2013年7月31日水曜日

今月の本棚-59(2013年7月分)


<今月読んだ本>
1)ビッグデータの覇者たち(海部美知);講談社(現代新書)
2)ChurchillPaul Johnson);Penguin Books
3)チューリングの大聖堂(ジョージ・ダイソン);早川書房
4)パーフェクト・ハンター(上、下)(トム・ウッド);早川書房(文庫)
5)中国 二つの罠(関 志雄);日本経済新聞出版社

<愚評昧説>
1)ビッグデータの覇者たち
ITに半世紀前から関わってきた者には、主に米国から同じような利用対象を新技術で化粧直ししたビジネスが10年位のサイクルでもたらされ、その都度ユーザーが振り回されてきたように感じる。MIS(経営情報システム)、CIM(統合生産情報システム)、SIS(戦略的経営情報システム)、ERP(統合経営管理システム)などなど、ユーザー企業に向けて「先進ユーザー(特に米国の)はもうお宅のような古いシステムではなく、最新の技術を駆使した新しいシステムを利用して競争優位にたっていますよ」と言う具合にである。
ユーザーとしてまたシステム・インテグレータとしての経験からこのような動向を振り返ってみると、概念・構想は魅力的だが最新技術利用の適用性(経済性や操作性、性能)がそれに付いてこられなかったところに、狼少年的な評価をしばしばくだされてきた主因があるように思う。
そして今はやりのクラウドはコンピュータ・センター同様に思えるし、ビッグデータは統合データ・ベースやデータ・センター構想、さらには、データ・マイニング(蓄積された多くのデータの中からのビジネスに関わる情報を発掘する)の延長線上にあるように見えてくる。何が違うのか?「先ず軽い本から入ってみよう」こんな思いで本書を読むことになった。“覇者たち”が技術的な詳細説明とは異なる印象を与えたからである。
全体で7章構成のうち始めの2章は“ビッグデータとは何か”の導入部。この言葉を一般に知らしめた映画「マネーボール」(大リーグ貧乏球団勝利の方程式)などを援用して統計・数値解析などの基本と効用を解説。ここまでは“何度も聞かされた話”とダブり「またか」の印象。しかし第3章で本書の“覇者”の代表、グーグルの検索エンジンや経営戦略に話しがおよぶと、単なる数値解析とはまるで異なる世界が見えてくる。
自分でグーグルの検索エンジンを使い始めて既に10年位経過している。最近は確かに“これが見たい”と言うものが最初に出てくる割合が高くなってきている。それどころか、少し集中的に何かを調べると、検索結果以外(自分や友人・知人のHPやブログ、無料ゲームソフトなど)にも関連の広告がベタベタ表われる。
検索エンジン以外にもグーグルはメールや文書作成・保存のサービスを無料で提供している。これらも総合的に活用して、特定個人向けの情報提供(広告、売込みなど)を整えてきている(Amazonも同様)。これに地図情報や画像・動画なども組み合わせればユーザーは丸裸にされる可能性もある(既にプライバシー侵害の訴えが起こっている。それだけに、もう一つの覇者、フェースブック(FB)は(膨大なデータを貯め込んでいるのは確かだが)この分野のサービスに慎重である)。
無論ビッグデータの活用は企業や個人の日常生活に関わるものだけでなく、純然たる科学技術の分野にもおよんでいる。現代の天文学は電波望遠鏡で集めた、当に星の屑ほどある、宇宙からの膨大な信号を解析することから始まるようだ。新恒星の発見などは専らこの手法に依ってもたらされるのだという。
プライバシーや使い方などまだまだ問題はあるものの、従来概念・理念先行で適用性(技術・操作性・経済性など)が後追いになりがちだったITの一利用分野がどうやら身近なものになりつつあり、目が離せないテーマであることを知らされた。
“ビッグデータ”と言う流行語?の全体概要を理解する入門書として、お薦めできる一冊である。
著者は日本の大学(社会学)を卒業後スタンフォード大MBAコースで学び日本企業にしばらく勤務した後、シリコーン・ヴァレーでITウォッチャー兼コンサルタントをしている女性(主婦でもある)。本書の中で、プライバシーに関して「知られることで効率的に情報が入手できることが少なくない。ネガティヴに捉えない」と言っている。情報過多といわれる時代、情報をビジネスにする人の一言として一考させられた。

2)Churchill
私の作業机の前の壁には、チャーチルが生れたブレナム宮殿で6年前求めた、彼を描いた絵葉書が画鋲でとめてある。眉間にしわを寄せたその表情は、第二次世界大戦の厳しい時期を指導者として生きた、心の内を象徴するようだ。
OR(オペレーションズ・リサーチ;応用数学の一分野)の普及に大きな影響を与えた人として英OR(英国では“オペレーショナル”・リサーチと言う)学会のHPにその一端が紹介されてからすっかりチャーチル・ファンになってしまった。従って本棚には“チャーチル”を冠する書籍が、洋書も含め20冊以上ある。第二次世界大戦とORに関してはほぼ出尽くしているのだが、それでも新しい本が出るとつい求めてしまう。今回も日経BP社が訳本を出したことが動機である。
訳本の広告を見たとき「オヤッ?」と思った。著者名が大きく書かれ少し小さく二人の訳者名と“解説野中郁次郎”が記されている。“有名人監修者と複数の翻訳者”これは要注意、誤訳・迷訳・欠陥翻訳のおそれがある。そこでAmazonの“中身閲覧”をチェックしてみた。書き出しと終わりの数ページ、それに訳者のあとがき、さらにそれらに倍する解説を見ることができた。翻訳者が二人になったのは最初の訳者が急逝したため途中から代わったことが分かり納得した。また翻訳そのものに不満は無かった。しかし、問題は“解説”である。解説者が軍事に詳しい経営学者(防大教授→一橋大教授)であることはよく承知している(一度座談会とその懇親会で一緒になり、以後現役時代は年賀状のやり取りをしていた)のだが、あまりにも解説が長く、自らの知識披瀝と“経営”への関連付けが濃すぎるのである。しかも解説の全体構成は別の人間(ジャーナリスト)が行っている。「この翻訳本は何かおかしい。著者の執筆意図を曲げているのではないか?」 そんな疑念が湧いてきた。そこで原書を読んでみることにした。
先ず本の厚さである。ペーパーバックで170ページ。ここに誕生から死までを書くのだから、歴史的によく知られたことは一応記述されているが、深さに限りがある。本書が他の多くのチャーチル物と異なる点は、長いジャーナリスト経験で集めた小話や秘話にある。
例えば結婚にまつわる話。彼の妻となるクレメンタインは伯爵家の令嬢だが、その母には多くの愛人が居り、誰が父親なのか定かではない。可能性のある一人はミルフォード男爵だが、この男は一時期チャーチルの母の愛人の一人でもあった。ウィンストンがランドルフ(父)の子であることは間違いないのだが、などと言う逸話が披瀝される。
確かに終章ではチャーチルのリーダーとしての資質を掘り下げ、“チャーチルなかりせば英国はどうなったか?”を論じているが、これを“経営”と結びつけることは牽強付会のそしりを免れない。野中解説は専らこの章を過度にクローズアップしているのだ。
私の読後感は、功成り名を遂げた老ジャーナリストが、幅広い読者を対象に、愛してやまない人物を、人間関係を中心にウィットで描こうとしたものとの感が強い。その雰囲気が訳本に出ているのだろうか?大いに疑問の残るところである。ここら辺りの問題は訳者や解説者にはなく、本来出版社・編集者の責務であろう。
著者は英国人ジャーナリスト・歴史家。チャーチル首相就任時13歳、父と伴にその就任演説を聞いている。オックフォード卒業後兵役服しジャーナリストに転ずる。1950年代チャーチルに取材したこともある。一時期サッチャー首相のスピーチライターでもあった。

3)チューリングの大聖堂
現代のディジタル・コンピュータは、英国の数学者、アラン・チューリングが提唱(1936年)した万能マシン(チューリング・マシン)の構想をハンガリー生れ(戦前にアメリカンに移住)の数学者、フォン・ノイマンが実現した“プログラム内蔵式”コンピュータに発する。巷間米陸軍の弾道計算機、ENIAC1943年開発開始~1946年稼動)をその起源とする説が一般的であるが、ENIACのプログラミングはスウィッチ板や配線などのハードウェアで行われ、計算方法を変えるには著しく柔軟性を欠いていた。高性能な計算機械のこの隘路解決のために、マンハッタン計画の一員であったノイマンが、水爆開発に際して考案したのが、数値データも計算処理手順もデータや命令の収納場所も二進法で表す、現代のコンピュータにつながる、プログラム内蔵と言う処理方式である。この方式のコンピュータはENIAC進化の過程でいくつか製作されるが、ハードウェアの設計を含め本格的に開発されたものは、プリンストン大学高等研究所(Institute for Advanced StudyIAS)のIASマシン(1952年;別名MANIAC)である。
表題の“大聖堂”はこの高等研究所のこと。アインシュタインも所属したこの研究所こそコンピュータ創世の地(原爆開発のオッペンハイマーが所長を務め、チューリングも滞在する)。極めて自由でユニークな研究環境だったからこそノイマンのような、既存の枠にとらわれない万能科学者が、思う存分力を発揮し、現代のディジタル世界が到来したのだ。それを仔細に辿るのが本書の要旨である。
とにかく登場人物、対象分野が無茶苦茶多く、時間は計算機械の始祖ライプニッツなどは除いても1900年代から1980年代までおよぶし、場所も米国内のみならずヨーロッパ(主に東欧)と目まぐるしく変わる。人物紹介にリストアップされた人数は80人(東欧系ユダヤ人が多い)、ノイマンやチューリングは無論他のメンバーも誕生や結婚、人間関係、業績などに触れる。対象分野は電子工学や応用数学、論理学のような基盤学問・技術だけでなく、コンピュータ利用分野;核物理、宇宙物理、気象学、生理学、遺伝学、人工知能、航空工学などにそれぞれ章が割り振られるくらい広い(計算の時間軸は10-7乗;核爆発から10+17乗;太陽の寿命)。ハードカバーで600ページ、当然私の知識では消化しきれないところも多く、読み飛ばすところもあった。
それにしてもこのようなコンピュータ開発・利用全てに関わり、見事にマネージメントしたノイマンの凄さである。構想作り、そのための資金集め、人材発掘・処遇(特に理論中心の科学者の中で技術者を処遇することの難しさ)、利用先開拓、特許問題、大学管理業務を一人でやってのけるのである。当然その反作用も大きい。MANIACの最大のユーザーは原子力関係、運営資金は著しくここに依存する。しかし、ノイマンは1954年アイゼンハワー大統領によって原子力委員に選ばれる。言わば利用発注の元締めになるわけで、受注責任者のポストを兼ねるわけにはいかない。ノイマンがIASを去ると科学者の巻き返しが始まる。技術者もコンピュータ設備も理論研究者(中核は数学者、数理物理学者)には目障りな存在。カースト制度の復活で人もカネも去っていく(IBM発展のブースターともなる)。そんな中で19572月、ノイマンは癌でその生涯を閉じ、翌年MANIACも停止する。
この本に日本が二ヶ所出てくる。一つはオッペンハイマーが国家機密漏洩で所長の地位を追われるとき、後任として角谷(かくたに)静雄を候補に推す(結局他者になるが)。終戦間も無い時期に日本人が!知らない人だったので調べてみた;ゲーム理論や経済学で今でも使われている「不動点定理」を発案した数学者で当時IASに所属していた。
もう一件はビキニの水爆実験で被爆した第5福竜丸である。計算では6メガトンと予想されたが、実際には15メガトン以上の出力があり、おそらく史上最大の人的エラーであった、としている。
著者は科学史家。父親のフリーマン・ダイソンはIASに所属した理論物理学者。それだけに思い入れは一入だったのではないか。
個人的には仕事と密接に関わるテーマだけに、知られざる苦労話満載で面白く読むことができた(例えば、真空管の選択で「高信頼度のものを特別に調達せず、最も普及しているものを使う」ことに決まる経緯など)。また、コンピュータ開発そのものではないが、IASの誕生・運営に関わるドロドロした世界を、本欄でも何冊か紹介した“工学部ヒラノ教授”シリーズと対比して、垣間見ることが出来たのも収穫であった。
しかし、先にも書いたように、あまりに対象分野が広く、時代が長く、多数の人物が登場するので話しの脈絡がしばしばつかなくなる。訳者もそう感じたのか訳者あとがきに章ごとのダイジェストを書いているほどである。

4)パーフェクト・ハンター
小説はほとんど読まないが、軍事サスペンスだけは例外である。もともとは飛行機好きから入ったから、航空小説は20代から随分読んでいる。この分野は米国物が圧倒的に多いし面白い。次いで海戦物、ここは何と言っても英国である。セシル・S・フレッチャー、ダグラス・リーマン。陸の戦いは正規軍同士が正面からぶつかり合うような小説はあまりなく、専ら特殊部隊の活躍を描いたものが多い。第二次世界大戦ではジャック・ヒギンス、ケン・フォレットなど英国の作家が面白い作品を数多く出している。ベトナム戦争になると当然米国と言うことになる。
純然たる戦闘を少し離れたところに、諜報戦(スパイ戦や暗号解読)があり、ここも伝統的に英国が優れる。古くはグレアム・グリーン、冷戦下ではジョン・ル・カレ、レン・デイトンらが数多くの秀作を出している。ベトナム戦争以降はゲリラやテロ集団相手の戦いが主流になり、ここではタフな一匹狼が活躍する狙撃物や特殊部隊出身者の犯罪解明劇などが題材になる。フレデリック・フォーサイスの一連の作品などがその代表だろう。彼も英国人だ。
早朝のパリ、仲介者を介して殺しを依頼された一匹狼の殺し屋が人気の無い街路でダーゲットを手際よく仕留める。目的は男が持っていたUSBメモリーにある。一旦宿泊先のホテルに戻り、このUSBを仲介者に渡さなければならない。しかし、予期せぬことにホテルには彼を狙う別の殺し屋グループが張り込んでいた。
主人公は知らないが、メモリーの中身は演習中に事故で沈んだロシア海軍駆逐艦の位置を正確に示す情報。その艦には極めて高性能の艦対艦ミサイルが装備されていた。CIASVRKGBの後身)がそれを求めて暗躍する。一方彼はスイス、ドイツ、ハンガリー、ロシア、キプロス、タンザニアと移動しつつ、謎の殺し屋グループの依頼元を探るが、一匹狼ゆえ頼るところも無い。カギはUSBメモリーと仲介者だ。しかし、メモリーはパスワードに守られ中身に至れない。仲介者との連絡手段はメールと携帯電話だがどうやらモニターされているらしい。その仲介者にも別の凄腕暗殺者が迫る。
拳銃・狙撃銃・自動小銃・手榴弾・高性能プラスチック爆弾・ナイフ、戦いの場で使われる武器も多様だが仕様・効用がその都度詳しく説明される。部屋の造作や建物のプロット、地形や天候も臨場感をもって伝わる。美食や美女は一切登場しない。ハードでクールな雰囲気で最後まで押し通すところが好みだ。
著者は33歳(2013年)の英国人、清掃員・工場労働者・スーパーのレジ係などさまざまな下層労働者の仕事を経験している。これが処女作。既に第2作目「ファイナル・ターゲット」が翻訳出版されたので、直ちに購入した。スパイ物は何と言っても英国だから。

5)中国 二つの罠
中国物は書店に溢れ、玉石混交、日本人が書いた脅威論と没落期待論が特に多い。こんな内容が多分よく売れるのだろう。著者を知らない人には、タイトルから、この本も関(せき)さんという人の書いた“没落論”に見えるかもしれない。
著者の関(カン)さんとは145年前仲介する人があり3人で昼食を伴にしたことがある。仲介者が遅れてきたので、知らぬ者同志で名刺を交わした。当然先方は「カンと申します」と流暢な日本語で挨拶されたが、目から入った情報は“せき何お?”と読むのだろうと一瞬自問した。その後関さんの名前は日経新聞などでもよく見かけるようになり、中国経済のアナリストとして第一人者の地位を確かなものにしていった。その関さんの最新著作が出たので読んでみることにした。
“二つの罠”とは「中所得の罠」と「体制移行の罠」である。いずれも中国に限った問題ではなく、前者は世界銀行、後者は清華大学の研究グループが提示した概念で、新興国が先進国に変じる過程に立ちはだかる障害物である。
「中所得の罠」は、安い労働力あるいは豊富な資源を基にする後発優位性、輸出主導の経済である。各種格差の解消、内外需のバランス、産業構造の改革(重化学工業一辺倒でない)が達成されて始めてこの罠をくぐり抜けることができる。中南米の国々はこの状態からの転換が上手くいかず、中進国の状態に留まっている。
「体制移行の罠」は、台湾・韓国などの経済発展期に在った“開発型独裁”政治体制と酷似する現在の共産党一党独裁による資本主義経済が、民主的市場経済体制に混乱なく移行できるかどうかの問題である。
GDPの総額やその伸び率、貿易収支などから見て中国は現在この転換領域に入りつつある。この二つの罠をかわすことが出来るだろうか?かわすためには何をしなければならないだろうか?為政者たちはそれに備える手を打っているだろうか?一般大衆がそれらの施策を受け入れる社会になっているだろうか?本書は、これらの疑問に関して、この問題を段階的に掘り下げ、各論レベルでの中国国内における議論やデータも交えながら、主に経済活動に主眼を置いて(とは言っても政治抜きで何も動けない国柄ゆえ、政策に関する解説・考察は頻繁に出てくる)調査分析した研究報告書である。
当然ではあるが、読んでみて二つの罠が並列に存するのではなく、「体制移行の罠」が上位課題であることがあらためて確認できる。そしてそれが国家存立思想(共産党独裁)論議と不可分であるため、踏み込みに限界があることを痛感させられる。つまり個々の経済問題に関しては、政府の対応策や研究機関などの見解を示し(この部分はかなり丁寧で、対立する考えなども併記され、中国指導部の実態がよく理解できる;例えば、中所得の罠に対する楽観論(国務院発展研究センター)と慎重論(人民日報))、著者も具体的な解決案を提示しているものの、いつ・誰が・どのようにやるのかは必ずしも明確に見えてこないのだ。そこはエコノミストの範疇を超えた政治学や社会学の世界と言うことなのであろう。
中国における、この体制改革の難しさについて、面白い論が紹介されている。これは著者の持論ではなく、オーストラリアの大学教授だった中国人の「後発劣位論」の中に出てくるもので「制度改革の代わりに技術ばかりを模倣することは、短期的には効果的であっても、長期的に見ると、コストがきわめて高く、最終的には失敗してしまうことになる」と述べ、清朝の「洋務運動」とわが国明治政府の施策を対比させる。「洋務運動は、政治制度は変えず国営工場で技術だけを模倣したが、これは体制側に利するところはあったものの、国民を犠牲にしてしまった。これに対して、明治政府は官営工場を創ったものの、その数は少なく、直ぐに民間に払い下げ、政策立案・施行と経営方式(制度)を洋式に変えた」 こう言って教授は制度改革の重要性を訴えるのである。これは見かけ上国営企業の経営方式(税金も配当も無い;内部留保は内々で処分される)を批判したように取れるが、現在の政治制度を変えずに経済システムだけ資本主義を採用している国家統治システムを糾弾しているようにもとれる。
著者は香港人。香港中文大学で経済を学び、東京大学に留学、経済学博士号取得。現在は野村市場経済研究所シニア・フェロー。先月の劉傑氏同様、中国側の資料を、批判も加えながら、ふんだんに活用してまとめられている点が、日本人の同種のものに比べ新鮮で説得力がある。しかし、先に述べたように“研究報告書”が基になっているため、読み物のとしては硬質感が否めない。専門家向け書物と言えるだろう。
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以上

2013年7月26日金曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-19


15.丹後半島
半島を巡るドライブはどこも楽しい。歴史的に主要な交通路から外れているので、比較的景観や生活環境が昔のままに残されているからである。一方このことがその地に住む人にとっては不自由なことではあるのだが…。私の気分転換ドライブ・ルートで最も頻繁に走るのが住まいに近い三浦半島である。都心に近い小さな半島だが、横須賀線・京浜急行から外れた、半島南西部(剣崎・城ヶ島・荒崎など)はいつ出かけても心が洗われる。また、若い頃勤務した和歌山は日本最大の紀伊半島の一角を占め、当時もその後も、内奥部・沿海部を何度も走っているが、まだまだ面白いところは多々あり、クルマ(それしか手段がない)で旅をするには最高の場所である。
丹後半島は、和歌山勤務時代の40数年前小浜に泊まり、天橋立観光後、半島の根元を横切って久美浜湾に出てそこから鳥取まで行っているのだが、海沿いの道を一周することはしていない。今回はそこがポイントである。特に日本海に突き出た経ヶ岬からの景色に期待した。
天橋立出発は1345分。予定よりは15分遅いが、17時の旅館チェックインには問題ないだろう。半島周回路である178号線に出ると前を“経ヶ岬”と行先表示したバスが走っている。しかし半島への分岐点で本来右折すべき道を直進して行ってしまった。どうやらバス路線は海岸ルートではないようだ。


やがて天橋立の北の接続点、府中を過ぎるとあとは右に若狭湾を見ながら片道1車線の道が続く。しばらくは民家や商店が散在するが、海側の展望を遮るほどではない。空は午前よりは明るくなってきているものの依然曇り、青い海と空を愛でることは出来ない。経ヶ岬までの観光スポットは海から漁船をそのまま家の中に引き込む舟屋で有名な伊根くらいだが、出発が遅かったのと経ヶ岬観光が今ひとつ先が読めていないのでパスした。伊根から道は海岸を離れやや山側に切れ込み、アップアンドダウンがきつくなる。しばらく進むとバスの終点兼方向転換場所が現れ、そこから国道を離れて岬の駐車場へ向かう道に分け入ると直ぐ目の前に小山が現れ、その下が駐車場広場になっていて、ワゴン車を含む数台の車が駐車しているが何かうらぶれた雰囲気だ。仕事の途中に立寄ったと思しきダークスーツの数人の男がシルバーのセダンの周りにいるだけ。他の人達はどこに居るのだろう?
トイレの側の案内図を見ると前の小山の頂へ登る道とその先の灯台への道が在ることが分かる。どうやら他の人達はそこへ向かったらしい。山の頂までは300m位の距離だが、急な山道で足下も悪い。しかし、ここまで来たからにはと思い樹木に押し倒された手摺を伝って何とか頂上に辿り着く。一帯は木々に覆われてすこぶる視界が悪い。“くたびれ儲けの骨折り損”とは当にこのことだ。下にある灯台へ行くと帰りの登りがきついので諦める。期待していた“日本海に突き出た半島の先端からの雄大な眺め”は一気に失望に転じた。 観光開発者のセンスの無さに(駐車場のレベルで周回歩道を造るべき)、この地が寂れているのは当たり前だと思った。
岬の駐車場をスタートしたのは15時半。半島の西側に沿う道はしばらく南西に向けて下り網野と言うわりに大きな町を経て久美浜湾に至る。ここからナビは178号線を離れ京都府と兵庫県の県境、三原峠を越える地方道を指示してくる。薄暗くなってきた山道を走るクルマは全く無い。思わぬところで山岳ドライブをすることになるが、自分の位置がまるでつかめない。二つ目の峠、飯谷峠を下ったところでやっと人里に出て“城崎”が道路標識に表われた時にはホッとした。城崎大橋を渡り駅前を通って旅館に着いたのは1715分、予定の15分遅れであった。
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(次回:城崎)

2013年7月23日火曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-18


14.天橋立(2
天橋立を特徴付ける長く延びた砂嘴を俯瞰するのは高い所からしか適わない。文殊山でそれを楽しんだ後は、その砂嘴に踏み込んでみることにした。東側に開ける宮津湾と西側の内海、阿蘇海の間を南北に横切るそれは全長3.6km、徒歩だと往復3時間かかる。40数年前来た時には貸し自転車で廻った記憶がある。南側の観光基点である文殊地区の商店街にはずらーっと自転車を並べている店もある。我が家には息子が出ていって以来自転車は無いし、乗ってもいない。しかし、水泳と自転車は一度おぼえたら出来るとよく言われてきた。就職後工場勤務時代は通勤も場内移動も自転車だった時期もあるので私には問題ない。問題は家内である。聞けば最後に乗ったのは中学生の時と言う。どうも自信がなさそうなので、徒歩で途中まで出かけてみることにする。
内海と湾をつなぐ水路は南の端にある。そこには、船を通すための廻旋橋が設けられておりそれを渡ると松林が広がり茶店などがある。有人の建物があるのはそこまでで、あとは松林の中に未舗装の道が北へ向かって見え隠れするだけ。平日の昼時、人影はまばらだ。しばらくは砂嘴の幅が広いので間近に海辺は見えず、8千本の松の中を歩くだけだから、景観を楽しむよりは森林浴に近い感覚である。
ただこれだけの松林を退屈せずに歩けるのは、ところどころに“由緒のある?”松があるからだ。大正天皇お手植えの松、岩見重太郎仇討ちの松(傍らに竹囲いされた“試し切りの石”と言われる一里塚のようなものの割れた一片が置かれている。まさか!)や万葉に由来する松などが説明板と伴に現れる。面白いのはこんな狭い砂嘴(20170m)の中に古くから真水が出る所が一ヶ所在ったことである。磯清水と名付けられたそこは日本名水百選の一つとし今でも珍重されている。
阿蘇海側の海際は石垣などを積んで砂浜はほとんど無い。一方宮津湾側は海流による浜の侵食を防ぐために低い防潮堤が短く斜めに湾に向かっていくつも張り出しているので、砂州は鋸歯状になってつながっている。海水浴などは専らこの人口砂浜で楽しまれるようだ。
砂嘴の中ほどにある橋立神社で引き返し文殊の商店街に戻る。時間は12時半、丁度お昼時、何を食べるか?事前調査では当然各種活魚料理が名物であることが分かっていたが、それほど特色のあるものは無かった。そんな中で目を惹いたものにアサリ丼、アサリうどんがあった。今夜の泊まりは城崎温泉、そこも海が近く魚料理は売り物、それに昼食は軽いものがいい。海鮮定食は避け、アサリうどんが食せる店を探すのだが木曜日は定休日の所もあり、意外と手間取る。やっと“海渓”という食堂にそれがあることが分かり早速注文する。うどんはこの地の名物ではないが関西では先ず間違いない。そこに沢山のアサリが入ったそれは極めてシンプルはものだったが、大変美味しかった。これで三日間昼食は麺類(初日;きし麺、二日目;おろしそば)でいずれも満足した。最終日の明日の昼食もその地の代表的な麺類を楽しめたらとの思いが浮かんでくる。
昼食の後土産物屋に寄る。ここを過ぎると後は城崎温泉しかあれこれ選べそうな所は無い。城崎温泉では、料理はとも角それほど特色ある土産物は期待できない。結局丹後の名物である黒豆を材料にした、煎餅状のおこしのような菓子が試食して口に合ったので、これを求めた。
ガソリンは満タン、腹も満腹。いよいよ本ツーリング最後の山場、丹後半島に向かう。
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(次回:丹後半島)

2013年7月18日木曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-17


14.天橋立
516日(木)朝天気は曇り、今日は一日曇りの予報。天橋立、丹後半島と海の景色を楽しむ行程だけに気分は今ひとつ晴れない。出発は8時半。天橋立までのルートは一般道(162号線・27号線)と高速(舞鶴若狭自動車道・京都縦貫自動車道)の二つがある。前者は小浜・舞鶴・宮津と若狭湾沿いに走る道で、これらの町々や若狭湾の景観を楽しめる。一方高速は小浜西まで27号線を行きそこから始まる舞鶴若狭道に乗ると、過疎の内陸部を南西に向かい、綾部JCTで京都縦貫道に乗り換えて北西に向かう。一般道ルートに比べるとJCTを頂点に三角形の2辺を行くので距離的には遥かに長いが、時間は1時間近く短い。今日の天気を考えると海沿いのドライブにあまり期待できない。ナビのセットを“有料道路”にし、目標を天橋立駅近くのゼネラルSSにしたところ、幸いヒットした。
虹岳島から5分も走ると27号線に達し、このまま小浜西ICまで行くものと思っていたが、ナビが途中で右折を指示してくる。最近地方でよく見かける広域農道である。交通量は少ないが田植えのシーズンでもあり農機の往来に注意が必要だ。幹線道路に比べると随分迂回しているように感じたが、ICの少し手前で27号線に戻りしばらくすると現在(完成後は敦賀か?)の高速の基点への交差点が現れる。しかし27号線からそちらへ向かう車は前にはいなかった。料金や燃費を考えれば下を行く方が経済的なのであろう。お蔭で高速はマイペースで自在に走れる。これでは道路建設の経済性は全く成り立たないのではなかろうか?山中に延びる自動車道はどこも代わり映えせず、時々現れる道路標識にのみに違いを感じる程度である。ハッとさせられたのは大飯・高浜、大震災以来あまりにも有名な地名だからだ。綾部JCTで京都縦貫道に入ると自家用車・小型商用車がちらほら見かけるようになる。もう終点の宮津天橋立ICが近い。県道9号線に下りて宮津市内に向かうが道は空いており、道案内も確りしているので、迷うことなく目的のSSに着くことができた。
SSで観光に適当な駐車場を問うと、目先のPマークを指しながら「どこでも皆同じ料金です」とのこと。砂嘴への取っ掛かりに一番近い、智恩寺と言うお寺の経営する駐車場に停めることにする(一日600円)。時刻は10時半、予定より1時間早い。
先ず出かけたのは178号線そしてKTR宮津線の線路を挟んで砂嘴とは反対側にある文殊山、天橋立が一望でき、股のぞきで有名な所である。さして高い山ではないが下からモノレール(あるいはそれと並行するリフト)で登るようになっており、上は小さな遊園地になっている。モノレールは2両編成、一両に10数人乗れるから平日の今日はガラガラの筈だが運悪く(?)近隣の小学校の遠足とかち合ってしまい、賑やかなこと夥しい。若い先生まで一緒になって生徒に戻ってしまっている。
曇ってはいるが頂上から天橋立が先まで見渡せる。股のぞきをすると、龍が天に舞い上がる姿に似ていることから“飛龍観”と名付けられている。私は和歌山時代一度ここに来ている(モノレールで登った記憶は無いが)が、その日は晴天だった。海と空が青ければ当に“日本三景(宮島・松島)”の一つであることが肯ける景観である。今回初めての家内にとってはチョッと残念な天気であった。
遊園地は子供にも狭すぎる規模である。ろくな施設も無い。それでも小学生たちは遊園列車を楽しんでいた。帰りは彼らと重ならないよう、早めに下りることにした。
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(次回:天橋立;つづく)

2013年7月15日月曜日

ブログ発足5周年


 先週末712日(金)は本ブログ発足満5周年の記念すべき日でした。2008年、その前年半年間英国に滞在し、日本の友人・知人に彼の地の事情をご報告していた「MADONOレポート」と言う週報を加筆・修正、写真なども加え「滞英記」として連載をスタートさせたのが本ブログの事始です。
 本来の目的は英国で調査研究した「ORの起源」研究を中心に、“組織(特に経営)における意思決定とITの関わり”をここで開陳することでした。そこでブログ名を“決断科学工房”と名付けた次第です。しかしながら、「手持ち材料を用いて先ず練習」と始めた「滞英記」は予想外に好評で、その後に立ち上げた「決断科学ノート」や「体験事例紹介」より閲覧者が幅広いことあり、看板と内容にずれが生じてしまいました。
特に読んだ本の読後感「今月の本棚」を加えてからは“お知らせ”連絡をしていることもあり、最も多くコメントをいただき、期待していた双方向のコミュニケーションを実現しております。
事始の旅行記の反応の強さと、自分の趣味である長距離ドライブ旅行を勘案した各地への「ドライブ記」や海外の友人を紹介する「遠い国・近い人」も加え、いまや表題とは無関係な方向へ暴走したかの感さえあり、大いに反省し、今後の扱いを模索しているところでもあります(本来の“決断科学”にフォーカスした別のブログを立ち上げるか?など)。
この5年間の投稿数は406件、アクセス件数は28千を超えました。これも皆様の暖かいご支援・ご鞭撻のお蔭です。心より感謝いたします。
滞英記を書く動機となり、このブログと同じ歳の孫(厳密には彼の方が9ヶ月早いのですが)の2008年および本年の写真(妹;1歳)で時間を実感していただくとともに、これからのご愛顧を切にお願いいたします。(写真はクリックすると拡大します)

眞殿 宏
メール:hmadono@nifty.com


2013年7月14日日曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-16


13.虹岳島(こがしま)荘
ドライブ旅行で宿泊先を決める時の標準的な手順は、都市か観光地かで若干異なる。都市の場合はホテル(主にビジネス・ホテル;食事別)が対象となり、観光地では旅館が中心、いずれも情報収集はウェブ(インターネット)に依る。手順はこの連載の-3で記したので略すが、候補を数ヶ所に絞り込んで、さらに詳細チェックして(したつもりで)決定する。今回の虹岳島荘は“日本秘湯を守る会”メンバーであることが重要な決め手だった(口コミにやや気になる記事もあったが)。松之山(新潟)、湯の峯(和歌山)、乳頭(秋田)、龍神(和歌山)、白布(山形)などでこの会の旅館に泊まったが、温泉に関する限りどこも満足したからである(湯の質・量と浴場の鄙びた雰囲気)。
虹岳島は水月湖に飛び出した丸い小さな半島で、虹岳島荘はその先端にあり、道はここで終わる。茅葺き門を入ると直ぐ先に玄関が見えてくる。門と玄関の間は未舗装不整地で、山側にやや傾斜して67台のクルマが駐車できるスペースがある。クルマ止めも無いので、バックでの駐車は要注意だ。玄関からもんぺ(死語?足首部を縛る和装ズボン)を履いたおばさんが出てきて誘導してくれる。どうも女将さんらしい。
事前情報では近隣の古民家を移築改修したとあるが、玄関側から入ると、柱・梁・壁にはその趣があるものの、ロビーから左右に長い廊下が延びているので、とても民家とは思えない。部屋も確かに造作は民家風であるものの、普通の日本旅館とたいして変わらない。もっと違和感があるのは大きさである。こんな大きな民家が在る筈は無い。しかし、あとで湖水側から写した写真を見てこの疑問が解けた。何棟もの民家が横に並んでいるのである。おそらく解体・接続し大改築したのであろう。玄関・ロビー・食堂・客室(25室)は湖側の2階部分に、浴室・宴会場・遊戯施設などは1階に配置されているのだ。この特異な外形は泊り客には全く分からない。
自室での夕食は6時半に頼んだ。部屋の前には湖面が広がり、その先にはクルマとリフトで登った梅丈岳が見えるものの、夕闇が迫ってきている。景観を楽しむ時間帯ではない。昨晩は風呂が順番制だったが、ここは大浴場があるのでいつでも入れる。晩飯前にひと風呂浴びることにした。
風呂場は広さも充分、設備も整い、しかも湖が見渡せる。問題は湯であった。予約をした後で口コミをさらに調べている時、ここが温泉ではなく鉱泉でしかも水量が少ないため循環させていることを知った。一言で言えば唯の風呂である。誰も居ない大浴場で湯船に浸かっているのは快適ではあるが、“秘湯”に惹かれてここに決めたことが詐欺に遭ったような気分とない交ぜになり、今ひとつ楽しめなかった。
食事は湖水を見渡す広縁に設えられる。敦賀や小浜など比較的大きな都市に近いこともあるのだろう、やっと生ビールにありつける。料理は予想通り魚が中心。ただ特色のあるものはオコゼの唐揚げくらいで特に印象に残るものは無い。問題は配膳のタイミングである。幸い一気に並べられるわけではなく、前菜から生もの・焼き物等々順番に出てくるのだが、人手不足(調理・配膳)なのか間隔が長い。仲居さんがしきりに「すみません」を繰り返す。中には明らかに冷めて適温でないものもある。一人ひとりは誠実にやっているのはわかるが、それだけで不満足度を補えるものではない。翌朝の朝食は洋式の広い食堂だった。客が一ヶ所に集まっているので、給仕の効率もよく不満は無かった。夕食もこの方式のほうが良いような気がした。
チェックアウト前、部屋でぼんやり外を眺めていると、小さな遊覧船がやってきて、旅館の前でUターンしていく。「何故?」と思ったが、あとでこの旅館のユニークな造りにあることを知った。
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(次回:天橋立)

2013年7月10日水曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-15


12.三方五湖
永平寺から三方五湖までは約90km。ほとんど高速利用で行けるので1時間半くらいで着ける筈だ。出発する時ナビにセットしたのは宿泊先の虹岳島(こがしま)荘だが、三方五湖を見下ろせる展望台につながる三方五湖レインボーラインを経由する心積もりだ。
北陸道の福井北ICから敦賀ICの間は、福井平野東側を通る起伏も曲がりも少ない、単調な道が続く。途中には鯖江、武生など古くから栄えた町が在るのだが、今回は全てパス。チョッと残念だ。敦賀ICで降りるとそのまま国道8号線の敦賀バイパスにつながり、さらにそれと分かれて国道27号線(金山バイパス)に出るので、敦賀を抜けるまで自動車道の感覚のまま走っていける。注意はスピードだけだ。しばらくそのまま走っていると“美浜原発”と言う標識が現れてギョッとする。いよいよ原発銀座の始まりである。
“三方五湖レインボーライン”の案内を見て27号線(丹後街道)を離れ、案内標識に従ってそちらに向かう。ナビは旅館を目指し盛んに進路を正そうとするので喧しい。有料道路(福井県公社)の日向ゲートで閉鎖時間を聞くと「展望台のケーブルカーは5時です」との答え。西日の射すワインディング・ロードを駆け上がる。数台の自家用車が停まる広い展望台駐車場に着いたのは4時半だった。直ぐにケーブル・カーの改札に行くと、ケーブル・カーとリフトが平行して設置してある。「どちらでもお好きな方に乗ってください」とのこと。涼しい方がいいのでリフトで上がることにする。山頂展望台は梅丈岳(ばいじょうがたけ)という海抜400m程度の小山だが、その付近では一番高いので、北は日本海、東には敦賀半島、西は若狭湾に張り出した小半島(内外海半島)、南直下には五湖がありその先は滋賀県との県境を成す山々があり、360度展望が開けている。頂上にはこの地の出身有名人である五木ひろしの碑があり、展望広場の外柵には夥しい数の鍵がぶら下げられている。二人で鍵を掛けると愛が一生続くと言うことらしい。
この地に寄ることにしたのは永平寺と天橋立を結ぶルート上で適当な宿泊地を探す内に決まった。小浜も有力候補だったが、和歌山時代クルマで一度来たことがあるので、こちらにしたのだ。
若狭湾国定公園に指定されているここは、名前の通り小さな湖五つから成る。海に接しているので淡水湖(三方湖)、海水湖(日向湖;ひるが;淡水湖説もある)がそれぞれ一つ、あとは淡水と海水が交じり合った汽水湖(水月湖、菅湖、久々子湖;くぐし)があり、これが多様な生物の生息を可能にしているので、ラムサール条約指定の湿地として登録されている。また水種が違うことから、湖水の色はそれぞれ異なるともいわれている。しかし、当日は気温が一気に上がったこともあり、晴天ではあったが大気はやや靄っており、色の違いは分からなかった。
駐車場に戻ったのは455分、売店も閉め始めている。来た道を料金所の先まで戻り、若狭梅街道と名付けられた地方道をしばらく走ると、ナビが水月湖の方へ右折するよう指示してくる。道はあるが家は見かけない。先の方に湖水が見えてくる。湖に沿ったカーブを曲がった所で突然野猿の群が道を塞いでいる!ユックリ前進すると道を開けてはくれるが去る気配無い。それを何とかかわして先に進むと、忽然と茅葺きの大きな門が現れた。今夜泊まる虹岳島荘の入口である。到着時刻515分、本日の走行距離は220kmであった。

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(次回:虹岳島荘)

2013年7月7日日曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-14


11.永平寺
永平寺は今回のツーリングの目玉の一つ。私は約半世紀前、和歌山工場時代に課のレクリエーションで一度来たことがあるが、家内にとっては初めての場所である。「毎年大晦日の“ゆく年くる年”で放映される有名な所だから一度見ておきたい」これが動機である。私の場合も前回は大阪から北陸本線の特急に乗り福井で京福電鉄(現えちぜん鉄道)・永平寺線に乗り換えたことくらいしか記憶に無いので、あらためて訪問し、当時を思い起こしてみたいと言う気持ちは充分あった。その点では全く宗教心を欠く参拝者である。ただ、LP(線形計画法)利用の先駆者で、エッソ石油の役員を務めた後、ここに篭もり得度されたMさんのことが思い浮かんだことは「あの怜悧な数理の使い手が何故?」との疑念があったからで、多少精神的な誘引が無かったわけではない。
中部縦貫道の上志比で降りてからの道は、IC周辺でやや注意が要るものの、SSでの助言と道路案内板に従えば、難なくその方向へ向かえた。当初の予想通り、道の両側にはポツリポツリと広い駐車場を備えた蕎麦屋が現れる。家屋の密集する所が無いのは新道なのであろう。門前に至る旧道に入ると土産物屋や飲食店が続き、駐車場への誘導員が盛んに勧誘するが、平日の午後なので思い切って参道前まで行ってみた。他より100円高かったが駐車することが出来た。到着時刻は150分、ここで1時間強使っても、三方五湖観光は日の高いうちに出来そうだ。
永平寺は道元禅師が13世紀に開いた曹洞宗の大本山であり、坐禅修行で有名な所である。元々は京都に在ったものを支援者の要請でこの地に移したと案内書にある。当時を想像すると遥か都を離れた深山幽谷の中にあり、厳しい自然環境が僧侶の育成には向いていたのであろう。現在境内には大小70余の建物がある。
鬱蒼と杉巨木が林立する参道をしばらく行くと通用門がある。ここで参観料を払い吉祥閣という、ここで一番大きな建物に向かう。寺務所と参拝者ホールが一つになったもので、1015分毎に若い僧侶による永平寺の歴史、境内全体、参拝順路、見所、注意事項の説明があり、あとはそれに従って、各人適宜見て歩く。回廊でつながる、僧堂(修行道場、食事、就寝)、大庫院(台所)、山門(最古の建物)、仏殿(ご本尊)、法堂(ほっとう;説法、法要;ここが一番奥)などを巡るのだが、傾斜地を上に向かって見ていくので、磨き込まれた階段の登りがきつい。一巡するには小一時間かかる。
チョッとユニークだったのは比較的新しい(とは言っても昭和5年建設;平成6年改築)、傘松閣(さんしょうかく)という152畳の大広間である。そこの天井には建設時の日本を代表する著名画家144人による230枚の花鳥風月の絵がある。この絵の中から、りす・唐獅子(2)・鯉(2)の5枚を見つけることが出来れば幸福になれるというのだが・・・。
昨春訪れた高野山とは異なり、寺はここ一ヶ所、他に見所は無い。門前の土産物屋を少し冷やかしてみたが、これといったものは無かった。冷たいお茶のボトルを買って駐車場に戻る。出発は3時丁度。とにかく暑い!クーラーを効かせてきた道をしばらく戻ると、断続的に開通している中部縦貫道が、永平寺口から北陸道の福井北ICにつながっている。あとはこれを一気に敦賀ICまで走るだけだ。
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(次回:三方五湖)

2013年7月3日水曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-13


10.越前大野から永平寺へ
越前大野は他にも、大野城や一乗谷の戦いで信長に敗れた朝倉義景墓所など見所はあるのだが、予想外に時間を使ってしまった。当初の予定では永平寺を見学する前にその近くで昼食を摂るつもりだったが、寺町から結いステーションに戻った時は既に12時、ここで昼食をすることに計画を変更した。ステーションの周辺は前回書いたようにこの町の観光の中心で、土産物屋や観光案内所などがある。その一角で地元のお米を売っているおじさんに適当な食事処を尋ねたところ、近くの蕎麦屋を薦めてくれた。ガイドブックなどで調べていた時も大野、永平寺とも名物は“おろし蕎麦”だったから、こちらの思惑通りだった。
蕎麦屋のある通りは七間通り。この通りは町の中心部を東西に通る道で昔からのメイン・ストリートらしい(クルマの往来は一つ南を通る六間通りだが)。寺町から武家屋敷があるここら辺まで通りの両側に商店が並ぶし、寺町に近い辺りは春分の日から大晦日まで朝市(七間朝市)が立つ。
蕎麦屋はその七間通りの西詰めにあり、「七間本陣そば」と言う店である。おじさんには「今丁度昼時だから少し待つかもしれませんよ」と言われたが、幸い奥の方に二人用のテーブルが空いたところだった。頼んだのは無論おろしそばだが、つゆがいろいろあり2種類選べるようになっているので、醤油のほかにゴマだれ入りを選んでみた。そばは確り腰があり、たっぷり削り節と大根おろしの入ったつゆで食べるそれは絶品だった。
スケジュールは少し遅れているが土産物を冷やかしてみた。ここの名物に“けんけら”と言う大豆を原料にした甘いひねり煎餅のようなものがある。300年の歴史があり、昭和天皇にも献上された福井名物と宣伝しているが、試食してみて、今ひとつ好みの味ではないので買わなかった。
商工会議所や時計櫓と城の写真を撮りクルマへ戻ったのは1245分頃。町全体が歴史を偲ばせる風情を残しながら、新しく変わっていく品の良い地方都市に別れを告げることにした(高山、角館、馬篭宿なども良い所だが、観光臭がやや強く、日常生活感が弱い。ここはそのバランスが良い)。
先ずしなければいけないのはガソリン給油だ。SSリストで一ヶ所だけ、町の中心部や主要道路沿いで無い、まだ試していない所が残っていた。ここがダメならE/M/G以外のSSで入れよう。そんな思いで電話番号をナビに入力した。ピンポーン!オートヴィオSSと言う名前が出てきた。とにかくここへ向かおう。ナビ任せで着いた所は、大きなショッピングセンターだけが目立つ、市外の田畑の中にあるEsso Express(セルフ)のSSだった。ここでも生活はクルマに合わせたライフ・スタイルに変わってきているのだ。自宅からここまでの走行距離は505km、給油量は43L12km/Lになる。昨日の高速が効いて、いい数字だ。
次の目的地は永平寺。しかし、ナビのセットが、タッチパネルが敏感で上手くいかない(何度か同じ失敗をすると案内しなくなってしまった)。仕方が無いのでSSのオフィスに行って教えてもらった。それは考えてもいない道だった。計画では今朝走ってきた158号線をさらに西に向かい越前高田で北へ向かう364号線に入るルートだった(ブルー)。しかし、中部縦貫道が部分開通しているので、それを利用する方がはるかに早いのだと言う(ピンク)。今自分がどこに居るのか分からない。ナビも機能しない。スタンドの人に極めてラフな地図を描いてもらい、それを頼りにとにかく大野ICに向かい、そこから中部縦貫道に乗って指示された上志比(かみしひ)ICで下りて、再び目印だけの地図を辿ってやっと永平寺に着くことができた。時刻は1時半。計画だと1時間弱かかる予定だったから、随分時間を稼ぐことが出来た。
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(次回:永平寺)