<今月読んだ本>
1) 教養としての聖書(橋爪大三郎):光文社(新書)
2) 「裏国境」突破東南アジア一周大作戦(下川祐治):新潮社(文庫)
3) 数学記号の誕生(ジョセフ・メイザー):河出書房新社
4) 無人殺人機ドローンの誕生(リチャード・ウィッテル):文藝春秋社
5) 窓際のスパイ(ミック・ヘロン):早川書房(文庫)
<愚評昧説>
1)教養としての聖書
自慢できることではないが、私の本棚に宗教に関する本は皆無と言っていい。神道・仏教関係は絶無。キリスト教は宗教戦争や西欧文明史をテーマとするものが少々。イスラムに関しても歴史・文化に対する興味から数冊あるが、コーランに絞ったものはない。ユダヤ教関連も、ユダヤ人理解のためのものに限られる。無論聖書など持っていないし読んだこともない。ぼんやりとした理解は、旧約聖書・新約聖書・コーランが同根であるということくらいである。“教養”以前の状態にあるのだ。
好んで読む本の一分野は、小説であれノンフィクションであれ、欧米を舞台としたものが多い(歴史・戦史・外交から軍事サスペンス・紀行まで)。そこには章の扉や文中に欧米人なら常識と思える警句や格言それに聖書の一文が援用されることがしばしばあるのだが、どうもこれがピンとこない。日本人が書いたものに“盛者必衰”とあれば、それは4文字の漢字の意味に留まらず、源平盛衰の歴史に思いがおよぶのだが、こんな気分に浸れない。「もしかすると、このもどかしさを解消する一助になるかもしれない」。こう期待して本書を紐解くことになった。
著者が著名な社会(宗教)学者であることは承知していたが、今まで新聞記載の評論を除けば著作を読んだことはない。本書を読んで著者の研究活動の一部(宗教と現代社会)を垣間見ることになるのだが、宗教に関心の薄い私にとって、目は専ら内容そのものより文献学的なところにいってしまい、結論として「聖書っていい加減なものなんだな」「このいい加減さを取り繕い、もっともらしくまとめるのが修道院の修験僧、それを信徒に解釈・説教するのが司祭や牧師の役割なんだ」と言うことになってしまった。だからと言って本書を貶す気は全くない。むしろ“社会とともに進化する宗教”の視点で読めばなかなか面白い本である。
旧約聖書も新約聖書も30に近い書物から成る。それらは個々に時間をかけて完成され、更に一冊の“聖書”としてまとめられるのである。本書に取り上げられるのは、旧約聖書では;創世記、出エジプト記、申命記の3編、新約聖書では;マルコ福音書、ローマ人への手紙、ヨハネ黙示録の3編、計6編である。
創成記や出エジプト記はアダムとイヴ、ノアの箱舟や十戒など巷間知られた内容を含むので我々にも親しいものだ。これらはモーゼが書いたと伝えられるのだが、聖書学者の研究によれば実際はモーゼが生きた時代から700年後くらいに成立したらしい。本書ではこのような時代考証ばかりでなく、内容解釈の変遷も論じられる。つまり時代の社会環境を踏まえ、宗教権力者や統治者によって適当に改変が行われていたことも示されるので、現世に迎合する宗教と社会の関わりに何か不真面目なものに見えてくる。
無論これは著者(キリスト教徒)が意図するところではなく、思想や哲学は以前のものの解釈を新しくするとともに、それに更なる新理論を加えて変化発展するものと見ており、むしろ社会科学の本質を示す事例として、敢えて諸編諸説の不自然さ・不一致を開示しつつ聖書の持つ意義を訴えようとするものであろう(もし教典のオリジナルに忠実であろうとすれば“原理主義”に陥り、殺伐とした(特に異教徒排斥)世界になっていたと推察される)。
本書は6回の教養講座をまとめたものであり、著者・受講生間の講義、質問やコメントのやりとりで進んで行くので、テーマが硬いものだけに、一呼吸入れながら読んでいけることは評価できる。反面、聖書原典内容、聖書学者などの考え、著者のコメントの区別がつき難いところがあり、編集の仕方にもう一工夫欲しかった。なお、購読目的の「援用される聖書の一言の踏み込んだ理解の一助」は聖書を確り深読みしないことには実現できないことを痛感させられただけである。
蛇足;本書によれば、“多様な解釈”が行われるようになった背景の一つに、教典(旧約聖書の原典はヘブライ語)の翻訳を許したことがあるとしている。それに対してイスラム教はアラビア語からの翻訳が許されていないそうである。アラビア語圏以外の国・民族はどのように内容理解をするのだろうか?
2)「裏国境」突破東南アジア一周大作戦
訪問した外国数は約30ヶ国、渡航回数は100回に近いが、陸路で国境を超えたのは3国境9回に過ぎない。内訳は、6回が三度のナイアガラ滝観光における米国とカナダ間の往復、マレーシアからシンガポールへの移動(片道)、香港からの深圳観光で往復2回である。いずれもメジャーな観光入出国地点で何もややこしいことはなかった。
しかし、かつての冷戦時代の東西国境あるいは現代の南北朝鮮国境や中東周辺の国境のように、生死をかける場面もあるような危険極まりない国境がいたる所に在るのが世界である。そして政治や軍事対立が無くなっても、外国人には簡単に往来できない国境が東南アジアにはまだまだ多くあるのだ。本書はこの地域をホームグランドとする(タイには家族とともに数年居住し言葉も使える)著者が、それらの裏国境を突破する冒険譚である。
普通の旅行記では売れないと見たのか、出版社が持ち込んだ企画は辺境の国境ばかりである。バンコクを扇の要として、270度くらいに広げて東南アジアを反時計方向に回る。計画ルートは、バンコクを出発、カンボジャ、ヴェトナム、ラオス、タイ北部、ミャンマーを北から南へ縦断し、タイ南部を経てバンコクに戻る。移動手段は主に長距離バスだが乗合マイクロバスやフェリー、小さな川下りの船もある。泊まるのは現地人が利用する旅籠のような所。これだけでもシニアバックパッカー(この時60歳)には大変な旅だが、辺鄙な場所に在る国境通過点は様々な不確定要素がある。開いているのかどうか、ビザの必要性、外国人の扱い、通過後の行動規制や交通手段などなど、そこまで行ってみなければ分からないことだらけなのだ。
それぞれの国境通過が計画通りいかないのは、島国に育った日本人ゆえのところもある。入出国と言うのは厳密には2ヵ所(出国・入国)のチェックポイントを通過することである。ある国の出先外交機関で「あそこの国境は超えられますか?」と問うと「出国は出来るが入国はこちらでは分かりません」とか、自国であっても中央では地方のことが分からなかったりする。また現地住民だけは生活圏内の移動が相互に融通が効くようになっていたりするのだ。結局少数民族との争いが絶えないミャンマー東北部は通過することが出来ず、タイからヤンゴンへ向かうメインルートでしか超えることが出来なかった。一方で南端では船で海路を一跨ぎ、難なくタイに入国する。
乗り物(バスからバイクタクシー、メコンの川船まで)、食べ物(ヴェトナム人は早食い民族、ラオスで飲まされたなんだかわからぬ動物の血、ミャンマーでの蛾の幼虫の素揚げ;えびせん風味;ビールのつまみに合う)、国境通過や国内の持ち物検査(タイは周辺国より厳しい)、辺境への中国人や韓国人の進出(ラオスでは中国元が流通))、タイの外国人労働者(130万人の内107万人がミャンマー人)、ミャンマーにおけるバス転倒事故の顛末(バンコクに戻って肋骨3本骨折が判明)。いずれの話題もこの地に詳しく、暖かい目で観察する下川節が冴えわたる。比較的若い写真家との二人旅、文庫本の白黒写真(見開きに数葉カラーもあるが)では今一つインパクトは弱いが、それでも奇態な旅の情景をビジュアルにうかがうことが出来る効果は大きい。楽しみはゆっくり味わいたいと思いつつ、2日で読んでしまった。
3)数学記号の誕生
文字(我々の世代はカタカナを最初に習った)を使って手紙を書けるようになったのは5歳くらいだったと思う。母の手ほどきを受けながら、日本に住む祖父に「ノラクロノホンヲオクッテクダサイ」というような手紙を出した。返事は「もう戦時下の物不足で漫画の本など入手出来ない」とのことだった。この記憶はかなりはっきり残っている。しかし、数学記号(+、-)をいつ頃覚えたのかまるで記憶が無い。小学校へ入る前に簡単な加減算は出来たから、おそらく字を覚えた直後ぐらいだろう。爾来×、÷、分数の分割線、更にはπ、∞、Σ(積算)、∫(積分)、各種関数表記などを習ったが、算数・数学に使われる記号は文字同様長い歴史があるものと、本書を読むまで思っていた。実際は大違い。何と15世紀ころからポツリポツリと数式が数字と記号で表記されるようになり17世紀以降広く使われるようになってきたのである!つまりニュートンやデカルトの時代までそれらは一般的ではなかったのだ。
それではピタゴラスやユークリッドの有名な定理や一連の幾何の命題や証明をどのように記述されていたのであろうか?「点を表す文字、直線を表す2文字、角を表す3文字以外には、数学的記号は無かった」。これ以外はすべて“言葉”によって説明するのである。例えば、(a+b)2=a2+b2+2abは「直線を任意に切り分けると、全体による正方形は、線分でできる二つの正方形と、線分で囲まれる長方形の2倍に等しい」となるのだ。この程度の計算ですら文字だけと数式では直観的理解に時間差が生じる(言葉と数式では脳の働く部分が違う)。代数学が17世紀以降急速に発展したことがよく分かる。
記号導入のきっかけは同じ説明を繰り返す手間を省こうとしたことにある。「aはbに等しい」と言うような表現は数学によく現れる。長さの等しい線分を2本並べて=(当初はもっと長い)が生まれる。こんな具合におずおずと記号が文中に用いられ、時間をかけ統一・普及されていったのだ。四則演算記号、平方根・立方根、虚数表現、数々の身近な演算記号の誕生と成長(あるいは淘汰)が語られるところは、生物の進化を連想させるような興味深い世界である。
本書の内容は数学記号だけではない。数字誕生の歴史(文字で代行する数字、アラビア数字、ローマ数字、漢数字、ゼロの発見;“無”以上に重要な“位取り”など)に始まり、これらを使った多様な計算法(10進法が当たり前ではなかったことによる複雑さなど)、数学の使い手と利用分野の広がり(取引、暦、測量、税金から賭け事まで)、代数発展史におよぶ。最終章はこの代数学の爆発的発展を踏まえて、記号論・認知科学の観点から記号による新たな思考力触発の可能性を論じる。ただこの最終章は著者が最も含蓄を傾けているのだが、それまでの話(主に歴史)に比べ難解で独り善がりの感無きにしも非ず、私は読み飛ばした。
著者は米国大学(マルボロ・カレッジ)の数学科名誉教授だが数学の歴史や哲学も講じた経歴を持ち、数学読み物を他にも出しているようである。読後感は「歴史は面白いが、哲学は?」である。
4)無人暗殺機 ドローンの誕生
本書を読み終わった直後に「首相官邸屋上にドローン!」が報じられた。“ドローン”はもともと“蜂の羽音(ブンブン)”に発し、無線操縦で飛ばす標的機(射撃演習などに使う;小型エンジンの発する音が羽音に似ていた;第2次世界大戦中米陸軍1万5千機購入)の呼称になったもので、 “無線操縦機”と言う意味では同じだが、本書で取り上げられるものとは、歴史(半世紀以上)、飛行技術や武器としての完成度から見て、とても同じものとは言えない。大騒ぎする一方で「デパートのおもちゃ売り場にも同種のものが置いてある」と揶揄されるのも、むべなるかなの感がある。だからと言って、あの事件を軽視していいと言うわけではない。現代の最先端ドローンも黎明期には「おもちゃ」と蔑まれていたのだから。
原題は“PREDATOR The
Secret Origins of The Drone Revolution(プレディター;画期的ドローン誕生の秘話)”である。Predatorとは捕食動物の意だが、シュワルツェネッガー主演の同名の映画に登場する、人間狩りをする昆虫に似た宇宙人から来ている。つまりそのような渾名を持つ“特定(実戦投入された世界初武装無人)”ドローンの誕生から今日までを辿るノンフィクションである。
1937年バクダットに生を受けた模型好きのユダヤ少年カレムは、長じてイスラエル軍の優れた航空技術者になるが、自らの夢(無人偵察機)を実現するため、1970年代初めに米国に移住、ガレージ企業を起す。ポイントは、従来の無人機(戦後も標的機やその延長線にある戦場攪乱機が開発・生産されヴェトナム戦争にも投入されている)の欠陥である滞空時間の短さ(2~3時間)と信頼性欠如(特に墜落事故の多さ)克服である。長躯敵地に潜入長時間(24時間以上)そこを監視・撮影し無事基地に戻れる、本格的な無人偵察機こそ彼の理想とするものなのだ。当時のコンピュータ・通信技術、材料を考慮すれば、これが如何に難しいものであるか、想像に難くない。
原題の“Revolution”の第一はこの技術革新にある。同時多発テロ9.11前後、アルカイダの最高幹部(オサマ・ビン・ラディンを含む)殺戮を目論むドローンは40時間以上飛行可能で、作戦行動域(アフガニスタン)の飛行を地球の裏側(ワシントン郊外のCIA本部)から操縦・監視し精密攻撃できるほどになるのだ(プレディターの離着陸地点は隣国のウズベキスタン)。技術開発が進み作戦実施が近づくと純技術的課題に外交や国際法の問題が絡んでくる。例えば遠隔操縦装置をどこに置くかによって設置国が参戦国になる可能性が出てくる。問題の無い遠隔地に置けば通信遅れが操縦性に著しく影響する。衛星利用では限界があるところを光ケーブルが解決する。攻撃も一気に無人機からとはいかない。最初はレーザー照準まで無人機が行い、爆弾は有人攻撃機に搭載・発射する。無人機、操縦装置、有人機の連携が必要になる。最終的に無人機にすべてを行わせるためにはさらなる困難な技術開発が求められる。
第二のRevolutionはこれを利用する人間や組織面からの変革である。始めは「あんなオモチャみたいなもの」と見ていたのが、やがて実用性が高まってくると、主導権争いを演じるようになるのだ。最初に関心を示したのは航空兵力の弱い陸軍と隠密作戦が必要なCIA、だがやがて空軍が全権掌握に乗り出してくる。海軍は独自のものにこだわる。個人のレベルの変革もある。始めは軽視・敵視していた有人機パイロットやその志願者が無人機操縦に関心を寄せるようになってくる。本書ではその過程が個人ベースの経歴や考え方を交えて披瀝される。
第三のRevolutionは使い方の変化である。隠密偵察、精密攻撃支援、戦術対象の直接攻撃など前線の戦闘・戦術レベルの利用から、大統領や国務・国防長官、統合参謀本部議長などがリアルタイムで関わる、高度な政略的・戦略的利用法への変化まで、戦いのやり方が無人機の高度化に従い変わってきている実例、将来の可能性が示される。
いずれのRevolutionも戦略兵器(飛行機、戦車、潜水艦など)発展の歴史と酷似しているのが個人的に最も興味を惹かれた点である。
カレルの企業は早すぎたこと、彼の独善的な性格が因で倒産するが、その価値を評価され、人(彼自身が残ることが条件)も機材も設備もゼネラルアトミック社(兵器会社ゼネラルダイナミック社の原子力部門だったが投資家に売却)に引き継がれる。その会社経営の側面や政治絡みの産軍複合体の権限・利権を巡る動きも面白い。
あの首相官邸ドローン事件が騒がしかった時、確か日経の外報記事に「米軍、無人機への空中給油に成功」とあった。またこの記事に合わせて「海軍は空母からの運用も実証済み」とコメントが加えられていた。世界の軍事ドローンはそこまで到達しているのである。これは本書の続編領域であろう。一方で市販の玩具もどきに大騒ぎする我が国ドローン開発の実態は如何様なものなのであろうか?今度の事件では防衛省や国土交通省の専門家の言動が目立ない。能ある鷹は爪を隠すであれば良いのだが。
著者は長くペンタゴン記者を務めた軍事ジャーナリスト。この経験が生かされた正統的なドローン史として評価できる一冊だ。ただし佐藤優の解説は完全な蛇足。彼の知名度で売上を伸ばそうと言う魂胆が見え見え。文春の様な一流出版社にこんな卑しい商売はしてもらいたくないものである。
5)窓際のスパイ
フィクション、ノンフィクションいろいろなスパイ物を読んできたし本欄でも紹介してきた。基本的に“スパイ”とは、競合あるいは競争する相手組織を内偵し、こちらが勝者になるよう工作する者であった。第2次世界大戦では英・独、独・ソ、日・米、日・ソに著名な組織やそれに属するスパイが暗躍し、冷戦下ではCIA(米)、KGB(ソ)、MI-6(英)などが丁々発止の戦いを繰り広げてきた。そして最近は専ら国や国際治安組織とテロ集団との関わりが主題となっている。「今度英国の保安組織とテロ集団らしい」と読んで本書を手にした。
冒頭のシーンはロンドンのキングス・クロス駅におけるテロ容疑者の捕縛作戦、実はこれは部内(英国保安部;MI-5を想定)の昇級試験である。与えられた情報は“白いTシャツの上に青いシャツ”を着た中東人風の男。それと思しき男を見つけ取り押さえるが、ターミナル駅を大混乱に陥れた末の結果は人違いであった。これで、伝説的なスパイを祖父に持つ主人公は<泥沼の家>送りとなる。そこは彼のような落ちこぼれが勤務する、将来の希望を絶たれた島流し組織である。
話しは、この組織勤務そのものが如何に本部と異なり惨めなものか、またそれを預かるリーダーと同僚が如何に胡散臭い連中であるかにかなり長く費やされ、なかなか“事件”は起こらないし対抗組織や怪しい人物が現れない。やっとそれらしき動きが出てくるのは三分の一くらい読み進んでからである。インターネット動画に若いパキスタン系英国人の誘拐が流され、国粋団体による反イスラム活動(イスラム圏に拘束されている英人解放を引き換えに求める)が背景にあることが分かってくる。本部も泥沼の家もそれを追って動き出す。しかし何か事件そのものには緊迫感を欠いた描写が続き、むしろ部内トップや落ちこぼれ組織内の人物表現に多くが割かれ、そこに面白味が出てくる。この段階で彼が犯したドジの原因が本来“青いTシャツの上に白いシャツ”と与えられるべき情報が反転していたことが疑われてくる。その課題情報を彼に伝えたのは同期の男、何故こんなことが?この辺りから事件は保安部内組織闘争主題に転じいく。つまり、本書は純然たるスパイ小説ではなく、むしろ人に力点を置いた組織社会小説範疇のものであった。
組織対抗でないスパイ物には今一つ興味が持てない。しかし、落ちこぼれたちの本性が露わになった今、本編(本邦初訳)の続編(Dead Lions)が、冒険小説・推理小説の世界で最も権威のある英国推理小説家協会ゴールド・ダガー賞受賞していることを知って、次が読んでみたくなっている。
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