2013年12月31日火曜日

今月の本棚-64(2013年12月分)


<今月読んだ本>
1)第二次世界大戦影の主役(ポール・ケネディ);日本経済新聞出版社
2)鉄道と刑法のはなし(和田俊憲);NHK出版(新書)
3)EU崩壊(木村正人);新潮社(新書)
4)ヒラノ教授の論文必勝法(今野浩);中央公論新社(ラクレ新書)
5)歴史という武器(山内昌之); 文芸春秋社
6)駅名で読む江戸・東京(大石学);PHP研究所(新書)

<愚評昧説>
1)第二次世界大戦影の主役
10月初めフランス旅行から帰ると、メールに同期入社のFJMさんから「君にピッタリの本があった。既に読んだから次に会うとき持っていく」とあった。3500円もする本をいただき、書き込みと赤線だらけにしてしまった。
著者は現代を代表する世界的な歴史学者。話題作は1980年代半ばに発表された「大国の興亡」。ポイントは“大国であることを維持するため過剰軍事力強化で経済が衰退していく”ということにある。その後の米ソは当にその通りとなった。この本で扱われる時間軸は16世紀から20世紀までの500年間という長い期間だが、本書は1942年末(カサブランカ会談で連合国側の大戦略がまとまる。ただしこの段階では具体策は全くない)から1944年盛夏(ノルマンジー上陸、サイパン島陥落などに依り連合国側の勝利が見えてくる)までという2年に満たない短い期間である。軍事が中心テーマではあることは同じでも、“歴史に学ぶ”内容が全く異なってくる。前著が主に国際関係・安全保障に関する政治・経済的な課題への取り組みに資するのに対して、本書は環境変化の速い企業経営や研究・技術開発マネージメントに参考になるのではないか、これが読後感である(つまりビジネスマンにより役に立つ)。
原題は「Engineers of Victory」。訳では “影の主役”としているが、これだけだとスパイ・密使や諜報機関あるいはゲリラや特殊部隊のような印象を与える。副題の“勝利を実現した革新者たち”こそ主題に相応しい。Engineer” という言葉について著者は序において「工学の分野の理学士(この訳はおかしい;工学士とすべきだろう)や博士のみを指すわけではない」とし“技術や技能の工夫の才によって大きな物事を行う人間”と定義している。つまり狭義のエンジニアだけでなく技術を育て、それを使いこなした軍人や政治家、経営者、組織管理者にも焦点を当てることをことわっている。そしてここが本書の肝である。著者が本書で主張することは、戦いの勝利は政治指導者や将軍あるいは革新兵器によってもたらされるのではなく、組織運営の効率化、戦訓のフィードバックと絶えざる改善努力、異才の登用などに負うところが大きかったと言うことである。
取り上げられる戦場は五つ;1)U-ボートと輸送船団(大西洋の戦い;探知技術、爆雷、護衛空母)、2)航空優勢確保(バトル・オブ・ブリテン、戦略爆撃の効果と護衛戦闘機)、3)電撃戦とその阻止(北アフリカ、独ソ戦;T-34戦車、対戦車兵器)、4)大陸反攻作戦(ノルマンジー上陸作戦;水陸統合作戦組織、上陸作戦用特殊兵器)、5)“距離の暴威”(主に渡洋対日戦;海兵隊と海軍建設大隊、B29開発・生産)。登場する戦場、兵器、上級指揮官いずれもなじみのものだが、これらが脚光を浴びている舞台裏の仕組みを詳細に考察するところに今までの戦史とは異なる第2次世界大戦が見えてくるのだ。
例えば太平洋の島々を攻め上がってくる米軍の基地・橋頭堡建設を一手に引き受けた海軍建設大隊の誕生と活躍は海兵隊やB29の陰に隠れてあまり知られていないが、この部隊がなければ日本国防圏制圧の時間ははるかにかかったと著者は見ている。この部隊の創設者、ベン・モリールは大学で土木工学を専攻し第一次世界大戦時海軍に入営、太平洋戦争勃発時は海軍工兵隊司令官、建設大隊の創設をルーズヴェルトに進言し、実現させ、建設技術者・技能者を大動員する。自身最終的に大将まで昇進するが、ここまで上り詰めた非兵科将校は後にも先にも彼しかいない(旧日本軍でも技術将校の最高位は中将)。本書の面白さはこのような人物が次々と現れるところにあり、英雄譚とは異なる歴史を見つめる楽しみを味わうことが出来た。
しかし、こまでならノンフィクション作家やジャーナリストでも書ける。歴史家としてはこれらを普遍化して勝因の根源を探る必要がある。これが終章の“歴史上の問題解決”である。従来の分析では“戦域の広がりに対する資源・生産力の圧倒的な違い”に結論を持ってくるものが過半だが、著者はそれ以上に“問題解決にいそしむことを容認する余地(例えば『過ちから学ぶ姿勢(すぐに対応する)を“奨励する文化”』;独ソ戦の初期大敗したソ連がT-34を反攻主力兵器に仕上げ・運用し、盛り返すプロセスではあのスターリンでさえ柔軟な姿勢を見せている)、つまり軍や政治の文化”に因があるとしている(これ以外にも“新機軸を用いる文化”、“情報循環”など)。これは企業経営にも同様に敷衍できる考え方であろう。
訳者は小説の翻訳では一級の人だが、軍事は専門外なのか今一つぴったりこないところが気になった。

2)鉄道と刑法のはなし
買った本が書評に出るのは一寸うれしい。本の目利きになったような気分を味わえるのだ。この本を書店で目にした時鉄道ものとまるで関係のない“刑法”に惹きつけられた。法律関係の世界にはほとんど関係したことはないし(厳密には、自動車免許取得のための道路交通法と計量士資格取得のために計量法を学んだが)興味もないので、おそらく蔵書の中に一冊もないだろう(前記の法律解説書は合格とともに処分した)。しかしそれが大好きな鉄道と結びついたことで「読んでみようか」と言うことになった。その本が今月22日新聞(朝日)書評欄(とは言っても著者紹介だが)に取り上げられた。
著者は大学(慶応)の法学大学院教授である。中学・高校から鉄道同好研究会に属していた筋金入りの鉄ちゃん。小分類では“時刻表鉄(他に、乗り鉄、撮り鉄など各種あり)”で、時刻表を眺めながらあれこれ考えるのが趣味のようだ。導入の書き出しによれば、時刻表をつないである目的の旅を作り上げる行為は、事件に断を下すために法律論理を構築することと極めて近いとのこと。「そんなものかな~」と読みだした。“時刻表と判決プロセス”の類似性はややこじつけの感無きにしも非ずだったが、刑法と言う縁の薄い世界の考え方や仕組みを知るという点において、大好きな鉄道を舞台とするだけに、取っ付き易い書物であった。
無賃乗車、キセル、車内強盗・殺人、政治家暗殺、セクハラ、荷扱い車掌の窃盗、運転事故、駅内利権争い(駅弁)、路線敷設に関する贈収賄、労働争議など広範な事例を、訴える側の主張、訴えられた側の反論(弁護)、判決結果、を手短に著者の論評も加えながら(判決結果を否とするものもある)解説していく。取り上げる時代も鉄道黎明期から現代までにわたるので、法律適用が世相の変化を反映しているところも面白い(例えは、荷扱い車掌の窃盗などは、手荷物を事前に駅で預け列車に連結された荷物車に搭載し、下車駅で受け取るところから起こる事件だが、現在はこのような制度はないので、この荷扱いの方法を説明しながら事件の顛末を語る)。ただし、“鉄道もの”としての内容は薄いので、その点ではやや物足りなさが残った。
著者は当初あくまでも鉄ちゃんは趣味と割り切っていたのだが、ある時ふとこれは講義に使えるのではないかと考え教材に仕上げ、成功させている。私の好む論語の一説「之を知るものはこれを好むものに如かず。之を好むものはこれを楽しむものに如かず」を地でいった著者の生き方に大いに共感を覚えた。「こういう授業は楽しいだろうな~」

3)EU崩壊
EUの発足(199311月)少し前の雑誌TIMEの表紙は、城壁をめぐらしたEUが米国や日本の侵攻を防いでいる戯画だった。強力な地域国家連合が出来、保護貿易が始まるのではないか?これが当時の世界的なEUに対する見方であった。事実欧州人の社会学者の中にそんな主張をする人も居た(確かフランス人だったように記憶する)。幸い閉鎖的な貿易障壁は築かれなかったものの、旧東欧圏の取り込み、統一通貨ユーロの誕生、欧州中央銀行の発足、構成国の数を力に域内基準を国際基準化するなど、欧州中心の世界構築にまい進しているように見える。
しかし、通貨統合に英国が参加しなかったり、ギリシャ危機などに見るように、財政政策は各国の主権に残されるなど、政治面は各国の事情が色濃く反映され、強固な国家連合にはなっていないのが現実である。本書はこのEUの持つ脆弱性を広義の経済面(財政・金融・通貨・労働(移民)など)から考察し、“所期の理想は崩壊に向かいつつある”と断じ、その背景・要因を探り、具体的に解説したものである。
著者は元産経新聞ロンドン支局長、彼の地に6年滞在した国際ジャーナリストで、今でも活動の中心をロンドンに置いている。このことから、本書を読む上で若干の注意が必要ではないかと感じた。それは、英国が他の欧州大陸国家とはEUに対するスタンスが異なる(政治統合まで期待していない。大陸国家も違和感をもっている;欧州よりは米国の同盟国)ことである。つまり、より統合度の高いEU構築を主張する独仏に対してやや批判的な見方をしがちだという点で、これは2007年英国に滞在した私自身の体験からも感じられる。
ただ、この英国バイアスを考慮しても構成国間の政治・経済・文化の違いは大きく、二極(米ソ)対立の中で第3極確立を目指した時代とは異なる現代の世界情勢の下では、むしろこの違いが際立ってきており“崩壊”の危機が決してありえないことではないことを詳細な情報やデータで教えてくれる。
例えば“ギリシャ危機”である。ギリシャの放漫財政策があの危機をもたらしたと言うのはその通りだが、粉飾財政の歴史は長く、1990年代には英国の投資会社がこのことに気付き警鐘を鳴らしていた(「ギリシャはユーロに参加する条件を満たしていない」)にも関わらず、ギリシャ政府も他の加盟国もこれに一顧だにしなかった。これを対GDP財政赤字率、インフレ率、失業率、徴税率などを並べて、戦後のギリシャ政治・経済の変遷を辿りながら、成るべくして成った“(政治家が国民におもねる)欲望民主主義”の末路を語っていく。ドイツのような“(国民も政治家も独立不羈の精神を堅持しようとする)自由主義的民主主義”とは本質的に異なる、二つの民主主義が共存できるはずがないと。
崩壊発生因子は、ギリシャ危機に代表される南欧対北欧、移民問題が大きい西欧対東欧、域内リーダーである英・独・仏のこじれた三角関係、新左翼・新右翼の台頭(いずれも反統合)、ロシアとの関係(例えば、ロシア金融に過度に依存したキプロス)、各国独自の通商政策(中でもドイツの中国接近)などがあり、いずれも一国のリーダーでは解決できず、EU大統領や欧州議会の非力もあって、具体的な対応・改善策が図れる目途は立っていない。加えて、著者は「欧州の歴史は、戦争と通貨統合の失敗の繰り返しだった」とし、ユーロの将来に疑問を投げかけている。
この本を読んで“城壁”がいたるところでほころび始めていることは分かったが、我が国の巨額の財政赤字、高齢少子化、安全保障問題などを見るとき、欲望民主主義にどっぷり浸かっている“日本崩壊”がむしろ現実味を帯びて迫ってきた。

4)ヒラノ教授の論文必勝法
出版社から贈られてきたこの本のタイトルを見たとき先ず浮かんだのはロングベストセラー、木下是雄(元学習院大学学長)の「理科系の作文技術」である。発刊直後に購入、一時は座右の書であった。学術論文を書くことはほとんどなかったが技術レポートをまとめるときにはよく利用したものである。息子が大学に入った時彼に贈ったので今は手元にない。同じような本を“ヒラノ教授”が今頃何故?これが率直な印象であった。
しかし、書き出しでいきなり「理科系の作文技術」が取り上げられ、これがいかに名著であるかを手短に説明した後、「これに付け加えるべき作文技術のノウハウは何もない」としながら、出版社の要望に応え“他人の書かない本、書けない本を書く”と決意を表明する。「ウオッ!それでは何を?」となる。
目指すは作文ハウツーものではなく、滞米研究者時代洗礼を受けた Publish or Perish(論文を書かざる者は退出せよ)”文化に応えられる研究論文を、研究者として一定の評価を得られる出版物に掲載されことを教授する内容である。それもB級から国際A級の研究者の仲間入りを目論む、野心的な研究者が読者対象である。ちなみにA級の上には、ノーベル賞級のAAA、それに次ぐAA級があり、A級でも100以上の論文が国際的な学術ジャーナル(当然英文)に採択され、他の研究者にかなりの数が引用される、そのようなレベルである。となると一般の読者には意味のない本のように受け取られるかもしれないが、そこは“ヒラノ教授”である。
研究業績はどのように測定されるか、分野ごとに異なるカルチャーにどう対応するか、研究アイディアはどの段階でどのように公開するか(アイディア盗用を防ぐ)、どのようなジャーナルを狙うか、論文審査レフリーとの戦い方、AA級研究者の研究スタイルから如何に学ぶか、研究費や公表のための資金確保、執筆時間の捻出、共同研究者(主に大学院生)との関係などなど、論文にまつわる研究者の世界を観客席から試合を見るような楽しさで読める工夫も確りされている。
なお著者は150編の論文を退職(70歳)までに投稿・掲載されている正真正銘の国際A級学者である。
従来の“ヒラノ教授”シリーズは人を中心とした、小説調のセミフィクションであったが、今回は完全なノンフィクション・ガイドブックであるところが大きな違い。理工系の研究活動に関心のある人にお勧めしたい。

5)歴史という武器
著者は現代日本を代表する歴史学者(東大名誉教授;中東・イスラム専門)、総理(小泉、安倍一次)の私的諮問機関から政府の各種審議会(文科、外務、経産)まで幅広く活躍している人。その歴史家の視点と政治に近い活動域から書いた社会・政治時評がこの本の内容である。
かなり長いまえがき(32頁)と総括としてのあとがき(13頁)はこの単行本発刊に際して書かれたものと推察されるが、本文の大半(47話中44話)は200812月から201211月までの間新聞雑誌に掲載された時評から成る。つまり丁度民主党政権下の時期に重なるわけで、稚拙な政府運営が際立った特異な期間だけに、著者の危機感(特に安全保障と財政からくる国の将来)、主張がひしひしと伝わるものばかりである。そしてその批判はそれを誕生させた国民にも向けられる。私もそのポピュリズムに乗った一人だけに、反省させられることが多々あった。
47編の話題は、大きく第1章“競争、嫉妬、憎しみの宰相論(国内政局編)”、第2章“グローバル権謀術数の裏を読む(国際情勢編)、第3章“動乱と戦争から叡智を学ぶ(熾烈な歴史編)”の三つに括られ、それぞれの話題に、日本史、西洋史、イスラム(ペルシャ、トルコなど)史、中国史を援用しながら話題の核心を明らかにし、“今後”を示唆する。まさに歴史家の役割である。
例えば、民主党政権誕生直後に書かれた(2009914日;産経新聞)“日本の「せんたく」をする前に”では、新政権の外交・安保政策に懸念を示し、幕末の志士坂本龍馬が姉に宛てた手紙「政治懸案を解決するすべをもたない幕府の腐敗官僚を相手に戦い、彼らを一掃して日本をもう一度、汚れを洗ってきれいにしたい(著者現代訳)」を、鳩山代表や岡田幹事長は「我が意を得たり」と思うかもしれないが、党員やこれを支持した国民も、性急な変革を求めず、むしろ党内の澱やよどみを“せんたく”する勇気が先ず求められると警告している。普天間移設問題で米国にルーピーと揶揄された鳩山、尖閣や原発でバタバタした菅を見るとき、これはなかなか鋭い指摘だったと、その慧眼に感心させられた。
ただ、この種の本(以前に発表された時評を後日まとめて出版)は、対象になるテーマが過去のものだけに「今読んでどうなるのか?」というもどかしさがどうしても残る(歴史家としては意義があるし、歴史から学ぶことは確かにあるのだが・・・)。

6)駅名で読む江戸・東京
“刑法”同様“駅”に惹かれて買ってしまった。しかし内容は“刑法”以上に“鉄道”から距離があった。著者の前著に「地名で読む江戸・東京」(未読)と言うのがあるようだが、その続編として書かれたものである。現在の東京の地名がどこからきているか、どんな変遷をたどったか、そんな内容を郷土史資料に基づいて一駅数ページで解説したものである。
取り上げられた駅の数は47。これを山手線、都心部、東郊、西郊、多摩の5地区に分けて章立てしている。地名そのものの起源、名物・名所・著名人、その土地に関わる歴史や出来事、鉄道との関わりなどを取り上げているのだが、極めてローカルな郷土史が中心で、その土地に特別な縁がないとほとんど興味が持てない。
“縁がある”と言う点で一寸おもしろかったのは<池上>。ここには妹(故人)の嫁ぎ先がありしばしば本門寺を訪れる機会があった。池上線も当初は本門寺詣での人を蒲田から運ぶことが目的で敷設されたのだが、それ以前(明治末期)、日蓮の命日(忌日)1010日から13日まで“お会式”と呼ばれる中世からの儀式のための参詣行列が現在京浜急行の青物横丁辺りまで続くほどの賑わいだったと紹介されている。参詣路が限られていた時代だったのだろうか、信じられないような長蛇である(約8㎞)。しかしこの項では本門寺の話ばかりで<池上>の地名由来は一言もない。
また、江戸・東京と銘打つわりにかつてはほとんど原野だった西郊(武蔵野台地)や多摩地区の割合が多い(21)。駅の選択基準が全く分からないが、どうも著者が東京学芸大学(小金井)の教官だからではないだろうか?
2003年初版で既に5刷に達しているからそこそこ売れているのだろうが、人に勧めるような本ではない。

<今年の3点>
1229日(日)の朝刊には各紙とも書評委員による“今年の3点(冊)が恒例によって紹介されていた。<今月の本棚>では今までこのようなことを行ってきていないが、今年からそれに倣ってみたい。新聞の書評委員はある程度専門担当ジャンルがあるが<今月の本棚>は私一人で担当するため偏りがあることはお許しいただきたい。また、<今月の本棚>の場合厳密には書評とは言い難く“読後感と私との関わり”を書いているので、その点でも異なることをお断りしておく。まあお遊びとしてご覧いただければと思う。
本年は全部で59冊(64巻)の書籍を<今月の本棚>に掲載した。このうちフィクション(セミフィクションを含む)は10冊(13巻)で圧倒的にノンフィクションが多い。また英書5冊を含んでおり、これらはすべてノンフィクションである。
以下の3点の紹介は順位を表すものでは全くない。

    クリフトン3代記(第1部 時のみぞ知る、第2部 死もまた我等なり);ジェフリー・アーチャー;フィクション(本棚-58、-63
本書は英国では既に第3部まで刊行されているが、本邦ではまだ第2部までなので完結していない。しかしながら第一次世界大戦終結時から始まる英国階級社会を舞台とする一人の少年を巡る波乱万丈の物語は各部で一区切りつくのでそれで評価した。久しぶりに本格的なフィクションの面白さにとりつかれたからだ。

    世界の技術を支配するベル研究所の興亡;ジョン・ガートナー;ノンフィクション(本棚-61
ノーベル賞受賞者を多数輩出し、通信とコンピュータの世界に絶大な影響力を及ぼした研究所の歩みを有名研究者(シャノン、ショックレーなど)や優れた研究マネージャーを中心に紹介する。
プログラム内蔵型コンピュータの発明者のフォン・ノイマンを主役として描かれたプリンストン大学高等研究所(アインシュタインやオッペンハイマーも所属)を扱った“チューリングの大聖堂”とどちらを選ぶか迷ったが、読み易さの点で
こちらを採った。

    ビッグ・データの正体;ビクター・マイヤー・ショーンベルガー、ケネス・クキエ;ノンフィクション(本棚-62
グーグルを筆頭に膨大なデータを収集し、そこから知を生み出す“ビッグ・データ”の現在の利用状況から今後の社会へ与える影響までを論ずる、“ビッグ・データ”の優れた入門書。

次点 In Command of HistoryDavid Reynolds;ノンフィクション(本棚-54
あの(ノーベル文学賞受賞の)“第2次世界大戦回顧録”をチャーチルが如何に書き、如何に真実と違いがあるか(作為的か)を彼の置かれたその時々の立場や心境を、資料や聞き取りを基に調査分析した研究書。日本語訳があればトップ入選していたであろう(翻訳の質にも依るが)。
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2013年12月30日月曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(22)


18. アヴィニョンのホテルとレストラン
仕事での海外行きはともかく、個人(家族)での海外旅行はほとんど一か所で2泊(連泊)してきた。夕方チェックイン9時前にチェックアウトの1泊では休まるところがないし、町を身近に感ずることすらできない。だから今回のツアーもなるべく連泊の多いプログラムを候補に選んだ。最初に惹かれたのは近畿日本ツーリスト(KNT)のもので、プロヴァンス2ヵ所で連泊があった。しかしこれは最終宿泊地のパリで延泊が認められず、やむなくこの阪神ツアーが、ここアヴィニョンで連泊でき、かつパリ延泊が可能だったので決まった。
泊まったのはメルキュール・シティ・デ・パップ(メルキュール・ホテル・法王庁)である。メルキュールは“水星”の意味、全世界で700を超すホテル・チェーン、我が家の近く横須賀にも在る(旧横須賀プリンスのようだ)ほどいたる所で見かけるホテルだ。株主はフランス資本のアコー・グループ。前夜泊まったプルマンもこのグル-プに属し、クラスはメルキュール(midscale)より一つ上である(upscale)。
市の中心部にあり法王庁観光や買い物、飲食には便利な場所にあるが、それだけスペースには限りがあるので、ロビーも部屋も極めて狭苦しい。ロビーはたった10人の団体でも座れぬ者が出るほどだ。連泊の良さは洗濯が安心してできる(二日あれは大体何でも乾く;それだけ荷物を減らせる;悪いことに土曜から月曜いっぱいランドリーサービスも行わない)ところにもあるのだが、干すスペースが部屋にほとんどない。ただロビーが狭いだけに外部からの侵入者は確実にチェックされるから、安全性は高いことは取り柄だ。スペリア・クラスと言っても、観光客が溢れるフランス、特に人気があるプロヴァンスではこの程度で我慢しなければならないようだ。
ディナーは二つのレストランで摂るようにプログラムされている。最初の晩のディナーは歩いて5分ほどのところにある個人レストラン、La Ferigouloと言う店。2階に案内され7時半から9時まで皆で会食(鶏料理)。料理はまずまずだが、2階は最後まで我々で貸し切り、帰り際に1階に降りると客は皆無だったニューヨーク・タイムスのフランス旅行案内では安価で美味しい店と紹介されているのだが・・・。
二晩目のディナーはホテルのダイニングルームで魚料理と聞いていたが、直前にもう一軒のメルキュール・ホテル(アヴィニョン橋)に場所が変わる。どういう事情か分からないが、これも歩いて5分くらいだから特に問題はない。行ってみて驚いた!まるで工場の食堂のように広い。しかし客は皆無!給仕たちは予め聞いていたようでサービスに不足はないのだが、広いスペースに日本人だけ9人用に設えられたテーブルは、如何にも間に合わせ風で落ち着かない。しかも料理の内容は昨晩同様の鶏だった!朝からの観光が素晴らしかっただけに、一層ツアー全員の“最後の晩餐”は何とも寂しい雰囲気の下で終わることになった。この間やってきたのは南欧系(スペイン?中南米?)らしい団体が1グループだけだった。
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(次回;TGVに乗る;年越しになります。悪しからず)

2013年12月24日火曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(21)


17. アルル-2
アルルの町を出発したのは3時、まだ日は高い。バスのやや後方から相変わらず強い日差しが射していることから東へ向かっているようだ。車窓からは水田(ただの草原のように見えたがガイド氏がそう説明)が見えている。向かっているのはドーデの風車小屋とのこと。15分も走ると未舗装の駐車広場に着いた。SUVとマイクロバスが1台ずつ停まっているだけで観光地らしいものは何も無い(売店もトイレも)。ここからは風車は見えないが小径の坂を登り出すと間もなくそれがあらわれた。白人の小グループと途中で行き交ったが言葉はフランス語でも英語でもドイツ語でもなかった。何人だろうか?向こうは東洋人ばかりの10人を何国人と思っているのだろうか?
風車は小高い丘の頂上にあり、風車(プロペラ)部分は骨格しか残っておらず、これでは風が吹いてきても回ることはない。しかしこれが“ドーデの風車”なのだ。この短編集は読んでいないのだが、ガイドの話では百年以上前に書かれた「風車小屋だより」の時代、既に廃墟だったのだという。
ドーデは近隣の古代から続く都市、ニームの生まれ。兄を頼ってパリに出るが、詩集で成功し郷里に近いこの地に長期滞在するようになる(主に冬季)。そこで日常体験したプロヴァンスの美しい風物や純朴な人物像(その中に“アルルの女”もある)をパリの友人に知らせる手紙に書き綴った。これが30編の短編集「風車小屋だより」になったのである。
「フランスへ行くなら是非プロヴァンスへ」と初めに勧めてくれたのは、2007年滞在した英国ランカスター大学の教授である。彼はこの地をオープンカーでドライブしている。ガイド氏が言うには「ここが有名観光地になったのは“風車小屋だより”の英訳本が出版され、英国人がここを訪れるようになってからです(戦前)」とのこと。そう言えばイタリアから南仏の海岸沿いリゾート地(リヴィエラ、コートダジュール)の発展も英国人の保養客(上流階級の結核患者の療養などが始まり)が来るようになってから(19世紀)だと聞いたことがある。良い原石を見つけそれを磨いて価値を高めるのは英国人の特質なのだろうか?これは英国贔屓の私の偏見なのだろうか?
この風車小屋は現在ドーデ博物館となっており、1930年代に訳された岩波文庫を含め世界各国語訳の訳本が展示されている。旧制高校の初級仏語クラスではこの原書が定番の教科書だったとも聞くし、外語で仏語を専攻した父も読んだに違いない。一度訳本を読んでみたいと思った。
次に訪れたのはレ・ボー(Baux)・ド・プロヴァンス。BauxBaou(岩だらけ、断崖などの意。アルミニュウムの原料となるボーキサイトもこれと関係し、この地で初めて発見された)からきているという通り、岩山に残る廃墟の古城である。エズ村といい、ゴルドといい、彼らは岩山に城や集落を作るのを好む。無論生活の糧である食料は平地の畑で栽培・収穫するのだが、農作業以外の生活はこの岩だらけの環境の中で営まれるのだ。外敵に対する備えは、日本人の感覚では想像できぬくらい固い。それだけ殺戮の程度が違ったのだろう。民族や宗教信条の違いだけでは理解できぬ、彼の地の攻めと守り激しさをこの一帯の旅で実感させられた。
プロヴァンスの風景は心安らぐ美しさだ、しかし歴史的には厳しい生活だったのではないか?これがプロヴァンスの旅の総括である。それにしても、初夏にオープンカーで走るのは素晴らしいだろうなー。
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(次回;アヴィニョンのホテルとレストラン)

2013年12月21日土曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(20)


17. アルル
プロヴァンス地方の観光も残すは半日。ポン・デュ・ガールの水道橋を出ると道は南東にガルドン川に沿って下り、ローヌ河西岸に達する。一帯は平坦な草原と言うか畑地と言うか、明るい日差しの中にのどかな風景が広がる。あまり車の往来もない田舎道を進んでいくと、やがて見えてきたのは、運河に架かる黒い跳ね橋が在る所。ガイドのMTBさんが「これがゴッホの跳ね橋と呼ばれているところです」と説明しながら「本当に描いたのはここではないんですがね・・・」と続ける。1960年にここに復元され爾来“ヴァン・ゴッホ橋”と名付けられているのだ。
画集などに掲載されている絵では色は白いが、ここにあるのは黒っぽく、動かないように鉄棒で岸に固定されている。手前(南側)に石の橋がありここからゴッホ橋を背景に写真を撮るのが定番らしい。この地方を代表する名所なのに我々以外は誰もいない。思い思いに写真撮影できた。
次は午後のメインエヴェント、アルル訪問である。アルルと聞いて日本人が先ず思い浮かぶことはビゼーの歌劇「アルルの女」ではなかろうか?私の場合はこれしかなかった。しかし有名な第2組曲の一部“ファランドール”は知っているものの、筋は全く知らなかった。ビゼーの作品では何と言っても「カルメン」が最もポピュラーだが、「アルルの女」も男女の四角関係、その一人は闘牛士だ。これは昔仏文学を専攻したというガイドとの雑談で知らされた。きっかけはローマ遺跡の一つ円形闘技場を訪れた時で、いまでも闘牛がここで行われていることと関連付けて、「アルルの女」が闘牛に関係すること、戯曲の作者はこの後訪問する風車小屋に縁のあるドーデが書いたものであることなどを語ってくれた。
アルルの町(かなり海に近い)は紀元前にギリシャ人によって開かれ、シーザーのガリア遠征でローマ軍の拠点となった。従ってこの円形闘技場以外にも浴場、古代劇場跡、城壁や門などが残っており、歴史探訪だけでも盛り沢山。円形闘技場の最上部からローヌ河と町全体が展望でき、統治に適した地形であることを実感させられる。
早々に闘技場を引き揚げ、次に向かったのは街の中心部、カフェやお土産物屋が軒を連ね、観光客が行き交う賑やかな場所である。「ここが“夜のカフェテラス”を描いたところです」黄色く塗られたそのカフェは確かにゴッホの絵にそっくり、今でも往時の姿をとどめており、近くには絵を複写した案内板が置かれていた。
ゴッホがゴーギャンの前で耳を切り落としたことはよく知られている。明るい陽光に惹かれこの地に画家仲間たちが集まってくるが、いずれも個性の強い面々、ゴッホはそこで精神を病んでいったのだ。収容された病院は現在市のカルチャーセンター“エスパス・ヴァン・ゴッホ”として残されている。ゴッホはここに入院中も中庭を描いており(“アルルの病院の庭”)、先ほどのカフェ同様、案内板にその絵の模写がはめ込んである。とにかく2年の滞在中に描いた作品は300を超えるといわれているから、北國育ちの彼にとって光と彩に満ちたこの地は良くも悪くも精神に強烈なインパクトを与えた土地だったのであろう。この病院から修道院付属の精神病院に自ら欲して移り、それから数か月後パリで拳銃自殺をする。アルルに来てからその死までわずか25か月の短い期間であった。

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(次回;アルル;つづく)

2013年12月15日日曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(19)


16. ポン・デュ・ガール水道橋
930日(月)もうこの旅も5日目に入った。今日はこの旅行のハイライトともいえるプロヴァンスの名所旧跡巡りである。陽光輝くこの地はセザンヌやゴッホの愛した所であるとともに、ローマの遺跡が随所に散在する。5年前この地方の旅行を計画した時もポン・デュ・ガールの水道橋見学は織り込んであった。近くにあるニームと言う町(フランスのローマと呼ばれる、2000年の歴史がある。残念ながらここは訪れていない)に、水源地ユールからローヌ河の支流、ガルドン川を跨いで飲料水を供給するために作られた水道橋である。水源地とニームの距離はおよそ50㎞、その間の勾配はわずか17mである。ローマの土木技術の高さを象徴する建造物の一つである。
この日のガイドは初めて中年後期の日本人男性、MTBさん、日本の大学で仏文学を専攻しその後渡仏、爾来29年この地に居るという。今はガイド・通訳として忙しい日々を送っているらしい。住まいは南仏の美しい町として定評のあるモンペリエ(サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路の宿場町)にあり、この日は早朝に家を出て列車でアヴィニョンまでやってきたとのこと。完全にホームグランドなのだ。
9時半にローヌ河沿いの観光バス停を発ち国道A9号線を西に向かう。薄曇りの天気は晴れに変わり、平坦な道の両側にはブドウ畑が広がる。緑の中にベージュ色の壁と橙色の農家らしきものが散在し、収穫のための季節労働者用のトレーラーハウスが時々現れる。プロヴァンスの美しい田園とは当にこのような情景を言うのだろう。しばらくするとA9を下りて、今度はプラタナスの並木道を走り、やがて水道橋観光の駐車場に至る。下車して少し先の方には3層の水道橋が見えてくると、誰もその威容に少しでも近づこうと足取りが早くなる。しかし、MTBさんは「ここで一寸待ってください」と一先ずヴィジター・センターに案内する。「何故?」という我々の表情を見透かして「これからあの一番上にある水道の中を歩いて渡ります。そのためのガイドがやってくるのを待つのです」と言うのだ。予想外(実は旅程表の中に「一番上を歩きます」と書かれているのだが誰もそれが“水道の中”とは思っておらず、脇に在る観光用の橋を歩くと解釈していた)のことに驚きと感激がない交ぜになる。
やってきたのは髭もじゃの若いTシャツを着たお兄さん(公務員である)。どうやらMTBさんとは入魂のようだ。河原から観光用橋に上がり川を渡ると渡りきったところに金網フェンスが在り、一部が開閉できるようになっている。そこのカギを開けて我々を中に入れると施錠してしまう。外に残された他の観光客が恨めしそうに見ている中を、3層のトップまで山道を登っていき、そこに取っ付くと水道の中を歩き始める。導入部は上を覆っていた石のカバーが外してあるが、直ぐに天板で上が塞がれるので内部は暗い。その前に一言説明がある。壁の両側がかなりの厚さで凸凹している。何と数百年に及ぶ送水によって出来た水垢なのだ!さすがに底の部分は歩行のために削り取ってあるが、半端な厚みではない。歴史を感じながら暗い水道の内部を50メータばかり歩けたのは、望外のことだった。対岸に渡ると件の橋管理担当ガイドが“証明書”をくれた。事前登録者だけに提供されるビジネスなのだ。
昼食は水道橋が見える大きなレストラン「La Terrace」でビーフ・シチューと生ビールを摂った。
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(次回;アルル)

2013年12月11日水曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(18)



15. アヴィニョンの町
アヴィニョンの町は北から流れてくるローヌ川が南西に向きを変える湾曲部の左岸にあり、大きな中洲が北西方向ある。全周4.3㎞の城壁で囲まれた旧市街は三菱マークの左下のような菱形で上と左が川に沿っている。童謡で有名な“アヴィニョンの橋(サン・ベネゼ)”は左上の角から川に突き出すように延びていく。しかし、この橋は戦乱や洪水で何度も破壊と復旧を繰り返し、17世紀以降修復されず、現在残っているのは中洲にも届かない短い部分だけである。そこだけ見ると、とても大勢の人間が“輪になって踊る”ほどの大きさではない。
東からこの町に近づいて目につくのはいかにも堅固な造りの城壁である。ヨーロッパ大陸を旅する機会がほとんどなかった私にとって、城塞都市の評価は難しいが、英国で訪れたヨークの城壁と比べ高さも厚みもこちらの方が倍くらいある感じだ。町の歴史はローマ時代にさかのぼるというから、シーザーのガリア遠征時代に拓かれたのであろうか?もしそうなら何度も蛮族との戦いがあったはずで、町を守ることの知見は相当蓄積されているに違いない。とは言っても現在の城壁が当時からあったものでは無論ない。法王庁が置かれた14世紀以降築かれたものなのだ。「これだけの城壁があればそう簡単に落とせまい」と思うのだが、そうでもなかったようで、独立都市だったり、地方領主に所属したり(それもフランスだったり、イタリアだったり)、教皇領だったりと主を変えている。
アヴィニョンには2泊したのだが法王庁を除けば街中の観光はほとんどしていない。菱形の上から下へ走る“共和国通り(Rue de la Republique)がメインストリート、ホテルもこの道筋に在るので自由時間(ディナーまでの時間)にこの通りを歩いてみた。両側の商店街はほとんどファッション関係、市庁舎前の広場を除けばカフェやレストランなどはなかった。この通りを、城壁を抜けてさらに南へ進むと在来線の駅に出る。しかし、ここにはTGV(新幹線)は来ていないし、接続線もない。(TGVについては別途報告)
メインストリート以外にも車が通れる道はあるが、城壁内の道は碁盤の目や放射状にはできておらず、大方は一方通行。曲り分岐し行止まるので、土地の人でなければ運転するのは難しい。建物は皆石造り、34階建てで一階は商店になっているところが多い。住居はその上の部分になるが、上下水道の整備などはかなり後世のことと思われるのに、表から工事の跡のようなものは見えない。パリの下水道同様ペスト対策で徹底的に整備したのであろうか。あるいは日本の勝手流と違い“自由の本質・限界”を歴史の中で自ら作り上げてきた違いであろうか。
アヴィニョンの町を、西側の中洲、つまり外側からから見る機会があった。街中のごちゃごちゃした景観とは異なり、どっしりした重みのある眺めである。取り巻く城壁は近代兵器の小銃や機関銃ではとても壊せるとは思えない重厚なものである。一時期(13世紀)キリスト教の異端、カタリ派が支配し、それを征伐する十字軍(アルビジョア十字軍;ここに法王庁を設けたルイ8世が最高司令官)によって征服され、罰としてそれ以前の城壁が破壊されたと説明されたが、今ではその痕跡はどこにも見られない。つまり現在在る城壁や塔は法王庁とともに造られたものなのだ。
法王庁に始まり法王庁に終わる。それがアヴィニョンであった。
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(次回;ポン・デュ・ガール水道橋)

2013年12月6日金曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(17)


14. アヴィニョンの法王庁
3時半頃ゾルグを発ったバスは、好天の中を西に進む。青い空、白い雲、緑の田園、ワインディング・ロードの左右にはブドウ畑、ときどき糸杉の並木が現れる。翌日も続くプロヴァンス日和を堪能する。やがてバスはローヌ川沿いの道に入り、はるか先に高い城壁や塔が見えてくる。小型の車は城内を走れるようだが、大型バスは城門を入った駐車場でストップ。スーツケースがバンで運んでくれるが、あとは手荷物を持ってホテルまで歩きである。
土産物屋が並ぶやや上り勾配の入り組んだ石畳の道を登っていくと、法王庁西側の広場に出る。ホテルはその法王庁のすぐ南隣りと言っていい位置。メルキュール・シテ・デ・パップ(ホテル法王庁)。チェックインは4時過ぎ、すぐに荷物だけ部屋に上げてもらい、手洗いを使ってロビーに降りる。そこで中年の日本人ガイド(女性)が紹介され、今日最後の観光、法王庁案内を担当してくれる。薄暮が迫りつつあるが閉館まで2時間程度あるようだ。
世界史を学んだのは高校の2年、西洋史と東洋史は先生が別だった。中世の西洋史でよくわからなかったのが、法王と国王や皇帝との力関係である。ハインリッヒ4世の“カノッサの屈辱”事件など釈然としないまま(「たかが坊主に何故王様が?!」という感覚)、とにかく試験に出そうなこと(年号など)だけ覚えておくことで済ませてきた。それもあってアヴィニョンに法王庁が在ったなど全く記憶にない。このツアーに参加が決まり、事前ににわか勉強して凡そのことが分かった。フランス王国フリップ4世の治世(14世紀初頭)勢力伸長を目論む国王とローマ法王が激しく対立、国王はリヨン大司教(フランス人)を法王に据え、このアヴィニョンに法王庁を移させ(1309年)それが1377まで続いたのである。その後ローマに戻ったものの、再び両方に法王が並び立つ分裂時代があり、結局15世紀初めまでここにも法王庁が存在していた。つまり約1世紀にわたりキリスト教世界の中心だったわけである。
その後も建物・領地や所有物はローマ法王庁の所有になっていたが、フランスの諸王朝が権力を強化するにつれ、何度も簒奪され、フランス革命時徹底的な略奪が行われ、廃墟に近い状態に置かれたようだ(牢獄や兵営として使われる程度)。従って文化遺産のようなものは何も残っていない(法王の居室や大広間などはそれなりに整備されてはいるが)。
この法王庁は大きく分けて二つの宮殿から成る。旧宮殿は北側、新宮殿は南側にあり東西側面も部屋や回廊があるので、ヴァチカンと比べると、まるで要塞のような造りである。二つの宮殿で構成されることになったのは、法王(7代続きすべてフランス人)の中で力のあった二人の生き方・趣味の違いからきている。旧宮殿を作った法王は修道士の出身、質素を旨とし地味なものを求めた。対して新宮殿の造成者は貴族出身で派手好みの性格であったようだ。しかし、ほとんどがらんどうの部屋しか残らない内部を見てそれを見分けることは難しい。1時間少しの観光では「大きくてがっしりした建物だなー」しか印象に残らなかった。
ただアヴィニョンと言う町全体にとっては当然他のフランスの都市とは異なる生い立ちを持つわけで、今回廻った名所では、最も中世のヨーロッパを感じさせるところであった。
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(次回;アヴィニョンの街)