2012年4月29日日曜日

歴史街道を行く-(2)-吉野・高野・龍神を走る-



2.日程と宿泊地 選定
花や紅葉を愛でる旅は時期の選定が難しい。昨年の道東はラベンダー畑が目的だったが、やや早かった。例年関東で桜が見頃になるのは3月最終週から4月第一週。関西これよりは少し早いが、吉野は山なのでそれを勘案するとやはり4月の一週目か?Webで昨年の開花情報を調べると、下千本・中千本・上千本・奥千本とある内、415日で下の方は満開、上は七分とある(奥は大分遅い)。第一週に出かけた水泳仲間のSさんも「チョッと早かった」と言っていたので、第二週後半から第三週の前半に絞り込んだ。最終的な日にちは、宿泊先や週間予定などと調整して決めることにした。1月下旬のことである。
日本を代表する由緒ある桜の名所、その混雑ぶりはつとに聞いていたから、平日早い時間に駐車場に車を預け、あとはバスやケーブルカーと徒歩で廻る計画にした。このためには第一日目をどこに泊まるかがカギになる。吉野の旅館に泊まるのは論外(空室、価格など)なので、天理、大和高田、橿原など中都市のホテルを中心に当たると、その日の観光を考慮すると、橿原が最も好ましく思われた(飛鳥遺跡、橿原神宮など)。ここには比較的評価の高いホテルも二軒ある(橿原ロイヤルホテル、橿原観光ホテル)。しかし、予想通り旅行会社のパックプラン(食事とセット)でしか受け付けられないし、空いていても希望期間は皆塞がっていた。多くの人が同じように吉野への拠点と考えているに違いない。
大和高田、天理はそれなりの都市だが、購入したガイドブック(JTB発行のMook)には何も載っていなし、個人的に興味を惹くものも無い。結局選択肢も見所も多い奈良に泊まることにした。吉野まではやや距離もあるが2時間足らずだから、少し早めに発てばいい。場所はJRか近鉄の駅近くにして食事は街で摂るベースでいくつかのホテルを当り、最終的に“ホテル日航奈良”にした。
二日目の宿泊は、高野山のお寺さん(宿坊)と決めていた。他の観光地では体験できない寺院での一夜は興味深いものになるに違いない。高野山には宿坊はいくらでもあるが当方のチェックポイントは、場所(できるだけ中心地)、風呂(大浴場)、トイレ(部屋にある)それに駐車場である。和歌山在住の息子に相談して、会社の福利厚生施設として登録されている、総本山金剛峯寺と道一つ隔てて隣接する“一乗院”を予約してもらった。
三日目は龍神温泉。高野からは今ではスカイラインが出来たので2時間足らずで行けるから、本来泊まるほどの距離ではない。しかし、高野山には見所が多い。おそらく二日目の午前はそれらの観光で費やされることになる。それに今回の道中で唯一の温泉場でもあるし、45年の変貌も見てみたい。そのためにはその時泊まった、江戸時代から続く“上御殿”以外に選択肢は無い。
最終泊地は和歌山市。ここは現役時代和歌山工場出張でよく利用し、息子のマンションにも徒歩で行ける、和歌山駅前の“ホテルグランヴィア和歌山”にする。ここも息子の会社の割引が効くのでわり安料金で利用できるのも助かる。
418日(水)を出発日として、これらの宿泊先をチェックすると全て希望通り予約がとれた。
これで日程と宿泊先が決まった。あとは出発を待つばかりである。しかし、2月・3月例年に無く寒さは厳しく、桜の開花予想は遅れ気味だった。
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(次回;新東名を走る)

2012年4月25日水曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(1)



1.ルート全容
恒例の長距離ドライブを何処にするか?昨年の道東疾走から帰ると直ぐに次が気になりだした。秋に能登を周る案をぼんやり考えていたが、諸般の事情で取りやめにした。来春なら何処がいいだろう?晩秋、再び訪問地・ルート検討に入った。家人が「吉野山の桜は?」と珍しく具体的な提案をしてきた。
紀伊半島ドライブは20095月にも実施し、同年6月から12月まで長期連載した「センチメンタル・ロング・ドライブ」に道中記を書いた。この時は伊勢志摩から新宮まで海岸沿いを走り、新宮から熊野川を上って本宮に至り、熊野古道(中辺路)で白浜に出た。その連載に数々の思い出を書いたように、紀伊半島は若い頃随分走っている。しかし吉野はポコッと抜けていた。あの当時、草花にはほとんど興味が無かったからだろう。水泳仲間の一人が4月に吉野を訪れ、全山を覆う桜に感動した話を聞かされていたこともあり、ここが候補地として急浮上した。そこまで行けば和歌山市在住の息子夫婦を訪ねるのは必然。吉野から和歌山なら吉野川(下流は紀ノ川)を下れば3時間足らずで着いてしまう。これだけでは面白くない。山深い半島の山岳路を走ることを組み合わせよう。骨格はこうして出来上がった。
吉野の後は直ぐ西に位置する高野山へ行こう。そこから十津街道を下り、龍神を経て田辺か御坊へ出る。昔新宮から高野へ上った秘境ドライブが蘇る。しかし、このルートは昨年春の豪雨で未だ通行不能個所が在ることが分かりギブアップ。代案として高野山から龍神に直結する高野龍神スカイラインをとることにした。ここも半世紀近く前、南部(みなべ)から入り龍神を経て林道や山岳道で高野山まで走ったことがある。それが今や“スカイライン”に変じているのである。
龍神は半島中央部に在り、交通の便は至極悪い。しかし、海岸部から高野山に至る途上に位置することや温泉地として紀州徳川家が重用したことなどで、いくつかの街道がここを経るようになっていた。現在バスも通う主要ルートは2本、一つは御坊への道、もう一つは南部をへて田辺に至る。そこからは、いずれも南紀の海岸沿いルートで和歌山市に向かう、通い慣れた道だ。
最終日はチョッと思案した。2009年は宿泊地近くの和歌山ICから阪和道に入り、阪神高速を経て西名阪・名阪・東名阪とつなぎ、東名に入って自宅近くの横々道路出口まで自動車専用道路で一気に帰った。時間的にはこれが最も早いし、道も分かりやすい。しかし、ひたすら運転に専念するだけで味も素っ気も無い。今度は一般道を多用し、紀北や伊勢北部の景観や生活を窺うことを選ぶことにした。ルートは紀ノ川(吉野川)を東進、大和盆地を少し北上して橿原辺りで国道165号線(初瀬街道)に乗り松阪方面へ向かう。あとは伊勢道を走って亀山ICで東名阪に入る。一般道路を走る分時間はかかるが、前回8時和歌山出発で16時には自宅に着いてしまい、夕食に家人を煩わせることになった轍は避けることができる。
観光目的地は紀伊半島。ここへ取っ付くまではただの“移動”に過ぎない。自宅と半島基部(今回は亀山)の間は自動車専用道路で時間と手間を省きたい。横々・保土ヶ谷バイパス(BP)・東名・伊勢湾岸・東名阪は定番コースである。
総走行距離はおよそ1300km。これは前回とほぼ同じである。あとは宿泊地・観光スポットを詰めることで調整することにした(マップに示したルートは実際の走行ルート;天候等で変更)。
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(次回;日程と宿泊地選定)

2012年4月17日火曜日

決断科学ノート-114(自動車を巡る話題-8;自動車ジャーナリズム-3;自動車ジャーナリスト)



クルマが遥かな夢であった時代から、現在の“クルマ離れ”の時代まで、自動車雑誌も変化してきていることを前回述べた。そこには時代を先読みする優れた自動車ジャーナリストの存在がある。
技術解説や外観のデザイン評価(グラビア写真解説)が紙面の大部分を占めたところから初めて脱したのはカーグラフィック(CG)の運転評価レポートである。やっと自家用車に手が届く可能性が出てきたときに創刊され(1962年)、試乗可能な国産車の遥か先を行く欧州車を俎上に上げて、その優れた性能を伝えてくれた。この新しい企画の中心にいたのが、CG創刊メンバーの小林彰太郎である。わが国自動車ジャーナリストの始祖と言ってもいいこの人は東大経済学部出身、当時の業界にあって、異色の存在であった。後年書かれた伝記風紹介記事によると、ほとんど自動車部出身と言ってもいいような学生生活であったようだ。学生時代からモーターマガジン誌などに寄稿、おそらく外国の自動車雑誌などに目を通す機会もあったのであろう、CGが斬新な内容で多くの自動車ファンを惹き付けたのは、そこに手本があったからと推察する。取材活動を通じて出来た海外人脈・出版社との関係も他の自動車人には無い、彼の財産といえる。
創刊時、出来たばかりの東名をベンツで200km/hを超すスピードで飛ばしたことを記事にして物議をかもしたこともあるが、それほど彼我の差があった時代である。欧州車への賛辞が現代の自動車ジャーナリズムに続くのは、その影響ともいえる。私のひと世代前の人だが今でもCGの顧問として時々書いているようだ。
乗用車を技術以外の視点も加えて分析した次の人物は徳大寺有恒である。タクシー業経営者の家庭で育ち、高校生の頃からクルマに乗り始め、大学を出るとメーカーの開発アドバイザーやレーサー生活を経て自動車ジャーナリストに転じる。何と言っても彼を有名にしたのは「間違いだらけのクルマ選び」(1976)である。
この本が出たのは、マイカーが普及し、世界のマーケットに日本車が進出した時代。どんなクルマも国内で乗る分には一応満足できる状態にあった。しかし、この本でこの“一応”を鋭く攻め立て、評価を行ったのだ。価格と性能のバランス、わが国道路での取り扱い易さ、駐車スペースとの兼ね合い、色やインテリアの選択肢など、大金を払って一台しか持てない高価な商品の選択に役立つ情報を、手短にかつポイントを突いて解説する内容が大人気を呼ぶことになる。
その後のこの人の書くものを見ていると“社会・生活”の視点が一番確りしており、“社会派”自動車ジャーナリストと呼んでもいいような独自の位置を作り上げた。同世代ながら十年位前病を得て身体が不自由になったようで、運転の機会が減っているのが残念だ。
同じくクルマと生活の関係を取り上げながら、もう少し文化的な視点で発信したのがNAVIの創刊メンバーの一人、鈴木正文である。高校生の頃からおしゃれにはことのほか関心が高かったようで、50歳を過ぎた今でもユニークな服装でトークショウなどにあらわれ、若い人に人気がある。一方でかつて安田講堂篭城も経験した学生運動家の心意気は今も衰えず、NAVI編集長時代は編集部員を湾岸戦争反対デモに動員したという。
この独特のキャラクターがNAVIを追われる原因の一つだったようだが、ENGINEの編集長として返り咲くと、むしろそれが売りともなった。NAVIが休刊しENGINEが生き残ったのは彼に負うところが大きいように思う。巻頭の“from Editor”は、必ずしも直接クルマに関する話題ばかりではなく、文学、哲学や社会時評などにも及び、なかなか含蓄のある内容で、本誌の特集記事へ繋がっていく巧みなものだった。ひと世代若く、唯一の“文化派”とも言える彼も定年でENGINEを去った。次の舞台はどこになるのだろうか?気になる人物である。
上記三人ほど知名度は無いが、笹目二朗という人の書くものに興味を持っている。この人は自動車会社のエンジニアから転じた人で、雑誌にはそれほど登場する機会が多いわけではないが、レンタカーを借りて海外を走り回り、それを単行本にしている。大体同行者は夫人。車とガソリン、食・泊の苦労、道とスピード取締りの話が中心で、旅情を伝えるものは少ないのだが、クルマ旅の書き物が少ないだけに存在感があるのだ。こんな人が、ありふれたクルマを「いい車だ」などと評価すると、ディーラーの宣伝と見紛うような記事より信用できるような気になってくる。
この他にも数多自動車ジャーナリストはいる。この時代食べていけるのかと他人事ながら心配になるほどだ。自分の特色をどう出すか?時代は何を求めているか?雑誌も書き手も問われる時代が既に来ているが変化の兆しは見えてこない。

“自動車を巡る話題”はこれで一区切りしますが、好きなテーマだけに折を見て登場させるつもりです。明日から“吉野・高野・龍神ドライブ”に出かけてきますので、しばらくブログアップ中断します。これからもよろしく。

2012年4月13日金曜日

決断科学ノート-113(自動車を巡る話題-7;自動車ジャーナリズム-2;コンテンツ)




この半世紀、夢であり憧れであったクルマは、やがてマイカーとして身近なものとなり、使う側の関心・ニーズも変化してくる。さらに国内市場が成熟し、グローバルな資源・環境問題がクローズアップされ、種々の制約が加えられるようになる。この間のわが国自動車産業の成長は著しく、その変化をチャンスとして捉え、トップランナーへと発展してきたが、必ずしも安閑としていられる状況ではない。一つの例は、世界的には自家用車の中心を占める、セダンのマーケットにおける、日本車の存在感の薄さである。そしてその責任の一端は自動車ジャーナリズムにもある。過度な外国車礼賛と(重箱の隅を突くような)技術偏重である。
わが国乗用車生産の実質的なスタートは戦後、それも昭和30年(1955年)前後である。トヨタからクラウンとマスター(主にタクシー向け)が日産からダットサン800(やがて1000)が発売される。とにかく量産車を作れるようになったと言う段階で、とても世界市場に出せるようなものではなかった。それでも当時国産乗用車を生産できる国は米・英・独・仏・伊くらいだったから快挙だったのである。
当時の自動車雑誌の記事は、専ら技術的な内容が濃く、世界の先端技術に如何に伍しているかを解説する記事が多かった。筆者は主に自動車会社の技術者や機械工学の研究者。従って“運転する”、“所有する”と言う視点を欠いていた。
1950年代末期、本格的な乗用車生産に経験の浅いことを補うように、日産がオースチン(英)、日野がルノー(仏)、いすゞがヒルマン(英)と提携し、ノックダウンを始めると、彼我の比較が行われるようになり、それは技術ばかりではなくインテリアデザインにまでおよぶようになる。やっと“所有する”に踏み込んだ話題が自動車雑誌に取り上げられるようになってくる。
こんな時代、この“所有する”に加えて“楽しむ”視点を前面に出して創刊(1962年)されたのが、前回紹介した「カーグラフィック(CG)」である。特に外国車の試乗評価レポートはこの雑誌の目玉であり、人気抜群であった。第一回の特集は、何とメルセデス・ベンツである。まだまだ発展途上だった国産乗用車との比較も記事の中に散見され、厳しい評価を受けていた。しかし、学ぶことの多かった国産車メーカーへの愛の鞭となったことも確かである。
問題は、ここで育った自動車ジャーナリストが、必ずしも国産車を正当に評価せず、外車礼賛の風潮を今に引き摺っていることである。国産車が取り上げられるのは極めてまれである一方、米国車を除けば先ず外車の悪口を書かない。
それ故に、身近な存在である国産車を取り上げ、真摯に分析し(提灯記事でない)、消費者に適切な情報を提供して欲しいという願いは、潜在的に購入予定者や自動車愛好家の間に高まっていた。その期待に応えたのが徳大寺の「間違いだらけのクルマ選び」であった。この本によって、一時徳大寺は業界(メーカーのみならずジャ-ナリズムからも)から村八分に会うような扱いを受けたとも言われる。しかし、日本人の生活(所得など)を踏まえた、歯切れの良い評価は消費者や自動車ファンの圧倒的な支持を得ることになり、言わば“バイヤーズレポート”として、長く人気をはくすことになる。彼のような目で国産乗用車(特にセダン)を取り上げ、地道に報じていればミニバンと軽自動車が溢れる自動車ガラパゴス列島が少しは違うものになっていたのではなかろうか。
このガラパゴス化のもう一つの遠因に、かつて“Road & Track(米国自動車雑誌)”で読んだようなドライブ紀行がほとんど今の自動車雑誌に取り上げられないことがある。運転の楽しみはクルマだけではなく道や風景、あるいは土地々々の文化との触れ合いによってもたらされる。この楽しみを伝える努力を全く欠いては、自動車産業の特殊化(ひいては衰退化)が進むばかりでなく、自動車ジャーナリズムも同じ道を辿ることになるのではなかろうか。「旅と文化とクルマの融合」、こんなコンテンツが切に望まれる。
(次回;自動車ジャーナリスト;本テーマ最終回)

2012年4月8日日曜日

工房フォトギャラリー-10;桜便り


  
開花が遅れていた桜もようやく見頃になってきた。一昨日(46日)は大学時代の友人の写真展見学を兼ね国立まで出かけ、大学通りの桜見物をした後、飲み会を持った。恒例の催しで、実は“写真より、花より、ダンゴ”。従って、写真は無い。

その埋め合わせと言うわけではないが、昨日は県立三ツ池公園へ花見に出かけた。場所は鶴見と新横浜の中間位置、横浜市の東端、チョッと交通の便には難点があるが、それだけに人出も、市内の他の名所、三渓園や大岡川沿いに比べると密度が薄い。

元々は江戸時代の農業用ため池に発するが、戦前に緑地計画が作られ1950年代に整備が行われた。名前のように三つの池(上の池、中の池、下の池)から成る、30ヘクタールの広さに、78種(ソメイヨシノが7割)1600本の桜が池を巡って咲き誇る。他の都会の桜の名所との違いは、上へ伸びることを抑えていない、見上げるような高い大木がかなりあることだろう。種類や形の違いから生ずるコントラストを楽しめるのが良い。

子供連れが楽しむ施設(例えば長い滑り台)もあり、次回は孫たちを連れて訪れたい。
(写真はクリックすると拡大します)

2012年4月6日金曜日

決断科学ノート-112(自動車を巡る話題-6;自動車ジャーナリズム-1;自動車雑誌)




わが国の自動車産業、特に乗用車(スポーツカーを含む)の将来に不安を感じ出して久しい。その因は、メーカーの経営戦略、諸自動車行政にあるが、加えて自動車ジャーナリズムにも問題がある。これから数回ここをテーマに論じてみたい。
半世紀前自動車好きの学生だった頃、二つの自動車雑誌があった。一つは「モーターファン」、もう一つは「モーターマガジン」である。前者の創刊は戦前、それも1925年である。戦争中は休刊しているが、早くも戦後二年目の1947年には復刊している。オートバイからトラックまで、技術解説、試乗記、加えて大量の広告や中古車情報など、自動車なんでもありの、分厚いてんこ盛りの雑誌だった。それに比べるとモーターマガジンは1955年創刊、グラビアが多く、乗用車中心に外国車の紹介なども載せていた。当時は少なかった乗用車オーナーの家庭に育った親友に見せられ、その垢抜けた感じに印象付けられた。
 まだまだクルマの個人所有は高嶺の花、この時代の記事には、ジャーナリズムに欠かせない“評論(批判)”はほとんど無かった。
1962年(就職の年)「CARグラフィック(CG)」が創刊された。それまでの自動車雑誌と異なり、所有者・運転者の視点で車を取り上げ、創刊に携わった小林章太郎らの優れた評価レポートが売りものだった。国際的なレースや海外自動車ショウの紹介は国外に目を向ける機会を提供し、その点でも時代を画する出版物と言えた。またその名の通り美しい写真が多く(従って高価)、マイカー時代を先取りする革新的な位置を占め、その後のわが国自動車ジャーナリズムの手本となって行く。ただ、次回書くようにネガティブな面での影響も決して少なくない。
就職してから定期的に購読していた自動車雑誌は、モーターマガジン社が発行していた「Auto Sports」、それに米国の自動車雑誌「Road & Track」である。モータースポーツの黎明期、鈴鹿や富士スピードウェイで行われる各種レースは、やっとマイカー(中古車)を手にした私にとって、“次”を夢見る材料を与えてくれた。
海外旅行と海外高級スポーツカーは夢のまた夢であった時代、Road & Trackはそれを垣間見るチャンスを与えてくれた。特に印象的だったのは、最新のスポーツカーやクーペを駆って米国内を長距離ドライブする記事で、“運転の楽しみ”を教えてくれた。四国へ。山陰へ、能登へと走ったのはこの影響である。この雑誌は長い歴史があるが未だに命脈を保っている。
再び自動車雑誌を手にするのは1996年から。CGと同じ出版社が出す「NAVI」である。この雑誌に惹かれたのは、ほとんどがグラビアで記事に自動車ハード以外の情報(ファッション、建築・家具、芸術、料理など)が多いことだった。“自動車文化”雑誌と呼んでもいいかもしれない作りだったからである。それから数年後NAVIの隣に「ENGINE(新潮社)」と言う雑誌が並んでいた。一瞬コピーかと思うほど作りが似ている。よく見るとNAVIの企画段階から携わり、長くその編集長だった鈴木正文がENGINEの編集長になっていた。あとで知るとNAVIの編集方針を巡り何か論争があったようで、鈴木が退社、彼の目指す新しい雑誌としてENGINEが立ち上げられたのだ。
この間雑誌ではないが、自動車ジャーナリズムの歴史に残る本が出版される。1976年から毎年発行された「間違いだらけの自動車選び」である。ほとんどの国産乗用車を網羅し、徳大寺有恒の切れ味のいい評価が、30年に及ぶロングセラーを可能にした。
かつて書店の自動車コーナーは立ち読みで近づけないほど混雑していたが、今はそれほどでもない。NAVI20104月号をもって休刊(事実上廃刊)。鈴木も昨年末でENGINEの編集者を降りた(多分定年)。自動車ジャーナリズムに変化の兆しがみえている。
(次回;コンテンツ)


2012年4月1日日曜日

今月の本棚-43(2012年3月分)




<今月読んだ本>
1)ナチを欺いた死体(ベン・マキンタイアー);中央公論新社
2)54千円でアジア大横断(下川裕治):新潮社(文庫)
3)万里の長城は月から見えるの?(武田雅哉);講談社
4)英国の庭園(岩切正介);法政大学出版局
5)脱出空域(トマス・W・ヤング); 早川書房(文庫)

<愚評昧説>
1)ナチを欺いた死体
“英国人が真剣にやるのは戦争と道楽だけ”、 先月の「スエズ運河を消せ」で用いた格言を再び使うことで本書の紹介を始めたい。奇策で戦うところが同じなだけでなく、(主人公ではないが)登場人物に重なりもあるのだ。そして20096月の本欄で取り上げた「ナチが愛した二重スパイ」の書き出し“事実は小説より奇なり”もまたこの本の内容に相応しい言葉だろう。ちらほら見え隠れするスパイに見覚えがあるばかりではなく、著者が同じなのだ。
ヨーロッパ戦線における連合軍による大陸反攻作戦は、ノルマンディ上陸作戦(19446月)がよく知られている。しかしそれに先立つ194310月のシシリー島上陸作戦(ハスキー作戦)こそその先駆けであったのだ。バルカン半島から南仏にいたる地中海沿岸を“ヨーロッパの柔らかな下腹部”と見た連合軍は種々の上陸作戦を検討していた。北アフリカを抑えたあとのこの方面の上陸地点として、シシリーは本命中の本命だった(単なる橋頭堡としてばかりではなく、イタリアの戦線離脱を含め)。それは枢軸軍(と言っても実質ドイツ軍)にとっても同じであったに違いない。何とか敵の主力集中を防げないか?こうして始まるのが本書の主題“ミンスミート(ドライフルーツの洋酒漬けあるいは挽肉)作戦”である。
1943430日スペイン南部大西洋に面する漁村ブンタ・ウンブリア沖でイワシ魚をしていた漁民がトレンチコートを着た英国空軍将校の死体を引き上げる。トレンチコートにはカバンがくくり付けられていた。当時のスペインは一応中立の立場をとっていたが、フランコ政権は独伊の支援で成立したこともあり、親独的な色彩が強い。カバンの中の機密作戦情報がドイツの手に渡るのは確実だ(独マドリッド大使館員300余名の内約200名が情報将校!)。
イギリスが考え出した欺瞞作戦。その中心人物は英ユダヤ人社会の名家出身で辣腕弁護士の海軍情報士官(ユーイン・モンタギュー)とオックスフォードで地理学を専攻した空軍情報士官(チャールズ・チャムリー)、それに死体として国に貢献することになる行倒れ男の三人だ。
死体や戦利品が機密情報を持ち、それが敵を欺いた例はこれが初めてではない(例えばトロイの馬)。ドイツ軍の諜報活動の裏をかくためには、練りに練った周到なトリックが必要だ。(航空事故を想定した)死体の身元が割れないためにはその入手先(きちんとした家庭出身者はこんなことに使えない;肉親不明が条件)、軍籍、名前から恋人の存在、遭難前の行動(財布の中の領収書など)まで、味方からも疑われない準備・処理が行われる(件の海軍情報士官とその若い女性スタッフがそれぞれの役割を分担して何度もラブレターを交換するうちに妙な関係に進んでいく!)。死体が発見されなければ全く意味が無い。潜水艦で漁村近くまで運ぶのだが(一部士官以外の)乗組員にも知られたくない。死体収納特別容器の中身は “自動気象送信装置”と偽って艦内に納められる。死体がすんなり英国に返還されても作戦は不成功である。カバンの中身が確かめられてから引き取れるよう、外交も巧妙に展開しなければならない。作戦内容も正式な命令書よりは私信に情報をそれとなく書くほうが良い。筆跡を残すためマウントバッテン卿やモントゴメリー将軍まで利用してしまう。ここまでやるのか!の連続である。
まんまとこの作戦にかかったドイツは、ドーバーとシシリーに備え、フランスに温存していた装甲軍をギリシャに回す。欺瞞作戦の公式戦史はこの作戦を「大戦全体でおそらく最も成功した独立の欺瞞作戦」と評価している。
この話は1950年代モンタギューが許可を得て出版、大ベストセラー(初版3百万部)となり映画化もされたし(本人も出演)、これを材料に使った軍事サスペンス小説も書かれている。しかし原著の内容は当時の国際情勢と国の意向を忖度して、かなり事実とは違ったもののようだ。今回英国を代表するノンフィクション作家によって、未知の情報(特にドイツ側や作戦関係者周辺)が集められ、作戦自体とそれに関わる個人から国家の動きまでが正されたと言える(モンタギューの弟がソ連のスパイで、ソ連はハスキー作戦を正確につかんでいたことなどがその例)。

2)54千円でアジア大横断
1月の本欄で紹介した「世界最悪の鉄道旅行」が面白かったので、同じ著者の本をまとめて購入した。その中の一冊である。前回が鉄道であったのに対して、今度はバスである。実施時期は2006年、道筋は東京から出発し日韓(博多→釜山)と韓中(仁川→丹東;北朝鮮国境)間はフェリーを使ってタイ・ミャンマー国境まで。ミャンマーは外国人に開放されていないので、一度帰国して空路インドに入り、バングラディッシュでできるだけミャンマーに近づいて反転、西へ向かいインド、パキスタン、イランを経て、トルコのイスタンブールに至る。
このルートは、陸路ヨーロッパに向かうわが国バックパッカーの古典的バイブルとも言える、沢木耕太郎の「深夜特急」と重なる。大きく違うのは二点、あの当時は中国が開放されておらず、香港・マカオが出発点で後はマレー半島を南下シンガポールで一度切れ、次の出発点はインドからになる。第二点は、そしてこれが最も異なる点だが、沢木の場合は一ヶ所に比較的長く滞在してその土地の人や社会を深耕するところに面白味がある。一方下川は、売りでもある“乗物(今回はバス)”を主題にストーリーを組み立てる。私の興味はかなり乗物に比重がかかるので、バランスはこちらの方が良い。それでも単なる乗物マニアの書き物と違い、道程や駅周辺の風物、車内の人々の動きを通して鋭く社会観察を行っているので、旅の深みが伝わってくる。
例えば、大阪から博多まで極安深夜バスを利用するのだが、何か車内の雰囲気が刺々しい(迷惑行為の注意などが事細かに告げられる。乗客の交流は全く無い)。それに引きかえ、南アジアを走るバス(主に長距離路線バス)は車両も混雑も酷いものだが、人々には他人と共存することを楽しむ風がある。この理由を、他に選択肢(空路、新幹線、デラックス寝台バス等)があるのに、この極安バスに乗らざるを得なかった差別感に求め、貧富の差はあっても選択肢の無い南アジアのそれと比較して、分析していくところなどにうかがうことができる。
著者は既に50歳を超えている。しかし、そのタフネスに驚かされる。どの土地でも次のバスがどうなるかは分からない。着いたら直ぐ次を探し、できるだけ前へ進もうとする。結果車内泊3泊、4泊が頻繁に起こる。それも豪華バスではなく、路線バスやマイクロバスなどの中で寝るのだ。時には腹痛や風邪にも罹る。空路と違い陸路の通関手続きも出たとこ勝負が多い。英語とタイ語は達者なようだが、その他の言葉は通じない中で、とにかく何とかしてしまう。だからこそ、お国柄、お人柄が読む者に伝わってくるのだ。
54千円”はバス代とフェリー代だけ(東京-博多:18百円を含む)。日数は27日間。2000円/日である。宿泊や飲食は含まれていないが、これもほとんど現地の中以下のクラス。
来月分(再び鉄道物)も読み始めています。

3)万里の長城は月から見えるの?
アポロ11号の月面着陸の後「月から万里の長城が見える」と宇宙飛行士が言った、と言う話を何かの機会に聞いた。その時はその信憑性を確かめることまで思い至らず、それを信じていた。2003年中国初の宇宙飛行士が地球周回飛行を行い、着陸後のインタヴューで「万里の長城は見えなかった」と答え、彼の地でチョッとした騒ぎが起こっていることをニュースで知らされたが、更なる興味を覚えることは無かった。これは自然科学の中で、天文学や宇宙物理にほとんど関心がないことと中国を訪問する機会も無く、親しい知人も皆無だったことに依るのだろう。
2004年仕事で北京に出かけ、八達嶺(北京郊外北)の長城を訪れる機会を得、その威容に圧倒された。以後宇宙はともかく“長城”への関心はいや増すばかりである。そこへ出たのがこの本である。
著者は中国文学の研究者(北海道大学教授)。中国留学もしているし、留学生の受入も継続してあるようだ。従って、切り口は技術的であるよりも、歴史的・社会的なものである。とは言っても導入部では簡単に数学的・生理的な解説(他の人が行った結果)が行われるので、その面の検証もきっちり行われる。つまり「月面から、肉眼で、見えるはずはない」のである。では何故こんな話が広く流布され信じられてきたのか(特に現代中国において)?これが本書のテーマである。
自国の宇宙飛行士による「長城は見えなかった」発言は、先ず教育界に大論争を巻き起こす。愛国心醸成に熱心な中国では、小学校の教科書に「アメリカの宇宙飛行士も月から見ることの出来た、偉大な人工構造物」として紹介され、民族・国家の誇りとして長く教えられてきたのだった。教育の現場で、学会で、政治指導者たちの世界でその真否、記載内容の扱いに侃々諤々の議論が戦わされる。結果、この話は教材から消えるのだが、それでも「月からはともかく、地球周回宇宙船からは見える」「物理的条件が整えば見える可能性はある」など“見える”説はしぶとく生き残っている。何故中国・中国人はこのことにこだわるのだろう?
話は中国の歴史、特に長城を巡るそれに遡る。中国人自身のなかではどうか。ヨーロッパ人が中国と往来を始めてからはどうか。日本人は。著者の研究領域に近いところから「月から見える長城」がだんだん具体化してくる。例えば、19世紀の英国旅行家ジャーナリストが『極東の人びとと政治』の中で「・・・長城は、月から見ることのできる地球上で唯一の人間の手になる建造物であるという評判を享受している」と紹介していたり、多分これに影響されたのだろう、1904年岡倉天心が『日本の目覚め』の黄禍論反論文中で「・・・長城は月から見えるほどの長さをもつ地球上唯一の建造物といわれるが、この長さこそ、「黄禍論」」などありえないことを示す、巨大な歴史的証拠である」と書き残している。つまり、“月から見える”説は早くに西欧で生まれ、中国文明を誇大表現する言葉として流布されていたのだ。これに加えて、中国人のお国自慢好き、共産中国の国威発揚政策が重なり「“宇宙飛行士”が見た」と転じてしまったのが真相なのである。
見える・見えないを歴史的に辿ったあと、これを巡る人々の動きを追うところも面白い。巧みに自説を変説させる高名な学者の姿や現場教員の苦労話などに、現代中国社会の一面をうかがうこともできる。
“研究者”ゆえか、歴史的解説(前半)では引用が極めて多い(注・参考文献だけで40頁/270頁)。まるで引用をつないでいるような構成で読みにくいのが惜しい。

4)英国の庭園
2007年渡英する前に知人からいただいた本である。その時は写真や庭園プロット図を中心に、興味のあるところだけ拾い読みした程度で、厚く重いこともあり、英国行きには帯同せず、書架に置いたままになっていた。今回読んでみて、行く前に確り読んでおくべきだったし、持って行くべきだったと反省している。
内容は“英国庭園変遷史兼ガイドブック”である。紹介されているのは30余の名園で、いずれも王侯・貴族や郷士(ジェントリー)の邸宅の庭である。それらの歴史的変遷を17世紀以降現代まで6章に分けて構成している。チョッと救われたのは、17世紀を残す庭園として、本書の二番目に登場するレヴァンス・ホール(居住していたランカスターの直ぐ北に在るマナー;大邸宅)と最後を飾る現代(と言っても20世紀初頭)の代表庭園、ブレニム宮殿(オックスフォードの西;チャーチルの生家)を見ていたことである。
イングリッシュガーデンはわが国でも大変人気がある。昨年の道東ドライブでも何ヶ所かそれを売り物にしているところを訪れた。一言で言うと“自然風庭園”である。ただこの自然風は、庶民(英国の中産階級)のバックヤード(内庭)をそのように仕立てたものの延長線で、ここに取り上げられるものとはかなり異なる。無論優れた小庭園が全く無いわけではないが、ほとんどは何百・何千エーカーと言う大規模なものばかりである。放牧地や遥か先の森まで含めて鑑賞するような“景観庭園”が代表的な“英国庭園”なのだ。
ヨーロッパ文化の辺境であった英国が、この景観庭園を生み出すには、それなりの歴史があった。ローマ帝国の皇帝・貴族の別荘の庭、高低差をテラス・階段・カスケード(段々滝)・彫像などで飾るイタリア庭園。見事な対称幾何学模様で構成し、樹木もそのように整えるフランス庭園。平地しかなくそこを花々で飾るオランダ庭園。最初はこれらの模倣から始まるが、やがて自然環境との共棲を目指す、独自の英国庭園へと発展してきたのだ。
景観庭園のモデルはルネッサンス以降の宗教画にある。天使が舞い、女神たちが集う絵の背景に明るい野山が描かれている。それを庭園として実現するのだ。それも見方を変えると何枚もの絵が連続するようにである。景観を作るためには領地内の村まで移動し、その維持に数十人の庭師が常傭される。庭にも流行がある。一旦作り上げたものを、時間をかけて変えていく。何十年も何代も、莫大な費用と時間をかけながらそれを続けるのだから大変だ。
個人がこれを維持できる時代はとうに過ぎ去っている(一部個人所有はあるが)。ここに紹介される庭園の大部分は、現在ナショナルトラストなど支援組織の所有となり、復元・維持が行われている。
著者はドイツ文学を修めた人だがインターカルチャー(文化交流?)を専門にしている(横浜国大教授)。果たしてこの庭園研究が本業なのかどうかは分からないが、英国のみならず、フランス、イタリアなどの庭園も現地調査しており、単なるガイドブックの域を超えて“西洋庭園学入門”の趣きもある奥の深い本だった。

5)脱出空域
冷戦構造崩壊後を舞台にした軍事サスペンスには、今ひとつ、積極的に読みたい意欲がわいてこない。国家対教条集団、正規軍対ゲリラ、政治経済対宗教、ハイテック対肉弾など非対称戦争は、ゴールが見えず、陰惨さばかりがクロ-ズアップするからだろう。どちらかと言うと殺人小説に近くなってしまうのだ。米空軍とアフガンテロの対決と言う典型的な最近の軍事サスペンスながら、この本を手に取ったのは、舞台が年代物(ヴェトナム戦争で使われた)の超大型軍用輸送機、C-5ギャラクシーであったからだ。飛行機のトラブルとそれへの対応は“技術小説”として大いに楽しめる可能性がある。そして、この本はその期待に応えてくれた。
アフガン警察の訓練所が自爆テロに襲われ、多数の死者・重傷者が出る。この重傷者をドイツに在る米軍の最先端医療センターに移送する。機内には医師や看護兵が乗り込み、飛行中も最低限の治療が行える、空飛ぶ救急病棟に変じている。しかし、機内のどこかに着陸の衝撃と低高度になると起爆する爆弾が仕掛けられていることが通告される。点検するとそれが圧力隔壁の外側、垂直尾翼の取り付け部にあることが分かるが、そこには爆弾以外に得体の知れないものもある。炭疽菌か?これを報告するとドイツは着陸を許可しない。やむなくスペインへ、さらにモロッコへついには核実験で今は無人島となった太平洋のジョンストン島へ向かわされる。3回の空中給油、経験したことの無い長時間飛行で老朽機の各部で起こる故障・性能低下、落雷と雹による通信システムの破損、火山の噴煙やハリケーンの影響とその回避、次から次へと起こる災厄をかわしながら、尾翼部の爆弾除去を行うのだが、そこは圧力隔壁の外、酸素ボンベを携行しての作業は遅々としてはかどらない。隔壁内外を行き来するために機内圧力を大幅に変化させなければならない。それによる患者の異変。4基あるエンジンの内2基は停止し、その1基からは炎も上がり始める・・・・。
そんな中で、ナビゲーター(航空士)出身の機長、士官学校を出て間もない副操縦士、湾岸戦争も体験したベテラン機関士(下士官)が難関を越すごとに信頼関係を強め、それぞれの任務を果たし、チームとして機能していく。
著者も軍用輸送機の航空士出身。臨場感のあるストーリ展開はもっともである。読んでいてクタクタになったが、大いに楽しんだ。
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