2011年9月29日木曜日

決断科学ノート-90(大転換TCSプロジェクト-27;和歌山工場導入-1)

 次世代プロセス制御システム、TCS(Tonen Control System)について、システムそのもの(道具)の話が長く続いた。ここからは話題をその利用面に転じていきたい。
 1962年に入社して7年少々和歌山工場に勤務した。当時の東燃にあっては川崎工場が最新鋭であったが石油精製に関しては石油化学への原料供給部門の色彩が強く、精製の主力は依然として和歌山にあった。人材も豊富で錚々たるメンバーが揃っていた。プロジェクト計画が立ち上がると、大小に関わらず「こんどはどんな新しい技術があるんだ?」と部課長に問われたものである。しかしこう問いかけるからと言って、新しい技術ならばすんなり受け入れられるわけではなく、その効用を厳しくチェックされるのが常だった。焼き入れ焼鈍しを繰り返し、何度も叩かれてプロジェクトも人も鍛えられる。そうして実現した一つが初代のSPC(Supervisory Process Control;主に高度なプラント制御で利益を生む)/DDC(Direct Digital Control;比較的単純な制御を専用コンピュータだけで行う)システムである。
 この初代システム導入でプロジェクトエンジニアを務めた者として、外野(川崎工場)に在っても、もう一度チャンスがあればあれもこれもとの思いは多々あった。進歩の早い情報技術 に携わっていればいくらでも“新しい”夢は膨らむものなのだ。しかし、現実は二度の石油危機を経て和歌山工場の歴史の長さと相俟って予想以上に厳しい状態に置かれていた。「今度は何が新しいんだ?!」は道具そのものではなく、専らその使い方を徹底追究する視点に変わってきていたのである。それも工場の若手を鍛えるのではなく、経営者・管理者が自らに問いかける課題としてである。
 どこの製造業でも同じ目的・形態の工場が複数あるとその比較が行われる。工場経営者・管理者の成績表とも言える。Exxonはそれをグロ-バルに行っている。エネルギー利用効率、人員数、保全費、連続運転時間、事故発生件数など比較項目は多岐にわたる。和歌山工場は安全では抜群の成績を長期に続けるなど優れた指標もあったが、省エネルギーや人員数では見劣りがしていた。古い工場ゆえのハンディキャップであることは本社やExxonも理解はしていたが、工場としては少しでもこれを改善したいと願うのは当然である。石油需要が飽和し、全面的な設備更新など考えられない環境下で、この次世代プロコンシステム導入を機に工場経営の改革・改善を期待する空気が一気に高まった。
 ポイントは二つ、プロセスクレジット(省エネルギーや収率アップなど)の更なる追求、人員合理化の徹底である。前者では、第一世代では大型で比較的容易に効率改善につながるプラントのみ行ってきたコンピュータ制御の対象を中小プラントにも広げ、かつ相互につながるプラントの総合的な効率を上げていくこと。後者では、多数散在する計器室を集約し、併せて運転体系を見直して合理化を図ることがその中心的なテーマとなった。しかもこれらを連携させ、さらなる相乗効果をも目論む。目指すのは“古い設備を使っての新しい工場経営”である。
 本来設備償却期限に達した設備の取替え予算は、新設と違いR&R(Repair and Replacement;修繕・取替え)の区分になり経済性はそれほど厳しく問われない。しかし、この和歌山工場の挑戦は単純なR&Rの範疇では片付かず、これを実現するには幾多の困難があったのである。

(次回予定;“和歌山工場導入”つづく)

2011年9月27日火曜日

道東疾走1300km-20;クロージング

 予定通り苫小牧港を7月11日18時45分に出港した“さんふらわあ・ふらの”は、ダイヤよりは若干早く翌12日13時30分大洗港に到着。途中の航海は往き同様穏やかなものだった。水戸大洗ICで北関東自動車道に入り、常磐道→首都高中央環状線→湾岸線と走り約3時間で自宅に帰りついた。

 私のドライブ旅行は、景色や名所巡り、グルメも関心事ではあるが最大の楽しみはクルマの“走り”にある。ただ幹線国道や自動車専用道路の、トラック輸送の流れに身を任せるような走行は単なる移動であって“走り”とはいえない。その点で今回の道東ドライブは本州のそれとは比較にならぬ楽しいものだった。先ず自動車専用道路はトンネルや掘割が極めて少ないので展望が開け快適だ。一般道も集落、交通量、信号が少なく、長い区間をマイペースで走れる。ベストは網走から美幌峠を越え、弟子屈から道道53号線で釧路湿原の西側を行くコース。起伏や曲がりも適度に在り人車一体感を心ゆくまで堪能した。次いで良かったのが日高富川から南富良野までの273号線。ここは“樹海ロード”とも呼ばれ、途中町と言えるのは占冠くらい、ほとんど無人の山中を行く。高くはないが峠越え(金山峠)も在るので、アクセル加減・ハンドル捌きに変化が楽しめた。平坦な道では、短い距離ではあったが、網走から小清水原生花園へのオホーツク海沿いの道も“最果て感”がなんとも言えなかった。

 アメリカの州は愛称を持つ。代表的な一例はニューヨーク州の“エンパイア・ステート(帝国州)”だろう。その南隣、ニュージャージは“ガーデン・ステート(庭園州)”と呼ばれる。有名な庭園があるわけではないが、地域全体が庭園のようなのだ。それに倣えば、道東は差し詰めわが国のガーデン・ステートと言っていい。それは数多く存在する個々の庭園だけでなく、適度に起伏がありながら広々とした景観も楽しめる地形があるからだ。ただチョッと不満は、個人経営の庭園は規模が小さく散在していることで、全体と個のバランスを欠き、“ステート”と称するにはもうひと工夫必要と感じる点である。そんな中で割りと良かったのは十勝ヒルズとパノラマロードで、花々とそれに繋がる遠景の緑や山々の組み合わせが見事だった。
 旅の楽しみの大きな要素に“食”がある。最近、日本旅館を避ける傾向にあるのは、食事が種類・量とも多すぎるところにある(食糧難の時代に育ったので残すことに罪悪感を感ずる)。今回それを避けるために網走・釧路は宿・食を別にした。しかし、海の幸を楽しむための店の選択とオーダーを確り考えなかったので、ここでも“多すぎる”過ちを犯してしまった。奥の細道ドライブの酒田のように、地魚中心の鮨+αくらいで済ますべきであった。それに引きかえ、富良野のフレンチと新得のラム料理はいずれも質・量ともに満足できた。黒部・飛騨ドライブでも高山牛のフレンチが一番だったことを考えると、これからは洋風を中心に旅の計画を立てようかとも思っている。
 宿は全てホテル。リゾート(富良野)、ビジネス(網走、釧路)、ペンション(新得)と泊まったが、いずれもそれぞれの選択要件を満足させてくれた。ベストは値段もあるがフラノ寶亭留。この地を再び訪れる機会があったらやはりここを選ぶだろう。中高年齢向けの洗練された小ホテル(家族連れや若者グループが来ない)はこれからのニッチマーケットに間違いない。
 反省は“走り”と観光のバランスである。このシーズンこの地域に行くことは花や緑が目玉になる。私の好み、“走り”を優先したことによりこのバランスが崩れた。特に二日目の富良野から網走への行程は、計画段階から距離と時間に疑義を感じていたのだが、一応算出データに依ることにした。その結果富良野から美瑛の観光スポットを大幅に端折ることになり、最終日半日、再び駆け足で見て廻ることになった。本来なら富良野に少なくとももう一泊して、ゆっくり花と景観を愛でる時間を作るべきであった。
 全走行距離は1655km、満タンベースのガソリン消費量は142l、燃費は11.65km/lであった。これもまずまずの成績である。

 春に大震災で高野山から紀伊半島深奥部へのドライブ計画を中止、結果このドライブ行が実現した。船旅も含め大遠征だったが、“走り”と言う点で今までこんな楽しいドライブは無かった。来月には二番目の孫が誕生予定だから秋のドライブは諦めざるを得ない。今年はこのドライブ一つで終わるが、“走り”に関しては最も充実した一年となるだろう。
(完)

   ー 長期にわたり連載をご愛読いただき有難うございました ー

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2011年9月24日土曜日

道東疾走1300km-19;パッチワークの路

 パノラマロードは花人街道(237号線)の東側の農道をぬっている。次の訪問先、パッチワークの路はそれとは反対に花人の西側を走る。位置関係は後者が北になるので富良野からさらに遠くなる。パノラマロードの見所を訪ねた後、美馬牛駅付近を経由して237号線に戻り、しばらく北上して北西に向かう間道に入り目的地を目指す。前を走るレンタカーはヒュンダイ(韓国)製だ。
 ここも一本の路があるわけではなく、TVコマーシャルでいっとき話題になった“ケンとメリーの木(自動車;スカイライン)やマイルドセブンの丘(タバコ)などいろいろな“名所”に立ち寄りながら廻るのだが、パノラマロード同様地方道・農道をあちこち徘徊しなければならない。あとのスケジュールもあるのでそれほど時間に余裕があるわけではないので、その一帯で一番高いところにあると思われる“北西の丘展望公園”を目指すことにした。そこからならパッチワーク状に色彩が変わる畑地・牧地が一望できるのではないかと期待した。
 国道を離れて10分も走らぬ内に、丘の上に白いピラミッド状のモニュメントのようなものが見えてきた(写真上右)。やがて着いた丘の上には広い駐車場があり、七割くらい埋まっている。人気スポットなのだ。ピラミッドと見たのは展望台で、ここからの視界は360度開けている。全体的な景色は、先ほど訪れた三愛の丘からと同様、丸みを帯びた畑地が幾重にも続き、遥か先の山脈の麓へと繋がっていく。しかし、東は花人街道が走っているので結構建物が多く、それが南北に延びているので、今ひとつインパクトが弱い。一方西の方は意外と山が近く開放感を欠く(写真上左)。一言で言うと、雲が出てきたせいもあるが、パノラマロードを見た後では感動を覚えるような場所ではなかった。
 やはりこれはネーミングの由来通り路を走り、色彩の違いを楽しむところなのだろう。この時期ならば、緑の中に黄色(ひまわり)や白(じゃがいもの花)が整然と区切られ、あたかもパッチワークのような景観を作り出しているはずだ。しかし、展望台からはそれほど明確な色違いは見えなかった(写真右)。場所が適当でなかったのか?はたまたシーズンが悪かったのだろうか?最後の観光スポットとして満たされぬ思いが残る場所だった。
 12時少し前この地を離れ、あとは到着時走った道(237号線南行き)を戻り、占冠の道の駅で昼食を摂り、日高富川から日高自動車道経由で苫小牧港着は4時過ぎ、5時乗船開始だから丁度いい時間である。乗船する“さんふらわー・ふらの”は既に接岸していた。
 この日の走行距離は今回のドライブ行で最も長く325km、5日間の道内総走行距離は1280kmであった。

(次回予定;クロージング;最終回)
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2011年9月22日木曜日

決断科学ノート-89(大転換TCSプロジェクト-26;派米チームの苦闘-4)

 国内初導入のACSを確り理解してくる。派米チームのSE全員に課せられた使命である。何か不都合があったときには、自社で診断・処置(少なくとも応急的な)を出来ることが求められるレベルである。なにしろ日本IBMですらOSKさん一人しかSEは居らず、彼も東燃メンバーと一緒に教育訓練を受けている状態なのだから、しばらくの間は自前の対応能力が不可欠なのだ。
 ACSはそれまでのプロセス・コンピュータ(プロコン)とは違い、世界の大型汎用コンピュータの事実上の標準機、IBM370系(360→370(当時)→3090、中型機;4300)の上で動くシステムだ。汎用機の歴史は長く、応用範囲も広い。プロコンとは全く違う、バッチ処理(個々のアプリケーションを一づつ順番に処理する)で大量・複雑な計算処理を行う。それに対してプロコンは、実時間で起こる状況に即した情報処理を行えなくてはいけない(順不同のリアルタイム処理)。基本的な性格が違うのだ。何故そんなものを使うのか?詳しい説明は省くが、汎用機はマーケットが桁違いに大きいので技術開発の進歩が早く、かつ継続性に優れている(古いソフトがいつまでも使える)。また利用状況に応じたサイズの選択や拡張性の幅が広い。
 この利点をリアルタイムの世界で享受しようと最初に考えたのはNASAである。そのためにはバッチ処理をベースとする汎用機基本ソフト(O/S;VM、MVSなど数種類あり、目的・容量によって使い分ける)とリアルタイムで動く適用業務をつなぐソフト、リアルタイムO/S(いずれの汎用機O/Sとも連動する)が必要になる。ここで開発されたのがSRTOS(Special Real Time O/Sの略か?)と呼ばれる特殊なO/Sである。つまりアプリケーションは、ACS・SRTOS・汎用機O/Sと三階層の基盤の上で動くのだ。派米チームメンバーは第一世代の専用機のリアルタイムO/Sには通じていても、汎用機のO/Sを扱った経験は無い。技術者としての苦労がそこにも在った。
 IBMのACS専門部隊はNASAとの関係もあってかヒーストンに活動拠点があった。石油業との関係でも最適の場所だ。ACSがIBMとExxonの共同開発となったのも、この地の利も関係しているかもしれない。派米チームとACS部隊との交流が始まり、現地からのレポートに専門家同志の信頼関係醸成の雰囲気が伝わってくる。しかし、ニュージャージとヒューストンでは距離がある。“何かあったら、いつでも”と言うわけには行かない。そこに現れた助っ人がIBM NJオフィス(EREも顧客の一つ)のMauro Castelpietra(マウロ)である。
 マウロはイタリア人、イタリアIBMに入社後その高いプログラミング能力を認められ米国に派遣、いつからACSに関わるようになったかは不明だが、この時は既にACSのスーパープログラマーとしてExxonの関連業務に深く関わっていた。TKWさん、YNGさん、ITSさんから聞かされたところでは、「ACSのみならず、三階層のソフトが完全に頭に入っている」と言うことであった。当にACSのレオナルド・ダ・ヴィンチである。和歌山にACSが導入されると来日の機会も増え、多くの日本人SEが彼の高い能力に魅入られるようになる。
 このIBM専門家との交流を裏で支えてくれたのがMichael Bareau(マイク)というERE担当営業である。彼は英国人、これも母国から米国に移り何とマンハッタンに居を構え、NJに毎日出勤していた。東燃にACSが導入され、それが国内他社にも採用されるようになると、日本での成功例を世界にPRする仕掛けを考えてくれたのも彼である。
 このような交流は一方的に東燃が学ぶばかりではなく、彼らにこちらの技術力・プロジェクト実行力の高さを認識させる機会にもなった。のちにTCSを外部ビジネスに出来たのも、この時の派米チームの努力のお陰である。

後日談;
 マウロはIBM退職後イタリアにもどったが、ACSユーザーのために今でも自宅をベースにコンサルタントを続けている。2008年10月彼の家を訪ね一宿二飯の恩義に預かった(本ブログ、篤きイタリア-1(カテゴリー;海外、イタリア)参照)。
 マイクはIBM退職後OSI Software社(日本の総代理店は数年前までSPIN)の営業などを行っていたが、本年5月28日大腸がんで亡くなった(74歳)

P.S.;派米チームの活動については直接関係する立場にはなかった。従って同チームに関わる話題は、派米メンバーが送ってくれた公私信(手紙)や中間で訪米し現地での課題整理・慰労に当たったMTKさんらの話しに基づいています。年月も経ち、記憶が定かでないこともあって、不正確な点(特に、時期・人名・所属・役職)が多々生ずる恐れがあります。本ブログの読者でこれに気付いた方は下記メールアドレスに修正情報をいただければ幸いです。逐次記事の中でそれを正して行きたいと考えていますので、よろしくご協力をお願いいたします。

メール送付先;hmadono@nifty.com
(次回予定;和歌山工場導入)

2011年9月20日火曜日

道東疾走1300km-18;パノラマロード

 いよいよ道内最終日(7月11日)。夕刻5時頃には苫小牧港に着いていなければならない。計画段階では、この日は特に観光スポットを決めていなかった。この辺りの山岳ルートを走り、かつての炭鉱の町夕張に寄って、道央自動車道で苫小牧に至る道などを一応想定していた。しかし、今回のドライブでファーム富田を除けば、期待はずれだった花人(はなびと)街道がどうしても気がかりになっていた。8日網走のホテルに着き、忘れ物の件でフラノ寶亭留と電話でやり取りした時、新得と富良野が極めて近いことに気付かされた。「一層のこともう一度富良野へ行くか?」 これに草花を愛でるのが目的でこのドライブ行に同道した家人が賛成しない訳がない。こうしてパノラマロードとパッチワークの丘を足早に(本来ならそれぞれに一日要する)廻る案が決まった。
 当日早朝の新得は晴天だったが、出発する頃(8時半)には大分雲が多くなっていた。ルートは38号線を北に向かえば南富良野で花人街道(237号線)に合流する。少し先には十勝連峰の山々が横たわり、重連の蒸気機関車が雪原を進む雄姿で有名だった狩勝峠が控えている。山に近づくにつれ雲は厚く低くなり霧に変じていった。ヘッドライトを点灯して慎重に進む。残念ながら峠越えは濃霧の中、標識が辛うじて読める程度である。幸い霧は平地に下ると晴れていた。
 7日に給油したモービルのSSに再び寄り、見どころとルートを確認するが「あそこは言葉では説明しにくいなー」と地図をくれそれで説明してくれる。此処からはパノラマロードが先になり、美馬牛(びばうし)の駅が当面の目標だと言う。花人街道から分け入ってたどり着いた駅舎はまるで納屋のように小さい(写真上右)
 その駅前の地図看板で、SSお薦めの三愛の丘と四季彩の丘を確認。先ず三愛の丘を目指す。道は緩やかな丘陵地帯をぬう農道でいたる所で分岐、ナビ無しではとても走れない。しかし高みに上るに従いだんだん風景が開けていき、展望台からは東西北の三方に、波打つような畑地がどこまでも続く、雄大な景色が一望できる。期待していた“北海道”がそこに在った(写真上左)
 次に訪れたのは四季彩の丘。此処への移動も複雑に走る農道の中だ。確かに「言葉では説明できない」に納得だ。広い花畑が傾斜地に広がるのが売りの有料庭園。遥かに望む緑の丘と色とりどりの花々のコントラストが美しい(写真下二葉)。海外からの観光客も多いようで、中国語や韓国語が飛び交っている。広い園内を、トラクターが牽引する客車に載り見学するツアーも人気があるようだ。ただ、8日見学したファーム富田に比べると景観は優れているが、何か落ち着かない。商売臭が強すぎるのだ。入り口辺りの密集を如何に避けるかがこういう施設の雰囲気を分ける鍵と感じた(ファーム富田も商業施設はあるが、いくつかに別れ、入場無料のため、出入り口とも重ならない)。
 パノラマロードは他にも見所が多々あるのだが、スケジュールの関係で端折らざるを得なかった。時間があれば、どこかに車を止めて、ゆっくり歩いて廻るのが正解なのだろう。

(次回予定;パッチワークの丘)
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2011年9月17日土曜日

道東疾走1300km-17;ヨークシャーファーム

 最後の道東はどこに泊まるか?最終日のスケジュール、フェリーの出発時間(17時乗船)を勘案しながらいろいろ考えた。帯広、日高地方、襟裳岬などが候補に上がったが、観光スポット、食事、道路事情、時間などどれもぴったりこない。帯広周辺を当たっているとき、ガイドブックでフッと目にしたのがヨークシャーファームである。“子羊料理のレストランでペンション併設”とある。場所は新得だから、帯広に泊まって夕食だけとはいかないが、此処なら翌日の選択肢がいくつも選べる。Webで調べるとホームページ(HP)があり、当地出身者でサラリーマンの経験もある人が、郷里に帰り“英国の農場B&B”風を目指して始めた所と分かった。コッツウォルズで泊まった歴史のある旅籠(羊亭)を思い出した。口コミの評判もいい。とりあえず予約した。ディナーにラム料理を指定したことは言うまでもない。
 予約の仕方がチョッと変わっていた。インターネットで予約すると折り返しOKの返事が来たのだが、支払いはクレジットカードはダメで銀行カードか現金で支払い。予約金を指定期日までに指定銀行・信用金庫へ払い込むようになっている。チョッと不便に思い、HPを操作していると、英語で書いた予約ページが現れ、ここではクレジットカードがOKなのである(英語のスペルに誤りがあるのも手作り感覚でご愛嬌)。確認のために電話してみると「あれは外国からの予約に応えるためのものです。国内の方は振込みでお願いします」とのことだった。
 場所は新得の町(駅)の少し北、国道38号線に面しているが、母屋までは少し距離があるので車の往来が気になることはない(写真右上)。敷地へのドライブウェイは砂利道だ。一階はレンガ調、二階は白壁、屋根の色は灰色の建物が緑の中に佇んでいる(写真左)。裏は広大な羊牧場が遥か先の森まで続いている。外見は確かに英国を髣髴させる。中へ入って「ちょっと違うな」と思ったのは内部の壁や仕切りに、コンクリートブロックがそのまま使われていたことである。英国ならばここは石積みだ。
 一階はロビー、食堂や調理室などコモンスペース。客室は全て二階にある。部屋にはユニットバス、空調、TVも完備して快適でプライヴァシーを保てるようになっている。これなら外国人にも充分通用する。
 夕食は7時から、名物のラムステーキをメインとするフルコースだ(とは言っても、あとはパン、スープ、スモークサーモン付きのサラダ、デザート、コーヒーだが)。このステーキ目当ての、食事だけのお客さんも居るようだ。外国人を交えたグループ、土地の人と思しき家族連れでレストランはほぼ満席になっている。
 ステーキは量と言い味と言い申し分なかった。給仕をしている娘さん(多分オーナーの次女;HPによればこの人が跡を継ぐようだ)に「期待通りだったなー」と言ったところ「アー、良かった!」といかにも嬉しそうな笑顔で応えてくれた。家族経営の良さが伝わる瞬間が、こう言う所へ泊まる楽しみの一つである。
 翌朝部屋が東向きだったので、明るい陽光で早く目が覚めた。朝食前に農機具小屋で長靴に履き替え、露に濡れる牧場を散歩した。羊たちは毛を刈られ丸裸。まるでヤギのようだ(写真右)。牧場の外延を西欧人の女性がジョギングしている。母屋近くの木からおばあさん(多分オーナーのお母さん)がブルベリーのようなものを摘んでいる。聞くと“ハスカップ”とのこと。聞いたことも無い果物?だ(あとで調べると、アイヌ語で“ハシカプ”)。これをジャムにして朝食に供するのだと言う。数々の手作りサービスに感謝。

P.S.7月8日網走へ発つ朝、フラノ寶亭留に下着の着替えを風呂敷包みに入れたまま、部屋に忘れてきた。網走のホテルから電話し、ヨークシャーファームへの転送を頼んだ。チェックインのとき無事回収できた。回送料は950円也。

(次回予定;パノラマ・ロード)
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2011年9月15日木曜日

決断科学ノート-88(大転換TCSプロジェクト-25;派米チームの苦闘-3)

 日本初のACSの導入、それとCENTUMとの結合を5月中に完成させると言うミッションの他にも派米チームを煩わせる仕事があった。最初のシステムの適用先は和歌山の石油化学プラント、BTX(ベンゼン・トルエン・キシレン)製造装置になるが、ここへの設置とその後の運用・メンテナンスは、中央サポートチーム(派米チームとメンバーと重なる)の他に、これらプラントや既存(第一世代)システムをよく知るメンバーが日常的に当たることになっていた。その保守要員の教育訓練を、スケジュールの関係で、EREで行うことになった。派米チームは自ら新技術を学びながら一体化システムを開発し、さらに彼らのサポートもしなければならないのだ。
 この計画がいつどのように決まったのか記憶が定かではない。しかし、5月帰国後実機の結合テストを横河(三鷹)で行い、それを和歌山に移して現場設置・繋ぎこみとテスト。それが済むとアプリケーション・エンジニアによる個々のアプリケーションの新規システム組み込み・既存システムの移設(ロジックは同じでも書き換えが必要)、プラント運転員の操作訓練を終え、9月には新システムでスタートアップしなければならない。また日本IBMすらACS専門家養成のため、要員を派米していたくらいだから、国内での教育コースなど開ける状況に無かった。トレーニングはこの時期に米国で行うしかなかったと言える。
 メンバーとして選ばれたのは、当時SPCの面倒を見ていたMYHさん、計装でDDC保守を担当していたKTAさん、工場生産管理システム開発に従事してIBM汎用機に詳しいYSKさんの三人である。これらの人たちは、もともとプラントの運転員や計器の保守員として採用され、適性を認められコンピュータ関係の職種に転じた経緯を持つ。従って、コンピュータ言語については詳しいものの、日常的に英語に触れる機会はほとんど無い環境で過ごしてきた。突然長期(確か二ヶ月くらい)米国出張を命じられ大いに戸惑ったに違いない。
 教育はIBMのACS専門家によって行われる。言葉は当然英語である。内容によっては先発の派米チームや日本IBMの担当者も同じクラスに参加して講義を受ける。つまり中身もきわめて高度なものである。少々の英語に関する知識・経験があったとしても容易に理解できるものではなく、その苦しみは想像に難くない。多分それは教える方にもあったのではなかろうか?やがてこの和歌山チームは“Wait(Stopだったかもしれない)”と言う看板を用意し、分からなくなるとこれを掲げて講義を止めて、先発メンバーの力を借りながら、その不明を質したという。
 こうした場面での負担は主に、TKWさんとYNGさんの二人にかかってくる。この時期の滞米メンバーの中で、英語力が抜きん出ていたからである(無論専門分野でも優れているが)。TKWさんは高校時代一時AFS(アメリカン・フィールド・サービス;高校生版フルブライト留学)に応募することも考えたほどだし、YNGさんはこれに先立ちプロセス・エンジニアとしてEREに長期派遣(確か2年)されている。
 この苦労はトレーニングに限らず、当然日常生活にも及んでいる。買い物、食事、偶の息抜き。送られてくる手紙の端々に、精神的に張り詰めている状態が伝わってきた。現地ではもっとピリピリしていたに違いない。
 これは後日談になるが、TCSを主力製品・サービスとする新規事業を立ち上げ、展開する中で、先発派米チーム、和歌山チームの面々が大活躍することになる。この時の苦しい局面を耐え、突破できた体験がそれに生かされていると確信させられた。

P.S.;派米チームの活動については直接関係する立場にはなかった。従って同チームに関わる話題は、派米メンバーが送ってくれた公私信(手紙)や中間で訪米し現地での課題整理・慰労に当たったMTKさんらの話しに基づいています。年月も経ち、記憶が定かでないこともあって、不正確な点(特に、時期・人名・所属・役職)が多々生ずる恐れがあります。本ブログの読者でこれに気付いた方は下記メールアドレスに修正情報をいただければ幸いです。逐次記事の中でそれを正して行きたいと考えていますので、よろしくご協力をお願いいたします。

メール送付先;hmadono@nifty.com
(次回予定;“派米チームの苦闘”つづく)