2009年6月30日火曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(7)

7.貴婦人と巡った紀伊半島-1 このコンテッサでは、年末2回の帰省(初島←→松戸)、昭和42年連休の山陰・山陽・四国を巡るグランドツーリング、淡路島一周、本籍のある兵庫県竜野への旅など思い出深い旅をともにしたが、何と言っても紀伊半島の道がホームロードであった。
 今も昔も紀伊半島主要道路のルートはそれほど変わっていない。先ず海岸沿いを走る42号線(死に号線と言った)、紀ノ川沿いに和歌山から五条・天理を経て奈良に達する24号線(大和街道)、新宮から熊野川沿いに十津川を経て五条に至る168号線(十津川街道)、この168号線と途中で分かれて吉野に至る169号線(東熊野街道)は、途中で分岐して半島深奥部の大台ケ原に向かう。これらの道のほとんどをコンテッサで走破している。この他にも梅で名高い南部(みなべ)から半島内部に向かい、竜神温泉から和歌山県最高峰の護摩壇山(1372m)を経て、高野山に至るスカイラインや紀伊田辺から熊野本宮に至る遍路、311号線(熊野古道;中辺路)も走っている。
 これらの道にはそれぞれ特色がある。海を巡る42号線は海岸美、24号線は奈良や高野山に結ぶので宗教と歴史、半島を南北に結ぶ168号・169号線は深山幽谷、田辺の港と本宮を結ぶ311号線は巡礼の道として僻地の中に歴史を残す。
 就職した当時の42号線は、市街地は一応舗装されていたものの、一歩そこを離れると未舗装の砂利道がほとんどで、特に醤油で有名な湯浅からアメリカ村のある日の岬や娘道成寺で知られた御坊(ごぼう)までは由良の峠を挟んで難所続きだった。峠道の何ヶ所では大型車両は片側交通ですれ違っていた。しかし、間もなく水越隧道・由良隧道が出来て、前後の道路も整備され、自転車で山越えが出来るほど走り易い道になった。シーズンを除けは空いた道を、一人で気侭なドライブを楽しみながら、白浜温泉の少し先くらいまではよく出かけてものである。
 自動車購入を知らせた便りに怒りの返事(分不相応だと;それほど自動車は贅沢品と見られていた)を送ってきた父を、定年退官(55歳)を前に南紀に招待し、鉄路で名古屋から紀伊勝浦経由で来た両親を白浜でピックアップして走り、すっかり機嫌を直してもらったのも42号線にまつわる懐かしい思い出である。 

 昭和41年(1966)の職場(機械技術課)レクリエーションは、山深い秘湯、竜神温泉であった。ここは「大菩薩峠」の主人公“机竜之介洗眼の滝”で有名な所である。南部からバスで温泉まで1時間半くらいであろうか?嘗て紀州の殿様が逗留した家が“上御殿”“下御殿”と言う旅館になっている。皆はバスで出かけたが、私は愛車で未舗装の山道を走った。翌朝は同じ道を戻っていく職場仲間と別れ、ドラム缶から手回しポンプでガソリンを補給、有料林道(村外れに木製の遮断機が下りており、近くの農家のおばさんに料金を払ってそれを上げてもらう)で護摩壇山を経由して高野山へ出た。落石がいたる所にあり、道路に前日降った雨水が滝のように流れ落ちる道を行くスリリングなドライブを楽しんだものである。

2009年6月28日日曜日

決断科学ノート-12(教義・理念と決断(2))

 前回取り上げた機関銃のように、新兵器が開発・導入されると、軍事組織ではその運用方法が必ず論議をよぶ。基本的な問題点は、それをどう位置づけ、どう運用するかである。もし独立運用が望ましいとなると、そこに新しい兵種(例えば、歩兵、砲兵、騎兵しかなかったところへ戦車が導入され、やがて戦車専門の兵科が生まれるように)や軍種(陸海軍しかないところに空軍が生まれる)が組織される。
 空軍独立論の嚆矢はイタリアのジュリオ・ドゥーエ将軍(1869~1930)で、彼は第一次世界大戦前「やがて航空機によって長躯敵の中枢部を壊滅させ、戦争の帰趨を決する時代が来る」と予見し、一部識者の注目を浴びるようになる。しかしこの時代、考え方と現実のギャップは大きく、技術的にも経済的にも、そのような強力な爆撃機を大量に準備出来る状況ではなかったので、理念先行の机上の空論と看做す意見が大勢であった(これを無視して自説を声高に主張したドゥーエは軍法会議にかけられ1年投獄)。
 第一次世界大戦を通しての航空機の役割は、陸海軍主力(歩兵、砲兵、艦隊)の補助兵力(観測・偵察、地上攻撃支援)に甘んじていたが、将来における主戦力への可能性を示し始めていた。またドイツのツェッペリン飛行船やゴーダ爆撃機によるロンドン爆撃は、政治家や一般市民に、空からの攻撃に対する恐怖を植えつけることになる。戦場でも銃後でも“これからの戦争は航空兵力だ!”と言う空気が醸成され、英国は大戦末期1918年4月、陸海軍の航空隊を統合して世界最初の空軍を誕生させる。
 長い歴史を持つ陸・海軍と違い、この新参の軍種、空軍には存在の意義を周知させる理念・教義(ドクトリン)が必要であった。誕生した英空軍でこれを中心になって作り上げたのは、初代の参謀長、ヒュー・トレンチャード(1873~1956)である。ドゥーエと同時代の人であるトレンチャードの考えも、敵の軍事・政治・(軍事)産業拠点を空爆によって制圧し、戦争の勝敗を決すると言うものである。この陸上戦闘の悲惨な状況を一見避けられるような趣は、多くの人々の関心を引くことになり、そのドクトリンが受け入れられ、ガイドライン化されていく。第一次大戦後の軍縮ムードの中では、この考え方は“絵に描いた餅”でそれほど問題になっていないが、国際緊張が高まり戦闘・戦争が始まってくると、それが顕在化してくる。
 このドクトリン(拠点への戦略爆撃)を忠実に実現するためには、強力な破壊力(大量の爆撃機と爆弾)を拠点に正確に集中する必要があるが、この時代高空から精密爆撃が行える技術はまだ存在していない(現在のミサイルでも完全ではない)。結果として拠点周辺の市街地・民家への投弾は避けられないものになる。それまでの戦闘が、どんな大規模なものであっても、兵士対兵士の殺戮であったの対して、ここでは大量の市民が巻き添えになる。第二次世界大戦以前の例として、1937年4月のスペイン市民戦争におけるドイツ軍(一部イタリア軍も参加)によるゲルニカ爆撃は良く知られている(欧米の戦史では、第一次世界大戦後初めての無差別爆撃は、1931年10月旧日本軍による中国錦州爆撃とするものが多い;これをもって戦略爆撃の嚆矢とすると)。ゲルニカにしても錦州にしても、軍事施設・人員の被害はほとんど無く、被害者の大多数は民間人だった。ここに戦略爆撃に対する非難が集中する。人道に反すると。それでもトレンチャード・ドクトリンは空軍戦略の基本方針として墨守され、ドイツ空軍の台頭に合わせて、4発爆撃機開発が着手される。これがやがてバトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)後の反攻時生きてくる(ドイツはこの戦略爆撃機開発に方針が定まらず、地上軍支援の域を出なかった)。
 欧州の戦いが始まり、英独航空戦で軍事拠点攻撃の実効が上がらない(実際はボディブローが効きつつあったのだが)ドイツ空軍は戦術を都市夜間爆撃に切り替える(足の短い戦闘機しか持たないドイツは爆撃機援護が出来ぬため、夜陰に紛れる戦術をとる)。恐怖の夜が始まる。“やられたらやりかえす”これぞ典型的な戦時の英国国民性。やがて民意も復讐心で変じ、空軍創設の教義はその精神を離れ暴走していく。
 1941年12月真珠湾攻撃で米国が参戦すると、米第8航空軍が1942年2月に編成され、7月には英国に進出する。当初英空軍はこの航空軍も自らの指揮下に置くことを望むが、その運用理念が論争を呼ぶことになる。英国がそれまで行ってきた“夜間無差別爆撃戦略”に対する拒絶反応である。これは米軍部以上に米国民世論に顕著だったようである。結局昼間精密拠点爆撃は米軍、夜間都市爆撃は英軍となり、ドイツの都市は昼夜を分かたぬ空爆に晒されることになる。米軍はこの“精密拠点爆撃”のためにノルデン照準器と言われる画期的な爆撃照準器(爆撃コースに入ると爆撃手がこの照準器を操作して爆撃機を操縦する。風速・風向、機速や高度の補正コンピュータ機能もある)を開発し、その改善効果を高く評価しているが、戦後の戦略爆撃調査団の分析(OR分析)では“精密”には程遠いものとしている(都市破壊と人的被害は凄まじかったが、標的破壊率は5%以下)。米軍もやはり“ばら撒き”だったわけである。とても英爆撃機軍団の戦術を非難する資格は無い。
 翻って日米戦を見ると、B29による都市爆撃、原爆投下などに宗教的なあるいは人道的なモラルが作戦前に問われた形跡はほとんどない。焦土作戦に効果的な焼夷弾開発は関東大震災や英系損保会社(多分ロイズ)のデーターが利用されているほどである。
 理念・教義に基づき粛々と計画・判断を進めることの重要性がある反面、状況とともにこの基本理念に対する見方・捉え方が変わることを見ると、決断の上位決定要素とは必ずしもなりえない。宗教から企業経営まで、環境に合わせて、理念・教義の見直し・修正が必要だと言える。

2009年6月25日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(6)

6.伯爵夫人の出自 コンテッサ(Contessa)はイタリア語で“伯爵夫人”の意。クラウン、コロナ、ブルーバード、グロリアなど当時の乗用車の名前は英語名が多い。そんな中でのイタリア語はしゃれた響きがする。それは、この車のもともとの出自が欧州であることから来ている。生産国は日本だが、モデルとなる車はフランス、さらにそのフランス車のモデルとなる車はドイツ製、そしてコンテッサのデザイナーはイタリア人。
 わが国の乗用車生産が本格的に始まったのは、1950年代の後半。トヨタのクラウン、ダットサン(日産)の小型車、プリンス(現在は日産)の乗用車などがそれらである。これらのメーカーは現在も乗用車生産を続けているが、この時代、トラックメーカーのいすゞや日野なども、わが国経済の復興を先読みして乗用車生産に乗り出している。いすゞは英国のヒルマン社と、日野はフランスのルノー公団と提携して、それぞれヒルマン・ミンクス、ルノー4CVのノックダウン生産で技術を学んだ。
 日野ルノーの基となるルノー4CVは1946年フランスで生産開始されたリアーエンジンの小型車(写真参照)で、その当時から10年くらいフランスの国民車と言ってもいいような地位にあった。リアーエンジンの大衆車と言えば、何と言ってもフォルクスワーゲンの“カブトムシ”である。1930年代にヒトラーの命を受けてフェルディナンド・ポルシェが開発した車である。このポルシェ博士は戦後、“賠償(戦犯)”としてフランスに拘置され、大衆車開発に協力を求められる(設計を行ったわけではないようだが)。そこで生み出されたのがこのルノー4CVなのだ。つまりこの車はカブトムシの弟分と言っても良い。
 日野が何故ルノーと提携したのかは定かではない。いずれにしても当時のわが国自動車会社の技術は、戦争の後遺症で著しく遅れていた。特に、ほとんど実績の無かった、乗用車はそれが顕著で、戦前からダットサン小型乗用車を生産していた日産でさえ、英オースチン社と提携しA40、A50などのノックダウンから始めて技術を修得、後のブルーバードやセドリックにそれが生かされていく。4CVもフランスで初めてのミリオンセラーになったほどの車である。良い選択だったと思う。
 日野ルノーは、重量;640kg、排気量;750cc、馬力;21hpの小型車で、今なら軽自動車より非力である。しかし当時は国情に合った良い車で、4ドアーと言うこともありタクシーにも随分使われ、昭和28年から38年までの10年間に3万5千台生産されている。
 この提携関係が切れる前、後継車として昭和36年(1961年)発表されたのがコンテッサである。エンジンは内径を拡大して900cc(35馬力)になっているものの、基本的には4CVと同じもの。構造もリアーエンジンで同じ形式を踏襲している。ただ、ボディーはオリジナルで、イタリア人のデザイナー、ミケロッティの作。コンテッサと言うイタリア名はここから来ているのであろう。4CVがカブトムシ同様丸味を帯びたデザインなのに対し、コンテッサは角が尖って一見アメリカ車風である。当時は欧州車でもこれが流行の先端であった。
 私の購入したコンテッサSは昭和39年(1964年)発売されたスポーツバージョンで、馬力が5馬力アップして40馬力、シフトが3段から4段になり、コラムシフトからフロアシフトになっている。足回りも、スポーツタイプの固めのものが採用されている。しかしながら、他社のスポーツカー(例えばフェアレディ)に比べると、ほとんど標準のセダンと大差なく、手を加えてレースに出場することも無い、街乗り・街道スポーツカーと言っていい車である。当に私の好み・乗り方にぴったりの車であった。

 この貴婦人とそれから3年、四国、山陽・山陰、信州、関東そして紀伊半島を駆け回ることになる(写真は購入二日目に寮の庭で撮影)。
 注;写真は全てダブルクリックすると拡大できます

2009年6月21日日曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(5)

5.マイカー入手作戦 あの夏休みの後は専ら卒論に明け暮れる毎日だった。その頃研究室に中古のライトバン(日産ジュニア)が導入された。助教授が知り合いの電器店から譲り受けた(もらった?)ものである。初めは色も褪せた三菱電機の広告と電器店の名前が入った塗装だったが、それをクリーム色に塗り直し、研究室名を黒で入れ、見違えるような車になった。助教授の自宅は小平、私は当時小金井に在った祖母の家に住んでいたので、運転手のような役割を担わされることになる。毎日の通学(助教授は通勤)ばかりでなく、共同研究を行っていた大船や日光の会社、それに実験装置製作を委託している町工場などへもよく出かけたものである。この車のおかげで運転技量が確実に向上していった。
 昭和37年(1962年)4月東燃に入社。約2ヶ月の和歌山工場での集合教育の後、和歌山工場への配属が決まる。“一人前のエンジニアになるんだ!”は建前である。密かな決意は“3年以内に自分の車を持つ!”ことだった。ガールフレンドが欲しい、早く結婚したいなどとは全く思わなかった。全ては車を持ってからのことであると。当時の車好きの若者には結構私に近い人間がいたように思う。それほど自動車は憧れの対象だった。
 しかし、決意をしたからといって、無一文でスタートする私にとって、簡単に実現できることではない。初任給は2万円、ボーナスもこれがベースだから知れている(初年度の冬のボーナスが5万円弱ではなかったろうか?)。ここから生活のための諸費用を払い、僅かだが仕送りもし、ほかにも欲しいものがあるので(ラジオや扇風機、スキー用具がそれらだった)、年間10万円貯めるのは決して容易なことではない(初年度は当然無理)。一番安い軽自動車でも新車は40万円位、まずまずの小型中古車が30万円台と言う相場なので3年は相当な努力を要する目標であった。
 幸運だったのは、翌38年の1月下旬から半年間、機械系の新入社員が川崎工場の増設プロジェクトに教育に出されたことである。これは籍を和歌山工場に置いての長期出張であったから、その出張手当が給料外の収入になった。都会には楽しいことが多い。学生時代の友人もいる。それを享受しようと思えば、僅かな手当てなど吹き飛んでしまう。しかし、私はその年の初夏実施される、国家計量士試験を受けるよう命じられていた。第一次の筆記試験は2日間にわたって行われ結構な難関である。ひたすら保土ヶ谷に在った寮と工場の間を往復する生活に徹した。この手当てで約10万円を得るとともに試験にも合格した。
 予定外の収入があったとはいえ、ゴールはまだ遥か先。当時は原付バイクブームの時期、寮の先輩たちも何人かホンダのスパーカブを持っていたし、本格的なオートバイを持っている人もいた。「ひとまずオートバイで我慢したら?これはこれで楽しいよ!」悪魔の囁きは抗し難かった。スズキの中古バイクを買ったのが38年の秋である。寮の仲間とツーリングに出かけたり、高性能のホンダCBを借りて遠出もした。どうしても四輪車に乗りたい時は、有田川河畔の自動車修理工場がやっていたレンタカー(ホンダS-600)サービスを利用して我慢するしかなかった。愛読していた月刊誌「Auto Sports」を眺めながら、夢を膨らませる2年が続く。 (写真はダブルクリックすると拡大できます
 昭和40年、目標の3年目、やっと資金の目処が立ち購入計画が具体化してくる。春から7月のボーナスも見込んで、中古車を見て廻る。今のようにディーラー毎の中古車販売システムなど出来ていなかったので、随分あちこちの中古車屋へ出かけたが、大都会と違いなかなか適当なものが見つからない。手が届きそうなところで一番欲しかったのは日産のブルーバード。次いでプリンスのスカイライン(今の日産GTRにつながるGT-Bが発売されていた;中古でもとても購入対象にはならなかった)だったが、これらは中古市場でも人気車種で価格が高い。トヨタは、S-2000というロングノーズ、ジャガーもどきのスポーツカーを出していたが、何故かこの頃から車好きには人気が無かった(今でもそうだが、よく売れる車作りは当時からダントツだったが)。むしろ新参のいすゞべレット(特に1600GT)の方が、格好の良さとレース活動への熱意で多くのファンを惹きつけていた。

 結局6月、比較的程度の良い日野コンテッサS(Contessa;伯爵夫人;昭和38年発売)の購入を決める。値段は40万円弱であった。

2009年6月18日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(4)

4.南紀・熊野貧乏旅行-2 一旦新宮に戻り、そこから和歌山と三重の県境を成す熊野川を遡る。バスの路線(十津川街道)は、高くはないが急峻な山肌を削ってつくられた道路、左は崖、右側遥か下にはいつも川の流れが見えている。橋とトンネル以外ほとんど人工物は見かけない。これで小雨でも降っていれば中国の水墨画の世界だが、幸か不幸か真夏の太陽はまだ高く、強い日差しと埃の中をバスは喘ぎながら走る。初めこそスケールの大きい渓谷美に感嘆していたものの、やがてそれにも飽いてきた。バスはそれほど混んでいなかった。乗っているのは10人足らず。明日瀞八丁へ行く船着場のある川原、宮井大橋、で川は二筋に分かれる。ほとんどの乗客はコックリしている。と突然左側にいた若い女性の二人連れが「ギャー」と悲鳴をあげた!見ると崖ぶちの木を揺すらせたバスの窓際に蛇が落ちてきた!幸い彼(?)は賢明にも外へ下りていった。
 ほど無くバスは終点の湯の峰温泉に到着した。木々が覆いかぶさるような狭い谷合、始めてみる鄙びた湯治場がそこにあった。「あづまや」はその地では立派な宿だった。記憶に残っているのは見事な木作りの風呂場である。床・天井そして当然浴槽も木で出来ている。10人は裕に入れる大きさである。この風呂に入り、汗を流したあと蝉時雨の中で飲んだビールの味は、貧乏学生にとって最高の贅沢であった。
 翌朝も気持ちの良い朝だった。本来なら瀞八丁へ向かう前に熊野本宮を参るべきだったのであろうが、そんなことは何も知らなかった。9時頃宿を出て、バスに乗り瀞への船着場に行く。川原には既にプロペラ船(川底が極端に浅くなる所があるので、船底には何も装備できない。船尾に大きなプロペラがある)が待っており、我々が乗ると間もなく上流に向かい出発した。しばらくすると両岸見上げるような断崖になる。本流より川幅が狭いので迫力満点だ!しかし当時のディーゼルエンジンで駆動するプロペラが何とも騒々しい。景色に感動しつつこの音に悩まされながら2時間位上るとそこが終点、下りはエンジンを停めることもあるので少しはましになる。その頃にはあれほど感動した風景にも飽きて、皆午睡の時間であった。船着場に戻り、再びバスに乗って新宮に戻る。実は此処に熊野三社の残り、速玉大社(本宮に対してこれが新宮の由来である)が在ることなど全く知らなかった。今度の48年後の旅は、きちんとこの三社を廻ることが大事な目的であった(和歌山県出身で東燃同期のMY君が今度の旅の計画時教えてくれた)。
 新宮駅前に日の高い夕方着いて、急行券を買った。乗る急行は「那智」である。夜行列車だから寝台車もあったように記憶するが、貧乏学生は2等車(と言うのが有った)の自由席である。始発だから問題なく海側の窓側に席を取れた。6時頃の発車だったから、しばらくは明るい中を、熊野灘を右に見ながら汽車は進む。奇岩が連なる鬼が城見えた。48年前のMNとの旅の記憶はここまでである。
 たまたま保存してあった乗車券(初島→新宮→関東→松戸(ここに実家があった))を見ると、学割で895円。急行券は東京まで300円である。現在は同じ路線で計算すると、乗車券は10,990円である。学割は半額だから当時の料金を2倍すると1790円。現在の料金は5倍強である(初任給は10倍位ではなかろうか?)。思ったほど鉄道料金は上がっていない(ただ急行・特急に関しては、今は在来線(紀勢線;名古屋まで)の急行券、新幹線の特急券(名古屋から東京)を加えると5倍では効かないからこの補正は必要)。しかし時間は大幅に縮んでいるこれをどう評価すべきか?(乗車券、急行券は画像になっています。ダブルクリックすると拡大します。途中下車地の判子も捺されています)。

2009年6月17日水曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(3)

3.南紀・熊野貧乏旅行-1 実習は約一ヶ月間だった。工場本事務所の比較的大きな会議室が実習生たちの作業場に当てられていた。毎日寮から自転車で、海岸沿いの松林を通ってここへ“通勤”するのだが、淡路島が直ぐ近くに見える、白砂青松を絵に描いたような景色が無聊を慰めてくれる。休日には実習生仲間で、あの万葉に“若の浦に、潮満ち来れば潟を無み、葦辺をさして鶴鳴き渡る”(山部赤人)と詠われた和歌の浦へ出かけ、一日舟遊びなどを楽しんだ。小学校から大学まで大都会の喧騒の中で育った者にとって、「しばらくこんな所で暮らすのも悪くないなー」と、第一印象の“僻地”が“住めば都”に転じていった。
 この時、MNも同じように就職を決めた大阪桜島の日立造船で実習していた。この実習に入る前、終了後は二人で南紀・熊野を廻る旅行を計画した。基本的には紀伊半島の外側を鉄道で巡る旅で、潮岬、那智の滝と瀞八丁を必見とした。そのために新宮を拠点とし、そこから東京行きの夜行急行で帰る案であった。電話なども簡単にかけられる環境ではなかったので、最終調整は事前に入手したお互いの宿泊先(寮)宛ての葉書で行った。
 8月6日、天王寺から新宮行きに乗ったMNと初島で合流、そこから先は私も知らない世界だった。海沿いを南下すると思った紀勢線だがしばらく海は見えず、山々の間と偶に現れる狭い平地を走っていく。その狭い平地に田圃と村落が現れる。冷房など無い時代開け放たれた窓から石炭を燃す臭いと煤煙が入ってくる。“未知への好奇心”以外旅の楽しみは何も無い。聞いたことのある駅名は“道成寺”だけである。
 第一夜は白浜の保養所に一泊させてもらったが、美しい白良浜(しららはま)と京大の水族館以外は何も覚えていない。翌日白浜口から更に南下する汽車に乗り新宮を目指す。海が間近に迫るのは周参見(すさみ)という駅を過ぎてからである。トンネル・海岸・トンネル・海岸と言う調子が続く路線は、明暗の光の変化と相俟って強烈な南国の海を印象付ける。
 串本で途中下車し潮岬を観たあと、夕刻新宮駅の観光案内所で宿泊先を相談する。この近くで最も客が集まるのは那智勝浦、那智の滝へのアクセスも良いようだ。そこには温泉があるので多くの旅館があるが値段は学生の身分では一寸辛い。一方瀞八丁は乗り場が熊野川の中流になるので新宮近辺に泊まるより、乗り場に近い川湯か湯の峯の温泉が良いと言う。そちらの方は一流旅館でも比較的安いとのこと。結局、最後の日だけは少し“豪華”に過ごそうと言うことで、その日は駅前の一階はおみやげ物など商っている旅館(と言うより商人宿、二階の部屋からは駅前広場が見えた)にし、次の日は湯の峰温泉の「あづまや」と言う古い旅館にした。 翌日は那智の滝見学がメインエベント。新宮からバスで出かける。このときは熊野三社のことを全く知らなかったので、那智大社には行かず、日本一の高さを誇る滝の下までしか出かけていない。確かにそれまで訪れたことのある華厳の滝に比べ高さは遥かに高いが、実習中一度も雨にあわなかったくらいだから水量はそれほどでもない。ちょっと迫力不足という印象だった。しかし、滝壺で落水に打たれる修験者たちを見ると、紀州の山深さと合わせて霊的な世界がそこにあるように感じた。

2009年6月14日日曜日

決断科学ノート-11(教義・理念と決断(1))

 組織における意思決定の要素として、その組織が持つ教義(例えば宗教)や理念(経営理念など)がある。その組織が成り立つ根本原理と言っても良い。経験も感性も論理(数理)もこれと比べれば、一段低い決定因子ともいえる。ただこの根本原理は概して包括的であるから、細部はその時々の取り巻く環境(時代や社会環境)によって解釈の仕方に幅がある。高等教育(大学)の歴史を少し追ってみると、修道院や寺院の聖書・経典の解釈研究が一つの大きな流れを成しており(もう一つは、前者からは遅れるが、官僚の登用・育成)、教義・理念を日常的な出来事の判断基準に使うために、激しい議論が展開され、膨大なエネルギーがつぎ込まれてきた。ORが軍事技術(兵器)と不可分の生い立ちを持つことから、しばらくこの教義・理念と兵器の関係を考察してみたい。
 オリジナルは1975年に英国で出版されたJohn Ellis著の「The Social History of Machine Gun(機関銃の社会史)」と言う本がある。この本を読むと、機関銃ばかりでなく、爆撃機や核兵器など大量殺戮を伴う近代兵器実戦投入に関する、欧米の社会・宗教上の教義・規範に基づく考え方の変遷を窺うことができる。
 近代的な機関銃(互換性のある部品で構成、銃身にライフルが刻まれている)は1880年代に導入され(南北戦争;史上最初の近代戦)、その後第一次大戦に至るまでにほぼ現在の機関銃(自動的に作動し、人間が持ち運ぶことができる)へと技術的に進歩を遂げる。しかし、発明者のハラム・マキシムが「殺人機械」と呼んだこの驚異的な兵器が、すんなり社会・軍隊に受け入れられたわけではない。当時の欧州の軍幹部は、産業革命・近代化に取り残され、軍隊が唯一の働き場所だった貴族・地主階級出身である。その根底に民主主義とは異なる、階級意識に依拠する人間主義(キリスト教の教義に忠実な騎士道精神)があった。“科学および機械に対する新しい信仰”が及ぼす影響を最小限に留めることこそ、彼らの目指す軍隊だった(それを導入すれば戦いのやり方が変わってしまう。自分たちの特権が失われる)。一方の機関銃発明者・製造者は当に産業革命の申し子そのものである。
 ここで展開されるのが“人道主義”を建前とする組織防衛である。そしてこの建前が軍隊外の人たちの強い共感を受けるのである。同じキリスト教徒同士があんな卑怯な大量殺戮兵器を使っていいのかと。進歩の比較的ゆっくりした、単発銃や大砲にはこのような社会現象は生じていない。
 この辺の事情は、欧州と米国では些か異なる。米国は古い欧州社会の伝統に決別し、新しい自由な国づくりを目指すので既得権を守ろうとする特権階級は無い。人口も少なく、専門職(職人)は更に少ない。したがって、道具には標準化と大量生産で効率を追求する社会である。伝統的な常備軍も存在しなかった。南北戦争における機関銃はこのような環境で実現したと言っていい。一方、真の人道主義者・深い宗教心を持った人々はこの国にも多数いた。南北戦争の惨禍はこれらの人々の注視するところとなる。
 欧米人がこの宗教的制約を簡単に乗り越えるのは、異宗教・異民族との戦いである。欧州国家は植民地支配のためにはその使用を逡巡しない。英国はアフリカで、中東で、インドで、現地人の反乱鎮圧にこれを使い出す。フランスはサハラ制圧に、ロシアは日本との戦いに、アメリカではインディアン討伐に機関銃が威力を発揮する。あまり知られていないことだが1904年の英国によるチベット討伐は2丁のマキシム機関銃で約700人のチベット人が殺され、英軍の被害は一握りだったといわれている(日露戦争が戦われている時である)。革新兵器の殺傷効率は桁違いで、反対者もこれを使うことに惹かれていく。徴兵制が布かれ戦争が大衆化するとともに敷居を低くする。
 一旦麻薬の味を知った者には道義も宗教もなくなり、その呪縛から逃れられない。やがて始まる第一次世界大戦では、機関銃が主役となり今までの戦争とは桁違いの戦死者を出すことになる。
 宗教上の教義は、近代兵器出現のごく初期には抑止力となるが、普遍化すれば意味が無くなる。核兵器の拡散は同じ道を辿っているような気がする。

2009年6月11日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(2)

2.友の死
 2月25日夕刻、大学時代の親友MNの子息J君から電話があった。それは施設で介護の日々を送っていたMNの死を伝えるものであった。2002年の暮れ大学同期有志の忘年会が新宿の中華料理屋で開かれた。十数人が集まり二つのテーブルが用意されていた。少し遅れた私は空いていた彼の隣の席に座った。目が合った彼の発した言葉に我を失った「君、誰だっけ?」いっとき置いて「MDだよ」と答えると、(手帳を取り出し)「MD君か!ちゃんと住所書いてあるよ。年賀状もう出したよ」この日宴会の終盤、気分を悪くした彼を近くに住む友人の一人が送っていった。これが彼と会った最後である。病名は難病のピック病(アルツハイマーと症状が似ているが別の病気;原因が分からず介護しか対処法はない)、死因は脳梗塞であった。3月1日の告別式に愛車、ボクスターで出かけた。「(一緒に走る約束だったじゃないか!乗ってくれ)」と。
 2000年彼が外資系エンジニアリング会社を、技術部長を最後に定年退職した時、二人だけの慰労会を当時私のオフィスの在った恵比寿のパブレストランで持った。「俺ももう直ぐ一線を退く。そうしたら昔から語り合ったヨーロッパ・ドライブを実現しようじゃないか」こんな話に花が咲いた。その時の彼の所有車は、世界ラリー選手権で活躍していたインプレッサWRX、定年間近の男が乗るような車ではない。熱いオイルが血管を駆け巡っているのは若き日と何も変わらない。
 大学の専攻が機械工学であったから、自動車好きは多かった。ためらうことなく、入学すると彼も私も“学生自動車工学研究会”と言うサークルに入った。このサークルは自動車部とは違い専ら工学部の学生が対象で他大学(何故か東京女子大もメンバーだった)の同種のサークルと学連を組んで工場見学や自動車の性能試験などを活動の中心にしていた。当時の若者は誰も自動車に憧れていたが、自分で所有することは無論、自家用車のあるような家庭も稀だった。こんなサークルで身近に車に接するだけでも興奮したものである。
 しかし、彼の家にはこの稀有の自家用車があった!雪ヶ谷の貨物線(今の新幹線)を見下ろす傾斜地にあった彼の家は、戦前の帰国二世であった父上の建てた家、白いペンキ塗りのモダンな家だった。南に傾斜した芝生の庭の端を通る道の奥は半地下式のガレージ。そこにフォード・タウヌス(ドイツ法人のフォード)が納まっていた。このタウヌスが私の免許取得後初めて運転々した車である。この車でもう一人の親しい友人MT(今は専らイタリア旅行を楽しんでいる。“篤きイタリア”に登場)と3人で1961年の連休、榛名山に出かけた。卒業の春休みには、買い換えられたヒルマン・ミンクス(英国車;当時いすずがノックダウンしていたが、彼の家のそれは英国製であった)で伊豆半島を一周したのも忘れられない思い出である。日立造船に就職した彼は一足先に結婚し大阪に住んでいたので、入れ違いで本社勤務になった私は、万博見物の時には新婚家庭に泊めてもらったりもした。東京勤務の時は借り上げ社宅が金沢八景にあり、戸塚にあった我が家(会社のアパート)に彼とMTの家族と三家族で集まり楽しいひと時を過ごしたこともある。造船会社の景気浮沈は激しく、一時は辛い時期もあったようだが、提携していた米国の重工会社シカゴ・ブリッジに転じて力量発揮、技術部長まで務めるようになった。彼の息子、J君は私の息子同様機械屋になり輸送機器メーカーに就職、ヨーロッパ・ドライブ旅行は正夢にならんとしていた。通夜の晩J君と語り合ったのも車の話だった。

2009年6月8日月曜日

決断科学ノート-10(リンダマン;チャーチルの科学顧問)

 スタッフに似た感じの意思決定支援者に顧問と言うものがある。スタッフが“組織”の一員(あるいは組織そのもの)であるのに対して、顧問はより個人色が強い。素早い決断を先端・新規課題で求められる時、組織依存型の支援では組織間調整に手間取ったり、部門自身が新規課題を学習するためにタイミングを失することがある。場合によっては、機密保持のためにごく限られ関係者内で回答を得たいことも生じる。こんな時組織から離れたところに、特定分野に優れた知人(ブレーン)が居ると便利である。経営者(特に社長)の多くはこのようなブレーンを社外に個人的に持って、社内スタッフの役割・対応をチェックすることもある。最新技術に関して、このような方法は大変有効である。
 もう10年以上前になるが、他社でこんな例があった。インターネットが普及し始めている時、社長が社外で“イントラネット(社内のように限られた範囲でのインターネット技術利用)”の効用を聞いてきた。その社長にとって“インターネット”のおおよそは理解していたが“イントラネット”は初めて聞く言葉だった。そこで社内の情報システム部門に「イントラネットとはどんなものか?」と聞いたところ、“インターネット”の説明を得々としたというのである。何か違うと感じたこの社長は、社外の知人に質してこの間違えを確認した後、社内イントラネット構築検討を指示したと言う。
 第二次世界大戦は科学技術戦とも言っていい。英米の政治・軍事のトップ(大臣、司令官)の周りに、よく“科学顧問(Scientific Advisor)”と言う職位を見かける。大体高名な科学者(工学部を含む)である。“ORの父”、ブラケットも海軍省、空軍沿岸防空軍団の科学顧問を務め、その影響力は極めて大きかった。彼の場合、目にした文献・書籍で見る限り、いずれの組織でも軍人や政治家と問題を起こすようなこともなく、現場の信頼は厚かった。これは彼がその立場をよく心得、“政略・理念(大戦略)”の世界に踏み込まず、“科学・技術”に傾注して役目を果たそうとしたからだと言える(しかし立場が変われば自説を堂々と語る人であった;戦後核兵器開発に関して強硬な反対論を展開して、ノーベル物理学賞受賞者でありながら、国の原子力開発から完全に閉め出されている)。
 チャーチルにも科学顧問が居た。オックスフォードで実験物理学の教授を務めていたリンダマンである。もともとはバーデンバーデン生まれ(1886年)のユダヤ系ドイツ人であったが、父親の代に英国籍になっている。初等教育をスコットランド、次いでドイツのダルムシュダットで受けた後、ベルリン大学に進みここで博士号をとっている。第一次世界大戦勃発直後に帰国し英空軍実験航空隊に入隊、テストパイロットとして優れた技量を発揮している。
 1919年、のちに国防政策に関する科学技術政策をめぐり、激しく対立することになるティザードの斡旋でオックスフォードに職を得、休眠状態だった実験物理学研究所(Clarendon Laboratory)を再起・活性化させていく。対するケンブリッジにはラザフォードの率いるCavendish Laboratoryがあり、ブラケットは彼の下で研究員を努めている。
 チャーチルとの関係が出来たのが1921年というからかなり古い。チャーチルはいくつかの省庁の大臣職は経験しているものの、まだ保守党のリーダーにはなっていない。きっかけはチャーチル夫人とリンダマンが同じテニスクラブでダブルスのパートナーを組んだことに始まる(リンダマンは優れたテニスプレーヤーで、ウィンブルドンにも出場するほどの腕前であった)。これが切掛けで、チャーチルは戦争における科学について彼に助言を求めるようになる。特に、保守党の盟友であったバーケンヘッド伯爵が1930年なくなってからは急速にリンダマンを重用するようになっていく。しかし、30年代前半年はインドやアイルランド問題など、軍事以外にも大きな政治課題があり、リンデマンがあまり表面に出る場面はなかった。唯一目につくのはチャーチルの発した「国防強化に関する声明」(1935年)で、これは明らかにリンデマンが1934年8月タイムズ紙に寄稿した“ナチス空軍の脅威”に関する警告と軌を一にするものである。この前後からリンデマンは積極的に亡命ドイツ系ユダヤ人科学者(特にゲッチンゲン大学)を彼の研究所に受け入れ始め、その内の7人は更に米国に渡り、マンハッタン計画に参加している。
 1940年5月、チャーチルが首相となるとリンデマンは彼の個人科学アドバイザーに任じられ、やがてはPaymaster General(予算管理局長)と言う閣僚ポストに就くことになる。彼は自分直属の統計解析組織を立ち上げ、ここでの分析結果をチャートや図にしてチャーチルに直接上げて、その判断に供していった。その範囲は“大戦略から卵の生産”まで及んだと言う。チャーチルは彼を“The Prof(教授)”と呼び、「彼の頭脳は美しい機械である」と賞賛し、戦争内閣(War Cabinet;限られた閣僚のみ参加)や統合参謀会議(War Office)などの重要会議にも彼の隣に席を占めさせ、後には男爵、そして伯爵に叙している(チャ―ウェル卿)。
 しかし、彼の“科学・技術顧問”としての力量・資質には疑問を感ずる面も多々ある。先ず、自分のアイディア(例;空中機雷)やその研究所の研究課題(例;赤外線利用に依る航空機検知;これでレーダー開発が混乱に巻き込まれる)を売り込むことに熱心で、客観的な判断を欠くこと、自分の都合のよいようにデーター・情報を意図的(例;絨毯爆撃効果)あるいは間違いに気付かず(例;V-1,V-2を魚雷と誤認;この件では参謀会議の席上チャーチルにこっぴどく叩かれる)利用すること、他人の成功をあたかも自分の手柄のように振舞うこと(例;弟子のJonesが気付く、ドイツ爆撃機の電子ビーム誘導)などがある。もう一つは、そしてこれがより大きな欠陥だが、地位が上がるとともに、“チャーチルの威”を借りて傲慢・独善的になり、古い友人や弟子からも孤立してゆくその人柄である。この典型に当初は無二の親友であったティザードとの確執がある。これは英国の戦争と科学に関する書き物には必ず触れられるほど有名だが、別途報告することにしたい。
 「彼なくしてあの戦いに勝てなかった」と言う評価がある反面、「典型的な宮廷官僚」とこき下す酷評もあり、評価の難しい人である。微かに感じていることは、チャーチルは老獪な政治家、リンダマンの欠点も知り尽くし、彼を時には悪役に仕立てながら自分の意思・政策を実現して行ったのではないかと言う勘繰りである。
 トップはスタッフ・顧問の一枚上でなければならない。スタッフ・顧問はその分を弁えなければならないと言うことであろうか。

訂正;前回の-9において、ティザードがベルリン大学で研究員を終え“欧州”に滞在中とありますがこれは“豪州”の誤りです。お詫びして、訂正いたします。

2009年6月4日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(1)

1.神々の半島 紀伊半島は和歌山県・奈良県・三重県にまたがる日本最大の半島である。それほど高い山は無いが幾重にも続く山々は深く、温暖な気候と豊富な雨量で、山は木々に埋め尽くされている。その山々は海まで迫り、人々の生活圏を細い線と小さな点にとどめている。飛鳥・平安の時代から都近くに位置しながら、そして下っては徳川の御三家と言う位置にありながら、この地形が現代に至るまで、いにしえとあまり違わない姿を今に残している。
 関西空港がオープンするまで、東京で開かれる全国知事会議参加者で、一番時間がかかるのは和歌山県知事などと揶揄されてきた。身近な知人・友人にも和歌山県に行ったことのない人は多い。それもこの山深い土地ゆえであろう。紀伊半島の外周を走る紀勢本線が一つながりになったのは1959年、その5年後東海道は新幹線の時代である。当時の国道の大部分は未舗装で、絶壁を削り、幾重にも九十九折れて峠を越えて行った。
 この独特の深い自然環境が呼び込んだのであろう、ここには古くからの宗教・信仰に関わる遺産が数多く残っている。代表的なのは、和歌山県では高野山、熊野三社(本宮、速玉大社、那智大社)とそれへのアクセス路、熊野古道。奈良県では女人禁制で有名な大峰山、三重県では何と言っても伊勢神宮。ここは言わば神々の住む半島である。
 この半島(和歌山県)に私が足を踏み入れたのは昭和36年(1961年)の7月、4年生の夏である。7月の初め卒論指導の助教授から就職希望業種を聞かれた。鉄鋼業を希望したところ「鉄はもっとごつい奴の行くところ。君は化学かな?」と言われた。いずれにしてもプロセス工業で働くことが希望だったので「お任せします」と言ったところ、東燃を薦められた。当時の工学部4年生は工場実習が慣わしだったので、会社・工場理解のためと和歌山工場の実習を兼ねてこの地を訪問することにした。交通費・滞在費(幾ばくかの日当と宿泊・三食つき、寮のおばさんが洗濯までしてくれた!)は会社が負担してくれる。それを使って帰りには紀伊半島を周ろう。こんな魂胆もあった。
 東京から夜行列車で大阪に出て、今の環状線(当時は完全な環状になっていなかった)で天王寺へ出る。ここから東和歌山(今の和歌山)駅までは阪和線の電車があったが、予め本社で指示されたのは蒸気機関車の牽く紀勢線直結の列車だった。大阪府と和歌山県の境を成す和泉山脈の山中渓(やまなかだに)辺りから景観が変わり、峠を越えると紀ノ川沿いの平野が広がる。「遠くへ来たなー」と実感する。しかし、それはまだほんの入口だった。そこからが紀勢線の出発点、単線の普通列車は周辺に僅かに建物のあるだけのとんでもなく辺鄙な駅に停車しながら南下していく。やがて山が海に迫り素晴らしい景色が堪能できるが、文明の証はほとんど見かけなくなる。途中にあった冷水浦(しみずうら)駅は無人駅だった。やっと工場の在る初島駅に着いたのはもう午後2時を過ぎていた。気だるい午後、有人ではあるが避難用の山小屋のような小さな駅舎、線路の反対側にはトタン葺きの選果場の建物が一つ。足早に散っていった数人の乗客はもう誰もいない。「いやー大変な所へ来てしまった!就職したらこんな所で暮らすのか!」これがこの地に降り立った時の第一印象である。駅には勤労課の担当者が私を待っていてくれた。「道中問題なかったかい?田舎でびっくりしたろう!」この人は東京育ち、こちらの心中をすっかり見透かしていた。紀州への第一歩はこうして始まった。

 5月20日から24日にかけて、この自然環境厳しい半島の一端で社会人・エンジニアとしての人生をスタートさせ、念願の車を入手し駆け巡った、思い出深い年月と場所を辿るロング・ドライブに出かけた。私の“センチメンタル・ジャーニー”である;♪Gonna take a sentimental journey Gonna set my heart at ease ♪