2015年9月24日木曜日

魅惑のスペイン-19


11.トレド
スペイン旅行を決めたとき、水泳仲間でヨーロッパ駐在が(年金をもらえるほど)長かった商社員のTBTさんから「トレドは組み込んでありますか?」と問われ「マドリッドの近くだから是非」と薦められた。到着地(バルセロナ)・出立地(マドリッド)とアンダルシアは頭にあったがトレドは即答できなかった。家に帰って調べたら幸いマドリッド観光の中に確り組み込まれていた。事前準備に購入した「魅惑のスペイン」(新潮社)に依れば「もしスペインでたった一日しか時間がなかったら、トレドを見よ」と書き出しにあるほどの場所であった。前回書いたように、611日(木)のほとんどはここに時間が割かれていたのだ。
その日は前夜半から雷鳴を伴う雨が時折強く降るような天気で、朝起きたときも黒い雲が低く速く走り、歩道は濡れていた。現地ガイドのKMRさんはレインコートのいでたちである。ホテル出発は9時、小雨の中を一方通行の細い道を抜けバスは南西に向かう自動車道に入る。ラッシュアワーだが日本流に言えば下り道路だから流れはスムーズ、やがて空も明るくなり雨は上がった。
50分くらい走ると自動車専用道路を外れトレド市内に入る。最初の立ち寄り先、金工・象嵌細工の工場兼販売所。高価な展示品の中には明らかにイスラムの影響を受けたと思われる美術品もあり、見学するだけでも楽しい。家内も含めご婦人方がアクセサリー類のお土産を求めている。
そこを出てしばらく近代的に整理された市中を進むとトレドの中心部に至る。高い丘陵部は総て城壁に囲まれいかにもヨーロッパの城郭都市であることが分かる。新市街から城内への道は何と複数が並走する長いエスカレータ。これに取り付いたとき再び激しい雷雨。エスカレータは屋根で覆われているので、濡れることはなかったが最終到着点はそれほど広くないので大混雑・大混乱。少し小降りになったところで旧市街へ傘をさして向かう。足下はびしょびしょ。狭い石畳の道を時々抜けていくクルマを避けながらの移動は辛い。
最初に訪れたのは大聖堂(カテドラル)。13世紀から16世紀にかけて建設され、その後も19世まで細部の増改築が続いたものである。ただ今まで観てきたその他の大聖堂とは異なり、イスラム寺院を改築したものではないので(モスク改築の小教会は別に在る)、純スペイン建築の総合版とも言える歴史的な建物である。中央部には主祭壇と聖歌隊席が置かれているので空間的な広がりはそれほど感じられない。周辺の見ものは聖具室でここにはグレコやゴヤの作品が置かれている。グレコはこの地で活躍したのでグレコ美術館やグレコの家も名所巡りの一環としてあるくらいだ。
次に回ったのはサント・トメ教会、ここも目玉はグレコであった。何度か書いているようにどうも宗教絵画は好きになれない。特にカソリックのそれは“おどろおどろしさ”を感じてしまいダメだ。その仕上げがこの教会であった。
昼食はこの城郭都市全体を外から見晴らす場所で摂ることになっている。時間もあるのでしばし城内旧市街見物の自由時間をとることになる。幸い雨も上がり、雲間に青空も見えだしたので、歴史のある道々をあちこち散策してみた。前ローマ、ローマ時代、イスラム時代、レコンキスタ(キリスト教徒に依る国土回復)、そこに寄食したユダヤ人街、市民戦争で傷められ修復されたアルカサル(城砦)、に見る歴史。そして城壁から見下ろす湾曲する自然の障害タホ川。マドリッドがこの古都を守るための前哨基地として建設されたという優れた立地条件。“スペイン観光必見の場所”を確かに理解した。

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(次回;トレド;つづく)


2015年9月19日土曜日

魅惑のスペイン-18


10.マドリッド-3
611日(木)深夜からの驟雨は朝まで続いている。今日は古都トレド訪問だが、当地に来て初めて本格的な雨に会う。時間的な順序からすれは、今回はその雨のトレド紹介となるのだが、このトレド観光の後の自由時間を利用したマドリッド散策を前2回の続きとして先行させる。
幸い雨はトレドで昼食を摂った後は上がり、3時半ホテルに帰着した頃には、アンダルシア同様夏の陽気に変わっていた。今夜はディナーも各自おのおの好みに任されているので行動時間はたっぷりある。前回書いたように、予め考えていたのは、私が考古学博物館を見たいこと、家内はデパートで土産物など当たってみたいということだけだったので、先ずその2件を片付けて、あとは成り行き次第とした。ただ私は出来れば市民戦争の歴史を留める場所を訪問したかったので、解散前に現地ガイドのKMRさんにこの件を質してみたが「フランコ時代徹底的に市民戦争の跡を消し去ったので、マドリッドには何も残っていない」とのことで諦めることにした。その際もう一つくぎを刺されたのは「地下鉄を利用しないこと」、その代り「タクシーは安全で安いから是非それを」とのことだった。ホテルで一休みする間に、小さなカードに行先を書き、それを運転手に見せる用意をした。
道の先が一方通行となるため、ホテル前の通りを向かい側に渡りタクシーを拾う。クルマはスペイン国産のセアト(フォルクスワーゲン傘下)、外観もきれいだし内部も清潔だ。“Museo Arqueologico Nacional(国立考古学博物館)”のカードを見せると、運転手は頷き、直ぐメーターを倒す。しかし、どうも道を正確に知らないようでカーナビでなにやらチェックしている。チョッと心配になったが、10分位で正門前に着き、メーター料金通りお釣りもくれた。ここで観たいのは“アルタミラ洞窟(旧石器時代の多色壁画)”のレプリカ、本物は北スペイン海岸近くにあるのだが、そこは入場制限され待ちは数年、通常はこのレプリカで我慢するしかない。そのレプリカは博物館本館前庭の片隅に特別に設けられた半地下式の特別展示室に在る。坂を下った入口受付前を入ると一気に真っ暗闇。しばらくすると足元が仄明るくなり、洞窟を模した天井にはバイソンが数頭描かれ、それを狩る人間や弓矢が見えてくる。この疑似洞窟体験は10分程度だがそれなりの臨場感は楽しめる。本館にはギリシャ、ローマ時代の遺物が数多く展示されているがそれらはザーッと見て終わる。
次はダウンタウンの中心地“太陽の門広場”これもカードで示し、タクシーで難なく到着。広場の中央に在る地下鉄入口付近にたむろする若い女の子にデパート名(イングレス)を告げると「あそこ」と言って指で指示してくれる。デパートは本館ばかりでなく専門(スポ-ツ用品、書籍など)分館もあり、衣料・子供用品の売り場を見つけるのにやや手間取るほど規模の大きなものだった。しかし、完全に現地向けでお土産に相応しいものはみつけらなかった。
そこから今度はCalle Mayor(大通り)を西に向かう。この通りは銀座の並木通りと言ったところか。比較的高級なファッション製品を扱う店が多い。そんな店を何軒か冷やかしてみる。途中朱塗りの建物で囲まれたマヨール広場に寄って土産物を探したが、これはと思うような物は見つからなかった。さらに西下マドリッド市庁舎まで行き、同じ道を戻ってサン・ミゲル市場に入ってみる。海から遠いのに意外に海産物が多い。生ガキなども扱っており、それを肴にワインを楽しんでいる人もいる。「私も一杯」と思ったが、飲んで日差しの強い中を歩くにはどうも不安があり我慢する。
結局この周辺を更に散策しタクシーでホテル戻った。今度のクルマは何とプリウスだった(パリにも多かったが、ここもプリウスタクシーが沢山走っている)。時刻は7時前、しばし仮眠をして夕食へ。アトーチャ駅近くのバルで冷たい生ビールとシーフードを食してこの地最後の観光を仕上げた。

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(次回;トレド)


2015年9月15日火曜日

魅惑のスペイン-17


10.マドリッド-2
全員そろってのディナーは今夜が最後のものとなる。スペイン料理として日本で最も馴染みのあるパエリアを賞味した後、場所を変えてフラメンコを鑑賞するのがこの夜の予定である。
夕食には昼間の観光とは違いマイクロバスで出かける。場所は市街地中心部の西側、王宮劇場の北にある、“La Paella Real”、その名も“王家のパエリア”と言う店。オフィス街のビルの中にあり、土地勘のない外国人観光客には見つけるのは難しい。スケジュールは完全にスペイン時間、8時半から始まった。前菜などいろいろあったが、メインディッシュ無論パエリア、大きな専用フライパンに出来上がったものをテーブルまで運び、写真撮影後各人に取り分けてくれる。具は日本同様ムール貝やエビなどがトッピングされているが、全体として日本で食するものに比べ具が少ない。味も特に印象に残るようなものではなかった。添乗員のSSKさんにそれを言うと「パエリアは本来東海岸アンダルシア地方(特にバレンシア)の料理。マドリッドは内陸なので魚介類は高価なため少ない」とのこと。ならば彼の地で本場の味をと思わないこともなかった。
デザートが終わったのは10時前、次はいよいよフラメンコである。暗くなった街路をマイクロバスで抜けるのでどこを走っているのか皆目見当がつかない。場所も想像するような歓楽街ではなく、ポツンと暗がりの中にそのタブラオ(演舞場)は在った。しかし、乗車時間を考えるとレストランからそう遠いところではなかった。10時過ぎに着くと、開演は10時半からとのことでしばし飲んで時間を潰す。客席数はカウンター席も含めて40くらい、低い舞台が部屋の一画にある。私の席はその舞台の端に接するほど近い。三々五々観客が集まってくるが、ほとんどは観光客。英語がやたら目立つからアメリカ人が多いようだ。
やがてショウが始まる。リーダーと思しきギタリストが私のすぐ横に位置を占めた。女性の踊り手は一人、男性の踊り手は二人、男女歌手が一人ずつ、ギタリストはリーダーの他にもう一人。思っていたものよりもこじんまりした編成ある。しかし、狭いところでこれだけの人数が歌い踊れば舞台と観客席は直ぐに一体となる。見所では自然と拍手が沸くし、掛け声もかかる。歌詞の意味は全く分からないのだが、悲しいもの、陽気なもの、その雰囲気は確実に伝わってくる。ここの国の人はイスラムとの混血も進み、いわゆる西欧人とはやや異なる風貌の人が多いのだが、メンバーの大半はそれとも違い、背が低くがっちりした体型で目が鋭く大きい。多分ロマ(ジプシー)の血をひいているのだろう。物悲しいメロディーと迫力に、酔いもまわってすっかり惹き込まれ、アッと言う間に終了時刻の12時になってしまった。これは第1回公演、2回目からが地元の人の時間らしい。
帰国してフラメンコに関していくつかのことを知った。本来の本場はアンダルシア地方なのだが、お金になるのは大都会、特にマドリッドやバルセロナ。優れた演奏家・踊り手もそこに集まる。一部の日本人のフラメンコダンサーは極めてレベルが高く、彼の地でも一流の評価を得ているとのこと。そう言えば唯一の女性ダンサーは、身体が華奢で迫力が今一つだった。

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(次回;マドリッド;つづく)


2015年9月12日土曜日

魅惑のスペイン-16


10.マドリッド
スペインの首都ではあるが、この都市に対する興味は、パリ、ローマ、ロンドンあるいはガウディに代表されるバルセロナのように高くはなかった。イベリア半島の歴史では何と言ってもローマ帝国とイスラムそれに海洋である。マドリッドはそのいずれにも縁が薄い。それはマドリッドが極めて歴史の新しい首都だからなのである(国を統一する過程でその中心地に建設された;当に半島のど真ん中に位置する)。その浅い歴史の中で、強いて個人的な関心があるのは市民戦争だが、各種の旅行案内を繰っても、あの戦争に関する博物館のようなものは見つけられなかった。一つだけ自由行動時間に訪れてみたいと思ったのは考古学博物館、そこにアルタミラ洞窟のレプリカがあることを知ったからである。これについては次回紹介する。
アトーチャ駅で迎えてくれたのはKMRさんという日本女性。中年のいかにもしっかりした感じの人だ。バルセロナ同様通訳兼ガイドだから市民権がある人なのだろう。
この日の午後の予定は、マドリッド到着後に昼食となっており、バスで連れていかれたのは比較的駅から近い“茶亭(Txa Tei )”という日本レストラン。経営者は日本人のようだがウェイトレスはスペイン人の店。メニューは刺身、茶碗蒸し、天ぷら、塩鮭、鶏の唐揚げなど「何もここまで来てこんなものを」と思うのだが、旅も終わりに近づくと、日本食が恋しい人が多くなるらしい。現地のビジネスマンも食事をしていたから、まずまずの店なのだろうが、日本で評価されるような味ではない。
昼食を終え2時半から市内観光、先ずマドリッドの銀座中央通りとも言えるグランビア通りを西に向かう。通りは確かに賑わっており散策するのに面白そうだ。道は東から西に向かってやや下り坂、下りきったところにスペイン広場があり、ここにロバに乗ったドン・キホーテとサンチョパンサ、後ろに著者のセルバンテスが座して見下ろす彫像がある。その後はバスに乗ったまま王宮、アルムディーナ大聖堂と西側の観光スポットを巡って再び中心部へ向かい、サン・ミゲル市場、ランドマースのプエルタ・デル・ソル(太陽の門広場)を通過して、海神像の噴水を右折、本日のメインイベント、プラド美術館に至る。
アメリカの大都市、モスクワ、ロンドン、パリ、フィレンツェ、ローマ、至るところで美術館を訪れ名作を観ている。とは言っても格別絵画や彫刻に造詣が深いわけではない。比較的具象的な絵は好きで中でも風景画は好みである。あとは「有名作品を観た」との思い出作りに過ぎない。従ってここプラドではゴヤの“裸のマヤ(と合せて“着衣のマヤ”)”とグレコの“聖三位一体”さえしっかり観ておけばいい。キリスト教にゆかりの絵、王族関係者の肖像や群像などが溢れ、一つ一つの絵の歴史や背景を追えばそれなりに面白く、時間も要する美術館ではあるが、1時間程度で見学を終え5時前にはそこを出て、アトーチャ駅近くのホテル、Paseo Del Arte(芸術の道)にチェエクインする。
この後夕食までの自由時間を利用して、ごく近くに在るソフィア王妃芸術センター出かけ、ピカソの“ゲルニカ”やダリ、ミロなどキュビズムや現代アートを鑑賞した。これはこれで宗教画に見飽きた身には楽しい時間であった。

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(次回;マドリッド;つづく)


2015年9月9日水曜日

魅惑のスペイン-15


9.スペイン新幹線AVE2
駅舎も、車両も線路もこの新幹線のために作られたことを考えれば、セビーリャ駅は、到着駅のマドリッド・アトーチャ駅が東京駅同様在来線と混用されていたので、我が国初の東海道新幹線と対比すれば新大阪駅といったところか。しかし、あらゆる面で両者には大きな差異がある。先ず、車両の編成だが、先方は先頭車と最後尾車のみが動力車で、その間に挿まれた客車は無動力、日本のような動力分散(電車)形式ではないのだ。次いで車両と運行システムである。車両はフランス製(ライセンス生産もあるようだが)、信号システムはドイツ方式である。つまり自国開発のものでないことである。とは言っても運行管理技術は確りモノにしており、出発も到着も定刻表通りだった。
1045分セビーリャ駅を出発したAVE2101号は20分もするとオリーブ畑が広がる、低い切通が多い丘陵地帯を快適に飛ばしていく。最高速度は300kmhとなっているが概ね250kmh。白壁の集落が時々現れては消えていく。40分程度走ると次の停車駅コルドバに到着、ここは在来線と混用(とは言ってもホームは専用)、新幹線用保線基地などもある。あとはマドリッドまでノンストップだ。この辺りも新大阪を発って、名古屋に停車した後東京まで止まらなかった、初期の“ひかり”と同じような運行方式だ。コルドバを出ると車窓の景観が少し変わってくる、土地の高低差が険しくなりトンネルを何度かくぐり抜けるようになる。樹木もオリーブオンリーから背の高い針葉樹に変わっている。
目を車内に転じてみる。内装は全体として淡いグレーと木目調、座席のやや濃いグレーとの調和は落ち着きがあっていい。天井から何台かTVが下りてきて映画を上映する。音は先ほど配られたイヤフォーンで聞く。チョッと変わっているのは非常脱出用のハンマーが前後室内ドアーの付近に置かれていることだ。高架がほとんどないのでこれでいいのだろうか(線路に沿うフェンスも低い)。
車内販売がやってくるが、飲み物中心。試しにコーヒーを求めたが何とネスカフェのインスタント、それでも2€とられた。
再び外を見ると山岳地帯を抜けてまた平原に戻るが、今度はオリーブ畑ではなく牛の放牧場、時々小集落、工場、大規模な太陽光発電などが現れては消えていく。感心するのは駅周辺や工場を除けば全く広告がないことである。これは高速道路でも同じ。日本を含むアジア人とは異なる美的センスがうかがえる。日本の新幹線沿線広告は何とかならないものだろうか。まあ、延々と町や家屋が続く東海道新幹線とは土地利用形態も大違いではあるが。
13時過ぎ初めて大きな道路との立体交差が現れる。少しずつ高層建築が増えてくると、もうマドリッド市内。1310分、定刻通りアトーチャ駅に到着した。
ここでハプニング。我々の乗った車両は10号車、最後尾である。頭端式のホームを先頭車まで歩き、その一部を利用した荷物室でスーツケースを受け取らなければならない。しかし、それらしき作業をする人は全く居らず、先頭車両に乗っていた運転手も既に下りてしまっている。添乗員のSSKさんが駅員に問い合わせるのだがさっぱりらちが明かない。このままだと回送列車として車庫に入ってしまう!マドリッドのガイド(日本人女性)がやってきて携帯電話でどこかに連絡。5分位(到着からは10分以上)すると担当者が息せき切ってやって来た。事情を聴けば、この荷物の処理は駅員ではなく観光会社の受け持ち、前に到着した団体の荷物が多く、その扱いに予想以上に時間を食ってしまったとのこと。素早く車内清掃し折り返す我が国新幹線では考えられない悠長さであった(この速さと要領のよさは世界的に“知る人ぞ知る”賞賛のまと;ユーチューブで流されている)。

蛇足:ここの新幹線は右側通行(日本と反対)だった。フランス新幹線は左側通行だった。フランスの新幹線は在来線にも乗り入れているから在来線も左だろう。イタリアの新幹線・在来線も左側通行だったように記憶している。ただし、フランスやイタリアの地下鉄は右側通行だった。英国はどちら(在来線・地下鉄)も左側通行だった。英仏間はトンネルでつながっている。両方とも左なら問題ない。今やフランスとの間で国際列車(在来線タルゴ)を走らせているスペイン、左右問題はどう解決しているのだろう?

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(次回;マドリッド)


2015年9月6日日曜日

魅惑のスペイン-14


9.スペイン新幹線AVE
610日(水)今日も良い天気だ。朝食は8時から、ロビー東側のテラスから見渡す平原(実際は畑)の緑が輝いて見える。チェックアウトは910分。早朝続きの異常スケジュールがやっと平常にもどる。パラドールの門前から、来た時同様荷物運搬用トレーラーを牽引するマイクロバスに乗り込んで、大型バスへの乗り換え場所へ移動。往路と違い朝の通勤通学で狭い道は混雑がひどい。特に小学生を学校まで送るクルマが多いとのこと(送迎は親保護者の義務)。40分ほどでセビーリャ駅に到着。パラドール宿泊に次ぐ第2の旅行必要条件スペイン新幹線AVEAlta Velocidad Espanola)乗車だ。駅舎は想像していたよりモダン、1992年の開業に合わせて新幹線専用に作られた新駅なのだ(本ブログ<今月の本棚-82>で紹介した「カディスの赤い星」では主人公がここでカディス行列車に乗換える場面があり、それを想像していた)。
スペインの鉄道は独特の発達をしてきた。広軌であることとタルゴ(TALGO)と呼ばれる特殊な車軸構造の列車の存在である。広軌についてはロシア同様フランスからの鉄道を利用した侵攻(ロシアの場合はドイツ)を許さぬためである。この国の鉄道を最も特徴付けるのはタルゴ、客車の車輪はおのおの一軸で独立懸架なのである。これにより低重心化が実現、曲線通過の高速化が図られるのだ。戦後は周辺国と戦争の恐れが無くなったため、この構造を生かすため国境駅に軸間可変装置を設置して直通の国際列車が走るようになっている。その観点からは在来線の特急・急行に乗りたかったのだが、ツアーに組み込まれているのはAVEだけであった。
AVEは標準軌、従って日本同様専用線。これはヨーロッパ各国と接続することを考慮してのことで、他のヨーロッパ新幹線(仏・独・伊)のように在来線への乗り入れはしていない。営業開始は今回乗るセビーリャ・マドリッド間が最初で、現在マドリッドとマラガ、ヴァレンシア、バルセロナなどを結ぶ線が営業している。
セビーリャ駅は先にも書いたようにAVE専用の新駅。駅の構造はヨーロッパ大都会のターミナル駅によく見られる頭端式(行き止まり)、大きな天蓋でホーム全体がおおわれており、単なる移動ではなく“旅”の雰囲気に包まれている。
ヨーロッパの新幹線では既にイタリア(ヴェニス-フィレンツェ-ローマ)、フランス(アヴィニョン-パリ)を利用しているが、セキュリティ・チェックはいずれもなかった。しかしここではスーツケースを始め持ち物のX線検査が、ホーム入口で確り行われる。そのあと団体客のスーツケースは車内持ち込み禁止(個人客はOK;各車両に専用荷物置き場)で、先頭車両に在る専用貨物室に収められる。我々はツーリスト(エコノミー)クラス(10号車)だが、座席配置は総て進行方向向きでリクライニング可(座面を前へずらす方式なので後ろの人に迷惑をかけない)、通路を挟んで2席ずつ。テーブルだけでなく足置きもある。これが一列4席で10列、一車両40人は日本の新幹線と比べゆとりが感じられる。幸い新幹線の中でも最新タイプ(写真左)の列車編成で、トイレも含めて車両は清潔。2階建ての古い車両(その1階部分に乗車)で幻滅させられた(特に窓の汚れ)フランス新幹線とは大違いだった。
出発は定時(1045分)きっかり!走り出すとイヤフォーンが配られ、ひじ掛けのチャンネル選択でポップからクラシックまで好きな音楽を聴きながら車窓の景観を楽しめる。

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(次回;AVE;つづく)


2015年9月3日木曜日

魅惑のスペイン-13


8.カルモナ
今回の旅を計画するにあたって、旅行社に示した必要条件の一つに“パラドール宿泊”がある。パラドールとは、古城、城塞、修道院など歴史的文化財を利用した国営宿泊施設で、全スペインで百カ所近くある。その一つがセビーリャから東へ40kmほどの所に位置するローマ時代に遡る小さな城砦都市カルモナに在る。今夜の泊まりはそこのパラドールである。
セビーリャのスペイン広場を発ったのは夕刻6時頃。日はまだ高く日本人の感覚では3時過ぎと言ったところ。バスは市中を一旦南に向かい、セビーリャ駅の近くで東に折れてコルドバからやってきた国道A4号線を戻って行く。30分も進むと南(右)はるか遠方にお椀を伏せたような丘が見えてくる。カルモナだ。A4号線に分かれ、田舎道を南へ向かうと前方に待望のひまわり畑が広がり、やっと大型バスを停めることのできるスペースもある。しばし停車して写真撮影となるのだが、夕方のそれは何となく元気がない。
バスはさらに南へ進み、つづら折りしながらカルモナ中心部に近づいて、下から城塞の一部が見えてくると、山道の途中の少し広い場所で停車する。添乗員のSSKさんが「このバスはここまでです。城内には入れないので前に停まっているマイクロバスに乗り換えてください」と案内。そう言えば一昨年のフランス旅行でもアヴィニョンでそんな経験をした。マイクロバスはスーツケースを載せるトレーラーを牽いており、そこへ荷物を載せ変えると直ぐに出発。城門をくぐり、狭い町中を丘の頂上まで我々を運び、二つ目の城門の前で停まった。門の中は広場になっており、自家用車で来た客にはそこが駐車場になっている。アルカサル・デル・レイ・ペドロこれがパラドールの正式名称。アルカサルは城塞、レイは王、“ペドロ王の城塞”である。このペドロ1世(嫡子)は王位争いの中で残虐行為を繰り返したので“残虐王”と渾名され、最後は腹違い(庶子)の兄に殺される。そんな暗い歴史と関わる城塞ホテルだが、もともとはイスラムの建築物だったので美しい中庭を持つ清潔な感じのする、期待通りの歴史の名残を上手く生かしたホテルだった。
我々の部屋はフロントのフロアーから下に2階おりた東側の絶壁の上に在り、そこから緑の大平原が広がってみえる。部屋内部の造作は白い漆喰と年季を感じさせるこげ茶色の柱、床も同色の板張りで往時を再現しているのだろう。城壁の一部を穿った小さな窓部は壁の厚みがそのまま残り、奥行きが深い。しかし、浴室は近代的で使い勝手は都会の現代のホテルとなんら変わらない。TV、電話も同様、Wi-Fiも使えるようだ。
出かける前にこのパラドールを調べたところ、プールがありこの時期利用可となっていたので、チェックインの際確認してみた。「場所は崖の下です。裏口から行ってください。プールに受付があります」「水着のままプールへ行っていいか?」「OKです」「裸足でかまわないか?」「エッ?裸足ですか?」「アッ 8時にはクローズですよ」すでに7時を過ぎていたので泳ぐのは諦め、夕食までの時間潰しに近くまで行ってみようとして驚いた。裏口から崖下へ至る道はむき出しの岩場。こんなところをかなりの距離裸足で歩くことはとてもできない。フロントが「?」となったのはマナーではなく、「なんていうことを訪ねるんだ」の意だった。
夕食を摂ったレストランも眺望とそれらしいインテリアを楽しめる素晴らしいものだった。食事内容はまずまず、シェリー酒をここでも堪能した。

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(次回;スペイン新幹線AVE