚め。少なくとも経済に関する限り、6世紀に渡った欧州支配の時代が、大きく変わる潮目を感じる。何故かくも長く彼らは世界を御することが出来たのか?「そのカギは大砲と帆船にあったのだ!」と唱えるイタリア人経済学者の考えをまとめたのが本書である。
銃砲の製造・利用、大型帆船による交通・交易の歴史を辿ると、14世紀までは東西に大きな差はなく、むしろトルコやその他のイスラム勢が陸戦では優位でさえあった。これは広々とした戦場では騎馬が主力であったこと、欧州は小さな領邦国家が多く大軍で戦う態勢になかったこと、絶対的に人口が少なかったことなどによる。一方欧州域内を見ると、地形は複雑、攻めるべき拠点は城塞都市、頻発する戦争・紛争もあり、兵器開発・生産に知恵を凝らさざるを得ない。これらを背景に大砲開発に拍車がかかる。つまり、競い合う環境と技術・技能を貴ぶ風土がより優れた製品を生み出すのだ。これは帆船もしかり。地中海沿岸航行が主たる活動域だったガレー船(オールで漕ぐ)は操船性に勝るものの、北海のような厳しい海洋で育まれた大型のガレオン船と戦えば鎧袖一触となるのだ。
著者は先ず欧州内における各国あるいは地域の大砲開発・製造の経緯と特質を語り、同手法で帆船、特に軍船の発展過程を追う。大砲評価分析のポイントは、青銅砲と鋳鉄砲の違い;性能は青銅砲、価格は鋳鉄砲が優位(青銅砲は独、オランダ、鋳鉄砲では英国が先行しそれをスウェーデンが追う)、攻囲砲と野戦砲の開発過程;持ち運びしやすい野戦砲がなかなか完成しない。帆船軍艦では、海戦術の違い;接舷乗り込み・衝突戦法対遠隔砲戦、が欧州内での優位差になり、スペイン・ポルトガルは船では対等だが、大砲製造・利用では英国やオランダに遅れていく。
このような欧州状況を踏まえたうえで、海戦ではトルコ・インド・中国に対する海からの攻撃とそれに対する各国の守りや反撃を分析する。陸戦も同様だが、ここは西側も野戦砲開発の遅れもあり、海ほど当初は差がない。しかし時間を経るに従い、陸軍の伝統的な戦い方(騎兵の役割)との関係、砲調達の特徴(トルコは巨大砲願望、野戦での利用を全く顧慮しない;コンスタンチノープルをおとすために大砲「マホメッタ」は500kgの石弾を撃て、大砲を運ぶために140頭の牛を使い、それを運用する人数は100、次発準備に2時間を要した!)、砲術担当者や開発技術者の社会的地位の違いなどから東側が遅れをとっていく。
15世紀末、交易目的の新航路開拓で始まった大航海時代、やがて取引を拒むものを砲艦で脅し各地に拠点を設け、船と砲に圧倒的に勝る欧州諸国は19世紀まで権益拡大・植民地化にまい進する。当初は先行したスペイン・ポルトガルは大砲技術で英国・オランダ勢に圧倒され、活動域は軍事技術に遅れた中南米に限られていく。また陸戦では、西欧に後塵をはいしていたロシアがオランダからの技術導入を積極的に進め、平原での戦に大砲を利用(19世紀になると鋳鉄製野戦砲の性能が著しく向上、価格が安いので大量に装備できる)、オスマントルコの騎兵を蹴散らして領土を広げていく。おされる側もそれなりに技術導入・習得に努めるが、西欧に対抗するためには西欧化せざるを得ないと言う自己矛盾と相俟って、差は開く一方と言うのが現実。こうして欧州システムが世界標準になっていくのである。
我が国に関する記述は中国やインドに比べるとわずかだが、わりとポイントをついている。先ず中華思想のようなものがなく、新技術に対する好奇心の強さと相俟って、進んで欧州に学ぼうとする姿勢が持続したこと、職人や技能者の社会的地位が他国に比べ高かったこと、同様に戦士である武士が貴ばれたこと(中国では武人は行政官、文人の一段下)、戦闘を好んだこと(これは戦国時代の動向を反映したものと推察する)などから、船や大砲はともかく、小銃は高いレベルにあったとしている。また大砲に関しても徳川幕府はオランダに対して、強く技術移転を迫った逸話も取り上げられている。
原著(英語)は1965年の発刊(本翻訳書は1996年刊)、いまだ日本すら欧米を追いかけていた時代、今日を予見される話題は皆無、西欧優位の起源を辿るだけで終わっている。もし著者が今日の研究者だったら、どんな結論に落とし込んだであろうか?そんなことも考えさせられた一冊であった。経済学者であるため、戦史あるいは技術史として見た場合、やや物足りなさを感じるが、280頁の内付録・注(これが大半)・参考文献に130頁が割かれ、資料集としての価値はそれなりにある。

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2019年3月25日月曜日

富士通マーケティングコラム新連載第2回

富士通マーケティングHPコラム“ICTのmikata”に連載を開始しました「軍事技術史に学ぶICT活用法第2回戦略を考える」が下記に掲載されました。
https://www.fujitsu.com/jp/group/fjm/mikata/column/madono5/002.html

2019年2月28日木曜日

今月の本棚-127(2019年2月分)



<今月読んだ本>
1)十字軍物語(一、二、三、四)(塩野七生);新潮社(文庫)
2)操られる民主主義(ジェイミー・バートレット);草思社
3)ニュートンに消された男 ロバート・フック(中島秀人);KADOKAWA(文庫)
4)コマンド・カルチャー(イエルク・ムート):中央公論新社
5)史上最大の作戦(コーネリアス・ライアン);早川書房(文庫)

<愚評昧説>
1)十字軍物語(一、二、三、四)
-地中海史熟知の著者が描く、聖戦とは程遠い野心と疑心暗鬼の戦い-

世界史を学んだのは高校2年の時。中学の社会科で断片的に知っていたこともあったが、高校では担当教諭が西洋史と東洋史に分かれており、格段に詳しく新鮮で楽しい授業だった。受験参考書以外に求めた本は世界史に関するものしか記憶にないほど惹かれた教科である。イスラムを学んだのもこの時だが、当時の日本にあってそれほど縁のある地域・宗教でもなく、講義が西洋・東洋別々なこともあり、系統的な理解を深めるには至っていない。また、振り返ってみると、何故か“西洋から見たイスラム観”が知らぬうちに刷り込まれたような気がする。一言でいえば“後進地域”である。
石油会社に就職し中東への関心は高まったものの、文化・文明に関しては先入観を拭えぬまま過ごしていたが、1996年5月ロードス島で開かれた国際学会に参加することで、その認識を改めることになる。丁度連休に重なることもあり、この島の他アテネとイスタンブールに立ち寄る旅程を組み、事前準備として、本書著者による「コンスタンチノープルの陥落」「ロードス島攻防記」「レパントの海戦」を読んで出かけた。いずれも15世紀から16世紀のキリスト教とイスラム(オスマントルコ)の戦いだ。ロードス島の城塞外堀(空堀)に転がる巨大な石弾の数々、壮麗なイスタンブールのブルーモスク、イスラム文化・文明の現物を目にして、歴史で習ったイスラム観を一新した。その後仕事でイランの古都イスファハーン(製油所が在る)や旅行でスペインのグラナダなどを訪れて、そこにある清楚で明るく美しい建造物や庭園に触れ「西欧文化・文明に勝るとも劣らぬものだ」の観を一層強くした。折しも国際関係がイスラムで廻っているような状況にある今、もっとこの対比を深めたいと思うようになっていった。そこに出版されたのが本書である。
塩野七生の地中海物は超長編(文庫本で全43巻)の「ローマ人の物語」や前出のオスマン帝国3部作を始めかなり読んでいる。歴史小説家として司馬遼太郎に比すべき作家と思っているが、両者の差は登場人物に対する描き方にある。司馬の場合は惚れた人物にくどいほど入れ込むのに対して、塩野は好き嫌いを早目にはっきりさせ、あっさり書いていく。個人的にはこちらの方が好みだ。塩野に惹かれるもう一つの理由は、ハードウェア(兵器、建物/道路/橋梁/城砦、船など)に関心が高いことである。技術者として、ここは是非知りたいところであり、そんな好奇心を充分満たしてくれるのだ。加えて、著者の同性を見る眼はいつも厳しい。今回も痴女・悪女・猛女が色を添える。
イスラム支配下の聖都イエルサレム奪還のために編成・派遣された十字軍は1096年から1292年までおよそ200年間に8回におよぶ。本書はその第1次派遣の背景から、第8次で中近東のキリスト教拠点がすべて失われるまでを、各次に分けて描く長編小説である。とは言っても歴史物の常でフィクションとファクト(事実)の境界は曖昧だ。ただ主要登場人物の評価などは、出身国と他国で著しく違うこともあることを著者は文中で触れるし、分からないことはその旨明記する。従って、読んでいる感覚は小説というよりノンフィクションのような印象が強くなる。ここが歴史小説の恐いところだ。しかし、全体として、当時のローマ法王(カソリック)、ビザンチン帝国(ギリシャ正教)、それに東西に分かれていたカリフ(イスラム宗主)の世界を、極力公平に扱おうとする姿勢は両宗教に縁の薄い日本人ゆえにわりと貫かれているように読み取れる。つまり、歴史認識としてはかつての私のように偏ることがないのではないかということである。
授業では西欧による聖戦のように受け取っていた十字軍が、どろどろした人間の欲望や野心が絡んだ不純な聖地回復活動だったとの読後感をもった。法王はややもすると諸王に奪われつつある権威権力を手元に引き寄せようとする。中央集権的な王制が確立しない中で、その家臣である諸侯はライバルたちの領土や支配権をかすめ取ることを画策する(法王は禁じているが)。ビザンチン帝国皇帝も十字軍を失地回復・拡大に利用しようとする。イスラム側もスンニ派・シーア派あるいは宗・俗間の主導権争いや所領の支配者が互いに隙あらばと領地拡大を目論むので、互いに疑心暗鬼だ。時には敵の敵は味方となって、イスラムとキリスト教徒が密かに通じ合う。
第1次は3年がかりで小アジアや地中海東岸の拠点を一つ一つ陥しながら南下、1099年イエルサレム王国を打ち立てるが、1189年イスラム勢を結集したサラディンに奪還され、再びその支配下に置かれる。こののち両陣営に聡明なリーダー(英国獅子心王リチャードとサラディンおよびその息子)が現れ和平が成立しても、遠く離れた地に居る法王や高位の原理主義者がそれに反対する(破門にまでする)。加えて、海洋都市国家ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサがこれを利用して海上利権獲得を競い合う。第4次は実質ヴェネチアによるビザンチン帝国制覇であった。この他にもイエルサレムに向かわなかった十字軍が他に2回(チュニジア、エジプト)ある。
本書を読んでいると、心の安寧を求めるはずの宗教が諸悪の根源にさえ思えてくる。派遣国は現在ならばイタリア、フランス、ドイツ、イギリスなどEUの中核国家、今に続く中東の混乱が十字軍とイスラムの対立に重なって見えてくるのだ。今度はイスラムの流入、さらにはジハード(聖戦)として。著者が伝えたいメッセージは、一神教(あるいはイデオロギー)と人間の性(さが)の組合せが生む、狭量な生き方に対する警告と読んだ。我が国は内外から、時として“国家・民族として規範が無い”と批判されることがある。しかし“常識(お天道様)”でここまでやってこられたことは、存外評価できることかもしれない(宗教心の高い外国人労働者受け入れ、未知の世界がこれから始まるのだが)。

蛇足;現在のイタリア海軍軍艦旗は国旗(緑・白・赤)の白の部分に四つの盾マークが入っている。アマルフィ、ジェノヴァ・ピサ・ヴェネチア4海洋都市国家の紋章である。この時代地中海を支配していた誇りをそこにとどめる。

2)操られる民主主義
-スマフォをアクセスするたびに一枚一枚着衣を奪われ、知らぬうちにひと皺ひと皺脳裏に刻まれる、思いもよらぬ政治意識-

個人用のPCを初めて保有したのは1990年、MaC‐SEだった。ネットワークへの接続は富士通が提供していた電話回線サービス、専ら研究会仲間との情報交換に利用した。この段階では広告の入る余地はなかった。インターネットが商用サービスを開始するとネットスケープ社のナヴィゲーターを導入して、各種の外部情報にアクセスできるようになり、一気に世界が広がっていく。そこに関心の無い企業や製品の宣伝が現れるようになる。商取引で利用したのは丸善・紀伊國屋書店メンバーとしての図書購入だったが、現役時代は書店で求める方が多く、利用頻度は高くなかった。しかし、会社勤めを辞めてからは大型書籍店が自宅付近にないこともあり、Amazonに大きく依存している。好きな旅行に対する各種サービスも同様で、楽天トラベルで下調べや予約することが多い。当初はあまり意識しなかったものの、気を惹くような情報がメールでもたらされるようになり、次第に絞り込まれていく。フェースブック(FB)への加入は5,6年前現役時代の後輩から“友達”要請をうけてからである。その時々の状況で友人の投稿に“いいね”をクリックすると、やがてそれを反映した記事が増えてくる。現在のPC環境はWindows/OSだが、インターネットのブラウザーはグーグル・クロームを常用、情報検索はほぼ100%グーグルに頼っている。検索記事の横には趣向にあった本や旅行案内が表示される。外出することがそれほど多くないのでスマフォは不要と考え、いまだにガラ携を非常連絡用に保持しているだけ、SNSの分野にはかなり出遅れているユーザーである。以上のようなことを縷々述べてきたのは、本書の論点“ディジタルテクノロジー(DTと略す;具体的には、SNSのプラットフォーム、ビッグデータ、モバイルテクノロジー、AI)と政治環境”を身近に引き寄せてみたいと思ったからである。
著者は先ずここでの民主主義を「現代の自由な間接民主主義」と定義した上で、それを機能させる六つの柱かあるとし、これらがDTでいかにゆがめられてきているかをその後の章で考察していく。その六つとは;1)行動的な市民、2)文化の共有、3)自由選挙、4)利害関係者の平等性、5)競争経済と市民の自由、6)政府に対する信頼、である。これらは完全に独立したものではないので、六つの章が立てられているわけでなく、DT普及下で情報処理・利用体系が複雑化して意思決定のメカニズムが変わってきていること、それを巧みに利用する選挙戦術が編み出され、当否の決定に大きく影響してきていること、その結果行われる政治的課題解決策が社会の対立を深めていること、などを最新の理論(心理学から数学モデルまで)や事例を交えながら紹介し、このまま進んでいけば民主主義崩壊(六つの柱が傾く)につながると訴える。
具体例は2017年の米国大統領選挙が重点的に取り上げられるのだが、それに先立って、知らず知らずのうちに出来上がってきている“監視社会”をビッグデータの利用や行動心理学の最新動向からあぶり出して見せる。材料は、私もしょっちゅうクリックしているFBの“いいね”。著者は自分で“いいね”した200件をケンブリッジ大学の心理学者に提供する。学者の研究テーマは「性格的特徴を判断するオンライン調査法」。出てきた結果は「偏見にとらわれていない。リベラル。芸術家肌。きわめて高い知性。宗教はカトリック」。因みに、著者はソーシャルメディアに関するシンクタンクのディレクター、ジャーナリスト、カトリック教徒ではないが5歳から18歳までカトリック系の学校に通っていた。この結果(ほぼ正解)に著者は愕然とする。もっと多くのデータがあれば丸裸同然だと。
DT下では皆頻繁に画面展開を行い、欲しい情報に近づいたり直ちにレスポンスを返えしたりするようになっていく。これが、思考を熟慮型から直観・即断型に変え、溢れる情報の中から関心のある用語やショートメッセージに注目しているうちに、特定の主張や考え方に感化され、反対意見に耳を傾けなくいなる。一方で候補者側はこんな状況を熟知している。そこで選挙が行われるとどうなるか?
大統領選挙におけるSNSの利用は既にオバマ大統領時に積極的に行われ、その効果が注目されるようになったが、2017年のトランプ大統領誕生に至る選挙戦では、桁違いの人員/人材・費用と最新技法がつぎ込まれ、頻繁に発信されたツイートには専任の影武者が居る(予想していたことだが、候補者とはほとんど面識のない人間が、日ごろの言動を分析し行っているのだ)。これがトランプ候補自身の資質と相俟って、最大の効果を上げたのだ。
ビッグデータを基に有権者を分析する。それを踏まえ有権者が同調するような(公約を微妙に変化させた)個別メッセージ送り、一方で対抗者に反感を持つように洗脳し、タイミングを図って投票所に行くよう誘う。投票が終われば知り合いに「行ってきたよ。XXに投票したよ」とツイートさせる。有権者が意識しないやり方で、こんなことが進んでいくのである。“ロシア疑惑”もこの過程で生じた、と著者は疑念を投げかける。当選後の政策に対する合意形成もこれらの手法に手を加えれば可能、DTで短慮型思考に変じた国民を御していく。ジョージ・オーウェルの「1984年」では“ビッグブラザー”が独裁者として国民を支配するが、DTの世界では“リトルブラザー”がこれに取って代わるのだ。
本書の書き方は、ジャーナリスティックな論調は薄く、むしろ選挙関連情報活用の歴史的展開(例えば過去のマーケティング手法など)から先端データ分析アルゴリズムや心理学・脳科学までの学際的な研究とその試行状況考察に注力しており、数多あるDTとポピュリズム政治批判とは一線を画す点が評価できる。
不満なのは、DTそのものの将来に対して楽観論(例えば、シンギュラリティ(技術的転換点)到来が近いとの論)に組していること、それに最大の課題「それならばどうすべきなのか」について20のアイディアを列記しているものの、今一つ具体性を欠く(一種の精神論・一般論に留まり、格差社会解消案に類似)ことである。

3)ニュートンに消された男 ロバート・フック
-日本人研究者によって名誉回復を図られたニュートンの先輩科学者-

1983年9月から11月にかけて約2カ月間カリフォルニア州立大学バークレー校(通称UCB、あるいはCAL;キャル)の経営大学院(社会人向け短期MBAコース)で学んだ。ハーバード大、スタンフォード大、MITあるいは分校であたるUCLAに比べ日本での知名度は今一つだが、米国公立大学ではダントツのトップ校、ノーベル賞受賞者数では世界第6位(トップはハーバード大、2位コロンビア大、3位ケンブリッジ大、4位シカゴ大、5位MIT)と言う名門校である(米国の場合何度も学校を変わるので数字は確定できないが61~104個;順位引用源のKarapaia(科学情報サイト)では69個)。受賞の多くは物理学、化学分野で、加速器による人造元素;バークリウム(97番)、カリフォリウム(98番)およびこれらを発見したグレン・シーボーグ教授(1951年化学賞)を記念して、シーボーギウム(106番)にその偉業をとどめる。授業ではこのシーボーグ教授に核エネルギー関連の講義を受け、高速増殖炉開発で日(もんじゅ)仏がトップランナーであるとの話が出、誇らしく思ったものである。しかし、別の授業(多分に息抜きの場であったが)で自然科学部新入生(9月開講)教養課程の物理実験を見学する機会があり驚いた。何と!バネ・物差し・錘を使って“フックの法則”を喜々として実体験しでいるのである。日本なら小学校・中学校でやってきたこと。「こんなところからノーベル賞が始まるんだ!」と。爾来フックの名は私にとり特別な意味を持つことになる。
先月の本欄で「撃墜王ヴァルテル・ノヴォトニー」(ドイツ空軍パイロット)を紹介し、それが日本人によって書かれたことを高く評価した。本書はそれをはるかに上回る、日本人科学史研究者によるフックの評伝である。ハードカバーは1996年刊、この文庫本は2018年12月刊、文庫本まえがきに何も記されていないから英訳版は出ていないのであろう。もしそれが成ったら、世界の科学史研究に名を留める一冊になるのではなかろうか。明らかに意図的に軌跡を消された男を、よくここまで詳しく蘇らせたものだとただただ感心してしまった。何故消されたのか?消された人生は如何なるものだったのか?時代背景は?現代に生かすべき教訓は?これを学問として取り組み、ミステリー仕立てにしたのが本書である。
著者は1956年生まれ、1960年代我が国近代科学史研究に画期をもたらした村上陽一郎に師事、東大大学院理学系研究科博士課程を終えたのち、東大先端技術研究センター助手を経て東工大社会理工学研究科助教授に転じ、現在同校リベラルアーツ研究教育院(大学院)教授。本書の素となるのは、先端技術研究センター時代インペリアルカレッジ(ロンドン)滞在中まとめた博士論文「ロバート・フックの全体像解明」である。フックを取り上げることになるきっかけは修士論文にニュートンの光学分野の業績を研究対象としたところから発する。数多あるニュートン研究の書物・文献に現れるフックはどれも悪役、まともな伝記は1950年代に英国人が著した1冊のみ、肖像画は皆無と言う状態。しかし、島尾永康同志社大学教授「ニュートン」(岩波新書)にフックの活動の多様性が記されていた。判官贔屓の著者はここからフックを研究することを思い立つ。
フックは1635年、今ならロンドンから日帰りも可能な大ブリテン島の南に接する小島、ワイト島で牧師の子として生まれる。子供の時から工作好きで絵も上手い。一度は画家を志すほどだ。牧師は経済的には余裕のないものの階級としては中産階級、奨学金、聖歌隊員や学校関係者の小間使いとしての副収入も得て名門パブリックスクール、ウエストミンスター校を経てオックスフォード大学クライストチャーチカレッジへ進み、ここで科学を修め、マスターオブアーツ(修士号、教授資格)を取得する。この間社会人教育(社会に役立つ学問)を目的としたグレシャムカレッジの教授となり、ここに生涯籍を置くことになる。科学はいまだ職業にならない時代、実験哲学同好の士が集まるオックスフォードクラブ(のちの王立協会)のメンバーとなり実験主任に任ぜられる。器用な彼は職人の協力を得て、気体研究のための真空ポンプや毛細管現象を実現できるガラス管の製作、昆虫の細部や植物細胞を観察できる顕微鏡の改善、それを利用して描く細密画、フックの法則を証明するための実験装置、地動説につながる長大天体観測用望遠鏡の設計・開発、水深測定装置の考案など、目覚ましい成果を上げていく。その名声はレオナルド・ダ・ヴィンチの再来と言われるほどであった。ただ、少年時代から針小棒大な発言がめにつき、この時代になると他人のアイディア盗用などが問題視されることも生じてくる。
対するニュートンは1642年ロンドン北東に在るグランサムの近郊で自営中農の子として生まれる(父は生前三カ月前に他界)。地元のグラマースクルーを出た後ケンブリッジ大学トリニティカレッジに進み、ここで数学に興味を持ったことがのちの数学者・科学者への出発点となる。フックと似ているのはケンブリッジではサイザー(Sizar)と呼ばれる講師の小間使いとして授業料や食費を免じられていることである。27歳で数学教授となり、1672年30歳の時王立協会会員となる。すでにフックは37歳、学会の要職を務めており、この段階では両者の力関係は歴然としている。
最初の衝突はニュートンの反射式望遠鏡の光と色彩に関する新理論(光収差と色収差;ニュートンリングにつながる)。フックはこの理論に辛辣な批判を加える。根底にあるのは粒子説(ニュートン)と波動説(フック)の違いである。この時はニュートンが両説を折衷させる理論(私の高校時代でも両説併記であった)にあらため一応和解するが、これに懲りて以後ニュートンは光学研究を断念しまう。
2回目は落下物体の軌跡に関する理論(太陽系惑星の円運動;やがて万有引力の法則に発展していく)。この時はフックが定性的な考察に基づく仮説を提示し、これにニュートンが自説で応じるのだが、ニュートンは母の死などがあり、熟慮しないままそれを提示、その曖昧な点をフックに突かれる。その後ニュートンは最初の説を引きこめ運動方程式を用いて新説(万有引力則)で対応、これが広く認められる結果になるが、フックは「オリジナルは自分にある」と主張する。以前からある悪評(他人のアイディアをかすめ取る)が確りニュートンに根付いてしまうのだ。
そして「決定的決裂」。名著「プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)」出版に際して、王立協会はそれを承認するものの、幹事・評議員であるフックは数々の妨害行為を行い権利を主張する。ニュートンは草稿にあった彼の名前をすべて削除し、「フック博士に、言い立てているようなことが出来るわけがない。証明させてみれば、彼がそれをやるだけの幾何学の知識を持っていないことが分かる」と怒りを表し、以後フックが協会を去るまでそこに出入りすることはなかった。
早熟のフック、晩成のニュートン。力関係は入れ替わり、時代もニュートンに味方する。名誉革命(1688年ジェームズ二世によるカトリック復活を議会派が潰し、オレンジ公ウィリアムスが新支配者となる;フックは先王チャールズ二世に近かった)でニュートンはケンブリッジ大学を代表する国会議員としてジェームズに反対表明したこともあり、追い風が吹き、さらに造幣局長官のポストも手に入れて、社会的地位を確固たるものにする。1703年王立協会会長、このあと事務所移転に際してフックに関するすべてが、肖像画も含め、処分される。
著者が本書で第一に訴えたいことは、フックの業績に対する正当な評価である。初期の実験物理学・実験化学に関する功績を具体的かつ丁寧に解説(当時の図が多い)してそれを読者に伝えようとする。また、ニュートンに対抗したことで一方的に悪役に仕立てられた点に関しては、論争時のニュートンの理論の欠陥や甘さを指摘して、フックの言動を弁護する。「二人とも巨人なのだ」と。
もう一つ大事なことは、彼らの時代以降理論重視・実験軽視(費用は別にして)が今に続く科学技術を取り巻く自然研究文化である。フックは確かに数理に基づく大きな業績を上げていない。しかし、彼の実験装置が無ければ、科学史に輝くあの時代はなかったかもしれないのだ。これこそ読者に提示された“今そこにある問題”なのである。この問題提起は、若き理学研究者として工学中心の先端技術研究センターに籍をおいた体験も踏まえてのことだけに重みがある。

4)コマンド・カルチャー
-戦場での指揮統率を教えなかった米軍事学校。過剰幕僚・過剰文書。将官の戦死者はドイツの1/10!-

私が就職した頃(1962年)には10年くらい先輩の中に、陸軍士官学校(陸士)や海軍兵学校(海兵)在校時終戦を迎え、出身母校の旧制中学へ戻って一般大学を卒業した人が結構居たし、取引先の人に「彼は陸幼からだから筋金入りなんですよ」と軍人一筋の道を歩んできた上司の経歴をこっそり教えられることもあった(反軍風潮が残る時代ゆえの警告として)。陸幼とは陸軍幼年学校のこと、満13歳以上15歳未満が入学資格、主要都市に置かれ、陸士への予備門的位置付けで、東条英機/石原莞爾/辻政信/瀬島隆三など著名な陸軍指導者を輩出してきた初等軍事教育機関である。因みに、極東軍事裁判で死刑に処せられた6人の陸軍将官はすべて陸幼出身者。でありながら陸士/海兵あるいは陸軍大学校/海軍大学校にくらべ戦史/戦記の中で語られることは少なく、海軍には存在しないので、今一つ実態の分からぬ学校であった。漠然と思い浮かぶことは、日本陸軍が範としたドイツの軍制に倣ったものであろうと言うことくらいだったが、本書を読んでいてそれを確信させられた。本書は米・独の軍事教育体系比較をテーマとするものであり、プロイセンの陸幼が頻繁に援用されるので、断片的に得ていた我が国陸幼に関する知識を系統立てて検証できたわけである。
400頁の内なんと100頁が索引・参考文献リスト・引用注に割かれ、これに文中に著者や訳者の注が加わる。実は博士論文だからである。著者は2001年にポツダム大学で修士を終え、2010年米国ユタ州立大学に本論文を提出して博士号を得たドイツ人である。現在はサウジアラビア王国プリンス・ムハンマド・ビン・ファハド大学准教授。
我が国で紹介される欧州における戦争関連出版物は、その帰趨を決するような作戦や著名軍人/政治家に関する伝記類あるいは政治/外交がらみのスパイ戦あたりが多く、特定テーマ(例えば本書のような“統率・指揮と教育”)に絞り込んだものは少ない。まあ「日本人には関係が無いから売れない」と言うことなのだろう。しかし、当然ながら欧米では連合軍と枢軸軍(ほとんど独軍)の戦いに関し多様な研究がなされ、一般向けの書物も多い。ただ著者によれば、勝敗を分析する焦点が数量(人員、物量、資源)、技術の質あるいは作戦そのものに偏り、統率・指揮とその基盤となる軍事教育に関するものはごく表層的なレベルに留まっているので、そこを深耕する研究を選んだと言うことである。確かに、私も欧米の軍事関連書物をかなり保有しており“Command”をタイトルに含むものが数冊あるものの、文化や教育と直結する内容のものはない。要旨を端的にまとめると、米陸軍将校教育を同種の独機関を基準に批判するものである。特に、米国側はウェストポイント陸軍士官学校とフォート・レヴンワース陸軍指揮幕僚大学校が重点的に取り上げられ、それらに対する評価は、勝者は米軍、敗者は独軍であったにもかかわらず、かなり厳しいものである。この分析がどこまで正当なものかの判断をする知識は無いが、帯にあるように、陸軍参謀長・海兵隊司令官推薦図書となる理由は分かるような気がする(ただし覚醒剤としてか?)。
1982年9月のある日曜日、ニュージャージーに出張中だった私は休日を利用してマンハッタン観光に出かけた。ミュージカル「アニー」が始まるまでの時間をセントラルパークの五番街側で過ごしているとダウンタウンの方からパレードがやってきた。道端でそれを待つ人に何事かと問うと「今日はシュトゥーベン・デー、ドイツ系市民の祭日だ」だとの答え。「シュトゥーベン?それは何のこと?」と再度尋ねると「独立戦争時ジョージ・ワシントンの幕僚だったドイツの将軍」と説明してくれた。
本書の書き出しもこのプロイセン軍シュトイベン大尉から始まり、米国の独立以前から大陸(たいりく)軍とプロイセン軍は親密な関係にあり米国は積極的に学ぼうとしてきたのだが、第二次世界大戦時までには、果敢で時には独断専行も厭わないプロイセン(のちのドイツ)軍将校、指示待ちが多く何事につけ慎重な米軍指揮官と、その後の両軍将校の資質はまるで異なったものになっていった。本論文はその背景、歴史的経緯を教育現場と戦場を交錯させながら詳細に比較分析したものである。
取り上げられる戦場は普墺・普仏戦争や米西戦争、第一次世界大戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争もあるものの、主体は第二次世界大戦における欧州戦線。対象士官層は1909年から1925年にかけて少尉任官した、低くとも第二次世界大戦時大佐以上の階級、アイゼンハワー、パットン、グーデリアン、マンシュタインの世代である。
問われるのは作戦策定能力ではなく、与えられた権限の中での即断即決する力それに率先垂範し最前線で指揮する能力の有無である。マニュアル通りことが進まないのが戦場、指揮官の状況判断とリーダーシップこそが勝敗の決め手なのだ。軍事教育の根幹はそれらをいかに涵養するかにある。しかるにウェストポイント(陸士)は4年間を通して授業時間の75%を数学と工学教育に当てて、軍事史や近代歩兵戦術を講ずる時間があまりにも少なかった。これは南北戦争当時工兵が重要だったことから来ているのだが、その後の変化を旧弊な軍トップや学校当局が認めないところに両者乖離の因があったとしている。数学重視は特に問題で、戦場の指揮官として顕著な実績を示したパットンはこの教科のために1年留年している(退学者も多い)。また、1年生に対する無為な“しごき”の伝統も有意な人材を早期に脱落させてしまっている(この改革は何度も試みられるが、いまだに完全には改まっていないようである)。これに対しドイツは幼年学校(これに相当するものは米国には存在しない)時代からリーダーシップや軍事関連基礎教科を重視し、士官学校ではさらにその専門性を高めるようになっている(下級生/上級生、生徒/教諭の敷居が低い)。その幼年学校はもともと軍人志望の貴族の子弟のみ入学を許され学校であったため、学ぶ姿勢が根本的に違っている(中産階級平民に門戸が開かれると、優秀な生徒が集まる反面、子供の躾つけのために送り込むケースも増えて玉石混交になっていく)。一方で、階級意識が将校団の結束に微妙に影響するネガティブな面も出てくる。
指揮幕僚大学校に関しても実戦に直結する教科の少なさ(例えば参謀旅行のような屋外活動が無いこと、図上演習の想定・進め方が単純なこと;独陸軍大学校の場合“指揮官欠損”などが突然加えられるのは当たり前だが、米陸大ではそこで終了)を問題視するほか、入学者選抜方法の不明確さ(無試験、コネ)や本人の進学意思に問題があることを指摘する。
教育結果の定量化として提示された両軍将官の戦死戦傷者を数字で表したところは衝撃的だ。米陸軍(航空軍を含む)の将官戦死者はおよそ20名(半数は航空軍)、最高位は中将2名(一人は沖縄戦、二人とも死後大将に昇進)、戦傷を負ったのは34名。これに対しドイツ国防軍の場合、陸軍と空軍を合わせた戦死者数は約220名。戦傷など数え切れず、ロンメルの後任として北アフリカで戦ったトーマ将軍は捕虜になるまでに20回負傷しているし、白兵戦章を持つ将官はざらにいた。この差は如何に将官が最前線で戦ったかを示す指揮統率力の象徴と著者は言う。
ここでは米軍の問題点を中心に本書の内容の一部を紹介したが、決して独システムが優れ米は劣ると一方的に決めつけるものではない。独幼年学校就学年齢(10歳から)が早過ぎる問題点から独将校全般に言える他国陸軍の過小評価(おごり)、米軍産大学校(詳しい説明はないが総力戦に関わる高級士官教育機関)の勝れた点など、独将校教育の欠点も分析されており、バランスをとるための努力の跡がうかがえる。注目すべきことは、第二次世界大戦まで、プロイセンそしてドイツが軍人を尊敬する社会だったの対し米国の戦間期(第一次と第二次の間)は厭戦ムードが満ち溢れ将官すら市中では制服を着用することをはばかるような風潮だったと記している点である(参加者全員が平服で会議を行っている写真がある)。軍事国家を良しとするものではないが、時には死を賭して国民の安寧を守る組織・人に対する敬意こそ、強い軍の根源との結言は全く同感である。
本書を読んで、日本の陸軍教育機関である、陸幼・陸士・陸大は選抜方法や教科に関して独システムに近い感を持った。特に、陸幼に高位の軍人の子弟が多いことに類似性が認められる(比較的経済力があり教育レベルの高い家庭出身者が多い)。彼らのリーダーシップをどう評価すべきなのだろうか?将官の戦死者はどの程度だったのだろうか?また、政治への関与がまるで異なるのはどこに原因があるのだろうか?こんな疑問がわいてきた。
米・独将校教育の比較と言うユニークな視点から学ぶことは多かったが、やや気になったのは何人かの著名な軍人に対する評価である。日本人にもなじみの深いマッカーザー、猪突猛進で知られたパットンなどを手放しで礼賛している。二人とも米軍では際立って自己顕示欲の強い人物。マッカーサーの場合バターンからの撤退行動など見ると指揮官としての資質に問題さえ感じる。また東部戦線の作戦に関しヒトラーに異をとなえ、辞任した(実態は更迭された)陸軍(OKH)参謀総長ハルダーをヒトラーの提灯持ちのように批判している。これは数多出版されている欧州戦線を扱った書物には見られない見解で(彼は米軍から高く評価され、戦後米国で戦史編纂に重要な役割を果たした)、国防軍最高司令部(OKW)参謀総長カイテル(ヒトラーの最側近ゆえ戦後死刑)と間違えているのではないかと思ったほどだ(博士論文だからこんなミスはないと信じるが)。これらを勘案した時、帯にある「海兵隊司令官・米陸軍参謀総長による将校向け選定図書」の真意はどこにあるのか、若干疑問が残った。

5)史上最大の作戦
-戦争映画史に残る大作を、これもノンフィクション史に残る名著でたどる面白さを堪能-

就職した年の翌春、1963年1月15日(成人の日)、南国和歌山に小雪がちらつくほどの寒い朝、工場の寮仲間と大阪阿倍野まで片道2時間をかけて映画を観に出かけた。ノルマンディー上陸作戦をテーマにした話題の超大作戦争映画「史上最大の作戦」である。上映時間は3時間。演じる俳優たちは、米;ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、ロバート・ミッチャム、ロバート・ライアン、英;リチャード・バートン、レオ・ゲン、独;クルト・ユールゲンス、仏;ジャン・ルイ・バロー、など主役級勢揃いの豪華キャストだ。面白くないわけはない。その後もTVで放映されるたびに見てきた。その原作が本書である。原作者、コーネリアス・ライアンもシナリオライター(4人)の一人として名を連ねている。
本書の日本語訳出版は1962年(原著は1959年)、映画が公開された年である。当時直ぐにはこのことを知らなかったが、何と言っても第二次世界大戦の従軍経験もあり、欧州戦線を扱った数々の名作(「ヒトラー最後の戦闘」「遠い橋」など)をものにした著者はノンフィクション作家として知名度抜群。やがて本書を知ったものの、映画の印象があまりにも強烈だったので「敢えて読むこともないか」とパスしてきていた。しかし、最近「午前10時の映画祭」で原作も読んだことがある古い名画を観ていて、文章で読んだ印象と映像から得られるものの差が妙に気になりだしてきた。別の言い方をすると、その違いを見つけることに面白さを感じるようになってきたのである。そこで新しい読書の楽しみ方に挑戦、と取り組んだのが本書である。
有るわ有るわ!先ず構成や細部の描写。ある意味で、時間的制約が厳しい映像表現の工夫。次いで文章から頭の中に浮かぶシーンと映像で見る印象の違い。人物は特に顕著だ。結論は「やはり読んでみなければ・・・」である。大事なことだが映像として表現の難しいところが端折られているし、逆に観客を楽しませるために、オリジナルを全く変えているところがあったりする。また、演じる俳優によって原作とまるで異なるイメージが長く残っている場面ある。
二、三例を紹介しよう。
大規模な上陸作戦、機密保持に苦労する。これは映画でも連合軍側の数々の欺瞞工作や諜報活動として描かれる。その一つは、作戦行動開始を仏レジスタンスに告げるヴェルレ-ヌの詩をBBCの海外向け放送で流すところである。詩の前半は作戦開始が近いことを知らせる予告、詩の後半が読まれると4~5日以内に作戦開始の合図、それはレジスタンスに破壊活動開始を指令するメッセージでもある。ドイツ国防軍情報部(カナリス機関)はこれを正確に把握しており、西方軍司令部の情報部門にもあらかじめ警戒するよう伝えられている。ここまでは映画も原作に忠実なのだが、これが無視される過程はかなりショートカットされている。原作では当時の西方軍司令部、その下でノルマンディー含む地域を担当するB軍集団(司令官はロンメル)の受送信記録まで調べて追うのだが、どこかで握りつぶされている可能性を示唆する。誰が何のために?ミステリアスな雰囲気が映画より「強く感じ取られる。
1944年6月6日が侵攻日、この前日(4日説もあるが著者は否定的)からB軍集団司令官ロンメル元帥は休暇をとっている。そのこと自体は西方軍総司令官ルントシュテット元帥にも了解を得ている。しかし、ロンメルは休暇ばかりではなく、ヒトラーに会う算段を総統副官を通じて取り付けている。このことは当人と副官だけしか知らない。著者が戦後副官から聞き出したことである。目的は総統直轄の予備の装甲師団を自分が動かせるように直訴する意図と著者は推察する(実際には上陸作戦が行われたためこの会見は実現しない)。休暇をとっていたことは映画でも伝えられるが、この話は映画には全く出てこない(ルントシュテットがヒトラーに装甲師団を自分の支配下に置くことを懇願するシーンはあるが)。実は、著者の見方にはルントシュテットとロンメル(および双方の司令部)の間にある、信頼感の欠如が上陸作戦成功に影響していると見ているふしがある(ルントシュテットはロンメルを陰で“若造元帥”と呼んでいた)。
ミスキャストの例。ジョン・ウェインは空挺部隊の指揮官として登場する。降下の際足を挫いて、その後の移動は農業用の一輪車に乗りそれを部下に押させて進軍する。貫禄ある彼の姿から将軍クラスのイメージが残っていた。実際は第82空挺師団の中佐(大隊長)、足は英国滞在中不注意で痛めたもの、上陸作戦から外されるのを恐れてひた隠しにしていたが降下後どうにもならなくなったのが現実なのだ。ジョン・ウェインが中佐はないだろう!
かなりの紙数が割かれたものに、揚陸艦や上陸用舟艇に関するトラブル多発がある。デリック(吊り下げ機)からの落下、輸送船から移乗の際の事故、浸水/波浪による転覆等により上陸前に多数の兵士が失われたことは、映画ではほとんど描かれないが、本の中では重い装備を付けたまま水中に放り出され助けを求めながら沈んでいく姿が何ともやりきれない(「溺れる者を助けず、前進せよ」が命令なのだ)。
取材に3年をかけ、約1000人にインタビュー、その内383人の証言を採用したと著者あとがきにある本書、細部を見れば原作と映画の間に種々差はあるものの、基本的な戦いの流れにそれほど違和感がないし、何と言っても大切なのは原作で著者が両者を公平に扱おうとする意図が映画にも確り反映されていることである。つまり、私にとって、映画から得られた印象は大筋では損なわれず、かつ本書を読むことにより細部で新たな知識を入手できたと言う、まことに価値ある一冊だったわけである。
蛇足だが、前項“コマンド・カルチャー”で指摘された統率力欠く将官は出てこない。
第一波で上陸したただ一人の将官セオドアー・ルーズヴェルトJr准将(映画ではヘンリー・フォンダ)は、57歳の老齢ゆえに計画段階では外されていたのだが、何度も上級司令部に指揮を懇願して許される。激戦のユタ海岸制圧の功もあって7月12日師団長に任命されるが、その報が届く前に心臓発作で急逝する。

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2019年2月14日木曜日

富士通マーケティングコラム新連載第1回

富士通マーケティングコラム“ICTのmikata”に新連載の「軍事技術史に学ぶICT活用法」第1回“なぜ軍事技術史か”が下記に掲載されました。

https://www.fujitsu.com/jp/group/fjm/mikata/column/madono5/001.html