2011年3月29日火曜日

決断科学ノート-68(大転換点TCSプロジェクト-5;グループ内状況-2)

 DDCには従来のアナログ制御機器より優れた点が多々あるのだが、プラントをコンピュータ制御するメリットは主にSPCの部分が担っている。DDCの部分は信頼性やスピード重視のため複雑なロジックを組むには制約の多い構造になっているからなのだ。
 SPCに使われるコンピュータは、DDCに比べ遥かに処理能力が大きいので複雑で高度な情報処理や制御が出来る。代表的な例は、プロセスの広範で精密なモデルを構築し、これで経済的に最適な運転条件を探索したり維持したり出来る、最適化制御があげられる。グループで先頭を切った石油化学のSPCは、エチレン生産の最大化を実現するためのプロセス上の隘路を特定することで、新設エチレン製造装置稼動までの需要増に応えてきた。また和歌山工場FCC装置(重質油を原料にし、これを触媒で分解してガソリン溜分を得る)では、分解によって得られるガソリン溜分とそのための熱エネルギー投入量を最も経済的に良いところに持っていくための運転条件を求めるところにSPCの適用が図られた。
 このような化学工学的なモデルやそのための最適化手法をコンピュータ上で走らせるためには、それを数理的な表現で記述するためのプログラミングが必要になる(第一世代の時代は主にフォートラン言語)。ところが、これに当たるエンジニアはプロセス・システム・エンジニア(PSE)と呼ばれる、本質的には化学工学の専門家であって、数理(特にプログラミング)の専門家ではない。ここにSPCアプリケーションの生産性にどうしても限界が出来てしまうのである。もしこのプログラミング作業がPSEにとって容易なものであるならば、開発のスピードを早めることが出来るし、人数も増やすことも出来る。
 1964年に始まった石油精製の川崎工場拡張計画に際して、IBM-1800が採用された決め手は、このアプリケーション・プログラム開発のための簡易言語(PROSPROと呼ばれる)が在ったことである。これは従来のフォートランと違い基本的なアプリケーションは空欄穴埋め方式(□の中に数字や記号を入れる)で開発でき、特別仕様の部分のみフォートランでサブルーチンを書けばいいので、普通の(システムエンジニアリングを学んでこなかった)プロセスエンジニアでもチョッと教育を受ければ利用することが出来た。
 第一次石油危機に際して、原油価格が高騰したことから、効率改善の種は随所にあったが、PROSPROを採用していた川崎工場では、そのお陰で即座に省エネルギー活動を活発化でき、コンピュータ利用が高い評価を得ていた。従って、プロセスエンジニアを中心にこのようなツールを望む声は日ましに高まり、次世代システムへの期待となっていったのである。
(次回;Exxonコンピュータ技術会議)

2011年3月25日金曜日

決断科学ノート-67(東北・関東大震災-6)

 工場に20年勤務し、今回の大震災・原発事故とは比ぶべくも無いが、何度か大きなトラブルや火災に遭遇した。可燃物・危険物を扱うことが言わばその使命である工場なので、日常業務の裏側には非常時業務のための組織やその運用手順が定められており、唯一その時のための組織といえる消防保安課を除けば、役割は日常業務と深く関係していた。
 例えば、消火班は装置の運転部門(当該装置担当以外の)、渉外・広報班は総務部門、救護班は福利厚生部門、私の組織(計測・制御・情報担当)は伝令班と言うような具合である。これらの非日常組織が、工場長を長とする防災組織として動くのだが、生産・出荷業務の緊急調整、装置の異常時特殊運転や設備の保守、資材の準備などは日常組織としての業務も多々あるので、班長(主として課長)は二つ(日常・非日常)の役割を担わなければならない。しかし、相互の役割が関係深いこともあって、仕事がダブルになる感覚は無く、割とスムーズに処理することが出来た。
 今回の震災・津波・原発事故複合災害における政府の動きを見ているとき、首相、官房長官を始めとする何人かの大臣が前面に出てくるのに比べ、省庁の次官・局長級はほとんど顔を見せない。明らかに政治主導を演出しようとする態度が見え見えである。しかし、現場で奮闘している自衛隊・消防・警察(これらは非常時業務が通常業務ともいえるが)・自治体職員などを見ていると、それぞれの専門部門(つまり省庁)が実際の仕事に精通し、非常時にも対応できる組織になっていることがよくわかる。
危機管理の法体系さえ理解していない(と思える)大臣がしゃしゃり出るよりは、優秀な官僚・専門家の方が遥かにクールな対処ができるに違いないし(総理が東電に乗り込んで怒鳴り散らすなど、ほとんど狂乱状態に等しい)、国民の信頼も得られる。
 政治家のやるべきことは、専門家に謙虚に学び、予算処置や仕事の優先度を決めたり、従来の省庁の縄張りを変えたり、(非常時の)法体系の解釈を臨機応変に扱うことに責任を持つことであろう(存在感だけPRして;蓮舫の節電担当、辻元のボランティア担当など、肝心の責任を自ら取ろうとする姿勢がまるで伝わってこない;海江田経産相、北沢防衛相)。
(本報をもって一先ず“大震災”関係は完といたします)

2011年3月22日火曜日

決断科学ノート-66(東北・関東大震災-5)

 この度の震災を“国難”と捉えるリーダーは多い。その自然災害の規模の大きさだけでなく、国の政治、財政・経済、社会(高齢少子化)環境や安全保障などが大きな転換点にあるときに起こったことが、その感を一層強めている。
 そこで菅首相が打ち出したのが“挙国一致内閣”提言である。しかし、自民党・公明党に歯牙にもかけられず、構想は挫折した。
 このノートの通奏低音ともいえる下地には、第二次世界大戦時の英国における、政治および軍事OR適用によるリーダー達の決断がある。そして当時のチャーチル政権は当に挙国一致内閣であった。また、これに先立ち1931年のラムゼイ・マクドナルド内閣も挙国一致内閣で世界経済恐慌に立ち向かっている。しかし、いずれの場合も決してすんなりそれが実現したわけではない。
 後者は英国初の労働党内閣が経済政策で閣内不一致となり、党首であるマクドナルドが離党して、保守党・自由党と作り上げたものである。前者はナチスドイツが西方戦線で電撃戦を展開する中、チェンバレン首相が労働党に挙国一致内閣を持ちかけたものの、拒否され下野、チャーチルによってそれを実現している。同じ保守党出身の首相ながら、チェンバレンが宥和政策をとっていたのに対し、チャーチルがそれに早くから反対だったことが労働党の協力を取り付ける鍵となったのである。
 一党独裁の国家(ソ連、ナチスドイツ、中国など)でもない限り、簡単には挙国一致内閣など成立しないのが歴史である。わが国における初の挙国一致内閣は斉藤実内閣(1932年)であるが、これは政党政治が政局に終始し国民から愛想をつかされ、陸軍が政党内閣を拒否して作った内閣である。今の民主党・自民党の姿と全く変わらない。このことを菅首相周辺は知っていたのであろうか?
 尖閣諸島問題で味噌をつけ(逃げ回った)、参議院選挙に破れ、完全に詰んだ状態で起こった“国難”。このドサクサを延命に使う好機と捉えて“挙国一致”などといっても、誰もついてこない。
 マクドナルド、チャーチルともに政治家としての実績が充分あり、反対党・政敵に一目置かれていた人物である。マクドナルドのように党を割ってでも自らを中心とする連合が可能かどうか試すか、チェンバレンのように潔く去るかしか“挙国一致”の選択肢は無い。彼にはそれだけの人望もないし度胸も無いだろうが。

2011年3月20日日曜日

決断科学ノート-64-1(訂正)(東北関東大震災-3-1)

 先の「阪神淡路大震災における自衛隊出動」記事に関し、不正確な点・誤りがありました。これらに関し、当時勉強会を主宰されていたFKDさんから補足、訂正の情報をいただきました。ここに追加・訂正を行い、誤りを記載したことを深くお詫びいたします。
 なお、FKDさんはランチェスター競争戦略に詳しい経営コンサルタントであるとともに長年立教大学大学院で危機管理を講じており、今回の震災に関してもこの立場から興味深い記事を、ご自身のブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/hfukuda24)に掲載されています。是非アクセスしてみてください。

1)世論・マスコミ叩かれ政府もやっと出動命令を出す。その後の第三師団は福知山や姫路の部隊、八尾の航空隊などが3ヶ月以上にわたり救難活動に当たることになった。
(訂正)
 兵庫県庁は防衛出動要請をまったく考慮しておらず、防衛出動要請担当部門を交通安全部(だったと思う)にしており、誰も、それを知らなかった。第三師団が、それを知り、同部にデンワする(デンワは通じた)、いたのは同部の係長。そこで、デンワで、災害出動要請を係長に要求し(怒鳴りつけ?)、係長が「ハー」とか「ヒー」とか答えたのを、「災害出動要請」と認識し、出動・・・・(だったと思う) なお、伊勢湾台風で愛知県の県庁が機能せず、災害出動が遅れたことを教訓に、大災害時には独自の判断で出動できるきていがあったはずだが、それは忘却の彼方・・・(だったと思う)。阪神大震災以降は、もっとしっかりとした独断で出動できる規定がつくられたハズ。

2)自衛隊は後方も含めて総数(空・海を含む)40万弱である。
(訂正)
 自衛隊定員(実数はこれより少ない)陸上15万2000、海上4万5000、航空4万7000、以上合計25万4000

2011年3月19日土曜日

決断科学ノート-65(東北・関東大震災-4)

 震災後の問題として、被災者の救援、原発事故に次いで、物資不足がある。直接的被害がほとんど無かった地域(特に首都圏)での衝動買いが需給のバランスを著しく乱しているようだ。基本的に石油製品を含めて、通常の需要ならこんなパニック状態には陥らないのだが、大都会とその周辺の人は社会的な衝撃に極めて弱い。別の見方をすれば、昔から体制批判ポピュリズムの支持基盤であり、政府を信用しない傾向が強い所である。地縁・血縁が薄い近郊在住者(新興住宅地や大団地などの住民)は何事も自分の周辺だけしか(それとマスメディア報道;関心を呼びそうなテーマを針小棒大にしがち)情報が無いので、風評に影響されやすい。したがって政府やマスメディアが“冷静に”と訴えてもなかなか事態は収まらない。
 個人的に身近な石油製品に関する現状など、信じられない状態である。確かに、関東地区でもコスモ石油千葉製油所の火災はLPG球形タンクの爆発があり、決して軽微ではないが、その他の製油所(新日石根岸、出光千葉、東燃ゼネラル川崎など)は安全に緊急異常停止しただけで事故を起こしたわけではない。点検後は直ぐに(一週間以内に)稼動するし、製油所には充分製品在庫もある。
 加えて、最近の石油業界は需要低下もあり精製能力は過剰で、どこを止めるかが切実な問題点になっているのである。また、原油は中東の政情不安があるものの、直近の問題として1973年の石油危機のように、供給が絞られたり価格が高騰しているわけでもない。
 このような事情は新聞にも書かれているのだが、政府・マスメディアの説明の仕方に問題があるように思う。先ず、現在の政府は残念ながら仮免許運転者(素人)と見られており、誰からも信用されていない。首相や経産大臣が語るよりエネルギー庁長官にでもしゃべってもらった方が説得力がありそうだ。また、マスコミは石油不足が、真に憂慮されるのは東北地方であること(この地方唯一の新日石仙台製油所の火災;精製能力は17万バーレル/日;全日本の5%以下)をはっきりさせ、あたかもそれが全国に及ぶような混乱を生じさせぬよう報じ方を考えるべきである。
 東北地方への製品輸送には問題が山積みである。鉄道・道路の問題の他に港湾が相当被害を受けていること、特に油槽所のタンクがかなりやられているので、船舶による大量輸送はその受け入れ先が限られる。またガソリンスタンドも被害を受けているので、ローリーで運んでもどこでどのように荷降ろしするのか問題だ。
 東燃和歌山工場は、しばらく使っていなかったドラム缶出荷設備(今では希少価値)を動かし、トラック輸送もするようだ。これなら被災地にそのまま置いてくることが可能になる。
 トラック物流に関しては、自車の燃料の問題も出てくる。中間点に給油基地を設けたり、場合によってコンボイを組ませ、それにローリーを随伴させるような策も考えるべきだろう(電撃作戦から学ぶことが多い)。
 どんな問題解決策も、従来の法規や所轄官庁の枠を超える柔軟な対応が求められる。そこにこそ政治家の力を傾注すべきである。

2011年3月17日木曜日

決断科学ノート-64(東北・関東大震災-3)

 阪神淡路震災の2ヵ月後、当該地区担当の陸上自衛隊第三師団(司令部伊丹)師団長の話を、こじんまりした勉強会で聞く機会があった。3月末停年退官することもあり、当時の状況を近しくうかがうことが出来た。
 当日師団長は朝食も終わり官舎から出勤直前であった。直ちに電話連絡で出動準備態勢を整えるように指示。司令部に到着したときにはほぼ各駐屯地とも準備を完了していた。しかし、いくら待っても県知事からも政府からも出動要請・命令は来なかった。
 マスコミはこの出動の遅れを責めることになるのだが、事実は以上のような経緯なのだ。当時の総理大臣は社会党の村山富一氏である。自衛隊を「暴力装置」と断じた前官房長官と同類である。県知事もそれを慮ってか、出動要請に躊躇したようである。世論・マスコミ叩かれ政府もやっと出動命令を出す。その後の第三師団は福知山や姫路の部隊、八尾の航空隊などが3ヶ月以上にわたり救難活動に当たることになった。
 今回の震災では県知事・政府の出動要請・命令も早く、あのときに比べればかなりましだが、5万、10万を軽々しく口にする首相は、長期的な作戦を考えたのであろうか?自衛隊は後方も含めて総数(空・海を含む)40万弱である。拙速は良いのだが、これでは第一線が崩れたら後に予備は無い(初めて召集のかかった予備役は数が知れている)。ここにも戦略を考えるスタッフ(知恵袋)の無きに等しいことを痛感させられる。

2011年3月16日水曜日

決断科学ノート-63(東北・関東大震災-2)

 昨日原発緊急事態に関する政府の発表が、“小出し”であることを危惧する意見を書いたが、ますますその感を深めている。現実に生命の危険がないとしても、最悪のケースを想定した防止・避難対策を早目に準備する必要があるのではないか?
 ドイツではメルケル首相が「日本政府は事態を隠蔽している」と批判しているし、ワシントンポストの電子版は「防止策をあきらめたようだ」と報じている。
 政府の説明は、いわば前大戦における大本営発表と同じであるが、前回はミッドウェイ敗戦を隠し、今回は過少評価で、マスコミも確り報道管制を布かれているような気がしてならない。と言うよりも当事者の東電と設備を建設した業者以外、保安院や学者も含めて“ほとんど現場の実態を理解できていない”状態なのではなかろうか?官房長官の報告を聞いているとそんな気がしてならなし、初めてメディアの前に現れたとき冒頭「想定外」を口にした東電社長を信ずるわけには行かない。
 外国の震災救援隊員にも被爆者(軽微なようだが)が出ている現在、国のプライドもあろうが、IAEAをはじめとする、海外の専門家を現状説明の場に入れて、実態を明らかにして、適切な対策を講じてもらうことが切に望まれる。

2011年3月15日火曜日

決断科学ノート-62(東北・関東大震災-1)

 TCS-プロジェクトに関する連載を中断し、3月11日2時46分発生した東北・関東大震災に関する、リーダーの行動について、しばらく記してみたい。
 日本は地震国である。その為の備えは国家安全保障の重要な一要素であるが、地震予測・判定に科学者が関わる組織は出来ているもの、政治的判断を含めてトップの知恵袋になるような科学者は官邸にいたのだろうか?それとも(一応)理系出身ゆえにそのような存在は不要と考えているのであろうか?報道で見る首相や官房長官の言動を見ると、どうもそのようなブレーンが居るとは感じられない。それは引き続いて起こった原子力事故においても同じである(確かに保安院と言う組織はあるが、これは一行政機関に過ぎない)。明らかに両人は、専門家(科学者・技術者)のまとめたものを読んでいるに過ぎず、科学と政治が一体となった大胆な発想に乏しい。
 例えば緊急事態を宣言した後の退避指示の範囲が、3km→10km→20kmと如何にも小出しで、戦争における悪しき戦術、逐次投入を思い起こさせる。
 早い段階で原子炉事故の経験豊富なロシア(チェルノブイリ)、米国(スリーマイル)の経験者を呼ぶことなども、国内の単なるその分野の専門科学者とは異なる判断材料を得られたのではなかろうか?
 地震の事後対策にも種々の科学的知識(医療・輸送・ユーティリティなど)が必要である。それぞれに所轄の役所はあるが、その上に立って素早い決断・指示できる体制を作り上げためにも、政治に強い(ごく少数;数名の)科学スタッフを身辺に保持することを期待したい。科学戦であった第二次世界大戦に際し、チャーチルにはリンデマン(オックスフォード大)が、ルーズヴェルトにはバンネバー・ブッシュ(MIT)が居たように。

2011年3月10日木曜日

決断科学ノート-61(大転換点TCSプロジェクト-4;グループ内状況-1)

 第一世代プロコンが導入された後のグループ内の動きはどうだったか?ここで述べるのは、第一世代の利用状況ではなく(これも若干は関わるが)、次なるシステムに関する話題である。
 当時グループ内で具体化していた最大のプロジェクトは、和歌山工場に隣接する有田工場建設計画である。第四常圧蒸留装置(申請14万バーレル/日)を中心に、特に当時問題化していた重質油脱硫に重点を置いた計画であったが、新規製油所をもう一つ作るような大規模計画である。既に埋立地の造成は完了。認可は1970年秋におりていたが、ニクソンショック(1971年;為替変動制)などの影響で計画具体化着手は遅れ1972年開始、稼動も当初の予定より1年延期され1974年になっていた。
 ここで使われるプロコンの検討は本社技術部制御システム課が行ったが、この時期私は川崎工場で石油精製・石油化学統合工場管理システム検討チームにいたため(本ノート-27~40参照)、その経緯は全く知らない。ただ結論を聞いたとき、“意外”な感じがしたことは記憶に残っている。石油精製(東燃)の大型プロジェクトで1968年来続いてきた、オールディジタル路線がアナログに戻ったからである。
 構成は、SPCは川崎同様IBM-1800だったが、プラント直結の制御システムはそれまでの集中型DDC、YODICではなく、Foxboroが開発した最新式のSpec-200と言うユニークな電子式アナログ制御システムに決まった。このシステムは従来の1ループづつ制御機構が独立したものではなく、制御部は筐体内に集中的(各ループは独立しているが)に詰められ、無人の部屋に別置、運転員が操作・監視するコンパクトな部分のみ計器室に設置される。従って運転員の動線が短くて済む点、バックアップを不要とする点(つまり経済的)などに利点はあった。またDDCの機能に関してはIBM-1800でもそのロジックは組めたので、良しとしたのかもしれない。しかし、歴史的に見ればデジタル化に向かう流れの中で奇形児の謗りを免れない。
 幸か不幸か1973年の石油危機勃発で有田計画全体が凍結される中で、IBM-1800はモスボールされ他の用途のために保存されたが(後に統合潤滑油製造装置に適用)、Spec-200は横河電機に違約金を払い引き取ってもらい、実働することは無かった。
 Foxboroはその後Spectrumと称するDCSを製品化するのだが、このSpec-200への寄り道がひびき、ハネウェルのTDS-2000に大きく水を開けられ、凋落の因となった。
 もう一つこの時期忘れられないプロコンシステムの概念とも言えるものがある。それは、先に述べた川崎工場全体の工場管理システム構想をまとめているとき目にしたものである。1973年頃(石油危機前)のことだが、ISA(Instrument Society of America;米国自動制御学会)ジャーナルに載った、ハネウェルのダリモンティと言う技術者の“将来の計器室”に関する寄稿である。基本構想は、DCSと高度な情報処理機構を備えた6~8台のCRTを二段に重ねたオペレータズ・コンソール(プラント運転制御・操作卓)から成っていた。彼はこのコンソールによる運転を“コックピットオペレーション(操縦席プラント運転)”と名づけ、その機能を具体的に提示したのである。
 全体工場管理システム検討チームのメンバーだったTSJさんやこの計画を本社側で支えてくれたTKWさんとこの提言を熱い思いで語り合ったことは、確実に第二世代検討につながっていった。
(つづく)

2011年3月6日日曜日

決断科学ノート-60(大転換点TCSプロジェクト-3;前奏-3;業界事情)

 第一世代のプロコンは、いずれの国・いずれの業種でも程度の差こそあれ実験的な色彩を帯びていたし、道具を提供する側にもその傾向があった。そんな中でやはり製品として、ソフトも含めて確りしていたのは米国のものだった。IBM、DEC、GEなどが工場管理やプラント制御に適した機種・ソフトを提供していた。ただ、DDCの領域は若干様子が違い、PDP-8(DEC)、IBM-1800、H-20(ハネウェル)などが使われていたものの、アナログ・コントローラとの併用で、YOCICのようなプラント直結型の専用機は、大規模プラント向けに普及していなかった。
 第二世代が漠然と話題になりだした時代(‘70年代半ば)、コンピュータ業界にも変化の兆しが見られるようになって来ていた。一つはミニコンの高性能化とその普及。もう一つはマイクロプロセッサー(マイコン)の出現である。
 ミニコンの普及に関しては、OSやインターフェース技術を公開し、多くの仲間(インテグレータ)を集めていたDEC(PDP-8)が、グローバルに工場操業・自動化では圧倒的に強く、IBMはこれに対抗してシステム7やシリーズ1を発売するが、あくまでも旗艦IBM-370の手足であり、単独システムでとして競うものではなかった。ただ、わが国では米国に比べ、東芝、日立などもこの分野では強く、PDP-8の利用は限定的だった。またExxonグループでも導入実績は少なかった(ラボラトリー・オートメーションやFoxboro計器との組み合わせに限られる)。
 “変化の兆し”でより大きなものは、DDC領域におけるマイコンの利用である。集中型の良さは、アドヴァンスト制御のロジックを一つのコンピュータ内に組める点やオペレータ・コンソールとの情報授受のやり易さにあったが、“集中”故にリスク分散と拡張性に限界があることが弱点だった。また、万一に備えるアナログバックアップは経済性を低下させる。1975年ハネウェルが発表したTDC-2000は分散型ディジタル制御システム(Distributed Control System:DCS)と称し、その後のDCSの範となるものであった。これは8制御点(ループ)を一つのコントロール・ユニットで処理するもので、集中度が大幅に低下し(YODIC-600では300ループを一台でカバーする)危険分散が図られ、拡張も容易だった。しかし、一つのユニットを超えて構成されるアドヴァンスト制御には通信が絡むことになり、その点に不安・不満が残った。集中型に関する問題意識は当然横河電機も有しており、その解決策を進めて、コントロール・ユニット間の通信負荷が軽い、32ループベースのCENTUMをほぼ同時期(1975)に発売している。
 目をExxonグループに転じると、いずこも東燃と大同小異、第一世代の後継機ニーズが高まっていた。聞こえてくるのは、一つはハネウェルとの共同開発計画。TDC-2000の導入、更にはこれの大幅機能アップとSPC相当部分や通信系の独自新規開発などがそれである。もう一つびっくりするようなシステムが突然現れる(1977年頃だったと記憶する)。それはカナダのインペリアル・オイル(Exxonとカナダ資本の合弁)・ストラスコーナー製油所におけるIBM-370を使ったSPCシステムの実験である。“制御(オートメーション)”と言う点では考えも及ばない使い方である。「汎用機をプロコンとして使えるのか?!」これが第一印象であった。わが国にも全くその例が無いわけではない。それは君津、大分など新鋭製鉄所における工場管理の分野である。しかし、情報処理の桁違いに多い製鉄所ならではのシステムであった。ここでもリアルタイム制御に使われているわけではなかった。
 しばらくして、第一世代のSPC、IBM-1800 を川崎工場(オフサイト)に導入した際担当だったSGUさんと言うSEが工場に訪ねてきた。目的はこのストラトコーナーのシステムのことで、「IBMが近くこれを販売するのだが意見を聞かせてほしい」とのことだった。
 二人きりの、日常ビジネスに関係ない話。お互い率直に意見交換をした。信頼性・経済性で問題がある一方、拡張性やソフトの移行性、IBMの最新技術を常に利用できる点(リースで導入して置き換えていく)などにメリットがあることなど、このシステムの特徴がつかめてきた。
(次回:社内議論)

2011年3月3日木曜日

今月の本棚-30(2011年2月分)

<今月読んだ本>1)大本営参謀は戦後何と戦ったのか(有馬哲夫);新潮社(新書)
2)「鉄学」概論(原武史);新潮社(文庫)
3)あっぱれ技術大国ドイツ(熊谷徹);新潮社(文庫)
4)世界ぐるっと肉食旅行(西川治);新潮社(文庫)
5)南蛮阿房列車(阿川弘之);光文社(文庫)
6)インドの時代(中島岳志);新潮社(文庫)
7)英国機密ファイルの昭和天皇
8)気象兵器・地震兵器・HAARP・ケムトレイル(ジェリー・E・スミス);成甲書房

<愚評昧説>
1)大本営参謀は戦後何と戦ったのか
 最初にこの本を目にしたときには、「不毛地帯」(山崎豊子)のモデル、瀬島龍三のような、巧みに戦争責任を逃れ、政官財界人に変身した軍人たちの戦後を想像した。しかし、少し読んでみるとそれとは違い、戦後の国家安全保障の構想を練り、自衛隊の母体誕生に深くかかわった、旧陸軍参謀たちの話であった。
 中心人物は、有末精二(次長;中将)、服部卓四郎(作戦一課長;大佐)、辻政信(大佐)など陸軍参謀本部(後の大本営参謀部)にあって大東亜戦争を強力に推進した、エリート中のエリート参謀。戦後昭和史の中で最も評判が悪い面々である。本来なら、上官や同僚たちと一緒に巣鴨拘置所に居てもおかしく連中がその罪を免れ、占領政策のなかで新軍建設に向けて何をしてきたかを、米国公文書館の公開資料を基に露にしたものである。
 占領軍は旧帝国陸海軍を解体したもの、戦史の整理を始め、ソ連や中共軍の情報入手のため旧軍人の力を必要とする。また旧軍人の中にも、第一次世界大戦後何とか生き残った、ドイツ国防軍を模した組織再建案を夢見る男たちがいた。当初はまるで異なる存在だった彼らが、やがて一つにつながってくるのは、中国における国府軍の共産軍との戦闘への協力や朝鮮戦争の勃発が契機となる。
 このような動きの背後には、占領軍総司令部G2(参謀第2部;諜報・保安・検閲担当;部長ウィロビー)があり、反共政策に役立つ者を積極的に活用しようとする姿勢があった。そこに先のエリートたちが結集することになる。しかし、当時の首相吉田は旧軍復活に何かと抵抗する。そんな時起こったのがトルーマン大統領によるマッカーサー元帥解任である。元帥の腰巾着であったウィロビーも更迭され、それにつながる旧軍のメンバーも一気に力を失う。その後警察予備隊は旧内務(警察)官僚の下で編成され、やがて現在の自衛隊へと形を変えていく。
 この本は先に書いたように、公開された公文書館の資料が基になっている。そこには個人名を記したCIA情報「河辺(虎四郎;中将)ファイル;有末らとは別の新軍構想」「有末ファイル」「服部ファイル」「辻ファイル」があり、戦後の彼等の言動が詳細に残されている。それらから見えてくるもう一つの闇は「地下政府」の存在である。これは確りした形のものではないが、皇室・高級官僚・財界人・旧軍人など、占領軍総司令部が政策を進める上で相談相手にしてきた人たちである。正規の政府とは別にこれらの人々が国政(憲法制定など)に関わっていたことが、本書の中でもたびたび触れられている。戦後秘話はまだまだ終わらない。

2)「鉄学」概論 本欄に何度か登場した鉄チャン(自分では違うと言っているが)、原教授の本である。この人の専門は日本思想史、特に天皇制との関わりである。従って、その点では鉄道とは全く関係ないことは確かだ。しかし、この人の著書がただの鉄チャンと一味違い、私が惹かれるのは、そのオタク臭さを超えたところにあるといえる。
 本書のテーマも、紀行文学における鉄道(これは何人か別人も書いているが、ここで取り上げられるのは鉄道好きの先輩作家;内田百閒、宮脇俊三、阿川弘之など)、沿線の文化・思想(少年時代は西武線沿線に住み、現在は田園都市線らしい)、天皇の鉄道利用(これはやや本職と関わってくるので薀蓄が傾けられている)、阪急(関西私鉄)と東急(関東私鉄)の違い(私はこれが一番面白かった;小林一三と五島慶太の考え方の違いなど)、さらにはストに対する乗客の反乱など、生活・文化・歴史との関係から鉄道が語られので、誰が読んでも面白いのではなかろうか。何か英国人のアマチュアリズムに通ずるものを感じた。

3)あっぱれ技術大国ドイツ
 著者はドイツに長く在住するジャーナリスト(元NHK記者)である。日本では、バブル華やかなりし頃3K職場として蔑まれ、それが崩壊すると手を返すように“ものづくり”の重要性を口にする人が多くなってきた。中国を始めとする新興国の台頭、リーマンショック後は、さらに一段と声高になってくるのだが、実情はむしろ衰微する方向にあるような気がする(円高もあるが)。かてて加えて、愚かで(初代)・非力な(二代目)理系総理が二代続いて「やっぱり理系はダメだね」などと揶揄される。同じような敗戦国から、技術立国で日本と共に一時は世界経済の機関車役を担ったドイツはどうなっているのだろう?メルケル首相も理系(物理学)だし。こんな思いのときに、タイムリーに出版されたのが本書である。
 貿易収支を見るまでも無く、ドイツは先進国の中で断トツの黒字、EU経済に問題が生ずればドイツがどう出るかが先ず問われる。そしてその根源的パワーは技術・製造にある。この好調は無論、自動車御三家(ダイムラー、BMW、VW<AUDI、Porsheを含む>)、シーメンスなど大企業の力に負うところが多いが、それ以上に中堅・中小が頑張っていることにある。この本ではそのような企業とそこで働く人に焦点を当てて、ドイツ技術と経営力を具体的に分かりやすく紹介していく。一つはっきりしていることは“安くて良い、大衆商品”を避け、高級・専門マーケットを志向することである。ここで先ずトップに取り上げられるのは、大量のコンピュータ・アウトプット請求書を封筒に詰める機械の会社だが、日本のNTTも大口ユーザーに一つになっている。この他にも面白い例は、オペラ劇場のような大劇場の緞帳(さらには各種舞台装置)の圧倒的シェアーを持つ会社などが紹介されている。
 これらの成功は、「テュフトラー」と呼ばれる発明家兼起業家(ゴッドリープ・ダイムラーやフェルディナンド・ポルシエなどもこの代表)を育む風土・政策(特に地方政府)、また優れた職人を育てるマイスター制度(この閉鎖性に問題もあるのだが)があること、中堅・中小は家族経営に基づくため、短期的利益よりも長期的な視点で経営が行われていること(そのための財務的な限界もあるのだが)に起因しているとしている。
 取材対象を最初から中堅・中小に絞り込んでいるきらいもあり、先端技術で勝負するグローバル大企業の成功事例や経営・技術戦略が今ひとつ見えてこないが、これからのわが国もものづくりを考える上で、多々参考になるところがあった(チョッと軽いが)。

4)世界ぐるっと肉食旅行  同じ著者による“世界ぐるっと”シリーズの三冊目(既刊;朝食、ほろ酔い)である。著者は写真家にして料理研究家、世界各地の肉料理をカラー写真を含め紹介していく。牛、豚、鶏あたりまでは我々に馴染みのものが多いが、羊、馬、鹿、七面鳥、各種内臓料理になると日常からはチョッと縁遠い。さらには犬や爬虫類になると見世物の感がしてくる。
 肉食の歴史が長い韓国語には牛肉の部位を表す言葉が300位あるので、その歴史が浅い日本語には一部しかに訳すことが出来ない。それぞれをどのように料理し、その味わいは如何に。こんなことから話が始まる。
 イタリアでは各種の肉を焼いて盛り合わせにする料理がある。味や歯ごたえの違いを楽しむという点で、日本における刺身の舟盛りに通ずる面白い食べ方と紹介される。
 ステーキはニューヨークとフィレンツェが優れているようだが、アメリカは焼き方の注文に注意が必要(総じて焼き過ぎの傾向)。またフィレンツェのものは、最初から数人分の塊で調理する(その方が肉汁を封じ込みやすい)のが一流レストランのスタイルなので複数で出かけることと助言してくれる。
 インドネシアの祭事に供される、豚一頭丸焼きの手順や沖縄の豚料理の歴史など、文化的・社会的背景も語られ、食べること以外の情報もふんだんにある、楽しい読み物である。
 これを読んだ直後、イタリア料理を食する機会があった。パスタの後のメインでラムを注文してみたが、すっかりその味に魅了されてしまった。

5)南蛮阿房列車
 「鉄学」概論を読んでこの本を知った。阿川弘之が乗り物好きであることは知っていたのだが、1970年代半ばにこんな旅をしていることは全く知らなかった。ヨーロッパ、北米大陸、アフリカ(ケニア、エジプトそれに何とマダガスカルも!)、中南米を少人数の個人旅行で楽しんでいるのだ。当然言葉(英会話)は出来なければダメだし、場所によってはレンタカーも利用しなければならない。友人や身内、あるいは出版社の助けもあるのだが、戦中世代の人が「よくここまで」と思うほど、挑戦しそれを楽しんでいる。
 題名から分かるように、明らかにあの内田百閒の名シリーズ「阿房列車」を意識したものだ。あの浮世離れした惚けた感じとは異なるものの、ユーモアに溢れる語り口は「読んでいて思わず噴出してしまう」と言う点で、先人の作品に勝るとも劣らない。

6)インドの時代
 新興国、中でも中国、インドの元気がいい。書店には中国関連の書籍が溢れている。それに比べるとインドは極端に少ない。1986年短い期間(それでも中国よりは長い)だが滞在したので、その後の変化には大いに関心がある。そんな時見つけたのが本書である。単行本が出たのは2006年とあるから少し時間が経っており、急激な経済成長がつづく昨今、内容に若干の違いがあるかもしれない。しかし、本書の焦点は経済よりは社会・文化・宗教の変容に重きを置いているので、充分今日のインド理解に通用するのではなかろうか。
 86年のインド行きでは事前準備に堀田善衛の「インドで考えたこと」など数冊の本に目を通したが、記憶に残るのは“混沌”であり“悠久”であった。そうでなければカースト制度や路上生活者に代表される貧困であった。そして現在出版されるものも、依然として同様のインド観を引きずっているようだ。この本はそんな画一的な日本人のインドに対する見方に一石を投じ、今のインド社会の認識を改める意図で書かれたものである。
 著者は大阪外語大でヒンディーを専攻し、京大大学院でアジア・アフリカ研究を修め、現地でフィールド調査を重ね、現在は北大の准教授である。言葉をしゃべれ、現地に根付いた研究をしている人だけに、流行を追うジャーナリズムの軽薄さが無いのが良い(導入部は多少その気があるが)。
 急速な中産階級(核家族で、家庭内も英語でコミュニケーション)の拡大は、家族や地域に根付いたインド伝統文化の希薄化を進め、特にヒンドゥー教の世界に大きな変革をもたらしている。それが著しいのがカーストの崩壊で、そこにインド社会の大きな問題が派生している。一方でそんな流れに抗するようにナショナリズムとヒンドゥー教の結びつきを声高に唱える新勢力が起こり、それらがイスラムやシーク教とも複雑に絡んで、急激な経済発展のなかで歪・ストレスを生じさせているのが、今のインド社会なのだと言う。
 このストレス解消のために著者が(インド人に向かって)提起しているのが“多一論的共存社会(違いを互いに認め合いながら共存する社会)”である。そしてこれが一部のインド知識人に受け入れられつつある。
 今までの日本人の外国への接し方(ほとんどは文化輸入か外部からの批判)とは異なる、著者の取り組み姿勢(特に一般大衆を対象にした)に新鮮な刺激を受けた。

7)英国機密ファイルの昭和天皇  明治以降英国外務省に保存されてきた対日レポートが本書の種である。薩摩・長州に加担して維新政府が成立、以後皇室や近代日本のリーダーたちと交流のあった英国外交官や財界人が外務省に送った記録を、昭和天皇とあの戦争、更に戦後の占領政策を中心に、英国の見た日本とそれを取り巻く支配層の動きを明らかにしていく。
 摂政時代の訪英が昭和天皇に如何に印象深いものであったか。秩父宮のオックスフォード留学を英国がどれほど喜んだか(皇室初の英国留学生)。同じ時期ケンブリッジに留学していたのは白洲次郎。彼の話が記録に登場するのは戦後だが、吉田首相の下で特異な存在になっていく姿も確り報告されている。
 日米開戦直前まで、日本を最後まで追い詰めないように警告を本省に発し続ける、駐日英国大使(クレーギー;彼は終戦後も日本弁護に終始する))の天皇観、日本観。チェンバレンと違いチャーチルはそれを冷ややかに扱う。
 終戦工作に昭和天皇自身が乗り出そうとする話や、戦争責任を天皇まで及ぼすかどうかに対する大国の駆け引き、特に英国の米国に対する猜疑心・嫉妬なども垣間見えてくる。もし退位するなら後継は誰が望ましいか(英国は秩父宮を期待するが病弱、高松宮は守旧派(旧軍部)との結びつきが懸念される)が彼の地で論じられる。
 新憲法発布に際して“象徴”天皇をどう扱えば良いか、米国(マッカーサー司令部)が英国代表部に助言を求める。「共和国(米国のこと)には立憲君主制が解るはずもない」米国に一矢報いる時が来る。
 更に話題は現天皇の皇太子時代に及ぶ。占領後の家庭教師は米国人のバイニング夫人、英国は何とかここに人材を送り込みたい。訪英した宮内庁関係者への秘かな売込みが行われ、実現一歩手前まで至るが、当時の教育掛小泉信三に棚上げされてしまう。
  いずれの話題も出典は外務省の公文書だが、それは時々の報告書なので断片的・一過的なものに過ぎない。それを一つの連続した歴史にまとめているのは、著者の綿密な現地調査による。元ロイター通信東京支局長を務めた人だけに、そこに登場する脇役は一流人物とその関係者ばかりである。その点からも歴史的価値がある一冊といえる。それにしてもスパイの国、英国人の情報収集分析力は侮れない!

8)気象兵器・地震兵器・HAARP・ケムトレイル
 本屋で見たとき、「何とオドロオドロしたタイトルなんだ!」と思った。しかし、一方に“恐いもの見たさ”のような気分が強く生じて買ってしまった。読後感は「結構まともな本だなー」である。
 本書の原題は「The Weather Warfare(気象戦争)」だが内容は広義の気象科学あるいは地球工学とでも言えば近い。因みに“HAARP”はHigh frequency Active Auroral Research Program;高周波能動オーロラ研究プログラムの略。ケムトレイルとはケミストリー(化学)とコントレール(飛行機雲)の合成語である。そしてこの本の内容はこのHAARPとケムトレイルが中心となっている。HAARPは米空軍と海軍がスポンサーとなりアラスカ大学で進められている電離層に関する研究。ケムトレイルは気象制御(人工降雨など)や地球温暖化対策に実験的に進められている、気象改変のための各種実験・研究のことである。
 HAARPは広大な敷地に数十基の高周波電波発射装置を設置して、電離層の特定点にこれを照射させて高温化し、そこから超低周波の反射波を作り出す研究である。これによって海面下の潜水艦との通信が可能になるほか、地表のある深さまでこの電波を浸透させ、弾道ミサイルなどの検知に使うことが目的である。しかし、その先には地球深部までこれを到達させ、ちょうど人間に適用されるCTスキャナーのような機能を持たせ、地下資源の探査などに利用すると共に、この超低周波を引き金にした共振現象を起こさせ、人工地震を生じさせることまで考えられるようなのだ。また、電離層の特定部分を加熱することにより天候(日照りや、台風、豪雨など)を人工的に改変できる可能性もあるという。
 ケムトレイルの方は、人工降雨に長い歴史があるが、結露しやすい物質(金属や化学物質)を空中散布し天候を変える研究が進められ、最近では地球温暖化対策として太陽の光を成層圏で反射させることによって温暖化を防ぐというようなアイデアも学問的に真剣に検討されている。
 このような気象工学・地球工学が秘かに兵器として使われたらどうなるか?そんなことを調べ・探った結果をまとめて紹介しているのが本書の概要である。兵器への適用に関しては著者も頻繁に「これはどこまで真実か分からないが・・・」と語っており、タイトルほど“オドロオドロ”したものではなく、こういう分野の学問・研究の現状を知ることが出来た点で、読んだ甲斐があった。ただ監訳者の解説で、竹中金融政策が米国筋の人工地震脅迫の結果だとか、阪神淡路地震は組織暴力取締り法に対する広域暴力団の復讐だ(すべて人からの又聞きとして)などと書いているのは蛇足であろう。
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