2009年2月28日土曜日

滞英記-17

Letter from Lancaster-17(現地発最終版)
2007年9月16日

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 前報でお知らせしましたように、既にフラットからの退居日を決め、帰国準備を進めています。まだ、3週間以上ありますが電話料金を完納していきたいので、20日で電話使用を停止します。そんなわけで、毎週お送りしてきた本レポートの送付を、本報をもって“現地発最終版”とさせていただきます。最終版は帰国後あらためてお送りする予定にしておりますが、一ヵ月後くらいになります。悪しからずお許しください。
 この報告は、ビジネスの世界を去るに当ってお世話になった方、また渡英に際してご支援・ご助力いただいた方、壮行会をしていただいた方々を中心にお送りしてきました。本来、自分の滞英記録を残すことを主眼に始めたものですので、整理が行き届かなかったり、個人的な興味が先走ったりし、独断や偏見を書き連ねたり、ジャンクメールに近いものを一方的にお送りしてきたこと、深くお詫びいたします。
 ランカスターという、日本社会とは隔絶した地に在って、孤独な時が長かった私にとって、このメールは“生命線そのもの”でした。いただいたメールは300通以上になります。励ましのお言葉、国内情報、滞英生活に関するご助言など、いずれもこちらでの生活を、活力を持って進めていくために欠かせぬ貴重なものばかりでした。深く感謝いたします。
 当初予定していた、正規の研究員としての英国生活は、研究者ビザ取得不可と言う予期せざる出来事で急遽個人研究に変更、背水の陣で乗り込む結果になりました。しかし皆様の温かい励ましとKirby教授の好意もあり、勉強も私生活の方も充実した時間を過ごすことができ、期待以上の成果が上がりました。現段階は、日本では得られない多くの食材を得た段階で、これをどんな料理に如何に仕立てるか?まだまだ課題は山積みで、今後も変わらぬご支援・ご指導を賜らなければならない状態です。どうか、これからもよろしくお願いいたします。

 研究は、“公刊 空軍OR史”の調査をやっと終えました。以下がその概要・成果です。
①とにかく夥しいOR適用が空軍全域(兵種、地域)で行われている(特に、1943年以降)
②OR適用にネガティブな印象を今まで持っていた、爆撃機軍団も広範に利用している。ただ、他の軍団(戦闘機、沿岸防衛)に比べ、戦域が完全に敵国内となるため信頼性の高いデータ・情報が得にくかったので、中核任務(爆撃戦略)への適用が遅れたとしている。
③OR適用のために、前線部隊にORS(OR Section)がそれぞれの参謀部内に設けられるのだが、人材難で要請に応えられない状況が生じている。
④仕事の内容は圧倒的に現場レベルの戦術的なものが多い。つまり、兵器の稼働率、信頼性、精度向上、それにレーダーを中心とする新兵器操作教育などである(適正人材の選別法などを含む)。
⑤最前線部隊の戦術支援では、実戦に同行することも多く、ノルマンジー作戦では上陸後7日目に連合軍司令部付きのORSも大陸に渡り、ドイツ軍の反攻で戦闘に巻き込まれるケースも出ている。
⑥全般にORSからの改善提案は、上層部(空軍省、空軍参謀本部、軍団司令部)と最前線部隊には好意的に受け入れられる傾向があるが、Senior Staff Officers(中堅参謀;軍学校出身者と推察される)層には「アドバイザーが指揮を執るのか?」と批判的な空気もあった。
⑦当時の最上級指揮官たち(空軍参謀長、各軍団長等)のORSに対する、戦後の評価が出ているが、皆ORとORSの貢献を極めて高く評価しており、将来ますます重要性が高まるとしている。
⑧意外だったのは、爆撃軍団長アーサー・ハリスが最大級の賛辞をORSに与えていることである。インターネット普及の初期、英OR学会のホームページに初めてアクセスした時、ORの紹介にチャーチルの言辞が紹介されていた「ORを何故適用しようかと思ったかって?ハリスが反対したからさ」と。今までORの起源を追ってきても、爆撃機軍団は消極的な印象を拭えなかった。その因はハリスにあると思っていたが、②で見るように、適用環境が他軍団と違うことが遅れの原因の一つであることも分かってきた。では何故ハリスは悪役にみられているか?これは多分彼個人のキャラクターと爆撃戦略思想(夜間都市無差別爆撃の積極推進者)から来ているのではないかと思い始めている。
⑨沿岸防衛軍団長も務めたジョン・スレッサー大将の評価は興味深い。ORSを称えた上で、特に科学者が重要な戦略決定の場に不可欠になってきているとしながら、「科学者を司令官と置き換えることは出来ない。“スライドルース(計算尺)”で戦略は作れない。高度な戦略策定能力は“長年の戦略思考習慣と実戦の経験”から生まれる」としている点である。


 昨年出版された本で、著名な経営学者、マッギール大(カナダ)教授、ミンツバーグが書いた「MBAなんか要らない」(邦訳;日経BP)は、既存のMBA教育を痛烈に批判している。それは実務経験の無い学部卒を、ケーススタディーと分析手法で、いきなり管理者に仕立てる点で、種々のデータを使って現状のMBA教育の問題点を指摘している。彼は、高い経営能力は、“経験とそれに培われる感性(経営センス)そして論理・手法”のバランスによって齎されるとしている。
 両者の考えに共通性があることを知りえたのは、この資料研究最大の成果といえる。

 今回のご報告は、当地を去るにあたりこの地で感じた三つの事柄を<滞英雑感>と題してお送りします。

<滞英雑感>
1)遊学
 研究者の身分は、渡英直前突然消えました。無論留学生ではありません。仕事で来ているわけでもありません。旅行者?近いかもしれませんが、ほとんど旅行はしていません。入国に際してもこれで苦労しました。いったい私は何なんだ?深夜、独りきりになり、ぼんやりしているとよくこんな自問を発しています。
 そんなある夜、フッと湧き上がってきた言葉が<遊学>です。既に死語に近い言葉ですが、私たちが高校生ぐらいまでは比較的目にしました。“欧米に遊学す”などと、有名人・政治家の経歴などに記されていたのを記憶しています。子供心に“遊学って何なんだろう?何か格好いいな!”と思ったものです。今ならさしずめ、然したる目的も無く海外を放浪したり、語学留学などと称してダラダラ海外で遊び暮らしたりしているような状態と同じようなものだったのでしょうが、明治・大正(昭和初期でも)では海外へ出かけられる人など限られていたので、こんな言葉が堂々と通用したのでしょう。もっとも、欧米に“追いつくこと”が全国民の願いだったような時代ですから、遊びばかりでなく“仕事・職業”に関わる見聞を広める目的で送り出された人も決して少なくなかったので“学”の重みもそれなりに有ったとも言えます。
 私は此処に、何か役割や具体的成果を課せられて来ているわけではありません。“ORの起源を学ぶ”と説明しても「いいご趣味ですね」という答えが返ってきます(外国人ですらそう言う)。つまり客観的に外から見れば、自分では今までに無く勉強していると思っているのですが、英国に“遊びに来ている”一年寄りにすぎません。<遊学>は今の自分にピッタリの言葉であると思うようになってきました。これから人前で話したり、書き物を出すようなチャンスがあったら、“英国に遊学”と自己紹介してみようかな?などと考えています。
 母方の祖父は、明治の一桁生まれで東京育ち、西銀座に今もある泰明小学校から府立一中(現日比谷高校)を経て慶応に進んでいます。家は築地の商家で、大学卒業直前に親が亡くなり、まとまったお金が遺産として配分されました。長男ではない彼は、それを元手に卒業を待たずアメリカに渡ったのです。もともと新しモノ好きの性格だったようで、慶応時代は野球部に所属し、その時チームのメンバー全員で撮った写真が我が家に残っています。明治の半ば、まだ維新の余波の残る時代、文明開化の日はやっと東の空に昇り始めた時期です。大学をなげうってアメリカ行きを決断させたものは何だったのか?
 母は彼の長子、結婚が遅かった彼は40を前にして初めて子供を持ちました。大層彼女を可愛がり、すっかり自分好みのモガ(モダン・ガール;これも死語ですね)に仕立ててしまいました。認知症になっても、祖父に連れられて行ったレストランや銀ブラの楽しさだけは忘れず、同じ話をいつもしていたものです。母にとって、理想の男性は祖父だったと思います。その思いを彼女は確り私に刷り込んでいったのです。
 私は母にとって長子、祖父にとっては初孫です。彼に可愛がられた記憶が、微かに残っています。母親の影響は絶大です。やがて、私も祖父を理想の男性像と思い始めていました。
彼がアメリカから帰国し、結婚するまでの経緯は、私には断片的にしか分かっていません。日露戦争に中尉として従軍していること、(多分アメリカ暮らしの経験を生かして)貿易商社に勤務していたこと、この時代に結婚したこと、やがて独立して自分の会社を持ったことなどです。
 長じて、祖父のアメリカ行きとそこでの生活を無性に知りたくなりました。母に、何故出かけたのか?何処に行ったのか?何をしていたのか?を何度も問い質しましたが、家庭人としての祖父については嫌と言うほど語る彼女も、彼のアメリカ生活については全く知らず、「遊んでたんじゃないの?」しか返ってきません。
 19世紀末・20歳前半の<遊学>、21世紀初め・70歳代目前の<遊学>、まるで次元は違いますが、此処に居て、祖父の知られざる過去に近づいているような気分がしています。間もなく当地で、3世紀に跨る二人の<遊学>を繋いでくれた母の3回目の命日を迎えます。

2)英国の英語、そして日本人の英語力 「イギリス英語分かりますか?僕はぜんぜんダメでした」アメリカ留学で博士号を取得した学会の先輩Uさんからのメールです。クウィーンズ・イングリッシュが独特(これが正規なわけですが)のイントネーションをもつことは気がついていました。いつかは英国に行く。そんな思いは随分前からあったので、会社で準備してくれる英会話教室で、個人レッスンが可能な時にはいつも“英国人”を頼むようにしてきました(実は、必ずしも希望通りいかず、カナダ人やオーストラリア人になることも多々ありましたが)。その努力(?)の甲斐も無く率直に言って日常会話に苦労しています。
 40の手習いで始めた英会話能力は決して高くなく、“英国以前の問題”がはるかに大きいこともありますが、ときどき“全く分からない”状態にすらなります。こういう状態になる相手のしゃべり方は、よく例に出る、クックニー(ロンドン下町訛り;典型的なのがAを“アイ”と喋ります。マイフェアーレディーで、下町育ちのイライザをレディに仕立てるために、喋り方のレッスンがあります。「The rain in Spain mainly rain in a plain」を何度も繰り返し“a”の発音を直していくところは、ミュージカルの主題歌の一つになっていますね)ではありません。ここではそれは無いような気がします。フランス語の発音とやや近い、鼻音を使うしゃべり方(これがクウィーンズ・イングリッシュの最大の特徴ではないかと思っているのですが)で分からないと言う訳でもありません。分からないのは、アクセントの強弱(特に強)が極端で、しゃべりの流れが断続的に聞こえるような時です。特に女性に多いような気がします。Mauriceとの会話は、いままで他の外国で経験してきた程度の分からなさです。不動産屋の担当者や、ジェフとの会話も特別不自由を感じず何とかやってきました。BBCを観ていている時も大体アメリカ程度の理解ですからこれもそんなに変わりません。ダイアナ妃10回忌でヘンリー王子がスピーチをしましたが、理解し易い英語でした。
 この妙に強弱が極端で、細切れにしたような話し方は何処から来るのかわかりませんが、結構多くの人が喋っているように感じます。電話でこれだと全くお手上げです。
 分からないといえば、我が家のTVにはBBC Walesが入ります。これはウェールズ語で放映されています。全く!100%分かりません。以前出かけたエジンバラで、バスの後部に座っていた若者たちが話していた言葉も全く分かりませんでした。多分スコットランド語でしょう。ランカスターからスコットランドは間近です。西海岸ですからウェールズとも繋がっています。何か関係があるんでしょうか?
 英国の英語は階級によって違うという話もあります。どうもあのやや鼻にかかる発音は本来上流階級の喋る言葉だったようです(サャッチャー女史は商家の出身、話し方を上流階級風に見事に変えたといわれています)。では、ぶつ切りで躓いたような喋り方はどんな階級の言葉なんでしょうか?羊や牛を追い回しているとあんな喋り方になるのかな?などとも思ったりします。

 日本の国際化(他国との関わりの深まり)が語られる時、いつでも“英会話力”が話題になります。ここではあまり国と国のレベルや企業のビジネス関連ではなく、個人レベルに近いところで外国語問題を考えてみたいと思います。
 「ピストルを頭に突きつけられて覚える外国語」と言う表現が、ヨーロッパにあります。「おまえはドイツ人なのか?(ドイツ語)」「???」バーン!これで終わりです。生き残るためには先ず問いに答えられなければなりません。戦乱の絶えなかったヨーロッパでは始終国境も変わります。難民も発生します。生き残るための必要条件は他国語を話せることでした。
 この国に来てインド系の人が多いことは想像以上です。私の隣家もそうです。小学校低学年の男の子が一人、家族の会話は英語です。BBCのキャスターやTVの対談者にも沢山インド系の人が出てきます。大英帝国の支配した時代、そして今でもましな生活をしようと思えば、英語修得が不可欠なのでしょう。
 初の海外出張は1970年6月エクソンのエンジニアリングセンターでした。出張の話が突然出て、出発まで2週間でした。それまで英会話をきちんと学んだことはありません。ニュージャージーのセンターで、打ち合わせが始まりました。会議を主宰していたエンジニアが、途中で「他の外国語を話せるか?」と聞いてきました。「ドイツ語は?フランス語は?」 あまりに酷い英会話能力の欠如に、助け舟を出したつもりだったのです。彼の名前は、アラ・バーザミアン。典型的なアルメニア人のファミリーネームです(ミコヤン、クリコリアン、コーチャン、ハチャトリアンなど、アン、ヤン、チャンなどが末尾につきます)。アルメニア民族の悲劇は今に続いています。トルコのEU加盟問題を巡り、フランスが100年以上前の虐殺問題を蒸し返したのはつい最近です。ペルシャ、トルコそしてロシアに痛めつけられてきた民族です。私と同年代の彼がどのような経緯でアメリカまでたどり着いたかは知りません。数カ国語を操れる背景には、壮絶な民族の歴史があるのです。
 1988年オリンピック直前、初めて韓国を訪れました。韓国最大の石油会社、油公(ユゴン、現SKコーポレーション、現在蔚山石油・石油化学コンプレックスはエクソンのバトンルージュ製油所と一、二を競う規模に達している)の仕事を受注したため、ソウルの本社と蔚山コンプレックスを訪問したのです。
 本社で情報システム担当のA理事(取締役)と何度か打ち合わせ・会議を持ちました。彼はソウル大学工学部応用化学科出身の秀才です。年齢は2,3歳私より下、日本統治、朝鮮戦争、辛い時代を生きてきた人です。二人の会話は英語です。はるかに彼のほうが達者です。彼の部屋で二人だけで話している時、英語の話題になりまし「韓国の人は英語が上手いですね!TVも英語のチャネルがあるし(駐韓米軍向け)、日本は英語に関してとてもかないません」と私が言うと、「MDN(私)さん、私が大学受験のときに使った参考書は日本のものでした。大学でも、英語が主流でしたが、日本語の文献や専門書を使ったものです。韓国語の教科書などほとんどありませんでした」「自国語で高度な教育を受けられる国をうらやましいと思ったものです」「日本人は、英語は不得意かもしれません。しかし、我われが外国語を勉強していた時間、貴方たちは専門分野の勉強を自国語で進めていたのです。我われの遥か先を行っているのはそのお陰ではありませんか?」と。外国語に関する見方を一新された瞬間です。
 幸い日本人は、これらの例ほど民族として外国語ニーズに追い詰められたことはありません。歴史的に観て、日本を際立たせる特徴があります。“難民体験”の少なさ(他民族・国家から見れば“無し”に等しいでしょう)です。アメリカは難民が作り上げた国です。ロシア革命では大量の難民が世界に散っていきました。英国も例外ではありません。ピューリタンは新大陸に逃れていきました。アイルランドの飢饉は本土への大量流民を生じさせています。また、大英帝国の最盛期、ヴィクトリア時代の国内経済二重構造(貧富の差)は凄まじいもので、苦しさを逃れるためアメリカや植民地世界に向けて、着の身着のままで脱出しています。中国のチャイナタウンが世界各地にあるのも、難民の行き着き先です。そしてユダヤ人、ロマ(ジプシー)。近いところでは、ベトナム、旧ユーゴスラビアも難民発生源です。植民地を拡大した英仏両国には、そこから大量の移民(実態は難民)が流れ込んできています。両国ともその扱いに苦慮しています。既にフランスは移民・就労の条件に自国語修得を義務付けています。英国も同様の処置をとることが進められており、BBCでもこれがしばしば取り上げられています。
 教養として外国語を学んできた日本人が、生き残るために必死で外国語を覚えた人達に遅れをとるのは歴史の必然とも言えます。そんな状態に追い込まれなかったことを、僥倖と思うべきかもしれません。
 問題はこれからの世界です。世界経済における日本の大きさ(輸出入)、証券市場における外国人持ち株比率の増加、製造業における現地生産拡大など考えると、従来の“英語は英語屋さんに任せておけ”では済まない環境がいたるところに出現しています。ビジネスの世界だけでなく、国際政治や国際金融も同様です(高度に機密性を求められる国際金融サミットでは、通訳の同席を許さないセッションがある。ここでわが国担当大臣が日銀総裁を通訳代わりにしたというような話を聞いたことがある)。次元の違う“生き残り”のための外国語(英語)ニーズが身近に、確実に迫ってきています。頭に突きつけられたピストルが発射されない英会話力をどう修得していくか?分からないクウィーンズ・イングリッシュに悩みながら考え続けた5ヶ月です。

3)古典的学習法-万年筆を使う-(ランカスターから、退職慰労会兼英国行き壮行会を開いていただいた横河電機有志各位へ、感謝を込めて)
 年度末も押し迫った3月末のある宵、三鷹の飲み屋で横河電機有志による退職慰労・渡英壮行会をしていただきました。システムプラザが東燃から横河に株式譲渡される際、その最高責任者だったUさん、和歌山工場時代からの仕事仲間、Tさん始め多彩で多数の方に参加していただきました。その時、退職記念としていただいたのが、これからお話しする万年筆です。
 会の発起人の一人で仕事仲間のKさんから「今度の会で退職記念品を贈りたいと思うんですが、何が良いか考えておいてください。出来ればあちらで使える物がいいですね」と嬉しいお話をいただきました。小型電気炊飯器、ディジタルカメラ、携帯用GPSなどいろいろ考えましたが、“長く愛着を持って使う”と言う点で、いまひとつピッタリきません。勉強に行くのだから、文房具で何か適当な物は無いだろうか?ふと思いついたのが万年筆です。
 PCの普及ですっかり書くことをしなくなりました。書く機会があっても、ボ-ルペンかシャープペンシルで間にあいます。しかし、万年筆には骨董的な、言わばクラシックカーのような風格があります。最後に所有した万年筆は60年代後半に、個人海外旅行の魁をした友人に頼んで買ってきてもらったペリカンです。香港で購入したこのペリカンは、果たして本物だったのかどうか?手に馴染まず何処かへ消えてしました。欧米はサイン社会です。万年筆でレポートを書くようなことは無いだろうが、クレジットカードのレシートにサインする時、やおら万年筆を取り出して漢字の名前を書いたら、チョッと話が弾むかもしれない。こんな動機から記念品としてお願いすることになりました。これを告げた時のKさんの顔に一瞬“エッ(今どき)?”と言うような表情が浮かびましたが、快くうけていただきました。
 会も宴たけなわ、記念品贈呈になりました。 Kさんから手渡されたのは、金色のパーカーでした。「これで小切手に沢山サインをしてください」「パーカーを選んだのは、英国製だからです」
 出発前に皮製ケースを買い求め、そこにこの万年筆を中心にし、左右にダイセルさんからいただいた名前入りのセルロイド製のボールペン(黒芯)と大昔シリコンバレーのHP訪問時にいただいた金色のクロスのボールペン(赤芯)を収めて、この地にやってきました。
 最初に泊まったマンチェスターのホテル、レンタカーの事前支払い、ランカスターへ来てからの二つのホテル、いずれもカードの支払いはピンナンバー(暗証番号)入力方式でサインのチャンスがありません。最大の山場は、フラットの契約です。信用問題でややごたついたこともあり、不動産屋で6ヶ月前払いと言う条件を飲み、「それじゃトラベラーチェックで2000ポンド(約50万円)、後はクレジットカードでどうかな?」さすがに交渉相手が目を剥きました。「結構です」、「お宅の取引銀行が近くにあるなら、一緒に行ってチェックにサインしてその場で払い込もう」、「願っても無いことです(Good idea!)」連れだって銀行に行きました。窓口で彼が事情を話すと、銀行員がサッとボールペンを差し出し「これでサインしてください」咄嗟のことで出番を失いました。
 Mauriceとの出会いで沢山の文献コピーが手渡されました。これは貰っていいものです。書き込みや、下線を引くのも自由です。やがて、参考書を貸してくれるようになりました。興味深い情報に満ち溢れています。出来ればコピーを撮りたいところです。正式な身分が無い私には、学校のコピー機が使えません。量が少なければMauriceに頼むことも可能かもしれません。しかし、半端な量ではありません。甘えるわけにはいきません。読むのがほとんど自宅と言うのも何かと不便です。結局解決策はノートをとるほかありません。
 古典的学習がこうして始まりました。読んでは書き、書いては読み、コメントを書き加える。英語の筆記をこんなにやったのはいつが最後だったろうか?果たしてあっただろうか?それにしても、万年筆というのは何と滑らかに字を書ける道具なんだろう!筆記体で文章を書写し続ける楽しさが、孤独な夜を忘れさせてくれます。英語の習い初め、中学生のときあんなに辛かった英語の書き取りが嘘のようです。書くという行為が極めて奥の深い学習法であることを、この年になって初めて気がつきました。単語のスペリングは無論、一語一語書くのではなく、ある長さのセンテンスを覚えこと、冠詞、単数・複数、前置詞、完了形の使い方などの文法、文章の構成、読むだけの勉強では何気なくやり過ごしてきたことが、確りチェック出来るのです。
書き綴った量は、5本入りカートリッジ4箱、既に5箱目に移っています。パーカーを選んでいただいたのは、当に先見の明です。街で一番の文房具屋にあるカートリッジはパーカーだけです。お陰で心置きなく書き捲くれます。唯一の心配は、“こんなに使い込むと芯が傷んでしまうのではないか?”と言うことです。しかし、いまのところ、“名刀”の切れ味は些かも鈍っていません。
 一区切りついた時、やや右に傾いて、下部を罫線にそろえてつながる自分の筆跡を見ていて、“親父が生きていたらなんて言うだろうな?”とあの辛かった中学生時代を思い出しました。
 私が中学生になったのは昭和26年(1951年)、まだ戦争の爪跡がいたるところに残る時代です。発足後間もない新制の中学は自前の校舎が無く、それまで小学校の一部を利用していましたが、我われの年度から、戦災で焼け落ち使用出来なかった別の小学校を一部復旧し独立しました。不足していたのは校舎などのハードウェアばかりでなく、新規に出来た中学(旧制中学は高校になった)のため、教育カリキュラム・教材などのソフトウェアも未整備でした。中でも最大の問題は教員です。小学校は養成機関として古くから師範学校がありました。高校(旧制中学)は高等師範や一般大学の教職課程を終えた有資格者の先生が来ていました。しかし、新制中学は“新制”ゆえに正規の教員養成機関が無く“取り敢えず食べるために”ここへ流れ込んでくるような人もいる混乱状態でした。特に酷かったのが英語教育で、つい数年前まで“敵性言語”として高等教育機関でさえ教えていなかったので、全くの人材不足です。私が入学した中学では、しばらく英語の授業は無く、やがて体操の先生が応急で教え始めるような状態でした。今では信じられないでしょうが、各学校の英語教育のレベルが違い過ぎるため、我われの高校入試時、東京都の公立高校入試共通試験;アチ-ブメントテストに“英語は無かった”のです。
 父は東京外語(仏語)の出身です。当時進駐軍(26年から駐留軍)の基地不動産管理を行う業務を、調達庁と言う役所(現防衛施設庁)で担当していました。英語を、生きるために必要とする現場の近くにいたわけです。英語の必要性の高まり、英語教育の惨状、自分の専門、「よーし、ここはわしが面倒をみてやらねば」の思いで始まったのが私の“英語事始”です。
父の考えは、他の教科は小学校の延長、まずまずの成績をおさめてきたから自分でやらせておいて良いだろう。しかし、英語は中学から始まる。それは将来にわたりきわめて重要な教科だ。初めが肝心!こんなところだったでしょう。書き取りをよくやらされました。「間違えだらけだ!」「こんな汚い書き方じゃダメだ!」時々ビンタが飛んできました。結果は、受験に無かったこともあり、全くの英語嫌い。それが未だにボディブローとして効いています。
 父は1月の寒い日、一人で逝きました。91歳でした。TVの前のコタツの上にはフランス語講座のテキスト、裏紙をメモ用紙にしたものが沢山重ねられ、そこには達筆な筆記体で単語や短い文章が書かれています。罫線も無いのに、横一直線にきれいに揃っているそれを見ていて、拙い書き取りを添削してくれた日々が蘇ってきました。あのビンタの痛さとともに。
私の書いたノートを見て、「少しましな英語を書くようになったな。まあ、万年筆が良いからな」こんな声が聞こえてきそうです。

 -横河電機の皆さん、素晴らしい贈り物を、有難うございました-

 本報をもって、17回(+号外)にわたった、「私報 滞英記(現地版)」を終わります。多くの温かい励ましに深謝いたします。

 枯れ葉散る夕暮れのランカスターより

2009年2月19日木曜日

篤きイタリア-6

7.イタリア見聞録(補足)
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 14日、今日も天気がいい。予定通り10時に黒いベンツのワゴン車が迎えに来た。横河ロシアのモスクワにあるのと同じだ。スペースがタップリで快適な車だ。市内からアウトストラーダ(高速道路)を約40分、車はローマ・フィウミチーノ空港に着いた。  英語を話せる若い運転手も最後は「アルベデルチ(さよなら)!」とイタリア語で。アリタリアの国際線チェックインカウンターの担当者は日本人。デュティーフリーのお店も英語で無論OK。お土産にミラノ産チョコレートを購入、これは大変好評だった。倒産が何度も噂されるアリタリア航空、ラウンジを利用したらトイレの便座が一箇所壊れたまま利用に供されていた。
 AZ‐784(機体B-777)は定刻の14時40分成田に向かって離陸した。「楽しい想い出を沢山ありがとう!アリベデルチ!」
 帰路のルートは往きとは違い、概ねシルクロードに沿って飛ぶ、13世紀マルコ・ポーロが4年をかけた道のりを12時間足らずで飛んだ。機内サービスは良くも悪くもイタリアン、人懐っこく親切だが、おしゃべりに夢中でサービス手順や安全チェックなどはいい加減。成田までイタリア気分を味わった。

<手作り旅行>
 今度の旅行は現地旅行社利用を除いて、全て自分で手配し行動した。このやり方はこの年の春のタイ・カンボジャ旅行からである。行動の自由度という点で、パック旅行とは比較にならぬ柔軟性がある反面、“柔軟性”がもたらす手間やリスクを自分で背負うことになる。
 また、トータルの費用で若干高めになるような気がする。これはグループ行動による一人当たり単価の低減、継続的に大規模調達が可能な大手旅行社への提供価格などの違いによるものだろう。インターネットが普及した現在、その土地に慣れていたり、言葉に不自由無い人は直に予約をすることも容易になってきており、今回のケースに比べ安く出来る可能性がある。しかし、現地旅行社から見積りを取った段階で、イタリア国鉄やホテルのホームページ(HP)にアクセスして値段をチェックしたが、見積りと大きな差は無かった。鉄道はともかく、ホテルに関してはHPでは見えない実勢価格があるようだ。後日このことを旅慣れた友人に話したところ、HPではチェックまでに留め、予約は電話で交渉するとHP提示価格より一段と安い実勢価格で利用できると聞かされた。それでも費用の面でのパック旅行との比較は、大量・継続利用との差になるので多少の割高は止むを得ないのではなかろうか?
 現地旅行社の利用に関しては、日本人特化の会社にするか現地の旅行社にするかという選択がある。今回は実質初めての欧州(英国を除く)個人旅行ということもあり、日本人特化のマックス・ハーヴェスト・インターナショナル社(MHI)を使った。この会社を知ったのはインターネット検索(始めは“イタリア旅行”)からである。いくつかの角度(会社のHP、イタリア旅行者のブログ記事など)からこの会社を調べここに決した。ここに至るまで、前出の友人Mやイタリア人の夫人を持つ以前の会社の同僚などに、今回の旅全般にわたる相談相手(企業、個人)の有無を問い合わせたが、「現地の案内・通訳のアルバイト程度なら紹介できるが…」と言うものだった。
 イタリア人の友人に頼むという案も考えなかったわけではない。しかし、地元の宿泊くらいならともかく(実際、訪伊を知らせると二人とも自宅へ泊まれ、ホテルがいいなら予約すると言ってきた)、旅行全体を丸投げするわけにはいかない。自分で計画全体の主導権を持ちつつ現地での調整役が欲しい。
 こう言う経緯で決めたMHI社だが、実は休日現地入りもあり、一度も事務の方とは直接お目にかかっていない。全てインターネット(日伊間)か携帯電話(現地)のコンタクトである。これでノートラブル。サービスには満足出来た。
 個人旅行は細々したことを自分で決めなければいけない。これが楽しみでもあり煩わしさでもある。航空券はHISのHPで予め調査し、営業所へ出向いて最終決定した。日にちとルートがぴったりのものは入手できず、一日滞在を延ばして確保した。友人を訪ねることが観光以上に重要であるこの旅では、先ず彼等の在所とスケジュールを確認し、行動計画を決めなければならない。メールで彼等と会う日を決め、次いで彼等の住所からグーグルマップとアースでそこから近い宿泊候補地を決める。その次は移動経路やおおよその出発・到着時間、列車の種類・等級・運賃をイタリア国鉄のHPなどを参考に見当をつけていく。空港とホテル間のアクセス方法、観光日時、希望観光内容、ホテルの場所・等級・種類、最寄り駅とホテルの交通手段(これもグーグルアースで見当をつける)、これらをMHI社の担当者とメールでやり取りしながら決めていく。細目が固まってくるといよいよ費用の支払いだ。支払い方法は?期日は?為替レートは?関連書類(乗車券やホテルのバウチャーなど)の受取方法は?そして最後に緊急連絡方法の確認。英語で出来ないことも無いが、やはり日本語で出来るのは有り難い。
 現地へ着いてみると、計画とは違うことが間々生じる。今回では第一回で報告した、マウロ宅訪問がその良い例だ。彼の都合が変わり、到着翌日彼の家に行き泊まるはめになった。あまりきっちり計画を作ると、こんな時対応不能になる。この時はMHI社の担当者が携帯で的確な情報を与えてくれて急場を凌ぐことが出来た。
 個人旅行で面倒なのは夕食である。昼食は観光レストランで軽くでもいいが、ディナーは一晩くらいきちんとしたものが食べたい。事前にガイドブックやインターネットでよく調査していけばある程度意に適うかも知れないが、その日の調子(体調、食欲)もあるので、“その都度コンシュルジュに相談して”と周到な準備を怠ったのが裏目に出た。ヨーロッパの個人旅行者向けホテルにはフロントはだいたい一人、結構忙しそうなのでパスしてしまい、行き当たりばったり、今ひとつこれぞと思うレストランに行き当たらなかった。その点で友人たちと一緒のディナーは地元の食堂くらいのレストランでも、それなりに楽しめた。
 今度の個人旅行で当初一番気になっていたのが、言葉の問題である。初回の報告に書いたように38年前のフランスは、観光旅行ではなかったものの、英語が通じず往生した。イタリアはどうなのか?もし英語だけである程度いける見通しが立てば、これからの欧州個人旅行の楽しみが期待できる。テストケースとしての挑戦だった。MHI社との調整でもこの点を留意して手配を頼んだ。結論から言えば、“観光に関する限り”全く問題は無かった。英語しか喋れない観光客の何と多いことか!観光が重要な産業であることEUの成立・成熟が大きく影響しているように思う。
 セキュリティも個人旅行は隙が生じやすい。親友Mの体験談(鉄道車両に乗り込む際、かなりの段差がある。スーツケースを持ち上げるのを手伝ってくれる親切な人がいた。席に着いて、首から提げた小型カバンがバンド部分を残して本体部分は鋭利な刃物で見事に切り取られ、失われていたのに始めて気がついた。グループによる犯行である)とそれへの対応策(金属製のカナビラでカバン本体をベルトに繋いでおく)などを参考に対策を講ずる(重要な書類をコピーして分散保持するなど)とともに、ガイドブックのトラブル事例紹介に何度も目を通し、頭に叩き込んだ。
 ローマの地下鉄で、乗り込んだ時つり革に摑まれなかった。テルミニ駅停車直前急なブレーキでよろけた。長髪髭もじゃの若者が腕を支えてくれた。降りるときに彼にお礼を言ったところ、怖い顔で「スリに気をつけろ!」と注意された。余ほどボンヤリした観光客に見えたに違いない。彼は善人であった。
 暑からず寒からず、天候に恵まれたこと(それ故体調も良好)もセキュリティ面で見えない効果があったように思う。紛失物は貰い物のクロスのボールペン一本である。

<乗り物あれこれ>
 旅の楽しみの一つに乗り物がある。飛行機、鉄道、自動車、船、何でも大好き。乗るも良し、見るも良しである。
 先ず飛行機。国際線の飛行機はどの航空会社も使用する機種が限られていて、あまり代わり映えがしない。違いは専らサービスと言うことになるが、これもヨーロッパ、アメリカ、日本の大手は実質大きな差は無い。空港で見かける飛行機にもハッとするようなものは無かった(ミラノ・マルペンサ空港は規模が小さく、駐機している飛行機の数が極めて少ない)。空の旅の興奮度は、ロシア国内便に使用される機種や一部の東南アジア、中東の国際線に乗ったときのサービスに敵わない。
 今回の旅で飛行機に関する話題は、アリタリア航空の倒産と空港ストである。まだ計画も具体化していなかった年初から、アリタリア航空の経営危機が伝えられ、一旦エールフランスによる救済案が固まっていた。しかし、国政選挙でベルルスコーニが勝利すると、この案を白紙に戻し、イタリア資本で再建する方向になった。その再建案ががたつき出したのは9月の半ば、アリタリアはいつ倒産してもおかしくない状態に追い込まれたのである。もうスケジュールはほぼ固まっている。運行出来なくなったらどうしよう?インターネットで情報収集をしている過程で、今度は空港を含む交通ストが10月19日頃予定されていることを知った。倒産にストが合わさったりしたら大変なことになる。HISに問い合わせると「往きは共同運行の主体がJALだから大丈夫でしょう」と言う。単独運行の帰りはどうなるんだ?!緊急連絡先はHISの横浜支店、現地の駆け込み寺は同社のローマ支店を確認して、10月4日運を天に任せて成田を飛び発った。その後この倒産騒動の話を聞かない。どうなっているのだろう?
 次は鉄道である。今回利用した鉄道は、イタリア国鉄とミラノ、ローマの地下鉄である。ミラノでは路面電車(トラム)の路線も多く、ホテルの前の通りも路面電車が走っていたが、ここで過ごす時間が短かったこともあり利用していない。チョッと残念である。
 地下鉄は便利で安く(一回券;1ユーロ)、システム(改札・プラットフォーム・乗り換え・車両の色分けなど)もほぼ日本の地下鉄と変わらず、違和感無く利用できる。チョッと戸惑うのは切符の自動販売機で、文字は当然イタリア語で表記されている。一度ローマで利用したが、前の人のやり方をよく観察して何とか購入できた。通常はキオスクで求められるのでそこを専ら利用して、ついでに路線や行き先によって異なる改札口の確認などもした。車両内部は日本の地下鉄の方が明るく、清潔で座席の造りなども上等である。
 ミラノは4路線、ローマは2路線しかないので、これも利用しやすい理由の一つかもしれない。
 国内移動は全て国鉄。利用した列車は幹線のインターシティかユーロスターなのでローカル線や近郊電車などは体験していない。インターシティ(IC)は電気機関車が客車を牽引するタイプで、二等車は中央通路の四人掛けのボックスシート、一等車は片側通路の六人掛けのコンパートメントである。二等車内部は概ねJRのボックス席と変わりない。コンパートメントは日本には無いので(一部のグリーン車や寝台車を除く)、クラシカルな雰囲気でいかにも外国旅行をしている気分になる。座席シートは布製で応接セットのソファーのようで座り心地が良く、インテリアも落ち着く。通路側がガラスなので閉塞感はないが、そこに居る乗客だけの世界になるので、組み合わせ次第で世界が変わる可能性がある。今回の体験はミラノからヴィチェンツァ間だけだったが、皆静かな人たちでイタリア人同士でも一度も会話が無かった。アジア人の我々が居たからだろうか?
 これに比べるとユーロスターは近代的・機能的ですっきりしているが、わが国新幹線同様味気ない。二等車はIC同様両側4人掛けボックスシート、一等車は通路を挟んで片側は4人掛けのボックス、もう一方は向かい合わせの二人掛けである。座席は固定で進行方向に向くようにはなっていない。内装は一等も二等もプラスティックが多用されており安っぽい感じがする。一等に関する限り、はるかに新幹線の方が重厚である。
 ユーロスターには車両の一端に荷物スペースがあるが、団体客が乗るととても収容しきれない。ヴェネツィア~フィレンツェ間では座席上の網棚を利用せざるを得なかった。
 運行の定時性には若干問題があった。ミラノからヴィチェンツァへのICは出発が大幅に遅れたし、いずれの始発駅でも数分は遅れていた。これは日本では考えられないことだが、他の国では当たり前と思うべきなのかもしれない。ドイツは日本同様正確だという人もいるが、ドイツ鉄道旅行記など読むとローカル列車は結構問題があるように書いているものもある。
 今回乗車時間の関係で食堂車を利用しなかったが、メニューを持ったサービス員が予約の注文を取って時間が来るとお客は食堂車へ出かける。古き良きヨーロッパの伝統が残っている。こう言うサービスは新幹線には無い。逆にワゴン車での車内販売は来なかった。
 車掌、食堂車サービス員は無論英語OK。車内アナウンスも英語がある。国をまたがって運行される列車のサービスはこうなくてはならない。38年前のフランスはどう変わっているのだろうか?
 最も身近な乗り物は自動車である。私の趣味はドライブ。今度の旅の目的の一つは、マウロのフェラーリを見ること、そしてそれらに乗せてもらうこと。名車揃いのイタリアの自動車史も興味深い。垣間見た現代イタリア自動車事情を紹介する。
 アウトストラーダ(高速道路)を走ったのはミラノ空港から市内のホテルまでとローマのホテルから空港まで二回しかない。プレーシア、マネルビオ近郊をマウロの車で、ヴェチェンツァとサンドリーゴ近郊をシルバーノの車でドライブ。ミラノとローマで半日観光バスに乗ったのと、フィレンツェでは駅とホテルの往復、ローマでは駅からホテルまで片道タクシーに乗っている。いずれも走ったのは一般道。これが今回の自動車利用の全てだ。あとはヴェネツィアを除く街中での観察である。
 1970年代のスーパーカー・ブーム。近所のスーパーで客寄せの催し物に展示されていたのは、赤いフェラーリ、白のランボルギーニ・カウンタック、レース仕様のポルシェ。幼い息子共々興奮状態だった。ポルシェはともかくあとは今もイタリアを代表する名車である。戦後のF-1はホンダを含む幾多のメーカーがマニュファクチャラーズ・チャンピョンシップを手にしているが、圧倒的に多いのはフェラーリだ。
 先に紹介したミッレミリア(1000マイル)レースやタルガ・フローリオ(シシリー島を舞台にしたスポーツカーレース)など歴史に残るレースの数々と名車達、フェラーリ以外にもアルファロメオ、ランチァ、マセラッティそしてフィアットがこれらのレースで活躍してきた。自動車レースに熱い血を滾らせるイタリア人の自動車生活は如何に?
 実は、上記の自動車メーカーはランボルギーニを除けば(ランボルギーニはドイツのアウディが握る)、今は全てフィアットの傘下にある(アルファロメオは一時GMが大株主となるが、現在はフィアットがそれを引き取っている)。つまりイタリアの自動車会社は実質フィアット社一社といって良い。最近のフィアットは、スーパーカーから大衆車まで、生産や技術面では合理化を図りつつ各社の個性を生かして、異なる客層のニーズに上手く応えているように見える。ただヨーロッパの大衆車(小型車)市場は競争が厳しく、新型のフィアット500(チンクエチェント;先代は500ccだったが今のものは1200cc)が好評な割には収益面で必ずしも磐石ではないようだ。
 これは街で見かける車の生産国や車種から窺がうことが出来る。この分野のフィアット車は500の他に、パンダ、プントなどがあり、無論数から言えばマジョリティである。しかし、ここにはフォルクスワーゲンのゴルフ、ポロやフランスのプジョー200系(206、207、208)や300系、それにトヨタのヴィッツ(欧州名ヤリス)、ホンダのフィット(同ジャズ)などシェアー10%に達する日本車、などの外国車の存在が目立つ。少し上のクラスになるとアルファが頑張っているが、ドイツのアウディ、BMWがそれを上回り、フランスのシトローエンを合わせた外国車のほうが多くなる。ただこのクラスは絶対数が少ない。
 高級車のフェラーリ、マセラッティ、ランチァ(小型車のイプシロンは除く)は一度も一般道や街中では見かけなかったし、時たま見るのはベンツのセダンくらいであった。そのベンツの大型車(E、Sクラス)もわが国ほど多くは無い。
 車種はハッチバックの小型車が主流なのは英国と変わらない。次いで比較的多いと感じたのはいわゆるステーションワゴン。いずれも生活との密着感が強い。日本で主流のミニバンは営業用を除けばほとんど見かけなし、四駆のSUVも多くない。ミニバンは日本独特の、SUVは日米に特化したマーケットなのだろう。
 日本で見かけるイタリア車は赤が圧倒的に多い。F1が広告だらけでなかった時代にはその国を表すナショナルカラーがあった。イタリアは赤である。太陽の光が燦燦と注ぐ国に相応しい。しかし、現実にはそれほどこの国が赤の車で埋め尽くされているわけではない。クリーム・黄色、シルバー、ベージュなどわりと地味な色が多い。意外であった。
 あの“ローマの休日”の主役、スクーターはさすがに多い(特にローマ)。一昨年滞在した英国では、ツーリングのバイクは多かったものの、スクーターはほとんど見かけなかったのに、ここイタリアではそれが逆転している。通勤時間帯は特に多く、女性の乗り手も結構いる。
 イタリアのドライバーは飛ばすので危険というような話を聞いたことがあるが、特にそれを感じなかった。確かに、短い距離だがアウトストラーダを空港送迎の車で走った時、皆飛ばしてはいたが、日本に比べトラックが我がもの顔という状況ではないので快適な走りだった。一般道ではラウンドアバウト(ロータリー)が多いが、ここでもマナーは格別問題無く、無論交通事故を目撃することも無かった。イタリア人に対する先入観(おっちょこちょい)がそんな風評を呼んでいるのだろう。
 というような訳で、意外とイタリア人の自動車生活は、英国同様質実な感じを持った。高速道路や国境を越えるグランドツーリングでは別の情景にめぐり合えるかも知れないが、これが旧い町の石畳を生活の場とする、ヨーロッパ共通の自動車文化なのだ。
 ヴェネツィアは水の都。ここでは無しの生活は考えられない。水上バスのヴァポレット、トラック代わりの運搬船、モーターボートのタクシーそしてゴンドラ。我々の乗ったゴンドラは専ら観光用だが、生活のための渡し舟、トラゲットと言うのがある。利用する機会は無かったが、運河を跨る橋に限りがあるので居住者には欠かせぬ交通手段になっている。
 住民にとって、最も身近な交通機関は路線バスに違いない。これを使いこなせれば行動範囲は倍増し、疲れは半減する。しかし、現地語を理解出来ない、短期滞在の旅行者には難物である。これはイタリアに限ったことではないが。

<観光立国>
 観光立国といえば先ずスイスが浮かぶ。統計に依れば最も海外からの観光客の多いのはフランスである。しかしこれらの国と国境を接するイタリアも負けてはいない。兎に角驚くほどの数の観光客である。特定の観光名所に大勢の観光客が集まるのは、北京郊外の万里の長城からスペースシャトル打ち上げのケープ・カナベラルまで諸所体験しているが、どの街にも外国人 観光客が溢れている所は、ここイタリアが初めてである。
 普通の観光客(冒険や特異な異文化体験を求めるものではない)が集まってくる必要条件;安全(スリ・かっぱらいはいるが)・清潔(ナポリのゴミは酷いというが)・利便さ(交通機関はややルーズなところもあるが)・民度の高さ(南北格差はあるが)・取引の公正さ(“ヴェニスの商人”はイタリア人も揶揄するが)・過ごしやすい気候(南部の夏は厳しいようだが)、が備わっている。それに加えて、ローマ帝国の遺跡、ルネサンス美術そしてカソリックの総本山ヴァチカン、世界から人を惹きつける材料に事欠かない。しかしこれら歴史を残す“点”以外に“現代のイタリア”がこれらと相俟ってその魅力を増しているのではなかろうか?女性にとってのファッション、自動車に代表される工業デザイン、美味しい食べ物、オペラを始めとする音楽、ファンを熱狂させるサッカーなどが“イタリアへ行こう!”とそれぞれの観光客の背中を押したに違いない。
 もう一つ、これは私の偏見かもしれないが、この国は中世(東ローマ帝国)まで続いた世界帝国であるとともにルネサンスは西洋文明の起源であるのに、何故かそれを外に向かって声高に主張し、過去の栄光を現代イタリアに引き戻すような言動をしないところに、気安さを感じさせるような気がする。嫌味の無い国、これはフランスや中国とはまるで違う気風ではなかろうか?ハッタリの無い、気遣いしなくて済む適度なホスピタリティがこの国の観光立国を支えているといえる。

<文化財と戦争>
 この国を旅していて不意に第二次世界大戦の世界に引き込まれた。
 最初は、ミラノ観光でダヴィンチの「最後の晩餐」で有名な、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を訪れた時見た、第二次世界大戦における米軍によるミラノ爆撃である。「最後の晩餐」そのものは教会の本体ではなく、嘗て修道院の食堂であったところに描かれている。ナポレオンの時代には厩として使われ絵もかなり傷んだようだ。しかし、1943年の爆撃で教会本体は瓦礫の山、痛みはしたものの、絵の在る所は直撃を免れた。別の展示室にその時の写真が展示されており、危機一髪であったことがわかる。
 これで済まなかったのはパッラーディオ設計のバッサーノ・デル・グラッパのヴェッキオ橋(屋根付の橋;ポンテ・コペルト)である。これも米軍の爆撃で破壊され現存するものは、1948年に掛け直されたものである。
 橋の被害はこれに留まらない。フィレンツェでは最古の橋、ヴェッキオ橋(現存のものは1345年建造)は何とか残ったものの、アルノ川にかかる他の橋は退却するドイツ軍に皆爆破されている。
 これ以外にもローマ守備のためその南方に引かれた独軍の防衛ライン、グスタフ・ライン上にある、モンテ・カッシーノの山頂にあった旧い修道院が、ここにドイツ軍は立て籠もっていなかったのだが、米軍の激しい爆撃で破壊されている。
 三国同盟の一カ国、ファッシズム誕生の国ではあるが、イタリア自身はほとんど国内で連合軍と戦っていない。この国での本格戦闘は独・米英戦と言っていい。とんだとばっちりである。地上戦闘の激しい所では双方とも文化財を保護する配慮などしていられなかたのであろう。京都が戦災を受けなかったことを奇貨としたい。

<不法移民> 訪れたどこの町も外国人観光客で溢れかえっていた。しかし、観光客と思えない外国人も目についた。マネルビオのような長閑な田舎町にもモスレムがジワーッと浸透しているらしい。グラッパやスキオのような北イタリアの静かな町に肌の浅黒い人たちを至る所で見かけた。アフリカ系と見られる黒人は大きな都市で行商やレストランのボーイなどをしている。中国人も多いようだ(ヴェネツィアに近いパドヴァと言う町が流入拠点と後で知った)。東欧がEUに入ったことで、そこからの流民も増えているらしい。
 一昨年英国に滞在した時も、移民問題は大きなニュースにしばしばなっていた。英国の場合は、インド系、西インド諸島などの旧植民地とEUに加盟した東欧からの移民が多いようだ。フランスは北アフリカ、ドイツはトルコや旧ユーゴスラビア、オランダはインドネシア、と西欧の豊かな国はいずこも移民問題に悩んでいる。
 それぞれの国のネイティヴ(白人でキリスト教徒)の人たちと話すと「外国人が来ること自体はOKだが、その国の文化を受容せず、独自の社会を作ることは断固反対!」と言うのが大勢である。イスラムが嫌悪され、日本人が比較的抵抗無く受け入れられるのは、この原則に従っているからといえる。
 イタリアには他国からの移民問題に加えて、国内の南北問題がある。ローマを含む南部は、北アフリカやバルカンと共通する気候風土や文化が根強いのに対し、北部は緑と水が豊かでローマ帝国崩壊後はハプスブルグ家の影響下に長く在った。近世以降は工業が豊かさと同意義を持ち、南の遅れは甚だしい。それにイタリアには小国分立の長い歴史があり、地方毎の独自性をいまだに残している。北の富が南に吸い取られ、妙な使われ方(南部地方政治におけるマフィアの暗躍)をしていることに北の人々は不満を募らせる。「南なんかイタリアじゃない!」と。
 外国からの観光客で溢れかえる町々に、こんな悩み・混乱が内在しているのである。

<後日談>
 この報告は友人・知人方々の他に今回の旅でお世話になったMHI社の担当者の方(女性)にもブログアップをお知らせしている。それも含めて、今まで書いてきたことに関するコメントの一部をご紹介して、この旅行記を終えたい。
1)ヴェネツィアの目刺し ヴェネツィアで、ツアーに組み込まれていたディナーで魚料理を賞味したが、その貧相なことを縷々書き連ねたことに対して以下のようなコメントをいただいた。
・イタリアの魚料理はフランス料理とは異なりソースの類は使わず、素で焼いたものに、オリーブオイル、塩・胡椒、レモンで味付け(自分で)するだけ。従って供ぜられた魚の塩焼き料理は典型的なイタリア料理であって、日本人スペッシャルではない。
・私たちでもVENEZIAでは、知らないレストランに行くと魚の貧弱さにはがっかりします。両親が来たときも、いつものレストランに行こうとしたんですが、疲れて歩けないとのことで、適当なところに入りましたが、やはりこーんな薄い魚を見たのは初めて、という代物でした。ですが、相手はヴェニスの商人ですから、相手にしても無駄です・・・実は魚は、ミラノが一番新鮮なんですよ。魚市場がありますので・・・料金もVENEZIAよりやや安く、失敗なく召し上がれます。
2)食べ損ねたフィレンツェのTボーンステーキ
・フィレンツェのステーキにしても、ピッツァなどがあるレストランでは後回しにされ
てしまいますね。専門店にいらっしゃるべきでした・・・
 結局、ビステッカ・フィオレンティーノは、お召し上がりになれなかったのですね。
残念です・・・
 私は、あれが食べたくてフィレンツェに帰るようなものですから・・・(友達が住ん
でいますので行きやすい)
3)食は南にあり・北イタリアは歴史的にオーストリア、ドイツの影響が強い。従ってあまり料理も美味しいものではない!パスタ一つとっても、断然南ですよ!
4)素晴らしきイタリア
・イタリアは、まだ日本に紹介されていない美しい自然の宝庫が各地にございます。北は、チロル地方の山々、南はナポリ、イスキア島(温泉)、シチリア島など。ぜひ、またいらしてくださいね。

 と言うようなわけで、二人のイタリア人の友に大歓迎されたこともあり、すっかりイタリアの虜になってしまいました。これほど楽しい旅を他の国で味わうことは期待出来ないのではないかと、これからの海外旅行を按ずる今日この頃です。

 長いこと、冗長な旅行記をご愛読いただいたことに深く感謝いたします。

2009年2月4日水曜日

今月の本棚-1月

On my book shelf-6

<今月読んだ本>
1)見抜く力(平井伯昌);幻冬舎
2)知られざるインテリジェンスの世界(吉田一彦):PHP研究所
3)ランド-世界を支配した研究所-(アレックス・アベラ);文藝春秋社
4)不幸を選択したアメリカ(日高義樹);PHP研究所


<愚評昧説>
1)見抜く力 スポーツものの書籍を読むことほとんど無い。この本もたまたま昼食時のワイドショーで紹介されなかったら、買うことも無かったろう。筆者はあの北島に連続金メダルを取らせたコーチである。北島とは彼が中学生の時から指導に当っているし、連続銅メダルの中村礼子も指導してきた。その指導内容を静かに、分かりやすく体系的に語るところが好ましい。
 日本のスポーツ指導者は、概ね自らが一流選手だったか、闘将もどきで“根性”を鍛えるタイプが持て囃される。古くは女子バレーの大松監督、近くは(大嫌いな)星野がそのいい例である。スポーツ科学や心理学などを確り学び、それを自分のものとして咀嚼し、個々の選手の特性を踏まえて指導するような専門家が少ない。この平井コーチはその稀有のタイプの指導者である。
 自身の水泳選手歴は、スウィミング・スクールに属し中高一貫の進学校では飛びぬけた力があったものの、強豪選手ひしめく大学では主力選手になれず、先輩に資質を見込まれマネージャーに転じている。
 大学運動部のマネージャー役というのは、金勘定とスケジュール調整役くらいにしか考えていなかったが、一番重要な仕事は、個々の有力選手(上級生を含む)の練習メニュー(長期・短期)を作り、それを実行させることにあることを本書から学んだ。一人ひとりの身体特性と人間性を冷徹に分析し、それに合ったアドバイスをすることがカギになる。ヒエラルキーの厳しい運動部で上級生を“根性”で従わせることなど不可能である。20歳前後の青年にとってこれがどれだけ大変なことであろうか。ここで体得したコーチング技術と水泳に対する情熱が、就職に際して保険会社の内定を辞退させ、スウィミング・スクール指導者への道を選ばせる。
 北島の、そして中村の性格はどうなのか?泳ぎに対する身体の特質は?ライバルたちの泳ぎ方は?中学生の時とアテネでメダルを取った後とは当然違う。これらを全て掌握・分析して日常の指導に当たり、本番レースの細かい戦術を与える。“頑張れ”と言う一言を言うか言わないかにまで気配りする。
 この手のサクセス・ストーリーは、しばしば管理や経営の参考にすべく編集し、売れ行きを伸ばそうとする下心が見え見えというものが多い。筆者まですっかりその気になって書く下司なものが嫌と言うほど出版されてきた。しかし、本書にはそのような嫌味がまるでない。それは筆者が、信念があり意志も強いが謙虚に学ぶ姿勢を、どんな局面でも堅持していることによるものだろう。これこそどんな世界でもリーダが具備しなければならない資質である。
 経営への言及を批判しながら、矛盾するような話だが、入社4年目地方の工場で大規模なプロジェクトが終わり、メンバーの大部分が本社や他工場へ去って行った。工場に残される不満を、本人も栄転する課長にぶつけた。その時の一言「エンジニアには考えるエンジニアと作るエンジニアがあるんだ。君は作るエンジニアに適している。出来たばかりのプラントはまだまだ問題山積みだ。残って完全なものに仕上げてくれ!」 聞き方によっては「頭の悪いやつは汗をかけ」ともなるが、私の資質を“見抜いた”殺し文句であった。この一言がその後入社来20年にわたる工場勤務を支える原動力となった。
 未熟な若き日を久々に思い起させてくれた、爽やかな読後感を有難う!

2)知られざるインテリジェンスの世界  情報というと、①IT絡み、②政治・経済それに③外交・軍事・治安の三分野が主題となる。この本はその最後の分野、外交・軍事・治安に関するものである。この分野はわが国では、旧陸海軍人(もうほとんど生存していない)、自衛隊関係者、警察OB、元外交官などに限られる。大学人が書いていても大体がその筋のOBである。そんな中で生粋の大学人(神戸大学名誉教授)が学問として、興味深い事例を引用しながら“情報学”をまとめるがごとく書いたのが本書である。
 評者の仕事歴は広義の情報システム(計測・制御・IT)であるが、意思決定に関わる情報・データは圧倒的に“技術(テクノロジー)”の外に存在することを知らされてきた。“発展するITと外なる決定情報を融合するシステムは出来るか?如何に作り上げるか?“が未完のライフワークと言っていい。この観点から“情報”と名のつく本は随分読んできたが、90年代後期この人が書いた「情報で世界を操った男」(CIAの前身、OSSを作ったドノバン)を読んで、そのクール(この種の本はどうしても扇情的なトーンになり勝ち)な書きっぷりに惹かれファンになった。爾来「暗号戦争」「騙し合いの戦争史」などを読んだが、この「知られざるインテリジェンスの世界」はそれらを基にした情報学の集大成とも言える。
 先ず体系的な構成で、情報の定義やその信憑性検証、情報活動の基本、各種の情報収集法、その分析、分析結果からの予兆読み取り、最後にこれに基づく判断、を説明していく。材料は第二次世界大戦が多いものの、冷戦下の英国スパイ(007も出てくる)や中東戦争、江戸幕府の長崎(オランダ)経由欧州情報、更にはスパイ衛星にもおよぶ。また、それぞれの引用文献も明示してあり、中身に信頼が置ける。
 最後まで出来の良い軍事サスペンス小説を読むような気分を味わえる。企業経営分野でもこのような“面白い”コンテンツの“情報学”著書が出てきて欲しい(サプライチェーン絡みの業務プロセス改善を扱った“ザ・ゴール”のような本がベストセラーになったが、小説としては全く盛り上がりの無いものであった)。

3)ランド-世界を支配した研究所-
 ランドとは、R(Research;研究) and D(Development;開発)からきている。この研究所の存在を知ったのは多分1964年頃だったと思う。当時工場で京大の指導による(化学)プロセス・システムズ・エンジニアリングの勉強会があり、そこでダイナミック・プログラミング(動的最適化法;DP)の話を聞いた。その始祖、リチャード・ベルマンがランド研究所に居る時発案したものだと言うようなことだった。
 ランド研究所が一般の日本人に知られるようになるのは60年代後半の未来学ブーム到来からであろう。日本の飛躍を声高に語る(“21世紀は日本の世紀”などと持ち上げた)この分野の有名人、ハーマン・カーン紹介の中にしばしば登場した。
 この研究所の出発点は、第二次世界大戦直後における陸軍航空軍(当時は空軍として独立していなかったが実態は独立軍に近かった)の科学者センターにある。戦時中兵器開発や作戦策定にトップクラスの科学者を動員したアメリカでも、戦後は急速に軍務を離れる者が続出する。これに危機感を持った航空軍が一流の学者を引きとめ、集めるために設立したのがこの研究所である。そのような経緯から当初は兵器開発や作戦策定への数学・物理学の適用が中心であったがやがて社会科学、特に経済学や政治学の分野にも対象範囲を広げ、軍(始めは空軍だがやがて陸軍も)や合衆国政府のシンクタンクに変じていく。設立来60年におよぶ歴史の中で、冷戦下の核戦略、スプートニック・ショックへの対応、ヴェトナム戦争戦略、インターネット構想、冷戦の終焉そしてイラク戦争まで、アメリカの主要な国家戦略に如何にこの研究所が深く関わってきたかを“人を中心に”丹念に追っていく。
 この本の第一部第一章のタイトルは「東京大空襲から始まった」であり、“東京を如何にB-29 によって効果的に破壊するか”を、OR(応用数学)を用いて検討したことが、この研究所設立の背景に在ったとしており、“決断と数理”の関係を研究する評者にとって、いきなり核心に踏み込む構成になっている。その後の展開も、線形計画法(LP)、前述のDPさらには交渉プロセスの手法として広く適用されるゲーム理論などの数理手法が政戦略の実際問題に適用され、普及してゆく様を多々紹介してくれる。この数値至上主義ともいえる研究所の特質は、研究員あるいはアドバイザーとしてこの研究所に籍を置いた27人ものノーベル賞受賞者が、一人を除き(キッシンジャー元国務長官;平和賞)他は経済学賞、物理学賞、化学賞と数理系に著しく偏していることにも窺がえる。
 一方でこの数値至上主義は、マクナマラが国防長官としてその任に当たったヴェトナム戦争では人間心理や民族感情を顧慮しない作戦を多発させ、その敗因をつくりやがては反戦運動を目論む研究員によって極秘資料が流出し、あの「ペンタゴン・ぺ-パー」事件を引き起こすことになる。
 歴代のメンバーには、コンピュータの生みの親;フォン・ノイマン、線形計画法のシンプレックス解法を考案したジョージ・ダンチックや経済学者として有名なポール・サミュエルソンなど多士済々である。大統領・国務長官・国防長官など国のトップの意思決定に関わるテーマの研究に携わるだけに政府の重要ポストにつく研究員も続出し、本書のサブタイトルが“世界を制する研究所”となっていることにも納得できる。そしてこのランド人脈ともいえる国家政策決定マフィアの要所々々がユダヤ系アメリカ人で抑えられていることを知り改めてユダヤ人の凄さを認識させられた。また前国務長官のコンドリーザ・ライスは学生時代インターシップ(夏季研修生)でこの研究所で学ぶが、“あまりの上方志向で研究者に向かない”と判定され採用されなかったと言う逸話も簡単に紹介されている。
 優れた個人が活躍し、権力者に決断の合理的論拠を提供し続けたこの研究所も他のシンクタンク同様、個人から集団への転換途上にあり、突出した力を失いつつあるのが現状らしい。差別化を図るため、国外にも拠点を設け、外国政府を顧客とする活動も進んでいるという。こうなるとランド対ランドも有り得るわけで、一体ランドの将来はどうなるのであろうか?そして世界は?
 最後に、この本の筆者は新聞ベースのジャーナリストで、取材は全面的にランドの協力を得たものの、出来栄え(内容)はその意に副わなかったようで、訳者が問い合わせしたところ極めて冷たい扱いを受けたようである。それだけ本質的な問題点を突いているともいえる。また、最近読んだ訳本として極めて良質なものである。これは訳者が英語力に優れるばかりで無く、完全に内容を理解するまで追加調査を重ねた結果であろう。
 いい本にめぐり合えた。

4)不幸を選択したアメリカ
 オバマ本が書店に溢れている。概ね好意的なものが多い。演説上手なので演説集も人気があるようだ。そんな中で、この本はタイトルが示すようにオバマ批判本の第一号ではなかろうか?ある種の“キワモノ”意識はあったが、“不幸” に惹かれて購入した。
 筆者はNHK元アメリカ総局長であり、現役時代はニュースや特集番組でよく見かけた。退職後12チャンネル(?)で“日高レポート”と銘打って日米関係を軸にした特集番組をやっているのは新聞広告で見かけたが、今まで番組も関連著書も読んだことはない。経歴書を見ると退職後もアメリカの大学・シンクタンクと深く関わっており、取材源は豊富なようである。それに基づく内容だけにある程度真実味があるが、政治的スタンスがはっきり共和党支持であり、この点でフィルターがかかっていると強く感じる。欧米のジャーナリズム(個人も組織も)はこの点旗幟鮮明なので悪いことではないし、読む側がむしろこれを踏まえて消化する必要がある。
 実は評者も共和党贔屓である。これは親しいアメリカ人の影響と自分なりの日米関係観察からきている。大会社幹部やWASPは概ね共和党、労働者階級やマイノリティは民主党支持と言われる。偶々選挙シーズンに会ったりするとタクシーの運転手やホテルのボーイなどからもどちらを支持するのか質問されたり議論を吹きかけられることがある。これらの人々は民主党支持が多く、かつ日本人が共和党贔屓であることを知っていて、皮肉っぽく問いかけられたりもする。こう言うときは面倒を避けるため「確かに共和党ファンは多いが、ケネディの人気は今でも高いんだよ」とかわしてきた。
 2000年の大統領選の日マンハッタンに居た。翌日も結果は出ない。この日元エクソンのIT専門職(夫)・管理職(妻)で熱烈な民主党支持のユダヤ人夫妻に夕食に招待された。「どっちを応援しているんだい?」「日本人は共和党支持者が多いけどね」と曖昧に答えた。「ブッシュのアホが大統領になったらえらいことになるぜ!」 昨年5月の連休中この夫婦が来日し我が家にやってきた。丁度ヒラリーとオバマの戦いが始まった時である。「ヒラリーとオバマ、どっちを支持する?」「日本人は共和党支持者が多いからね」明言は避けたが無論先方は分かっている。「あの時(2000年)のこと覚えているか?酷い世界になっただろう!」
 それでも共和党を支持するのは、戦争で不況脱出を図ったルーズヴェルトやクリントン政権時代のグローバリゼーションに見るように、外に厳しいアメリカになるのはいつも民主党だからだ。ケネディも演説ばかり立派な理想主義者だったし、ジョンソンは大盤振る舞いで今に膨らむ財政赤字の元凶である。大衆迎合主義の傾向が強い民主党にどうしても組みすることは出来ない。それにオバマが見習おうとするリンカーンは共和党員であった。
 繰り返すが筆者は共和党シンパである。オバマの問題点が民主党の内情と併せて具体的に列挙される。そのフィルターを勘案しても、理想主義演説が先行し、確たる政治哲学が見えてこず、法律家としても議員としてもほとんど実績の無いことに不安を懸念する筆者の主張は共感できる。それはやがて演説上手で何も実績を残さず悲惨な最後で歴史に残ったケネディの運命と重なってくるのは筆者ばかりではあるまい。
 願わくはそのようなことが無いように!

2009年2月1日日曜日

滞英記-16

Letter from Lancaster-16
2007年9月10日

 7日から大変センセーショナルな報道が始まっています。この地に到着時ニュースを独占していたのは、マドレーヌと言う4歳の幼女が、ポルトガルの避暑地(英国村のような所)で行方不明になったことでした。国中がこの事件に関心をもち、ランカスターの街中でも写真を配るボランティアがいたほどです。ベッカムもTVで協力を呼びかけていました。それが、6日ポルトガル警察が母親を“Suspect(被疑者)”として取調べ(非拘束)を始めたというのです。容疑は“意図せぬ事故死に関与”だそうです。TVで涙ながらに娘を語る彼女の姿が、皆の同情をひと際ひきつけただけに、“なに!?”と言う感じです。
 大学はまだ始まってはいませんが、大分学生が出てきています。留学生が多く、最大のエスニックグループは中国人だそうです。そんな中で、先週のゼミの帰り、大学内のバス停で日本人母子に会いました。子供が突然日本語で話し始めたので分かったのです。サバティカル(大学教員の研究休暇)で来ている家族のようで、4月から市内に住んでいるそうです。少し話をしたかったのですが、来たのが二階バス、私は一階に席を占めましたが、子供は当然二階、残念ながらお母さんとの会話もバス停で終わってしまいました。
 残すところ一ヶ月、ボツボツですが引き揚げ準備にかかっています。不動産屋とチェックアウトの日時を決め、やり方の確認をし、市役所にも出向いて最後の税金の確認、転出届用紙の入手、など始めています。借りた部屋は割と良い物件のようで、早くも次の希望者が下見に来ました。直ぐに次が見つかると、先払いの家賃が幾ばくか帰ってくるとのことです。ユーティリティーの締めは個人でと言われていましたが、チェックアウトの当日不動産屋がメーターを確認し、精算はデポジットの中でやってくれることが分かり、銀行口座の無い私はホッとしました。ただ、電話は依然個人ベースなので、少し早めに(多分9月20日頃)こちらからかけるのは、メールを含めストップする予定です(固定料金は11月まで先払いしてあるので、10月初めに来る請求書で全て精算が済むように)。
 英国出発は、チェックアウト二日後マンチェスターからなので、二晩ホテルで過ごす予定でいましたが、Mauriceが「お金を使うことは無い!うちに泊まれ。ベッドルームが四つもあるから(ただバスルームは一つだけどね)」と言ってくれています。バーバラ夫人に話す前の好意ですから思案中です。
 先週お送りした<世相点描>に関連して、英国の環境問題対応についてご質問がありました。実は、チェックアウトとごみ処理と言う身近な問題もありますので、今回はこの国の環境問題を<英国、環境先進国?>と題してお送りします。

 研究の方は、「Britain’s SHIELD(英国の盾)」を読み終えました。内容は、瀬戸際で英国が持ち堪えた、1940年5月から始まり10月に勝敗が決した、独空軍と英空軍(戦闘機軍団)の戦いを、レーダー開発を中心に、防空対策を“システム”として捉え、これ(システムしての完成)へのORの貢献を掘り下げたものです。チャーチルの一言「これほど少数の人々に、これほど多数の人間がお陰をこうむったことが、歴史上有っただろうか?」と戦闘機パイロットを称えたことから、真の勝利の貢献者“防空システム”の正しい評価が陰に隠れてしまったことを糺す初めての書と言えるものです。
 この書物からの収穫は、①防空システム完成に至るORの役割、②防空システム開発・構築を、信念を持って推進した、空軍省防空委員会(ティザード委員会)を主宰したティザードの考え・行動、③軍の側でこれを支え、戦いに勝利した戦闘機軍団長、ダウディングの人となり(最大の貢献者が、大事な意思決定の場で如何に判断を下したか、最後に左遷に等しい処遇を受けた背景・理由など)、を体系的に理解できたことです。
 先週もチョッとご紹介した次の資料は、空軍省(後に国防省に統合)のORに関する公刊史「The Origins and Development of Operational Research in Royal Air Force」(Mauriceが研究のためにフォトコピーした)です。今までの資料と違い、かなり味気ないものです。しかし軍の組織や軍人の地位・役割が明解なこと、データ・情報の信頼性が高いこと、軍側から科学者を見るという視点、他の軍(陸海軍のOR)との関係など、今までのものにないユニークなものです。そこで従来頭から読んで整理したものを、少しやり方を変えようと思っています。例えば、特定(公史に残る)の人間に着目しその人物がどの局面に現れるか(試しに、“ORの父”と言われるブラッケットをこのやり方で整理してみると、OR適用の嚆矢となる“バトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)の具体的なOR活動に全く出てこないことが分かりました。そこでMauriceに「ブラケットは防空システム開発・運用には表立って活躍していないね?」と問うと、「その通りだ」との答えが返ってきました。これによりブラケットのOR活動を、どこからスタートすべきかが整理できます。もう一つは、作戦策定・推進の責任者(軍人)とその科学アドバイザーとの関係を整理することです。特に、個々の“職務と人間関係”が如何様だったかが見えてくれば、“ORと意思決定の関係”が“非数理的”なものと“数理的”ものの組み合わせパターンとして整理できるのではないかと思っています。第三は、前項と関係しますが、官僚機構の中の処遇(階級や職権)に焦点を当て、建前上如何なる扱いを受け、それが意思決定にどう影響したかを考察したいと考えています。
 さらに次の資料が来ています。「The Effect of Science on the Second World War;Guy Hartcup著」です。第二次世界大戦時陸軍に所属した歴史学者の書いたものです。10章から構成される中にORに一章が割かれ、“New Science”として書かれている他、戦時における科学者の組織上の位置づけなどの章があり、かなり私の研究に新たな情報を与えてくれそうです。ユニークなのは“医薬”に関する章で、これにより負傷兵の回復・戦場復帰が如何に高まったかを記述しています。戦争をこういう角度から見ることの重要性は、実はバトル・オブ・ブリテンにもあるのです。英仏海峡で撃墜されたパイロットを救済するシステムまで備えて戦った英国は、士気の面でも、効率の面でもドイツを圧倒できたわけです。
 それにしても次から次に面白い資料が出てきます。意思決定の結果がはっきり出る“戦争と科学の関係”を多くの人が研究し、それを著していることにびっくりします。ここへ出かけてきたのは大正解でした。“戦争と道楽だけは真剣にやる英国人”に感謝です。

<英国、環境先進国?>
 “ロンドンの霧”は映画や歌でお馴染みです。推理小説の舞台にも欠かせません。しかし、これは英国特有の風物を作り出し、メリーポピンズでは重要な仕掛けになる、あのチムニー(煙突)から排出される暖炉からの煙と冬の天候が作り出した、いわば排気ガス公害だったのです。とにかくこの小都市ランカスターでも、ものすごい数のチムニーです。今は全てが使われているわけではありませんが、全盛期はあそこから石炭(田舎では薪ですが)を燃やした煙が、色はともかく(英国の石炭は良質で、無煙炭が多かった)、CO・CO2を煤塵も一緒にモクモクと冷えて湿った大気の中に排出した結果、スモッグ(Smoke+Fog)が発生したわけです。
 家庭だけではありません。産業革命(基本的には動力革命)はこの地から発しましたが、動力の基は蒸気、蒸気を作り出すエネルギーはやはり石炭です。今とは絶対量が違うものの、都市も工場地帯も大気はドロドロに汚染されていたのです。
排出ガスから汚染物質をとり出す技術の無かった当時、唯一の解決策は緑を確保することです。都市に集中する人口が無秩序にスプロールするロンドンで、遠大な緑化計画が始まったのは1938年成立のロンドン・グリーンベルト法以降ですが、その努力が実り環状高速M25の外側に見事な緑地帯が広がっています。
 日本が高度成長期にある時(’60年代)、TV番組で、都心から見渡す限りつづく低層住宅の写真を見て、英国人の都市問題専門家が「Terrible(酷い)!」と叫び、その後にロンドンのグリーンベルトが出てくるシーンを観たことがあります。私も“Terrible”に納得しました。
 このように、英国は環境保全に異常な熱意で取組む国、との思いを抱いてここへ出かけてきました。“家を借りる際、これで苦労しないと良いがな”と。

 今年の“Summer Flooding(洪水)”は私自身も、コッツウォルズで体験しましたが、記録的なものでした。今でも多くの人がトレーラー・ハウス暮らしです。また、あの口蹄疫も、今週明らかにされたところでは、動物伝染病研究機関か隣接する動物向け医薬(ワクチン)研究所の排水施設からリークしたウィルスが、大水で拡散した結果と報じられています。
 この洪水は何処に原因があるのか?多くの専門家が“地球温暖化説”を開陳しています。東南欧の猛暑、特にギリシャの山火事、も“地球温暖化説”と関連付けて話題になっていました。
 ロンドン・ヒースロー空港は欧州でも一、二を争う多忙な空港です。発着便の遅れは常態化しており、私も当地到着時、乗継便が離陸出来ずマンチェスター入りが大幅に遅れました。BAA(British Airport Authority)は滑走路の新設を発表していますが、当然反対運動が起こっています。その中で最も過激なのが“地球温暖化防止”派で、空港の一部を占拠し、家まで作ってしまっています。
 ただ、メディアでの環境関連報道は決して多いとは言えませんし、特集のような番組にもお目にかかっていません(犯罪が多い)。大体、上に書いたような大きな事件との関連として出てきているように感じます。
 政府の取り組みも、メディアで観る限り熱心に取組んでいるようには思えません(大きな政治課題として“Green Tax(環境税)”の問題があるのですが良く理解できていません)。
 製造業が弱いことが幸いして、他の国ほど深刻ではないのかな?と皮肉な見方までしてしまいます。

 さて、それでは身近なところはどうでしょうか?
1)自動車
 自動車の数は、ほぼ一家に一台。タウンハウスが並ぶ街は、道路の両側にびっしり車が並んでいます。みなよく車に乗ります。スーパーではお婆さんが一人で買い物に来ているのを見かけますが、大体車を自分で運転しています。休みの日には、車で出かけるのを楽しみにしている人も多く、いろいろな装備(特に、自転車やキャンピング)を着けて走っています。高速道路もトラック走行規制があるので走り易く、都市の中心部(平日)と観光地の駐車場周辺(休日)を除けば渋滞など殆どありませんから、ドライブを趣味にする環境が整っています。人口は日本の半分ですが、自動車数×走行距離は同じかそれ以上でしょう。
車の種類に、日本および欧州大陸と著しい違いが、それぞれ一点づつあります。
①日本との違い 小型ハッチバック車が圧倒的に多いこと。殆どの家庭が持つ車は、日本ではマーチ、ヴィッツ、フィットに相当する車です。ルノー・クリオ、プジョー207、ボックスホール・アストラ、フォード・フェスタ、VWポロなどが好まれ、エンジンの排気量は1000ccから1400cc程度です。日本では圧倒的にミニバンが多く、エンジン排気量も2リッターを超すものが多くなってきています。この点では英国の方が、環境に優しい自動車の持ち方・使い方をしていると言えます。
 それにしても、ミニバンの異常な普及とエンジン大型化は、自動車先進地域の欧州から見た場合、かなり異形(奇形)な自動車文化と感じます。
②欧州大陸との違い 欧州大陸に出かける機会の少なかった私に、決定的なことは言えませんが、自動車雑誌からの知識や一昨年暮のオランダ、ハンガリー出張での経験に基づけば、小型車の普及に関しては英国と大陸に違いはなさそうです(ドイツは少しドンガラもエンジンも大きい気がしますが)。しかし、全く違うのが、ディーゼル乗用車の少なさです。タクシーを除けばほとんど走っていません。だからと言ってハイブリッドエンジン(BBCで一度プリウスの紹介が短時間ありましたが)や電気自動車に関心が集まっているわけでもありません。

 世界の大きな流れの一つ、小型ディーゼルに何故英国人は関心が薄いのか?は大いに気になるところです。“楽しい走り”は、実用エンジンに関する限り未だガソリンエンジンに分があります。楽しみを取るか、環境を取るか? どうも前者にウェートがかかり、“あまり環境問題に関心が高くは無いのではないか?”と感じているのです。
 英国がイニシアティブを持つF1は依然ガソリンエンジンですが、フランスで開催されるルマン24時間レースはディーゼルに有利なレギュレーション。今年はアウディ(ドイツ)がディーゼルで圧勝しています。「奴らがディーゼルなら、こっちはいつまでもガソリンだ!」頑迷な英国人の声が聞こえてきます。
 でも、ガソリン代がおよそ日本の2倍ですからその面で、当然消費に歯止めはかかっているはずです。
注:ディーゼルが何故環境に優しいか;乱暴な言い方ですが、燃料利用効率がガソリンより良いからです。技術(特に電子制御とコモンレールといわれる混合気圧縮技術)進歩で騒音・振動も著しく改善されています。

2)水道料金と環境問題
 自宅の光熱費すら知らない私ですから、ここでのそれを絶対的な基準で比較することなど出来ません。また水、電気、ガスを同一尺度で比較することは不可能です。そこで、今まで支払ってきた光熱費を相対的に比較し、そこから環境問題に触れてみたいと思います。
 光熱費の支払いは固定部分と使用量比例部分から成ることは請求書からみてとれます。全体に使用量比例部分が大きな割合を占めます(電話は固定部分が大きい)。水代は下水処理を含みます。請求は基本的に四半期ベース(3月末、6月末、9月末、12月末で締め、翌月初めに請求)です。ただ、ガス代は私の手違いで6月末の請求が来ず、8月末と言う中途半端な時期に請求書を受け取っています。
 期間を均して請求金額を単純に比較すると、水:電気:ガス=6:3:1くらいになります。
先ずガスですが、炊事と風呂が主体です。洗濯物の一部を乾かすためや寒さが堪らず短時間生かすことがあります。電気は照明が主で、洗濯機週二回、電子レンジを毎日、掃除機週一回、電気オーブンは月一回くらいです。水は、風呂(バスタブ)に毎晩入っています(多分これは英国人と大きく違うところでしょう)。シャワーが別のバスルームにありますが使いません。他に洗面、トイレ、炊事、洗濯で使います。水代が一日約2ポンド(500円)もかかっています。基準が無いので分からないのですが、これはかなりかかっていると感じています。
 水利用が種々制約をうけていることと料金が高いことは、ガイドブックや滞在記で目にし、実感もしています。特に、ホースによる洗車と庭の水撒きです。どうやらこれは禁止されているようです。先日フラットに、“自動車クリーニング屋”が来ていました。バンに一切の仕掛けを積み、水を外に流さず車をきれいにしていくのです。家庭からの水質汚染と省水資源はこのような制約で、かなりコントロール出来ていると推察します。
 この国には大きな川は流れていません。緑野には木がほとんどありません。牧草地の下は石灰岩です(だから簡単に石材が取り出せる)。つまり表層を除くと、土地にほとんど保水力が無いのです。雨は年間を通じれば先ず先ず降るのですが、牧草地に絶え間なく水撒きをしているような調子で、ドカッと貯めておけるような降り方をしません(貯水地はありますが)。逆に“水に流す”と言う環境が無いとも言えます。そんな訳で、水質汚染に関する環境問題は今度の洪水まで表に出てこなかったようです(炭鉱に関する問題はあったようですが)。大水対策(排水が悪く、汚染が酷かった)はこれから始まる課題です。
 “水と安全はタダ” (日本人とユダヤ人;イダヤ・ペンダサン著)と思い、面倒なことを“水に流す”日本人とは根本的に“水思想”が異なるのはここだけでなく、大河が多くの国を貫く大陸でも共通で、水が資源化する時代、請求書を眺めながら、日本の自宅での、水の浪費を大いに反省しています。

3)ごみ収集とリサイクル
 フラットを借りるとき、一番気になったのはごみの収集です。日本でも最近は分別収集が細かく決められる方向にありますが、その先駆者はドイツです。TVなどで紹介される、分別収集とリサイクリングをみると“よくここまでやるなー”と感心します。  英国も欧州だから同じレベルにあるのだろう。だとするとルールをしっかり理解しておかないといけないが、誰がどのように説明してくれるのだろう?これが最大の心配事でした。下見の際、不動産屋の案内者(おばさん)に「ごみを捨てるのは何処で、どのようにすればいいのかな?」と問うと、「? ごみ?」「あぁ そこのごみ用のビン(ゴミ箱)に何でも一緒に捨てればいいのよ」、とフラットの外れに設けられたごみ箱コーナーに案内してくれました。そこには大きな緑色のゴミ箱(私の背の高さでは底が見えない)が3個置かれ、その中に黒い袋(これは市指定の一般家庭用)やスーパーの買い物用ポリエチレン袋に入ったごみが沢山放り込んでありました。帰りに別の棟のゴミ置き場を見ると、何と!ソファーがごみ箱に入らず、外に置かれています。退居者が捨てていったもののようです(これはさすがに後で問題が出たようで、自治会(?)から警告が出ていました)。
 週に1回(水曜日)、大型のゴミ収集車がやってきて、ごみ置き場近くに後部から接近すると作業員(運転者を含め3人)が、ビン(下部に4つのキャスターが付いており、ごみ置き場から道路へ引き出せる)を車の後部に運びます。それを特殊なクレーンで吊り上げ、逆さまにすると中身が収集車の中にドサッと取り込まれます。空になったビンを元に戻して終わりです。全部で3分位でしょうか。アッという間です。この後の処理は分かりませんが、TVなどで観ていると、野原の広大なゴミ捨て場に、袋に入ったまま捨てられ、ブルドーザーで土を被せていました。
 これは我が家のごみ処理の現状ですが、既にランカスターでも分別収集が始まっています。7月末このフラットの住民宛にその計画書が回ってきました(ただこの計画書はタウンハウスを含む個人住宅向けで、集合住宅に住む我われにはそのまま適用できないと思います)。それによると各家庭にキャスターの付いたグレーの比較的大きなビンを配り、その中にリサイクルごみを入れる、三種類の蓋つきの小型ボックスを入れておく、というものです。小型の三種類は多分、プラスチック、金属、壜用でしょう。そしてグレーの本体にその他のごみを入れることになると思います。これ以外に庭のごみを処理する緑色のビン(グレーと同サイズ)を配るから、希望者は申告するようにとなっています。これらの容器は8月中旬から配られ、分別開始は9月17日からとなっています。そして、近所の個人住宅には既にこのビンが配られます(我が家の周辺のほとんどの個人住宅は、グレーと緑の二つ)。この大きさのビンをフラット各世帯に配ると、自宅内に納められる大きさでは無いので前の道が大変なことになります。何か別の容器が用意されるのではないかと推察します。しかし現時点では何も配られていないので、出来ればチェックアウトが終わってから始めて欲しいと願っています。
 この配布文書によると、リサイクル率は2002年度の6%から現時点で25%に達し、“Huge Success(大成功)だ”と言っています。よく買い物をする、Sainsbury’sと言うスーパーでくれる買い物袋には“This bag is made from 33% recycle material”と印刷してありますし(軽い罪悪感とともに、これにごみを入れ “みんな一緒”にビンに投げ込んでいます)、たまごのパックも紙のリサイクルです。
 田舎の中小都市ということもあるのでしょうが、繁華街を歩いていて道路に目立つごみが捨ててあるのを見かけません。ゴミ箱は何種類かあり、上記の分別基準に従っているようです(ただ、“その他”のゴミ箱に分別すべき物などが見え隠れしていますが)。食べ物の残し方もアメリカほど酷くありません。アメリカの事情を知っている人は、皆あの乱雑な残飯の話をします。食べる物は不味くても、後始末はきちんとしています。アングロサクソンと一括りにされることに抵抗もあるようです。私も、生活感覚は我われと意外に近い感じがしています。

 このレポートを、ラグビー・ワールドカップ;オーストラリア:日本戦を観ながら書いています。初めて、こんなに長く日本人をTVで観られ感激です。残念ながら勝負は一方的です(91-3!)。体格が違いすぎます。大人と子供の戦いです。しかし、体の小さいことはあらゆる資源の節約に繋がるはずです。環境問題が厳しくなればなるほど、我われに有利な世界が出現する可能性を期待しましょう。
以上

2009年1月25日日曜日

篤きイタリア-5

6.地中海の帝都;ローマ
(写真はダブルクリックすると拡大します)
 フィレンツェにはまだまだ見たい所、訪れたい所が多々あった。一方で昨日の一日徒歩ツアーの疲労を考えれば、もう一日歩き回るのは辛い。一週間くらい滞在し、公共交通機関を使った半日観光、残りはカフェテラスや庭園でボンヤリ過ごす。夜は専門の(観光特化で無い)レストランやエンターテイメントを楽しむ。イタリア(多分他の欧州都市も同じ)ではこんな旅がしたい。特にここフィレンツェでは。しかし、現実は“多すぎる観光客”でこんなのんびりした旅は経済的にも空間的にも無理だろう。
 フィレンツェの出発時間はチョッと思案した。基本的には何処でも、宿泊地ホテルのチェックアウトタイムと次の訪問地のホテルのチェックインタイムに合わせて決めてきた。ここでもその基本は変わらないのだが、乗車時間は1時間半と短い上に、ローマの宿泊先はコロッセオの近くなので、到着日はその周辺の観光だけで済ませれば、フィレンツェ出発を遅らせても良い。見るところはいくらもある。こんな考えに至ったのは、前出の大学時代の友人Mが夫人や混声合唱団の仲間とたまたまこの時期イタリア観光中で、この日彼らは我々と逆にローマからフィレンツェへ移動することになっていたからである。海外で親しい友とひと時を過ごすのは格別の思い出になる。しかし、列車の時間やホテルと駅との往復、先方もチェックアウト・チェックインに合わせた移動計画。国内で計画を立てている段階でこれは無理、途中ですれ違いと分かった。
 結局フィレンツェの出発は10時52分、ローマ到着は12時半のユーロスターにした。今度は二人向かい合わせの席である。席は所々空いており、4人席の人は適当に移動している。今回は到着時間が昼食時ということもあり、車中食は用意しなかった。好天の車窓をボンヤリ眺めていると、並行する線がある。在来線と新幹線と言ったところであろうか?道中の景観は長閑さだけが心を休める程度の、変化の少ないものだった。イタリア最後の鉄道の旅はこうして終わった。
 正午過ぎのローマ駅(テルミニ)は明るく暖かい。暑いくらいだ。今回も荷物があるので駅からタクシーにした。宿泊先は、カポ・ドゥ・アフリカ(アフリカの首都)と言う名前のホテルで、コロッセオ(楕円形闘技場)の近くのアフリカ通りにあった。このアフリカ通り周辺は閑静な所で、ここの通りを真っ直ぐ西北に進むと5分くらいでコロッセオに達する。観光には絶好のポジションにある。最寄の地下鉄駅は“コロッセオ”、テルミニ駅まで二駅である。このホテルも個人旅行者向けで、外からは付近のアパート(どうやらそのいくつかは長期逗留者向けらしい)と見分けがつかない。クリーム色の壁にアーチ型の玄関が、いかにも“アフリカ的”な雰囲気を醸し出す。内部も黄色やクリーム色が基調で明るく落ち着いた上品な仕上げ、部屋の天井が高く広さも申し分無い。バスルームやTV・インターネット環境などの設備は最新式で、ヨーロッパとアメリカの良いところを組み合わせた、今回の旅でベストのホテルだった。

<溢れかえる観光客>
 今日は日曜日。言わば“ローマの休日”である。チェックイン後一休みして、フロントで地図をもらい、周辺観光の要領を教えてもらう。地下鉄やバスを使えば有名な観光スポットへは容易に行けそうだ。ただ念を押されたのは「スリには充分気をつけて!」である。特にヴァチカン行きのバスは危ないと言う。幸いこれは明日のツアーに組み込んであるのでこの日行く予定は無かった。
 地下鉄利用はミラノで体験済み。コロッセオを外側から見学しながら、地下鉄入口に向かいキオスクで乗車券を求める。最初の目的地はスペイン広場、駅名はそのものずばりのスパーニャ、コロッセオを通る線はB線、スパーニャ駅はA線上にあるのでテルミニ駅で乗り換えることになる。東京の地下鉄ほど路線の数が多くないので迷うことは無い。テルミニ駅から三つ目がスパーニャ、明るい所へ出るのに少し地下道を歩く。表へ出るとそこはスペイン広場、午後の強い日差しの下観光客が溢れかえっている。映画でもしばしば大事なシーンの舞台となるスペイン階段にも、大勢の人が座り込んでいる。白・黒・黄色。一人旅・二人連れ・グループ。老・若・男・女。飛び交う多様な言語。ここで連れを見失ったらとても見つかりそうにない。スタンダール、バルザック、ワグナー、リストが住み、バイロンの通ったカフェあり、ブランドショップが軒を連ねてはいるものの(これは人が集まるからこうなったわけで、これが人を惹きつけているわけではない)、特別な歴史的モニュメントがあるわけでもないここに、これほど大勢の観光客が集まるのは何故だろう?多分あの「ローマの休日」の影響なのではなかろうか?(我々も実はそうなのだが) イタリアを旅していて、映画のシーンが大きな観光資源になっているのはローマだけではない。ヴェネツィアがそうだったし、シチリアには「ゴッドファーザー」がある。映画のシーンに惹かれて溢れるほどの観光客が出かけてくる所は、この国にしかないのではないか(韓流ブームの一時期そんな所もあったようだが)?
 これだけ人が集まっていると広場も広場ではない。広場でない所の方がややスペースがある。南西の日差しの強い階段の方は、これを避けるのか日陰のないところは歩き易い。取り敢えず教会のある上まで昇ってみる。午後2時頃にホテルを出たため、この観光散策の後はこのままの装いで夕食をとる考えだったので、夕方の冷え込みも考慮して長袖シャツにセーターさえ羽織っていたが、半袖のポロシャツで充分な陽気。階段の途中でセーターを腰に巻きつけたものの、それくらいでは、この暑さはしのげない。教会まで辿り着いた時には汗びっしょり。それを待ち構えるように、インド系の清涼飲料やスナックを商う屋台が石畳の高台テラスに店を出している。スーパーで買えば1ユーロ以下のミネラルウォータが2ユーロもするが、この暑さと乾きに値段は二の次、冷えているかどうかだけが問題だ。それも彼はよく承知している。クーラーに入ったボトルを示して「値段は同じ!」とくる。眩しいテラスでぐい飲みした冷えた水は、今まで飲んだどんなビールにも勝る喉越しだった。
 “命の水”を飲んだ後は再度広場に降り、そこから南西に延びる、ブランドショップの並ぶコンドッティ通りを人混みにもまれながらオベリスクとヴィットリオ・エマニュエル2世記念堂を結ぶ、ローマの代表的な大通り、コルソ(競馬)通りに出て、この通りを記念堂方向(南東)に向かう。こんな大通りもやはり観光客で溢れている。記念堂のさらに南東は、古代ローマの政治中枢が在ったフォロ・ロマーノ、その少し東にコロッセオが在る。途中の名所を訪ねながら、徒歩でホテルまで帰るルートである。最初の見所は、肩越しコイン投げで有名な「トレヴィの泉」。三叉路を意味する“トレヴィ”だけに、大通りから入ってチョッと探すのに手間取ったが、観光客の流れでおおよその見当はつく。あの有名な噴水は宮殿前の小広場の大部分を占め、平らな所は噴水とその背後にある宮殿を装飾する大きな彫像群に見とれる人々の群れに埋め尽くされ、噴水の縁には沢山の人が隙間のなく座ってコインを投げたりしている。ここもただただ人、人、人であった。それだけにスリのメッカでもあるらしい。長居は無用である。
 コルソ通りの終点はヴェネツィア広場、ここはかなり広い広場で交通の要衝である。広場に面して聳えるのがヴィットリオ・エマニュエル2世記念堂である。正面が北西を向いているので、折からの強い西日で大理石造りの西面が輝いて見える。エマニュエル2世はイタリア統一の英雄だが、この記念堂は彼の功績を称えるものではなく、統一後の戦役で戦死した兵士を弔うものである。広場と遜色のない幅広の階段の頂部に半円形に並んだ円柱を持つ壮大な記念堂は、下から眺めるものを圧倒する。ここには無名戦士も葬られ、24時間衛兵が墓守をしている。クレムリン、アーリントンと同じである。長い道のりを歩いてきた者にとって、この広い階段は格好の休憩場所を提供してくれるように見えた。端の方で一休みと思い腰を下ろしたら、直ぐさま監視員がやって来て立つよう注意された。もっともなことで不徳を恥じた次第である。
 記念堂は小高い丘の上に築かれている。裏側もテラス状になっており、南東側に西日の中の古代ローマ遺跡が間近に見下ろせる。ここからローマの七つの丘の一つ、カピトリーノの丘は指呼の間、そこまで歩くと丘の端から夕陽を真横に受けるフォロ・ロマーノやセヴェルス帝の凱旋門(在位193~211年)が見下ろせる。遺跡巡りは明日午後のメインエヴェントだ。さらに15分ほど歩いてやっとコロッセオの周縁の緑地に辿り着き座り込んだ。3時間は歩いている。この間休んだのはトレヴィの泉と記念堂で少々だけ。飲食はスペイン階段上のあの冷たいミネラルウォータだけ(ボトルから時々補給したが)。5時を過ぎているが空腹よりも歩き疲れの回復が急務だ。幸いまだ明るく、大勢似たような観光客がそここで休んでいる。ホテルへ返って一休みという案もあるが、多分バタンキュウーでろくな夕食も食べないことになりかねない。ここはもう少し頑張ろう。この時期コロッセオ観光は6時半までなのでまだ行列が続いている。それに纏わり着くみやげ物売り、ボンヤリ辺りを眺めているだけでも結構退屈しない。やがてコロッセオの横にボンヤリした月が顔を出した頃、近くの観光客相手のレストランで夕食にした。この時間になると不思議なもので冷たいビールよりワインが欲しくなるものだ。やっとイタリアンスタイルが身についてきたのかもしれない。
 ライトアップされたコロッセオの横を抜けてホテルへ帰る時には、先ほどの月が高く明るく輝いていた。そしてこの月光のコロッセオの周りで、ウェディングドレスを着た女性が数人がはしゃいでいる!聞くと先ほど式を挙げたばかりの花嫁とのこと。月下氷人や月下美人は知っているが、月下花嫁は始めてである。このローマ史を象徴するコロッセオでこのように祝うことが出来ることを心から喜んでいる風だった。観光とは別のよきローマの慣わしを垣間見て、一日の疲れは吹き飛んだ。「お幸せに!」

<神の国;ヴァチカン> 高校2年生の時に世界史をとった。担当の先生は東洋史、西洋史別で二人。どちらも面白く、受験の世界を遥かに超えて勉強した。それでも中国については日本史や三国志などの延長線に多少の纏まった知識もあったが、西洋史関連は少年少女向けのシェークスピア程度しか無く、ギリシャ・ローマに発する西洋文明に興味津々の授業だった。そんな中でよく理解できなかったことの一つが、宗教と政治権力の関係である。カノッサの屈辱や英国国教会の成立は教皇と皇帝・王との権力争い(司教の叙任権)の結果だが、何故坊主ごときが皇帝や王を破門など出来るのか?破門など意に介さず自分の国を好きなように統治すればいいではないか(英国国教会はこうして生まれたが)!もし坊主がゴタゴタ言うのなら武力で押さえつければいい(共産国家はこうして宗教を排除したが)!と。
 これが体感できるようになったのは、共産主義国家における宗教問題が表面に出てきたごく最近のことである。過度にイデオロギーに依存した社会の為政者にとって、そのイデオロギーと異なる信念を植えつける宗教ほど恐ろしいものは無かろう。冷戦構造の崩壊は、経済システムの破綻にあることは間違いないが、その端緒がカソリック国ポーランドから発したことは宗教と国家権力を見つめる上で象徴的な出来事といえる。その二つの権力の妥協による産物(?)がヴァチカン市国である。
 ややこしい権力構造を巡る歴史は一先ず置き、れっきとした独立国(国連にも加盟しているし多くの国に大使館を持つ)ながら国籍保有者はたった800人強、しかしカソリック教徒10億人を従える奇妙奇天烈な国をこの目で見てみたい。国境はどうなっているんだろう?こんな気持ちでローマ観光の目玉としてツアーのメニューに加えた。ただしヴァチカン美術館は、それだけでさらに半日を要するのでパスすることにした。正直言ってルネサンス以前の宗教画は、文字の読めない人に対する布教を目的にするので、おどろおどろしく稚拙な感じがして好きでない。
 この日の市内ツアーは地下鉄テルミニ駅に近いホテル・レックスという所に8時半に集合することになっている。昨日の午後コロッセオ駅からテルミニ駅乗換えでスパーニャ駅まで行っているので地下鉄移動は問題なかった。しかし、テルミニ駅からの案内図はかなり簡略化されており、途中三度もその在り場所を確認する必要があった。中には英語を話せない人もいたが、手振り身振りで何とか集合場所に辿り着けた。そのホテルの地下の一部は日本人旅行者専用の受付・待合室になっており、如何に日本人観光者が多いかを窺がわせた。既にほとんどのツアー参加者が集まっており、しばらくするとこの日のガイド、日本語を話すイタリア人の小柄な中年女性、クラウディアさんと言う人が現れ、大型バスへと引率してくれる。参加者は日本人だけで12人だったと思う。いずれも二人一組、夫婦らしい組みが多いが、女性だけの組みもいる。
 最初の訪問先がヴァチカン。国境らしきものは何も無くチョッと残念。ガイドは大聖堂には入れないとのことで、サンピエトロ広場の前で全体説明と見学後の集合時間、集合場所の確認。見逃してはいけないミケランジェロの「ピエタ」像の在り場所確認などがある。時間が早いせいか入場の行列はさほどでもなく、直ぐに大聖堂に入れた。カソリック教徒にとっては聖地であり、特別な感動が沸くのかもしれないが、不信心な私にとっては建造物そのものと歴史的な興味しかない。ミラノやフィレンツェで見たドオーモに比べ遥かに規模が大きく、複雑な造りである。英国国教会の総本山、ウェストミンスター寺院と比べてもこちらの方が大きく丸屋根に“旧教”を感じた。しかし、1996年訪れた嘗ての東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル(現イスタンブール)に在る、この大聖堂の言わばライバルであるアヤソフィヤは古さと大きさにおいてここを凌いでいるのではなかろうか?アヤソフィヤはオスマントルコによるビザンチン帝国征服後モスクに改装されたため、内部の装飾はイスラム風になり、外見もミナレット(尖塔)が付加されて単純な比較は出来ないが、往時の東の文化・経済の高さを推し量ることが出来る。
 このあと、スイス人の衛兵や教皇が広場の信徒に手を振るシーン有名な教皇庁の建物を外から眺めたりしてここの観光は終わった。残念ながら皇帝・王そして近代国家指導者(ムソリーニ、ヒトラー、スターリンそして毛沢東)と教皇の争いの跡を残すものに接することは出来なかった。
 ツアーの残りは、パラティーの丘(遠望)→コロッセオ(外部のみ)→トレヴィの泉(前日は噴水が噴き上げていたがこの日は工事中で水が涸れていた)→共和国広場(ここでバスを降りる)→三越(お土産;ここまで引っ張るのがガイドの役目、大部分の人はトイレ使用のみ)

<古代ローマ逍遥> ローマを目指す日本人観光客のかなりの人は、塩野七生の「ローマ人の物語」に魅せられ、ここを訪れることを思い立ったのではなかろうか?私もその一人である。もしあの長編を読んでいなければ、北イタリアとトスカーナ地方に時間を割いて、ローマは割愛していたかもしれない。あのシリーズがハードカバーでスタートした時には、後述するような理由で読まなかった。買ったのはただ一冊「すべての道はローマに通ずる」編である。これは技術史の視点で面白いと思ったからである。しかし、文庫本が出たとき、偶々貯め置きの本が無く買ったのが、このシリーズにのめり込む切掛けになった。
 1990年代後半、彼女の本が文庫本で出始めた頃何冊か読んだ。「イタリア遺文」「サイレント・マイノリティ」のようなエッセイ・評論は面白かった。しかし、小説3部作「レバントの海戦」「ロードス島攻防記」「コンスタンチノープル陥落」は、ノンフィクション部分は面白いのだが、小説としては盛り上がりを欠き、今ひとつ評価出来なかった。「ローマ人の物語」が出た時、出版社が長編小説的な宣伝をしていたので直ぐに飛びつくことは無かった。ただ「すべての道はローマに通ずる」編を技術史物として購入し読んだとき、これが小説ではなくノンフィクションに近いものであることを知った。しかも、筆者が哲学専攻と言うのに技術的な調査が良く行き届いているのに感心した。文庫本は何処へでも持ってゆける。最初の数巻がまとめて出たとき購入し、一気に古代ローマに引き込まれてしまった。それからは続編を待ちわびるようになった。現在34巻まで来たそれももう直終わる。そこに登場する地名、記念物、建物そして人物。それらを間近に見るチャンスが遂にやってきたのだ。
 ローマ誕生は、篭に入れられテヴェレ川に流され、雌狼に育てられたロムルスとレムスの双子兄弟に始まる。ローマの名はこのロムレスから来ていると言われる。ロムレスの勢力圏はパラティーノの丘、レムスのそれは谷を挟んで南西に在るアヴェンティーノの丘である。午後半日の時間ではとてもローマ史を辿ることは出来ない。ホテルに近く、見所が集中するパラティーノの丘から政治の中枢だったフォロ・ロマーノに至る一帯と、原型を留めるコロッセオを廻るのが精一杯だった。
 先ず初めに行ったのがパラティーノの丘、ここは皇帝たちの宮殿(ドムス)が在った所だ。南に傾斜する地形は明るく、古代でも一等地であったことが窺がえる。そこからは当時から今も流れが続くテヴェレ川が望める。そしてこの丘と川の間には平坦な長楕円形の大競技場(チルコ・マッシモ)の跡がはっきり見てとれる。あの「ベン・ハー」の戦車競技がここで行われたのだ!映画では壮大なスタジアムだが、今残るのはトラックだけである。
 丘の南端から北へ向かうと、ドムスや神殿、庭園の遺跡がいたる所にある。予め周到に道筋と時間を考えておかないと回り道になったり、見所を見落とすことになる。途中に適当な休憩所もない。個人観光はこの点で極めて効率が悪い。ヘトヘトになりながら次のポイント、フォロ・ロマーノに達する。
 フォロ(Foro)は英語のフォーラム(Forum;公開討議の場;公共広場)である。「ローマ人の物語」にも頻繁に登場する。元老院もここに在り、キケロやカエサルが議論を戦わし、「ブルータスお前もか?!」と言ってカエサルがこと切れた場所でもある。列柱の残るバジリカ(柱廊)様式の遺跡は神殿や取引所、裁判所などの跡のようだ。ここだけで凱旋門も二つある(この他にもう一つ、コロッセオの間にトライアヌスの凱旋門がある)。そして中央を貫く道は、戦利品と捕虜を連ねた凱旋行進が行われたところだ。クレオパトラもここを引き回されている。ガリアを、ゲルマンを、ペルシャを、エジプトを、そしてカルタゴを屈服させ強大な地中海帝国を構築した歴史を確かめにここまで来たと言ってもいい。しかし、「シーザーとクレオパトラ」のようなハリウッド映画で見る凱旋シーンの方が遥かにスケールが大きく感じる。誇張されたセットと瓦礫の山に近い現在の遺構の違いからくるものだろうが、それでも道路の幅や残る柱の高さなどを目の前にすると「この程度だったのか?!」とチョッと意外な感じがする。実物を見て映像のマジックを実感し、正しい姿に修正出来たことが果たしてハッピーだったのかどうか、些か複雑な思いである。
 遺跡めぐりの最後はコロッセオ。ホテルと地下鉄駅の間に在ることから、何度も外からは眺めているが内部に入るのは今回が初めてである。紀元80年に完成し、収容人員は5万、今に原型を留める楕円形の闘技場(劇場)である。他の建造物が凱旋門を除けば、基部や柱、階段などが部分的に残る遺構であるのに対して、ここは石積みの部分がほとんど残っており、2000年前の姿がそのまま見えるので強烈な存在感である。
 それまでの知識は、ここでもハリウッドである。カーク・ダグラス演じる、タスキ掛けのような鎧を纏う剣闘士スパルタカス。暴君ネロのキリスト教徒迫害をテーマにした数々の映画では、ここで教徒が猛獣に追い回されるシーンが見せ場になる。しかし、フォロ・ロマーノとは違い、ここでは映画のシーンよりも現実の方がもっと迫力があったのではないかと思わせる。それは、内部に入ることに依りその構造が委細に理解出来、当時の観客として、演じられた見世物を容易に想像出来るからである。否、私にとって現状の方が当時の観客以上に複雑な舞台仕掛けを見ることが出来るだけに面白かった。
 スタジアムの基本構造は現代の競技場と大きな変わりは無い。50メーターの高さから傾斜した観覧席が舞台に向かって設えてある。一般席・貴賓席が分けられたり、指定の席への入口・階段も分けられている。木製だった観覧席そのものは残っていないがこれらも現代のものと似たようなものであろう。大きな違いは闘技場の舞台とその下部構造である。舞台そのものが木製の板を敷き詰め、それに薄く土を撒き演じ物にふさわしい木々などもセットする。この上で剣闘士たちが人間同士あるいは猛獣たちと凄惨な戦いを行うことになる。この木製舞台の下は何層かの石造りで、複雑な迷路のような構造になっており、猛獣たちを入れておく小部屋や舞台へ追い立てる通路になっている。舞台への出口は一ヶ所ではなく、複数の出口から一斉に猛獣を放つことも可能である。木製舞台の朽ち果てた今、この複雑な下部構造が観光客の目の下に開けている。世界の富を集め、遊蕩惰眠と化したローマ市民の民心を買うためとは言え、良くここまでやったものだと感心するとともに、ポピュリズムに浸りきった、現代の為政者と大衆の今に変わらぬ関係に、2000年の空しい時間を痛感した。

 本編を持って“紀行”としての報告は終わりますが、次回この旅の総集編と垣間見たイタリア雑感をお届けします。

2009年1月16日金曜日

滞英記-15

Letter from Lancaster-15
2007年9月2日

 ついにレポートの発行月も9月になりました。結局短い夏も来ず晩春から、秋に入ってしまった感じです。異常な経験です。異常と言えば、今週一番の異常な出来ことは、29日(水)にイングランド・ウェールズの刑務官(Prisoner Officers Association;POA)が一日ストライキを打ったことです。全国ニュースばかりでなく、Northwest版には何と直ぐ近くにあるLancaster Farm(少年刑務所)までTVに登場です。争点は賃上げです。一番困ったのは中にいる囚人達だったようです。過去の労働党政権時代は労組に依存する傾向が強く、それによって経済ががたついてきた歴史もあるので、ブレアは支持基盤を組合依存から一般中産階級向けに切り替える戦略をとり、まずまずやってきましたが、好調な経済はインフレも伴い、現業公務員は厳しい生活環境にあるというのが、彼らの主張のようです。ブラウン首相も厳しい姿勢を示しています。それにしても刑務官が!と驚きました。
 今回はこの最新ニュースはひとまず置き、最近の世相について、あまり日本には伝わっていないと思われる幾つかの話題を集め、<世相点描>としてお送りします。

 研究の方は;
 Waddington「O.R. in World War 2 -Operational Research against the U-boat-」を調べ終わりました。
 この著書から得たものは;
1)OR活動の具体的な内容で、単に手法ばかりでなく適用推進の諸活動が、如何に科学者の評価を高め、次の展開に繋がるか。
2)組織の中で、専門家に如何に持てる力を存分に発揮させるか。と言うことを具体的に知ることが出来た点です。
 英軍においても、科学者と接触の少なかった軍人は、おおむね“be on Tap, but not be on Top(必要なところだけ上手く使い、決してとトップになどに登用してはいけない)”という姿勢が強かったようです。対Uボート作戦中核だった沿岸防衛軍団でも、軍団長・参謀長とその科学顧問の関係は、人によって微妙に違いっています。軍団が抱える個々の問題ばかりでなく、その背景や問題の深刻さを、率直に専門家に理解させたトップの場合の方が、いい結果が出ています。“専門家は必要な時だけ呼べ”では士気があがりません。供に考える場を与えることが大事です。ただ、専門家の方もそれなりの広い見識を持つことが参画の必要条件であることは言うまでもありません。職人、専門馬鹿ではその資格はありません。
 次のテーマに着手しました。カナダの歴史学者が著した「Britain’s SHIELD(英国の盾)」です。これはOR適用の嚆矢となった、“Battle of Britain(英国の戦い;英独航空戦)”における科学者の活動、特にレーダー開発、その防空システムとしての実現、そこでのORの役割、を技術的な見地ではなく、歴史、政治、国防政策、組織管理、人間関係などの面から論じたユニークな本です。まだ三分の一くらいしか読んでいませんが、いままで調べてきたものとは違う、新たな情報が多々得られています。例えば、“ORの父”と言われるブラケットが属していた、通称“ティザード委員会”を主宰していたティザード博士の姿が見えてきたことです。著者はこの人物を“二流の実験物理学者”と決め付ける一方で、「複雑化・細分化してきた科学を、上手く管理出来た、第二次世界大戦時最高の科学マネージャー、アドミニストレータ」と評価しています。OR普及の鍵はどうやらこの男にありそうです。
 さらに、新たな資料が提供されました。これはMauriceに対する私の質問に発するもので、今まで目を通してきた、著書・文献が主として科学者や政治家等に拠っているので、「軍人が書いたものが無いか?」と問うたことに対する回答です。英空軍の公刊史「The Origins and Development of Operational Research in Royal Air Force」で、彼が国防省でフォト・コピーしてきた貴重なものです。遥々出かけて来た甲斐がありました。残る最大の課題“英爆撃機軍団は、何故OR適用に消極的だったか?”もこれから探れそうです。これも楽しみです。

<世相点描>
1)少年犯罪 犯罪(特に殺人がらみ)は、どこの国でもニュースとして頻繁に取り上げられます。この国に来てTVニュースを観ていると、特に少年が関わる事件が極めて多いことに、気がつきました。英国得意の犯罪小説(本屋の“Crime(犯罪)”と言うコーナーのスペースは一番広く、次いで、歴史、伝記)の世界では大人が主役ですが、現状は少年なのです。これと関連して一月くらい前に、BBCが“少年の飲酒”問題を扱った番組を放映しました。それは日本でも観ることが出来たようで、これに関連したメールをいただきました。飲酒・ドラッグ・銃、少年が絡む犯罪の三大助演者です。ここでは最近起こった二つの事件(いずれもランカスターを含むNorth West地区)を、社会の反応を含めてご紹介し、私なりのコメントを加えてみます。
①11歳のフットボール少年射殺
 先週22日(水)夕方、リバプール郊外に住む11歳の少年が友達とフットボールの練習中何者かに射殺されました。目撃者情報では、犯人は13~15歳の少年と言われ、数日後15歳の被疑者が警察に拘束されましたが(2日現在では、他に4人が取調べをうけているようです)、詳しい情報が全く出てこないので、果たしてこれらの中に犯人がいるのかどうか分かりません。
 これに対する社会や警察の反応は、明らかに大人の殺人事件とは異なります。一週間は完全に全国ニュースのトップでしたし(North Westのローカールニュースでは、今でもトップ)、警察のトップがしばしば登場し、全力を尽くして犯人発見・逮捕に努力しているかを縷々説明すると伴に、情報提供を訴えています。一般市民は被害者宅に、お悔やみの言葉を書いたカード添えた花束を捧げに続々と訪れ、警官が整理に当るほどです。また、少年はプロフットボールチームの下部組織のメンバーだったこともあり、キャプテンがTVに出演し情報提供への協力を訴えました。さらに、週末のゲームには両親が招待されグランドに選手と伴に並び、オナーがこの試合を彼への追悼試合にすることを宣言するとともに、さらなる情報提供を呼びかけました。
 警察の捜査も細微を極め、練習していたフットボール場に、横一列に膝間づいて並んだ、作業服姿の警察官が、当に“芝の目を分けても”の姿勢で匍匐前進しています。近くの草むらでも別のグループが、池にはアクアラングを付けたフログマンが、物的証拠を発見すべくそれぞれの持ち場で頑張っています。これによって、直接犯罪とは関係なかったようですが、2丁の拳銃が発見されています。
 動機不明の、少年による銃器を使った年少者殺人。其処此処で起こる類似の事件の中でも、被害者の年齢、場所(他は、繁華街、逆に人通りの少ない場所、車中など)などからこの種の事件の中でも、何故彼が?健全なスポーツのグランドで?と、格別の社会問題として注目されています。
②中年パパの死
 これよりさらに一週間前になりますが、マンチェスター郊外住宅地で、中年の父親が、深夜自宅付近で騒いでいた少年たちを諌めたことから、事件が起こっています。やはり銃器による射殺です。優しそうなお父さんの写真が、毎日映し出され、犯行情報の提供を呼びかけています。監視カメラ社会の英国ですから、この種の行動は一部映像として捉えられているのですが、犯人特定に結びつくところまでは行っていません。少年たちが住宅に向かって物を投げつけ、窓などに当るシーンが映し出されています。自転車でやってきたり、車を近くに置いてこのような騒ぎを起すので、警察がやってきた時には既に何処かへ消えてしまっている。こんなことが全国で、頻々と起こっているのです。そしてこれには飲酒が深く関わっているのです。

 さて、以上はTVで報じられている事件の概要です。少年、飲酒、銃器、殺人。これらを結びつけて、飲酒が問題、銃器が問題と論じていますが、英国人もこれは表面に表れた結果であり、問題の本質はもっと深い所にあると思っているでしょう。統計によれば、11~15歳の飲酒癖は27%を超えています(別のデータで、Children;年齢帯不明の、一週間の飲酒量5パイント;大体大ジョッキで5杯と言うのもあります)。ドラッグも17%を超えています。何故こんなに荒んだ生活を少年達が送るようになったのでしょう?
 (Maurice)Kirby教授夫人、Barbaraは保護司をしています。最近は頻繁に警察からお呼びがかかるそうです。罪を犯した少年(少女)の親代わりをさせられることが多いそうです。「親はどうしているんだい?」「そこが問題なんだ!片親しかいない子が多くなってきているんだ。特に、シングル・マザーの子がね」「母親は働きに出ているため、警察に来られないんだ。それでBarbaraが代理をするんだよ」 英国経済史が専門のMauriceは、正確な年代を刻みながら、結婚年齢の変化(晩婚化)、正式婚姻関係でないカップルの割合(パートナーと称する)の増加、大学進学率の増加(彼の時代は同年齢層の6%、現在は40数%)、女性の自活割合、離婚率の飛びぬけた高さなど、これらと深く関係する家庭崩壊の歴史を語ってくれます。さらに、この背後にある、各政権の労働政策、教育政策、産業構造の変化に及んでいきます。「製造業の衰退は80年代に始まったというのが通説なんだが、実際は60年代から始まっていたんだ」「英国病イコール製造業の衰退なんだ」 彼の言わんとするところは、労働党と保守党のあまりにもかけ離れた産業政策に翻弄され、長期的視点を欠く企業経営・組合運営が個人の経済基盤を不安定なものにし、供稼ぎ・パートをせざるを得なくなり、家庭を確り維持できなくなって、子供たちが荒れてくる、と言う論理なのです。
 今度の刑務官ストについても、「現業公務員の生活は確実に厳しくなって来ている」「刑務官や警察官にはストは認められない代わり、経済情勢を勘案した一定の賃上げが約束されている。刑務官の場合、今年は2.5%なんだ。既に1.5%は引き上げられており、残り1%は10月に行われる」「しかし、最近の政府発表インフレ率は3.5%で、2.5%では実質賃下げなんだ。彼らはこれに抗議しているんだよ」「保守党時代を含めて、15年続く好況などといわれているが、実態は下にしわ寄せがきているんだ」「これに金利引き上げが加わり、彼らは家も持てなくなってきているんだ」(こんな親を見て育つ子供たち、特に片親の、がまともに育つには難しい時代なんだ!)彼に妙案があるわけではありませんが、ここまで掘り下げれば、飲酒や銃器取締りで事態が改善されるわけではないことが、少し具体的に分かってきました。

2)誤爆戦死者
 ブレアの引退、ブラウンの登場の背景には、イラク戦争およびアフガン紛争があります。経済政策は先ず先ずだし、社会改革(教育、医療など)もまだまだ途上です。しかし、確実に二つの戦争に対する厭戦気分が高まっています。特に、イラク戦争への参戦はブッシュ同様核兵器開発に関する誤情報を基にしており、訪英前から問題になっていました。その意味では、既に退陣のシナリオは出来上がっていたのです。
 イラク戦争について、アメリカは、英国の戦略が専ら守勢にあることに不満を表明していますし、英国は、アメリカの政策は破綻したとまで現役の司令官が英マスメディアに語るところまできています。しかし、日常の報道は、このような国家化戦略に絡むものより、派兵されている個々の兵士の動向、特に戦死者に焦点が当てられたものが圧倒的に多く、同情をもって丁寧に紹介されます。相手がゲリラでは、勇ましい決戦の勝利など全く無いわけですから、長く続けば“何のための戦争か?”と言うことになります。
 そんな中で、3週間前アフガニスタンで、アメリカ軍の攻撃ヘリコプターが英陣地をタリバンと間違え誤爆し、3人の若い英軍兵士が戦死しました。国防当局や軍事専門家は、アフガン戦場の難しさ(敵味方支配域のいりくみ、敵味方識別の難しさ)や攻撃ヘリの運用などの面から解説を試み、暗に“不可抗力”に近い状況であるかのような言い方をしていました。しかし、メディアや一般市民は当然それでは納得しません。連日戦場管理のトップの問題、アメリカとの共同作戦の是非、さらにはアフガン参戦への意義を問う方向に報道がエスカレートしていきました。そしてその先には、イラク戦争も含めた国際紛争に関する国策の見直しまで見えてきたのです。
 問題の重要性(深刻さ)を素早く察知したブラウンは、直ぐアフガニスタンに飛び、現地政府や派遣軍に、アフガン紛争解決の重要性とそれへの英軍の協力を表明、その行動が国内世論に微妙な変化を与え、感情論先行を抑える方向に向かってきています。
 ブラウンは就任後間もないので、性急な評価はできませんが、危機管理能力に優れ、姿を見せるべき時と場所を心得、課題対策について“自分の言葉で語っている(党内の意見集約や官僚に頼らず)”との印象を強くしています。

 参議院選挙での自民党敗北で、テロ対策特別法案の継続是非が大きな問題になっていることは、このレポートをお送りしている先輩から詳しく国内動向に関する情報をいただいています。ブレアからブラウンへの政権交代は、同じ労働党内の出来事ですから、政策は基本的に継続されることで、日本とは事情が異なることは承知しています。しかし、去っていったブレアに責任を全て負わせ、国内世論に迎合し、保守党の攻撃をかわすため別の選択肢を選ぶことも可能だったはずです。総選挙の洗礼を受けていない首相だけに、票を睨んだ言動があってもおかしくない状況下でのアフガン行きは、ブラウンが国際問題にきちんとした見識を持つ指導者と評価できる行動だったと思っています。
 テロ対策特別法案は、アフガン紛争対応で出来上がったものです。イラク戦争とは違い、ここではドイツ・フランスも共同戦線を張っています。“国連のお墨付き”だけを意思決定の判断基準にするような他力本願では、世界をリードする役割を担える国家として認めてもらえません。熾烈なグローバル・パワーゲームを、如何に勝ち抜くか?したたかな発想・行動が鍵です。国際問題を、国内の政争の具にするようなことのないよう願っています。

3)ダイアナ妃10周忌
 今年はダイアナ妃が亡くなって10年目になります。7月には彼女が支援していた、小児病に関する活動を記念するチャリティーショウが開かれ、大勢のエンターテイナーが参加していました。ダイアナ人気は今も衰えず、パリでの事故の日が近づいた昨今TVでも盛んに回顧場面が放映されています。住いの在ったケンジントンパレスや墓地は献花や写真などが溢れるほどです。そんな中で、公式の追悼式が8月31日(金)ロンドンのチャペルで、執り行われました。BBCはこれを11時から1時の2時間にわたって実況中継を行いました。そのあらまし、トピックスをお伝えしましょう。
 場所はロンドン市内の近代的なチャペル(小教会;名前は失念しました。後でわかったことですがこの教会は英陸軍のものだと言うことです)です。元々は歴史のあるもののようですが、第二次世界大戦時のロンドン空襲で爆撃に会い焼け落ち、戦後再興されましたが、昔の姿を留めるのは、正面奥祭壇・説教壇後部にある壁に削り込まれるように彫られた半円柱とドームの部分だけだそうです。全体に白の基調で、清楚で明るい感じが彼女を偲ぶ場所としてピッタリでした。チャペルですから収容人員も小規模で、200人程度が座れる大きさです。祭壇(と言っても別に写真などがあるわけではありません。通常の教会の祭壇です。周りには淡い色のばらが沢山飾られていました)の背後は前出の半円柱とそれに繋がる半球ドームで、その部分だけ金色の彩色が施されています。祭壇から出入り口に向かい、左右にベンチ上の椅子が2列に並んでいます。
 11時から始まった中継は45分頃まではチャペルの内部の紹介、付近の情景や、関係者の思い出話、室内楽団の演奏などに費やされましたが、45分頃にウィリアムズ王子、ヘンリー王子(通称;ハリー)が到着すると彼ら二人は入り口に立ち、到着する人々と挨拶をしたり、頬を寄せ合ったりしています。既にブラウン首相は先に到着しているところを見ると、二人より後から来る人達は、王室関係者、特に近親の人達でしょう。
 やがてチャールス皇太子(プリンスオブウェールズ)の到着です。彼は一人でやってきました。カミラ夫人は同行していません。BBCが行ったアンケート調査によれば、参加すべきでないが50%台、参加すべきは30%台でした(こんなに多いのに驚きましたが)。父子は入口で和やかに話し合っています。皇太子が、今日追悼のスピーチを行うハリーに何か言うと、ハリーはポケットのあちこちを探り、やがて何やら原稿らしきものを取り出し、三人で笑っています。
 55分頃いよいよ女王陛下のご到着です。沿道から拍手が沸きあがります。先ず、女官、ついでフィリップ殿下、最後に降り立ったエリザベス女王は明るい紫尽くめのいでたちです。何故かこの時“ロンドンデリー”の演奏が始まります。皇太子、二人の王子に迎えられ、やがて皇太子を真ん中に左右に二人の王子が先頭、二列目が女王陛下とフィリップ殿下、起立してお迎えする参加者の間を最前列まで進みます。席次は、祭壇から見て右側が女王家、左側はダイアナ妃の出身家、スペンサー伯爵一族です。二人の王子がそれぞれの通路側に着きます。ウィリアムが女王側、ハリーはスペンサー側です。ウィリアムズの隣は女王陛下、ついでフィリップ殿下、最後が皇太子です。
 左側は、ハリーの隣にダイアナ妃の姉、次いで兄が着きます。ブラウン首相は右側の3列目か4列目でした。
参加者の服装はまちまちで、男性はほとんど背広、必ずしも黒一色ではありません。ネクタイも黒タイは皆無です。シャツがカラーのひともいます。二人の王子も濃紺のダブル、ネクタイはエンジと黒のストライプのお揃いです。
女性は帽子が目立ちます。女王は服と同色のつばつき帽子です。若い女性の中にはベレーもいます。彩りは男性に比べはるかに華やかです。これが普通なのかどうかは分かりませんが、上品で華やかだったダイアナ妃に相応しい雰囲気が醸し出されています。
 牧師の開会宣言、合唱隊による賛美歌。声変わりする前の少年合唱隊の美しいボーイソプラノが際立ちます。
ウィリアム王子が演壇に立ち、一礼して聖書の一節を朗読します。再び賛美歌です。次に演壇に立ったのはダイアナ妃の姉です。やはり聖書の一節の朗読です(大変険しい表情でした)。終わると、また賛美歌です。
 ここで真打登場です。ハリーが演台に上がります。女王の方に一礼して、語り出します。母が如何に自分たち家族を愛していたか、人々から愛されたかを簡潔に、しかし心をこめて話していきます。ここで少し気になったのは、“父を愛し・・・”の表現に“Love”ではなく“Like”を使ったことです。離婚の原因が皇太子側にあることは衆知のことであるが故の言葉の選択かどうだったのか?特別な意味など無いことなのか?英語に堪能でもなく、この国の仕来たりも知らない私に真相は不明です。
 この後の僧正(ビショップ)の説教も彼女の徳を称えるものでしたが、極めて分かり易く、アメリカでの彼女の人気などを援用して、坊主の説教らしく無いのが印象的でした。
 皆で賛美歌を歌った後(沿道・公園に集まった人達も唱和)、彼女の好きだった歌(メロディーはよく知っているのですが、題目を知りません。SailingとCountryが入っているのですが)が演奏され、皆で唱和します。最後は国歌で終わりました。女王陛下のご退場です。丁度1時でした。

 ダイアナ妃の人気は、王室(除く女王陛下)の不人気と取れないこともありません。お歴々が到着する際の、群集の拍手がそれを確実に表しています。拍手があったのは、二人の王子と女王の到着時しか聞こえませんでした。愛されてはいるが尊敬はされていないのではないか?そんな疑問も浮かぶほどです。
 この国の王たちの歴史を辿ってみれば、女性関係のトラブルだらけです。英国国教会からして、カソリックの法王から再婚を認めらなかった(破門)ヘンリー8世が作り出したものなのです。近いところでは、離婚経験のあるアメリカ女性を妻にし、王位を放棄したウィンザー公の例もあります。人間的には正直な行動ですが、尊敬は無理ですね。
 もう一つ“王室の尊敬”に関わることで気になるのは、“今の王室はドイツ人だ”と言う見方があることです。ヴィクトリア女王の夫君、アルバート公はドイツ人でしたし、フリップ殿下はクーデターで倒れたギリシャ王室の出身ですが、ギリシャ王室そのものがギリシャ人ではなくドイツ系で出来ていたことです。この考え方は当地に来てから知ったことで(アルバート公がドイツ人であることは知っていいましたが)、充分消化できていないのですが、興味深い見方です。
 最後に、もともとこの国は4カ国なら成る連合王国です。本来別々の王家があったものを、現在の王家が代表することになったわけですから、気配りも4倍必要なわけです。自分の感情の趣くままに生きることが、許される環境ではないのです。

以上

2009年1月12日月曜日

篤きイタリア-4

5.ルネサンス発祥の地;フィレンツェ

(写真はダブルクリックすると拡大できます)

 ヴェネツィアのサンタルチア駅を発してフィレンツェに向かう列車は10時43分発のユーロスターにした。フィレンツェ、ローマを経てナポリまで行く、典型的な観光列車である。
 あの「旅情」では、確か電気機関車に引かれる列車からキャサリン・ヘップバーンが窓から身を乗り出しで、ロッサノ・ブラッツィに手を振るシーンがあった。ユーロスターでは窓は開かないし、別れを惜しむ人もいない。
 先にも書いたように、国内移動は全て鉄道としユーロスターかインターシティの一等を手配した。しかし、ヴィチェンツァからヴェネツィアでは、ホームの案内板に描かれた車番順序(最終車両が1号車)と完全に反対になった編成でやって来たため、1号車を待っていた我々の前に来たのは最終番号車(確か10号車)の普通車だった。幸いガラガラに空いていたのでそのままヴェネツィアまでこの車両で行った。
 そんな訳で、ここヴェネツィアから乗る列車がユーロスター初めての一等車である。ユーロスターの一等車は、コンパートメント形式ではなく、通路を挟んで片側が4人のボックスシート、反対側は二人向かいあわせシートになっている。率直に言って、シートやインテリアは新幹線のグリーン車の方が一等車らしい。我々の席は4人掛けボックスシートの通路側だった。
サンタルチア駅を発した時には、二人席は仲間らしい二人の中年男性観光客が占めたが、4人席の窓側は空席だった。やがて内陸側の最初の駅、メストレへ着くと我々と似たような年恰好の白人カップルがやってきた。どうやら夫婦らしい。口数は少なく、それも静かな語り口。今度の乗車時間は3時間弱ある。長時間の同席者として好ましい。
 メストレそしてミラノ方面への分岐点、パドヴァで比較的長い時間停まったので、パドヴァを出た時には既に11時をまわっていた。検札の車掌が行き過ぎると直ぐに、昼食の注文取りがやってきた。食堂車でのきちんとした昼食のようだ。二人組み男性客はそれを注文したが、相席のカップルは何やら話してやめにする。どうやら食事持参のようだ。我々もフィレンツェ到着が1時半なので、予めサンタルチア駅のビュッフェで、ホットサンドウィッチと飲みものを用意しておいたのでパスする。隣が食べ始めたらこちらも始めようと思っていたが、なかなか始まらない。到着時間が気になるので一言「食事をしてもいいですか?」とことわってお先に始める。
 ヴェネツィアからフィレンツェへの路線はイタリアの背骨、アペニン山脈を横切る。ここではさすがのユーロスターもスピードが落ちる。その分周りの景色を堪能できる時間が増えることになる。食事を始める時の挨拶でこちらが英語を話せると分かったこともあり、「紅葉がきれいね」と言うようなことから隣の夫婦と会話が始まった。聞けばアイルランドのダブリンから来た引退者とのこと。「アイルランドには行ったことはありませんが、昨年は半年英国に滞在し大学で勉強していました」 これで先方はもう一歩踏み込んできた。「どんなお仕事だったんですか」「石油会社のエンジニアでした」「あら、主人は鉄道関係のエンジニアだったのよ」「そうでしたか。子供の頃は鉄道技師が夢で大学では機械工学を専攻しました」「私の専攻は電気工学です」 しばし似た者同志の穏やかな会話が続く。
 分水嶺のトンネルを抜けると列車は一気にスピードを増し、トスカーナ平原をフィレンツェへと快走する。ローマ観光のあとフィレンツェに戻ると言う彼らを残しサンタ・マリア・ノヴェッラ駅で別れる。

<ルネサンス遺産> 到着時間は午後1時半。秋の陽光だが眩しいくらい明るい。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェッリ、彼等を支えたメジチ家。闇を光に変えた200年(14世紀~16世紀)がここに詰まっている。
 ホテルはアルノ川に架かる有名なヴェッキオ橋の袂に在るエルミタージュホテル。手ぶらなら歩けるくらいの距離だが荷物があるのでタクシーにした。イタリアに来てはじめて乗るタクシーである。車は荷物の積みやすいフィアットのバンであった。少し回り道をしたようだが、これは旧い町の通りがほとんど一方通行であるため止むを得ない。車を橋の袂のカフェテラスの前で停め、運転手が荷物を降ろしながら「そこの角を曲がった所です。看板があります」とカタコト英語と手ぶりで教えてくれる。車が入れない通りなので、言われたとおりスーツケースを引きずってそれと思しき所まで行くが見つからない。直ぐ先にまた曲がり角があるのでそこまで行ってみるが、ホテルの入口などない。もう一度始めの曲がり角へ戻り建物の銘版をチェックする。直ぐ傍の入口が開いており階段が上に続いている。入口の年代物の灰色の石版の銘版をよく見ると“Hermitage”と読める。入口には何も無くただ階段だけ。重いスーツケースをもって階段を上がると、そこにエレベーター・ホールがあった。1台きりの呼び出しボタンを押すがエレベーターは来ない。押しボタンの横に何故かテン・キーのボタンがある。階段を上った踊り場に“フロント;5F”とあったので“5”を押してみる。何も変わらない。モタモタしていると、やがて上からエレベーターが下りてきてドアマンのような男が降りてきたので「これはホテルのフロントへ行くのか?」と聞くと「そうです。5階です」と言って階段を下りていった。5階にはガラス戸(このガラス戸は受付の居る時間だけ開けられている)で隔てた部屋があり、机に置かれた電話で話をしているおばさんが一人居るだけ。電話が終わるのを待って来意を告げると、部屋と階段下玄関(玄関は10時に閉まるので)のキーをくれ、その際エレベーターの暗証番号を教えてくれた。あのエレベーター・ホールにあったテン・キーは、宿泊客がエレベーターを呼び出すためのものだったのだ。部屋は旧いヨーロッパスタイルで天井が高く家具等も質素だが、明るく清潔で、アルノ川とヴェッキオ橋もチョッと見えるところが良い。
 その日の観光は2時半頃から始めることになった。翌日の半日観光で予定されていない、ホテルから近いウッフィツィ美術館を重点的に見ることにした。美術館の外回廊は長蛇の行列。待ち時間は“1時間”とある。別にやることも無いので行列に並んでいると30分位で入ることが出来た。時間が少し遅いのが幸いしたようだ。展示物については専門の案内書に譲るが、書籍の写真などで目にした作品が多々あり、それらを見ると感動よりもついホッとしてしまう。知識だけの教養(?)を脱しきれないわが身が情けない。それでもボッティチェッリの「春」や「ヴィーナス誕生」などはそれまでの宗教色の強い絵画に比べ明るく自然で、新しい時代の到来を感じさせてくれる。言葉でそして知識として知っていたルネサンスがここでは現実のものとして理解できる。
 さて美術鑑賞はこれで終わり、ウッフィツィ美術館そのものを少し紹介したい。この美術館の名前“ウッフィッツ”はラテン語のオフィスと言うことで、この建物は16世紀半ばに建てられた、当時の行政府用オフィスである。形は長いコの字型で3階建てだが天井の高さが極めて高い。絵画の展示は3階が主体である(2階にもあるがここは最近ギャラリーになった所)。当然エレベーターはないのでこの3階まで石の階段を上るのだが、これが何ともきつい。そのため現在外付けのエレベーターを取り付けるための大掛かりな工事が行われている。コの字型の外側が区切られた展示室(昔はオフィス)内側は広くて長い廊下である。この廊下はヴェッキオ宮(旧宮殿)とアルノ川を隔てたピッティ宮(新宮殿)に至る長い回廊の一部を成しており、ヴェッキオ橋上屋を経て新宮殿に至る。この回廊をあのヒトラーも歩いている。
 この日(10日)はこのあとウッフィッツ美術館やヴェッキオ宮のあるシニョリーア広場のカフェテラスで一休みして、さらにドオーモ、メジチ家が寄進した教会;サン・ロレンツォ教会の周辺を散策、さらにヴェッキオ橋を渡って川向こうへも出かけ、再びシニョリーア広場に戻って、オープンレストランで夕食とした。とにかく何処も大変な人数の内外観光客で、レストランには日本語のメニューがあった。

<老体鞭打つ徒歩ツアー> 翌11日の午前は市内の徒歩ツアーである。鉄道駅に隣接したバスセンターの待合室に集まった日本人は10人足らず、若いカップルがここでも多い。案内してくれるのはUさんという大柄な日本人女性ガイド。コースはメジチ家のライバル、ストロッツィ家の教会;サンタ・マリア・ノヴェッラ教会→ブランドショップが並ぶトルナプオーリ通り→共和国広場→シニョリーア広場に至りウッフィッツィ美術館、ここまでの建物は中に入らず外側から眺め、説明を聞くだけだ。この後嘗てフィレンツェ共和国の政庁であったヴェッキオ宮の中を見学する。市民会議が開かれた大広間にはミケランジェロの彫刻もある。ここは現在も市役所として使われている。13世紀の建物に国宝級の美術品が置かれているような場所が、現役として利用されるなどイタリアならではの感があった。ここを見た後はヴェッキオ橋を見学、そこから中心部に戻ってドオーモの内外を見学した。ドオーモはミラノでも内部を見学しているが、ミラノに比べるとここは装飾的でなく質素な感じがする。ドオーモの前にはフィレンツェ最古の聖堂建造物と言われる洗礼堂がある。
 ここでグループ徒歩ツアーは終わるのだが、ガイドのUさんは昼食の場所やボッタクリ注意のジェラード(アイスクリーム)屋など、それ以降の行動に役立つ情報を与えてくれた。私もお土産に関して有効な情報をもらうことが出来た(後述)。
 昼食までには少し時間があったので、ドオーモの中心クーポラ(ドーム部分)の外側にある回廊に上ることにした。なんせ15世紀の建物である。上るには階段しかない。それも500段近くある。北側の入口から長い行列が延々と続いている。行列に並ぶ時、前の黒人男性に英語で「これが行列の最後か?」と確認した。それがきっかけで彼と会話を始める。彼はカナダ人で、仕事でこの方面に来たついでに休みを利用してここに来たという。彼もイタリア語はダメらしい。そうこうしていると後ろの集まってきた若いアメリカ人と思しきグループの一人が「英語は話せますか?」「ええ少し」「ここは行列の最後ですか?どのくらいかかりますかね?」 あとはカナダ人が引き取ってくれた。やっと中に入ると今度は階段登りが堪える。途中で若い人に先を譲りたいが、なかなか十分なスペースのあるところへ出ない。難行苦行である。最後に表へ出るところは階段ではなくはしご。一方通行である。それでも苦労して上った甲斐はあった。好天の空の下、フィレンツェの町が360度見渡せる。オレンジ色一色の花畑である。
 昼食はUさんが別れ際にいくつか教えてくれた中の、ドオーモ近くのパスタ屋に出かけてみた。何と入口近くの席に、Uさん他何人かの日本人女性ガイドが食事中だった。ここで生活している人が利用する店に不味くて高い料理などあるはずが無い。ビールとピッツァで午後への鋭気を補給した。
 午後先ず出かけたのは、トスカーナに君臨し、法王まで出したメジチ家の礼拝堂とそれに接続するサン・ロレンツォ教会。色の違う各種の大理石で装飾された“君主の礼拝堂”。広々した空間に石造りの棺がいくつも置かれて、往時の権勢が偲ばれる。これに続く“新聖具室”と呼ばれる正方形の霊廟はミケランジェロの作で、部屋ばかりでなく墓碑の彫刻も彼の作品である。王家の廟所は英国のウェストミンスター寺院、クレムリンにあるロシア・ロマノフ家のものを見ているが、棺の大きさ・配置・空間のバランス・内部装飾どれをとってもここには敵わない。ルネサンス発祥の地と周辺国の文化度の違いなのであろうか?
 この後並ぶのを覚悟で、ミケランジェロのダビテ像で有名なアカデミア美術館へ出掛けたが、午後も遅かったせいか15分くらいの待ち時間で中へ入れた。見ものは唯一つ、ダビテ像である。他の見物客も概ね同じで、小さな美術館はここの周りだけ込み合っている。まるでギリシャ彫刻のようなあの若々しく清潔な力強さは、美術に特別な関心がない者にも、自然に「美しい」と感じさせるものがある。これは木彫や金属の彫像に比べ、大理石の明るさ・経年変化の少なさによるのかもしれないが、それ以上に作者の若さ(ミケランジェロ26歳の作品)がもたらしたものと見たい。伝説上のダビテは巨人ゴリアテを倒して王になるのだが、この像は当時共和制だったこの地方を王家の支配に置こうとする動き(メジチ家)に立ち向かう象徴として、共和制支持者だったミケランジェロが作りあげたものであるという。後年メジチ家の霊廟を作ることになったとき彼はどんな思いで仕事をしていたのであろうか?
 これで名所巡りはアルノ川対岸のピッティ宮を除いて終わった。まだまだ見所は多々あるのだが、お土産を求めたり残りのピッティ宮見学の時間を考えるとこれが精一杯だった。
 午前中のツアーの別れ際に、ガイドのUさんにお土産について質問をした。一つは孫のためにピノキオの操り人形を求めるのは何処がいいか?これは前日の夕方ピッティ宮広場まで行った帰りに、沢山ピノキオを揃えた店があったのだが、気に入った一品は糸が切れて結んであり、それ以外に手持ちがないと言うことであきらめた経緯があった。Uさんにそのことを話すと「ピノキオだったら私もあの店が一番と思っていましたが…」との答え。何処でも見かけるお土産なので「無ければローマでも」と思っていたところ、幸いダビテ像を見たあと、ドオーモを経てピッティ宮へ向かう途上、何の変哲も無い雑貨屋の店先に求めたいと思っていたピノキオがぶら下がっており、手に入れることが出来た。

 もう一つは自分のもので、ドライブ用の皮手袋である。イタリアへ来る前はファッションの都、ミラノで求める算段にしていたが、マネルビオ行きが入り買い物の時間が全く無かった。前日街を歩いていると、ある洋品店でそれらしきものを見かけたが、専門店があるのではないかと思い求めずにいた。Uさんに「皮手袋の専門店はないか?」と問うと、「それならいい店があります。ヴェッキオ橋を渡って少し行った左側に“マドバ”と言う製造会社の販売所があります。種類も豊富で、サイズなど丁寧にチェックしてピッタリのものを探しくれます」とのこと。早速出かけてみると、“MADOVA”と言う小さな店だが当に専門店、壁一面の棚はサイズやデザイン別に小分けされ、そこにビッシリ手袋が並べてある。カウンターの上には二本の棒が交差して角度が変えられる、何やら手のサイズを測る物差しのようなものがある。「ドライビング・グラブはありますか?」「ありますよ」指先まであるのが3種類、手先をカットしたものが2種類カウンターに並べられた。「ドライビング・グラブは大・中・小のサイズしかありません」 他のグラブはサイズがもっと小刻みになっているようだ。試着をしてみて、柔らかい子牛の皮で出来た、手の甲の側が明るい茶色・手のひら側がこげ茶の、指先をカットしたものを求めた。
 店にはもう一人英語を話すおばさんが買い物をしていた。私が試着しているのを見て「あの手袋は何なの?」「ドライブする時にはめる手袋です」と他の店員とやり取りしていた。私が自分用のものを決めて、支払いをしていると「あなたのおかげで息子に良いお土産を見つけられたわ」とお礼を言われた。
 このあと最後の観光スポット、ピッティ宮へ出かけた。もう時間は4時過ぎ。見学終了時間は5時までなので、切符売り場で「1時間しかないけれど、いいですか?」と念を押される。ヴェッキオ宮が建物だけで中庭以外庭園が無いのに対して、ここは庭園が売り物。とても全部は廻り切れないのは承知で入園する。入口のおじさんに「駆け足で廻っておいで」と送り出される。庭園の頂上部から西日に照らされた美しいオレンジ色のフィレンツェが一望できた。これだけで入園料を十分取り戻した。
 長い徒歩観光の一日はこうして終わった。老体にはキツイ一日だった。

<恨みのTボーンステーキ> 旅行の楽しみの重要な因子に食がある。決してグルメ志向ではないがその土地の名物を味わいたい。イタリアでは各種パスタは当然として、それ以外にミラノにはカツレツ、ヴェネツィアはシーフード、そしてフィレンツェには牛の胃袋の煮込みとフィレンツェ風ステーキ(Tボーンステーキ)があることを事前調査で知った。ミラノ風カツレツはミラノでゆっくりディナーを取るチャンスが無かったものの、マネルビオのディナーで味わうことが出来た。ヴェネツィアのシーフードは例の“めざし”でがっかりさせられた。
 フィレンツェには胃袋、ステーキ以外にも秋はジビエ(野鳥・野獣)料理も名物らしい。そこで離日前先ずジビエの可能性をMHI社に聞いてみたところ、確かに山が近いフィレンツェではジビエを食する所があるが、それは街中ではなく、行き帰り車をチャーターして郊外まで出かけねばならないと言う。これはチョッとそれまでの旅の様子が分からないので止めることにした。胃袋かステーキか?胃袋ではないが牛の煮込み料理はサンドリーゴの昼食で一度体験している。今夜はステーキにしよう。長い一日の市内徒歩観光のあと、一休みし夜の帳が降りる頃そう決めてホテルを出た。こんな時いつもならコンシュルジかフロントに適当な店を教えてもらうのだが、このホテルのフロントは宿泊階の上にあり、しかもガラス戸の向こうにおばちゃんが一人と言うような所なので、行き当たりばったりで探すことにした。昨晩もこの調子でまずまずの夕食を楽しめたから今夜も何とかなるだろう。これがケチの付はじめである。
 昨晩と同じシニョリーア広場は避け、今朝のツアーで出かけた共和国広場に何件か屋外にも席があるレストランが在ったので、そこへ出かけてみることにした。店の前に置かれたメニューや客の入り具合をチェックしながら適当な店を探し、ダークスーツを着たウェーターに案内を求め席に着いた。ここまでは特に問題は無かった。しかしなかなかメニューを持ってこない。案内役と注文取りは別の担当になることが多いのだが、案内してくれたウェーターが一人で動き回っている。こちらが待っているのを横目で見て「チョッと待ってください」と言うような動作をするのだがこちらの席まで来ない。それでも大分待ってやっと英語のニューを持ってきてくれる。メニューは入口で確認してはあるが、眺めるのも楽しみだ。前菜、パスタ、ステーキ、ハーフボトルの赤と決めてオーダー準備完了で待つのだが、一人増えたウェーターも席には来てくれない。客は次々入ってくるがこの対応も間に合わず、入口で帰ってしまう客もいる。
 最初に案内したウェーターはこちらがイライラしているのに気がついている。やがてさらに一人、赤い上着にエプロンをしたウェーターが加わり、彼が笑顔を浮かべながら注文をとりにやってきた。「これでやっとありつける!」 ワインは直ぐに供された。悪くない!しかし、前菜は現れない。どうもピッツァのような定番料理と飲み物は比較的早く持ってこられるが本格料理は遅いようだ。イライラしているのは我々だけではない。隣の席に着いた英語を話す中年女性の二人連れが「これ以上待てない」と言うように口をへの字に曲げて両手を広げて席を立つ。しかし、別の席に着いた、これも観光客らしい老夫婦のところへ例のステーキが運ばれてくるのを見ると如何にも美味しそうだ。「もう少し待てばあれにありつけるんだ!しばしの我慢だ!」 しかし期待は外れ相変わらず何も来ない。とっぷり日の暮れた中でイライラは我慢の限界を超す。赤い上着のウェーターは甲斐甲斐しく動き回っているが、何とか彼の目を捉えて席に呼び「ワインがきてから30分を越すのにあとは何も来ない!もう待てない!ワイン代だけ払うから精算してくれ!」「もう直来ます。待ってください」と言うような態度だが「とにかく伝票もってこい!」 渋々レジに行き伝票を持ってきたウェーターに勘定きっかりの金を渡し席を立った。恨み骨髄のフィレンツェ風ステーキ始末記である。
 この後別のレストランに入ったがここでは魚料理を薦められた。しかしヴェネツィアの魚料理に懲りて、ビールと前菜、パスタだけにした。隣席のご婦人の美味しそうな魚のムニエルを見てヴェネツィアの“めざし”の恨みが重なった。