2011年7月29日金曜日

道東疾走1300km-4;フェリーの旅

 一昼夜を船で過ごすなど、1946年9月(つまり60年以上前)日本への引揚のため中国の葫蘆島から博多まで乗ったリバティ船(アメリカの戦時標準型輸送船;総トン数約7千トン)以来である。この時は黄海から玄界灘を経て数日かかっている。それ以外の乗船体験は数時間の湾や内海を行くフェリーだけである。しかし今度の船は商船三井の“さんふらわあ・さっぽろ”、758kmを19時間かけて航海する、1万3千トンの堂々たる外洋船である。ほとんど未知の乗物といっていい。
 予約段階で調べると、この航路には毎日2便運航しており、夕方便(午後6時半発・午後1時半着)と深夜便(午前1時45分発、午後7時45分着)があり、船の大きさが深夜便はやや小さい(1万1千トン)。そこに各種の部屋が用意されており、値段はこれで決まる。最も上等なのがスウィート、これは一室しかない。次のクラスはデラックスで和洋あり、人数も2~4人と選べる(シングル利用も可能だが割高になる)。その次がスタンダードでほぼデラックスと同様の種類があるが、違いはバス・トイレの有無(スタンダードも洗面はある)と部屋の広さだ。この下にカジュアル(二段ベッドの中部屋)、エコノミー(大部屋で寝具のみ)となっている。風呂は展望の大浴場があるので、ビジネスホテル同様の狭いバスよりこの方が快適だ。食事も最上階のレストランをどの部屋も共通に利用できる。しかし、若い人(主にカジュアル、エコノミー利用者)は、自前の食事を乗船前に準備してロビーやプレイルームなどで食している人もいる。
 我々は、往きはスタンダード、帰りはデラックスの洋室にしたが(帰りの船にはスタンダードツウィンが無いので)、大半を寝て過ごすのでスタンダードでもそれほど不自由とは思わなかった(トイレは自室に欲しいが)。
 乗用車100台、トラック180台を三層の車両デッキに積むのだが、トラックはほとんどトレーラーの荷台部分を切り離して積み、運転台のある牽引車部分は乗らないので、乗船客の大部分は乗用車の運転者と同乗者に限られる。従ってレストランや風呂も混雑しない。
 夕食は出港前のまだ明るい時間、午後6時から始まる。内容は中華中心のビュッフェで、格別のご馳走ではないが、朝食とセットで2300円はリーズナブルである。アルコールは別売で生ビールが500円。日本酒(冷酒)やウィスキーの水割りもある。幸い往復とも海は穏やかで、これだけ大きな船ともなると、地上のレストランとあまり変わりのない状態(ゆっくりした前後・左右の揺れはあるが)で食事が出来る。
 食事が終わる頃には夕闇に包まれ、陸の灯台や漁船の集魚灯の明かり以外は何も見えなくなる。8時からは映画小劇場(20人位)がオープンするし、ゲームセンターは常時開いているので、しばしそこで過ごす人たちもいる。
 難点はTVで、アナログとBSが一応受信できるが映りが悪く、とても長時間観る気にはなれない。携帯も圏外となってしまう。
 早々に大浴場に行くとこれが広い。20人分位洗い場があるが数人しか居らず、のんびり汗を流し、浴槽で寛ぐことができた。浴槽は揺れ(前後)の影響を減じるために真ん中に敷居が入り、二つに分かれている。
 船での就寝はさすがにチョッと揺れを感じる。往きの部屋はベッドが進行方向横置きになっているので横揺れでしばらく寝付けなかったが、それもいつのまにか慣れて、窓が明るくなるまで熟睡した。夜明けは岩手県の沖合い、朝靄が立ち込め視界は悪かったが、相変わらず穏やかな海で、白い波頭を見ることもなかった。
 靄は時間が経つに従い薄くなっていっき、苫小牧港入港時には日差しに強さは欠くものの、好天になっていた。入港(接岸)は予定時刻ぴったりの午後1時半であった。

(次回予定;富良野へ)
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2011年7月27日水曜日

決断科学ノート-83(大転換TCSプロジェクト-20;ヴェンダーセレクション-3)

 二つのグループは要求仕様確認が固まってから約一ヶ月後、価格を含めて提案・見積書を提出した。だからといって一般競札のようにこれでオープンして価格の低い方へ決まるわけではない。仕様の確認・摺り合わせ、これによる見積もりの手直しなどの作業がある。それもEREを含めた情報交換が必要だ。この仕様確認の中で最も難しいのは、両グループの提案とも現在製品として発売されているシステムではないことだ。
 ハネウェルは既にPMX(Process Monitoring SystemのExxon版SPC)+TDC-2000(DCS)をエクソンケミカルのBaytownに納めているが、最新DCS、TDC-3000はこの時まだ最終テスト段階にあり、その上を司るSPC(Level-6と称していた)もTDC-3000 に併せて開発途上にあった。一方のIBM・横河グループはそれぞれ個別のシステムは既に納入実績があるものの、両社のシステムを結合したシステムは存在しなかった(横河は既存CENTUMのヴァージョンアップ版開発も計画されていた)。ともに将来に対する未知のファクターを抱えていたのである。機能仕様を満たすとしても、期限までに完成するか?価格は見積もり内に収まるか?東燃側の開発作業量(ACS-CENTUM間通信やACS標準機能の東燃版への改造など)はどうなるか?中央推進チームはこれらに確証を得られるまで両グループと何度も折衝を重ねていった。
 この見積内容の検討と並行して進められたのが、関係者(主に工場SE部門)への内容説明(価格を除く;私も最後まで知らなかった)とそれに対する質疑・意見聴取である。意見聴取段階ではどちらのシステムを採用したいかも話題になった(結果として最終決定に大きく影響)。
 議論は大別して以下の三分野に収斂していた。一つは基本計測制御、つまりDCSに関すること。次いでコンピュータ利用利益の源泉ともいえるSPCの機能。そして情報処理能力を中心とする話題である。
 東燃グループの主計測制御システム提供者は伝統的に横河(提携していたFoxboroを含む)である。山武ハネウェルは空気式制御システム、コントロールバルブ、オフサイトシステム、それに石油化学の第二エチレン製造装置に建設当時は最新アナログ電子式システムであったVSIシステムが採用されている程度であった。従って、研究開発から保守まで横河との人的交流は蜜で、そのサービスへの評価も高かった。この分野の人々は新システムの機能よりも“横河”を先ず選びたがった。
 プロセス制御の担当者(PSE;化学工学専攻者が多い)は制御ロジックの組みやすさや制御性の良さを問題にした。前者の代表はプロセス制御用専用言語で、ややこしいプログラミング(フォートランのような)を使わずにロジックが実現できるもの。後者は、制御周期調整、優先度付け、割り込み処理などプラントの状況に応じて柔軟な対応が可能な機能である。これらの機能は第一世代でプロコンと言う(汎用機とは異なる)特殊なシステム生み出した主因でもある。IBMのACSにはACL(Automatic Control Language)のような専用言語が用意されていたが全体が“汎用機”ベースであるため、PSE専門家にとって専用システムのハネウェルのシステムに魅力を感じている人が多かったように思う。
 情報処理はIBMの牙城、特に工場管理システムとプロコンがつながるようになると、この分野のアプリケーションが広がってきていた。とは言っても既に工場管理システムは別に設置されているので、SPCマシーンにこの分野を負わせる考えは無かった。むしろアプリケーション・ソフトウェアの移行性が焦点になっていく。

(次回;ヴェンダーセレクション-4;競札結果-2)

2011年7月24日日曜日

道東疾走1300km-3;大洗港へ

 北海道へのフェリーを調べていて、自宅から一番近いのが大洗港だった。「何で大洗なんだ?あそこはもともと海水浴場で、大規模な港など作るようなところではないのに!」 これが第一印象である。茨城県は海に面していながら良港に恵まれない地形だ。無理して作った政治港に違いない(そう言えば茨城空港もそうだ)。しかし、その経緯はともかく、ここ以外は遠く不便で(新潟、仙台、八戸など)で選択の余地は無い。幸い、運航会社は大手老舗の商船三井、船も外洋を航行できるほどの大きさ(1万3千トン)で、船旅そのものは、当に大船に乗れるのでいささかの不安も無かった。
 NAVITIMEで自宅からのルートを調べると、ベイブリッジを通り首都高横羽線から箱崎を経て小菅に至り、そこから常磐道・北関東道を走り水戸大洗ICで降りると、約3時間の行程である。出港時間は午後6時半、乗船開始時間は4時半と言うことになっているので1時過ぎに家を出ればいい。しかし、昼食を摂ってから出かけるのは何かと慌しい。いっそのこと昼前に出発しどこかで少し遅い昼食にし、乗船までの間観光する案が無いかどうか検討したが、大洗周辺に適当なところは見つからなかった。
 乗船数日前船会社から確認のメールが入った。そこには乗船開始時間は5時となっており、更に30分余裕がある。そこで思いついたのが鹿島神宮詣である。ルートは湾岸から東関東道を通り成田を通過し潮来ICまで行き、あとは県道101号線でわずかな距離だ。時間はおよそ2時間半。神宮から大洗港は海岸沿いに走る国道51号線で1時間半。参拝・見学に1時間割くとして、トータル5時間みればよい。
 当日は好天、11時過ぎに出発。湾岸千葉まではよく走る道なのでリラックス出来るし、東関東道も成田まではリムジンバスで勝手が分かっている。それから先は極端に車が減り、やがて車線は対向一車線となる。神宮着は1時少し前。
 鹿島神宮は、一度鹿島工業地帯のお客さんを訪ねた帰りに寄ったことがあるのだが、対分の直後で風倒木があちこちにあったことくらいしか記憶に無い。あらためて来てみて、有名神社の割には素朴な佇まい、巨木に覆われた森閑な環境が神々しさを引き立たせている。この辺鄙な地に在りながら、奈良の春日大社より古い歴史があることを知った。鹿島はその名の通り鹿が神鹿となっており、奈良の鹿もここから出たとのことであった。これからの旅の安全を祈願したのは言うまでもない。当に“鹿島立ち”である。
 ここから北上する国道51号線は、太平洋岸に沿う幹線道路で交通量も多く特にトラックが目立つ。大部分が対向一車線なので皆連がっておとなしく走っている。しかし、大洗に近づくと本来片道2車線のところが現れるが、ここの海側2車線が使えない。先の大震災で路肩がかなり削られているのだ。
 大洗港は想像通り、かなり無理をして作った港湾であった。入り江のようなものは全く無く、二、三の長い防波堤で外洋と隔てられているだけ。その高さは5m程度で、あの大津波が襲っていたらひとたまりも無かったろう。どの程度の被害だったのかは分からぬが、フェリーも港湾修復のため6月始めまで就航できなかったほどである。港に停泊していた船はこれから乗る“さんふらわー・さっぽろ”一隻だけ、広いターミナルビルも閑散としていた。ただ、トレーラーの荷台部分が埠頭の隅にたくさん並べられ、この部分をフェリーに積み込む作業は大忙しだった。ここまでの牽引車はフェリーには積載されず、従って運転手は乗船しないシステムなのだ。大洗港と長距離フェリーの経営はこのトレーラー輸送で成り立っているに違いない。

(次回予定;フェリーの旅)

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2011年7月21日木曜日

道東疾走1300km-2;計画作り

 どこをどのルートで廻るか?時期はいつごろ?どんなところに泊まり、夕食はどうするか?給油や休憩は?旅の始まりはこの計画検討から始まる。私にとって旅の楽しみのかなりの部分はここにある。従って“おまかせツアー”は論外である。
 北海道を初めて訪れたのは1984年、IBM関連のビジネスで王子製紙苫小牧工場に出かけたときである。それ以来学会やリクルートなどで何度も渡道しているが訪問先は、札幌、函館、小樽など大都市ばかりである。この地をよく知る人から「そこらへんでは北海道を見たとは言えませんよ。やはり道東を見ないと」言われたことがある。爾来道東が気になっていた。
 では道東のどこを巡るか?本州が梅雨の時期に北海道へ出かける人たちの第一の狙いは“花”である。これは家人と旅するためにももっとも合意を得やすい。こうして富良野が選ばれる(ここは道央だが)。広大な大地、最果て感への期待も欠かせない。知床・根室など候補として検討したが、チョッとクルマで廻るには日程的につらい(トータル一週間を目安にしていた)。その代案として、美幌峠、釧路湿原を走ることを考えた。最果て感はオホーツクを眺める道で我慢しよう。広さを実感するために、帯広周辺の広大な牧場や農場と共存する数々の庭園公園を訪れることにした。これでおおよその枠組みが出来上がった。
 次は宿泊地である。私にとって、観光ドライブでの一日の走行距離は200~300kmが適当である。初日は富良野、そこからオホーツク海へ出て泊まるとすれば網走くらいしかない。ただここには観光の目玉が無い(と思っていた)。あとは釧路、帯広に泊まる。
 初日の北海道は苫小牧港到着が午後1時半、直ぐに走り出せるわけではないので、富良野到着は5時過ぎになると予想。それから一汗流して街へ出て食事など考えられないので、夕食も摂れるところにしたい。ただし日本旅館スタイルは避けたい(やたら食事の種類・量が多い)。そこで見つけたのがフラノ寶亭留(ホテル)という25室のこじんまりしたホテルである。Webで空き室状態を調べると、このシーズン7月7日に1室空きがあるだけだった。全ての日程はこれで決まった。網走は繁華街中心部の網走セントラルホテル、釧路も同様にホテル・ポコ釧路、いずれもビジネスホテルである。駐車場と繁華街がキーワードで、あとは口コミ情報を参考に決めた。帯広は少し悩んだ。ここも当初はビジネスホテルと思ったが、夕食に魅力のある店がみつからない。これを調べているとき、少し離れた農業地帯、新得にヨークシャー・ファームというラム料理を売りものにするレストランがみつかり、ここがペンションを兼ねていることがわかった。口コミの評価も好意的だったので直ぐに予約した。
 ルート検討は、これも毎度利用しているNAVITIMEのインターネット・サーヴィスで距離や時間を確認していった。すると一つ問題の個所が浮かび上がってきた。それは富良野から網走へのルートである。ルートそのものに違和感はないのだが、262kmの距離に9時間7分かかると出てくる。旭川をバイパスしたり、自動車道を選んだり条件を変えても大きな違いは無い。この日は富良野・美瑛で花畑などを訪ねる予定もあるのでその余裕が全く無い。あらかじめ宿泊先を決める前にこのルート・チェック入っていたが、途中に適当な宿泊地もないので、出たとこ勝負で遅いチェックインも覚悟した(結果的には6時間程度で走れた)。
 このルート・チェックに併せてエッソ/モービル/ゼネラルのスタンドをチェックしたが、本州よりずっと多く、給油の心配は全く無かった。また、道の駅もほとんどの観光スポット周辺にあり、休憩場所に困ることもなさそうだ。
 これに大洗←→苫小牧間のフェリーの運航状況、部屋(スウィート・ルームから大部屋まで各種ある)の空き具合を調べて予約。これで計画は固まった。
 今回のルートは長時間人家のきわめて少ないところを走るので、それがどの程度のものか部分的にグーグールアース(衛星写真)で調べてみた。確かに熊や鹿が出てきてもおかしくない場所が多々あるし、万が一車が故障したらとの不安は残った。
(次回予定;大洗港へ)
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2011年7月19日火曜日

決断科学ノート-82(大転換TCSプロジェクト-19;ヴェンダーセレクション-2)

 英語の要求仕様書に基づく説明会がニュージャージーのERE(Exxon Research & Engineering)でひらかれたのは、1980年年央である(正確な時期を思い出せない!)。対象は2グループ、米ハネウェル・山武ハネウェルグループとIBM(米・日)・横河グループである。日本人参加者は、東燃は無論、山武、日本IBM、横河から大勢のメンバーが出ているが、基本的に全て英語ベースである。後にも先にもこんな仕様説明会は行われていない。全体説明の後には、各グループ(場合によって各社)との質疑も数日用意されているが、国内競札に比べ短期集中は否めず、関係者の苦労は受発注双方とも大変だった(最終見積もり提案までの期間は1ヶ月位あったが)。
 東燃のメンバーは前回記した中央推進チーム、リーダーのMTKさん始め、SGWさん、TKWさん、HRIさんなどだが皆海外出張も数多くこなし当該分野における英語力には問題なかった。また、山武ハネウェルや日本IBMの担当者(MTIさん、HRYさん、OKNさんなど)も会社の性格(米外資系)から英語によるコミュニケーション力に長けている人が多かった。しかし、当時の横河電機は海外ビジネスを展開しているとはいえ、実態はほとんどエンジニアリング会社の下で行っており、米国法人はあったものの工業計器の市場規模は小さく、充分なスタッフを抱えるほどではなかった。つまり、本社も含めてこのような異形の応札に対応できる体制にはなっていなかったのだ。
 かてて加えて、ACS(IBM製品)とCENTUM(横河製品)を結ぶ通信機能は次世代システムの当に要(かなめ)。話し合いは対東燃ばかりではなくIBMとの間でも行わなければならない。この分野はIBMも日本人スタッフの担当領域ではなく、本社の専門家と詳細な詰が必要なのだがはかばかしく進まない。帰国後聞かされたところでは、MTKさんが専ら通訳の役目を果たしたとのことであった。
 しかし、横河がここで体験した苦労はその後の海外ビジネスにおいて大いに力になったことは間違いない。例えば、このときのまとめ役のTMTさんは、これが一大転機となり、横河の海外システムビジネスに欠かせぬ人材として、世界にその名を知られるようになっていった。後年私が横河グループに加わると、「TMTさんを知っている」と言う人(横河関係者でない)に何人も会うことになる。
 ビジネスモデルと言う点で、ハネウェルグループは資本が一体であることからまとまりもよかった。これに対してIBM+横河には「どこまで一体感のあるシステムに仕上げられるか」不安があった。従来のIBM商法は“自社製品を販売する”ところまでが限界であり、あとはユーザーの責任となる。もし国内で日本IBMを対象に見積もり照会を行っていれば、ACSが国内で正式販売されていなかたので、このビジネスモデルが適用されたのではなかろうか?
 EREと一体となり米国で競札を行ったことで、IBM本社が動き、こちらの要求仕様に合わせるべく基本システムに一部手を加えたり、横河との共同作業(境界は明確に分けるが)を推進体制が出来たりした。本来バッチベース処理ベースの汎用機O/Sの上で動く、特殊なリアルタイムO/Sはもともと宇宙開発技術の一部なのだが、この分野の専門家が次世代プロセス制御システムのために動員されることなど、IBMの底力を垣間見ることにもなった。

(次回;ヴェンダーセレクション-3;競札結果)

2011年7月16日土曜日

道東疾走1300km-1;走行ルート全容

 昨年末から、今年の連休前後のドライブ行は紀伊半島深奥部(高野、竜神方面)と決めていた。出来れば吉野の桜のシーズンがいい。ぼつぼつ計画の細部を詰めようという3月11日、あの大震災が起こった。とてもドライブに出かけようという気分になれず中止とした。それでも連休を過ぎと、やはり何処かへ出かけたくなってきた。梅雨が明けるとどこも暑くなる。梅雨のない北海道はどうだろう?こうして思いもかけず北海道ドライブが実現した。計画作りから道中の詳細については次回以降に譲り、初回の今回は走行ルートの全容を駆け足で紹介しよう。
 北海道ドライブは、費用と時間で考えるなら空路とレンタカーの組み合わせが一般的である。実際現地でマーチ、ヴィッツ、フィット、ときにはヒュンダイのレンタカーで廻る人々を多く見かけた。しかし私の場合、“走り(人車一体感)”がテーマなので自分のクルマでなければ意味が無い。北海道での運転が舞台なら途中は端折りたい。大洗港(茨城県)から苫小牧港へフェリーで渡るのが上陸まで最も楽な移動手段である。
 フェリーを下船したのは午後2時。苫小牧からは海岸沿いを東に日高富川まで日高自動車道(無料)を走り、そこから北海道を縦に貫く幹線道路、237号線を北上富良野に至りここに泊まる。走行距離209km。
 この一帯の237号線は“花人街道”とも呼ばれ、お花畑が随所にある(とは言っても国道を走るだけでは見えない。これは誤算だった)。早朝小雨の中それらを訪ねながら更に北へ向かい旭川で針路を北東に向ける。次の目標はサロマ湖。ルートはこれも無料の旭川紋別自動車道と273号線の組み合わせ。サロマ湖からはオホーツク海を左に見て走る238号線を行き網走を通過(途中で網走監獄博物館には寄ったが)、遥かに知床半島をのぞむ小清水の原生花園に至り、ここから網走に引き返してこの地に泊。走行距離317km。
 三日目は網走から美幌峠へ243号線をひた走る。好天の峠からの景観を楽しみ、屈斜路湖、摩周湖、硫黄山を巡る。昼食後弟子屈から道道53号線を南下、釧路湿原の東側展望台でクルマを止め付近をしばし散策。そこから釧路市街に至り、第三夜目を過ごす。走行距離201km。
 四日目のメインエヴェントは帯広周辺に散在する庭園公園(私設で有料)の訪問である。釧路から38号線で帯広市街に至りここからは地方道・農道を利用してこれら公園を訪ね走る。その後38号線に戻り、北西に針路をとり新得を目指す。四日目の宿泊はこの地にある牧場ペンションだ。走行距離228km。
 北海道五日目、最終日である。本来はここからのんびり日高地方のローカル観光地を巡り、4時頃苫小牧に到着の予定であった。しかし、二日目の天候と走行プランの関係でパスした花人街道の観光スポットを廻ることに予定変更、38号線で濃霧の狩勝峠を超え、237号線に合流、再度北に向かい富良野・美瑛間のわき道に分け入り、パノラマ・ロード、パッチワークの丘を午前中に廻り、初日走ってきた237号線、日高自動車道を辿って苫小牧港へ戻ることになった。走行距離325km。
 船中2泊、道内4泊、計6泊7日。自宅・大洗間片道約200km、道内約1300km、総走行距離数約1700km(正確には1655km)。比較的天候にも恵まれ、自車の持ち味を満喫した、当にグランド・ツーリング(GT)であった。残る心配事は、何処かで“速度自動取締器”(本州に比べきわめて多い)を見落としていなかったか?である(パトカーの待ち伏せ、ネズミ捕りもあったがこれは幸いかわせた)。
(次回;計画作り)

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2011年7月14日木曜日

決断科学ノート-81(大転換TCSプロジェクト-18;ヴェンダーセレクション-1)

 次世代システムのベンダー・セレクション(製造者選定・機種選定)はプロジェクトの大きな山場である。これにかかるのは、いくつかのステップ踏むことになるが、今回はグループ全体のシステムを統一するので、発注者側も受注者側も単独プロジェクトとは異なる長期的な視点が加わってくる。双方の仕様書(発注者側は要求仕様書、受注者側は提案仕様書)にこの将来構想を盛り込む必要があるし、予算や価格にも経済見通しや変化に対する対応策も考慮しなければならない。その一方で現在の製造者の持つ最新技術や製品仕様の詳細も熟知していなければならない。
 この仕様書作りは、本社の情報システム室に設けられた中央推進チームのメンバーの仕事となっていたが、それだけでは間に合わず工場からも応援メンバーを出して進められた。全体リーダーはMTKさん、DCSを中心とした計装関係はSGWさん、コンピュータ技術・通信技術はTKWさん、プロセス制御関係は石油化学のHRIさんがそれぞれの部門のまとめ役となり、それに適宜各分野の専門家も加わって次世代のMust・Wantを洗い出し、選択・修正・整理していった。
 要求仕様でもっとも注意すべき点は“Must条項(必要条件)”である。この記述によって公平な見積もり照会が行えない恐れが生ずることがあるからだ。単品として製造される機器では、照会段階の打ち合わせで受発注者間の相違点を埋めることも可能だが、複雑なシステム(ハードウェアのみならずソフトウェアを含む)では、発注者が意図的に要求仕様を操作し、特定の機種に有利な形に持ち込むことも出来るし、あるいは意図せずに生じた両者間の誤解が、一旦決した機種を逆転させる可能性もある。
 またWant条項(希望条件)はシステム提供者の心意気を探る場であり、ユーザーの夢があれこれ出てくるのだが、実現性(時間と費用)について充分スクリーニングする必要があった。
 当時の私の立場は、工場のSE課長として応援人材の提供と時々仕様レヴュー会議に呼ばれる程度であった。候補システムに関する知識は、現状のDCSについては山武(ハネウェル)、横河とも親しく接する機会がありそれほど偏りは無かったと思う。しかし、SPCに関してはIBMのACSに関してはTCCミーティング参加でかなり詳細を知ることが出来たが、ハネウェルのPMXはBOPの最新システム見学が出来なかった(グループの訪問希望が目白押しで)こともあり、ほとんど知見が無く、発言はどうしてもACSをベースにしたものになりがちだった。
 仕様書作りの難しさはこの長期見通しや詳細技術以外にもいろいろあったが、今までのこの種のものと全く異なる点は、見積もり照会をERE(米国NJ)で行うことであった。ハネウェルにしてもIBMにしても中長期的な展望を会社として責任をもって答えるためには、米国本社の参加が不可欠だったし、東燃も今回は要求・提案内容の検討にEREの参加を期待していた。
 そのため厚いファイル数冊(確か3冊)にまとめられた日本語要求仕様を英訳し、あらかじめERE担当者と内容検討をして、その結果を反映させた英語版要求仕様書を作成、それによって仕様説明会を行うことになった。この英訳作業では石油化学から米国に長期出張した経験を持つHRIさんが釈迦力で頑張った話は今でも語り草になっている。
(次回;ヴェンダーセレクション-2;国際競札)

2011年7月6日水曜日

決断科学ノート-80(大転換TCSプロジェクト-17;比較調査への取り組み-6)

 次世代プロセス制御用システムの候補は、エクソンの標準であるハネウェルのシステムとIBM(ACS)+横河(CENTUM)の二つに絞られたが、この絞込みに至る道には国産機(SPC用)をどうするか?と言う問題があった。精製側では富士通、三菱電機両社のシステムが使われていたし、石油化学にはGEの流れを引き継ぐ東芝製のプロコンが多数導入されていた。
 国産メーカーの良さは何といっても国内に全ての体制(研究・開発、製造、エンジニアリング・サービス、保守)があり、臨機応変にユーザー・ニーズに応えてくれるところにある。長期にわたり利用するものだけに、この魅力は捨てがたい。一方でIBMは基本的に自社製品を販売するまでが通常のビジネス境界で、アプリケーションを含めたターン・キーは特別な事情(例えば国家プロジェクトに近い東京オリンピックやNHKのシステムのような)が無い限り、提供していなかった(これは独禁法の面からの制約もあったようだが)。それ故にIBMを好まないユーザーもいたのである。グループ内ではIBMシステム実績の無い石油化学(以下TSKと略す)にその傾向が強かった。
 第一世代の時代には、それでもユーザーが種々のアプリケーション・システム(例えばプロセスデータの収集・蓄積や利用者への加工情報の提供ソフト)開発支援ソフトを自ら開発し利用することも行われていたが、システムが高度化・大型化するに従い、このような基盤ソフトはメーカーが用意し技術進歩に応じてヴァージョンアップする傾向が高まってきていた。
 1980年春には先の二グループを意識した、見積もり照会用の仕様書が中央チームによって準備されつつあり、この仕様の骨子を国産メーカーに開示して彼らの対応を問うてみることが行われた。照会した二社(富士通、東芝)は産業用システムのプラットフォームをミニコンにシフトしていたこともあり、汎用機や大型専用機をベースにした製品を持たなかったので、基本アプリケーションソフトをこのためにゼロから開発する必要があった。そのため“全開発費”をユーザー負担としてきたのである。これでは世界マーケットをベースにソフトウェア・パッケージの価格設定している米国メーカーに太刀打ちできないのは明白であった。
 後年アプリケーション・ソフトウェア販売のビジネスを始めてみて、あらためてプロセス工業用パッケージ・ソフトで世界に売れるものはほとんど米国製(一部英国製、フランス製)であることを、身をもって知ることになるが、その因はわが国メーカーが日本の有力ユーザーに合わせ過ぎ、世界マーケットへの展開力を欠く点にある。これは今に続く“ガラパゴス化”のはしりであったとも言える。
 実はSPCからは国産メーカーが落ちても、DCSには横河のCENTUMがあり、世界標準で開発されたIBMのACSとつなぐコンピュータ間通信部分では同様の新規ソフト開発が必要になる。これにも同様の議論(開発費をどう負担するか)があったが、幸いCENTUMそのものは標準化が進み、海外にもビジネス展開が可能なことから、開発費を折半し売り上げに応じてバックマージンをもらえるように見積もり条件を整理した。SPCアプリケーション・基本パッケージ全体に比べれば、通信部分に限られていたこともあり、その影響が全体計画に及ぶ割合は小さくて済んだ。
 こうして二グループによる決戦が迫ってきた。

(次回;比較調査への取り組み;見積もり照会)

2011年7月3日日曜日

今月の本棚-34(2011年6月分)

<今月読んだ本>
1)秘録 陸軍中野学校(畠山清行);新潮社(文庫)
2)「国連運輸部鉄道課」の不思議な人々(田中宏昌);ウェッジ社
3)遥かなる未踏峰(上、下)(ジェフリー・アーチャー);新潮社(文庫)
4)Patton-A Genius for War-(Carlo D’ Este);Harper Perennial
5)「満州帝国」がよくわかる本(太平洋戦争研究会);PHP出版(文庫)

<愚評昧説>
1)秘録 陸軍中野学校
 “日本人の組織における情報技術利用”をライフワークと思っている私にとって、それ以前の環境として“日本の組織における情報(収集・分析・利用)リテラシー”は大きな関心事である。この本を手にとることになった理由はそこにある。著者については全く知らない名前だが、編者を昭和史専門のノンフィクション作家、保阪正康が努めていることも、読む動機の一つであった。つまりこの本は1971年に単行本として出版されたものをそれから30余年後文庫本として復刻するに際し、原著に編者による検証・解説が加えられたものである。
 中野学校の名が一般人の目に触れることになったのは、1974年ルパング島で救出された小野田少尉が同校出身(二俣分校)であったことからであろう。ゲリラ活動や諜報・謀略戦の幹部養成所であったことから、その存在は一部に知られてはいたものの、職業軍人にも実態はほとんどがわかっていなかったようだ(民間人に扮することが多く、性格上同窓の集まりなども禁じていたし、戦後はいち早く資料類を焼却している)。それだけに早くからこれを追い、週刊誌に連載していた著者はその後(特に小野田少尉後)、中野学校研究の第一人者として認められ、編者のような歴史研究者に貴重な情報を提供することになっていく。
  原著は、旧日本軍における情報戦の重要性認知(一部の幹部)から本校の設立が図られ、やがて戦場(あるいは敵国)に放たれ活躍し、終戦と伴にひっそり消えていく歴史を、数多くの聞き取りや・エピソードを交えながら語っていくのだが、週刊誌に連載するという性格上、どうしても歴史や社会を掘り下げるよりは“読み物”としてのウェートが高く、冗長で(他で聞いた話が多い;日露戦争の明石大佐、ゾルゲ事件、米国によるわが国外交暗号解読など)軽い感じ(戦争講談調)が否めない。私にとっては、各章ごとの保坂氏の短いコメントが、この種の本(歴史読み物)の内容検証に必要なことを教えてくれたことに意義があった(例えば、ある記載部分について「本書の内容に否定的な中野関係者も少なからず存在する」など)。

2)「国連運輸部鉄道課」の不思議な人々
 乗物(鉄道)が話題と期待して取り寄せたら、国際公務員の話であった。しかし、思いがけず、明石さんや緒方さんとは異なる中堅幹部の活躍(悲哀も多々あり)を身近に知る面白さがあった。
 著者は私と同じ年生まれ(1939年)、1963年旧国鉄に車両技術者として入社。若い頃から海外での仕事に憧れ、米国の鉄道近代化計画(オハイオ高速鉄道プロジェクト;住民投票で否決)でクリーブランドに長期滞在、そのとき国連運輸部鉄道課(ESCAP;Economic and Social Commission for Asia and Pacific;国連経済社会理事会の下の地域委員会;の中の一部門)と関わることがありそこへの勤務を打診される。しかし当時は国鉄再建計画の議論が始まった時期、すんなりとは決まらず、外務省を通じて正式依頼があった2年後、1984年7月ESCAPの在るバンコクに赴任、爾来6年間運輸部鉄道課長を務め、その後民営化のJR東海に戻り副社長の地位まで昇進している。この本は、そのESCAP勤務中の6年間を伴に過ごした後輩のエンジニアへの鎮魂(水難で著者帰国後死亡)の書として書かれたものである。従ってやや時代が古いのが難点と言えるが、冷戦時でありGPU(KGBとは別で軍の諜報機関)中佐と噂される同僚(課員)が居て、その独特の行動に触れるシーンなどもあり、古いことがマイナスにはなっていない。
 内容は、技術的なことも多々紹介されるが、それはあくまでも人間関係を語るための背景であり、主題ではない。彼を取り巻く役者は、先ず鉄道課のスタッフ(フランス人、ドイツ人、ロシア人、タイ人、日本人)、レポートラインの運輸部長(海運や道路、通信も所管)の南アジア人(どこの国出身かは最後までわからず)、地域委員会のトップであるESCAP事務局長(バングラディッシュ人)、レポートラインではないが著者の仕事に深く関わる開発計画部スタッフのユダヤ系アメリカ人、女性エコノミストのオーストリア人(余談だがオーストリアは鉄道保守機械では世界のトップに在る)、それに事務局長直轄の企画調整監察室の日本人チーフ(女性)などである。
 国連組織が種々雑多なメンバー;プロパー職員、著者のような各国の政府機関から送り込まれる出向者、専門職やコンサルタントとして勤務している人、プロジェクトごとに採用される期間スタッフ、ローカルの補助職;で構成されその処遇、昇進などもややこしいことが、この鉄道課の仕事を通じて紹介される。そこには他の組織では見られぬ“国連の常識”(例えばチョッとしたことでも文書にして意思疎通を図る;関係者が不在だとえらく時間がかかる)があり、著者を戸惑わせる。またスタッフは国益を離れ“世界のために貢献せよ”と言われているが、実態はその逆で、少しでも個人と自国の利益と面子を立てるような行動が陰に陽に行われている。
 日本人同士の不可解な争いもある。著者が企画し公式に認められた国際会議の資料を監察室室長の女性(15年を超す国連プロパー職員)が「予算が無い!」と印刷を認めない。どうやら後から来た著者がESCAP内で力を発揮してきたことに脅威を感じて邪魔をしているのだ。また、部長の不在時には必ず部長代行が任命されるのだが、後任の著者がそれに任命されると、先任のユダヤ系アメリカ人(これもプロパー)からクレームがついたりする。いずれのケースもプロパー職員にはそこにしか自分の生きる場所が無い、追い詰められた者の必死の足掻きを感じさせ、哀れを催す。
 やがて著者はこのポストで欠かせぬ人材になっていくのだが、帰任の時期がやってくる。それと合わさせるように、予算不足の国連は組織のリストラにかかり、運輸部は他の部と併合、運輸通信観光部と変わり、鉄道課も単独存続できなくなる。いまこのESCAP(鉄道以外も含め)に日本人はほとんど居らず、スタッフは中国・インド・韓国などが増えているようである。内向きを一層強める昨今、これからの日本はどうなっていくのであろうか?こんな思いを残した一冊であった。
追記;国連の職員採用基準は第一に語学、第二が専門知識、第三が人柄、世界銀行はその逆であるらしい。世界銀行の言い分は、入ってから修正・強化できないものの優先が高いのだという。“国連の常識”は世界の常識ではないのだ。

3)遥かなる未踏峰
 1924年6月8日、エヴェレスト(2万9千2フィート)に初登頂最終アタックをかけたマロリーの姿は消えた。遺体が発見されたのは1999年5月1日、2万6千7百60フィートの地点である。登頂したら山頂に置いてくると誓った妻の写真は紙入れに残っていなかった。果たしてマロリーは初登頂に成功したのか?
 マロリーのエヴェレスト登頂の話しを知ったのは遥かな少年時代、ヒラリー/テンジンの初登頂以前である。多分その頃とっていた“少年クラブ”に載っていたのだと思う。そこでの終わり方も初登頂成功をうかがわせるものだった。登山に格別関心の無い私にもマロリーの名前と挑戦は確り記憶に残っていた。爾来約60年、あの記憶を蘇えさせるべく本書を手にとることになった。現代の優れたストリーテラー、ジェフリー・アーチャーの最新作あることも購入の動機として大きい(とは言っても彼の本は今まで読んでいない)。
 ジョージ・リー・マロリーは牧師の長男として誕生、父の仕事柄裕福とはいえない家庭環境ながら、奨学金を得て名門パブリックスクール、ウィンチェスターからケンブリッジ大学に進み歴史を専攻、これも評価の高いパブリックスクールのチャーターハウス校の教師になる。登山家としての才能は早くから有しており、有名な逸話にケンブリッジ受験日遅刻し門が閉じられているので、高い塀を乗り越え何とか面接試験を受けることが出来るシーンや意中の女性(後の妻)の気を引くため、衆人環視の中ヴェネチアの鐘楼に登るも話もある。なかなか茶目っ気のある人物でもあるのだ。
 当時の登山はスポーツと言うより探検の性格が強く、エヴェレストへの登頂は極地探検・征服同様の、大掛かりな国家的プロジェクトとして取り組まれる。従ってメンバーの選定も地理学会と山岳会の権威者たちにより厳しく行われ、単に登山者としての力量だけでなく、出身校や職業、個人生活まで問われることになる。幸いマロリーは英国本国人、ケンブリッジ出身、教師と言う外的条件に加え登山者としての実績も充分あるので問題なく選ばれるのだが、彼のライバルとなるフィンチ(俳優ピーター・フィンチの父親)はオーストラリア人、オックスブリッジは出ておらず女性問題も抱えている。加えて高山での酸素ボンベ利用を公言していることから「アマチュアにあるまじき言動」と選考委員たちのおぼえが悪く、何とか彼を外そうと画策するが、マロリーの強い奨め(「彼を落とすなら私もやめる」)で第一回の遠征隊に加わることになる。結局登攀隊長はマロリーながら、最高位(2万7千8百50フィート)到達者はこのフィンチであった(3人の登攀隊員の一人がへばりマロリーは彼と伴に残る)。
 しかし、第二回遠征隊ではこのフィンチが第一回の実績を地理学会に無断で金儲けに利用していたことからメンバーから外される。このときもマロリーは強行にフィンチを押すが、政治的な力も加わりあきらめざるを得なくなる。この第二回目では最後の登攀隊員は若いオックスフォードの学生になるのだが、もしこの時フィンチが居たらどうなったか?二人で登頂に成功し生還していたのではないか?そんな余韻を残しながら(小説の最後はこの学生と登頂に成功、下山中に遭難する)物語はおわる。
 アルプスを含む登山シーンもふんだんに登場するし、主題はエヴェレスト征服にあるものの、山ばかりではなく、当時の英国社会のあり方(マロリーは教師なので徴兵対象外なのに欧州大戦に志願する;エリートと国家の危機。学会・山岳会などの階級意識)や国際関係(入山に際してチベットへ入国することになるが、その地が中国やロシアを含めて複雑な状況下にある)を知るという思いがけない収穫が多々あった。
蛇足:高空での人体医学について「弟は空軍のパイロットだが2万7千フィーとで人間の体がどうなるか知る者は無い」と言うくだりがあるが、これは実在したサー・トラフォード・リー・マロリー空軍大将で、この決断科学ノートでも何度か登場し、私の尊敬するダウディング大将と戦闘機戦術で激しく対決した人物である。

4)Patton-A Genius for War-
 アメリカ陸軍の軍人で、兵士そして大衆に最も知名度が高く、人気のあった将軍である(アイゼンハワーも大衆に人気があったが、それは連合軍司令官として勝利した後である。マッカーサーはその傲慢な姿勢で多くの人に嫌われた)。アメリカ機甲(戦車)軍育ての親としても有名(戦後の主力戦車はパットン戦車と命名される)で、そのことを調べるために大分前に本書を購入したのだが、900ページを超す大冊で今まで読むのが延び延びになっていた。
 物語は1770年代スコットランドからヴァージニアに入植した祖先の話から始まる。本書の主役、ジョージ・パットン・Jrは初代から数えて5代目に当たるのだから長い話である。しかし、その南軍につながるヴァージニアが在って、のちのパットンJrが理解できる点でこの前史は欠かせない。祖父は南北戦争に南軍の士官として従軍し戦死、そのために祖母は親戚を頼り幼い子供(父やその妹)を連れてカリフォルニアに移り住む。従ってパットンJrはカリフォルニア生まれだが、南部(南軍)の血を色濃く受け継いでいる。つまりある種の南部気質・貴族趣味を身につけている。祖父・父・本人はいずれもVMI(Virginia Military Institute;南軍のウェストポイントと称せられる、軍隊式教育システムを採る私立大学;一般教育も行うが軍人になるものの比率が高い。第二次世界大戦時の陸軍参謀総長マーシャル元帥も同校卒業生)で学んでおり(Jrは途中で退学、ウェストポイントに入学・卒業する)、母も西部開拓史に名を残す成功者の娘、典型的なエリート階級として乗馬や射撃なども日常生活の中にある。それもありストックホルム・オリンピックでは近代五種の選手として、ほとんど準備もせず参加、入賞している。
 士官学校卒業後騎兵科将校となるが結婚相手がボストンの名家出身で裕福なこともあり、薄給の軍人になっても経済的には苦労せず、ポロ競技などに熱中、貧農出身のアイゼンハワー(アイク)とは好対照の生活を送っている(アイクは後輩で歩兵)。この騎兵としての経歴がやがて機甲兵科の黎明期に生かされ、“生みの親・育ての親”と称せられるようになるのだが、その分野の先駆者、グーデリアン(独)、フラー(英)やリデル・ハート(英)ほど強烈な指導力・主張を感じられなかったのは意外であった。つまり当初彼の考え方は独立軍種ではなく歩兵支援の域を出ていないのである。
 読んでいくに従い、その名声が第二次世界大戦に参戦し軍団・軍司令官として兵士と伴に突進する彼の戦闘指導・指揮に由来することが解ってくる。思索家ではなく当に兵士なのである。その点でロンメル(歩兵出身)との対比が最も的を射ていると言っていいだろう。
 実はこの本が面白くなってくるのは、米軍が北アフリカに上陸しチュニジア、シシリー、ノルマンジーと作戦を展開しいく過程での将軍たちの争いにある。
 アイクは、チャーチルの老獪な策で名目上の連合軍司令官に据えられているが、英陸軍首脳は当初米陸軍をほとんど素人集団とみなし英国の指揮の下に置こうとする。米軍側の不満は募り英国側に譲歩を重ねるアイクに批判が高まる。パットンはこのような政治的論争に加わることは好まず、後輩のアイクの下に就いてもあまり不満を言わず、ひたすら戦場と戦果(そして個人の名声)を求めて断を下し行動する。兵士には頼もしいリーダーに見えるが、ブラッドレーのような知将には我慢できない。
 勇将のパットンに弱卒は許せない。シシリーで起こした、砲撃神経症の傷病兵二人を「臆病者!直ぐに退院しろ!」とどなり、手袋で殴るシーンは映画「パットン」でも山場となるが、実人生でもこれが一つの変曲点になる。部下だったブラドレーはその後軍団長、更には軍司令官へと出世するのに彼は身柄をアイクに預けることになる。しかし、マーシャルもアイクも彼を本国送りにはせず、政治家やマスコミから守る。それは大軍の一線指揮官として余人を持って変え難い力を持っているからなのだ(兵士と伴に常に一線に在り督戦する)。後の高い評価につながる機甲兵力利用はノルマンジー以降で、その突進力は目覚しく、バルジ作戦では素早い方向転換で友軍の窮地を救い、反す刀でドイツ南部を席巻、何とチェコスロバキアまで至る。ドイツ軍に最も恐れられ、彼が何処に居るのかが最大関心事の一つであった。
 彼を有名にしたいくつかの資質;強靭な闘争心・力強いリーダーシップ・自己顕示欲などと同じように語られるのが、幾多の舌下事件である。彼の最後は大将に昇進しながら、戦後ババリア地方の軍政長官をしているとき「次の戦いはロシアと行うことになるかもしれない。そのためにはナチスを活用することも考える」と記者会見で語ったことである(ある意味先見性に富んでいる)。アイクもこれを庇うことは出来ず、ついに退役を告げる。
 12月9日、英国を経て帰国する前日、傷心したパットンを元の部下が雉撃ちに誘う。晴天だが厳寒のドイツ、大将旗を翻すキャディラックは突然眼前を左折した米軍トラックと衝突、頸から下が不随となったパットンは時に妻や医者・看護婦に冗談も言いながら、21日還らぬ人となる。遺骸は当時の米軍規定(戦死者の場合;兵士をその地に置いて指揮官だけが帰ることは許さない)により本国送還とはならず、激戦地アルデンヌ近く(ルクセンブルク)の米軍墓地に埋葬された。墓標は一般兵士と同じである。
 著者は元陸軍中佐の戦史家、米軍幹部教育機関で戦史を講じてもいる。著者が前書きで述べている本書執筆の動機は、一般に流布しているパットン像が、1970年ジョージ・C・スコットが演じてアカデミー主演賞を獲った映画「パットン」の印象があまりに強く、それが実像と思われていることに疑問を持ち“Who was George S .Patton?”を探ることにあったと言う。そのために、彼の日記(彼はDyslexia;難読症;知的能力・一般的な理解力に異常は無いが、文字の読み書き学習に著しい困難を伴う;であったため、日記や手紙の判読には膨大な時間を要した)、家族(主に妻)や知人との往復書簡、関係者の伝記、軍の記録など広範な調査を行い、本書を表すことになった。従って全体で977ページの内、参考・引用資料だけで130ページある相当力の入った伝記となっている。

5)「満州帝国」がよくわかる本
 水泳仲間の一人が満洲生まれ・育ちの私にと薦めてくれた本である。著者は太平洋戦争研究会と言う団体で「よくわかる」シリーズを何冊か出しているようである。ただ、この本は一人の著者(1942年生まれ)で書かれている。著者が私より若いことから、実体験は全く無く、書籍等を参考に書かれたものであろう。戦後教育だけでこの世界を理解するのは身辺に冷徹な体験者がいないと偏向する恐れもあるが、概ね客観的に書かれているように思う。
 章立て・内容とも割りと良く出来ているが、やや話に重複が多く(若年者向けだからか)全体的な時間関係を把握し難くしているのが不満だ。
 私にとって価値があったのは、中国側(満洲軍閥以外の)のこの間の動きやその背景、また北伐(南京以南にいた蒋介石の国民党軍が華北の軍閥を征伐する戦い)における欧米諸国の行動とそれに対する日本政府の動きを解説しているところであった。特に英仏は既得権(租界)を守るために日本に劣らず強攻策に出ており、日本に向けて“義和団”事件のように共同作戦を働きかけていたが、幣原外交はこれをはねつけている点である。もし、この考え方が大勢になっていれば、別の満洲問題解決案があったことも考えられる。とはいってもこの外交政策を“弱腰外交”と非難したのは軍ばかりでなく国民の多くであったわけだからやはり歴史通りの道を歩むことになったのだろう。
 章題のつけ方やルビが多くふられていることから、多分読者対象は今の若い人(中学生や高校生を含む)であろう。しかし、日本近代史を理解するためには必須のテーマ(結局、太平洋戦争への道は満洲の存在が出発点であり、今日の東アジアでの日本の立場を在らしめている)だが、現在どれだけの若者が“満洲”に関心を持つだろうか?
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