2020年2月29日土曜日

今月の本棚-139(2020年2月分)



<今月読んだ本>
1)急降下爆撃(ハンス=ウルリヒ・ルーデル);キネマホビージャパン社
2)流言のメディア史(佐藤卓己);岩波書店(新書)
3)予測マシンの世紀(アジェイ・アグラワル他);早川書房
4)秘密資金の戦後政党史(名越健郎);新潮社(選書)
5)サムライ策敵機敵空母見ゆ!(安永弘);光人社(文庫)
6)<英国紳士>の生態学(新井潤美);講談社(学術文庫)

<愚評昧説>
1)急降下爆撃
-ドイツ軍人唯一の黄金柏葉ダイヤモンド剣付騎士十字章受賞者、戦車キラーの空戦記-

航空機によって敵の政治・経済・軍事の中枢を爆撃して機能を麻痺させ、戦争を早期に終わらせる。これが戦略爆撃思想であり、独立空軍創設の論拠である。しかし、“二階から目薬”の喩えそのもので、実効はなかなか上がらなかったのが現実、多数の一般市民も巻き込む無差別絨毯爆撃や原爆投下で辛うじて戦略爆撃論を糊塗したのが第2次世界大戦の爆撃機運用であった。しかし、戦術レベルではピンポイントで敵の軍事拠点や兵器を破壊する手段が無かったわけではない。急降下爆撃機がそれである。真珠湾攻撃で活躍した99式艦上爆撃機(愛知航空機)、ミッドウェー海戦で我が空母4隻を屠ったドウントレス(ダグラス)、それに本書で取り上げられるJu(ユンカース)-87スツーカ(Stuka;急降下爆撃機を表す一般名詞だが、Ju87を意味する固有名詞化した)などがそれらである。標的に向かって7085度、時には90度(垂直)で急降下、目標200~300m上空で投弾・ひき起こしを行うこの種の軍用機運用は戦闘機や爆撃機とは大きく異なり、搭乗員の選抜・育成には独特のものがある。ナチス空軍元帥ゲーリングは常日頃「急降下爆撃機乗りこそ最高の航空兵」と称え、そこに優秀な人材が集まるようにした。ドイツに依る電撃戦は戦車を中心とする装甲力が目立つが、Ju87を欠いてはあれだけの快進撃は不可能だった。本書は、ソ連戦艦・巡洋艦を沈め、単独で500台を超える戦車を血祭りにあげ、「ソ連人民最大の敵」として賞金がかけられたスツーカ乗りのエース、ドイツ軍人として唯一黄金柏葉剣ダイヤモンド付騎士十字章(彼のために新設された章とも言える)を受章したハンス=ウルリヒ・ルーデル大佐(最終)による戦記である。
ルーデルは1916年シュレージェン地方(現ポーランド、チェコ西部)で牧師の子として誕生、実科高校を卒業後士官養成の軍学校に入学、当初は歩兵として訓練を受け後に飛行科に転ずる。多くが戦闘機乗りを目指すが、上級士官候補生の時ゲーリングの謦咳に触れ急降下爆撃部隊入りする。しかし、ここで“変人(酒煙草をやらず、紅灯の街に仲間と繰り出すこともせず、専らスポーツに励む)”と見做され偵察部隊に出されてしまう。19399月のポーランド戦から19405月西方作戦終了時までは長距離偵察の任務に携わり、その後やっと急降下爆撃部隊に戻るがバトル・オブ・ブリテンでは転換訓練中、それに続くバルカン作戦でも一線に出る機会は与えられず、悶々とした日々を過ごす。チャンスがやってくるのは19416月の独ソ戦開戦。レニングラードの外港であるクロンシュタット軍港を母港とする戦艦マラートを中隊長僚機として攻撃、これを沈没させたことで上層部にその存在を認められる(騎士鉄十字章受章)。ここからモスクワ攻略、クリミヤ半島進出、スターリングラード攻防、クルスク戦車戦と一日平均10回出撃(最終的に2530回)、橋梁・操車場・舟艇・装甲列車・戦車・車両の破壊で目覚ましい戦績を重ねていく。この間何度も不時着、敵地からの必死の脱出行もある。また5回負傷し、19451月には右ひざ下を失うも不完全な義足で戦い続け、最後は統制力を失った本土防衛戦でも、前線の出撃要請に個別対応して飛ぶことをやめない。結局混乱の中米軍の捕虜となってルーデルの戦いは終わる。
内容は主に戦闘・戦場に関することだが、Ju87の技術的考察も実践面から行われる。初期の型は500kg(あるいは250kg×2)爆弾による急降下爆撃だが、これは戦車攻撃には効率が悪い(爆弾の数は少なく威力は大きすぎる)。そこで37mm機関砲を翼下に2基取り付けたものを開発する。これで戦車を後部から攻撃すると破壊数が一気に高まるのだが、飛行特性がまるで違い、機体・操縦士とも臨機応変に乗り分けることは出来ない。また鈍足のJu-87 では敵航空優勢下では損耗も増加、敗勢に転ずると急降下爆撃機よりは戦闘機の要素も兼ね備えた戦闘爆撃機でないと生き残れるチャンスがなくなってくる。急降下爆撃と言う戦術と専用機が消えていったのも納得できる時代の流れなのだ。著者が最後に乗っていたのはフォッケウルフ(Fw190戦闘爆撃機である。
これだけの勇士ゆえ、叙勲や昇進の際何度もヒトラーと会見する機会があり、時には単独面談もおこなわれる。本書の中でうかがえるのは、ヒトラーが一線で戦っている戦士に対してはきわめて謙虚に接している姿、裏を返せば真実を伝えない上級指揮官・参謀達への不信感である。このヒトラー観は読み方によってはヒトラー礼賛と受け取れる。本書(ドイツ版は1949年発刊)が1960年西ドイツ政府発布の「青少年有害図書頒布に関する法律」に抵触したのはそのあたりにあるのだろう。
本書には記されていないが、戦後ソ連は執拗に彼を“戦犯”として裁こうとするが、米英がそれを阻止、「強制収容所」には関わっていないとして無罪放免。ルーデルはアルゼンチンに渡り彼の地の航空工業に携わり、のちに西独に帰国1982年亡くなっている。

2)流言のメディア史
-何故ニュースの誤報・ねつ造が行われるのか?ネット情報があふれる中、受け手は如何に対処すべきか-

40歳位までメディア関係者に直接接する機会はなかった。しかし、工場の課長になり事故などの対応を通じて彼らを知ると少しずつ不信感が増していった。こちらの話したことが真逆に近い記事になることが起こったりするのだ。そんな時IT企業のセミナーで朝日の著名な科学記者出身で当時編集委員になっていたKSD氏と昼食で同席し取材内容と記事の関係について不満を述べたところ「誤りは正さなければいけないが、見解の相違は許してもらわないと・・・」とのコメントがあった。「“見解の相違”!なるほど都合の良い逃げ道だな~」とある意味感心させられ、それ以来メディア報道を自分なりにフィルターをかけて咀嚼するようになった。特に、自社ペースで騒ぎを大きくしたい特ダネには注意し、件の“慰安婦問題”は早くから朝日の報道を端から疑っていた。結果として“見解の相違”どころか完全な誤報であった(紙面では一応謝罪しているものの英語電子版では日本からアクセスできないようにしているなど心から反省などしていない)。
このようなニュースの誤報・改変・ねつ造は古今東西、言わばメディアの根源に在る資質であることを、メディア史を俯瞰して示し、記事内容の信憑性に幅のあるSNSやユーチューブに代表されるニューメディアをどのように捉え、如何に個々人が情報リテラシー向上に心掛けるべきかを提言するのが本書の内容である。ポイントは二つ、①流言(誤報)は如何に発生しどのように変質するか、②オールドメディアによるニューメディア批判は真っ当か。これらを歴史的な事例を題材に分析するのである。
最初に取り上げられるのは、19381030日(ハロウィンの夜)米国の放送番組がもととなった「火星人来襲パニック」、H.G.ウェルズ原作のラジオドラマ「宇宙戦争」を聴いた東部の市民がニュース報道と勘違いしたことから騒動が始まり、多くの人がパニックに襲われ、死者まで出たと報じられた事件である。有名な事件だったため、その後多くの研究が行われており、著者はそれらをつぶさに調べ、事実へ迫って行く。結論から言えばパニックなどほとんど起こっていなかったのだが、起こりそうな背景はいくつかはっきりしてくる。一つは、この番組(放送劇シリーズ)の人気が低く起死回生の一打を番組制作者・声優(オーソン・ウェルズ)が狙って実況放送に近いシナリオにしていたことがある(「これは事実ではありません」と言うタイミングまで考えて)。人気番組でないゆえにこの放送を始めから終わりまできちんと聴く人が少なかったことも(放送メディアの特性)、誤解のもととなっている。また、世相としてナチス勃興の恐怖感があり、直前にオーストリア併合が行われたことも外敵来襲を受け入れてしまう素地を作っていたとしている。さらに、新聞が事実確認をせず、噂話をそのまま記事にしたことから事態は拡大していった。その裏には放送に広告収入を奪われつつあった新聞業界の焦り・妬みも絡んでいたのだ。今ネットに広告を奪われつつあるオールドメディア(放送、新聞)が置かれた状況がそれに重なり、フェイクニュース流布の危険性を予見する。
我が国の古い事例としては192391日に起こった関東大震災直後の「朝鮮人虐殺事件」が取り上げられる。言論の自由を奪われ差別されていた朝鮮人の不満は日本人大衆にも常日頃感じ取られており、潜在的に彼らに対する警戒心を多くの人が持っていた。震災の混乱で信憑性の高い情報は欠如し、流言飛語が横行する。そんな環境下で「朝鮮人が井戸に毒を入れている」と言う話が拡散し、警察よりは自警団が早く動き、朝鮮人に対する暴行・殺人が行われることになる。ここには社会的に信頼されてきたメディアの存在は無く、ニュース源もそれによる行動も大衆の中から起こっている。つまり、メディアに扇動される以前に我々自身の中にフェイクニュースを作り上げ受け入れる素地があるわけである。ここからオールドメディアがニューメディアに置き換わることを礼賛する風潮に対して警告を発する。
一方で既得権を守りたいオールドメディアはニューメディアの到来を過度に警戒し、誹謗さえする。これを、“SNSが先に存在し活字文化が後からやってきた世界”を仮想して、以下のような小話をいくつも書き連ねて、オールドメディアの発する批判の矛盾を突く。
<書物は五感を鈍らせ、生活から活力を奪っている。色鮮やかで躍動感のあるディジタル映像の伝統に育まれた感性は、白黒だけの退屈な活字だけでは満足できない。脳全体をフル稼働させるディジタル文化に対して、読書中の言語処理で利用される脳領域はわずかであり、子どもたちは恐るべき“読書脳”になってしまう>
ニューメディア有害論のSNSと書物を入れ替えただけだが、至極真っ当な論と受け取れるのではなかろうか?つまり、ニューメディア有害論はメディアの世界では“万能薬”なのである。こうした議論の虚構性を見抜く眼識を養うためにメディア史観が必要なのだと。だからと言って、SNSが先進的で活字文化が遅れていると主張するわけではない。SNSを接続依存型コミュニケーション、活字文化を文脈依存型コミュニケーションの世界と分け、前者が情緒で動く情動社会に向かい民主主義の質的変化が生ずる可能性に言及する。
一見週刊誌的表題だが中身は濃い。“流言”の一言だけでも多角的に考察され、それを核にメディアの本質に迫ることが出来た。
著者は京都大学大学院教育学研究科教授。歴史学者でありメディア史、大衆文化論が専門。

3)予測マシンの世紀
-企業経営におけるAI活用事例、中身が薄い。主宰する経営大学院研究所のPR用?-

“経営決断にもっと数理を!”を発信する意図で本ブログを立ち上げたが、素材となる事例紹介(主に自身が関わったICTプロジェクト)を除くと、ほとんど関係がない記事を掲載する結果になっている。旅行記や読後感の方が圧倒的に受けているからである。それでも「雀百まで踊り忘れず」、最近(と言っても既に10年近く経過しているが)のICT最前線(特に、IoT・ビッグデータ・AI)にはどうしても眼が行き、本欄<今月の本棚>でも何冊も紹介してきた。決断と予測は不可分。新聞書評に“経済活動におけるAI活用の著書”とあったので、ブログの主旨とAIへの関心から読むことになった。
こういう書き方はあまりしないのだが、結論から言うと「たいした本ではない」(現役時代話題理解のために飛ばし読みした事例礼賛物と同種)。期待するところが大きかっただけに、厳しい断を下すことになった。とは言え経営者・管理者で最新ICT利用に関心が薄いながら話題のAIが経営にどう利用されているかをサラーッと学びたい人にとっては読みやすく入門書としてそれなりに役に立ちそうだ。
ここで取り上げられるAIは人間に代わる可能性を論じられる“汎用AI”ではなく、一部専門職の肩代わりや特定業務の意思決定を助ける“エキスパートシステム”と呼ばれるものである。銀行員の融資判定、クレジットカードの信用度、医療における臓器画像診断、顧客の嗜好性推論、患者の体質を考慮した投薬効果と副作用の可能性など既に実用段階に達している事例を援用しながら、経営や社会に対する影響を解説していく。
構成は、先ずAIの機械学習から入り、優れた専門家やビッグデータからAIが学び成長する過程を概説し、予測がどれだけ改善されて来ているかを説明する。次いで意思決定における予測の役割、決断・判断(結果として、見返り、効用、報酬、利益につながる)の質について論じ、そこでの問題点を洗い出す。これらを踏まえた上でAIが経営戦略に及ぼす大きさを訴え、最後にそれが社会にどのように関わってくるかを論述する。この展開で問題なのはいずれの段階でも同じ(ような)事例を引用点である。
私が特に不満に感じたのは、データ以上に学習アルゴリズムの重要性を強調しながら、そのアルゴリズムに関する解説が皆無に近いことにある(諸手法の紹介すらない)。多分これは著者ら(3人;数理専門家でない)がビジネススクールの教員だからだろう。
唯一評価できるのは各章の要旨を最後に個条書きでまとめていることである。これだけ読めば凡そ内容を理解できる。
読後にフッと感じたことに「一体全体この本は何のために掻かれたのだろう?」との疑問である(表向きはビジネスマン向け啓蒙書)。著者らはトロント大学経営大学院教授であるとともにその大学院に属する創造的破壊ラボ(CDL;委託研究・共同研究、起業家育成・支援など行う)の創設者であり運営者でもある。表向き以上にそのラボのPR材料の性格が強く臭うのである。

4)秘密資金の戦後政党史
-公開された米ソ外交文書が明かす各党への供与金。両国言語を解するジャーナリストの力作-

随筆の面白さを知ったのは、1964年朝日グラフで連載が始まった作曲家團伊玖磨の「パイプのけむり」を読んでからである。爾来朝日グラフが休刊となる200010月まで続いたそれが、単行本になると買い求め最終回「さようならパイプのけむり」まで全27巻を読み、育ちの良さからくる本物志向、要否・好悪の判断基準、自然との関わりなど、ここからいろんなことを学んだ。その一編に政治家について語ったものがあり、祖父である団琢磨が「彼らは乞食だ!」と言ったことが記されていた。政治がカネまみれであることは知っていたものの、“乞食 ”と言う表現にはいささかびっくりした。三井財閥の総帥であった琢磨の下にカネをせびりにきた政治家が、よほど卑しく見えたのだろう。本書はその政治家とカネをめぐる話、それも外国からの資金である。
著者は東京外大ロシア語科卒業後時事通信社に入社、モスクワ支局、ワシントン支局(いずれも支局長経験)に勤務後外信部長も務め、現在は拓殖大学教授。本書は博士論文として書かれたものを一般向けに書き改めたものである。
本書の骨子となる情報源は公開された米国公文書館資料およびソ連崩壊後主にエリツィン政権下で閲覧可能になった共産党書記局の外交関連文書である(プーチンになって閉鎖的になってきているらしい)。それぞれの文書内容は現役時代時事から新聞社に流されたり、著者が雑誌などに投稿したりして、一時話題になったものもあるが、長い期間を通し当時の全政党との関わりを一つにまとめたものは今回が初めてである。こうしてみると終戦直後から半世紀ほどの我が国政治とカネ、特に外国(米ソ、一時期これに中国が絡む)のそれとの関係が俯瞰でき、「こんなことになっていたのか!」と独立国にあるまじき状態に驚かされる。右も左もまるで国際乞食なのである(米ソ双方の文書に“せびる”と言う言葉が残っている)。現在中国マネーになびく後進国を揶揄する資格などないのだ。
先ず自民党(スタートは自由党)。占領政策の中で吉田政権にテコ入れが入る。この段階ではおねだりではなく、むしろ米国側が積極的に動いている。裏に存在するのはCIA関連組織である。やがて戦後復興がなってくると、安全保障絡みで日本側が支援を要請するようになる(特に選挙対策費として)。ここで名前が頻繁に出てくるのは岸・佐藤兄弟。この後になる池田政権も資金援助はあったものの幹事長の大平・三木が外国からの支援に表向き批判的だったので、外交文書上ほとんど話題になっていない。また少しでも“中立”の可能性をほのめかす首相あるいは首相候補には米国のカネは渡らない(石橋、三木など。ソ連と国交回復した鳩山)。
米国は占領開始時から社会民主主義的な政党の存在は許してきた。その流れから社会党から分かれた民社党にも一時米国の資金が渡っている。西尾末広が何度か駐日米大使(マッカーサー;元帥の甥)や館員(CIA?)と会っているが、非武装中立論者がメンバーに居たためそれほど深い関係は築けなかったようだ。
なお、CIAによる選挙支援工作は日本に限ったことではなく、西独のアデナウアー政権やイタリアの保守政党に対しても似たようなことが行われている。
米国の対日外交文書情報公開に最も注文をつけるのはCIAだが、日本の外務省も相当強硬で米国側が「内政干渉だ!」と憤っている様子も残されている。
本書が読み物として面白いのは何と言ってもソ連との関係である。戦前のコミンテルン(国際共産党)から戦後のコミンフォルム(国際共産主義運動)まで一貫して各国共産党を経済支援してきたことは広く認められている。日本共産党も戦前からこれらの活動に組み込まれていた。ソ連から各国へのカネの動きは中央委員会やKGBが統括しており、そこに残された資金要請書やKGBから中央委員会への報告書には野坂参三や袴田里見らの名前が散見できる。
これが大きく変わるのはフルシチョフがスターリン批判を行い中ソのイデオロギー対決が始まってからである。日本共産党が中国路線を選択したことで、ソ連は自陣への取り込み対象を社会党に切り替える。常に資金不足に悩まされていた社会党が渡りに船と乗っていくのだ。時期は1964年頃から、オリンピック開催を潮時に米国の自民党援助は打ち止めになるが、社会党とソ連の関係はここから深まって行くのである。ソ連の狙いは「日米離間」である。ソ連側のキーパーソンは党中央委員会国際部日本課長のコワレンコ。当時の社会党書記長成田知巳が対ソ貿易推進を要請する文書(1966年)などに宛先として名前が出てくる。社会党の息がかかった商社を友好商社として特別扱いを求める内容だが、この仕組みを利用して社会党へ政治資金が回るようにするのだ。これ以降ブレジネフ書記長下石橋委員長が同書記長に宛てた貿易関連文書など、ひたすらカネのためにソ連追従を行う社会党の姿が“これでもか”というほど示される。その中には、1972年選挙資金10万ドル援助を得た2週間後それまで四島一括返還を主張していたものが二島返還に変更した「北方領土問題に関する見解」を発表している。当に売国奴である。
著者は、このような状況を“我が国民主政治の発育不全”と総括し、マックス・ヴェーバーによる二種の政治家「政治のために生きる人」と「政治によって生きる人」のうちあまりにも後者が多いと慨嘆する。團琢磨の「乞食」がよく納得できた。
あとがきに、「本書の13は米露両国の公文書館などで入手した機密文書に基づく現代史の見直し」とある。双方の言葉を解し、その外交政策を我が国の戦後政治史に投射した点で、当にその通りの内容である。加えてこの調査過程で得た知見を著者独特の視点(例えば、米国の対日外交における社会党や共産党の見方、反対にソ連から見た日本の諸政党、米国による自民党主導部の人物評価、あるいは野坂参三の知られざる人物像;四重スパイ説;中・ソ・米・日)で考察してところにオリジナリティもある。ベースは昨年提出の博士学位申請論文とあるが、著者略歴に“博士”はない。是非取得してもらいたいものである。

5)サムライ策敵機敵空母見ゆ!
-地味な水上偵察機で艦隊の眼となり、数々の激戦を戦い抜いた下士官搭乗員からみた太平洋戦争-

私が工場勤務をしていた時代(1970年代後半)、まだあの戦争で戦った人たちが従業員の中に居た。ある晩そんな一人と宿直で一緒になり、戦場体験を聞くことになった。詳しい経歴は記憶にないが、旧制中学か実業学校から予科練に進み海軍の偵察機乗りになった人。任務は航法担当(全員一応操縦を学ぶが、卒業時専門が分かれる)。その時搭乗していた飛行機は零式3座水上偵察機(愛知航空機製)。フロート付きの機で大型艦(戦艦、巡洋艦)からカタパルトで発射され、7~8時間、洋上を哨戒・偵察するのだ。3座は前から操縦士・航法士・通信士兼銃手(写真撮影も任務)の順、偵察は全員で行う。民間機のように操縦士が一番上位ではなく、同期搭乗の場合は航法担当が機長となる。練習生時数学、天文学、気象学など多彩な分野に優れる成績をあげた航法担当が最も重責を担うと言うことのようだ。話で印象に残るのは洋上航法の難しさだ。「飛んでいると暗号で「われ機位を失えり」と言うような無線が入ってきたりするんですよ」と(艦から発する電波を検知する装置を具えているが電波封鎖があったりよく故障・機能低下もあった)。
著者は大正10年(1921年)生れ、太平洋戦争開戦2年前に予科練を卒業(昭和144月;1939年)、偵察機乗りとなり、零式3座水偵であの大戦を戦い抜き生き残ったベテラン戦士(平成29年没;2017年)、その戦記である。
卒業当時まだ零式3座水偵は存在しない。またいきなり軍艦に配属されるわけでもない。専門は航法ではなく操縦士(数学が苦手)。最初は鹿島、鎮海(韓国)と基地航空隊に錬成を兼ね勤務、当時主力だった複葉の94式水偵で、諸条件下での離水・着水・洋上回収、航法、偵察、緩降下爆撃、夜間飛行などの訓練を重ねていく。仮想敵は米艦隊だ。最初の艦隊配属は重巡羽黒(母港佐世保)。この時新型機として呉に受領に赴くのが零式三座水偵である。爾来終戦間近艦上偵察機彩雲に切り替わるまで、これが彼の相棒となる(損傷や事故で機は変わるが)。
開戦の年の3月重巡妙高に転属、開戦時この艦は連合艦隊第3艦隊に所属、比島作戦に投入され、艦隊周辺300浬の策敵と上陸部隊の上空哨戒を行う。この艦から終戦まで所属は重巡熊野、同筑摩と変わり階位も(最終特務少尉)昇進していくが、乗機と操縦士と言う役割は最後まで変わらない。参戦した戦いはスラバヤ沖海戦、珊瑚海海戦、ガダルカナル島争奪戦、最後の大きな戦いはレイテ沖海戦。これらへの参加がすべて所属艦から行われたわけではなく、たびたび戦場に近い水上機基地航空隊に長期分遣されている。それもありレイテ沖海戦では筑摩は撃沈されたものの著者ら飛行隊員は難を逃れている。
最前線で下級兵士(下士官)として最後まで戦った人だけに細部が臨場感をもって伝わってくる。特に水偵と言う特殊な軍用機運用(カタパルト発艦と洋上着水の難しさは陸上機の比ではない)のそれはあまり知られていないことだらけ、乗組員3人の選別・組合せ・人間関係も興味深い。第2次世界大戦以降消滅した機種だけに、ある意味歴史的価値さえ感じられる。
読んでいて痛みを感じたのは戦闘よりも軍隊組織における格差問題。予科練、予備学生、海軍兵学校、出身母体間にある種々の差別である。一人あるいは2~3人乗りの軍用機の運用技量は一目瞭然、経験豊富なものがより成果を上げるのだが、それが入れられず戦いを失うケースも起こってくる。また、ベテラン搭乗員が不足しているにも関わらず、まだ30歳代の少佐・中佐が飛行を全く行わず指揮だけ執ることも戦意に大きく影響している(因みに米海軍はこのクラスの搭乗員が多かった)。責任はともかく、最も酷使されたのは経験豊かな下士官。レイテでは血尿、最後は初期の肺結核症状が出ても飛ばざるを得ない。“専門家をそれなりに扱う体制がない(ゼネラリスト優位)”、いまだに残る日本社会全体の問題点でもある。

6)<英国紳士>の生態学
-文学・芸術から読み取る英国階級制度におけるロウアー・ミドルの内実-

68歳でビジネスマン人生を終え、長年の夢だったOROperations Research;軍事作戦に適用された応用数学の一種)歴史研究のため渡英した。それに先立ちその分野の第一人者(経営学部教授)に「師事したい」旨メールしたところ大学から願書が送られてきた。概ね問題なく記載できたのだが“Name of Address”がよく分からないので記載要領を子細に当たってみると、SirLady)、ProfessorDoctorDr)、MisterMr)のいずれの敬称を使うべきかを問うものであった。英国留学経験者から彼の国における階級制度のややこしさは聞いていたものの、いきなりそれに近い世界を突き付けられ、穏やかならざる心境になりながら最下層のMrと書き込んだ。本書は近現代における階級問題を主に階級制度研究や文学作品を基に、日本人に理解できるよう解説したものである。
著者がこのような本を書くことになったのはその経歴と深くかかわるので、その略歴から紹介しよう。生年は1961年。父親の仕事の関係で香港・オランダ・英国・日本で教育を受けている。特に本書と深くかかわるのは英国における中高教育。両親はオランダに居住しながら著者は13歳の誕生日前に単身英国に赴き、ウェールズに近い、既にその当時英国でも珍しくなってきていた古風な「お嬢さん学校」に入学、寄宿舎生活を始める。ここで礼儀作法、テ-ブルマナーをはじめ服装・髪形、話し方(上流社会用語を含む)等を厳しく躾けられる。やがて両親も英国に移るとロンドンクロイドン地区に在る別の私立学校に転校、ここでは通学生となる。さらに自宅の引っ越しでロンドン市内の私立女子校に移る。この3校(いずれも日本で言う中高一貫校)に学んだ体験から、最初と最後は比較的教育内容に共通性があり、中間の学校がそれらと顕著に違うことがら、前2校がアッパー・ミドルクラス向け、中の学校がロウアー・ミドルクラス対象であることに気づく。その体験を生かすべく大学(国際基督教大学)では英国階級制度に焦点を合わせ修士課程まで英文学を学び、さらに東大大学院でその研究を深めて学術博士号を取得、いくつかの私大教官を務めたのち、現在は東大大学院人文社会系研究科英文学科教授となっている。
本書でクローズアップされる階級はロウアー・ミドル。私がそれまで聞かされていたクラス分けは;アッパー、アッパー・ミドル、ミドル・ミドル、ロウアー・ミドル。ワーキングである。本書の中でも時々このクラス分けが出てくるが、読んでいると、アッパーとアッパー・ミドルがほぼ同じ範疇、ミドル・ミドルとロウアー・ミドルはロウアー・ミドルとして括られ、その下にワーキングが来る、3階級制にとれる。つまりビジネスマンや自営業の大半はロウアー・ミドルとして扱われている(サッチャーやブレアさえこのクラス。我が国上場会社の役員でもオーナーでなければ概ねこのクラスと言う感じである)。
本書の内容は、ロウアー・ミドルを中心に据え上下のクラスとの違いが通奏低音のように語られるが、ポイントはアッパー(アッパーとアッパー・ミドルを含む)に近づこうとするロウアー・ミドルの外見だけの軽薄さ・虚栄に対するアッパー(時にはワーキングからの)の嘲笑・憐憫、ロウアー自身のそのような言動・生活に対する自嘲あるいはアッパーに対する恨み・つらみを、文学作品やノンフィクションなどを援用し、どんな壁があり、その壁は時間とともにどのように変容していったか辿るものである。
取り上げられる題材は、職業・肩書、教育・学校、アクセント、ファッション、居住地、家、食べ物、芸術・文学への関心と嗜好、休暇の過ごし方と場所と多彩。「何とか外見だけでもアッパー風に」の具体例がいくつも紹介され、時には身につまされる。日本人によく見られる一点豪華主義、ブランド志向ほどアッパーから(時にはワーキングクラスからも)揶揄され皮肉られる対象だからだ。例えば、ほとんどの都会人が住むちまちました(あるいは小洒落た)郊外の戸建て住宅やブランド物の外車、いかにもそれらしい地名や建物の名称などがそれらだ。
英文学の専門家、ときに英語と日本語の違いを話題にするのも面白い。上例の“郊外”。同じような山林・田畑を開発した新興住宅地でも、ある人は、謙遜して「私は通勤に時間のかかる田舎(Country)に住んでいます」と言い、もう一人は誇らし気に「私は環境が良い郊外(Suburbs)に住んでいます」と答える。英国人の受け取り方は“田舎住まい”をアッパー人種(Gentleman)と解し、“郊外居住者(Suburban)”は間違いなくロウアーなのである。オックスフォード英語辞典のSuburbanの項には「郊外の住民の特徴と言える、劣ったマナー、狭い視野を持つこと」と記されている(因みに米語ではこのような解釈は無い)。
英国人との会話、英文学は日本人のみならず外国人にとって、この階級に関する知見を確り身に付けないと、発言者・著者の意とするところ(ユーモア、皮肉など)が正確に解せないことが多々あるようだ。当然だが、英国人自身がこの階級意識に感じやすく、それに関する著書は多い(本書に数多く引用されている。例えば、Upper)用語とNotU用語比較集)のでそこから学ぶことは比較的容易、ノーベル文学賞受賞者のカズオ・イシグロは一度も本物の執事に会うことなく「日の名残り」(執事がアッパーと誤解される場面がある)を書いている。これから英国と関わる人には“英国社会入門”の書として本書をお薦めしたい。

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2020年1月31日金曜日

今月の本棚-138(2020年1月分)



<今月読んだ本>
1)あの映画に、この鉄道(川本三郎);キネマ旬報社
2)地名崩壊(今尾恵介);KADOKAWA(新書)
3)絵を見る技術(秋田麻早子);朝日出版社
4)ドリーム・マシーン(リチャード・ウィッテル);鳥彩社
5)負ける建築(隈研吾);岩波書店(文庫)
6)上野新論(五十嵐泰正);せりか書房

<愚評昧説>
1)あの映画に、この鉄道
-興味深いタイトルだが主役・脇役が不明確であぶはち取らず-

9月の硬膜下血腫(脳出血の一種)で最大の趣味であった長距離ドライブをやめることにした。まだまだ走りたい所は多々あるのだが、1月末(本日)で運転免許証返納、クルマも処分した。もう一つ長く(10年)楽しんできた東宝の「午前10時の映画祭(名画)」もこの3月で終了する。映画は中学生時代から大学卒業まで二本立て洋画を中心に小遣いがあれば観てきた。同時に二つの楽しみが消えてしまうのだから、出来るだけ早くそれらに代わるものを探さなければならない。乗り物はクルマから鉄道に変えようと思っていた矢先、映画とそれを結びつける本書を見つけた。“鴨が葱を背負ってきた”のだから食いつかないわけにはいかない。
著者は私より若干若く、多くの賞を受賞している文藝・映画評論家。 “ロードショウが150円だったころ”を読んでおり、同世代として観てきた映画も重なることが期待できた。
取り上げられた作品は北海道から九州まで272(重複あり)本、すべて邦画、それも戦後の国鉄(JR)に集中する。作品数が最も多いのは中部地方で64本、少ないのは四国の13本だが東京は1本もないし京阪神も9本と少ない(ここだけは阪急、京阪、京都市電、阪堺線と非国鉄が目立つ)。都会の鉄道は絵にならないと言うことであろう。何と言っても多いのは“寅さんシリーズ”全地方に登場するが柴又は出てこない。次いで松本清張作品が広く取り上げられている(点と線、砂の器など)。山田洋次監督は知る人ぞ知る鉄チャン、考証にかなり凝っていることが本書を通じて分かるし、清張はトリック・謎解きに鉄道をふんだんに使っている。
本書の内容は、映画の一シーンと鉄道を絡めて語るのだが、描き方は必ずしも作品と鉄道を一対一としてまとめる形式ではない。ある路線を語りながらいく本かの作品を紹介することもあれば、車両、駅舎やプラットフォームの今昔を比較して撮影の苦労話を披歴したりする(往時の駅舎に近いものを探し出し、駅名表示板などを一時的に置き換える)。時には著者自身がそこへ出かけ現場検証をした上でまとめた話もある。つまり、一話一話が異なる視点で語られることと地域で区分したため、読み切りエッセイとしては面白いのだが、切り取られた場面だけでは筋が理解できず鉄道の果たす重みも分からない中途半端な状態に置かれ、映画も鉄道も今一つ印象が薄くなる。さらに不満だったのは鉄道主役の映画が一本もないことである。これは洋画だが、パリから撤退するナチスが名画を奪いそれを特別列車でドイツに持ち帰るのを阻止する“大列車作戦”のような痛快な鉄道作品が邦画には無かったのだろうか?(“点と線”は何度か取り上げられているが話が地方々々でぶつ切りになっていて“鉄道主役”として浮かび上がってこない)。全体を路線別か映画別にまとめた方が良かったのではないか?そんな疑問も起こり“二兎を追う者は一兎をも得ず”の感が拭えなかった。
それでも日本全国を網羅しているので、これからの鉄道旅行に参考にはなりそうである(封切時以降廃線になっているものも多いが)。

2)地名崩壊
-歴史を抹殺する行政、商売最優先の鉄道会社と不動産屋。こうして地名は消えてゆく-

初めて自分の家を持ったのは横須賀市ハイランド町、確かに丘陵地帯を均して作られた造成地だからそれほど見当違いの地名ではないが、何か安っぽく気恥ずかしい名前だった。英国の友人に手紙を出す際はHighlandとせずHairandoと記した。何故ならばHighlandはスコットランド北部一地方の呼称だからである。本書によればカタカナ地名の始まりはたまプラーザ(スペイン語;広場)にあるらしい。現住所は能見台、これも電鉄会社が駅名まで変えて売り出した造成地だ。また本籍地は兵庫県たつの市だが親に教えられたのは龍野、その後竜野となりさらにひらがなのたつのに改まって現在に至る。これは当用漢字適用と平成の大合併の結果である(合併される周辺の町村に配慮)。本書によれば、最寄り駅姫新線本竜野駅の地番はたつの市龍野町であるとのこと。卒業した小学校は台東区立黒門小学校、在校当時の地番は黒門町だったが今は上野一丁目に変わっている。旧町名は因州池田家江戸藩邸の門(黒門)が上野公園内(現国立博物館の一画)に移設されたことに因む。昭和30年代から始まった全国規模の地番整理で、門と学校名は現存するが、黒門町の親分(伝七捕り物帖)や黒門町の師匠(8代目桂文楽)と代名詞になるくらい知られた地名は消えてしまった。
本書はこのようなカタカナ名(キラキラ名)の氾濫や地形あるいは歴史に基づく本来の地名が行政や商売(不動産業)の都合で名付けられたり無味乾燥なものに改変されたりしている経緯・背景を探り、「これで良いのか?」と問うものである。
だからと言って、最近はやりの軽薄な地名付けを難ずるような内容ばかりと言うわけではない。民俗学者柳田國男の「地名は二人以上の人の間に共同に使用せらるる符号である。俗物がなるほどと合点するだけ十分に自然なものでなくてはならぬ」から説き起こし、我が国地名の起源と変遷を広く深く辿る。地理・自然の特質から始まり、産物や職業におよぶそれは当に地名入門であり、数々の事例は俗人である私に「なるほど」「そうなのか」と納得させられるものばかりだ。例えは、大曲(おおまがり);秋田県大曲市(現大仙市;雄物川)、文京区大曲(神田川)、いずれも川の蛇行部に在る。赤坂は赤茶けた土の傾斜地からきており、都心ばかりでなく高崎市、越前市、福山市などで同名の地番が使われている。職業で知名度抜群なのは何と言っても銀座、その近くには木挽町(製材)、鍛冶町、具足町、紺屋町(染色)も在った。しかし今では皆銀座X丁目、京橋Y丁目として括られてしまっている。銀座など本来の地域が現在では12倍まで拡大しているのである。ただし、これは不動産屋や鉄道会社の浅ましいブランド志向命名とは異なり、大震災や戦災後の区画整理、住居表示法(昭和37年)により歴史に残る名が消えていったのである。つまり上から(行政)の改名である。
新開地・造成地命名で中心になったのは鉄道会社と不動産屋である。白金台、駿河台などは台地にある古くからの住宅地で山の手イメージが強い。高度成長期雨後の筍のように各地にXX台が出現、ほぼ同義のYYヶ丘と双璧を成す。さらに、田舎臭い“ZZ新田”などをつぶしていくのである。究極はカタカナ名、たまプラーザ(五島昇東急電鉄社長がじきじきに命名)、旧名は元石川町であるが、田園都市線沿線では旧来の小字(こあざ;明治期地番制定の最小単位)はほとんど残っていない(地名ジェノサイド;虐殺)。直近の悪例は山手線の新駅高輪ゲートウェイ、若者に「ダサい」と言われるのももっともだ。著者が“崩壊”を難じるのはこの手の地名変更である。星野リゾート社長が「福島」を改名すべきと主張しているのも地名ブランド化の一環と見ていいだろう。「福島」のままではインバウンド客が来なくなると(この人の商法にはこれに限らず、何かあざとさがつきまとう)。
明治初期に発足した地番命名法、同じ文字の読み方の地域に依る違い(谷;関東ではヤ;渋谷、四ツ谷、入谷、関西ではタニ;梅ヶ谷、大谷、六十谷(ムソタ))、震災・戦災の影響、昭和の大合併、平成の大合併(政令都市の増加を含む)による地名の変化、鉄道の駅名と地名の関係、諸外国の地名とその変遷、最近の旧名回復活動など、地名に関する雑学知識満載、“崩壊”は忌々しきことだが、歩んできた人生と地名が身近なものになった。
著者は在野の地理研究家。地図、鉄道に関する著書多数。

3)絵を見る技術
-絵画鑑賞入門(技術編);名画はどのように構成されているか-

3年前補聴器をつけ出してから音程がどうもおかしい。時間とともに悪化し楽しみだった東フィルの定期演奏会会員も2年前退会した。興味のある芸術分野で残るのは絵画鑑賞だけ、絵を見るのは好きで、現役時代は海外出張などで機会があれば名画を求めて美術館を訪れていたし、なん点か版画・油絵を中心に作品も購入して飾っている。しかし、私の絵画鑑賞はただ順路に従い観るだけ(最近はイヤフォーンガイドを利用することが多いが)、有名作品の前でしばし足を止め「ア~見た見た」、あとは好きか嫌いかで終わっていた。鑑賞と言うより体験で留まっていることにいささか負い目を感じ、少し絵画鑑賞の基礎を学びたいと本書を手にした。
本書の読後感を一言で表せば「目から鱗が落ちる」である。「一体全体今まで何を見ていたのだろう?」の反省しきり(二度と見ることの出来ない作品が多い)。遅れ馳せながら展覧会に出かける心構えから学んだ。
本書は6章構成になっている。序章で投げかけられる課題は「見た絵を言葉で説明せよ」、言葉で語ることの重要性を教えられる。第1章は絵の主役(静物や風景では主題)がどう描かれるか。第2章は人の目をとらえて放さない画家の創意工夫、第3章はバランスの重要性、第4章は色の選択や色調、第5章は構図そして第6章は全体の統一感と学んだことの総合演習。いずれもが時代や流派によって違いがあることも解説される。当に絵画鑑賞の教科書である。
例えば主役;主役は必ずしも中央に位置したり大きく描かれるわけではない。光のコントラストや人々の視線、遠近法あるいは脇役たちの身体の動きなどで作り上げられたリーディングライン(指向線)が結ぶ点(フォーカルポイント)に在る。指向線をはっきり認識できることが鑑賞者に求められるし、それが曖昧な絵は名画とは言えない。第1章ではこの指向線のとらえ方をいくつもの事例で教えてくれる。
例えば画家の創意工夫;狙いは主役にあるものの画家は全体も見てもらいたいと思って描く。一方人間の眼は角や端を見よとする傾向があるので、目線が画面全体にまんべんなく動くよう角や端には陰影などで眼が留まらぬように工夫したり、目の動きを誘うリーディングラインが隠されている。このラインは周回方式、ジグザグ方式、放射方式などあり、「絵の見方を知っている」とはこの「経路を分かること」と同義だと、アイトラッカーと言う目線を追う装置で、普通の学生と美術の専門教育を受けた人の違いを図示する。確かに普通の学生は主役に集中している。
例えばバランス;これはが取れているかどうかは名画の絶対条件としたうえで、縦・横・斜めあるいはカーブする構造線があることを先ず述べ、シーソーや天秤を例にバランスについて語る。ここでは大きさばかりでなく陰影や色も影響することが名画の事例で示され「言われてみれば確かに・・・」となる。
色の話が面白い。原料の違いから色によって絵具の値段が大きく異なっていたのだ。特に青が高かった。ウルトラマリンと言われる色の原料は貴石を砕いて粉末にしたもの。価格は金と等価だったのでむやみに使うことが出来ない。だから青は限られたところ(例えば聖母マリアの衣服の一部)にしか用いられていないのだ。その点でフェルメールの「真珠の首飾りの少女」は頭巾に青と金色に近い黄を大量に使っており当時はそれだけで極めて高貴な雰囲気を醸し出していたのである。また当時の絵具は変質しやすかったので、残された文献などに基づいて修復すると印象が修復前と大きく違ってくることもある。
タイトルにもあるようにこれは“技術”的視点からの鑑賞法である。当然描かれた時代やテーマを歴史や宗教の角度から考察するための知識が必要なことは言うまでもない。
「絵画は理屈ではない」との声も聞こえてきそうだが、著者は「好き嫌いを感じることと造形が成功しているか否かを理解することは別」と述べ、それを踏まえて「作品の客観的な特徴を理解できるようになろう」と結ぶ。私にとって、これからの絵画鑑賞が今までとは異なってくるのは確かだし楽しみだ。
著者は米国テキサス大学オースティン校美術史学科メドポタミア美術専攻修士。名画鑑賞に関する啓蒙活動(セミナー、執筆)が主務のようである。

4)ドリーム・マシーン
-画期的航空機オスプレイ(みさご)はフェニックス(不死鳥)だった。半世紀を超すその道のり-

海兵隊はスペインが起源、水兵とは別兵種で敵船に乗り移ったり、敵地・未開地に強襲をかけ橋頭堡を確保したりするのが役目だった。世界最強を謳われる米海兵隊も当初の役割はカリブ海や太平洋における米植民地獲得の先兵。これが本土防衛の任務を負わない外征専門部隊として独特の位置を占め、海軍省の管轄下に在りながらやがて独立軍種となり現在に至る。この海兵隊が広く米国民に存在意義を認められるのは何と言っても太平洋戦争における島嶼上陸作戦、硫黄島のスリバチ山に打ち立てられる星条旗は今でもその象徴である。しかし、兵器の進歩や戦争形態の変化は大規模な上陸作戦の機会を著しく減ずる方向にある。敵前上陸が無ければ陸軍と何も変わらない。幾度となくくりかえされてきた陸軍への統合案がヴェトナム戦争以降喧しくなる。これに抗すべくヴェトナム戦争の戦訓も踏まえ、海兵隊は新たな主務を、海上遥か遠くから内陸部へ一気に攻め入る敵地侵攻策に求めた。空挺では兵力が分散する。ヘリコプターでは爆音が大きく、速度も遅いため敵に感知され撃墜される確率が高い。新戦術教義(ドクトリン)に合致する新しい兵器を探る内に見えてきたのがティルトローター式航空機である。ティルト(Tilt)とは「傾斜、傾ける」の意。ローター(Rotor)は回転翼。つまり、ヘリコプターのように垂直に離着陸でき、そのローターを90度傾けるとプロペラ機に変じる画期的な航空機。そんなものは実現するはずはない!ドリーム・マシーンだ!しかし長い時間と幾多の苦難を乗り越えて、その夢がかなったのである。オスプレイとして。本書は、前史としてオートジャイロやヘリコプターの誕生から説き起こし、初期のティルトローター実験機を経てオスプレイが制式採用されるまでの長い長~い物語である(70年、7百頁超)。
本書の訳者は陸上自衛隊補給統制本部でオスプレイ導入に関係した人(整備関係、最近退役)。米国におけるオスプレイ・プロジェクトの中核であったNAVAIR(米海軍システム・コマンド)と密に関わり“必読の書”と言われて本書を訳出した。我が国ではメディアを中心にオスプレイのネガティヴな面ばかりが強調されているが、2000年代の米国におけるオスプレイ開発トラブルをなぞっているだけだ。確かに、技術的に難しい挑戦で、30名の犠牲者を出しているが、安全問題は原書出版(2010年)前に解決し、既に制式採用・量産され実戦にも投入されている画期的な兵器、問題にするならば別の角度から行うべきだ。海兵隊と陸自は同じ作戦を行うことがあるのか(水陸機動団の任務は似ているが領土内なら長大な航続距離(巡航で4400km)は不要なのではないか)?それに11億ドル(100億円、最新のジェット戦闘機とほぼ等価)を投ずる必要があるのか?と言うような視点からである。試作段階はともかく、制式採用後の事故率はヘリコプターを含め最新の軍用機と大差はないのである。
ティルトローター機開発の嚆矢は1951NACA(のちのNASA)と空軍の仕様に従ってベル航空機会社(以下ベル)が製作した実験機XV-3である。これは2機製作され、1機は大破したものの1960年代まで実験が続けられる。しばらく中断の後1973NASAと陸軍は2座のXV-15 開発をベルに発注、これは1980年進空、1981年のパリ航空ショウでデモフライトを行い注目され、海兵隊が新ドクトリンに相応しいと関心を示す。強力な後ろ盾はレーマン海軍長官(38歳、予備士官として艦上攻撃機A6イントルーダの航法・爆撃手の経験あり)。(4軍)統合次期先進垂直離着陸機JVX開発がスタートする。要求仕様は、巡航速度250ノット(460kmh)、最高速度300ノット(560kmh)、輸送量は完全武装の兵士24名、無給油での航続距離2400マイル(4400km)、4軍の異なる10種の任務に対応できること、寸法の制約は強襲揚陸艦のエレヴェータに乗ること。全体計画は陸軍主管だがプロジェクト推進の中核は海軍のNAVAIRが担う。調達予定数:陸軍288機、海軍50機、空軍200機、海兵隊552機。見積りは400億ドルに達するビッグプロジェクトだ。1983年基本設計の応札が行われボーイング・バートルとベルのジョイントヴェンチャー(JV)が選ばれ、1985年設計をパスした機は試作番号XV-22 を与えられ、レーマン長官がオスプレイ(みさご)と命名する。
本書の読みどころは、1985年の試作機開発開始から2005年制式採用(実験の意であるXが取れてV-22 となる)量産、2006年の運用部隊創設までの20年間、政治と軍産複合体それにメディアが絡む魑魅魍魎の世界である。JVからくる設計製造上の齟齬、党派を超えた推進派と反対派の戦い(もともとレーガン政権下でゴーサインがでるのだが、ブッシュ父政権下でチェイニー国防長官が反対、民主党のクリントン政権が誕生すると推進派が再起)、軍部の主導権争い(主管部門の陸軍は途中で下りる)、政権・軍部の国防政策の違い(特に財政と予算の分捕り合い)、各評価段階における担当者・部門の見解、それに影響する試作・試験段階の事故(特に大きい三つの事故を詳細に解説する)。驚くのは海兵隊の政治力である。実戦以上にタフなのだ。何度も存亡の危機を乗り越えてきただけのことがある。オスプレイ(みさご)よりはフェニックス(不死鳥)が相応しい。
著者はダラス・モーニングスター紙のベテラン軍事関連記者。本書の執筆に4年を要し、インタヴューした人の数は200人以上、文献目録は7頁におよび綿密な取材活動がうかがえる。そこから書かれた内容は、オスプレイを技術や用法だけでなく全方位的に理解するのにこれに勝る著書は無いのではないかと思わせる充実したものであった。またアイゼンハワー大統領が退任時に警告した軍産複合体の暗部を具体的に知る点においても適材である。

5)負ける建築
-成熟社会における建築家は如何にあるべきか?自問自答する時代の寵児-

工学部でも建築学科だけは“工学”が付かない。彼らはそれを誇りにすらしている。伝聞によれば「我々は技術者ではなく芸術家なのだ(そこには一段と技術者を見下す芸術至上主義が感じられる)」と。友人・知人に建築学科の卒業生は何人も居るのだが皆構造専攻でデザインを生業としている者は皆無だ。それ故に建築デザインの何たるか、見所は何処かを深く知る機会はなかった。病により自動車運転の楽しみを断たれ、聴力低下で音楽鑑賞をあきらめた身として、絵画や建築に興味を向けてみようと本書を手に取った。新国立競技場を完成させ今や我が国建築家の頂点に立った著者だからであり、一度だけこの人の設計になる温泉旅館に宿泊する機会があったからである。
タイトルの“負ける”が気になる。あとがきによれば勝ち負けの負けではなく「えばっていない建築」の意であり、“えばった建築家”“ふんぞり返った建築家”を批判する意図で採用したと書かれている。内容はまさにその通りで、丹下健三や磯崎新を始め、はてはル・コルビュジェまで著名建築家の数々を俎上に上げて自己の建築哲学を披歴するとともに、戦後我が国建築史の面も兼ね備え、さらにこれがマクロ経済政策と密接に関連付けられ、ただの芸術論に終わらなかったところはさすがだ。
内容の骨子は世代論である。第一世代(戦後の復興期)、代表的な建築家は;丹下健三、前川國男、村野藤吾、第二世代(高度成長期、黄金時代);槇文彦、磯崎新、黒川紀章、第三世代(バブル崩壊まで);安藤忠雄、伊東豊雄、そして第四世代がバブル崩壊後の著者らの世代となる。
建築家の主流はモニュメントあるいはランドマークとなる大型建造物など、大半は公的施設の設計者である。バブル崩壊前までは巨額の公共投資が行われ経済成長の要に土建業があった。ある意味建築が日本経済を牽引していたとも言える。そこでは政治とこの業界に受け入れられる者がチャンスをつかむ。建設された記念碑的な建造物は国際的にも注目を浴び、我が国建築家の評価も高まり、海外でのビジネスチャンスも増える。一方で、ここには利用者や周辺環境(自然、住民を含む)への配慮を欠く傾向が強く見られる、と第一、第二世代の代表的な建築家の活動を具体的に追いながら、彼等の姿勢や思想に批判を加える。ここでは、欧米の建築変遷史との関係も取り上げられ、彼等に影響を与えたル・コルビュジェやフランク・ロイド・ライト等の作品や言動が援用される。要するに海外の著名な建築家は何度も壁にぶつかり、軌道修正を重ねながら名声を確立して行ったが、我が国の第一・第二世代は時代に恵まれ、苦労を知らない(社会における建築のあるべき姿を自身でとことん考え抜いていない)と。
第三世代は第一・第二世代への反逆者、在野でユニークな建築に挑むが、まだバブルの余韻が残り、世間や業界に評価される建物を作り、名を成すことが出来た。そして主流になると前世代と同じような軌跡をたどるようになる。しかし、バブル崩壊後やっと一人前になった第4世代には、その機会は著しく減じられている。もうケインズ経済論はそぐわない。建築が経済の中心となる時代は来ない。ではとどうすればいいのか?民間の建造物、個人住宅、あるいは既存建造物のリノヴェ-ションに、利用者や周辺住民の考え方・要求、自然や街の環境との整合性を積極的に配慮した建築・建築家を目指すべきではないか。今の自分の仕事の大半はその種のものだし、それはとてもやりがいのある仕事だ、と結ぶ。
一見真っ当な結論だし、私も一応納得した。本書の単行本発刊は2004年、文庫本は昨年だが、中身は15年以上前のこと。今や東大建築学科教授で何かと問題になり再公募された新国立競技場の設計者、かつての丹下健三と同じ立場にある。果たしてこれから本書の結言のように生きられるかどうか、興味津々である。
蛇足:私の泊った旅館は山形銀山温泉の藤屋旅館。銀山川の両岸に古い日本家屋の旅館が軒を連ねる。川の一番奥には能登屋と言う木造4階建ての旅館があり、朝ドラマの“おしん”にも登場している。藤屋も著者の設計になる3階建てのモダンな建屋に変わるまでは、多と同じような建物だった。「街の調和を乱す」と反対運動もあったようだが、何とか新築が叶った。私見では、一軒だけ違和感はあるものの、まずまず調和させる努力は認められた。しかし、後で知るのだが私が泊った時(2010年)既にここは経営破綻し、オーナーは変わっていた。外だけでも他と同じようにしていれば倒産は免れたかもしれない。

6)上野新論
-今やエスニックタウンに転じたアメ横、ここから新しい繁華街の在り方が見えてくる-

「お国(あるいはご出身地)はどちらですか?」と問われるとしばし返答に窮する。出生地は満洲、本籍は兵庫県たつの市、就学時長く住んでいたのは千葉県松戸市だが学校は小学校から大学まで東京都心部。入社時新入社員紹介の社内報に本籍の兵庫県が記載されると県人会からお誘いが来たが、住んだことがないので丁重にお断りした。ふるさとに近い感覚は小学校から高校まで通った上野・御徒町界隈である。
本書は1974年生まれの都市社会学/地域社会学の研究者(筑波大学大学院人文科学科准教授)が2001年から行ってきたその地域に関するフィールドワーク研究を一般向けに書き改めたものである。新聞書評の片隅に本書を見つけ、知られざる郷土史を学ぶような思いで本書を手に取った。
凡その研究対象エリアは、北は東京国立博物館の前の通り、南は上野広小路から東大方面へ向かう春日通り、西は動物園から公園内西端を広小路方面に向かうライン、東は昭和通り、に囲まれた南北に長い変形逆台形の一帯である。この中に、寛永寺、国立博物館、科学博物館、都立美術館、国立西洋美術館、文化会館、動物園、西郷像、鈴本演芸場、広小路、アメ横が収まっている。基本的に江戸時代の寛永寺門前町である。門前に至る道路は今の中央通り。
何故ここを研究対象に選んだのか?理由は二つ。第一は、江戸時代からの繁華街として長い歴史があり、現在も“下町(したまち)”として浅草と並んで最も知られていること。第二は、商店街としては極めてユニークな“アメ横”が存在することである(このユニークさを浮き立たせるのが研究の胆)。下町とは何か?アメ横の誕生と変遷はいかに?そして旧来からの老舗とアメ横の関係は?さらに、山の上の文化・文教(枠内からは外れるが国立博物館に隣接して東京芸大が在る)地域と山下の猥雑な商業地区との関係は?研究実務面でのゴールは、山の上に集まる人々を繁華街に取り込むための策を探ることである(本書の段階でそれが明確化に示されているわけではない)。
山の施設群への入場者数は記録が公開される所だけで2016年度1200万人(ワシントンDCのモールは2700万人)、非公開の文化会館や上野の森美術館もあるのでこの数をはるかに上回る人々が上野を訪れているのだ。また花見シーズンにはこれとは別に1週間で200万人程度が公園にやってくる。しかし、商業地区まで足を延ばす人はそれほど多くない。この理由はいくつかある。先ず、文化地区と商業地区を訪れる人の“人種”が違うこと。上野駅の果たす役割の変化;かつては東北・上信越・北陸方面の玄関口であったが、新幹線の始発・終着駅が東京駅に変わり、さらに東京上野ラインの開通でここがターミナル駅としての機能を失ったこと。都を始めとする上からの“下町”売り込み策が必ずしも地元商店街の現状や考えと一致していないこと。更に特色のある古くからの店が風俗業や量販店などに依って駆逐され、オーナーが不動産管理業(貸店舗業)などに転じていること、などが挙げられる。結果として商業地区の下町としての魅力が減じているのだ。その点で浅草は依然として歴史のある店舗が頑張っており、外からの人が期待する“下町”らしさを留めている。また対象エリア外北西に位置する谷中・根津・千駄木は戦災をまぬがれ、本来繁華街ではなかったにもかかわらず、古い街並みを残しているので今や人気の観光スポットになっている。この点でも“下町”として周辺に負けているのだ。
しかし、この劣勢を大逆転する可能性を秘めているのがアメ横ではないか、と言うのが著者の仮説である。キーは“多様化(Diversification)”。小学校時代からアメ横は馴染みの場所だが、本書で終戦直前から今日に至る変遷をきちんと整理、あらためてこの地の特殊性を教えられた。
戦前ここは零細な商店や民家が占めていたが、ガード下に国鉄の変電施設が在ったため、空襲に依る火災でその施設に害がおよばぬよう強制立ち退きさせられ更地になっていた。ここに戦災で家を失った人や行先の無い復員軍人たちがバラックを建て商売を始めた。いわゆるヤミ市である。そこには当時第三国人と呼ばれていた旧植民地出身者(朝鮮・台湾・中国)も含まれていた。甘味料が不足していた時代、よく売れたのが芋飴、やがて菓子問屋の街に変じていく。“アメ横”は芋アメが起源である。その後朝鮮戦争で米軍の放出品を扱う店が増え、飴がアメリカに変わるが発音が同じなのでアメ横はそのまま残る。アメ横商法の特色は売り手と客のコミュニケーション、値段はあってもこの掛け合いが他との差別化の一つだ。商う人はよそ者・外国人、扱う商品は儲けになる物にどんどん変わる。年末の鮮魚など有名だが短い期間だけ靴屋が魚屋に変わったりする。外国人の国籍も旧植民地から東南アジア、中東(一時期イラン人が多かった)、そして今はアフリカ出身者も進出。ガードの東側昭和通りとの間ではケバブの露店なども出現。御徒町駅周辺の宝石店はインド人が経営しているところもある。つまりアメ横近辺はエスニックタウンに変じ、来日観光客に独特の雰囲気を持つ商業地区として人気が高まっている。
加えて、国立博物館がミシュラン三ツ星(必見の場所)と格付けされ、その周辺に多々見所があることがガイドブックに紹介され、そこを目指すインバウンド客も増加の傾向にある。さらに、京成上野駅は公園と商業地区の接点、中央通りの中心部に在る。成田空港と結ぶのに便利なこともあって、海外との玄関口の役割を果たす。日本人訪問者は文化地区と商業地区二種に分かれていても、外国人は双方に関心があり回遊性が高い。
作られた下町像(池波正太郎のエッセイ、沢村貞子の「お貞ちゃん」)よりも、変化に逞しく対応し今やエスニックタウンと化したアメ横とその周辺が、老舗が残る中央通り、お上りさん相手の飲食店や洋品店が多かった中通り(アメ横と中央通りの中間)、仲町通り(公園下から湯島方面に向かう道、かつての花街)を巻き込み公園の文化・文教地区と一体となり新しい上野が生まれつつあるのではないか、これが著者の“新論”である。ここを“心のふるさと”としてきた者として、是非そうなってほしいものである。

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