2024年3月31日日曜日

今月の本棚-188(2024年3月分)

 

<今月読んだ本>

1)諜報国家ロシア(保坂三四郎);中央公論新社(新書)

2)フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書(シャルル・ぺパン)草思社

3)自動車の世界史(鈴木均);中央公論新社(新書)

4)第二次世界大戦の発火点(山崎雅弘);朝日新聞出版(文庫)

5)オッペンハイマー(上・中・下);(カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン);早川書房(文庫)

 

<愚評昧説>

1)諜報国家ロシア

-ツァーもスターリンもプーチンも猜疑心で凝り固まった統治しかできない。これがロシアのDNAだ-

 


20038月、始めてロシアの土を踏んだ。既にソ連崩壊から10年以上経ていたが、先ず驚かされたのは、ホテルにチェックインしても2~3時間パスポートが返却されず、その間は外出できないことであった。これはロシア人も同じで、何処へ出かけても身分証明証(国内パスポート)をしばらくホテルに預けることになる。聴けばその地区のKGB事務所に持ち込んで一種の滞在ビザ(用件・期間・宿泊先)を添付してもらうとのこと。この申告ミスで、同行したロシア担当日本人社員が警察官に拘束される場面まで体験した。ここから導かれるロシア像は、いかなる時代も変わらぬ、猜疑心が強く、陰気な“監視社会”である。当時見聞した2006年の元KGB亡命工作員リトヴィネンコ暗殺事件から直近の反プーチン活動家ナワリヌイ氏の不可解な死まで、この国の謀略体質は何ら変わっていない。その系譜を最新情報で考察した本書を知り、読んでみることにした。

ソ連・ロシア諜報機関(政治警察を含む)でよく知られたものにはKGB(ソ連国家保安委員会)、GRU(ソ連邦軍参謀本部情報総局)、NKVD(ソ連内務人民委員部)などがあるが、これらの起源はすべて191712月に設立されたボルシェヴィキ反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会、チェーカー(Cheka)に収斂する。発足当時のチェーカーは超法規的な権限を与えられ反革命分子摘発・処刑に中心的な役割を果たす。初代長官はポーランド出自のフェリックス・ジェルジンスキー。レーニンは非情な性格を持つ彼を「断固たるプロレタリア的ジャコバン」として登用、KGB本部前広場にその名を残す伝説的人物である。彼の影響力は大きく、192030年代吹き荒れたスターリン大粛清も後継者たちが実行部隊として行動している。チェーカーそのものは早くに改組されているが、1世紀を経た今でも保安・諜報関係者は“チェキスト”と呼ばれるように、それはこの国にとり特別な存在なのである。そしてプーチンは典型的なチェキストなのだ。

KGB設立は1954年だが、その前身(NKVDGRU)の国家統治機構内位置付けが、これを特徴づける。形式的には内務委員会(内務省)の下部組織のように見えるが、実質は政治局(中央委員会特定幹部十数名)の直轄、政府の上に在って省庁幹部の監視まで行う。政治警察・海外諜報の他、国境警備・消防・刑務所・強制労働収容所管理など多様な業務を行う巨大組織が、極秘内規以外規制する法律も無く70年以上権力を保持し、いくつか分割されたとはいえ、現存のSVR(対外諜報庁)がそれを引き継いでいるのが実状なのだ。

本書の読みどころの一つは、ソ連崩壊後エリツィン大統領下の混乱を経ながらKGBが生き残り、プーチン政権下で着々とその権力を回復・強化して、多様な謀略で旧ソ連邦復活(ウクライナ侵攻もその一つ)を目論む姿を露わにして見せるところにある。そのカギは人材にある。KGBの将校は“現役予備”制度の下、省庁(外務省を含む)・通信社/新聞社・大学・企業・国営航空会社(アエロフロート)・国営旅行社(インツーリスト)などに送り込まれ、枢要なポストに就き、派遣先職員と同等の力を発揮できるほど優秀なのだ。例えばプーチン、東独勤務のあとはレニングラード大学で国際交流担当職員となり外国人留学生管理に当たりながら、レニングラード大学のみならず市政府の監視などにも行い、にらみを利かせてきたことが、のちのチャンスにつながっている。

このような歴史や組織解説に留まらず、対外諜報(特にアクティヴメジャーズと言われる敵対国家・組織・人物を貶める活動)、偽情報操作、影響力のあるエージェント確保(ソ連通、ロシア通を自認する人々が、人脈・情報を餌に知らぬ間に隠れエージェントにされている可能性がある;古いところでは自民党幹部石田博英、近くでは佐藤優)、姿を秘したフロント組織、政治技術とメディアの関係、サイバー戦最前線、ロシア正教と政治など、多様な戦術・手法を解説する。そして終章近く「果たして諜報国家ロシアは変わるだろうか?」と踏み込み、スターリンの死やソ連崩壊のあと、いっとき雪解けムードが漂うこともあったが、いずれも西側のはかない夢に終わっている事実をあげ、プーチンが不死身でないのは確かだが「期待は禁物」と結ぶ。なにしろチェーカー組織は100年変わっていないのだからと。

ウクライナ侵攻はプーチン、そしてロシアの下心を明らかにした。その根幹を支えているのはチェキスト思想、その由来と現状を学ぶに適した一冊。ロシア語を含めた参考文献多数、2023年度山本七平賞(人文科学・社会科学学術書・論文対象)受賞もうなずける。

著者は1979年生れ。大学でロシア語を学んでいる間ロシアに1年留学、その後もロシア、タジキスタン、ウクライナなどの大使館勤務(研究員・専門官)。現在は複数の海外大学・研究機関研究員とある。専門はソ連・ロシアのインテリジェンス。

 

2)フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書

-多岐多様な専門分野を学ぶ前に、考え方の基本を学ぶ。これが哲学教育の目的と思っていたが暗記物が実態らしい-

 


♪デカンショ、デカンショで半年暮らす、アヨイヨイ、あとの半年寝て暮らす。ヨーオイ、ヨーオイ、デッカンショ♪で始まるデカンショ節、本来は丹波篠山地方の盆踊り歌だったが、旧制高校生の学生歌として愛唱されるようになる。篠山節ではデカンショの部分はデコンショだが、これを第一高等学校生が哲学の授業でしばしば登場するカルト・カント・ショウペンハウエルにちなんで“デカンショ”と改変したとの説が一般的になっている。旧制高等学校の学制はドイツのギムナジウムとフランスのリセに倣って制定され、そこでは哲学が必須科目だったことから、文・理・医いずれの課程でも哲学修得が必須となったのだ。

新制になり我が国では教養課程の一選択科目にすぎなくなったが、フランスでは高校修了兼大学入学資格(バカロレア)として哲学は依然必須科目となっている(現ドイツの同資格HZBでは不要)。大学入学当時デカルトやカントの名前くらいは知ってはいたものの、哲学など何を学ぶのかさえ理解できず選択しなかったが、後年数学者の伝記を読むうちに、研究対象とする数学世界を想定していくのに哲学が重要であることを教えられた。この際フランスの高校生になって哲学に触れてみよう。そんな動機で本書を求めた。

この手の、内容が予想できない本を紐解くときは、あとがきや解説から読むことにしている。そこでびっくり。訳者あとがきに依れば、2010年に刊行された本書の原題は「これは哲学の教科書ではない」というもので、その一部を再編集して「バカロレア哲学試験合格術」と銘打った受験参考書に編み直したものだとある。ギリシャ来の哲人たちの考えを要約したものと思ったが、見当違いだった。しかし、それはそれで面白く、フランス高校生の哲学学習要領や受験問題の一端に触れ、予想もしない世界を垣間見ることが出来た。

高校における哲学学習の目的は「現実の複雑さを熟知し、現代社会に対する批判意識を働かせることのできる自律精神を育てること」とのある(指導要領)。従って、学習内容は哲学史や哲学者たちの主張を網羅的に学ぶのではなく、批判的に思考し、明晰に表現する方法を習得することに力点が置かれる。

試験は二つの形式で問われる。①ディセルタシオン(小論文)、②テクスト説明(15~20行の著作からの抜粋問題文に対して、著者がどのような哲学的問題を扱い、どのような答えを提示しているかを“自分の意見を交えず”論述する)。因みに、2023年の試験問題は、1)幸福は理性の問題か?2)平和を望むことは正義を望むことか?3)レヴィ・ストロース(フランスの人類学者・民族学者)「野生の思考」(1962年)の一節を説明せよ。1)、2)は①、3)は②の形式の問題。受験生はこの内一問を選択して回答する。試験時間は4時間。

本書は、①主体(認識や行為を行う存在)、②文化、③理性と現実、④政治、⑤道徳、の5章立て、それぞれに思考対象となる観念がいくつか取り上げられる。①では;意識、知覚、無意識、他者、欲望など、②では;言語、芸術、労働と技術、宗教、歴史、③では;理論と経験、証明、解釈、物質と精神、真理など、④では;社会、正義と法、国家、⑤では;自由、義務、幸福、がそれらだ。そして、この個別観念毎に哲学者たちの考え方を解説していく。例えば、①における主体認識では、「私」は「自己規定」であり、「他者」の存在は無関係と見えるが、一方で「他者」が在ってこそ「私」が意識できることもある。前者の代表例はデカルトの「われ思う。ゆえにわれあり」、後者はヘーゲルの「相互主観性」、ここから「知覚」「無意識」「欲望」「時間」などとの関わりを、哲人たちの諸説を援用しながら展開していく。観念の解説が終わると、複数の分かり易い質問(演習問題)と回答例で学んだことを応用する。例えば、「本当になりたいものは何か、どうすればわかるのか」に対して、「内省や論理的な考察にとらわれ過ぎず、先ず行動を起こすこと」とデカルト、サルトル、ヘーゲル、アランなどの言説を援用しながら回答を示す。この観念各論と問答の部分が本書の核となるわけだが、これに続く50ページにわたる“キーワード解説”が何気なく使っている言葉に対して、認識を新たにしてくれた。一部例示すると;絶対と相対、抽象と具象、分析と総括、説明と理解、同一・平等・差異、理想と現実、など。普段深く考えず使っているが、これらを(教えたれた通り)正確に使いこなせないと良い点は取れないのだ。

全体として受験対策書ではあるが、哲学に無知な人間には体系だった硬い入門書より読みやすく、手元に置いておこうという気になっている。しかし、解説などを読むと論文形式にも拘らず、回答に私見は禁物、定型的な考え方・書き方を求められ、“暗記物”との批判が強く、必須科目であることの是非が問われているらしい。

著者は1973年生れ、パリ政治学院卒、哲学の教授資格を持ち一般市民向けの哲学講座や執筆活動を行っている。既刊邦訳に「フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者」がある。

 

3)自動車の世界史

-自動車産業を階層でとらえ、そこから国力を推し量る、ユニークな「自動車は国家なり」論-

 


コロナ禍で中断していたクラス会が久々に今秋開催される。1962年(昭和37年)の卒業だから今年は62年目、歳は84~6歳といったところ、おそらく今回が最後となるだろう。我々が就職活動をした時期は岩戸景気(この後オリンピック景気がつづく)の真っただ中、つぶしが効くといわれた機械科出身者は引く手あまた、鉄鋼/非鉄金属・重工(ボイラー/タービン、プラント機器など)・造船・総合電機・精密機械・工作機械・建設機械・鉄道車両・電力/ガス・化学/石油・総合商社と多様な企業でスタートを切った。中でも多かったのが部品(ベアリング、タイヤなど)を含む自動車関連、十数名がこの業界に就職している。当時の自動車工業はトラックを主力製品とする内需専業に近かったが、今やトヨタをはじめ、世界で戦う巨大企業に変貌し昔日の感、これは自らの体験でもある。

私がゼミ・卒論で専攻したのは制御工学。卒論のテーマは“ガソリンエンジンの回転数制御”である。この時使用したエンジンは、助教授が日産からもらい請けてきた、英国オースチン社製A201500ccエンジン、10年前A20国産化のために導入し、さんざんテストした上で廃棄処分となったものである。メートル法(量産用日産製)とヤードポンド法(英国製)の違いもあり、この動かぬエンジンを生き返らせるのに往生した。既に日産はダットサン用1000ccエンジン、トヨタはクラウン用1500ccエンジンを自社開発していたが、他社も含め乗用車用小型ガソリンエンジンは欧米に大きく後れを取っていたのが実状だった。

第二の“昔日の感”は自動車制御システムの驚異的な発展である。卒論研究はエンジンのトルクと回転数を計測し使用状況(負荷変動)に応じたエンジン最適制御を行うことを最終目的(数年にわたる)としたが、初年度の測定装置と負荷変動装置だけでも床面設置で小型車並みの大きさ、車載などまったく出来るようなものではなかった。しかし、今ではエンジンを含むパワートレイン系制御のみならず車両制御系(緩衝装置・制動装置)、車体制御系(エアバッグ、前方・後方監視、防眩)、情報通信系(GPS、カーナビ、エンタテイメント)の電子制御システムが車載となり、さらに自動運転領域まで踏み込んでいる。一方で、62年遡った1900年はと歴史を振り返ると、ダイムラーとベンツに依る自動車量産が始まり、ロールスロイス創立は1906年、T型フォードの発売は1908年、当に自動車黎明期である。“62”をキーワードに最後のクラス会を少しでも盛り上げる材料になればと本書を手にした。

何とも月並みな題名である。自動車の歴史を著した本は汗牛充棟、今さらの感があり昨秋出版されたことは知っていたが、購入しようとの気は起こらなかった。たまたま、文庫・新書の手持ちが少なくなったとき、立ち寄った書店でパラパラっと目を通して「これは!」と思った。モータージャーナリストや産業史の学者の書いたものは、自動車そのものかせいぜい自動車会社の歴史を辿るものが多いのだが、これは自動車を通じて国の盛衰を語るものだったからである。書き出しこそ、自動車の発明者ゴッドフリー・ダイムラーとカール・ベンツ(いずれも独)から始まるものの、仏、英、米と進みその間、伊、スウェーデン、チェコ、ソ連(ロシア)などにも触れ、戦後のハイライトは日本とドイツ。東独や韓国を一瞥した後、今や世界一の自動車大国中国に至る120年余である。

著者の独創は35層構造の国別自動車産業序列、1945年以降これを10年単位で表現するところにある。第1層(T1国);独自の自動車ブランドが複数あり、その開発と生産・輸出、進出先で現地生産を行っている国。第2層(準T1);T1国にない部品を開発・供給出来、あるいは少数ながら先駆的な自動車を開発・生産・輸出している国。第3層(T2国);自動車生産国であり、自国ブランドもあり、先進国メーカーのノックダウンやOEMも引き受けるが、T1および準T1のような先端技術開発には弱い国、ここは先進国向けの輸出も少ない。第4層(T3国);自国で自動車を生産していない国々。その中で産油国のように自動車と関わりが深く、高級車のお得意様である国。第5層(T4国);富の蓄積が少なく、専ら中古車輸入に頼る国。1945年のT1は米・英・仏のみ、T2は伊・ソ・チェコ、T3は日独(生産停止)、中東産油国、T4が途上国となる。これが1973年になると、T1は米・日・西独・英・仏・伊・スウェーデンと変わり、2000年では、これに韓国が加わる。最終評価の2022年は前記以外に中国を加えているが?マーク付き。この?マークは2009年中国の生産台数が米国を抜いたとはいえその原動力は海外メーカーにあり、直近に至るもエンジンや部品の基本技術はT1依存が続いているためである(EVは別だが)。違和感を覚えたのは、今や自国資本のメーカーが存在しない英国が依然T1の座にあることだが、これはロールスロイス(BMW)、ベントレー(フォルクスワーゲン)、ジャガー(印度タタ)などは依然として英国内で生産されており、英国製ゆえにブランド力が落ちていないこと、F1を始めレーシングカーの拠点がほとんどここに在ること、を評価しているからだ。

本書に底通するのは「自動車は国家なり」、日本車世界市場展開をこの観点から見つめ、欧米の狡猾な日本車排除の動きを詳らかにする。口火を切るのはサッチャー政権の英国(市場の11%)、これに米(168万台/年)・独(10%)・仏(3%)・伊(1千台/年!)がつづく。GATT(現WTO)違反にもかかわらず、これを飲まされてきたのだ(現在は現地生産もあり一応撤廃されているがEV化の流れの中で、別の形で制約が出てきている)。

登場するメーカーは、消滅したものも含めほとんど網羅、約180の車名・車種と併せてその消長を手短に語る、確かに正真正銘の“自動車の世界史”と呼べる内容であった。

著者は1974年生れ、政治学専攻で新潟県立大学国際地域学部准教授、外務省経済局経済連携課勤務などを経て、合同会社未来モビリT研究主宰。本来の教育・研究バックグラウンドは自動車と深く関わっていないが、典型的な自動車オタクと見る。

 

4)第二次世界大戦の発火点

-大国に翻弄されたポーランド、ウクライナ侵攻理解ばかりでなく、我が国安全保障にも学ぶこと多々あり-

 


19391月生まれである。誕生地満洲では6月から9月にかけてノモンハン事件が起こり、それと重なるように第二次世界大戦が91日勃発する。無論赤子ゆえそんなことは知る由もないが、歴史に残る年だけに、成長するにしたがいあの戦争と自分の関わりを考えるようになってきた。日清戦争・日露戦争で得た利権を拡大、満洲国を設立したことは、独ソ密約でソ連がバルト三国を連邦に組み込みロシア人を送り込むのと同じ。ソ連崩壊で彼らが国民としての権利を奪われ、生来の地を離れロシア本国へ移住することが、満洲から追い払われた我々家族と重なる。異なるのは国境だ。陸続きの国には民族のグレイゾーンがあり、些細なことが動機となって、紛争・戦争に発展してしまう。プーチンのウクライナ侵攻はその典型。この動きは第二次世界大戦前の東欧事情と酷似する。ナチスドイツによる1938年のズデーテン地方併合とそれに続くチェコスロバキア全体の制圧がその例だ。ポーランド侵攻前後の東欧全体の軍事・外交を知ることが、ウクライナさらには旧ソ連圏のこれからを見通す材料になることを期待して本書を読むことにした。

本書の内容は近現代ポーランド史とも言えるもので、三次にわたるプロイセン・オーストリア・ロシアによる分割(1772年~1775年)の前史から第一次世界大戦の戦後処理(ヴェルサイユ条約;1919年)によるポーランド共和国独立承認までが導入部。国は認められたものの、安定した政体が出来る間には親露派、反露派の主導権争いがあり、国境線画定にも時間を要する。東部国境は1920年対ソ戦争(ウクライナと同盟)で確定(暫定の英カーゾン外相案より東へ広がり、現在のベラルーシ、ウクライナの西部を含む。これは第二次世界大戦後ソ連に取り上げられ、現在の国境となる)、他の部分は隣接国との個別交渉や国際連盟の調停案で固めていくことになる。また、ナチスドイツが失地回復する過程でそれに便乗して領土拡大を図った部分もあるのだ。そして最後に残るのがダンツィヒ。ここは旧東プロイセンの一角であり住民の90%はドイツ人だったが、ポーランドにとっては唯一の海との出入り口、独・ポの折り合いはつかず、国際連盟委任地域となって、複雑な統治が行われている。ズデーテン地方を始め着々と旧ドイツ帝国領を取り戻してきたナチスドイツは193810月、秘密裏に8項目から成るダンツィヒ問題解決案をポーランドに提示する。これまでの独・ポ関係は良好で1934年には不可侵条約も締結しているが、これが独ポ関係の転換点となる。この案の4項目はダンツィヒにおける独利権の回復、これに不可侵条約の期限延長(10年→25年)、日独伊防共協定への参加、国境線保全、付帯事項の4項目が加わる。民族自決の原則に基づけばダンツィヒの独復帰は自然な流れだが、苦難の歴史を経てやっと独立を成し遂げたポーランドにとって、そのまま認められるものではない。ユゼフ・ベック外相は国民だけでなく政府にもこの提案を明かさず、落としどころを探る道を選ぶ。実は当時のポーランド国内政治は枢軸国に近く、伊のエチオピア侵略支持や満洲国承認などにより、英仏とは疎遠になっていたが、この提案を契機に外交政策転換を模索し始める。それぞれの国への対応は、独は敵に転じ、英仏とは関係改善強化へ。そして、ここにもう一つのプレイヤーソ連が加わる。時間差はあるが、仏との相互援助条約は1920年、ソ連との相互不可侵条約は1932年、独との不可侵条約は1934年に結び、必死に生き残り策を講じてきたポーランドだが、独はダンツィヒ問題解決策に答えないポーランドに19394月不可侵条約破棄を通告する。そして世界に衝撃を与える独ソ不可侵条約が1939823日発表されと、それまで態度を曖昧にしてきた英国が同月25日ポーランドと相互援助条約が結ぶことになる。ここに至る各国の国益むき出しの、疑心暗鬼と虚々実々の駆け引きこそ本書の読みどころ。ヒトラーが西へ向かわぬことを願う英仏、あわよくば革命後の戦争で失った領土を取り戻したいソ連。ナチスドイツを抑え込みたいのは英仏ソさらにポーランドの共通関心事だが、どの国も他国を信用していない。そこをしっかり読んでいるヒトラー。見事にポーランド電撃戦は成功する。

準備万端だった独軍の侵攻スピードは驚異的、917日には政府が、18日には軍司令部がルーマニアを経て亡命、ソ連はポーランド国内のベラルーシ人・ウクライナ人保護を名目に18日独との秘密協定線に向かって西進、10月初め両国によるポーランド分割統治が始まる。この間、同盟国英仏は93日対独宣戦布告したものの傍観を決め込む。1941622日独ソ戦開始、東部ポーランドも制した独は全土を総統領として統治、ユダヤ系ポーランド人の絶滅が本格化する。パリ、ロンドンと移る亡命政府の下西側連合国に組み込まれる部隊、ソ連軍と行動を伴にする者、国内に留まりゲリラ戦を展開するグループ、それぞれの立場で対独戦を戦う。連合軍の勝利が見えてくると米英対ソ連の対決が顕在化、亡命政府に対抗するソ連派が台頭し、欧州の戦いが終わると一見民主的な手続きを経たように見せながら共産党政権が誕生、旧国境は全体に西に移動し、東部はベラルーシ、ウクライナの一部となり今日に至る。今次のロシアによるウクライナ侵攻に対して、ポーランドが分不相応とも思える支援を行っているのは、このような歴史的背景からきているのだ。

著者は1967年生れ、既に本欄で「第二次世界大戦秘史」「太平洋戦争秘史」の2冊を紹介している。著者紹介には戦史・紛争史研究家とあるが、ノンフィクション作家、ジャーナリスト、学者いずれとも知れぬ人物。しかし、着眼点はいずれもユニークで、情報に新鮮味がある。利権・覇権争いが激化する今日の世界を見るとき、(核はともかく)片務的な日米安保だけに頼ってはならないと痛感させられた。自衛力強化(ポーランドはこれを怠った)、情報収集分析力(これも弱かった)、信頼される広義の外交力(英仏、独双方から疑われていた)が欠かせないと。

 

5)オッペンハイマー

-「原爆の父」と称賛された物理学者、原爆国際管理・水爆開発反対を訴えたことから赤狩り犠牲者に貶められる-

 


日本は唯一の原爆被爆国、福島原発事故もあり原子力利用に関してはネガティヴな風潮が今に続く。しかし、我々の高校生時代は1954年出版の「ついに太陽をとらえた-原子力は人類を幸福にするか-」が級友間で回し読みされ、1955年「原子力基本法」制定を記念して日比谷公園で「原子力博覧会」が開催されるなど、明るい話題に満ちていた時代もあったのだ。そんな時期の報道に「オッペンハイマー・ソ連スパイ事件」がある。「原爆の父」と称せられ、米原子力委員会顧問を務めていたオッペンハイマー博士がソ連と通じているとの疑惑、折からのマッカーシー旋風に煽られて大々的に報じられた。本書はそのロバート・オッペンハイマーの生涯を描く伝記、原著は大判のハードカバーで700頁を超え、訳本も文庫本ながら上・中・下3巻計1300頁近い大作である。そして今年度アカデミー作品賞・監督賞・主演男優賞などを受賞した映画「オッペンハイマー」の原作でもある。著書入手は発刊直後の2月初め、大冊ゆえにゆっくり読もうと思っていたが、映画の本邦公開が3月末と知り、それ以前にと急遽読破した。

巻頭にある“著者覚え書き”を読んで驚かされる。オッペンハイマー家ゆかりの地ニューメキシコ・ロスピノス牧場(戦前から広大な牧場を所有、そこに別荘を建て、現在は長男ピーターが住んでいる)を著者が訪れたのは1979年、著者も編集者も4~5年でこの伝記を完成させるつもりだったが、実際には四半世紀かかり、原著出版が2005年になったとある。数多くの伝記を読んできたが、連続小説でもない限り、こんな長期を要する著書に遭遇していない。100人以上の人にインタヴュー、海外調査も行い、読んだFBIの公開資料だけでも3千頁を超えると作品とのこと。読み終わりホッとしたのが率直なところだ。


ロバート・オッペンハイマーの
62年の生涯を、誕生から死まで丹念にたどるが、ヤマ場は二つに絞られる。第一の山は原爆完成・投下まで。第二は1954年の“ソ連スパイ説”に関わる原子力委員会聴聞会顛末である。

ロバート・オッペンハイマーはドイツ系ユダヤ人二世として1904年ニューヨークで誕生する。父は布地商として成功しており、極めて豊かな経済環境の下、ユダヤ人向け「倫理文化学園」で小中高と学びハーバード大学に入学、ここを最短の3年で首席卒業、化学の学士号取得する。ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所を経てドイツのゲッチンゲン大学に移り、9カ月の間に7本の論文を書き上げ、192723歳の若さで博士号を取得する。帰国後カリフォルニア工科大学とカリフォルニア大学バークレー校を掛け持ち、特にバークレー放射線研究所(サイクロトロン加速器を備える量子物理学最先端研究所)で研究実績をあげる。やがて第二次世界大戦勃発、アインシュタインらがナチスドイツ原爆開発に警鐘を鳴らし、米国の原爆開発計画“マンハッタン計画”が立ち上がる。プロジェクトリーダーは米陸軍のグローブス将軍(最終中将)、彼に依って弱冠39歳のロバートが学者グループを率いる“急速爆発コーディネータ(中央研究所長)”に抜擢され、ニューメキシコ州ロス・アラモス研究所の研究開発管理を任される。

ただ、ここまで至る過程で共産主義・共産党との関わりがちらついてくる。8歳下の弟フランク(物理学者)、婚約者ジーン(のちに解消)、そして妻キティがいずれも一時期党に席を置いているのだ。彼自身は科学者の労働組合活動に関わった程度だが、学者仲間にもシンパが何人もいる。このような事情からFBIが彼の身辺調査を進めており、新任務不適と軍に警告するが、グローブスは一存でQ(最高機密接触許可)資格を与える。以降ロバートは原爆開発に邁進、194586日の広島投下、9日長崎投下を成功させ、第二次世界大戦終結、「原爆の父」と称賛され全米に知られる英雄となる。

第二のヤマ場の発端は、終戦直後広島に赴いた調査団から聞かされた惨状、自責の念にかられた言動や水爆開発阻止への動きが、政治家(大統領を含む)・軍の不興を買う。知名度が高いだけに政治的影響力が大きいことを危惧してのことだ。冷戦の進行で核兵器を科学の段階から国際政治の手段に変じたことを充分理解していなかったことが災厄をもたらす。

著名人となった彼の次のポストは、アインシュタインも在籍するプリンストン高等研究所(設立動機は大学への寄付だが、プリンストン大学と直接関係無し)所長。理事の一人ルイス・ストローズが彼を推してのことだ。ストローズ(ドイツ読みではシュトラウス)はロバート同様ドイツ系ユダヤ人の出自、高校を出ると靴のセールスから身を起こしウォール街で成功、財力でより高い名誉職獲得を目指す野心家、共和党大統領候補アイゼンハワーの強力なスポンサーでもある。ロバートが所長職を提示された際、友人との電話で「多少知ってはいる。たいして教養がある男ではないが、邪魔にはならないだろう」と交わした話がFBIの盗聴記録に残されるのだ。後日これをFBIから知らされたストローズは激怒、復讐の念にかられる。

1953年末ストローズは米国原子力委員会(AEC)理事を務め、その下部組織である一般諮問委員会(GAC)の議長はロバート。赤狩りが吹き荒れる中大統領執務室でロバートの処遇に関するトップ会議が持たれる。メンバーは、アイゼンハワー大統領、ニクソン副大統領、アレン・ダレスCIA長官、二人の大統領補佐官、それにストローズである。結論はストローズ提案の「保安許可の不服審査を行う委員会設置」。1223日付でAEC告発状が送りつけられ、これに対するロバート側の反論書を待って、19544月中旬から約1カ月にわたる「AEC人事保安調査委員会」聴聞会(非公開)が開かれ、5月末ロバートのQ資格取消が決する。ここ至るまで、ストローズは、FBIの協力取付け(フーバー―長官もロバートを嫌悪している)、AEC理事の抱き込み工作、情報開示制限など病的なほど陰険な手段を尽くしてロバートを追い詰めていく。二つのヤマ場と書いたが、読み応えは圧倒的に後者、本書はこの事件のために書かれたのではないかとの感さえしてくる。


後日談;アイゼンハワー政権末期ストローズは商務長官に推されるが上院で否決され野望は此処で挫折する。ロバートはすべての公職から去るものの高等研究所長には留まり、ケネディ政権で米国科学者に与えられる最高の賞、フェルミ賞受賞者として名誉回復。だが授賞式直前ケネディが暗殺され、ジョンソン大統領からその賞が渡される。1967217日喉頭がんで死去(享年62歳)。

人格形成・変化(内省的で友人も少なかった若者が多数の科学者・技術者を率いるまで)、学問上の業績(評価が高いものは1930年代で終わっている)、著名科学者(アインシュタイン、ニール・ボーア、フォン・ノイマン、P.M.S.ブラケットなど)との交流、日本投下の要否(不要派)、政治家・政府高官の評価(著名人ゆえ要職に就けるが、トルーマン、アイゼンハワー両大統領ともに冷淡)、ソ連の原爆諜報活動、家族との生活(妻キティにとってロバートは3度目の結婚相手。初婚相手はスペイン市民戦争で戦死す共産党員。妻としてはロバートを良く支えていくが子育ては不得手、長男ピーターとは心が通わない。長女トニー(愛称)への愛も一方的、二度結婚するが最後は自死する)、友人知人関係(特に親密だった女性)など、全方位的にオッペンハイマー像を描く盛り沢山な内容。ピューリッツァ賞受賞は納得だが、深耕されないのが原爆開発に関する科学技術上の難題解決と彼の役割である。全く触れないわけではないが、期待していただけに“画龍点睛を欠く”の感が残った。膨大なボリュームと多岐にわたる話題を3時間で如何に描くか、映画鑑賞はそこに注目したい。

著者は二人、マーティン・J・シャーウィンは1937年生れ、タフツ大学歴史学教授の経歴もある歴史家、2021年没。カイ・バードは1951年生まれの歴史家・ジャーナリスト、あとから本書執筆に加わったようである。

 

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