2022年11月30日水曜日

今月の本棚-172(2022年11月)

 

<今月読んだ本>

1)アクティヴ・メジャーズ-情報戦争の百年史-(トマス・リッド);作品社

2)天路の旅人(沢木耕太郎); 新潮社

3)あの本は読まれているか(ラーラ・プレスコット);東京創元社(文庫)

4)鉄道ビジネスから世界を読む(小林邦宏);集英社(新書)

5)英語教育論争史(江利川春雄);講談社(選書)

6)神田神保町書肆街考(鹿島茂);筑摩書房(文庫)

 

<愚評昧説>

1)アクティヴ・メジャーズ-情報戦争の百年史-

SNS話題の脱真実時代、偽情報に依る世論操作は100年前からから始まっていた-

 


国の安全保障や国策を有利に進めるための組織としてCIA(米)、KGB(カー・ゲー・ベー、ソ連崩壊後はFSB)、MI-6(英)などの諜報機関がある。その活動は国内治安維持や軍事・外交情報の収集・分析からクーデター計画の推進、軍事作戦支援、要人暗殺のような謀略まで広範なものだ。そんな活動の中で、地味ではあるが連綿と続けられているものに世論操作(偽情報に依る偽計;これを本書ではアクティヴ・メジャー(積極工作)と称している)がある。第二次世界大戦前ナチスドイツが軍事力(特に空軍力)を実力以上に見せることにで、初期の領土拡大に貢献したことはよく知られるところだ。そしてSNSSocial Network Service;ツイッター、フェースブックなど)を道具とするポストトゥルース(脱真実;客観的な事実報道より情感に訴える情報が信じられやすい)の時代、ブレグジット(英のEU脱退;これは外国からの謀略ではないが)、トランプ対ヒラリー大統領選挙では、巧妙な世論操作が結果を左右したと言われている。本書は1921年から2017年までのおおよそ100年にわたる世論操作を31の実例・テーマで詳しく紹介するものだ。

2003年から2005年にかけて頻繁にロシアに出張した。既にソ連崩壊から10年以上経ていたにもかかわらず中央集権体制は依然徹底しており、何処へ行くにもモスクワを拠点にせざるを得ないようになっていた。モスクワ第一の観光名所は赤の広場とクレムリン、休日にはよくその辺りへ出かけたものだ。定宿ホテル近くのプロスペクト・ミーラ駅から地下鉄で45駅目のルビャンカ駅が乗り換えなしの最寄り駅。深い地下鉄のホームから何度かエスカレータを乗り継いで地上に出ると、そこはソ連崩壊前“ジェルジンスキー広場(中央にジェルジンスキーの銅像が在ったが撤去、広場の名称もルビャンカに変更)”と称するロータリー広場になっており、その向こうに薄茶色の大きなビルが見える。KGBの本部ビルだ。スパイ小説ではルビャンカと言えばKGBの換語となるほど関係深い。

ジェルジンスキーは1920年代の秘密警察(чk;チェーカ)創設者、その後のソ連諜報組織に絶大な影響力をおよぼした人物。第1話はこのジェルジンスキーが主導した“トレスト(合同)作戦”から始まる。国内に反革命疑似組織を作り、偽情報で国外にいる反革命支援者を操り、反革命分子の大量逮捕・処刑と組織壊滅を目的とした6年にわたる偽計作戦である。本書に取り上げられる事件の8割方はロシア・ソ連の諜報組織、чkKGBGRU(ゲー・ぺー・ウー;参謀本部情報部)が絡むものだけに、相応しい書き出しである。

唯一日本が登場するのは“田中上奏文”事件。1927年から1929年まで首相を務めた田中義一が昭和天皇に極秘で上奏したと言われる世界制覇構想(満蒙→中国→米国→世界)。偽物であることは間違いなかったが、NYタイムズにも取り上げられ中国さらには米国の反日プロパガンダとして利用され、外交政策に大きく影響していく。著者はここにもトロツキーやGRUが絡んでいる可能性をうかがわせる。

米国国内の反共対策、ナチスドイツの国威発揚、白人優性主義・人種差別批判(米国;KKKの活動、豪州;白豪主義、西欧の対ユダヤ人観)など、外交・軍事に直接関わらない事例も多々あるが、何と言っても数が多いのは冷戦下におけるソ連による諜報・宣伝戦、巧妙な仕掛けで平和運動や反政府活動を誘導している姿だ。直接表面には出ず、対象国の組織やメディアあるいは識者が意識することなくソ連の意思を代行するように仕向けていく(例えば、エイズ発症米国謀略説の流布)。

インターネットの到来は積極工作に新たな手段をもたらす。ウクライナを含む旧ソ連圏への工作(特に独立派に対する)、他国の選挙や政策策定への干渉、同盟国の分断(例えばメルケル独首相携帯電話盗聴事件)、西側反体制派の利用(例えば、スノーデン事件)。匿名性が保たれ、中間メディア媒体を必要としないだけに“仕掛ける側”に有利な環境だ(出所不明、反論困難)。当にポストトゥルース(脱真実)が日常化している。それにしてもロシア人のこの分野での力は突出している。何がそうさせるのか?これから何が起こるのか?本書に触発される疑念と不安は多い。

著者は1975年西独生まれ、ベルリンフンボルト大学(東独時代)、ロンドンスクールオフエコノミックスで学んだ後フランスのシンクタンク、米RAND研究所などに勤務、現在ジョン・ホプキンス大学政治学教授。

本書の最大の難点は翻訳。誤訳はなさそうだが、直訳調で日本文としての完成度が低く、これが終始気になって内容に集中できない。それ故、百年と言う長期間の情報工作をテーマにする情報量豊富(引用文献リストだけで55頁)な研究成果だが、他人に薦めることははばかられる。

 

2)天路の旅人

-終戦を挟む8年間、チベット・中国西域を探った凄腕日本人スパイの軌跡を、凄腕ノンフィクション作家がたどる-

 


満洲物を読んでいてフッと妄想が浮かぶ。もし、泥沼化した支那事変(日中戦争)を、中国本土撤兵と国民党の対共産党戦を日本が支援することで休戦・和平に持ち込み、代わりに満洲の利権(満洲国承認の是否は置いて)が維持出来たら私の運命はどうなっていただろうか、と。特に、小学校以降の教育(旧制)は如何様だったろう。先ず中学校は新京中学校か奉天中学校へ進み、その後内地の旧制高校か専門学校さらに大学進学もあったかもしれぬが、現地に建国大学(新京、文系官吏養成)、満洲医大(奉天、設立時は満鉄付属)、旅順工大(旅順、技術者養成)、ハルピン学院(ハルピン;現在の呼称はハルビン、設立時は外務省直轄、ロシア専門家養成、杉原千畝は卒業生)などの高等教育機関(いずれも最終的に国立。大学は皆予科を持つ)が創設されていたから、そのいずれかに進んでいた可能性も考えられる。

満洲の他にも、明治維新以降中国本土や植民地(台湾、朝鮮)にユニークな日系高等教育機関(例えば、上海の東亜同文書院)がいくつも設立され、人材を輩出してきたが、本書を読んで内蒙古にもその種の学校が在ったことを初めて知った。張家口を拠点とした蒙古善隣協会が1939年に創立した興亜義塾(専門学校相当、学校所在地フフホト)がそれである。内蒙古からさらに中国奥地の新疆省、青海省、チベット方面への影響力拡大をうかがう国策推進の先兵養成が建学の趣旨。同期生は20数名、専修コースは蒙古斑と回教班の二つから成り、蒙古語・中国語・ロシア語、蒙古事情・回教事情、政治・経済、地理・歴史、畜産さらに乗馬や武術を1年半塾で学びその後1年余を蒙古人の廟(ラマ教寺院)や包(パオ;遊牧民のテント住居)で過ごし3年で卒業となる。1941年に第1期生を送り出し、本書の主人公西川一三(かずみ)は3期生として1943年に蒙古斑を卒業する。この人の8年(1950年帰国)に及ぶ秘境隠密行を、若き日バックパッカーとして香港からロンドンに至る長期バス旅行を完遂、それをまとめた「深夜特急」でノンフィクション作家としての地位を確かなものとした著者が、本人や家族への聴き取り、西川自著「秘境西域八年の潜行」の検証(原稿を含む)、関連文献調査、時に「深夜特急」の体験を交え再現して見せるのが本書の要旨である。

西川一三は1918年生れ、山口県地福の農家出身。長兄は大学進学が叶ったが次男の彼は中等教育で終わらざるを得なかった。しかし、福岡の名門修猷館中学校で学び、1936年満鉄入社、中学・就職で難関を突破したことに優れた資質の証左だろう。軍の進出で満鉄経営は華北におよび天津・北京・包頭(ぱおとう、内蒙古)に勤務、この最後の勤務地で興亜義塾を知り5年務めた満鉄を退社、入塾する。国のために挺身したい、これが動機だ。卒業生の進路は現地進出の民間企業や新聞社、畜産などだが、彼は外務省の出先(張家口大使館)に売込み、中国西北部を探る仕事(一種のスパイ;第3蒋ルート実態調査;ムルマンスクからロシア中央部、カザフスタンを経てウルムチ(新疆省)に至る)を手に入れる。自身も西域に関心が高かったからだ。内蒙古の南西部から先は完全な中国支配地域、ラマ僧に化け、時には駝夫(ラクダ引き)に身をやつし、蒙古人やチベット人の隊商、遊牧民、巡礼者と行動を共にしながらやがてラサに至る(過去の到達日本人は7名、その内5名はインド経由)。砂漠(砂嵐)、高山(吹雪)、無人地帯、飢え・渇き、燃料難、激流、野盗、さまざまな障害を何とかしのぎ、ほとんど徒歩(ラクダやヤクは荷物運搬用)でここまで2年余、終戦情報が耳に入るが実態は不明。しかし、ラサにも中国の影響がおよんできており長期逗留は危険だ。軍資金(銀貨)はとうに尽き、托鉢僧(ほとんど物乞い)になって蔵印公路をヒマラヤ越えでインドへ向かう。インド国境の街で先行していた塾の一期生に巡り合い、彼から敗戦を告げられる。しかし、二人とも日本人であることを隠すため会話は専ら蒙古語、インド人は蒙古人と思っている。それに目を付けたのが英印軍、チベット・中国奥地の最新情報収集を依頼され、密貿易業者に化けて再びチベット侵入。これは一回だけだったが、西川は次の行動(個人的な関心からインド、アフガニスタン方面探査を目論む)のため何度もヒマラヤ越えの密貿易に従事、資金が溜まると再びラマ僧になってインド、ネパールの仏跡を巡る(托鉢、野宿、無賃乗車)。アッサムに鉄道工夫として滞在中インド警察に捕らえられ、19505月帰国。このチベット・西域知見を重視したのが占領軍(米軍)、帰国後1年間GHQでその情報整理に当たる。静岡の女性と結婚、一女をもうけ盛岡で理髪・美容業界向け化粧品卸売業を営み、2008年没。

沢木が西川を知るのは30年ほど前、TBSの「新世界紀行」(4回)で彼の旅が放映されたとき。2度にわたって刊行された「秘境西域八年の潜行」にも目を通し、今から四半世紀前会ってみたくなる。旅そのものよりその後の人生を含めて人物に興味を持ってのことである。従って、会う目的は取材ではなく人となりを知るという点にあった。1年にわたり、月一回盛岡に出かけ土日二晩5時頃から9時頃まで酒を飲みながら主に沢木が問いかける形で旅を振り返る。元旦以外は仕事を休まない西川なので平日が埋まっている沢木と話し合える時間はこの時しかないのだ。しかし、あれだけの難行苦行をしたのに西川から積極的に話題や質問が発せられることはない。これが変わってくるのは沢木が「深夜特急」で体験したインドからパキスタンを経てアフガニスタンに達したことを話した時、この時二人の間に在った薄膜が消えた感がしたと言う。西川もこの道を辿りたかったからだ。やっと心が触れあったところで、この話をどう処理すべきか判じられず(既に立派な自著があるのに何を書けるか?)、沢木は対談の中止を申し出る。それから約20年後西川の訃報を知り、遺族との交流をきっかけに西川一三像を求める活動が再開、7年前から本書の執筆にかかる。所要期間と労力は「深夜特急」をはるかに上回り、内容にそれだけの重みを感じられる出来栄えだ。常に自然体、志は高いが無欲、誰にも目線を合わせて生きる、地味だが好奇心に満ちた西川の人柄が全編に満ちている。帯によれば「著者史上最長の新しい旅文学」。凄い人物、見事なノンフィクション、読んでよかった!「さすが沢木!」これが読後感である。

 

3)あの本は読まれているか

-ノーベル文学賞受賞を阻まれた名著「ドクトル・ジバゴ」を使ったソ連崩壊作戦。どこまでが真実か?-

 


書架を見ればその人が分かる、とよく言われる。納得する一方で「まずいな~」とつぶやきたくなる。私の蔵書に古典・名著は皆無だからだ。 “少年少女世界名作全集”の類は読んでいるが、これは原作とは比べようもないダイジェスト版。そして、中心になる作品は、シェークスピア、ディケンス、デュマなど西欧のものが大部分、トルストイ、ツルゲーネフ、チェーホフ、ゴーゴリ―など古典文学で重要な位置を占めるロシア作家の代表作がこの種の全集に組み込まれていた記憶は無い。後年我が国著名人の読書録などを読んでいるとドストエフスキーに影響を受けたと書かれたりしていて、教養不足を質されているような感さえもつ。それでもロシア文学の一端に全く触れていないわけではない。それは映画で補われているのだ。「戦争と平和」「罪と罰」「アンナ・カレーニナ」などがそれらだ。そして、これは古典ではないがノーベル文学賞作家ボリス・パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」も、名匠デヴィット・リーン演出3時間を超える大作で、内容のみならずノーベル賞受賞辞退に追い込まれた理由まで知ることができた。

私の書架にあふれるのはスパイ小説や軍事サスペンス物ばかり。本書もその種のものだが、表題にある“あの本”は「ドクトル・ジバゴ」、高尚な作品が通俗小説の材料になる稀有な構成・ストーリーは、既刊のスパイサスペンス物とは一味も二味も違った作品に仕上がっており、思わぬ読後感を味わうことになった。

著者は1981年生まれの米人女性作家。本書は事実上の処女作だが、出版権オークションで2百万ドルの値が付き、NYタイムズの書評にも取り上げられた話題作。ラーラ(Lara)はペンネームであるが、ジバゴの愛人の名でもあり、著者の「ドクトル・ジバゴ」への思い入れがうかがえる。

時代は1950年から60年の10年間。東西冷戦の真っただ中。主人公は米国とソ連に住む二人の女性。一人はロシア系米国人、米国生まれで母と二人暮らしのCIAタイピストであるイリーナ、ソ連側はパステルナークの愛人オリガ、彼の子を宿したこともある。そしてボリス・パステルナークはこの間1958年ノーベル賞を受賞している(ただし辞退することになるが)。28章にわたる構成は東・西を交互に繰り返し、二人の主人公は互いにその存在すら知らない。唯一の接点は小説「ドクトル・ジバゴ」、ロシア語版がソ連国内で配布されるまでの過程で二人を交錯させるだけだ。イリーナはロシア語能力を認められタイピストとして採用されるが、やがて諜報員に転じる。オリガは前夫との間に二人の子を設けているが、この段階では既にボリスが最も頼りにするパートナーになっており、小説の構想段階からその内容を知る者としてKGBにマークされている。実はボリスも反体制作家として治安当局に早くから目を付けられていたが、スターリンが彼の詩を好んだため、見逃されていたものの、その死後(1953年)監視は厳しさを増し、オリガの強制収容所送りにつながっていく。ボリスの嘆願でオリガは数年後保釈されるものの、二人の自由度は日々狭まっていく。それに比べるとイリーナの日常は平穏で、段階を踏みながらスパイとしての能力と地位を高めていく。最大のヤマ場は「ドクトル・ジバゴ」原稿の海外持ち出し。1957年密かにイタリアに渡ったものが翻訳出版され、以後英語版を始め各国訳が続々と出版される。最後はロシア語版を如何にロシア人の手に渡し、それをソ連国内で流通させ、反体制の世論を喚起するかだ。この場面で主役はオリガからイリーナに変わる。

事実関係を確認しておこう。パステルナークに愛人がいたこと、イタリア人の手で初めて世に出たこと、CIAに「ドクトル・ジバゴ作戦」なるものが存在したこと、ソ連が国家として「ドクトル・ジバゴ」の流通・講読を必死に抑えようとしたこと、は事実である。謝辞を読むと、この事実確認に相当の労力をつぎ込んでいることが分かり、著者の本作品に対する熱意がひとかたならぬものであったことが推察できる。

難点は二つ。本書は単なるサスペンス小説に留まらず、歴史小説であり、政治小説であり、恋愛小説であり、社会小説(特に米国における高等教育を受けた女性の職業)であるため、サスペンス部分が希薄になってしまっている点、ファッションや化粧、料理の描写場面が必要以上にくどい点である。

 

4)鉄道ビジネスから世界を読む

-一帯一路の布石は1950年代から始まっていた。中国の狡猾な世界戦略への対応策を探る-

 


1996年ゴールデンウィークの時期、ギリシャ・ロードス島で開催された国際学会で発表の機会があった。日本は連休だったから渡航予定を早め、数日アテネ観光に費やした。二日目現地の市内バスツアーに参加したところ、日本人家族一組と同道親しく話をするようになった。聞けば東大医学部教授と夫人・教授の母3人で学会参加を兼ね欧州旅行をしているとのことであった。その夜の食事に誘われOKすると、教授のお薦めでアテネ外港のピレウスに出かけことになり、そこでギリシャ風シーフードを堪能した。当時ピレウスのことは何も知らなかったが、古代ギリシャのアテネ海軍基地からスタート、現代ではエーゲ海観光の拠点として、欧州旅客船港として有数の港湾都市であることを教えられた。長いこと忘れていたその都市名を聞いたのは2016年、その港の管理運営権(開発権を含む)が中国の手に渡ったと報じられた時である。IMF債務を返済できず一帯一路政策の拠点として取り込まれてしまったのだ。本書の中で著者は「将来香港割譲と同じように歴史の教科書で扱われる重大事」と不吉な予言をしている。タイトルは“鉄道ビジネス”となっているものの、本書の内容はアフリカを中心に“中国ビジネスの今”を現場から伝えるものである。

著者は1978年生れ、東大卒後住友商事入社5年で独立、花や水産物を扱う商社を起業。ケニアやアゼルバイジャンのバラ、ブルガリアのアカニシガイ(巻貝の一種)、チリのウニなどの輸出入などを取り扱っている、ヴェンチャービジネス精神に富んだ人物。

鉄道に関しては、トレヴィシックとスティーヴンスンの世界初の蒸気機関車から、軌道ゲージ戦争、米大陸横断鉄道敷設と中国人苦力、インドネシア新幹線導入に際しての日中の争いまで雑多な話が満載だが、重点的に取り上げられているのはアフリカにおける中国の鉄道ビジネス。驚くべきことに、1950年代から中国がそれに関与していたことである。貧しい中国が貧しいアフリカを支援する「南南協力」がそのきっかけ、今や中国による鉄道建設は35カ国に及んでいるのだ。鉄道の他高速道路、港湾整備、それに多数のスタジアム建設、ビッグプロジェクトが中国援助の下で進められてきている。当初は、宗主国に見捨てられた植民地救済とその見返りによる孤立していた共産国家支援体制づくりを目的に、安い自国労働者投入で細々と行われていたが、旧植民地が自立し強権統治国家に変じてくると、その国家運営と中国の経済進出戦略が同調し始める。世界銀行、IMFその他先進国の援助はカネの流れの透明性や投資効果を厳しく求めるのに対して、中国のそれは極めて緩い。為政者にとっては公私ともに都合の良いパートナーなのだ。あとから生ずる種々の問題;債務の罠と担保処置、雇用問題(おいしい仕事は中国人に取られてしまう)、中国人コミュニティの発生と地場経済支配、投資最終目的未達(利用度、経済効果)、稼働後の杜撰な保守、などについて国の統治者は何も考えていない。アフリカに限らず発展途上国鉄道建設プロジェクトに関しては日本のみならず欧州ももはや勝ちみがないのが実情なのだ。著者はここで経済援助に対する“先進国スタンダード”と“中国スタンダード”を対比させ、ことの良し悪し・採否は一先ず置き、「マルチスタンダード」の存在を冷静に自覚すべし、と説く。

一方で、先進国(特に日本)海外ビジネスの問題点を指摘する。高価格維持を目的とした多機能化、汎用化や高性能化が現地のニーズにマッチしないことだ。鉄道にとって安全性維持は必要条件であるが、速度を落とせば安全性が確保できるときに過度な安全対策でコストアップになっている点、他の交通機関(クルマ、飛行機)との調和を配慮していない点(これは政治レベルで時に話題になる米国での新幹線プロジェクト。現地の人は全く必要性を感じていない)、などが質される。商品開発の段階から現地事情に適合した(あるいはたまたま合致)例もある。ウォッシュレットは中国のみならず東南アジアにも急速に普及している。用便後素手で始末し、柄杓で汲んだ水で手洗いしていた人々に、これほど衛生環境を変えてくれる道具は無いからだ。ドイツ製品の評価が高い印刷機械ビジネスでは、小森印刷がアジア人の体力に合わせた小型機をヒットさせている。「汎用性を追わず、目的を絞った製品で勝負を!」が著者のアドヴァイスである。

新書160頁に中国関連を中心に海外ビジネスがてんこ盛り、いささか焦点がぼけるが、現場で奮闘している人の生の声「現実を直視せよ!」は伝わってくる。

 

5)英語教育論争史

-明治維新来問われる役に立たない英語教育100年。繰り返す論争に終わりはあるのか?-

 

 


戦後の新しい学制がスタートしたのは昭和22年(1947年)4月、小学校はそのまま6年制(プラス高等科2年があったが中学受験は初等科6年で可、高等科は規模小)、5年制の旧制中学は3年制の新制高校に変じ、大学は3年が4年に延長され、旧制高校は大学の教養課程(前期2年)に組み込まれた。全く新しいのは新制中学校のみである。校舎も無く教員も存在していなかった。教室は小学校を午前・午後の2部授業にし、一部の教室を新制中学のために割いていた。先生の前身は種々雑多、復員兵、失業者、社会人兼夜学生。どんな資格要件だったか知るすべもなかったが、私の入学した昭和26年(1951年)、英語以外は一応専門の担任教師が揃っていた。ただ、戦時中の英語教育制限・中止の影響もあり、きちんと学んだ英語教育専門家が払底、わが校の場合1年生2学期まで体操の先生が時間を減じて代行しているようなありさまだった。従って、英語教育のバラつきが激しく、都立高校入試(私の場合、昭和29年度)に英語の試験が無かった。本書を読み、この状態は明治初期外国語教育を開始した時と酷似していることを知った。否!専門教員不足以外にも、当時からあった英語教育問題が連綿として現在まで続き、甲論乙駁を繰り返しているのだ。根幹にある問題意識は「労力と時間をかけた割には、使いものにならない」こと。本書では1880年代から1980年代までのおよそ100年間の英語教育で起こった争点それぞれに1章を割き、争いが起こった時代順に進めていく。

各論点は以下の通り;①何歳から始めるべきか?(小学校教育論争;明治期)②訳読か?会話か?(学習法論争;明治-大正期)③教養か?実用か?(中学校教育論争;大正-昭和戦前期)④全員に必要か?(義務教育要否論争;昭和戦後初期)⑤国際化に必要な英語とは?(平泉澄(国際化人材選択コース)vs渡部昇一(広く浅く)論争;昭和後期)⑥英語だけでよいのか?(英語帝国主義論争;平成期)⑦なぜ英語を学ぶのか?(英語教育論争総括)。いずれも身近に感じてきた話題ばかりである。

それぞれの章の進め方は、以下の順序で展開される。論争発生の時代背景(例えば、①何歳から?;不平等条約解消を目指し、治外法権居住地の外国人に全国自由に居住を許す「内地雑居」策)→異なる意見とその発信者・支援者(反対論;小学生は自国語教科を学ぶだけでも精一杯、専門教育を受けていない小学校教師に指導は不可;当時の小学校は尋常小学校4年(義務教育はここまで)、高等小学校4年から成り、高等科2年終了で中学受験可)→論争の結末(不平等条約改定はならず論争はおさまる)→著者のまとめ(1885年の段階でこの論争が起こっていたことに驚くとともに、端緒の内に問題が顕在化したことは貴重と評価)。いずれの段階でも出典を明らかにし、綿密な分析が行われる。

終章が“なぜ英語を学ぶのか?”になっているように、英語を学ぶ必要性・動機が最も重要な論点と考える。ここで問題となるのが実態として“受験”が大きなウェートを占めていることである。私自身、父が東京外語(仏語)出身と言うこともあり、子供の頃から外国・外国語に憧れたが、そこへ出かけるのは夢のまた夢だった時代、最大の動機は高校受験には不要でも大学受験必須にあった。教養・実用以上に受験に必要な英語、この学習環境が英語教育に繰り返し論争を起こす因となっていることを本書でも直接・間接に問題視している。だからと言って大学入試から英語を外すことは難しい(論争史の中でたびたび「選択教科にすべし」の意見が現れるが、受験必須で排される)。焦点を絞り込めない学習目的、すべての論争は議論を尽くさぬまま終焉し、再びゾンビのように吹き返すのが英語教育論争史なのである。

英語に関する著書は比較的本欄で取り上げており、一部は英語教育史的かつ論争を含む内容のものもあったが(例えば、鳥飼玖美子著「通訳者たちの見た戦後史」本欄20217月)、本書ほど広範で長期間わたるものを目にしたことはない。英語教育問題を総覧する視点で極めて価値ある一冊と言える。

著者は1956年生れ。大阪市立大学(学士)、神戸大学(修士)、広島大学(博士)で学び和歌山大学名誉教授(英語教育学、英語教育史専攻)。高専から一般大学に転じたユニークな経歴を持つ。

 

6)神田神保町書肆街考

-世界文化遺産になってもおかしくない古書店街の歴史を多角的に追う、愛書家必読の大著-

 


“神田の本屋街”を知ったのは、小学校6年生になり上野広小路近くの黒門小学校に転校した時(1950年)。乗り物好きの私にとって万世橋の交通博物館は都電で直行できた最初の冒険地だ。次はその先の須田町に在った有名な鉄道模型店まで足を延ばした。須田町は靖国通りと中央通りの交差点、冒険活動は北に向かい、淡路町・小川町を経て駿河台下に至る。こうして神保町界隈の書店街を見つけた次第だ。中学・高校時代は専ら受験参考書を求めて訪れたが、古書店には用は無く当時としては大型書店だった三省堂か東京堂を利用していた。また大学時代は学校周辺にいくらでも書店があったからそこで事足りていた。この街が再び身近になるのは1966年それまで大手町に在った本社が新設のパレスサイドビル(最寄駅竹橋)に移って以降、神保町は指呼の間、昼食とその後の休憩時間をしばしここで過ごし、それで知った二つの店をよく利用するようになった。一つはすずらん通りの画材店文房(ぶんぽう)堂(明治20年文房具店として開業)、版画材や道具が揃っていることではおそらく日本一だろう。もう一店は神保町交差点を靖国神社方面(北)に向かい岩波ブックセンター(廃業、岩波書店の経営ではない)の先の路地を西に入った所に在る軍事古書専門店文華堂である。この書店街には本を求めること以外にも価値があった。それは本社を訪れた外国人の観光散策である。パリやロンドンにも書店街はあるが、これだけの規模はないようで、ハイな気分になって浮世絵版画や日本美術の本を衝動買いすることもあった。本書の単行本発刊は2017年、当時から知っていたのだが、五千円近い値段に躊躇していたところやっと文庫本(それでも800頁、2200円)が出てきたので早速読むことにした。因みに、書肆(しょし)は書店の意だが、“肆”には“いとぐち”の意味もある。

とにかくすごい本だ!通り一遍の商店街史ではない。地史、文学史、大学史、語学教育史(前項で紹介の「英語教育論争史」と内容が重なり相互理解が進んだ)、洋学史、政治行政史、出版史(流通、印刷を含む)、さらに風俗史でもある。

江戸時代を代表する学問所は昌平黌と蕃所調所、前者は国学、後者が洋学を旨とした。前者の所在地は湯島に在ったが、後者は九段下→小川町→一橋門外(現在の学士会館の近く)へと変遷する。当時この周辺は旗本・御家人屋敷の街であったが維新後彼らは徳川家に従い駿府に去ったため、広大な武家屋敷のあちこちが空き家になり蕃書調所は洋書調所と改めて居をその一画に構えることになる。これが東京大学の前身。そこへ入学するための予備門(のちの旧制第一高等学校)や外国語学校(現東京外国語大学)、さらには私立として設立された商法講習所も国立の東京商業学校(現一橋大学)となり、この地に続々と設立される。加えて、近代国家への第一歩は法体系の整備、政府は英・米・独・仏に手本を求め、これと併せて長く存在した代言人を弁護士制度に改める。ここに私立の法律専門学校、現在の明治大学(仏)、中央大学(英)、法政大学(和仏)、専修大学(米)、日本大学(和)の前身が様々な背景(学閥、政治、留学など)を持って誕生する。これらの専門学校が集中した理由は、講師陣の多くが東大法学部教授や司法省の役人の兼務であったからだ。やがて東大と一高は本郷へ、外語大・一橋大もそれぞれ別の場所に移るものの、これだけ学校があれば大量の書籍需給が生ずる。特に教科書(主として洋書)は修業後不要になるから売り手買い手に困らない。明治10年代の書店配置図を見ると、古書店ではないが、既に冨山房、三省堂、有斐閣など現存する書店名が記されている。

近代化の過程で様々な法律が制定され、この商売にも影響を与えていく。“古物取締条例”はそれまで新刊書・古書の別なく取り扱えたものを峻別することになる。古書売買には古物商としての届出・認可が必要となり、専門店が生まれる。これに“出版条例”や江戸時代の書籍流通ギルド“書林組合”のしきたりも影響、神保町に古書店が集中するようになっていくのだ。書籍は重く流通は限られた域内で行われていたが、近代化による鉄道・郵便・ジャナーリズム(特に広告宣伝)の普及で全国規模の古書流通が可能になる。洋書の教科書売買から始まった古書ビジネスは、洋装版和書、和装書へと広がり、高価な稀覯本・美術書(この種の取引の難しさ、特に値付けなども紹介され、興味深い)もここを中心に取引が行われるようになっていく。

初期の店主はリストラされた武士が多かったこと、戦後多く存在した映画館の想い出、時代の変遷でスキー用品店が軒を連ねた様子、中華街としての神保町、ときに書籍以外にも転じる話題で「知の血流で心臓の役割を持つ街」の歴史を学んだ。

著者は1949年生れ、東大仏文科出身の仏文学者。共立女子大学(1978年から30年)および明治大学元教授、共立時代は神保町に仮住まいし、その後も事務所を持つほどこの地に詳しく愛着を持っている人物。本書は筑摩書房の広報誌「ちくま」に6年連載されたものをまとめたもので、索引が人名・組織名(学校名、店名など)と出版物名に分けられ充実、史料的価値が高い。


-写真はクリックすると拡大します-

2022年10月31日月曜日

今月の本棚-171(2022年10月分)

 

<今月読んだ本>

1)チキンライスと旅の空(池波正太郎);新潮社(文庫)

2GE帝国盛衰記(トーマス・グリタ、テッド・マン); ダイヤモンド社

3)統帥乱れて(大井篤);中央公論新社(文庫)

4)科学者と軍事研究(池内了(さとる));岩波書店(新書)

5)天子蒙塵(全4巻)(浅田次郎);講談社(文庫)

 

<愚評昧説>

1)チキンライスと旅の空

-下町を語らせたら右に出る者の無い作家の想い出数々-

 


入社して7年余和歌山の田舎で寮生活だった。そんな中で数少ない楽しみの一つが元寮生の新婚家庭訪問である。ある時大阪のお嬢さん育ちの女性を伴侶に迎えた友人宅に招かれ歓談中、「私は東京の下町育ちだらか」と切り出すと「エッ!シタマチ?」と怪訝な顔をされた。娘時代何度も上京の機会はあった人だから山手(やまのて)線は乗ったろうし“山の手”は想像できたかもしれないが“下町”は不可解だったようである。この時から “下町”が全国区でないことを意識するようになった。その後“寅さん”シリーズで広く認知されるのだが、小学校から高校までの友人たちにすれば「柴又が下町かよ?」、ましてや下北沢や高円寺が下町と報じられるようになると「何をかいわんや」の感である。我々の感覚では、南西から北東へ銀座・築地・日本橋・神田・上野・浅草辺りまでが下町、隅田川から東は武家屋敷もあった本所を除き下町ではない。そんな狭い昔からの下町を描かせたら、これ以上の作家はいないと思われるのが本書の著者池波正太郎である。浅草で生れ育ち奉公先は日本橋、正真正銘の下町っ子である。卒業した西町小学校は新制御徒町中学の学区内だから、世代は異なるものの、格別の親近感を持つ人物だ。小説は鬼平犯科帳(長谷川平蔵の居所は本所)をTVや劇画で楽しんだだけで、読んではいないものの、随筆はかなり揃えている。本書は文庫本としてはその最新版(書かれた時期はかなり以前だが)、読まずにはおかれない。

まとめられた話は1972年から1986年まで新聞・週刊誌・月刊誌に掲載されたもの38話。しかし、単なる過去の追想ではなく、いずれも著者の前向きな生き方が滲み出て決して古さを感じさせない。題材は得意の食(店や料理ばかりではなく食材や調理法まで)や芸能(映画・演劇・レコード)関連が多いが、時節や旅(海外を含む;特にフランス;パリの定宿は川に近い下町)あるいは作品などにもおよび、著者の既刊随筆に比べ範囲の広いことが特色と言える。それ故に、本書を読むことで“池波正太郎とはいかなる人物であるか”が分かったような気になる。

時も場所もテーマも異なる話を整理すると以下のような来し方だ。父親の家系は宮大工だが父は綿糸問屋の通い番頭、母方の祖父は錺(かざり)職人(金銀細工;宝飾、小間物家具の金具)、著者は1923年浅草聖天町の自宅で生れる。一家は関東大震災で一時浦和に転居しているがしばらくして入谷に移る。ここで父が事業(撞球場)に失敗、離婚。母はその後再婚し異父弟が生まれるが、再度離婚し実家に戻る(浅草永住町)。著者は召集されるまでここで暮らすのだが、祖父が死亡しすべての家族(曾祖母・祖母・母・著者・弟)を母(なかなかの肝っ玉おっかさん)が支えることになる。しかし、後年老母が「子供を育てることが苦しいと思ったことは、一度もなかった」と語り、著者も「貧乏だが腹がへったことはなかった」と回想、下町の連帯感がそれに与かったとしている。小学校を卒業すると株仲買店に丁稚奉公(13歳)。給料は安いが16歳ころから自分も株売買を始め、その収入は「あの時の稼ぎを貯めていたら家の10軒も持てたのに」と老母に嘆かれるほどだった。グルメに目覚めるのはこの時代、美食を求め銀座・丸の内界隈に進出、時にはタクシーで横浜の中華街まで遠征することもあった。戦時徴用で旋盤工になり飛騨高山に出かけそこで食べたチキンライスが忘れられず本書の題名となる一文を記す。召集で海兵団に入団(20歳)、米子基地勤務で終戦を迎える。昭和20310日の下町大空襲で住まいは焼失したものの祖母・母は無事、住居を品川区荏原に移し、戦後区役所勤務をしながら新国劇の座付き脚本家を務め、この時師匠である長谷川伸から「小説を書け」と強く進められ本格的な執筆活動に入る。昭和35年(1960年)「錯乱」で直木賞を受賞、人気作家となっていく。

“東京の下町”と題するそのものずばりの話もある。子供時代不忍池で蛍狩りをしたとあり、ここも黒門小学校の学区内、これは隔世の感である。書かれた時点(1970年代)でその変貌を嘆いているが、現在はさらに激変、生きた時代・書かれた時代・読んでいる時代を往き来しながら、単なる繁華街(ダウンタウン)ではなく生活臭のある下町を楽しんだ。

 

2GE帝国盛衰記

1907年来のダウ平均工業株から外れた超優良企業の凋落。名経営者ウェルチも無罪ではない-

 


小中学校時代の読書は専ら図書室にあった世界名作全集や偉人伝だった。中でもエンジニア志望だったから“エジソン”には惹かれるものがあった。電球の開発でフィラメント材料を試行錯誤、日本の竹がそれに適するとの話が一層親近感を与えてくれたものだ。そんなエジソンへの敬意は成人してからも持続、1982年ニュージャージに在ったエクソンの技術センター訪問の折、休日を利用してウェストオレンジの研究所跡を訪れた。米国産業遺産となるそこには彼が昼夜分かたず研究開発に励んだ一画があり、簡易ベッドまで残され、往時を偲ぶことができようになっている。このエジソン崇拝観が激変するのは60歳過ぎてから。いくつかのエジソン伝(「エジソンの生涯」「エジソン発明会社の没落」「訴訟王エジソン」など)を読むうちに、子供向けの英雄譚とは全く異なるエジソン像を知ることになったからである。そこにはアイディア盗用・独占欲・狡猾・陰謀など負のイメージが溢れている。例えば、最近映画「エジソンズ・ゲーム」の主題となったウェスティングハウスとの電力供給における直流・交流戦争(エジソンは直流、ウェスティングハウスは交流)が挙げられる。放火事件まで引き起こしてウェスティングハウスを貶めようとするのだ。このエジソンが1878年に創設したのがエジソン電気照明会社、これがやがて本書のタイトルにつながるエジソン・ゼネラル・エレクトリック社となるわけだが、早い時期(1892年)にエジソンの名は消し去られ、経営にも関与することも無くなって、単にゼネラル・エレクトリック(GE)となってしまう。本書の出版を知ったとき、このエジソン電気照明会社から始まる1世紀以上にわたるGE史と勝手に思い込んでいたが、読んでみると予想とは違い、20世紀最高の経営者と言われたジャック・ウエルチのあとを継いだジェフリー(ジェフ)・イメルトの時代を中心としたごく直近のGE経営の変貌・衰退を詳しく語る内容であった。

1981CEOに就任したウェルチは最盛期に売上を5倍、収益を15億ドルから127億ドル、株価を40倍引上げたGE中興の祖である。これだけの実績を上げるためには大胆な経営改革が必須。厳しい姿勢で事業構成の組み直しから人員削減まで徹底的に行った。その最大の眼目はGEキャピタル(金融業)の拡大、一時期GE収益の半分以上を稼ぐまでになる。2001年退任、後継者としてイメルトが選ばれる。イメルトはキャピタル偏重を改め本業(製造業)回帰を目指すことになる。理由は金融事業に対する外部から聞こえて来た、あまりにも範囲を広げ過ぎ実態が見えないとの批判。しかし、彼はビジネススクールに学んだとは言えマーケティングが専門、キャピタルの事業をよく理解できないため、そのリストラは中途半端なものに留まる。一方GEの他事業部門資金はキャピタル頼み、伝統的に財務計画・報告は杜撰なものになっている。例えば、ジェットエンジンや発電タービンビジネスは単品では赤字だが長期にわたる保守で利益が出る仕組み(繰延収益化)、これを四半期ごとに調整してあたかも利益が出たように操作することが常態化していたのだ。この会計操作は鉄道車両や医療機器も同じ。つまりウェルチ時代から収益は作られたものであり、経営の実態は経営者自身気が付かぬほど複雑化していたのである。これがやがて証券取引委員会(SEC)の疑念を生むことになるが、イメルトは当初事態を深刻に受け止めておらず、特別会計を使った巧妙な仕組みで製造業回帰のためのM&Aに邁進する。杜撰な財務管理は買収企業評価の甘さにもつながり大型買収に失敗を重ねることになる。

彼の施策は投資家の疑念と不安を生み、やがてウェルチ時代に遡る経営見直しを迫られることになる。同時期サブプライム・ローン問題、リーマンショックなども発生、先ずキャピタルが俎上に上がり、キャピタルの行き詰まりはGEグループ全体の資金調達危機を派生、救済のためFRBの監督者が乗りこみ監視下に置かれる。イメルト就任時の株価38ドルは2009年には12ドルにまで落ち、配当を30セントから10セントに減ずると株価はさらに下落、S&Pの格付けはAAAからAAに下げられ、1907年設けられそれ以来のメンバーだったダウ平均工業銘柄30社からも外されてしまう。 “物言う投資家”が取締役会にポストを求め、大胆なリストラ(キャピタルの解体、プラスチック事業、医療事業、NBCユニバーサル(メディア)、石油・ガス機器事業の売却など)に着手するとともにイメルトを退任に追い込む(2017年)。イメルトを継いだのはグループCFOのジョン・フラナリーだが彼の寿命はわずか14カ月(生真面目な性格が優柔不断と断じられる)、本書ペーパーバック出版の時点(2021年)ではフラナリーが取締役会メンバーとして招いた、小規模なコングロマリットCEOを経験しハーバード・ビジネス・スクール教授に転じたラリー・カルプが務めている。

本書の主役は専らイメルトだが、著者は衰退の根源をウェルチの経営手法にあると考えている。特に収支と株価に着目したRank&Yank(抜擢と切捨て)と呼ばれる厳しい人事評価システムと金融業への過大な傾斜がその代表だ。製造業と金融業の人事管理および収益・財務管理か全く異質なものであることをイメルトは無論、ウェルチですら理解していなかったのではないかと見ている。次いで問題視しているのが取締役会の役割・機能である。社外取締役が多数派(一流財界人、学識経験者)のGEでも会長はCEOが務め、誰も会長に異言を呈することがないのが実態。月一度ほど集まるだけで年収2千万円の収入、社有ジェットを利用でき、時には製品(多分家電製品)の供与を受ける特権・特典に完全に懐柔されてしまっていたのだ。

読みながら去来したのは東芝。我々の就職時は超一流会社、同級生も何人かここに入社した。しかし、ボロボロになったウェスティングハウスの原子力事業を買い取ったとき「20世紀初頭からGEと関係が深かった東芝(東京電気+芝浦製作所)が今、何故?」と疑ったものだった。そして不正経理を因とする東芝解体が進んでいる。規模は違うが同じ総合電機、果たして東芝はどうなるのか?

内部に食い込んで、経営細部の情報を収集、イメルト一人を悪者にするような興味本位の論調でなく、多岐にわたる問題点を客観的に分析、大企業の病根を突き詰めるプロセスは、「さすが経済ジャーナリスト!」の感を抱かせ、現役時代読んだ経営史・企業文化に関する同種の書物と比べても際立った秀作と評価できる。

著者は二人ともウォール・ストリート・ジャーナル記者、一時期GEを担当した先輩・後輩である。

 

3)統帥乱れて

-大本営と現地軍、陸軍と海軍、仏印北部進駐を巡る混乱を海軍当事者が語る-

 


現役時代数理技術を扱う部門の管理職を経験したことからその一手法であるOROperations Research;作戦研究)に興味を持ち、実務を離れた2007年この学問の発祥の地英国に渡り、その歴史研究の泰斗であるランカスター大学経営学部教授に個人指導を受けた。ORはその名のごとく軍事作戦に数理を適用する活動、島国英国の生命線であるシーレーン確保のため対Uボート作戦に広範な適用事例があり、これによって危機を脱しことがよく理解できた。教授の指導方法は英国事例文献のリーディング・アサインメント(宿題)中心だが必ず「日本はどうだったか?」の質問が投げかけられる。幸い渡英遥か以前からOR史関連資料を集めており、そのひとつに本書の著者による「海上護衛戦」(単行本発刊昭和28年(1953年))があった。著者は昭和18年秋創設された海上護衛総司令部の参謀を務めた人(1902年生れ、海兵・海大卒、米国留学、駐米大使館武官補、終戦時大佐)で、帝国海軍には“船団護送(兵員輸送を除く)”の発想は皆無と言っていいと記されていたのでその旨応えると「信じられない!何故なんだ?」と話が盛り上がった。そんなことがあってそれまで知らなかった著者名が印象づけられていた。その新著(復刻版)が出たので読んでみることになった。

太平洋戦争(大東亜戦争)へ至る大きな道のりをたどると、満州事変(19319月)→支那事変(日中戦争;19377月)→仏領インドシナ進駐(仏印;現ヴェトナム、ラオス、カンボジャ;北部19409月、南部19417月、南部進駐と同時に米国に依る石油禁輸・日本資産凍結)→ハルノート(194111月)→開戦(194112月)となる。本書で扱われるのはこの仏印北部進駐に関する陸海軍の動きであり、西方電撃戦でドイツに敗れた後の仏和平派に依るヴィシー政権誕生後の日仏外交と密接に連動する。日本側の建て前は仏印経由の蒋援(国民党軍支援)ルート遮断にあるが、その先に英領マレーやビルマさらには蘭印(現インドネシア)があり、米・英・蘭との関係も複雑に絡まっている。仏側(東京、現地)との交渉は、紆余曲折はあったものの、北部進駐は平和裏に行うことで仏側も了解する。しか陸軍の一部(参謀本部、現地軍)に武力進駐を画策する一派があり、中央(政府・大本営)と現地軍(平和進駐でも海軍の協力は必要)を巻き込む混乱が発生する。著者はこの時の遣支第2艦隊(第1が中国沿岸北部、第2がトンキン湾までの南部担当;司令長官高須四郎中将)作戦参謀(中佐)であり、この混乱の渦中にあった。タイトルの“統帥乱れて”は平和進駐のため現地に派遣された監視団(交渉団)団長西原一作陸軍少将(大本営参謀)が中央に報告した電文に「統帥乱れて信を中外に失う」とあったことから引用されている。武力派のトップは大本営陸軍部(参謀本部)第1部長の富永恭次少将と南支方面軍司令部副参謀長佐藤賢了大佐。これに参謀本部・現地軍や海軍軍令部(海軍はごく少数)の中堅佐官級参謀が加担する。

陸軍武力派の意図は何としても“事変(戦争)”にして、勝者の名誉を出先の軍・個人が獲得することにある。満州事変の下剋上では関係者が一部見かけ上左遷されても、しばらくすると重要ポストに返り咲いている(例えば、石原莞爾は関東軍参謀から仙台の連隊長になるがこの後参謀本部作戦部長の任に就く)。支那事変も同様、あの時代の職業軍人にはこの手のタイプが決して少なくなかったのだ。命令の無視・曲解が現地レベルで頻発するとともに大本営陸海軍間での情報共有化も意図的に妨げられ事態は混乱、国境付近の部隊は一部越境、仏側と小競り合いが起こり、進駐具体化交渉が進まなくなる。ここで艦隊司令部は上陸支援に向けられた駆逐戦隊を引揚げることを決し中央の統制を要請、何とか平和進駐を実現させる。本書はこのような過程を現地陸海軍間の会議・交渉を中心に日時を追い、個人の言動を明確にして語るものだが、著者の立場は一連の動きの海軍側要石の位置にありその状況が生々しく伝わってくる。

本書の単行本は昭和59年(1984年)刊、著者晩年の作品である(82歳)。戦後からこの間ひたすら戦史研究に取り組み(本テーマばかりでなく海上護衛戦なども含む)、関係者への聴き取り、残された日記(自身と高須大将(最終)のものが中心)の内容確認、戦記・戦史出版物との比較、防衛研究所戦史室に残された関係電報や焼却を免れた公文書類の詳細調査、によって完成させたと著者あとがきにある。ここで在来の戦史書物と大きく異なるのが電文の多さである。海軍はその性格上わかるものの陸軍の一部情報までそこにあることに驚かされた。このからくりは陸軍の通信システムでは長距離通信が出来ず旗艦経由になりかつ大本営と現地軍間の通信暗号が共通だったことによる。海軍軍人が書いたものだけに対陸軍観にバイアスがかかっていることは否めないが(自身そう述べている)、この電文中心が客観性を保つ重要な役割を果たしていると思える。大きな流れの中で目立たぬ北部仏印進駐の細部を報告している点で価値ある一冊と言える。

 

蛇足;佐藤と富永;

佐藤賢了;本件以前の1936年衆議院委員会において「国家総動員法」の政府説明員の際、宮脇長吉議員(鉄道作家宮脇俊三の父、元陸軍大佐で士官学校教官時佐藤は生徒であった)のヤジに対し「黙れ!」とやり舌禍事件となっている。北部仏印進駐統帥違反では、上司の方面軍司令官は予備役編入となったものの佐藤は陸軍省軍務課長・軍務局長(少将)へと順調に出世している。これは東條首相のはからいと言われる。東條失脚後は支那派遣軍総参謀副長、師団長(中将)など枢要な地位からは遠ざけられているが極東裁判ではA級戦犯となって1956年まで服役。

因みに、佐藤は著者より7歳上だが駐米大使館武官室勤務経験があり同時期在米、旧知の仲である。

富永恭次;統帥違反の責任をとらされ東部軍司令部付きに左遷されるが、東條首相の下で陸軍省人事局長に復帰、陸軍次官(中将)まで昇進。その後一度も実戦を体験していないにも拘らず比島決戦を担う第4航空軍司令官に任ぜられ多数の部下を特攻に出す。一方で敗勢になると上級司令部である南方軍の許可を得ず参謀と伴に台湾に司令部を移し、これが敵前逃亡と断じられ予備役に編入される。しかし、上級指揮官の人材払底で現役復帰、格下の師団長として在満師団に配属、そこで終戦を迎え10年シベリアに抑留され1955年帰国する。

 

4)科学者と軍事研究

-反軍原理主義者の教育宣伝資料。こんな輩に学界が牛耳られてはならない!-

 


OR歴史研究で渡英した際、彼の地における第二次世界大戦時の科学者と軍事に関する文献・書籍に触れる機会が多かった。それも兵器開発のような技術的・工学的分野ばかりでなく作戦計画・実施と言う軍事活動の中枢機能までおよぶ広範なもので、トップレベルの理学や医学・生理学専門の科学者が深く関わっている姿である。ORの父P.M.S.ブラケット教授(マンチェスター大、物理学;戦後宇宙線研究でノーベル物理学賞受賞)、米国との軍事科学交流を推進し自らも航空機用高オクタン価ガソリン開発に貢献したヘンリー・ティザード教授(インペリアルカレッジ、物理化学)、チャーチルの科学技術顧問フレデリック・リンデマン教授(オックスフォード大学、物理学)などがその例だ。これがきっかけで帰国後英国のみならず米国、ドイツ、日本における科学者と戦争の関係を調べ始めた。その結果、第二次世界大戦では英国の科学者の担当域が政治・軍事・産業と最も広範で米国がそれに次ぎ、ドイツ・日本は兵器開発(工学域)に限定されていることが明らかになった。そして民主主義国ほど科学者の総力戦貢献度が高いことを知った。また英米が最新技術を共有できたのは科学技術が同レベルにあったことが、それを現実的なものにした。本書を手にしたのはこの問題における我が国における最新情報を期待してのことである。しかし、読み始めて大いなる誤解であることがわかった。反軍原理主義者の活動報告・広報資料と言うのが実態なのだ。

まえがき・あとがきから著者は2014年から軍学共同反対運動を開始(“連絡会”があり、コアーメンバーとして新潟大学、東京農工大学、海洋研究開発機構など国立大学・研究機関の教授や研究官が個人ベースで名を連ねている。)、既に2016年「科学者と戦争」(岩波新書;未読)を出版しており、本書はその続編に位置付けられる。その骨子は防衛省が創設した「安全保障技術研究推進制度(研究に対する資金助成)」に対する批判(と言うより非難)、軍事科学→戦争→悪と言う極めて単純な論理展開を主張し行動している。著者は1944年生まれの名古屋大学名誉教授(天体物理学専攻)、既に退官しているが先の制度発足来本書脱稿まで(201712月発刊)、市民講座などで50回以上反軍キャンペーン講演を行っている。

おそらく若い時から反軍・反戦思想の信奉者だったのだろうが、本書の中でしばしば触れるのはつの日本学術会議の声明・決議である。第一は1950年(昭和25年)発せられた「戦争を目的とする科学研究には絶対に従わない決意表明」、第二は1967年(昭和42年)の「軍事目的のための科学研究を行わない声明」。そして助成制度発足後にこの二つを再確認する2017年の「軍事的安全保障研究拒否の決議」。これらを金科玉条として「声明・決議に反することは許せない」と活動しているわけである。時代背景(特に国際情勢)など一切考慮せず、占領終結前後の声明(第一;あとの二つはこれの焼き直しである)墨守にこだわり続ける者は原理主義者以外の何者でもない。

ひも付き研究は自由度を奪われる。これに慣れると軍学共同に抵抗がなくなり積極的に軍事科学を推進するようになる。守りの兵器研究がやがて攻撃兵器に転じ、果ては核兵器、生物・化学兵器開発につながっていく。ひも付きは大学の自治、科学者コミュニティの独立性を失う結果を招く。民軍両用のデュアルユースも要警戒だ。こんな調子で防衛省のみならず他省庁(例えば経済産業省)の学術研究関連予算への反対を呼びかける。一方で研究費増額、配分の自由度を求め、学術会議の改編や現状と異なる大学改革を提言する。軽薄な左傾知識人にいかにも受けそうな論理展開だ。

本書は2017年刊なので助成制度の適用実績は2015年度、2016年度のみだが、応募件数では15年度109件が16年度は44件と半減以下、これを彼等の活動成果としている。

憲法改正を望み(9条ばかりでなく)、軍事と科学者の英米における関係を理想と考える私にとって、本書に述べられた内容はとんでもない主張・活動であるが、この制度の運用実績や学界内での反軍活動の実態を詳しく知ることができた点において、それなりに目を通した意義はあった。

 

追記;本項を書き終えたのは28日夕。この日の日経夕刊に、半頁を割き「軍民両用技術で歩み寄り」と見出す記事が掲載された。これは先に述べた1950年および1967年の声明を日本学術会議(会長梶田隆章東大卓越教授;奇しくもブラケット同様宇宙線研究でノーベル物理学賞受賞)が見直したと言う内容である。ポイントは「従来のようにデュアルユースとそうでないものを見分けることは困難」とし「研究対象となる科学技術をその潜在的な転用可能性をもって区別し、扱いを一律に判断することは現実的でない」と明記したことにある。コメントを寄せた山崎弘郎東大名誉教授(センサー工学;私も一時期勤務した横河電機元社員)も「遅すぎたし、当たり前のことを示したに過ぎない」と今回の判断を支持している。長年反軍原理主義者が拠りどころにしていたものを事実上反故にしたことを評価したい。

 

蛇足;ドイツ文学者・エッセイスト・東大教授池内紀(おさむ、故人)は兄、中東専門家・東大先端科学技術センター教授池内恵(さとし)は甥。

 

5)天子蒙塵(全4巻)

590万部を売り上げた“蒼穹の昴”シリーズ第5部。満洲国建国前夜を綿密な調査を基に書き上げた力作-

 


生れ育った満州に対する想いが、老い先が短くなることと反比例して高まっている。ひと当たり海外(主に欧州)を巡ったら、最後は長春(新京)を中心に彼の地を訪れたいと願っていた。完全な一人旅(家人は全く興味がない)、通訳兼ガイドを雇い、長春に数日滞在、かつての我が家とその周辺、夏休みを挟んで5カ月ほど通った小学校、自宅近く建設途上にありながら工事が中断していた宮廷府(新宮殿)、新京駅周辺(特に大和ホテル)、関東軍司令部などを探し出ししばし想い出にひたり写真を撮る。こんな旅行のために新京在住だった先輩(故人)が持っていた当時の地図のコピーも用意した。長春が済んだらハルビン(両親と観光した幼児期の写真が残る)・瀋陽(奉天;引揚途上約1カ月ここに留め置かれた)・大連(妹出産のため母とここ経由で本土と往復した)を巡る。これが計画の素案である。しかし、コロナ禍で中国観光がいつOKになるか不明だし、老齢化で実現の可能性はほぼ消えつつある。それでも満洲への関心は褪せな。小説でも歴史小説ならそれなりに有効情報があるかもしれない。こんな期待で本書を手にした。

本書は清朝末期の光緒帝と西太后の争いを描いた「蒼穹の昴」(1996年刊)から始まる一連の満洲史シリーズ小説である。この後「珍妃の井戸」「中原の虹」「マンチュリアン・リポート」と続きこれがその第5部となる。私が読んだのは前作「マンチュリアン・リポート」からで、本欄20109月に取り上げている。動機は“マンチュリアン”にあった。張作霖爆殺事件の真相を勅命(こんなことはあり得ないが)で捜査に当たる若い陸軍大尉を主人公としたものである。当時これがシリーズものであることは知らず、読み切りと思っていたから、本書の単行本(2016年刊)が出たことなど知る由も無かった。書店で「何か満洲物で面白い作品は無いか」と物色している時目に入ったのが文庫版である。“蒙塵” (天子が難を逃れて都の外に出ること)が何故か気になって手にしてみると帯に“さまよう溥儀”とあり4巻まとめ買いをし、一気に読んだ。



辛亥革命(1912年)で廃帝となった宣統帝溥儀が、軟禁されていた紫禁城(北京)を脱し(1924年)、天津の日本租界を経て東北(満洲)に逃れ満州帝国皇帝に即位するまで(1934年)を描く満洲国前史が今回(第5部)の時代背景である。この間大東亜戦争への策源とも言える満州事変が起こっている(1931年)。日本史で言えば幕末・維新に相当する時期、多様な歴史見解があり各種著作・報告などが溢れる一方、未解決の課題も多々残る、小説の題材には事欠かない時代。これを著者はどう料理するか?ここが満洲物をかなり読んできた者として興味の焦点だ。

歴史小説を読むとき、史実との整合性にどうしても眼が行ってしまう。人物、時代考証、地理、乗物・交通機関、武器を含む小道具などがそれらだ。これらに違和感があるとどうしてもストーリーにのめり込めない。今回そんな場面は皆無。自身の記憶と重なるのは新京の街並みだけだが、工事が中断されていた新宮殿(この敷地内に社宅の家庭菜園があったし、子供たちの遊び場でもあった)を含め、「よくここまで」と思わせるほど調査が行き届いている。人物描写を除いてすべて事実と言ってもよさそうだ。第4巻最後にNHKのプロデューサーが解説を寄せているが、中国関連番組制作の際著者に協力を求めるほどの中国通であることを知った。


さて、その人物である。歴史小説だから、溥儀・婉容(えんよう;皇后)をはじめ、父張作霖爆殺後東北軍を国民党軍に易幟した張学良、天津からの脱出劇に深く関わった甘粕正彦、満州事変の首謀者石原莞爾、強力な抗日馬賊の頭目馬占山、東洋のマタハリ川島芳子など半分以上は実在の人物。当然脚色されてはいるが、それほどノンフィクションで知ったイメージと変わらない。しかし、小説を面白くするのは作者が思いを込めて生み出す架空の人物。これを如何に本物のように著せるかが力量の見せどころである。読後調べて知ったことだが、シリ-ズに一貫して登場する二人がその代表。一人は光緒帝に使えた高級官僚、科挙最上級の試験(殿試;皇帝による試問)に合格し“状元”の称号を得た男、もう一人は貧しさから宦官になり西太后に寵愛され大総官太監(宦官の最高位)に就いた老人である。科挙試験の詳細や宦官の世界の内奥描写が、彼らをいかにも実在の人物のように感じさせ、優柔不断な溥儀に折に触れ助言を与え決断を促すシーンで存在感を際立たせる。つまり、創作であるにも関わらず、歴史を学んでいるような気にさせてしまう。「良くできた(歴史そのものと誤解させる)危ない小説」これが読後感である。

本書の最後は満洲国皇帝即位式(1934年)、私が生まれる5年前のことだ。「そんな時からあの新宮殿の工事はとまっていたのか!」の驚きとともに、いよいよ時代が重なる第6部の出版が待たれる。

 

(写真はクリックすると拡大します)