2009年12月31日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(37)

37.グランドツーリングを終えて(最終回) たった4泊5日の旅を、半年以上かけて書くことになったのは、この紀行文を、大好きな自動車と独り立ちした日々の思い出を重ね合わせることを目論んだからである。いわばこれは“自動車自分史”と言っていい。
 それほど積極的に国内旅行はしていないが、一通り北海道から沖縄まで仕事で、観光で訪れている。車で走った所も関西・四国・山陽・山陰・北陸・東海・関東・甲信越・東北におよび、北海道も一部だがレンタカーで駆け抜けた。季節も四季にわたっている。その限られた風土感の中で、やはり紀伊半島、特にその南部は特異な土地だと思う。京都・奈良・大阪と言う歴史的に古くから開けた土地に隣接し、徳川御三家の一つであったが、日本の近代化は東海道・山陽道を機軸に進められ、日本最大の半島はそれからも外れ、紀ノ川沿いを除けばそして鉄道と道路を除けば、ほとんど古の姿を今に留めているのではないだろうか。これは和歌山県ばかりでなく三重県南部も同じである。ここに住む人々にとっては不便極まりないことだろうが、この未開発こそヒョッとしたら日本の財産かもしれない。
 こんな土地の深奥部を探るには車は持ってこいの手段である。40数年前に比べ道路は格段に良くなっていた。地上高の極めて低いボクスターでも走りに困るところは一ヶ所も無かった。山あり谷あり海もあり、渋滞も無く変化に富んだ道をドライブできる楽しみを堪能した。似たような位置付けにある房総半島は起伏に乏しく、内房はほとんど産業道路でこことは比べものにならない。
 日中出会う車は圧倒的に女性が運転する軽自動車が多い。これは今やわが国の地方では当たり前の光景だが、鉄道が半島周縁部しか走らないこの地では当に生活必需品である。地方出身の国会議員が生命線とも言える道路予算獲得に狂奔するのがよく分かる。
 問題はこの様なところでどう生活していくかである。走った道々に寂れ行く集落、廃屋、シャッター商店街を多く見かけた。平野部が少ないこの土地へ新たな企業が進出してくる気配は無い。あとは温泉と歴史を売り物に観光業を振興するくらいしか思い浮かばない。ただ歴史に関しては、南部では熊野の三社とそれ等へのアプローチ“熊野古道”と言うことになるが、今の道路事情(高速道路の整備状況)では京阪神から気軽に出かけられる環境ではない。半島外周を結ぶ自動車専用道路の完成が待たれる。
 和歌山市中心部の衰退は想像以上だった。しかし、国体道路などを走ると昔とは異なる生活パターンに変わってきていることがよく分かる。息子に聞くとシネマコンプレックスなどもあり、車で出かけられる郊外の大型ショッピングセンターで過ごすことが多いと言う。駅の東側が開けたこともこの町が変わってきた証だ。関空に近いことが首都圏や海外を身近にし、JRの電化延長、阪和道など大阪中心部へのアクセスも良くなっている。昔は工場周辺の社宅に住むのが慣わしだった幹部たちは、子女の教育や生活パターンの多様化で和歌山市内や更に大阪との中間に住まいを持つようになってきていると言う。地方でも中心都市集中の傾向が強まってきていることがここでも起こっている。これからの地方の在り方かも知れない。
 最後に車文化について少し触れてみたい。生活のための車として軽自動車が地方に多いことは前に触れた。観光地や休日に多く見かける車はワゴン車やミニバン、どう見ても“運転が楽しい”車ではない。それでも子供連れの生活にはセダンよりずっと使い勝手が良いのだろう。オープンカーはともかく、遊び車としてのカッコ良さはクーペに尽きるがこれも道中ほとんど見かけなかった。英国やイタリアで垣間見た、ヨーロッパ車文化との違いは明らかに在るし、それは道路・交通行政にも反映している。例えば一般道路における信号の多さはずば抜けているし、車を駆る人間は、嘗ては特権階級、今は凶器を振り回す犯罪者扱いである。自動車専用道路の整備も未だ充分とは言えない。環境規制が厳しさを増す中で、この傾向はさらに強まるのだろう。我々世代が“車に憧れ、楽しむ”最後の世代なのかも知れない。
 完全リタイア後何度か長距離ドライブを楽しんできた。何と言っても時間に縛られることが少ないのが良い。今回は懐かしの地を訪ねることもあり、時間的余裕を充分とった。その分想い出に浸れる機会も多く、変わったもの変わらぬところ、ともに楽しむことが出来た。帰りは一気に帰ったものの、ほとんど自動車専用道路だったこともあり予想以上に早く楽に帰り着いた。これからのグランドツーリングへの自信にもなった。能登半島、秋田方面、島なみ街道などを走ってみたいと思っている。
 神々を訪ねながら48年を振り返る旅の総走行距離は約1380km、ガソリン消費量;約122L、燃費;11,3km/L(都会の渋滞走行はともかく、この燃費は決してハイブリッド車に負けない!)であった。

                (長期のご愛読、有難うございましたm(_ _)m
                         -完-

2009年12月29日火曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(36)

36.休日割引を走る
 5月23日、日曜日。朝ホテル7階の食堂から見下ろす道路は雨に濡れている。しかし、道を行く人は傘をさしていない。今日はこの半島を去る日。一気に横浜まで走る予定なので、酷い雨だけは勘弁して欲しい。そんな願いはどうやら叶えられそうだ。

 帰路のルートをどうするか?このグランドツーリングの重要課題だった。例の休日高速料金割引の適用を最大限利用し、かつ出来るだけ走りを楽み、さらに運転時間を短く、と言う条件をバランスさせなければいけないからである。
 高速割引を最も享受出来るルートは、阪和道→阪神高速→名神→東名と言うルートだが、阪神高速と名神のインターチェンジがある吹田は渋滞の名所、そこから名古屋までも何ヶ所か渋滞多発地帯がある。それに大阪市内を高速で抜けるのも難儀だ。何度か過去に走ったが景色も町も滋賀県内を除けば気分が和むような所は無かった。新名神にはチョッと惹かれるが、次案である東名阪と亀山で合流するので、それならショートカットの名阪中心のルートの方が早い。
 次案はそのショートカットコースである。阪和道→阪神高速までは同じだが、阪神高速を大阪環状手前、松原JCTで西名阪に分岐しその終点天理で名阪道につないで、亀山まで走って、東名阪に乗り四日市JCTで伊勢湾自動車道→豊田JCTで東名に入る案である。和歌山在住時代紀ノ川沿いの道から大和高田を経て亀山へ出るルートは実家との往復で何度か利用しているが、既にその時代名阪自動車道は天理・亀山間が完成しておりその変わり様を見てみたい気もした。しかし、このルートは休日割引に関しては問題があった。それは名阪自動車道が自動車専用道路ではあるが一般道路(無料)なので西名阪を出たところで一旦高速割引が切れ、亀山で東名阪に乗るところから再び高速料金体系が適用されるため名神-東名ルートより割高になることである。ただ絶対的な料金の差は数百円なのでこのルートを走ることにした(休日の高速料金割引は旧道路公団の道路;今回の検討対象の場合、名神、東名、阪和、西名阪、東名阪、伊勢湾に適用され、阪神高速は適用外。旧公団道路はぶつ切りされ、いずれのルートでも1000円で走ることは出来ない)。
 8時半ホテルを出た時には雨は完全に止んでいた。紀勢線のガードをくぐり数分走ると阪和道和歌山IC入口にモービルのSSが在ることを調べておいたのでそこで満タンにした。40.13lだった。前回の給油からの走行距離は420km強、10km/Lは山道を走った事を考えれば上出来である。この燃費ならあとは無給油で家まで帰れる。
 阪和道を自分の運転で走るのは初めてである。日曜の早朝、上り車線は空いている。注意するのはパトカーだ。松原JCTへは堺を越えて大阪市内に入るが混雑は無い。カーナビが西名阪へと導いてくれる。今日は長丁場になるので適度な休憩が必要だ。最初の一休みは大和高田の北に位置する香芝PA、駐車場には家族づれのミニバンが多い。
 天理までが有料道路の西名阪、そこから国道25号線になるがこれは自動車専用道路なので、走りに変わりはない。渋滞は無いが休日の家族ずれで道は走行車線、追い抜き車線とも切れ目無く続いている。天理を過ぎると景色が変わり起伏が出てくるのと、周囲が山林や田畑に変わる。空が明るくなって陰影がはっきりしてくるのも好ましい。走りを楽しむ区間だ。次の休憩を亀山PAでとった。
 ここから再び有料道路の東名阪に入る。昔は、自動車専用道路はここまでだったので、四日市を経て国道1号線に入り幾つもの街中を通ったが、今はその煩わしさはない。東名阪から伊勢湾道路に入ると木曽川を始め大きな川が集中するので橋の連続だ、丁度湾岸道路を東京方面から横浜に向かって走り鶴見のつばさ橋からベイブリッジへつながる感じと似ている。幅がたっぷりあるし走る車も多くないのでついスピードが出てしまう。ちょっと複雑な豊田JCTも難なく通過、東名に入る。浜松SAに着く頃には天気も完全に晴れ絶好の行楽日和。あの広い駐車場がほとんど埋まっている。食堂の混雑は凄まじいばかりだ。
 休日なので東名名物の長距離トラックは少ないが、初夏の快適な気候、とにかく自家用車(ワゴン車、ミニバンが)はこの割引を最大限享受しようと走り回っている感じだ。次の休憩地、足柄SAの混みようも同様だった。それでも道路の流れはまずまずで、横浜・町田ICで新保土ヶ谷バイパスに降り、横々道路を経て3時半には自宅に帰り着いた。

 通行料金は総額3250円、休憩を含めてかかった時間は約7時間、走行距離558km、翌朝満タンにしたガソリンの量は44.64L、燃費12.5km/L!驚異的な数値であった。


 次回は最終回、“グランドツーリングを終えて”をお送りします。
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2009年12月24日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(35)

35.和歌山市内 初島から阪和道海南ICまでの道は全く昔と変わらない。冷水(しみず)浦や片男波辺りから和歌の浦、更に先の紀淡海峡を見通す景観は、48年前乗った汽車からの眺めを今に残し、いつ見てもその美しさに心が洗われる。万葉人も愛でたその時代が時空を超えて伝わってくるのだ。
 ここから海南市内をバイパスして和歌山駅(元東和歌山駅)に至る道は、海南市の北端から紀三井寺を経て和歌山駅まで昭和46年の黒潮国体を機に、嘗ての路面電車の軌道跡を中核に大幅に整備され、海南市内も海岸の埋め立てで工業団地が出来たときにバイパスが作られ見違えるように走り易くなっていた。とは言っても、楽しい走りが出来る道ではない。他の大都市周辺の新道と同じくけばけばしく、安っぽい感じの飲食店や車関係の店、ショッピングセンターなどが両側を埋めている。土曜日の午後と言うこともあり、買い物客の車の出入りが多く車線変更に細心の注意が必要だ。カーナビの案内が有り難い。何とか2時過ぎにJR和歌山駅に隣接するホテル・グランヴィア和歌山の駐車場に辿り着いた。
 ホテルは駅の西側、息子のマンションは駅の東側。訪問するのは今回が初めてなので、東側駅前広場の一角にある、関空バスの発着場で待ち合わせして新居を訪れた。和歌山を去った当時は駅の東側はほとんど何も無かったが、今は綺麗に区画整理されニュータウンが出来上がっている。紀三井寺から駅までの道やこの周辺を見ると、新しい和歌山市が形作られてきているのが分かる。後でも述べるが、その分旧市街中心部は衰退著しい。
 土地代が安いこともあり、和歌山ではどこでも家は立派だが、息子のマンションも首都圏とは大違い。駅から徒歩10数分の比較的新しいマンションは東西南の三方に開口部がある。その6階の部屋からの眺めはなかなかのものであった。京橋界隈で生まれ育った嫁も、文化ギャップは感じているようだが、ここでの生活を楽しんでいるように見え一安心。
 一休みして息子の車で市内見物に出かける。先ず向かったのは和歌山城、御三家の一つ紀州徳川家の居城である。残念ながら昭和20年7月の爆撃で11棟あった国宝建造物はすべて焼失、現在はコンクリート製である。しかし小高い丘(虎伏山)に聳え立つ天守閣からの眺めは、四方に下々を睥睨して殿様気分を堪能させてくれる。周辺は古くは武家屋敷、今では官庁や学校などが集中しており、南側には落着いた佇まいの個人住宅が残っている。
 次に向かったのは万葉にも詠われた和歌の浦、その最西端にある雑賀崎である。戦国時代信長・秀吉に抵抗して壊滅させられた傭兵集団、雑賀衆ゆかりの地である。和歌山には日本史が直ぐそこにあるのだ。
 一車線がやっとの狭く曲がりくねった道を辿って小半島の先端、雑賀崎灯台に至る。南北と西は海、遥か彼方まで見渡せ、南には東燃のタンク群が西日に映えていた。新入社員教育時、会社のタグボートでこの海を往復したことが思い出される。
 灯台からの小道を小半島周回の道路に出て、反時計方向に周ると直ぐに新和歌の浦に出る。断崖絶壁からの景観を利用した旅館街は、嘗ては和歌山市の奥座敷だったが今は見る影も無い。研修施設などに転用されているところもあるが、まるでゴーストタウンである。それに比べれば、観光地としての地位を一旦新和歌に奪われた古くからの町、和歌の浦は生活の匂いが昔と変わらぬ姿で残っていた。変化を求めるのが良いのか?自然体で行くのが良いのか?判断の難しいところである。
 一旦ホテルと自宅に戻り、一休みして繁華街、ぶらくり丁(ぶらくる;ぶら下げるの意、アーケード街)界隈を見物して、そこからからさほど遠くない「銀平」と言う魚料理の店に出かけることになっていた。6時過ぎにホテルロビーに集合、タクシーで嘗ての大通り、築地通りのぶらくり丁入口まで行き、そこからもう一つの市内主要道路、中央通りへ至るアーケード街を歩いてみた。土曜の夕方、本来なら賑わう時間帯である。しかし今ではほとんどの店が閉店か開けていても閑散としている。中央通りへ出ると唯一のデパート「丸正」は既に無い。地方都市における経済活動の激変を思い知らされた。
 「銀平」はそのぶらくり丁の南側を流れる市掘川沿いに在った。銀座にも支店が進出するほどの店はほとんど満員、消費構造は変わっても優れた商品・サービスを提供するところは生き残っているのだ。ここの仕上げで味わった「鯛めし」は絶品であった。
 少し距離はあったが、帰りは駅までの途上、社用族御用達の高級料亭や小料理屋、バーが在った新地(あろち)を抜けて歩いた。しかし、ここも専らいかがわしい風俗ビジネス街に変わっていた。
 夜の和歌山市街地の変わり様は、浦島太郎の玉手箱を開けてしまった姿にも等しい。日本全体の縮図かもしれない。こう感じるのも歳のせいだろうか? 

 本日の走行距離は概ね120km。
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2009年12月19日土曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(34)

34.中紀へ-2(湯浅・有田) 道成寺の在る御坊市は他にも何度か訪れた観光スポットがある。半島の最西端となる日の御碕とそのつけ根にあるアメリカ村。そこから南へ延びる小石の浜辺、煙樹(えんじゅ)が浜などがそれ等だ。アメリカ村はこの地からアメリカへ移民した人たちが里帰りして作った如何にもバタ臭い感じの集落で、「こんな僻地に!こんなモダンな!」とびっくりさせられた。煙樹が浜も非常にユニークな浜辺で、小さな砂利が長い浜を埋め尽くし、波が打ち寄せるたびにその移動音がジャラジャラと響きわたる。立寄ってみたい気はあったが、後のスケジュールを考えると3時までには和歌山市に着きたい。後ろ髪を引かれつつパスすることにした。
 御坊市内を過ぎると道は嘗ての難所、由良峠にかかる。40年前この地を去る時にはトンネルで抜ける新道が既に出来上がっていたが、それ以前は白浜までの間で最も難渋する、曲折する未舗装道路だった。入社翌年の夏、計器係の同僚が体調を崩し、見舞いのため係長のブルーバードでこの峠越えで御坊まで往復した時は汗と悪路の埃で大変な思いをした。
 トンネルへ至る上り坂、そこを抜けると眼下に由良港が見える。景色は往時と何も変わっていない。やがて車はこの地方の古くからの産業と行政の中心地だった湯浅町に至る。ここも40年前にバイパスが出来ており、通常はそこを通るので街中に入ることは無かった。和歌山工場勤務中ここに用があったのはたった一回、簡易裁判所で生まれて初めての交通違反略式裁判を受けた。和歌山市駅(南海)の広っ原とも歩道とも判然としない場所に車を駐車しておいたところ「違法(歩道)駐車」と断じられたのである。木造の村役場の一角にその裁判所が在った。しかし、街なかの印象は全く記憶に残っていない。
 今回はここで訪ねる所がある。醤油発祥の地(全国ブランド、ヤマサもキッコーマンも元はここにある)湯浅に唯一残る、創業170年を誇る醤油製造元の「角長(かどちょう)」である。これも前出のOG君のアドヴァイスだ。ここでは今でも冬にのみ仕込を行い、味噌の桶に溜まった汁(たまり)をたまり醤油として生産している。生産方式が伝統に則るだけにオリジナルな味わいを維持し、生産量は限りがあるのでそれが希少価値を生んでいる。
 セットしたカーナビは、古い町並みの中を信じられないような狭い道を選んでくる。対向車が来たら完全にお手上げだ。幸いそんなことも無く、如何にも由緒がある、それらしき木造の大きな倉庫のような建物へ導いてくれた。建物の近くには駐車スペースが無い。店を確かめた上で付近を徘徊すると何とか2、3台の車が停められる場所が見つかった。見ると“なにわ”ナンバーのワゴン車が停まっている。観光客に違いない。丁度店から数本の醤油ビンを提げた客がこちらに向かってくる。行き違いに確認すると、駐車場はそこで良いのだと言う。
 店は土間と僅かな商品を並べた棚、それと帳場のような部分がある。誰も居ないので声をかけると奥から若い娘さんが出てきた。横浜から半島を巡る旅の途上と話すと、商品の説明のほか、横浜で求められるところも教えてくれた。たまり醤油の小瓶(300ml;500円)を三本求めてこの地を去った。貴重なものなので専ら生で用いる時しか消費しない。
 町を出て42号線に戻ると道は直ぐに有田(ありだ)川南岸の土手を走る。この辺までは車を持つ前から自転車でよく出かけてきたところだ、川の両岸は僅かな平地に畑(昔は田圃)や集落がありその先は小高い丘で、斜面には蜜柑畑が続く。この沿線はドライブインの多いところだったが、今では駐車場のあるショッピングセンターなどが目立つ。こちら側にこのような店が在るということは、北側の箕島駅から線路と併行する旧商店街はどうなっているのだろうか?そんなことが気になりながら、少し遅い昼食を車の停めやすいドライブインの一つでとった。
 紀勢線は川の反対側をそれに並行している。昔の42号線はこの食堂のある通りを更に西に進み、有田川河口最後の橋、安蹄(あぜ)橋を右折して渡り箕島駅方向に向かい、駅へは直行せず、対岸の土手うえの道路を直ぐ左折して西に向かうルートだった。今ではその橋を渡らず、更に南岸を西進して河口に新しく出来た橋を通るようになっている。新しい橋は紀勢線を跨ぐため旧道よりはるかに高い位置に高架で作られている。この道は転勤後まだ現役時代にできたので、その存在は知っていたが走るのは初めてである。寮への分岐路に近い有田警察署のところで旧道につながっている。

 初島小学校の前で左折して初島駅に向かう。7年暮らした初島の町は昔より寂れている。駅前のパチンコ屋も潰れていた。10年位前までは僅かに残っていた零細な商店も営業しているところは無い。人の気配が全く無い道を工場の正門前に至り、ここでUターンして42号線方向へ戻る。42号線沿いにある和歌山クラブ(宿泊所、体育館、グランド)や幹部社宅、独身寮の在った竹田地区に行ってみる。会社のスポーツ大会でもあったのか、グランド周辺に結構人が集まっていた。知った顔でもと思い車を降りてみたが、知らない人ばかりだった。むしろ横浜ナンバーの妙な車を訝しげに見る目に居心地が悪い。ここはもうふるさとではなかった。
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2009年12月12日土曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(33)

33.中紀へ-1(道成寺)
 和歌山県は大別すると紀ノ川流域の紀北、海南から御坊辺りまでの中紀、田辺から新宮に至る南紀に分けられる。このうち南紀は全国ブランドと言って良いし、紀北は何と言っても御三家、紀州徳川家の本陣、地域名はともかくそれなりの存在感がある。行政・産業の中心は紀北、南紀には数々の観光スポットと温泉。それに比べるとこれと言ったランドマークの無い中紀は極めて地味な土地である。しかし、社会人としての一歩を踏み出し7年暮らしたこの地方には一入の思いがある。
 5月23日(土)のこの地方の天気は晴れ。出発の朝の気分は、久し振りの故郷訪問に些か躁状態であった。ロビーのお土産物コーナーで、和歌山工場長を務めたこともあるOG君に5月のOB会で推奨された“柚子もなか”を購入し、フロントで道成寺の住所を確認、カーナビにそれをセットしてホテルを出発した。
 42号線に取り付く温泉街からの県道は、嘗ては有料道路だったはずだが、今では一般道になっている。42号線に出ると、そこから新しい田辺バイパスが出来ており、それは阪和自動車道路の南紀田辺ICにつながっている。この道は初めて走る道だ。確りした分離帯の在る4車線の道は空いていて走りやすい。田辺の市街地をバイパスしたところで専用道路には向かわず42号線に下る。2車線の道は昔何度も走った道だが、歩道が整備されたり、両側の商店やオフィスは車でアクセスしやすい作りになっており、随分感じが変わっている。しかしそれらもやがて消え去り、左側に海を眺めながらのアップダウンに変わると、信号が増えた事を除けば40数年前の風景がそのままの姿をあらわしてきた。梅で有名な南部(みなべ)を過ぎると家並みも疎らになり、走る車も少なくスピードを上げたくなる。しかし、田辺の市街地を離れる際、自動監視装置が在りそれがチッカとしたような気がして自重する(あとで何も無かったところをみると、カメラ前部のガラスに反射する、センターラインの白い破線がそんな錯覚を起こさせたようだ)。
 昔よく一休みした、海を望見できる切目崎には往時と同様ドライブインがあったが、建物は小ぶりになり駐車している車も無かった。時間帯(10時頃)もあるが阪和道が出来て、このルートをとる車が少ないのだろう。有吉佐和子の川三部作(紀ノ川、有田川、日高川)の一つ日高川の手前でナビが42号線を外れて右方向へ向かうよう指示してきた。昔とは違う道だが方向は感覚的に納得。御坊市はこの地方では比較的大きな街なので地方道が整備され、市街を通らず南からのショートカットが出来ているのだ。どうやら阪和道からのアクセス道路らしい。紀勢線を渡ると直ぐ道成寺の門前に着いた。駐車場には中型の観光バスが一台停まっているだけだった。土曜日でも午前はこんな調子なのだろうか?
 門前の両側に並ぶお土産物屋や休憩所、寺へ登る石段は昔通りである。開店間際のせいか店の人もあまりしつこくないのが救いだ。山門の正面に在る本堂もそのまま、ここの回廊を巡りながら、名物和尚のユーモアたっぷりの“安珍・清姫”の話を聞かせるのがこの寺の売りであった。あの和尚はもう居ないだろうが、現在はどんな説明を聞けるのか、ここへの訪問を決めた時から関心はその一点にあった。しかし、どうも本堂の辺りに人の気配は無い。
 山門の左手にはコンクリート製の朱塗りの柱を持つややけばけばしい建物があり、寺務所のような一角が在る。窓口で確認すると、そこは宝物殿で国宝のご本尊(千手観音)などが展示されており、定時毎に説明をするとのこと。観光バスで来た人たちと個人旅行者が数組、全部で20人くらいが11時前に集まったところで、二人の僧侶が入殿。一人が宝物に関する説明をし、しばし見学。この後隣の大広間に移る。ここには安珍・清姫にまつわる絵画や歌舞伎で用いた衣装などが展示されている。もう一人の僧が先ずこの寺のモットー「妻宝極楽」(主婦こそ家庭の柱)について説教し、これが済むと絵巻物(写本)を取り出してメインイヴェント、安珍・清姫の「絵とき説法」が行われる。話し方は淡々としたもので、あの時の見事な語り口は、残念ながら伝承されてはいなかった。 

 昼食を摂るには少し早い。中紀唯一の観光名所、道成寺の拝観を終え、次の訪問地湯浅へと向かう。
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2009年12月6日日曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(32)

32.白良浜と白良浜荘 “白浜”の由来は無論白い浜から来ている。40数年前も現在も白いのは白良浜(しららはま)と呼ばれる、紀伊水道に向かって西に開けた中央部分の浜だけで後は岩場だったり茶色い砂だったりで白い浜ではない。何故ここだけが白いのか?
 少し調べてみると、どうやら昔と今とではその白さの基が違うようだ。今日走ってきた中辺路から白浜に至る道は富田川に沿っている。この富田川の上流は砥石に適した砂岩の産地として有名だが、これは石英分を多量に含み流れの中で細かな白くきらきら光る砂に変じ、河口に堆積して白良浜が出来上がっていたらしい。
 しかし1970年代この川の町中を流れ海に至る部分を暗渠にしてからこの白い砂の吐き出し場所が変わり、浜は茶色に変色してしまう。そこで“白浜”を維持するために、白い砂をオーストラリアやニュージーランドから運んできて、いまでもそれを続けているのだと言う。
 ハワイ・オアフ島は火山島(黒砂)なので本来姉妹浜のワイキキも白い浜辺ではなかった。どこかから大量の白砂を運んできて今の美しいビーチを作ったと聞く。そちらのほうはそんな話を随分昔聞いていたが、こちらも同じ人工的な白浜であることを今回の旅で初めて知った。
 白良浜荘グランドホテルはこの白良浜の北の端にあり、湾曲した白い浜をその南端まで見渡せる絶好の場所にある。昭和の初めに開業し、関西有産階級ご贔屓の高級旅館だったが、戦後は一時期米軍に接収され、その後皇族方(昭和天皇を含む)もご利用になるような格式の高い特別な場所になっていた。工場では幹部がゴルフをするときに利用する程度で、一般社員が気楽に訪れる所ではなかった。一度あそこに泊まってみたい。そんなことを思い続けていたので、息子に頼んで彼の福利厚生プログラムを利用して予約してもらった。
 在和時代浜から遠望したそれは、小ぶりの2階建てだったと記憶するが、今では鉄筋コンクリート6階建てに変わっている。外見はハワイや沖縄のリゾートホテルに近い感じだ。
 玄関の車寄せにオープンで乗り付けるとアロハ姿の従業員が二人飛んできて、一人が荷物をフロントへもう一人が車を駐車場に運んでくれる。フロントの担当者もアロハシャツを着ている。これは後で知ったことだが、ホテル従業員のアロハ着用はこのホテルだけではなく、大方のホテルで採用しているらしい。町全体のリゾートとしての環境づくりの一環なのだ。しかし残念ながら期待した“格式”は感じられなかった。それは広々した、浜につながる明るいロビーも同じだ。かなりの部分はお土産物売り場になり、家族連れが浴衣に丹前スリッパで徘徊している。お客はよく入っているので、富裕顧客限定よりもこの方が商売になるのだろう(これも後で分かったことだが、昭和40年代半ば経営母体が変わり、いまではホテルチェーンの配下にある)。
 案内された部屋は5階の和室、オーシャンビューで白良浜が広縁から一望できる。まあこれが目当てだから良しとしよう。5月下旬は日も長く、まだ浜は眩しいくらい輝いている。ただその浜は何故か平らではなく、波打ち際に沿って円錐状の小山が何十個も一列に遥か彼方まで並んでいる。どうやらこの週末に行われる海開きのための準備らしい。これで砂の芸術品を作るのだ。
 3階の一角に在る大浴場はテラスに露天風呂があり、そこからは沈む西日で輝く大海原が見渡せる。心地よい潮風に当たりながら、熊野古道歩きの疲れを洗い流した。
 夕食はレストランで摂る方式。予約入れ替え制のここはほとんど席が埋まっていた。やはり客の入りはいいのだ。中高齢者のカップルが多い。自慢の和風創作料理は、飾りつけ・盛り付けは手が込んだ見事なものだったが、味の方は特に印象に残るほどでは無かった。
 夕食後、昔賑わっていた浜通りを散策してみたが、人通りは疎らで、往時のちょっと品の無い活気はまるで無く、コンビニの明るさだけが妙に際立っていた。

この日の走行距離は約120kmだった。
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2009年12月3日木曜日

今月の本棚-15(11月)

<今月読んだ本(11月)>
1)ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争(上、下)(デーヴィッド・ハルバースタム);文芸春秋社
2)ノモンハン戦争(田中克彦);岩波書店(新書)
3)貧者を喰らう国(阿古智子);新潮社
4)日本辺境論(内田樹);新潮社(新書)
5)アメリカはなぜイスラエルを偏愛するのか(佐藤唯行);ダイヤモンド社
6)シベリア抑留(栗原俊雄);岩波書店(新書)

<愚評昧説>1)ザ・コールデスト・ウィンター -朝鮮戦争-  2007年4月、本書の最終ゲラに手を加え終わった翌週、取材途上の自動車事故で亡くなったハルバースタムの遺作である。ニューヨークタイムズの記者としてスタート、アメリカの20世紀後半から現代までを代表するジャーナリスト、ノンフィクションライターそして歴史家。最初の大作、ケネディ政権(特にヴェトナム戦争)を描いた「ベスト・アンド・ブライテスト」(1972)でピューリッツァ賞を得てこの世界の第一人者として認められ、「メディアの権力」、「覇者の驕り」(日米自動車戦争)、「静かなる戦争」(クリントン政権と冷戦後のバルカン)など次々と話題作、それも大作を発表してきた。
 その手法は綿密な調査、特にインタビューにあり、個々のエピソードがやがて大きな世界史の流れに変わっていくところは“ハルバースタム・スタイル”として、ノンフィクションの型を作ったと言える。本書も当にそのスタイルで書き上げられている(上下二巻で1000ページを超える)。
 著者あとがきによれば、本書の取材活動はここ10数年だが、動機は1963年ヴェトナム戦争取材中に接した、朝鮮戦争従軍経験のある中佐との会話に発すると言う。自分とさして歳の違わない若者(筆者は開戦時15歳;因みに私は12歳)が、ほとんどのアメリカ人が場所も知らないところで、今まで経験もしたことの無い戦争(厳寒、山岳地帯、悪路、ゲリラ、人海作戦)を戦ったことを知らされ、この(アメリカ人に)“忘れられた戦争”をいつか書かなければならないと思い至る。だからプロローグは「歴史から見捨てられた戦争」と題して始まる。
 日本から開放された朝鮮は、もともとは一つの国だった。38度線は第二次世界大戦後処理の最も曖昧な形で決まったソ連・アメリカの勢力分割線にすぎない。そこがどうなっているのか世界のほとんどの人は知らなかったのだ。アメリカ軍は僅かな軍事顧問団を駐在させていたが実戦力は無に等しい。1950年6月25日朝T-34戦車を先頭に北朝鮮が南に向かって電撃攻撃を仕掛けてきた。米韓軍はアッと言う間に釜山橋頭堡まで追い詰められる。もう一息で半島全体が共産化される寸前、マッカーサーの仁川上陸作戦が成功、こんどは国連軍が38度線を超えて鴨緑江に迫る。マッカーサーは「クリスマスまでには終わる」と豪語した時、中共義勇軍が参戦、第三次世界大戦の危機が迫る。
 厳冬の朝鮮半島、音も無く忍び寄り包囲する中共軍、非対称(兵器・戦術・組織などの異なる)戦争の始まりである。マッカーサーの独断と偏見。チャイナロビーの暗躍(国府軍を中共軍に対抗させることを目論む)。分裂するアメリカの外交・軍事戦略。寒さに凍える兵士の息吹から議会に飛び交う怒号まで、ノンフィクションライターの筆は冴え渡る。戦場の臨場感もさることながら、アメリカの国内政治、マッカーサー(東京)とトルーマン(ワシントン)の葛藤を綴る段で、当時のわが国民主化の手本であったアメリカ民主主義が危うく独裁者の手に委ねられそうになる実態を焙りだす。さすがハルバースタム!彼の手で朝鮮戦争は歴史にきちんと位置づけられた。
 それにしても、帝国陸海軍は真の責任者不在の酷い組織と思っていたが、アメリカ軍も負けず劣らずひどいものだった事を知った。
 ニューヨークタイムズ時代の筆者の同僚は「この本は朝鮮戦争を描きながら、本題は現在戦われているイラク、アフガニスタンにある」と述べている。アメリカが戦った非対称戦争の最初の例であり、ここからの苦い貴重な経験がその後のヴェトナム戦争さらにはイラク、アフガン戦争にまるで生かされていないことに対する憤りと言うことであろうか?
 優れたジャーナリスト・歴史家の歴史の見方を学んだ本と言える。2)ノモンハン戦争  先月の“ゼロ戦”同様、もう書き尽くされたと思っていた“ノモンハン事件”ものだが、副題の-モンゴルと満州-に惹かれて読むことになった。
 読後感は、極めてユニークな視点から書かれており、この事件(戦争;大命は下っていない(関東軍が勝手にやった)のでわが国では当時“事件”と言った)の奥の深さを初めて知らされ、歴史とは角度を変えるとまるで異なるものになることをあらためて学ぶことが出来た。
 筆者は現代蒙古語・蒙古学の専門家。頻繁にモンゴル、ソ連(ロシア)、中国を訪れ、現地の学者と交流しつつ調査研究した結果である。したがって、本書は戦術や戦闘を描いた従来のものとは全く異なり、大国に翻弄される蒙古民族史の立場で書かれた学術研究の趣が強い。
 事件当時のモンゴル共和国(外モンゴル)はソ連の衛星国、日本が作り上げた満州国の北西部はモンゴル人の居住地、内モンゴルは中国の一部そして満州・モンゴルと隣接するシベリア南部には同属のブリヤート人が住んでいる。そこには汎モンゴル主義とでも言うべき共通基盤があり、ソ連・中国はそれを警戒しその動きを嫌う。それに引きかえ満州国のモンゴルは比較的縛りが緩かったようで、他のモンゴル(特に外)は満州モンゴルの扱われ方に注視していたようである。
 遊牧民は放浪の民で国境の概念が曖昧と言うのは見当違いで、遊牧民だからこそ部族毎に放牧地の縄張りは明確に定められていた。ただその境界は川や山のような自然物ではなく、古くからの道標や塚などであった。事件のもととなるハルハ川の東西は彼等にとってその境界ではなかった。そこに事件の一つの鍵がある。
 ロシア革命でモンゴル共和国と言う独立国を得たモンゴル人だが、ソ連の内政干渉は激しく軍事協力(進駐)を執拗に迫ってくる。突っぱねる国家指導者はモスクワに呼びつけられ変死する者もでる。折しもソ連では軍部の大粛清が行われている。そんな時些細な国境侵犯(モンゴル人は侵犯したとは思っていない)が切っ掛けであの事件は始まった。ソ連はこの時とばかり援軍を送ると称してモンゴルに進駐する。外モンゴルの戦死者は200余名と言われるが、この事件を契機に政治的弾圧(チベット仏教の影響力排除)が荒れ狂い百倍もの犠牲者を出したとの報告もある。
 大国の意地の張り合いで始まったあの事件は、外モンゴルの人々にとっては民族的大厄災事だったのだ。

3.貧者を喰らう国
 異色の中国モノである。専門用語ではエスノグラフィック・スタディ(民俗誌的研究)という手法によるフィールドワークを行って集団や人々の社会生活を観察し、体系的な整理を行い、中国を理解しようとするものである。この手法では“現地の社会に(出来るだけ)溶け込んで”調査することがポイントになる。取り組んだ対象は「弱者」、農民や農工民(農村戸籍の出稼ぎ人)である。
 筆者は大学では中国語専攻、大学院で国際関係に移り、それ以降日本大使館専門調査員などを務めその研究を続けてきた人である。大学院時代の現地小学校や中学校の教師、その後のODA絡みの農村における農業灌漑事業や学校建設プロジェクト、中国のNGOに参加しての出稼ぎ労働者実態調査など通じて、地元にどっぷり浸かって行ったフィールドワークだけに、臨場感に富む。決して多くは無いが、自ら撮った写真も研究と現地の事情理解に効果的に使われている。
 国際社会での大国としての姿や、いまや世界の景気回復を一国で支えているように見える中国の、農村や都市の場末にしわ寄せされる開放経済・豊かさのひずみ;貧困や病気、末端行政機関の経済的収奪などを具体的に取り上げ、存在感を高めてきているこの国の影の部分を、弱者の立場から分析し問題提起している。
 その根本的な問題点の一つは、農民と都市住民を峻別する戸籍制度だが、これを一律にすることの困難さは当に現政治体制の維持と深く関わるため、容易でないこともこの本でよく理解できた。
 中国に在る先進国と発展途上国ほどの格差から日本を見れば、そこに在る格差は微々たるものとも見えるが、“格差耐力”の強さは圧倒的に中国にあり、万事平等を求めるわが国社会に脆さを感じると言う筆者の結びは、読者への挑戦的問いかけと言えよう。
4.日本辺境論 以前「私家版・ユダヤ文化論」を紹介したユニークな文化論を展開する内田樹の本である。書店に並べられた初日(11月17日)に買ったが既に10万部突破のベストセラーである。
 中華はもとより、西欧文明からも遠く離れた日本は、長く世界の辺境であった。だからこれら文明の地とは異なる辺境文化が育まれた。その特質を検証し、積極的に生かしてこれからも生きていこうと言うのが本書の論旨である。
 「世界はこうだ!」と(世界に向けて)言い切るような思想も人物も出ていない。常に他者と比較して自らの位置づけを行う、あるいは基点とする。そのために常時周辺の動きを探り、利用できるものは取り込んでいく。このため積み重ねで作り上げられる重厚な文化が出来上がらない(逆に縛られることも無い)。個人レベルでも国家レベルでも「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」(丸山真男)態度こそまさしく日本人のふるまいの基本パターンであり、よその世界の変化に対応する変り身の速さ自体が、伝統化している。
 決断科学の面でも面白い論を展開する。他者との比較で自らを位置づける辺境人は「何が正しいのか」を論理的に判断することよりも、「とりあえず今ここで強い権力を発揮しているものとの空間的遠近によってなにをすべきかが決まる」 と言う。ビジネスマン人生で頻繁に見てきた意思決定方式である。
 これだけだと如何にも“付和雷同、物まね上手の田舎者”と断じられているようだが、辺境人ゆえに「学ぶ力」「学ぶ意欲」「先駆的に知る力」;“自分にとってそれが死活的に重要であることをいかな論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力”に優れている(最近の教育でそれが劣化してきているが)と結んでいる。
 日本そして日本人の未来もそう悲観するものではないと感じさせてくれた。

5.アメリカはなぜイスラエルを偏愛するのか
 発刊は大統領選挙遥か前である(2006年)。この本を選挙前に読んでいたら、その動向が少し面白く考察できたかもしれない。ユダヤ系アメリカ人パワーの凄さを解説する本だが、その焦点は専ら国際・国内政治に合わされているからである。
 外国人、特にアメリカ人と直接付き合うようになってユダヤ系が気になってきた。ExxonでもIBMでもエンジニアにこの系統の人が多かったことによる。少し親しくなると「ジューイッシュ」だと自らその出自を語るが、そこには“差別され続けてきた”ユダヤ人と“傑出した”ユダヤ人と言う複雑な思いが込められているように感じた。これが相互に理解できるようになると親密度は一気に高まる。
 アメリカにおける人口比は2%弱、しかし下院では6%弱、上院では11%を占める。人口比率が最も高かった1930~40年代(3.6%)には下院1.4%、上院はゼロだったところからここまで大躍進したのである。この背景は何と言っても財力で、全米富豪トップ(個人資産)100人の内32人がユダヤ系、私の仕事に近いところでは、マイケル・デル、ラリー・エリソン(オラクル)、スチーブン・パルマー(マイクロソフト)がこの中に入っている。またこのリストには入っていないが、今をときめくグーグルの創設者;サーゲーリ・プリンとラリー・ページもユダヤ系である。一方でハードカバーの半分はユダヤ系の人に買われていると言うように知的世界(学者、専門職、作家・ジャーナリスト、芸術家)でも人口比とは桁違いの実績があり、“決断科学”と密接に関わる応用数学の世界は完全に“ユダヤマフィヤ”に牛耳られている。握られているのは金だけではなく高度な専門情報と独特の宗教感の下で政治家たちを動かしているのだ。
 ユダヤパワー恐る(畏る)べし!
 ユダヤ人史専門の学者が書いたものだが、肩を凝らさずアメリカ、イスラエルそしてユダヤ人の関係を理解するのに適当な本であった。
6.シベリア抑留
 風化し始めた歴史の一こまを小通史としてまとめたものである。筆者は若い新聞記者。昨年新聞に連載したものに手を加えたもののようだ。あの戦争を知らない人にあの悲劇全体を伝えるものとして、思想的偏見も無く(戦争もの、とくにシベリア抑留はその傾向が強い、まして岩波では)、好著と言える。
 しかし、満州で子供ながらに身近にソ連進駐軍の蛮行や父を含む大人たちのシベリア送りへの恐怖を見聞きした者にとっては淡白すぎる読後感であった。
 ちょっと面白いと感じ、もっと掘り下げて知りたいと思ったのは、同じように勾留されたドイツ人捕虜との比較である。仕事を通じたロシア人との付き合いの中で、ドイツ・ドイツ人に対する畏敬の念を感じただけになお更である。これは別のテーマかもしれないが。
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