2013年12月24日火曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(21)


17. アルル-2
アルルの町を出発したのは3時、まだ日は高い。バスのやや後方から相変わらず強い日差しが射していることから東へ向かっているようだ。車窓からは水田(ただの草原のように見えたがガイド氏がそう説明)が見えている。向かっているのはドーデの風車小屋とのこと。15分も走ると未舗装の駐車広場に着いた。SUVとマイクロバスが1台ずつ停まっているだけで観光地らしいものは何も無い(売店もトイレも)。ここからは風車は見えないが小径の坂を登り出すと間もなくそれがあらわれた。白人の小グループと途中で行き交ったが言葉はフランス語でも英語でもドイツ語でもなかった。何人だろうか?向こうは東洋人ばかりの10人を何国人と思っているのだろうか?
風車は小高い丘の頂上にあり、風車(プロペラ)部分は骨格しか残っておらず、これでは風が吹いてきても回ることはない。しかしこれが“ドーデの風車”なのだ。この短編集は読んでいないのだが、ガイドの話では百年以上前に書かれた「風車小屋だより」の時代、既に廃墟だったのだという。
ドーデは近隣の古代から続く都市、ニームの生まれ。兄を頼ってパリに出るが、詩集で成功し郷里に近いこの地に長期滞在するようになる(主に冬季)。そこで日常体験したプロヴァンスの美しい風物や純朴な人物像(その中に“アルルの女”もある)をパリの友人に知らせる手紙に書き綴った。これが30編の短編集「風車小屋だより」になったのである。
「フランスへ行くなら是非プロヴァンスへ」と初めに勧めてくれたのは、2007年滞在した英国ランカスター大学の教授である。彼はこの地をオープンカーでドライブしている。ガイド氏が言うには「ここが有名観光地になったのは“風車小屋だより”の英訳本が出版され、英国人がここを訪れるようになってからです(戦前)」とのこと。そう言えばイタリアから南仏の海岸沿いリゾート地(リヴィエラ、コートダジュール)の発展も英国人の保養客(上流階級の結核患者の療養などが始まり)が来るようになってから(19世紀)だと聞いたことがある。良い原石を見つけそれを磨いて価値を高めるのは英国人の特質なのだろうか?これは英国贔屓の私の偏見なのだろうか?
この風車小屋は現在ドーデ博物館となっており、1930年代に訳された岩波文庫を含め世界各国語訳の訳本が展示されている。旧制高校の初級仏語クラスではこの原書が定番の教科書だったとも聞くし、外語で仏語を専攻した父も読んだに違いない。一度訳本を読んでみたいと思った。
次に訪れたのはレ・ボー(Baux)・ド・プロヴァンス。BauxBaou(岩だらけ、断崖などの意。アルミニュウムの原料となるボーキサイトもこれと関係し、この地で初めて発見された)からきているという通り、岩山に残る廃墟の古城である。エズ村といい、ゴルドといい、彼らは岩山に城や集落を作るのを好む。無論生活の糧である食料は平地の畑で栽培・収穫するのだが、農作業以外の生活はこの岩だらけの環境の中で営まれるのだ。外敵に対する備えは、日本人の感覚では想像できぬくらい固い。それだけ殺戮の程度が違ったのだろう。民族や宗教信条の違いだけでは理解できぬ、彼の地の攻めと守り激しさをこの一帯の旅で実感させられた。
プロヴァンスの風景は心安らぐ美しさだ、しかし歴史的には厳しい生活だったのではないか?これがプロヴァンスの旅の総括である。それにしても、初夏にオープンカーで走るのは素晴らしいだろうなー。
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(次回;アヴィニョンのホテルとレストラン)

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