入手して3年目、初回の車検までに1万6千5百km強を走った。専ら楽しみとしてしか乗らないわりに、距離は伸びている。その車検を済ませた翌日、10月19日7時自宅を出発した。天気は曇りだが、雨になるような重さはない。ルートはナビの推奨する第三京浜用賀・環八経由を避けて、距離的には近い、横々→保土ヶ谷バイパス→16号線→八王子バイパス→中央道八王子ICを採ることにした。案の定、保土ヶ谷BPの中ほどから渋滞が始まり、それは橋本五差路を過ぎるまで続いていた。結局中央道にとりついたのは9時少し前、2時間近くかかってしまった。最近のインターネット・ルート案内は蓄積された渋滞情報を考慮しているようだ。帰路はカーナビの指示に任せてみよう。
幸い中央道に入ると走行車線は連なっているものの、追い越し車線は間が空く。特に、八王子から大月辺りまでは山間部の登りになるので、パワ-・重量比に優れた車にはその持ち味を遺憾なく発揮できる。注意すべきは覆面パトカーと甲府盆地内平坦路のスピード・ガンだ。最初の休憩地、双葉SAに着いたのは10時だった。この頃になると天気も薄日に変わってきた。チョッと残念なのは、中央アルプスや八ヶ岳が遠望できる道筋なのに高い所が雲・霞でそれが楽しめないことであった。
岡谷JCTで長野道に入り途中の梓川SAで昼食。豊科ICで自動車専用道と別れ、いくつかの県道を経て信濃大町の手前で国道148号線(糸魚川街道)に入る。ここまでは山間ではあるが安曇野の平地が広がっている。白馬の少し手前に分水嶺があり、そこから日本海に向けて姫川が流れ出す。川の流れに沿う平野が狭まり、道路も鉄道(大糸線)も川と絡みながら北へ向かう。山の上部が紅葉していることを期待していたが、猛暑の影響かほとんど緑のままである。
道の様子が変わってくるのは白馬をしばらく過ぎてから。山が川に落ち込む斜面に棚状に作られた部分が多くなってくる。アップ・ダウンが激しくなり、“路肩注意”が目に付くようになる。これは単なる警告ではなく本当に傷みの激しいところがあり、片側交互一方通行で補修中の所さえあった。
南小谷の道の駅で一休みすると、その先の道はさらに厳しさを増す。落石・雪崩除けの長い洞門(道路に屋根を架け、谷側はアーチ状の明かり採りがある)が頻繁にあらわれる。それも傾斜の変化と曲がりが続くので、急変する光の強さも相俟って、トンネル以上に運転に気をつかわなければならない。こんな道が新潟県との県境、葛葉峠を超すまで10km近く続いている。狭隘な谷が開けてくるのは日本海まで僅か5km位の、根知と言う所からだ。
糸魚川からはトンネルばかりの北陸自動車道に入らず、旧道(国道8号線)を走った。直ぐに、仕事で何度か出かけたことのある電気化学の工場がある青海を過ぎ、やがて親不知の地名が見えたので道の駅に車を停めてみた。30年位前の夏休み、赤倉の保養所から家族で出かけてきた記憶を辿るのだが、どうもあの時の凄みのある荒波に洗われる海岸が蘇ってこない。あの日は雨天だったからかと思い返してみるのだが納得できない。止むを得ず先へ進むことにする。するとここにも、先ほどの糸魚川街道同様長く、曲折する洞門が待ち構えていた。洞門の中で補強工事が行われており、大型トラックが長い列をつくっている。その洞門を出た直後、海岸方面へ向かう分岐路が現れたので、そこを下りてみると海岸に少し突き出た小さな駐車場があった。車は一台も停まっていない。そこから来し方を振り返ると、あの険しい山が海に落ち込む親不知・子不和の海と長い洞門が在った。しばしその景色を堪能、宇奈月温泉到着は4時。距離計は16,919km、約420km走ったことになる。この日のドライブはまるで“洞門ドライブ”と言ってよかった。
(次回;宇奈月温泉、黒部渓谷)
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2010年11月25日木曜日
2010年11月18日木曜日
決断科学ノート-51(トップの意思決定と情報-11;経営者と数値・数理-3)
化学工学会経営システム研究会のメンバーになってから四半世紀近くになる。発足時のメンバーは化学会社やエンジニアリング会社の取締役・部長が中心だった。その後多くのメンバーはさらに昇進し、新規事業や新製品開発に重要な役割を果たしてきた。経営者の決断と数理の関係を研究するには欠かせない、貴重な友人達である。今では引退し、現役時代の秘話を遠慮なく聞ける仲間に「ところでそれを決める時の数理の役割は如何?」と質すと、「数理なんか全く関係ない!引くにひけずやっている内に芽が出てきた」「顧客に請われ止むを得ず研究していたら、思わぬ展開をした」などと言う答えが大勢であった。“数理を今少し経営の意思決定に!”と念ずる者にとっては期待はずれの答えながら、経営とは意外とこんなものなのかと納得させられもした。とは言っても彼等も技術者、最初の立ち上げやその後の節目々々には数字を求め、それに基づく検討を行って、次のステップに進んでいる。そこには、結果は数字と大きく離れることになったものの、感性と数理のバランスがそれなり取れた判断の存在が見え隠れする。
1980~90年代、東燃も新規事業開発(と言うより研究)に、熱に浮かされたように取り組んでいた。新エネルギー、新材料、バイオ、情報技術などがその対象だった。前回書いたように、東燃の投資案件は数理的なチェックが不可欠だったから、皆この手続きを踏んでいたはずである。TIGER構築の頃、新事業担当役員はNKHさん、この分野だけはどう意思決定が行われるのか、残念ながらその実態を垣間見る機会はなかった。
ある時(確か1983年だったと思う)、珍しくNKHさん(当時常務)から私に呼び出しがかかった。直ぐに部屋に伺うと、数枚から成るレポートを手渡され「この中身を検討してコメントをくれ」と言う指示だった。その場でザーッと目を通すと、それはI社が販売しているプロセス制御用コンピュータシステムの国内販売予測データである。もともとこのシステムはE社とI社が共同開発、その後販売権がI社に移り全世界で商売を展開しているものである。東燃はこのシステムのわが国最初の導入者で、前年末から子会社を通じてその販売活動に協力していたものだ(私は実質的にその責任者だった)。NKHさんはこの資料が誰から渡され、何の目的でこれを検討せよと言ったのかは語らなかった。しかし、直感的に時々話題になる情報システム部門の分社化と関係するものだと思った。
持ち帰った資料に記載された、適用業種別(石油・石油化学は当然のこと、鉄鋼、紙パルプ、電力・ガスなど)に算出された数字を見た第一印象は「何と楽観的な予測だろう!」と言うものだった。数日かけてその数字を精査し、私なりの見通しをまとめて報告に行った。オリジナルの数字の半分である。説明が終わると「そう言う分析が欲しかった」と言われ、この件はそれ以上進展しなかった。
この体験から察するに、東燃の新規事業はNKHさんがどこかから入手した基ネタを、そのネタに近いスタッフ(主に研究所)に検討させ、その分析結果に基づいて断を下していたのではなかろうか?私の場合、与えられた課題は日常業務の延長線上にあったので、全く見当違いの数字を出す恐れは少なかった。しかし、先端新規事業では先の学会先輩諸氏が言うように、数値・数理による事業予測はほとんど不可能と言っていい。そこには段階的・多面的な数値(最終成否とは直接関係しない)チェック、つまり新しい投資評価基準と経験に培われた経営センスの組合せによる判断が必要だったはずである(形式的にこのようなステップを踏んでいたのかもしれないが、中断したプロジェクトは皆無だったように思う)。社運を賭した数々のプロジェクトに、どのような手順が踏まれたのか、そこにはどんな数値や数理が使われたのか、いまや知るすべもない。
TIGER(東燃経営者情報システム)を材料に、11回にわたり“トップの意思決定と情報”について書いてきた。経営者に使ってもらえる(特に意思決定の場で)情報システムを実現したいと思う反面、情報システム以外の要素がここほど大きい分野はないと言うことも痛感した。1990年代後半からERP(Enterprise Resource Planning)と称する統合経営情報システムが導入されてきた。そこにある“経営ダッシュボード”と言う概念は、あたかも経営者がコックピットで計器を見ながら操縦するイメージを企業経営に持ち込もうとしている。しかし、パイロットは計器だけ見て飛んでいるわけではなく、そのデータを参考にしながら、自然環境や機の動きを直感的に判断し、経験に基づく将来予測をしながら操縦しているのだ。
ERPの核は“結果データ”である(計画検討ツールもあるが)。これが生かされるのは自ら考え抜き、経営課題に対する仮説(論理的な因果関係)を作り出せる能力とそれを日々の行動に活かし、状況に応じて修正する環境対応力である。“数値・数理”を超えた経営センスを“それを基に”磨き上げていくようになれば、それが真の経営者情報システムといえるのだろう。
(トップの意思決定と情報;完)
1980~90年代、東燃も新規事業開発(と言うより研究)に、熱に浮かされたように取り組んでいた。新エネルギー、新材料、バイオ、情報技術などがその対象だった。前回書いたように、東燃の投資案件は数理的なチェックが不可欠だったから、皆この手続きを踏んでいたはずである。TIGER構築の頃、新事業担当役員はNKHさん、この分野だけはどう意思決定が行われるのか、残念ながらその実態を垣間見る機会はなかった。
ある時(確か1983年だったと思う)、珍しくNKHさん(当時常務)から私に呼び出しがかかった。直ぐに部屋に伺うと、数枚から成るレポートを手渡され「この中身を検討してコメントをくれ」と言う指示だった。その場でザーッと目を通すと、それはI社が販売しているプロセス制御用コンピュータシステムの国内販売予測データである。もともとこのシステムはE社とI社が共同開発、その後販売権がI社に移り全世界で商売を展開しているものである。東燃はこのシステムのわが国最初の導入者で、前年末から子会社を通じてその販売活動に協力していたものだ(私は実質的にその責任者だった)。NKHさんはこの資料が誰から渡され、何の目的でこれを検討せよと言ったのかは語らなかった。しかし、直感的に時々話題になる情報システム部門の分社化と関係するものだと思った。
持ち帰った資料に記載された、適用業種別(石油・石油化学は当然のこと、鉄鋼、紙パルプ、電力・ガスなど)に算出された数字を見た第一印象は「何と楽観的な予測だろう!」と言うものだった。数日かけてその数字を精査し、私なりの見通しをまとめて報告に行った。オリジナルの数字の半分である。説明が終わると「そう言う分析が欲しかった」と言われ、この件はそれ以上進展しなかった。
この体験から察するに、東燃の新規事業はNKHさんがどこかから入手した基ネタを、そのネタに近いスタッフ(主に研究所)に検討させ、その分析結果に基づいて断を下していたのではなかろうか?私の場合、与えられた課題は日常業務の延長線上にあったので、全く見当違いの数字を出す恐れは少なかった。しかし、先端新規事業では先の学会先輩諸氏が言うように、数値・数理による事業予測はほとんど不可能と言っていい。そこには段階的・多面的な数値(最終成否とは直接関係しない)チェック、つまり新しい投資評価基準と経験に培われた経営センスの組合せによる判断が必要だったはずである(形式的にこのようなステップを踏んでいたのかもしれないが、中断したプロジェクトは皆無だったように思う)。社運を賭した数々のプロジェクトに、どのような手順が踏まれたのか、そこにはどんな数値や数理が使われたのか、いまや知るすべもない。
TIGER(東燃経営者情報システム)を材料に、11回にわたり“トップの意思決定と情報”について書いてきた。経営者に使ってもらえる(特に意思決定の場で)情報システムを実現したいと思う反面、情報システム以外の要素がここほど大きい分野はないと言うことも痛感した。1990年代後半からERP(Enterprise Resource Planning)と称する統合経営情報システムが導入されてきた。そこにある“経営ダッシュボード”と言う概念は、あたかも経営者がコックピットで計器を見ながら操縦するイメージを企業経営に持ち込もうとしている。しかし、パイロットは計器だけ見て飛んでいるわけではなく、そのデータを参考にしながら、自然環境や機の動きを直感的に判断し、経験に基づく将来予測をしながら操縦しているのだ。
ERPの核は“結果データ”である(計画検討ツールもあるが)。これが生かされるのは自ら考え抜き、経営課題に対する仮説(論理的な因果関係)を作り出せる能力とそれを日々の行動に活かし、状況に応じて修正する環境対応力である。“数値・数理”を超えた経営センスを“それを基に”磨き上げていくようになれば、それが真の経営者情報システムといえるのだろう。
(トップの意思決定と情報;完)
2010年11月16日火曜日
黒部・飛騨を駆ける-1(何処を走るか)
5月に奥の細道ドライブ行を楽しんでから、秋にも長距離ドライブをしたいと思っていた。いつ、どこを、どんなルートで走るか。8月下旬から計画を練り始めた。日程は三泊四日。春は北だったので、秋は西に向かいたい。一応目安は北陸に置いた。この方面を自分で運転して走ったのは1969年4月である。この時のドライブで心残りだったことがある。能登半島を先端まで行かず、能登町からショートカットで輪島へ抜けてしまったことである。今度は半島を完全に廻り、帰路は金沢から東海北陸道で高山に至り、そこから北アルプスを越え松本を経て中央道を戻ってくる案である。時期は紅葉が楽しめる10月中旬以降がいい。
この案を家人に提案したところ「能登半島は行ったことがないので行ってみたい。途中で黒部にも寄りたい」ときた。自動車旅行に関心の薄い人間には、黒部は横浜と能登半島を結ぶ途上に在ると思ったのであろう。確かに国内ツアーの広告に「黒部のトロッコ列車と能登の味覚を楽しむ」などというのがあった様な気もする。さらに「黒部の何処が見たいか?」と問うと、「トロッコにも乗りたいし、黒四ダムも見たいと」との答え。同じ黒部でもこれは別物である。しかも両所とも自家用車で近づくには限界がある。中でも立山・黒部アルペンルート(立山-黒四ダム-大町)が問題だ。どちら側からアプローチするにしても、奥深い袋小路に入り込んで、特殊な交通機関(トロリーバス、ケーブルカー、ロープウェイ)を利用し、再び同じルートを戻ってくるしかないのである(縦断する場合、車を回送してもらう必要がある。愛車を人に委ねる気にはならないし、金額・時間も大層かかる)。
能登半島を巡り、二ヶ所の黒部を観光し、さらに飛騨の合掌造りを訪れるとなると、とても三泊四日の旅程では無理だ。やむなく今回は能登を落すことにした。それでもよほど上手くルートを選ばないと、こちらの必要条件である山岳道路・一般道のドライブを楽しむチャンスが無くなってしまう。最初の日は高速を利用すれば500km近く走れる。最終日は自宅へ戻るので時間を気にしなくてもいい。中の二日は200~300km程度としたい。観光の拠点(宿泊地)としては、宇奈月温泉(黒部渓谷トロッコ)、高山(合掌造り)それに信濃大町(黒四ダム)が適当だろう。宿泊地の順番は、山岳ドライブルートを、これも1969年雪で阻まれた安房峠の旧道を選んだことで決まった(今はトンネルで簡単に抜けられるが、これでは再挑戦にならない)。
最初の宿泊地、宇奈月温泉へのルートをインターネット(ナビタイム)で選ぶと(有料道路利用)、何と自宅から第三京浜で用賀に出て環八を北上、谷原から関越道に入り、藤岡JCTで上信越道に岐れて上越市に至り、ここから北陸道に入り富山県の朝日ICで一般道に下りる道筋が示された。条件を変えて中央道を選ぶようにしても、環八で高井戸に出てここから中央道を通り岡谷JCTで長野道へ岐れ、その先は同じように上越市に向かう。感覚的には大迂回路と言う感じだが(事実距離的には遠い)、時間的にはどうやらこれらが正解のようだ。いずれも7時過ぎに家を出ても4時頃には宿に着けるからだ。
しかし、これではひたすら自動車道を走るだけで味気ない。是非走ってみたい一般道がある。それはフォッサマグナの西端に沿う糸魚川街道とそれが日本海に落ち込む昔からの交通の難所親不知付近だ。地形・地質が悪いだけに、ワインディングとアップアンドダウンを堪能できるに違いない。高速は中央道をとることにし八王子から豊科まで利用する。そこから先は希望の一般道を走る。何とか7時出発で5時前には着けそうだ。
次のルートは宇奈月から高山である。黒部渓谷をトロッコで往復するとそれだけで3時間かかる。午前中は走れないので、ドライブに使えるのは1時から6時頃までである。到着時間にフリーハンドが欲しかったので、夕食無しの宿(観光向けだがビジネスホテル形式)を選んだ。合掌造りの村は富山県の五箇山と岐阜県の白川郷の二ヶ所を見たいので、目一杯自動車道を使うことにした。宇奈月から黒部ICで北陸道に入り、小矢部JCTで東海北陸道に岐れ、五箇山ICと飛騨白川ICで一旦高速を下りて観光、飛騨白川から再び高速に戻り、飛騨清見を経て高山清見道路(自動車道)で高山に至る。拠点観光に徹したルート選びである。
三日目のハイライトは北アルプス越えの山岳ドライブ。信濃大町までの道は距離的には今回の旅で一番短い。朝市や市内観光で11時頃まで使い、それから山道に挑むことにした。ルートは158号線、平湯トンネルを抜け、安房峠を越えて松本へ出る。ここから県道を一部走り、糸魚川街道(147号線)に取り付く。街道のこの部分は初日には走っておらず、同じ道に戻るのは豊科からである。そこからアルペンルートの基点、大町温泉まではひとっ走りである。
四日目は早朝に宿を出て、黒部・立山観光の出発点となるトロリーバスの扇沢駅に車を駐車、あとはトロリーバスで黒部ダムに至りそこからケーブルカー・ロープウェイ、再びトロリーバスと乗り継いで室道に達する。そこは立山連峰の最高峰、雄山の足下である。同じルートで3時頃には扇沢駅に戻り、あとは147号線と長野道・中央道を経て帰宅する。
総走行距離はおよそ1000kmだ。
(次回:糸魚川街道・親不知)
(写真はクリックすると拡大します。二度クリックするとさらに拡大します)
この案を家人に提案したところ「能登半島は行ったことがないので行ってみたい。途中で黒部にも寄りたい」ときた。自動車旅行に関心の薄い人間には、黒部は横浜と能登半島を結ぶ途上に在ると思ったのであろう。確かに国内ツアーの広告に「黒部のトロッコ列車と能登の味覚を楽しむ」などというのがあった様な気もする。さらに「黒部の何処が見たいか?」と問うと、「トロッコにも乗りたいし、黒四ダムも見たいと」との答え。同じ黒部でもこれは別物である。しかも両所とも自家用車で近づくには限界がある。中でも立山・黒部アルペンルート(立山-黒四ダム-大町)が問題だ。どちら側からアプローチするにしても、奥深い袋小路に入り込んで、特殊な交通機関(トロリーバス、ケーブルカー、ロープウェイ)を利用し、再び同じルートを戻ってくるしかないのである(縦断する場合、車を回送してもらう必要がある。愛車を人に委ねる気にはならないし、金額・時間も大層かかる)。
能登半島を巡り、二ヶ所の黒部を観光し、さらに飛騨の合掌造りを訪れるとなると、とても三泊四日の旅程では無理だ。やむなく今回は能登を落すことにした。それでもよほど上手くルートを選ばないと、こちらの必要条件である山岳道路・一般道のドライブを楽しむチャンスが無くなってしまう。最初の日は高速を利用すれば500km近く走れる。最終日は自宅へ戻るので時間を気にしなくてもいい。中の二日は200~300km程度としたい。観光の拠点(宿泊地)としては、宇奈月温泉(黒部渓谷トロッコ)、高山(合掌造り)それに信濃大町(黒四ダム)が適当だろう。宿泊地の順番は、山岳ドライブルートを、これも1969年雪で阻まれた安房峠の旧道を選んだことで決まった(今はトンネルで簡単に抜けられるが、これでは再挑戦にならない)。
最初の宿泊地、宇奈月温泉へのルートをインターネット(ナビタイム)で選ぶと(有料道路利用)、何と自宅から第三京浜で用賀に出て環八を北上、谷原から関越道に入り、藤岡JCTで上信越道に岐れて上越市に至り、ここから北陸道に入り富山県の朝日ICで一般道に下りる道筋が示された。条件を変えて中央道を選ぶようにしても、環八で高井戸に出てここから中央道を通り岡谷JCTで長野道へ岐れ、その先は同じように上越市に向かう。感覚的には大迂回路と言う感じだが(事実距離的には遠い)、時間的にはどうやらこれらが正解のようだ。いずれも7時過ぎに家を出ても4時頃には宿に着けるからだ。
しかし、これではひたすら自動車道を走るだけで味気ない。是非走ってみたい一般道がある。それはフォッサマグナの西端に沿う糸魚川街道とそれが日本海に落ち込む昔からの交通の難所親不知付近だ。地形・地質が悪いだけに、ワインディングとアップアンドダウンを堪能できるに違いない。高速は中央道をとることにし八王子から豊科まで利用する。そこから先は希望の一般道を走る。何とか7時出発で5時前には着けそうだ。
次のルートは宇奈月から高山である。黒部渓谷をトロッコで往復するとそれだけで3時間かかる。午前中は走れないので、ドライブに使えるのは1時から6時頃までである。到着時間にフリーハンドが欲しかったので、夕食無しの宿(観光向けだがビジネスホテル形式)を選んだ。合掌造りの村は富山県の五箇山と岐阜県の白川郷の二ヶ所を見たいので、目一杯自動車道を使うことにした。宇奈月から黒部ICで北陸道に入り、小矢部JCTで東海北陸道に岐れ、五箇山ICと飛騨白川ICで一旦高速を下りて観光、飛騨白川から再び高速に戻り、飛騨清見を経て高山清見道路(自動車道)で高山に至る。拠点観光に徹したルート選びである。
三日目のハイライトは北アルプス越えの山岳ドライブ。信濃大町までの道は距離的には今回の旅で一番短い。朝市や市内観光で11時頃まで使い、それから山道に挑むことにした。ルートは158号線、平湯トンネルを抜け、安房峠を越えて松本へ出る。ここから県道を一部走り、糸魚川街道(147号線)に取り付く。街道のこの部分は初日には走っておらず、同じ道に戻るのは豊科からである。そこからアルペンルートの基点、大町温泉まではひとっ走りである。
四日目は早朝に宿を出て、黒部・立山観光の出発点となるトロリーバスの扇沢駅に車を駐車、あとはトロリーバスで黒部ダムに至りそこからケーブルカー・ロープウェイ、再びトロリーバスと乗り継いで室道に達する。そこは立山連峰の最高峰、雄山の足下である。同じルートで3時頃には扇沢駅に戻り、あとは147号線と長野道・中央道を経て帰宅する。
総走行距離はおよそ1000kmだ。
(次回:糸魚川街道・親不知)
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2010年11月12日金曜日
決断科学ノート-50(トップの意思決定と情報-10;経営者と数値・数理-2)
経営者や管理者が共通して関心を持つ数字は、何と言ってもお金に関する情報である。“共通”と言う視点で整理すると、それは為替、株価、金利などの外部情報と、経費や設備投資それに収支などに関する内部情報がある。この他に経営上重要な数字として資金の調達や運用などが入ってくるが、これは専ら経理・財務部門の専管事項と言える。
会計関連業務への電算機利用は技術系よりも遥かに歴史があり、TIGER構築時には統合はされていないものの、一般会計(国の予算区分で言う意味とは異なり、経費予算の立案・執行状況など)、販売会計、貯蔵品会計などが個別にバッチベースで走っていたし、設備投資に関してはこれら会計システムとの結合を部分的に実現していた、COMPACS(COnstruction and Maintenance/Planning And Control System )と呼ばれるシステムが実用に供せられていた。これらの一部情報はTIGERでも提供していたのだが、処理頻度は早いもので月次ベース(あとは四半期、半年)なので、スタッフがその時説明すればそれで充分だった。つまり閉じたルーチンワークの中でことが決して行った(担当者の苦労は在ったが)。
設備投資に関する意思決定は、成熟社会到来前の装置工業にとって最重要経営課題であった。投資金額も大きいし、その回収にも時間がかかる。それ故に比較的広範な人々・部門がこれに関わってくる。需給見通しは、海外情勢や国策と深い関わりを持つ企画部門と生産・物流活動全般に責任を持つ製造部門がまとめていく。価格動向や為替の見通しや資金・収支見通しでは経理・財務部門がベースになる数字を整備する。設備の新設や改造を実際に行う技術部門は技術的施策とそれによる経済効果を取りまとめる。社内審査をパスした案件はさらに大株主、E社・M社との調整を要する。その時の共通判断基準となるのが投資回収率である。
比較的実現のシナリオがわかりやすく、投資金額が小額の場合は単純なペイアウト・イヤー法(回収年限で判定)でもいいが、複雑なもの・期間を要するものはDCF(Discount Cash Flow)リターン法で判定される。これは回収までの期間から投資の現在額を評価するもので(翌年回収できる場合と10年後に回収できる場合とでは、回収率によって現在の価値が変わる;その時の金利が参考基準)、個々の稟議書は、技術的実現可能性が説明でき、この回収率をクリアーしていればまず実行可能となる。その時の金利や将来の原料・製品価格、人件費などが効いてくるので、(簡単な)数理に基づく計算方法ながら、この判定基準数値は主計局機能を担当する経理部予算課が決定する。
あるとき(TIGER後)、回収率にやや楽観的なところがある(一応基準はギリギリ超えていたが)工場用コンピュータ利用投資案件を、何とか技術部の了解を取り付け、次いで経理部に説明に行った。当時経理部長は同期のFJM君だったので、率直に経済性に関するこちらの問題意識を打ち明けた。即座に返ってきた言葉は「省エネルギー関係ならその程度の不確定要素はいいよ。長期的に見れば、エネルギー・コストは現在使っているものより上がると見ているんだ」ということであった。その後の経緯はその通りになった。
この判定基準の柔軟な運用が彼一人の決断だったのか、あるいは役員や関係先との合意だったのかは不明だが、ここにはヨーカ堂の鈴木敏文氏が日ごろ主張している「経営者は仮説を建て、それを常に検証せよ」という考え方に共通するものがある。TIGERはここまで踏み込んだ情報創造のベースを提供できていなかったが、システムの有無に関わらずそういう資質を持った人はいるのである。道具より経営センス(感性)を、と言うことであろうか。
(次回:新規事業と数字)
会計関連業務への電算機利用は技術系よりも遥かに歴史があり、TIGER構築時には統合はされていないものの、一般会計(国の予算区分で言う意味とは異なり、経費予算の立案・執行状況など)、販売会計、貯蔵品会計などが個別にバッチベースで走っていたし、設備投資に関してはこれら会計システムとの結合を部分的に実現していた、COMPACS(COnstruction and Maintenance/Planning And Control System )と呼ばれるシステムが実用に供せられていた。これらの一部情報はTIGERでも提供していたのだが、処理頻度は早いもので月次ベース(あとは四半期、半年)なので、スタッフがその時説明すればそれで充分だった。つまり閉じたルーチンワークの中でことが決して行った(担当者の苦労は在ったが)。
設備投資に関する意思決定は、成熟社会到来前の装置工業にとって最重要経営課題であった。投資金額も大きいし、その回収にも時間がかかる。それ故に比較的広範な人々・部門がこれに関わってくる。需給見通しは、海外情勢や国策と深い関わりを持つ企画部門と生産・物流活動全般に責任を持つ製造部門がまとめていく。価格動向や為替の見通しや資金・収支見通しでは経理・財務部門がベースになる数字を整備する。設備の新設や改造を実際に行う技術部門は技術的施策とそれによる経済効果を取りまとめる。社内審査をパスした案件はさらに大株主、E社・M社との調整を要する。その時の共通判断基準となるのが投資回収率である。
比較的実現のシナリオがわかりやすく、投資金額が小額の場合は単純なペイアウト・イヤー法(回収年限で判定)でもいいが、複雑なもの・期間を要するものはDCF(Discount Cash Flow)リターン法で判定される。これは回収までの期間から投資の現在額を評価するもので(翌年回収できる場合と10年後に回収できる場合とでは、回収率によって現在の価値が変わる;その時の金利が参考基準)、個々の稟議書は、技術的実現可能性が説明でき、この回収率をクリアーしていればまず実行可能となる。その時の金利や将来の原料・製品価格、人件費などが効いてくるので、(簡単な)数理に基づく計算方法ながら、この判定基準数値は主計局機能を担当する経理部予算課が決定する。
あるとき(TIGER後)、回収率にやや楽観的なところがある(一応基準はギリギリ超えていたが)工場用コンピュータ利用投資案件を、何とか技術部の了解を取り付け、次いで経理部に説明に行った。当時経理部長は同期のFJM君だったので、率直に経済性に関するこちらの問題意識を打ち明けた。即座に返ってきた言葉は「省エネルギー関係ならその程度の不確定要素はいいよ。長期的に見れば、エネルギー・コストは現在使っているものより上がると見ているんだ」ということであった。その後の経緯はその通りになった。
この判定基準の柔軟な運用が彼一人の決断だったのか、あるいは役員や関係先との合意だったのかは不明だが、ここにはヨーカ堂の鈴木敏文氏が日ごろ主張している「経営者は仮説を建て、それを常に検証せよ」という考え方に共通するものがある。TIGERはここまで踏み込んだ情報創造のベースを提供できていなかったが、システムの有無に関わらずそういう資質を持った人はいるのである。道具より経営センス(感性)を、と言うことであろうか。
(次回:新規事業と数字)
2010年11月6日土曜日
決断科学ノート-49(トップの意思決定と情報-9;経営者と数値・数理-1)
TIGER(経営者情報システム)で提供した情報は全て数字情報であった。それ等は日常スタッフ部門が提供しているもので、その際にはただそれを渡すのではなく、何らかのコメントや解説が加えられ、場合によって質疑が交わされるのが常である。よほど問題意識を明確の持ち、常日頃自らモニターしている数字でない限り、数字だけでは経営情報にはならない。TIGERの失敗はそこにあったといえる。この項では経営上の意思決定と数値・数理について考えてみたい。
このブログ立ち上げの主旨は「決断においてもっと数理を!」と言うことである。それは日本的経営が慣習や経験あるいは人間関係に過度に依存していると考えるからである。一方にMBA教育に対する数値偏重に批判・欠点のあることも承知した上で、「もう少しバラランス良く」との思いが伝わることを願っている。
経営課題に対する数値・数理アプローチは、経験やしきたりに比べより論理的・客観的である(と思われる)。大きな環境変化があったときなどには、従来のやり方では方向を誤る恐れもある。二度にわたる石油危機(特に第一回目;1973年)では石油・石油化学会社の経営(原料調達・生産・物流・販売)は混乱を極めた。もしあのとき全社や各工場のLPモデル(一次多項式の巨大な数学モデル)を保有し駆使できていなければ、失ったものは大きかったろう。当時本社製造部長、軍隊なら参謀本部作戦部長とも言える職に在ったKNIさんから当時の対応策にご苦労された話を聞いたことがある。
原料(原油)供給と製品販売は株主のE社・M社が行うので、東燃の経営余地は限られている。無論グループ全体の最適化を前提に需給計画の大枠は決まるのだが、それぞれの会社は独立の法人であるから、国策も考慮しながら個別の最適化を実現したいと考える。E社もM社もLP利用では先輩格。簡単にはこちらの要求がすんなり通らない。とは言え情実や人間関係で泣き落としが通じる相手でもないし、株主として政治的な力を使ってくるわけでもない(後年当時の先方の担当者と話した時、「何度そうしたいと思ったか知れなかった」と語っていたが)。ロジック対ロジックの戦いである。
数値・数理に基づく意思決定は、一見公平で納得感があるように見えるが、それ故に注意も要る。最近話題のTPP(Trans-Pacific Partnership;環太平洋経済協定)では、同じ政府の中で、内閣府は年間4兆円のプラス、農林水産省は8兆円のマイナスと出している。つまり前提条件・境界条件が異なれば数学の答えはこれほど大きく変わるのである。
当時の製造担当取締役はTIさん(後に副社長になり情報システムも担当)、この人は工場の装置運転畑から転じた人で、SVOC(スタンダードヴァキューム社)に出張しLP導入の切っ掛けを作った人でもある。製造部門も広い意味で技術系であるが、設計を主体とする技術部門よりはやや商売っ気のある人(金銭感覚に鋭い人;必ずしも個人として蓄財に長けているわけではない)が成功する傾向にある。TIさんはどうもそう言うタイプの人だったらしい。
さて、石油危機到来後の需給計画(長期・中期・短期)をどうしていくか?自分でLPモデルを開発・運用したわけではないが、それに精通したTIさんから次から次へと検討課題が出される。LPの解は前提条件・境界条件よって大きく変動するが、どの因子によってそれが起こるのかは式が複雑・膨大なだけに容易に判明しない。TIさんは答えが自分の想定したものに近づかないと納得しない。彼は“交渉のロジック”を思い通りに組上げるためにLPを使っているのだ。これに製造部と情報システム室のスタッフが翻弄されていく。「最適とは何なのか?」と。
しかし、経営者の経験・感性と数理のバランスと言う点で、この使い方は一つの模範的な例と言えるのではなかろうか。
あれから約40年、最近の若い経営者の中には、使い勝手が飛躍的に向上したITツール(アプリケーション・ソフトを含む)を用いて、スタッフと対話しながら経営上の決断をする姿が現実のものとなってきている。TIさんのように、是非“俺のシナリオ”作りにIT・数理を活用してほしいものだ。
(次回テーマ:投資判断関連)
このブログ立ち上げの主旨は「決断においてもっと数理を!」と言うことである。それは日本的経営が慣習や経験あるいは人間関係に過度に依存していると考えるからである。一方にMBA教育に対する数値偏重に批判・欠点のあることも承知した上で、「もう少しバラランス良く」との思いが伝わることを願っている。
経営課題に対する数値・数理アプローチは、経験やしきたりに比べより論理的・客観的である(と思われる)。大きな環境変化があったときなどには、従来のやり方では方向を誤る恐れもある。二度にわたる石油危機(特に第一回目;1973年)では石油・石油化学会社の経営(原料調達・生産・物流・販売)は混乱を極めた。もしあのとき全社や各工場のLPモデル(一次多項式の巨大な数学モデル)を保有し駆使できていなければ、失ったものは大きかったろう。当時本社製造部長、軍隊なら参謀本部作戦部長とも言える職に在ったKNIさんから当時の対応策にご苦労された話を聞いたことがある。
原料(原油)供給と製品販売は株主のE社・M社が行うので、東燃の経営余地は限られている。無論グループ全体の最適化を前提に需給計画の大枠は決まるのだが、それぞれの会社は独立の法人であるから、国策も考慮しながら個別の最適化を実現したいと考える。E社もM社もLP利用では先輩格。簡単にはこちらの要求がすんなり通らない。とは言え情実や人間関係で泣き落としが通じる相手でもないし、株主として政治的な力を使ってくるわけでもない(後年当時の先方の担当者と話した時、「何度そうしたいと思ったか知れなかった」と語っていたが)。ロジック対ロジックの戦いである。
数値・数理に基づく意思決定は、一見公平で納得感があるように見えるが、それ故に注意も要る。最近話題のTPP(Trans-Pacific Partnership;環太平洋経済協定)では、同じ政府の中で、内閣府は年間4兆円のプラス、農林水産省は8兆円のマイナスと出している。つまり前提条件・境界条件が異なれば数学の答えはこれほど大きく変わるのである。
当時の製造担当取締役はTIさん(後に副社長になり情報システムも担当)、この人は工場の装置運転畑から転じた人で、SVOC(スタンダードヴァキューム社)に出張しLP導入の切っ掛けを作った人でもある。製造部門も広い意味で技術系であるが、設計を主体とする技術部門よりはやや商売っ気のある人(金銭感覚に鋭い人;必ずしも個人として蓄財に長けているわけではない)が成功する傾向にある。TIさんはどうもそう言うタイプの人だったらしい。
さて、石油危機到来後の需給計画(長期・中期・短期)をどうしていくか?自分でLPモデルを開発・運用したわけではないが、それに精通したTIさんから次から次へと検討課題が出される。LPの解は前提条件・境界条件よって大きく変動するが、どの因子によってそれが起こるのかは式が複雑・膨大なだけに容易に判明しない。TIさんは答えが自分の想定したものに近づかないと納得しない。彼は“交渉のロジック”を思い通りに組上げるためにLPを使っているのだ。これに製造部と情報システム室のスタッフが翻弄されていく。「最適とは何なのか?」と。
しかし、経営者の経験・感性と数理のバランスと言う点で、この使い方は一つの模範的な例と言えるのではなかろうか。
あれから約40年、最近の若い経営者の中には、使い勝手が飛躍的に向上したITツール(アプリケーション・ソフトを含む)を用いて、スタッフと対話しながら経営上の決断をする姿が現実のものとなってきている。TIさんのように、是非“俺のシナリオ”作りにIT・数理を活用してほしいものだ。
(次回テーマ:投資判断関連)
2010年11月1日月曜日
今月の本棚-26(2010年10月)
<今月読んだ本(10月)>1)鉄道と日本軍(竹内正浩);筑摩書房(新書)
2)クラウド化する世界(ニコラス・G・カー);翔泳社
3)パリの異邦人(鹿島茂);中央公論新社
4)昭和45年11月25日(中川右介);幻冬舎(新書)
5)はやぶさの大冒険(山根一眞);マガジンハウス
6)理科系冷遇社会(林幸秀);中央公論新社(新書)
<愚評昧説>
1)鉄道と日本軍
題名から想像すると、大東亜戦争(第二次世界大戦)における日本軍の作戦と関係しそうだが、全く違う。戦争として取り上げられるのは日清・日露戦争までである。それも戦闘行動を中心にしたものではない。あくまでも主題は“鉄道”であり、わが国の鉄道の黎明期、いかに当時の軍部がそれと深く関わり、今日の形(私鉄・新幹線を含む)に至ったかを述べたものである。
先ず両京(京都・東京)を結ぶ幹線計画(当面は新橋・横浜間)に兵部省が反対する。それには出発点となる浜離宮周辺を海軍根拠地として整備する計画を持っていたからだ。土地の奪い合いとそこに駅が出来たときの外国人とのトラブル(外国軍隊の干渉)を懸念してのことである。太政官を請われた西郷隆盛も膨大は費用を要する鉄道建設よりも、軍備の充実を優先すべきとの意見書を提出している。
その西郷を旗頭とする西南の役が起こったのは、阪神間の鉄道開業式の日であった。この戦役で軍事システムとしての鉄道が初めて使われる。近衛連隊を始めと在関東の陸兵が、新橋から横浜に輸送され、その先は海路で九州に向かっている。
軍隊輸送に役立つことを認めた軍部は、それからの鉄道建設に強い関心を示し、計画に口を出してくるようになる。当時の国防政策は海外遠征など全く考えて居らず、専守防衛である。その拠点は鎮台(要塞)を中心とするものであったが、特に明治21年これを機動力重視の師団編成に改めたことで、鉄道の重要性がクローズアップしてくる。また鎮守府と呼ばれた海軍根拠地への輸送力アップも必要となり、これら軍事基地周辺の鉄道整備が急速に進められていく。
当時は砲艦外交という言葉があるように、軍艦の砲力が勝負を決する力を持っていた。従って海岸沿いに鉄道を敷くことは国防上好ましくないとの考えが強く、軍の意見を入れて当初の両京を結ぶルートの名古屋・東京間は中山道案に決まっていたのだが、総工費・トンネル工事難易度・勾配などで東海道案が逆転している。また輸送力を高めるため標準軌・複線を推したのも陸軍である。これは参謀本部と鉄道局の激しい対立の後狭軌に決まるが、昭和になると弾丸列車構想として蘇り、その後の新幹線、さらにはリニア新幹線構想につながっていく。
日清戦争勃発時、路線は青森から広島(宇品)までつながり、大本営は国内最前線ともいえる広島に設置される。全国から陸兵がここに移送され、朝鮮半島に送られていく。その後この宇品は大東亜戦争でも陸軍最大の遠征出立地になっている。
こうして日露戦争時の国内輸送や朝鮮半島での鉄道敷設、ロシアのシベリア鉄道建設秘話などを紹介しながら、わが国鉄道発達の過程と軍との関係を明らかにしていく。
鉄道ファン(と言っても“鉄チャン”というほどのマニアではないが)として初めて触れる話題も多く楽しく読んだ。鉄道史としてもユニークで価値のあるものである。
2)クラウド化する世界
クラウド・コンピューティングとは、自社(あるいは個人)で端末と通信回線以外の設備を持たず、どこに在るのか判らないセンターのコンピュータを利用して、業務・仕事を処理する利用形態を言う。アプリケーションソフト(個人の場合、ワープロ機能や表計算機能など)も端末には組み込まず、センターのものを利用する。これを図に描くとき、自社内のシステムはネットワークや端末を実線シンボルで表すが、センター機能は雲(クラウド)形で表すことからその名が来ている。
自社にコンピュータを持たず(持てず)、コンピュータ・センターのものを利用する考え方は、1960年代から在った。東燃でもLP導入期にはIBMのセンターを利用していた。この場合は工場モデルやデータを持ってセンターに出かけ、そこで時間借りをするやり方であった。しばらくするとそれが自社の入出力装置と通信回線でつながり、社内から居ながらにして利用できるようになっていく。ただ入出力処理やモデルの様式はあくまでもユーザー自身が設計・開発し保守を行う必要があった。これではセンター利用に制限があるので、経理や購買、在庫管理などを定型フォームで提供するサービスを電電公社(当時)が始めたのが1970年代である。
しかし、汎用機の急速な性能アップとコストパフォーマンスの改善、さらにはそれに続くPCをはじめとするダウンサイジングの普及で、制約の多いセンター利用よりも自社システムを持つことが主流になり、センター共同利用は思ったほど広がらなかった。
クラウド・コンピューティングと言う考え方が出現した時、専門家ですら「センター利用は昔からあったのに」と語っていたし私も同じように思った。ITジャーナリズムですらこのシステムの特徴を解かりやすく説明できていなかったと言っていい。
この本はそんなモヤモヤを解消してくれる優れたクラウド解説書である。従来のセンター・システムとの決定的な違いは、通信速度とインターネット環境普及にある。いまや国内のみならず世界を跨ぐ光ケーブルのもたらす通信速度は遠隔地にあっても距離や時間を感じさせないほど早くなっている。また、アプリケーションの入口(マン・マシーンインターフェース)をWeb画面で作ることにより、インターネット利用可能な環境では特別な操作なしでアクセスできるのだ。
このような話を、電力システムの歴史と重ねながら語っていくところに、筆者のIT・経営ジャーナリストとしての薀蓄が傾けられ、専門家でないものに理解し易いものにしている。
エジソンが発電機を発明し商売を始めた時、それは各利用先(主として工場)に設置されていた。そうすることで沢山の発電機が売れるのでエジソンの会社(GE)は利益を上げることが出来た。技術的な理由もあった。電気は直流だったので遠距離送電は著しいロスを生じたのである。しかし、各工場はこの発電機を利用・保守するための担当者を必要とした。この例えが自社ITシステムを持つ話に重なる。
エジソンの下で営業や管理業務を行っていた英国生まれの若者が居た。彼はやがて交流システム送電のメリットを知り、交流発電機による大規模な発電所を建設しユーザーには発電機を不要とする電力供給システム構築に邁進する。料金は電力メーターで計ればいい。エジソンはメディアを利用して交流が危険であると妨害活動を行うが・・・。発電所はセンターに、交流はインターネットに置き換わり、クラウド・コンピューティングの優位が説得力をもって語られていく。
この本は二章建てになっており、第一章は上記のクラウド・コンピューティングを、メリットを中心に解かりやすく解説していく。しかし、第二章では初めにインターネットの歴史が語られ、次いで急速にそれに依存するネットワーク社会の問題点(特にオールドメディア;新聞・出版・広告・TVなど:また電力不足の恐れ:思考プロセスの変化;深く考えなくなるのではないか?)やクラウド実現後のユーザーにおける情報システム構築・管理に関する留意事項など比較的ネガティヴな話題を取り上げて、良いこと尽くめではないIT利用の将来に問題提起を行っている。きわめてバランスの良い構成は、IT業界の提灯記事の多いこの分野の本として出色のものである。
購入動機は、著者の最新作The Shallows(邦訳タイトル「ネット バカ」)を調べている時に知り、ついでに買ったものだが、2008年原著出版ながら現在のIT環境を理解するのに役立つ好著であった。
3)パリの異邦人
このところチョッとフランスに興味がある(先々月の「シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々」も同趣旨)。それで衝動買いした本である。
語られるのはパリに戦前滞在した有名外国人8人;米国人3人、英国人2人、あとはオーストリア、ドイツ、キューバ出身である。皆作家。知っている名前は、リルケ、ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェル、ヘンリー・ミラーの4人だけであとの4人は、この本で初めて知った。
それぞれの代表作品の中で、彼等がパリあるいはフランスについて語るくだりをピックアップし。その語りの背景や当時の交友関係などからパリにおける彼等の生活振りを著者が類推したり解説したりする様式で一話がまとめられている。
著者が一冊の本としてこれをまとめた狙いは、これら外国人作家がパリに居たゆえに大成したと言うことを述べるところにある。“触媒都市”としてのパリの存在意義である。パリ自身は何も変化しないのに、人間を大きく変化させる魔力を持つ街がパリなのだと。
わが国の芸術家(特に画家)にも滞仏で開花した人が少なくない。パリとはその意味でロンドンやニューヨークとは全く異なる不思議な力を持つ街であることが想像できる。
チョッと面白かったのは、米国人が同じ場所、同じ店(例えばシェイクスピア&カンパニー書店)にたむろしていることをそれぞれの話を突き合わせて知ったことである。外国へ行くとどんな人種も同じような行動をとるものなのだ。
4)昭和45年11月25日 タイトルは三島由紀夫が割腹自殺した日である。来る25日であの衝撃的事件から40年になる。この日は本社で海外出張発表会を行うために、往路か復路かは記憶が定かではないが、川崎工場と本社間を結ぶ定期便(川崎工場の社有車)の中でこのニュースを聴いた。「まさか!」そして「何故そんなことを!?」と言うのがその時の思いであった。
既に作家としての名声は確立し、しばしば奇行で世間の注目も集めていた三島。この事件の主体となる「楯の会」も、青白き知識人とは異なる生き方を誇示する、彼独特のパフォーマンスの一つとして広く知られていたが、こんなことに結びつくものとは思ってもいなかった。この日市ヶ谷の自衛隊バルコニーからアジ演説をする彼は、楯の会の制服をまとい、行動を共にする森田必勝はこの会のリーダーである。
この前月、大阪万博は史上最大規模の観客を集め成功裏に終わっている。石油危機到来前、為替レートは固定で1ドル360円、輸出好調の日本経済は当に日の出の勢い。社会も企業も個人も、奇跡を現実のものしていた。「経済だけに夢中になり、国のあるべき姿を蔑ろにしている。自衛隊員よ、世直しのために立て!」これが三島の主張であった。しかし、誰もがこれを“狂気の沙汰”と思った。
この本は、あの日の事件について著名人;政治家、ジャーナリスト、文化人、経済人、高級官僚、三島の親族・知人友人、著者(当時10歳)周辺の人々がどのように受け取り、発言してきたかを丹念に集め整理したものである(個人名がこれほど多い本は珍しい)。だから事件直前後の発言もあれば、数年~数十年後当時を回想して書かれたものもあるので、時制の一致はない。多くの証言を集めることに依り、三島がそこに至った心境を見えるようにしようとの試みで書かれている。
私見だが、今振り返ってみれば、彼の危機感はかなり正しかったように思えてくる(自衛隊にクーデターを促したことに共感はしないが)。普天間も尖閣諸島も(場合によって北方四島も)今ほど情けない形にはなっていなかったのではなかろうかと。天才は常人の何十歩も先を歩いていたとみたい。
5)はやぶさの大冒険
今年も余すところ2ヶ月を切った。明るい話題のほとんどない本年、最大のグッド・ニュースは、2003年5月に打ち上げられ、60億km彼方の小惑星「イトカワ」に着陸、そこからの満身創痍になりながらの「はやぶさ」地球帰還ではなかろうか。持ち帰ったものが果たして「イトカワ」の一部かどうかは調査中だが、7年におよぶ航海(?)だけでもノーベル賞受賞と甲乙つけがたい快挙と言える。
わが国の宇宙開発には二つの流れがある。一つは旧文部省の管轄に属するもので、大学人中心に宇宙科学研究を主に進められてきたもの(東大生産技術研究所(現先端科学技術研究センター)→国立宇宙科学研究所)。もう一つは旧科学技術庁内から発した実用人工衛星(通信、放送、気象観測など)打ち上げやNASAと一体になり宇宙研究を行う組織である(宇宙開発推進本部→宇宙開発事業団)。現在はJAXA(独立行政法人宇宙航空研究開発機構)に統一されているが、「はやぶさ」は前者に属する研究衛星で、打ち上げ基地は種子島ではなく、鹿児島県の大隈半島内之浦、管制センターは相模原に在る。JAXAの誕生は2003年10月だから、「はやぶさ」は文部省時代に打ち上げられ、帰還は独立法人になってからと言うことになる。
大学の宇宙科学研究は、実用衛星打ち上げや宇宙ステーションでの研究とはかなり性格が異なるので、打ち上げロケットも衛星も別々に開発されてきた。科学研究用ロケットは、小型だが歴史的には遥かに古く、独自性をもったものである(実用衛星打ち上げロケット開発はかなり米国に介入され、依存させられている)。今回話題になったイオン・エンジンもそんな歴史的背景から生み出されたものである。自ら作り上げた衛星だけに、困難を切り抜けるアイディアが次々と発し、それが問題解決に生かされたと言ってもいい。
本書は科学ジャーナリストの山根一眞が打ち上げ前から取材を開始し、帰還をオーストラリアの砂漠で迎えるまでを記したものだが、当初はこれほど時間がかかると思わなかったろう。しかし、途中で手を抜くことなくトラブルに直面する度に掘り下げた取材・調査を続けているので、臨場感抜群である。
図や写真の多いことも本書を読みやすいものにしているが、あとがきを見ると読者の対象を中学生辺りまで想定しているようだ。とにかく素人に解かりやすく書かれていることに感心した。科学ノンフィクションの手本と言っていい。
6)理科系冷遇社会
この類の本を何冊か読んでいるので、「また生涯賃金や出世の比較か」と思って手に取ったが(それも皆無ではないが)、主題は“わが国科学・技術施策”に関する現状と将来を論じているものであった。読後感は「科学・技術立国危うし」である。「はやぶさ」の後だっただけにその揺り戻しは大地震クラスである。
著者は大学で原子力工学を専攻した科学技術庁(入庁時)の技術官僚である。文部科学省に改編された後、科学技術・学術政策局長(文部科学審議官→JAXA副理事長→東大先端科学技術研究センター教授)を務めているので、技術官僚としては位を窮めた人と言える。従って個人的な泣き言など一切ない。
初等教育における理科離れとそれに伴う理工学部系進学者の減少、ポスドクの惨状、大学の旧態然たる状況(既得権固守)、ハイテク研究とビジネスの落差(直ぐにキャッチアップされ、追い越されてしまう)、論文や特許の数、国家ビッグプロジェクトの資金難、国際化の遅れなど、あらゆる点でわが国の国際競争力が低下していっていることを、客観的データを連ねて訴えていく。欧州はEUでまとまる方向で米国優位に対抗し、中国は目覚しい経済成長と比例するように競争力を高めてきている。韓国は選択と集中を徹底して得意分野を絞り込んでイニシアティヴを取る戦略だ。
そこには、人間しかこれと言った資源のないわが国、科学技術戦争に勝ち抜くしか将来はない!従来のやり方・考え方を大胆に変えていくしかない!という著者の主張が込められている。
しかし読んでいて「それは本来あなたの仕事ではなかったのか?」という素朴な疑問が浮かんできた。あとがきを読んで、その点は著者も自覚したようで「自分に唾するようだ」と書きながら、「それでもこの窮状を国民に少しでも知ってもらいたい」との思いで本書を書いたとしている。「蓮舫さん二番目ではダメなのです」
2)クラウド化する世界(ニコラス・G・カー);翔泳社
3)パリの異邦人(鹿島茂);中央公論新社
4)昭和45年11月25日(中川右介);幻冬舎(新書)
5)はやぶさの大冒険(山根一眞);マガジンハウス
6)理科系冷遇社会(林幸秀);中央公論新社(新書)
<愚評昧説>
1)鉄道と日本軍
題名から想像すると、大東亜戦争(第二次世界大戦)における日本軍の作戦と関係しそうだが、全く違う。戦争として取り上げられるのは日清・日露戦争までである。それも戦闘行動を中心にしたものではない。あくまでも主題は“鉄道”であり、わが国の鉄道の黎明期、いかに当時の軍部がそれと深く関わり、今日の形(私鉄・新幹線を含む)に至ったかを述べたものである。
先ず両京(京都・東京)を結ぶ幹線計画(当面は新橋・横浜間)に兵部省が反対する。それには出発点となる浜離宮周辺を海軍根拠地として整備する計画を持っていたからだ。土地の奪い合いとそこに駅が出来たときの外国人とのトラブル(外国軍隊の干渉)を懸念してのことである。太政官を請われた西郷隆盛も膨大は費用を要する鉄道建設よりも、軍備の充実を優先すべきとの意見書を提出している。
その西郷を旗頭とする西南の役が起こったのは、阪神間の鉄道開業式の日であった。この戦役で軍事システムとしての鉄道が初めて使われる。近衛連隊を始めと在関東の陸兵が、新橋から横浜に輸送され、その先は海路で九州に向かっている。
軍隊輸送に役立つことを認めた軍部は、それからの鉄道建設に強い関心を示し、計画に口を出してくるようになる。当時の国防政策は海外遠征など全く考えて居らず、専守防衛である。その拠点は鎮台(要塞)を中心とするものであったが、特に明治21年これを機動力重視の師団編成に改めたことで、鉄道の重要性がクローズアップしてくる。また鎮守府と呼ばれた海軍根拠地への輸送力アップも必要となり、これら軍事基地周辺の鉄道整備が急速に進められていく。
当時は砲艦外交という言葉があるように、軍艦の砲力が勝負を決する力を持っていた。従って海岸沿いに鉄道を敷くことは国防上好ましくないとの考えが強く、軍の意見を入れて当初の両京を結ぶルートの名古屋・東京間は中山道案に決まっていたのだが、総工費・トンネル工事難易度・勾配などで東海道案が逆転している。また輸送力を高めるため標準軌・複線を推したのも陸軍である。これは参謀本部と鉄道局の激しい対立の後狭軌に決まるが、昭和になると弾丸列車構想として蘇り、その後の新幹線、さらにはリニア新幹線構想につながっていく。
日清戦争勃発時、路線は青森から広島(宇品)までつながり、大本営は国内最前線ともいえる広島に設置される。全国から陸兵がここに移送され、朝鮮半島に送られていく。その後この宇品は大東亜戦争でも陸軍最大の遠征出立地になっている。
こうして日露戦争時の国内輸送や朝鮮半島での鉄道敷設、ロシアのシベリア鉄道建設秘話などを紹介しながら、わが国鉄道発達の過程と軍との関係を明らかにしていく。
鉄道ファン(と言っても“鉄チャン”というほどのマニアではないが)として初めて触れる話題も多く楽しく読んだ。鉄道史としてもユニークで価値のあるものである。
2)クラウド化する世界
クラウド・コンピューティングとは、自社(あるいは個人)で端末と通信回線以外の設備を持たず、どこに在るのか判らないセンターのコンピュータを利用して、業務・仕事を処理する利用形態を言う。アプリケーションソフト(個人の場合、ワープロ機能や表計算機能など)も端末には組み込まず、センターのものを利用する。これを図に描くとき、自社内のシステムはネットワークや端末を実線シンボルで表すが、センター機能は雲(クラウド)形で表すことからその名が来ている。
自社にコンピュータを持たず(持てず)、コンピュータ・センターのものを利用する考え方は、1960年代から在った。東燃でもLP導入期にはIBMのセンターを利用していた。この場合は工場モデルやデータを持ってセンターに出かけ、そこで時間借りをするやり方であった。しばらくするとそれが自社の入出力装置と通信回線でつながり、社内から居ながらにして利用できるようになっていく。ただ入出力処理やモデルの様式はあくまでもユーザー自身が設計・開発し保守を行う必要があった。これではセンター利用に制限があるので、経理や購買、在庫管理などを定型フォームで提供するサービスを電電公社(当時)が始めたのが1970年代である。
しかし、汎用機の急速な性能アップとコストパフォーマンスの改善、さらにはそれに続くPCをはじめとするダウンサイジングの普及で、制約の多いセンター利用よりも自社システムを持つことが主流になり、センター共同利用は思ったほど広がらなかった。
クラウド・コンピューティングと言う考え方が出現した時、専門家ですら「センター利用は昔からあったのに」と語っていたし私も同じように思った。ITジャーナリズムですらこのシステムの特徴を解かりやすく説明できていなかったと言っていい。
この本はそんなモヤモヤを解消してくれる優れたクラウド解説書である。従来のセンター・システムとの決定的な違いは、通信速度とインターネット環境普及にある。いまや国内のみならず世界を跨ぐ光ケーブルのもたらす通信速度は遠隔地にあっても距離や時間を感じさせないほど早くなっている。また、アプリケーションの入口(マン・マシーンインターフェース)をWeb画面で作ることにより、インターネット利用可能な環境では特別な操作なしでアクセスできるのだ。
このような話を、電力システムの歴史と重ねながら語っていくところに、筆者のIT・経営ジャーナリストとしての薀蓄が傾けられ、専門家でないものに理解し易いものにしている。
エジソンが発電機を発明し商売を始めた時、それは各利用先(主として工場)に設置されていた。そうすることで沢山の発電機が売れるのでエジソンの会社(GE)は利益を上げることが出来た。技術的な理由もあった。電気は直流だったので遠距離送電は著しいロスを生じたのである。しかし、各工場はこの発電機を利用・保守するための担当者を必要とした。この例えが自社ITシステムを持つ話に重なる。
エジソンの下で営業や管理業務を行っていた英国生まれの若者が居た。彼はやがて交流システム送電のメリットを知り、交流発電機による大規模な発電所を建設しユーザーには発電機を不要とする電力供給システム構築に邁進する。料金は電力メーターで計ればいい。エジソンはメディアを利用して交流が危険であると妨害活動を行うが・・・。発電所はセンターに、交流はインターネットに置き換わり、クラウド・コンピューティングの優位が説得力をもって語られていく。
この本は二章建てになっており、第一章は上記のクラウド・コンピューティングを、メリットを中心に解かりやすく解説していく。しかし、第二章では初めにインターネットの歴史が語られ、次いで急速にそれに依存するネットワーク社会の問題点(特にオールドメディア;新聞・出版・広告・TVなど:また電力不足の恐れ:思考プロセスの変化;深く考えなくなるのではないか?)やクラウド実現後のユーザーにおける情報システム構築・管理に関する留意事項など比較的ネガティヴな話題を取り上げて、良いこと尽くめではないIT利用の将来に問題提起を行っている。きわめてバランスの良い構成は、IT業界の提灯記事の多いこの分野の本として出色のものである。
購入動機は、著者の最新作The Shallows(邦訳タイトル「ネット バカ」)を調べている時に知り、ついでに買ったものだが、2008年原著出版ながら現在のIT環境を理解するのに役立つ好著であった。
3)パリの異邦人
このところチョッとフランスに興味がある(先々月の「シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々」も同趣旨)。それで衝動買いした本である。
語られるのはパリに戦前滞在した有名外国人8人;米国人3人、英国人2人、あとはオーストリア、ドイツ、キューバ出身である。皆作家。知っている名前は、リルケ、ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェル、ヘンリー・ミラーの4人だけであとの4人は、この本で初めて知った。
それぞれの代表作品の中で、彼等がパリあるいはフランスについて語るくだりをピックアップし。その語りの背景や当時の交友関係などからパリにおける彼等の生活振りを著者が類推したり解説したりする様式で一話がまとめられている。
著者が一冊の本としてこれをまとめた狙いは、これら外国人作家がパリに居たゆえに大成したと言うことを述べるところにある。“触媒都市”としてのパリの存在意義である。パリ自身は何も変化しないのに、人間を大きく変化させる魔力を持つ街がパリなのだと。
わが国の芸術家(特に画家)にも滞仏で開花した人が少なくない。パリとはその意味でロンドンやニューヨークとは全く異なる不思議な力を持つ街であることが想像できる。
チョッと面白かったのは、米国人が同じ場所、同じ店(例えばシェイクスピア&カンパニー書店)にたむろしていることをそれぞれの話を突き合わせて知ったことである。外国へ行くとどんな人種も同じような行動をとるものなのだ。
4)昭和45年11月25日 タイトルは三島由紀夫が割腹自殺した日である。来る25日であの衝撃的事件から40年になる。この日は本社で海外出張発表会を行うために、往路か復路かは記憶が定かではないが、川崎工場と本社間を結ぶ定期便(川崎工場の社有車)の中でこのニュースを聴いた。「まさか!」そして「何故そんなことを!?」と言うのがその時の思いであった。
既に作家としての名声は確立し、しばしば奇行で世間の注目も集めていた三島。この事件の主体となる「楯の会」も、青白き知識人とは異なる生き方を誇示する、彼独特のパフォーマンスの一つとして広く知られていたが、こんなことに結びつくものとは思ってもいなかった。この日市ヶ谷の自衛隊バルコニーからアジ演説をする彼は、楯の会の制服をまとい、行動を共にする森田必勝はこの会のリーダーである。
この前月、大阪万博は史上最大規模の観客を集め成功裏に終わっている。石油危機到来前、為替レートは固定で1ドル360円、輸出好調の日本経済は当に日の出の勢い。社会も企業も個人も、奇跡を現実のものしていた。「経済だけに夢中になり、国のあるべき姿を蔑ろにしている。自衛隊員よ、世直しのために立て!」これが三島の主張であった。しかし、誰もがこれを“狂気の沙汰”と思った。
この本は、あの日の事件について著名人;政治家、ジャーナリスト、文化人、経済人、高級官僚、三島の親族・知人友人、著者(当時10歳)周辺の人々がどのように受け取り、発言してきたかを丹念に集め整理したものである(個人名がこれほど多い本は珍しい)。だから事件直前後の発言もあれば、数年~数十年後当時を回想して書かれたものもあるので、時制の一致はない。多くの証言を集めることに依り、三島がそこに至った心境を見えるようにしようとの試みで書かれている。
私見だが、今振り返ってみれば、彼の危機感はかなり正しかったように思えてくる(自衛隊にクーデターを促したことに共感はしないが)。普天間も尖閣諸島も(場合によって北方四島も)今ほど情けない形にはなっていなかったのではなかろうかと。天才は常人の何十歩も先を歩いていたとみたい。
5)はやぶさの大冒険
今年も余すところ2ヶ月を切った。明るい話題のほとんどない本年、最大のグッド・ニュースは、2003年5月に打ち上げられ、60億km彼方の小惑星「イトカワ」に着陸、そこからの満身創痍になりながらの「はやぶさ」地球帰還ではなかろうか。持ち帰ったものが果たして「イトカワ」の一部かどうかは調査中だが、7年におよぶ航海(?)だけでもノーベル賞受賞と甲乙つけがたい快挙と言える。
わが国の宇宙開発には二つの流れがある。一つは旧文部省の管轄に属するもので、大学人中心に宇宙科学研究を主に進められてきたもの(東大生産技術研究所(現先端科学技術研究センター)→国立宇宙科学研究所)。もう一つは旧科学技術庁内から発した実用人工衛星(通信、放送、気象観測など)打ち上げやNASAと一体になり宇宙研究を行う組織である(宇宙開発推進本部→宇宙開発事業団)。現在はJAXA(独立行政法人宇宙航空研究開発機構)に統一されているが、「はやぶさ」は前者に属する研究衛星で、打ち上げ基地は種子島ではなく、鹿児島県の大隈半島内之浦、管制センターは相模原に在る。JAXAの誕生は2003年10月だから、「はやぶさ」は文部省時代に打ち上げられ、帰還は独立法人になってからと言うことになる。
大学の宇宙科学研究は、実用衛星打ち上げや宇宙ステーションでの研究とはかなり性格が異なるので、打ち上げロケットも衛星も別々に開発されてきた。科学研究用ロケットは、小型だが歴史的には遥かに古く、独自性をもったものである(実用衛星打ち上げロケット開発はかなり米国に介入され、依存させられている)。今回話題になったイオン・エンジンもそんな歴史的背景から生み出されたものである。自ら作り上げた衛星だけに、困難を切り抜けるアイディアが次々と発し、それが問題解決に生かされたと言ってもいい。
本書は科学ジャーナリストの山根一眞が打ち上げ前から取材を開始し、帰還をオーストラリアの砂漠で迎えるまでを記したものだが、当初はこれほど時間がかかると思わなかったろう。しかし、途中で手を抜くことなくトラブルに直面する度に掘り下げた取材・調査を続けているので、臨場感抜群である。
図や写真の多いことも本書を読みやすいものにしているが、あとがきを見ると読者の対象を中学生辺りまで想定しているようだ。とにかく素人に解かりやすく書かれていることに感心した。科学ノンフィクションの手本と言っていい。
6)理科系冷遇社会
この類の本を何冊か読んでいるので、「また生涯賃金や出世の比較か」と思って手に取ったが(それも皆無ではないが)、主題は“わが国科学・技術施策”に関する現状と将来を論じているものであった。読後感は「科学・技術立国危うし」である。「はやぶさ」の後だっただけにその揺り戻しは大地震クラスである。
著者は大学で原子力工学を専攻した科学技術庁(入庁時)の技術官僚である。文部科学省に改編された後、科学技術・学術政策局長(文部科学審議官→JAXA副理事長→東大先端科学技術研究センター教授)を務めているので、技術官僚としては位を窮めた人と言える。従って個人的な泣き言など一切ない。
初等教育における理科離れとそれに伴う理工学部系進学者の減少、ポスドクの惨状、大学の旧態然たる状況(既得権固守)、ハイテク研究とビジネスの落差(直ぐにキャッチアップされ、追い越されてしまう)、論文や特許の数、国家ビッグプロジェクトの資金難、国際化の遅れなど、あらゆる点でわが国の国際競争力が低下していっていることを、客観的データを連ねて訴えていく。欧州はEUでまとまる方向で米国優位に対抗し、中国は目覚しい経済成長と比例するように競争力を高めてきている。韓国は選択と集中を徹底して得意分野を絞り込んでイニシアティヴを取る戦略だ。
そこには、人間しかこれと言った資源のないわが国、科学技術戦争に勝ち抜くしか将来はない!従来のやり方・考え方を大胆に変えていくしかない!という著者の主張が込められている。
しかし読んでいて「それは本来あなたの仕事ではなかったのか?」という素朴な疑問が浮かんできた。あとがきを読んで、その点は著者も自覚したようで「自分に唾するようだ」と書きながら、「それでもこの窮状を国民に少しでも知ってもらいたい」との思いで本書を書いたとしている。「蓮舫さん二番目ではダメなのです」
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