2011年11月27日日曜日

決断科学ノート-101(大転換TCSプロジェクト-38;エッソイースタン・コンピュータ技術会議)


 TCS関連ビジネスが活況を呈していた198410月末、シンガポールで開催されるエッソイースタン(EEI;地域統括会社)傘下の精製会社がメンバーのコンピュータ会議、RCARefinery Computing Activity)ミーティングに参加することになった。この会議は’80年頃から始まったもので、毎年シンガポールのマンダリンホテルに在ったトレーニング・センターで一週間(正味5日間)開かれる。参加する会社は、EREECCS(エクソン全体の情報・通信技術センター)、EEI(本社ヒューストン)が米国から、これに東燃とゼネラルの日本勢、シンガポール、タイ、マレーシア、オーストラリアなど製油所を持つ会社が出席する。プログラムは各社の最新のIT利用状況やプロジェクトの紹介とEREECCSによる特定テーマに関する解説や講義などで構成される。参加人数は事務局を務めるシンガポールはオブザーバーを含め4~5名参加していたが他は1~2名で極めてこじんまりしたものである。                                       
この年東燃からは、本社から私、川崎工場からはIJMさんが出かけた。発表テーマは当然TCSである。当時は大々的(DCSだけでなくSPC;高度プロセス制御を含む)にプラント運転にコンピュータを導入しているのは東燃とゼネラル石油だけで、シンガポールが計画中だった以外は、部分的なDCS導入やPC利用程度であった。従ってEREのプロセス制御担当課長の高度プロセス制御に関する解説、ECCSによるロータス-123の講義・演習、EEIによる高度制御の稼働率指標統一案検討を除けば、東燃とゼネラルが主役を務める結果になった。
東燃はTCSACSIBM製高度制御システム)+CENTUM(横河製DCS))、ゼネラルはハネウェルのPMX(高度制御システム)+TDC2000DCS)をそれぞれ導入・稼動させていたので、奇しくもエクソングループの二つの標準システムが対決する形になった。
ゼネラルの出席者は堺工場のIKDさんと言うプロセス技術課長一人。如何にハネウェルのシステムが使い易く効率改善に役立っているかを時にACSDCSを意識しながら、他の参加者に訴えていった。EREは本ノートの初めにも触れたようにハネウェルと一体となり新システム(PMXの改良版とTDC3000)の開発を進めてきた経緯もあり、節目節目でIKDさんをサポートする。これからコンピュータ化に取り組むところにとっては、明らかにインパクトが強い。
参加前、そしてこの発表があるまでこちらは全くハネウェルのシステムを意識することは考えていなかったのだが、これを聴いて私も用意した内容より対ハネウェル的な方向に向かわざるを得ないようになってしまった(かなり個人的な資質もあって)。ゼネラルが稼動させたシステムは世代が古くなりつつあること、PMXはプロコン専用機であり拡張性やソフトの移行性に問題のあることなど、東燃内で候補システムを選ぶ際の比較検討内容を一気にぶちまけTCS(特にACS)の優位性を強調した。当然これに対してIKDさんが反論してくる。またそれに切り返す。日本二社の激しいバトルに他の参加者はあっけにとられてしまい、何も口を挟めない。会議が終わったとき、事務局長を務めるエッソシンガポールの製油課長、Cheah It Chengが「とても僕には議事録をまとめる自信がない。MDNさん書いてくれ」と言われてしまった(英語力の問題もあるだろうが・・・)。
It Chengとはその後家族ぐるみの付き合いをしており、会うたびに「あの時の日本二社の戦いは凄かったし面白かった」と話題になるほどである。とにかく東燃が、そして日本が輝いている時代、TCSを参加者に確かに印象付けたことだけは間違いない。
後日談;IKDさんはその後ゼネラル石油の役員となり堺工場長も務められた。システムプラザ時代にお会いする機会があり、堺で一献傾けながらあの時の戦いをお互い懐かしく語り合った。
(次回予定;新会社設立に向けて) 

2011年11月24日木曜日

決断科学ノート-100(大転換TCSプロジェクト-37;TCSをビジネスに-5)


 TCSを構成するもう一つの要素は横河製の分散型ディジタル制御システム(DCS)、CENTUMである。発売当初は集中型DDCDirect Digital Control)、YODICの影を引きずり32ループ(制御点)で一つのユニットを構成していたが、分散度の進んだ(8ループ)ハネウェルのTDCに対抗すべく進化していった。それもあって、国内市場では高度成長期に建設されたプラントのアナログシステム制御システムに置き換わるものとして、横河の主力製品になってきていた。現在横河電機が世界を代表する制御システム供給者の位置を占めているは、このCENTUM開発・進化がもたらしたといっても過言ではないほど重要な製品である。                                       
東燃(そしてERE)がTCS開発に際して最も危惧したのはACSとこのCENTUMの有機的(情報交換に制約の少ない)な結合をどこまで実現できるか、と言う点であった。1979EREExxonエンジニアリングセンター)を訪問した際、彼らはハネウェルのシステムを第一候補として推しながら「東燃はプロジェクトを自分で推進できるからACS+横河も検討して良いよ」と言ったのは当にこの部分に着目したからである。
IBMACSの下に来るDCSは出来るだけ沢山の機種を想定したい(実際Exxon傘下ではハネウェル、フォックスボローそれに横河のDCSが繋がることになる)。横河もCENTUMの上に来るSPC(上位制御用コンピュータ)は一社に限定したくない。双方とも選択肢が多く選べるよう、出来るだけ一般的(特定のメーカー、機種に限定しない)な通信インターフェースにしたい。しかしそれではきめ細かな情報交換が出来ない。どうしてもユーザー知見を組み込んだACSCENTUM専用の通信方式が必要になる。この情報交換ソフトは、ACSCENTUMの中間にミニコン、シリーズ1(S/1)を介在させ、その中に収めるのが適当である(IBM汎用機やDCS専用機の仕様をカストマイズしないで済む)。そこでこのS/1搭載ソフトは東燃と横河で共同開発することにし、その知的財産権は両社に帰属することになったのである。
開発当初は「売れたら見返りを下さいね」と言う程度の口約束であったが、東燃がシスエムビジネスを開始する際、両社の法務部門が細部を詰めそれを明文化した。当時の横河の交渉相手は総務部門のMZGさん、気持ちよく対応していただいた。1998年システムプラザ(SPIN;東燃から分社化した情報サービス会社)が横河グループ入りする際は管理部門総括の専務を務めており、こちらが大変お世話になることになる。
ACSを国内で販売する場合、その時点ではDCSCENTUMとの接続しか実績が無かったので、ACSを導入するユーザーはCENTUMとこの通信ソフト(DCXと称した)を購入することになる。一生懸命ACSを売ればそこにCENTUMビジネスが起こり、付帯してS/1DCXの商談が自動的に派生する訳である。大規模プラントでは複数のS/1DCXが売れるので三社(IBM、横河、TTEC)にとって極めて効率の良いビジネスになった。
IBMの販売成功報償制度、ACSを熟知したものだけが享受できる単価の高いシステム開発それにこの通信ソフト販売が組み合わされ、TTEC(東燃テクノロジー;エンジニアリング会社)におけるシステムビジネスは、情報サービス事業として順調な立ち上がりを見せたのである。
(次回予定;エッソイースタン・コンピュータ会議)

2011年11月20日日曜日

決断科学ノート-99(大転換TCSプロジェクト-36;TCSをビジネスに-4)


 IBMACS(高度制御ソフトウェアパッケージ)セールスは1983年後半から本腰が入ってくる。二度の石油危機を克服し、製造業は世界経済牽引のエンジンと期待され、また恐れられてもくる状況下で、ユーザーの方にも積極的に新しい技術を導入する機運が高まっていた。東京を始め主要工業都市(水島、北九州など)で開催されるセミナーには多くの石油・石油化学・化学の潜在顧客が参加し、東燃と業態も近いこともあり事例紹介が引き金となって、次々と商談が具体化して行った。こんな中で異色だったのが、川崎製鉄と王子製紙である。                                  
川崎製鉄の場合は、IBMの働きかけもさることながら、千葉製鉄所計装部のIWM課長が製鉄の国際学会でACSの話を聞き強く興味を持ったことが導入具体化に繋がったようである。適用対象は比較的新しい溶鉱炉(高炉)で、ここのプロコン置換え計画として有力候補に挙がったが、この段階では鉄鋼関係への実績は無く、技術的・経済的な適用可能性について社内の説得にIWMさんは随分苦労されていた。こちらもそれに最大限に協力、製鉄所での技術検討会のほか和歌山工場への見学会まで実施して、やっとTTECシステム部としても成約にこぎつけた。つまり、IBM販売協力ばかりではなく、ACS導入技術支援をビジネスとして受注できたのである。この内容は単にACSを動くようにするばかりではなく、溶鉱炉を操業していくための各種情報処理アプリケーションをも含むもので、我々にとって初めての異業種体験となった。
ビジネスは技術提供だけで済むものではない。商流もこれだけ大きな会社だと、我々のサービスくらいでは直接取引とはならず、手続きとして直系の川鉄商事を通さなければならない(実務的には本社機材部とのやりとりになるのだが)。そこでは口銭を取られることになる。見積もりにこのようなことを考慮しなければならないことを学んだのもこの商談である。ここでの学習はいずれやってくるシステム部門分社化で大いに生きてくることになる。
王子製紙の商談は、1984年前半IBM北海道が手がけた案件である。先方はそれまで旧財閥同系の東芝製のプロコンを使用していたのだが、そのリプレース計画を耳にしてACS売り込みを目論んだのである。古い歴史を持つわが国最大の製紙会社、本社のメインフレームこそIBMだったが工場はほとんどが東芝製で占められていた。しかし苫小牧工場の計装課長がACSに興味を持ってくれ、現地説明会開催のチャンスを与えてくれた。IBM本社ACSチームによる説明と東燃の事例紹介には計装出身の製造部長も参加し、熱心な質疑が交わされた。しばらくすると話は次の段階に進み、具体的なアプリケーションの打ち合わせをしたいとの要請をうける。
この時期ACSビジネスは引き合いが活発で、私一人でやっていた営業は手が足らず和歌山工場のPSE(プロセス技術バックグラウンドのSE)だったNGIさんをメンバーに加えていた。彼の高い問題対応能力を買ってのことである。苫小牧の関心が高いアプリケーションは、蒸解釜(製紙工程の最初にある中心装置;製鉄の高炉、石油の常圧蒸留装置の位置付けと同じ)を中心とした省エネルギーとパルプブレンディング最適化だった。原料パルプには品質にいくつかのグレードがあり、高品質のものをミニマムに抑えて製品を作り出すところが要点なのだ。これは石油製品のブレンディングと同じである。NGIさんの説明に客先の担当者たちは惹きつけられ、さらに次のステップへと進むことになる。
ここで生じたのが“プロセス制御技術販売”に対するEREの見解である。我々は石油ではないから問題なしと思ったし、たまたまTTECに出張で来ていたEREのセールス責任者も同じ見解だった。しかし「EREに戻ってから正式回答する」と言い残して帰国した。結果は「No」。理由は「最適化手法そのものがグループの資産だ」と言うものであった。納得できる話ではなかったが、蒸し返しても時間がかかる問題で、客先やIBMに迷惑が及ぶことも考えられるのでこの件は見積もりから落とさざるを得なかった。
それでも競札では最終の二システムの一つに残った。この段階で前回紹介のNKH常務が大学時代のゼミの先輩で王子の役員をされていた方に電話を入れてくれた。その方にも支援をいただいたが、最終的には東芝に決まった。
失注はしたものの、この経験も異業種で戦える自信を与えてくれた出来事であった。
(次回予定;“TCSをビジネスに”つづく)

2011年11月13日日曜日

決断科学ノート-98(大転換TCSプロジェクト-35;TCSをビジネスに-3)


1983年は組織的にも個人的にもいろいろ大きな変化の因となる出来事があった年である。1月のTTECにおけるACS販売を中心とするシステムビジネスの立ち上げを始め、いずれ本ノートに別テーマとして掲載予定の、メインフレームの置換え計画(IBMを継続するか国産機に置き換えるか)も詰に入ってくる。これらの仕事にキーパーソンとして欠かせないTKWさんが4月から一年間慶応ビジネススクールに派遣されることになる。加えて私自身も秋からの米国のビジネススクール行きが計画されていた。振り返ってみればこの年がビジネスマン人生の一大転換の時であったのだ。                             
ACSビジネスは専らIBMの営業について廻るのだが、IBMもユーザーも東燃の実績を話題の中心に据えている。一通りの説明が済むとほとんど技術者同士の専門的なやりとりになる。技術者としてこんなに面白いことは無い。商売を忘れてつい議論を沸騰させてしまう。帰路IBMの担当者(地方の営業担当者やACS営業専任者)から「技術的な話し合いもいいが、ゴールは売ることですからね!」と忠告・指導を受けて、武士の商法を大いに反省させられたりした。同行するうちに、市場予測、顧客分析、マーケティングなど営業活動に関するIBMの戦略・戦術を間近に学ぶことが出来、その後の新事業展開に大きな糧となった。
営業協力以外にもIBMは新規ビジネスが進むよう、ACSに関する注文を出してくれた。例えば、ACSマニュアルの翻訳や石油・石油化学向け販促のための資料作りなどがそれらである。マニュアルの翻訳は長い歴史があり、購買部門は確りした査定基準を持っている。一ページは何行何語で構成されかを大雑把に把握して、そこから見積り価格を算出するのである。問題は翻訳の単価である。こちらは「内容によって難易度が違うはずだ」と主張し何とか高い価格に持っていこうとする。さすがに購買もACS(高度制御)はまるで分からない。数少ない社内の専門家(その多くは東燃スタッフと一緒に米国でACSを学んだ)に聞くと「これはかなり専門性が高いので他社では出来ない」などと答えてくれる。実際発注部門からのクレーム・修正はほとんど無く、ACS部門以外にも評判が高まっていった。
そんなある時、当時新事業も担当していたNKH常務から呼び出しがかかった。出かけてみるとIBMからの丸秘資料というものを見せられた。そこには国内におけるACS市場分析が描かれており、石油・石油化学に限らず化学・電力・ガス・鉄鋼・セメント・ガラス・食品・薬品など広義のプロセス工業への期待販売数量が記載されていた。「IBMからこれをベースに事業展開協力の提案がある。中身を一度検証してコメントをくれ」ということであった。無論TTECACSに関する事業を始めていることを知った上でのご下問であったが、もっと大きなビジネスプランを窺わせる問いかけと感じさせるものがあった。数日後数量分析結果を付けて「きわめて楽観的な数字で、とてもこれほどの数が売れるとは思えない」と報告した。常務は「こう言う分析が欲しかった」と言って、この話は終わった。
しかし、これはその後のACSビジネス、更には新規事業展開にインパクトを与える出来事だったのではないかと思っている(以下のことがこの話から繋がったという確証は無いが)。特にIBM側はそれまでTTECのビジネスはACS導入技術サービスの提供を顧客に行うことに焦点を当てたもので、IBMビジネスの外周にある仕事をこちらに回すというものであったが、それに加えて新たにACS販売成功報酬を支払うシステム(アフィリエート・マーケティング)を作り、こちらのやる気を引き出す仕組みを提案してくれたのである。
(次回予定;“TCSをビジネスに”つづく) 

2011年11月6日日曜日

決断科学ノート-97(大転換TCSプロジェクト-34;TCSをビジネスに-2)


 1983年年初におけるTCSIBM製品ACS+横河製品CENTUM)の外販は確たるビジネスプランを作成した上で取り組んだわけではなく、日本IBMACS販売協力依頼に乗って「チョッとやってみるか」と言うような軽い気持ちでスタートした。従って当初の動きはひたすらIBMの営業から声がかかるのを待って動き出すような状態だった。東燃でのプロジェクト推進や導入後の利用状況を話しながらACSの良さを売り込むのがこちらの主な役割だが、話が一通り済むとしばしば「ところで東燃さん何を売るんですか?」などと聞かれてしまう。「ACS導入に関する技術サービスを提供します」と言うのが一応の答えなのだが、この“サービス内容”が自分たちにもはっきり定義できていないので、それから先は互いにどんなことをして欲しいか、どんなことが出来るかを探りあい“群盲象をなでる”の観を呈してくる。ソフトビジネス営業活動の難しさ・未熟さを痛感させられた。                
IBMが売る物はACSと言うソフトウェア製品とこれを走らせる汎用コンピュータシステムである。横河電機の売る物はCENTUMと言う制御システムである。我々の組織が作られた東燃テクノロジー(TTEC)が売る物は石油プロセスのライセンスである。それぞれに関連サービスがあるものの、それらの費用は商品の中に含まれているので、サービスだけが独立して販売されるわけではない。しかし、それぞれの“物”が仕様通り納められたからといって、客先の最終目的通り全体システムが作られ、動くわけではない。この隙間を埋め、稼動させるサービスを提供するのが我々のビジネスなのだが、ソフトの有料化がやっと認められるようになった時代ではサービスを有償(それも単なる人工仕事でなく、ノウハウとして)で調達することになかなか理解が得られなかった。今ならシステムインテグレーション(SI)サービスとして立派にITビジネスの大きな分野になっているのだが・・・。
この関門を突破すると次にもっとやっかいな問題が待ち構えていた。プロセス制御アプリケーション(単純な物性値を一定に保つようなものではなく、省エネルギーや収率改善など収益を向上させる高度制御)を提供できるかどうかの問題である。当時の東燃はこの分野で優れた実績を上げており、部分的にはそれらの情報が業界関係者に知られていた。それを提供してくれるならシステム更新を検討しようと言うのだ。IBMや横河電機の期待もここに大きい。我々も単なる人工仕事(一人月いくら)はしたくなかったから望むところであった。しかし、一方で他社に対する差別化因子の一つであるだけに簡単にOKできる環境ではなかった。東燃・TTEC(その先にあるERE;エクソン・エンジニアリング・センター)の了解が必要なのだ。
TTECにはシステム部設立以前から技術部にシステム技術課があり、制御システム関連ビジネスを行っていた。東亜石油知多製油所(後に日本鉱業に売却)の建設ではIBM1800YODIC600で構成される第一世代のプロコンシステムを販売している。これを前例にTCSの付加価値サービスの事業化をエクソンに問い合わせると「知多のケースはエクソンプロセスライセンス販売の一部でかつ公開された範囲の制御アプリケーション(単純制御とデータ処理)である。それを超える高度制御は基本的にはダメ。商談毎に審議する」との答えが返ってきた。IBMと一体となっての売込みに歯切れの悪い対応をせざるを得なかった。
それでもIBMのマーケティング活動強化(セミナーの開催など)によってユーザー側に力のある会社や業種の異なるプロセス工業でのACSへの関心が次第に高まり、川崎製鉄(現JFE)千葉製鉄所や日本合成ゴム(現JSR)などが導入計画を具体化し始め、このビジネスが進展しそうな予感がしてきた。
(次回予定;“TCSをビジネスに”つづく) 

2011年11月2日水曜日

今月の本棚-38(2011年10月分)


今月は下記の12冊だけである。おそらくこの半世紀で最も本を読まなかった月に違いない。理由は104日に長女のところに二人目の孫(女児)が誕生、生活が一変したからである。二つ隣の区に住むため、長男を我が家に連れてきた。彼の面倒を見ることが私の役割である。3年制幼稚園の年少クラスへの送迎をはじめ、8時過ぎの就寝までその子のお相手。とにかく片時もジッとしていない。夜はクタクタでとても長い時間読書を続けられる状態ではなかった。8日からは長女、新生児も加わりにぎやかで楽しい時間を過ごした。 嵐が去ったのは29日である。
ここに撮影数日前4歳の誕生日を迎えたばかりの初孫と生後2週間目の二人目の孫をご紹介します。

<今月読んだ本>
1CIA秘録(上、下)(ティム・ワーナー);文藝春秋社(文庫)

<愚評昧説>
1CIA秘録
単行本が出た時(200811月)から読みたいと思っていたが、売れそうな予感がしたので多分文庫本になるだろうと購入を控えていた。歴史ノンフィクションだけに、その間の時間が価値を減ずることは無かった。先月読んだ「レーニンの墓」に続き、世界をそして歴史を動かすと言う点において、またスケールにおいて現代史に双璧を成す著書と言える。著者がいずれも米国人のジャーナリスト(新聞記者)であることは偶然ではなく、こう言うテーマに取り組めるのは、超大国であることと長い歴史や民族に縛られない新しい国であることと無縁ではなかろう。読後感を一言で言えば「アメリカ観が一変した」
ケネディ(JFK)の人気は依然わが国では高い。よく政財界人が彼の名言(国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかをを引用したりしている。60年安保の年は大学3年生だった。その年の晩秋JFKが大統領に当選、卒業の年の622月には弟のロバート・ケネディ(RFK)が母校にやってきた。講堂に入れぬ学生が広場を埋め熱烈歓迎だった。理想に向けて邁進する若い国家の若い指導者の誕生を我がことのように喜んだ。しかし、この本を読んでこの兄弟が歴代大統領の中で最もCIAを違法(RFKは司法長官である!)に活用し、自分たちの政策実現と名声のために秘密工作を行っていたかが露わになる。その仕返しの一つがあのJFK暗殺事件で、そこには兄弟が目論んだカストロ暗殺工作が深く関わっていた可能性がある。それをCIAの一部がつかむのだが、工作の存在が表沙汰になることを恐れた上層部に握りつぶされる。兄弟の表裏はまるで違うのだ。そして理想を声高に唱える国家の実態も。
正式なCIAの誕生は、1947年に成立した国家安全保障法による(前身は戦時対ナチ諜報を行っていた戦略事務所(OSS)。戦中のこととて“何でもあり(虚言から殺人まで)”の世界だった。その遺伝子が受け継がれる)。「第二のパールハーバーを防止せよ」が設立目標である。そしてCIAの役割が大きく変わるのは200412月各諜報機関を統括する“国家情報長官”を設ける法律が成立し2005CIA長官が兼ねていた“中央情報長官(Director of Central Intelligence)”が廃止された以降である。今や大統領の耳目・手足として暗躍するあの組織(とは言っても大統領によってCIAの活用内容は大きく変わる;長官でも閣僚の地位を与えられる者から一度も単独でプレゼンテーションの機会を与えられない者までいる。一方で平気で大統領や議会も騙す)ではなく、政府の一情報収集分析センターに過ぎなくなっているようだ。しかし、新しく設けられた国家情報長官も必ずしも上手く機能しておらず、そこに危機感を感じた著者はあとがきの最後を「もしアメリカの将来の繁栄を願うなら、われわれには最良の諜報が必要である。敵をいかにして知るかを新しい世代に教えていくことから始めたい」と結んでいる。その必要性を訴えるために本書が書かれたということであろう(こう言うことを主張するジャーナリストがいる国が羨ましい)。
本書はトルーマンからブッシュ(ジュニア)までの歴代大統領の時代を6部にわけ、それぞれの大統領と現代史に残る事件(ベルリン危機、ハンガリー動乱、ヴェトナム戦争、キューバ危機などから中東・中南米での政府転覆、同時多発テロ、北朝鮮問題、イラク戦争まで、また60年安保時の自民党との関わりなども一章割かれている)とCIAの関係を、公開資料とインタヴュー(元CIA長官だけでも11人)で克明に調べ、両者の微妙な関係を事件毎に明らかにしていく。その努力(30年かけている)の跡は上下巻1200頁の内400頁(1/3)を占める“著者によるソースノート”にいかんなくあらわれている。これは単なる引用文献リストではなく、引用の背景までもが記されているユニークなものである。
それにしても、諜報活動ではヨーロッパ(特にソ連;KGB、英国;MI6)ははるかに高質(狡猾)で足下にも及ばないことを幾多の事例で示され、サスペンス物(小説・映画)のCIAが如何に幻影であったかを思い知らされたのは残念であった。
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